シリーズ第4弾です。
今回は、『17歳のカルテ』を取り上げたいと思います。
映画のあらすじは、wikipediaから引用させていただきます。
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『17歳のカルテ』(じゅうななさいのカルテ、原題:Girl, Interrupted)は、1999年のアメリカ合衆国の伝記青春映画。2000年に日本公開された。原作は1994年に出版されたスザンナ・ケイセン(英語版)による自伝。日本語訳は『思春期病棟の少女たち』(吉田利子訳/草思社/1994)。
自らも境界性パーソナリティ障害で精神科入院歴のあるウィノナ・ライダーは、精神病棟を患者の視点で赤裸々に描いた原作に惚れ込んで映画化権を買い取り、制作総指揮を買って出た。作品のテーマに於いて「カッコーの巣の上で」と比較される事が多いが、本作は原作がノンフィクションである点が異なっている
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この映画は1回しか視聴していません。
精神看護学の講義で上映しました。
境界性パーソナリティ障害が題材だとは知らず放映してしまいましたが、この映画を観た学生たちは感じるものがあったと思います。
さて、この映画で私が重要だと思うのは、ノンフィクション作品であることと、「犯罪者と精神病の違いは無いこと」を描いている事です。
実際、私は犯罪者と精神病の境界はないと考えています。
何らかの犯罪を行った時、精神病院に駆け込めば「精神病による影響で行ったこと」となり治療が始まります。
しかし、そのまま警察に逮捕されれば、被告人として裁判にかかり前科がついてしまいます。
刑法や特別法、条例などで線引きできないですが、私は、「小さなルールに従えず社会で共生することが難しい人」を「精神病と呼んでいる」だけだ思うのです。
病気ではなく、社会や文化が持つ、ルールや慣習から外れた人に「病名を付けているだけ」の事だと感じるからです。
さて、ここからはネタバレになりますが、アンジーが映画の最後に、精神病院を脱走し、好き勝手に遊んで来た挙句、警察に保護されて、元の精神病院に移送されてくるシーンがあります。
アンジーが窃盗や飲酒により警察の留置場で保護されたか、逮捕されて勾留されていたかは分かりません。
しかし、留置期間を終えて、身柄引き受け先となったのが精神病院だったのです!
病院とは治療をする場であり、生活の場ではありません。
ところが生活の場になっています。
社会のグレーな部分を医学が病名を付けて入院させることで煙に巻き、問題にならないように隠蔽しているのです。
さらに、精神科病院が、治療の場ではなく生活の場になってしまっているのですから、本来は病院とは呼ばず、更生施設や福祉施設と呼ぶべきなのです。
ハンセン病患者が「原因不明で蔓延したら危険な病気だ」と噂を流され、社会から隔離収容されていた歴史と全く同じです。(実際はライ菌ではなく公害が原因だったと判明しています)
(ハンセン病の社会的差別について、詳しくは以下の動画をご覧ください。)
宮崎駿さん語るもののけ姫とハンセン病
警察も、釈放する際、身柄引き受けする人がいないため、病院に連れて来るのです。
どうしたら入院している人達は退院後再入院することなく生活できるのでしょうか?
刑務所と違って、刑期が決まっていないのが、精神病院の怖いところです。
病気が問題なのではなく、社会にとって不都合な存在、厄介な存在を集めて収容しておく場所が精神病院なのではないか?ということをこの作品から感じ取って欲しいと思います。
この世は不公平でアンバランスであるため、本当の意味で、性格を真っすぐにさせることや更生させる場所が存在していないことが問題です。
ですからある意味、精神科病院が警察署の長期間保護する留置場の代わりになってしまっているのです。
現代の精神医学あ定義する精神病は、病気ではなく、社会構造が産み出すものであると再認識させる作品だと思います。
善悪がごちゃ混ぜの現代社会において、想像もつかないかもしれませんが、社会全体が人間として生きる基準、善悪の基準が明確になれば、精神科病院は不要となるでしょう。
どうしたら善悪がはっきりとした裏表のない世界になるか?について、突っ込んで知りたい方は、こちらの記事を読んでいただきたいと思います。
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