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上野殿尼御前御返事

2023年01月28日 | 平成新編日蓮大聖人御書(一)

上野殿尼御前御返事            文永11年  五三歳

 鵞(が)目(もく)一貫給び候ひ了んぬ。

 それ、じ(食)きはい(色)ろをまし、ち(力)からをつけ、い(命)のちをの(延)ぶ。

こ(衣)ろもはさ(寒)むさをふせぎ、あ(暑)つさ を(障)さえは(恥)ぢをかくす。

人にも(物)のをせ(施)する人は、人のい(色)ろをまし、ちからをそえ、いのちをつぐなり。

人のためによる火をともせば人のあかるきのみならず、我が身もあ(明)かし。

されば人のいろをませば我がいろまし、人の力をませば我がちからまさり、人のいのちをのぶれば、

我がいのちのの(延)ぶなり。

法華経は釈迦仏の御いろ、世尊のちから、如来の御いのちなり。

やまいある人は、法華経をく(供)や(養)うすれば身のやまいうすれ、いろまさり、

ちからつきーーーーーーてみればも(物)のもさわらず、ゆめうつゝわかずしてこそをはすらめ。

と(訪)ひぬべき人のとぶらはざるも、うらめしくこそをはすらめ。

女人の御身として、を(親)や(子)このわかれにみをすて、かたちをかうる人すくなし。


大御本尊建立

2023年01月26日 | 日蓮大聖人の御生涯(四)

大白法 令和3年9月1日(第1060号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 147

  日蓮大聖人の御生涯 ㉝  

     大御本尊建立

 前回まで四回にわたって学んだ熱原法難は、熱原法華講衆が法に殉ずるという痛ましい出来事でしたが、本門戒壇の大御本尊が建立される契機となりました。 

 

 出世の本懐

 出世の本懐とは、仏・ 菩薩が世に出現した真の目的のことをいいます。

 これまで学んできたように、大聖人一期の御化導には大小様々な難が競い起こりましたが、これらは大聖人御自身を第一とし、時に弟子・檀那へと波及するものでした。

 しかし熱原法難は、大聖人の教導があったとはいえ、日興上人の弘教に端を発する、弟子・信徒に対する弾圧でした。しかも信徒の多くは、入信から日が浅く、文字の読み書きも満足にできない農民たちです。そのうち二十人は刈田狼藉の罪を着せられて捕縛、鎌倉へ送られました。

 大聖人は、こうした日興上人と熱原法華講衆による師弟相対、不自惜身命の実相を目の当たりにして深く思惟され、いよいよ出世の本懐を遂げる時の到来を感じられました。

 その御心境を、弘安二(一二七九)年十月一日の『聖人御難事』に、

 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書 一三九六㌻)

と記されています。

 既に大聖人は『観心本尊抄』や『法華取要抄』等において、本尊と三大秘法の本門建立を予証されていましたが、漫荼羅の体相という内因の面でも究竟の時を迎えられていました。ここに熱原法難は、下種仏法の究竟の法体を建立する、大きな外縁となったのです。 

 そして熱原の農民に対する弾圧が吹き荒れる最中の同二年十月十二日、大聖人は末法万年・令法久住を慮(おもんばか)られて、楠の堅牢な板に妙法漫荼羅を認(したた)めると、弟子の和泉公日法に彫刻を命ぜられました。

 こうして本門戒壇の大御本尊が図顕建立されたのです。

 『経王殿御返事』に、

 「日蓮がたま(魂)しひをす(墨)みにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(同 六八五㌻)

と、また『草木成仏口決』に、

 「一念三千の法門をふ(振)りす(濯)ゝぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」 (同 五二三㌻)

と仰せのように、大御本尊は大聖人の御魂(こん)魄(ぱく)そのものであり、末法万年の一切衆生が即身成仏する未曾有の大法に他なりません。

 また、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇に安置するという御相伝の上から、本門戒壇の大御本尊と称されるのです。

 さて、先に挙げた『聖人御難事』において大聖人は、釈尊・天台大師・伝教大師が出世の本懐を遂げるまでの年数を挙げられています。

 まず「仏は四十余年」とは、成道から四十二年を過ぎて説かれた法華経が、釈尊出世の本懐であることを指します。

 また、「天台大師は三十余年」とは、一念三千の法門を説き明かした『摩訶止観』の講説、「伝教大師は二十余年」 とは、日本で初めての大乗戒壇建立が、それぞれ出世の本懐に当たるのです。

 最後の「余は二十七年なり」とは、建長五(一二五三)年の宗旨建立以来の年数であり、大聖人御自身が出世の本懐を遂げる意志を明かされた御文なのです。 

 総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』 に、

 「問う、弘安の御本尊、御本懐を究尽するや。答う、実に所問の如し、乃ち是れ終窮究竟の極説なり。(中略)吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄(観心本尊抄)を終わり、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり。(中略)天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮究竟の極説を顕わす、寧ろ不思議に非ずや」 (御書文段 一九六㌻)

と教示されており、弘安二年十月十二日、大聖人御年五十八歳で御図顕の大御本尊が、出世の本懐であることは明らかです。

 また、

 「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(同 一九七㌻)

と、本門戒壇の大御本尊が、大聖人御一期における究竟の中の究竟、本懐中の本懐であると示されています。

 伝教大師の出世の本懐について、総本山第六十七世日顕上人は、

 「延暦二十四年の帰朝より戒壇院建立まで二十二年であり、大師の没後ではありますが、大難という意味からは『二十余年の本懐』とは、これを仰せられたものかと思われます」(大白法 五九六号)

と、天長四(八二七)年、延暦寺戒壇院を建立を示すことを御指南です。なお、その他にも、

①延暦二十一(八〇二)年、高雄における天台三大部講義と南都六宗の破折。

②延暦二十四年、入唐先で天台の法門を受け帰朝。

③延暦二十五年、比叡山に天台法華宗を開宗。

④弘仁十三(八二二)年、入寂七日後、大乗戒檀建立の允許。

との四説があります。

  また他門日蓮宗では、大御本尊を認めないため、先に挙げた『聖人御難事』の御文について、詳述しない傾向があります。

 鶴岡八幡宮の大火

 弘安三(一二八〇)年十一月十四日、鎌倉の鶴岡八幡宮で火災が発生し、上下両宮や楼門等を焼失する大きな被害が出ました。前月の二十八日にも、境内の構成施設である神宮寺や千体堂を焼く火災が起こったばかりでした。

 文永の役以降、幕府は蒙古からの二度の使者を斬首し、再び襲来が予想される大軍を迎え撃つ準備を進めていました。大きな戦を前に緊迫した社会情勢があって、源氏の氏神として崇敬する八幡宮の神威失墜を案じた幕府は、火災の翌日の十五日には再建を沙汰しています。 

 鶴岡八幡宮といえば、文永八(一二七一)年九月十二日の夜半、竜口の刑場へ連行される大聖人が、大音声をもって八幡大菩薩を諌暁したその場所です。

 一方、同年十二月十六日の『四条金吾許御文』には、この火災について、

 「十一月十四日の子(ね)の時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給ひぬる故をかんがへ候に、此の神は正直の人の頂にやどらんと誓ヘるに、正直の人の頂の候はねば居処なき故に、栖なくして天にのぼり給ひけるなり」(御書 一五二四㌻)

 と、不正直の謗法者が充満するため、八幡大菩薩は天に去ったことを示されています。

 大聖人は同じ十二月に『諌暁八幡抄』を認められています。

 同抄で大聖人は今回の火災について、法華経の会座において正法の行者が守護すると誓った八幡大菩薩が、日蓮一門を守護しないために蒙った責めであると指摘されます。さらに国のため、仏法興隆のためにも、速やかに為政者の謗法を治罰し、末法の法華経の行者を守護せよと、厳しく諌暁されています。

 また、一部の弟子が大聖人の強折を理解できないことに対して、折伏が慈悲行である理由を示されます。同抄の、 

 「二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(同 一五三九㌻)

 「一切衆生の同一の苦は悉く是 日蓮一人の苦なり」(同 一五四一㌻)

等の御文は、大難を恐れることなく一切衆生を救おうとされる、御本仏の境界から披瀝された大慈悲以外の何物でもないのです。

 大聖人は本抄の結びとして、 

 「月は西より東へ向かへり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり、日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり」 (同  一五四三㌻)

と、 インドから伝わった仏法が、インドへ、さらに世界へと流布していくことが明かされました。

しかも流布する「日本の仏法」は、

 「月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり」(同)

と、釈尊の仏法を遥かに越えた末法万年の衆生を救う大法であると仰せになっています。 

 これは正しく末法の御本仏日蓮大聖人の仏法であり、中でも、弘安二年十月十二日に図顕された、本門戒壇の大御本尊のことです。

 同抄には、 特定の対告衆は示されていません。大聖人が、三大秘法の妙法が一切衆生成仏のための唯一の大白法であり、未来に広宣流布していく相を示されたことは、私たち門下一同への精進を促されたものと拝すべきでしょう。

 

 

 

 

 


⑪ 法華講について ①

2023年01月25日 | 法華講員の心得(一)

大白法 令和3年6月1日(第1054号)から転載

 妙法の振舞い

 『法華講員の心得』より

  ⑪ 法華講について ①

⚫名称に由来

 「講」とは、本来は経典を講義したり、仏の徳を讃える法要のことでしたが、のちには、信仰する人々の集まりを指すようになりました。

 「法華講」とは、末法の法華経、すなわち、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の教えを信じて実践する人々の集まりをいい、大聖人自らつけられた名称です。それは、本門戒壇の大御本尊に、

 「願主 弥四郎国重 法華講衆等敬白」と認められていることからも知ることができます。

 第二祖日興上人のお手紙の中にも

 「さどの国の法華講衆」

と記されているように、宗門草創の時代から、本宗信徒は「法華講衆」と呼ばれていたのです。

⚫法華講の歴史

 法華講の起こりは、不惜身命の折伏と護法を貫きとおした富士熱原地方の信徒にあります。

 熱原の法華講衆は、入信してまもない人々でしたが、めざましい折伏弘教を展開しました。このため、法華講衆は、正法の興隆を妬(ねた)む者たちの策謀によって幕府の弾圧を受け、二十名が捕らえられて鎌倉に連行され、信徒の中心者であった神四郎等三人が斬首されるという事件が起こりました。これを「熱原の法難」といいます。

 熱原の法華講衆は、日興上人のご指導のもと、身命におよぶ迫害を受けながら異体同心して、日蓮大聖人の教えを護りとおしました。

 日蓮大聖人は、このような弟子・信徒の護法の姿をご覧になり、仏として世に出現した目的を果たすべき時を感じられ、弘安二年(一二七九)十月十二日に本門戒壇の大御本尊を建立されたのです。

 布教の自由が認められない封建時代でも、法華講衆は折伏弘教の信心に励んできました。その一端として、江戸時代中期から幕末にかけて、江戸・加賀(石川県)・尾張(愛知県)・八戸(青森県)・仙台・讃岐(香川県)などで、正法流布を阻止しようとする様々な弾圧と闘ってきた歴史があります。

 布教の自由が認められた現代にいたり、法華講は国内のみならず世界各国に日蓮大聖人の教えを弘め、民衆救済の波動を起こしています。

                              (法華講員の心得 三四㌻)

 

 [信行のポイント]

◯困難の中にも御命題成就

 宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の本年、私たち法華講は御法主日如上人猊下の驥尾に附して、コロナ禍などの難局を乗り越えて法華講員八十万人体勢を構築することが叶い、未来広宣流布への大いなる礎を築くことができました。

 この八十万人の法華講員が、熱原法華講衆をはじめとする方々が示された不自惜身命の弘教精神を継承すれば、大聖人様の御遺命である広宣流布は必ず叶うのです。 

 いかなる時代にあろうとも法華本門下種三宝尊を信じ、時の御法主上人に随順してこの仏法を弘めていくことこそ、法華講の使命であり誇りです。私たち令和の法華講衆は、御法主上人の御指南のままに、指導教師の御道念に志を同じくして、折伏に励んでまいりましょう。

 

◯法統相続の大事

 広宣流布のためには、妙法の功徳によって活力あふれる法華講組織を充足することが必要不可欠となります。

 各講中において、信心の喜びが個々人から各家庭へ、各家庭から地域へと波及するよう、講頭を中心に支部活動を向上・充実させていくことが大切です。 

 特にコロナ禍の現在は行動が制約される状況が多々ありますが、その中で試行錯誤を重ね、今までにない創意工夫を凝らして最大限の活動を展開しましょう。

 さらには家庭内の信心を見直す機会ととらえ 各家庭の生活が信心を中心に充実していけば、それはそのまま講中に波及します。各家庭の法統相続が、そのまま講中の法統相続となることを思い、より堅固な一家和楽の信心を築いてまいりましょう。 

 

◯異体同心

 また、法華講の同志は、異体同心することが大切です。総本山第三十一世日因上人は、金沢法難の最中、金沢法華講衆に対し、

 「一結講中異体同心未来迄も相離れ申す間敷候。中に於て一人地獄に落ち入り候はば講中寄り合いて救い取るべし。一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし」 

と、固い団結を御指南あそばされています。

 御法主日如上人猊下は、

 「この異体同心とは、ただ単にみんなが仲良くすることではなくして、大聖人様の御聖意を拝し、自分の心を御本尊様に任せ、広宣流布の一点に焦点を合わせて実践行動を同じくしていくことであることを、しっかり肝に銘じていかなければなりません」(大白法 九二五号)

と、異体同心の要諦は、広宣流布に焦点を合わせての信行の実践であることを御指南です。 

 私たち法華講員は、広宣流布への固い決意のもとに異体同心し、一人ひとりが広布の前進に取り組み、誇りと確信をもつ活気あふれる講中を築き、折伏を進める中にも未来広布の人材を育成していこうではありませんか。

 

 

 

 

 


⑩日蓮正宗への入信 ②

2023年01月23日 | 法華講員の心得(一)

大白法 令和3年5月1日(第1052号)から転載

 妙法の振舞い

 『法華講員の心得』より

  ⑩日蓮正宗への入信    ②

 

⚫御授戒

 御授戒とは、一切の謗法を捨てて日蓮大聖人の正法を信仰することを御本尊に誓う儀式です。その際は、日蓮正宗の数珠と経本を用い、人生の新たな出発にふさわしい心がまえで臨みましょう。

⚫御本尊下付

 御本尊下付とは、寺院より御本尊をお貸し下げいただくことをいいます。

 私たちは、総本山の本門戒壇の大御本尊を信仰の根源とし、所属寺院を信心の拠り所としていきます。さらに、勤行・唱題をはじめ日々の信心修行のため、私たちの家庭に、大御本尊のお写しである御本尊を下付していただくのです。

 御本尊のお取り扱いは丁重にし、自宅にご安置する際には、僧侶の導師により、厳粛に入仏式を行います。僧侶が出仕できないときは、その指示により、法華講役員などが導師をつとめます。

⚫勧誡式

 勧誡式とは、日蓮正宗に入信しながら、創価学会などの邪義に惑わされて正しい信心を見失った人が、日蓮正宗の信徒として再出発するために行われる儀式です。

 ここでは、再入信にあたって、二度と謗法をおかすことなく、信行に精進することを御本尊にお誓いします。

                             (法華講員の心得 三〇㌻)

 

 [信行のポイント]

 御授戒

 入信者は、謗法払いをした後、本宗寺院で御授戒は、一切の謗法を捨てて、日蓮大聖人様の御教えを信じ、三大秘法の仏法を受持信行していくことを誓う崇高な儀式です。

 大聖人様は、『教行証御書』に、

 「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為(せ)り。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持(たも)って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝器戒とや申しけん」(御書 一一〇九㌻)

と、妙法受持による大功徳を御教示です。 金剛宝器戒とは、文底下種の妙戒のことで、どのようなことがあってもこの妙戒は破られることなく、その人の生命に存続します。

 入信者は御宝前において読経・唱題の後、御僧侶から御本尊を頭の近くに頂戴して御授戒文を受けます。このとき、生涯にわたる精進をお誓いいたします。

 新入信者が厳粛な気持ちで御授戒に臨めるよう、寺院参詣の際に身なりを整えることを教え、当日は本人・ 紹介者共に、厳粛な儀式にふさわしい服装で参加するよう努めましょう。

 

 御本尊下付

 御本尊は、日蓮正宗の信仰をし、幸せになる上で最も大切な功徳の根源です。

 総本山第二十六世日寛上人は、加賀金沢の信徒・福原式治氏に与えた書状の中で、

 「本尊等願いの事之れ有るにおいては遠慮なく申し遣へし(中略)たとへ授戒候とも本尊なくは別て力も有(あら)ましく候」

  (福原式治への御狀)

と仰せで、御本尊をお受けすることの大事を御教示です。

 大聖人様は、四条金吾殿夫妻に御本尊を授与されるに際し、

 「其の御本尊は(中略)日蓮がたましひをす(墨)みにそめながしてかきて候」 

  (御書 六八五㌻)

と仰せです。御本尊を自宅に御安置申し上げることは、大聖人様が自宅に御出ましになることですから、家の中で最もよい場所に御安置し、常随給仕に努めましょう。

 紹介者は、信心の基本である勤行・唱題は申すまでもなく、お給仕の作法なども自ら手本を示して御本尊に自他の幸せを祈っていくことを教えて育成していくよう努めましょう。

 

 勧誡式

 仏が衆生を化導される在り方として、成仏・得道の教えを勧める勘門と、悪を誡め成仏・得道を促す誡門があり、勧誡とは、善を勧め、悪を誡めることです。

 勧誡式は、ひとたび当宗に入信しながら、正しい信仰を見失って退転した人が、再び謗法を犯すことなく日蓮正宗の信仰を貫くことを誓う儀式です。

 御授戒の際に立てた誓いを反(ほ)故(ご)にして、生涯懺悔なき者は、

 「少しも謗法不信のとが候はゞ、無間大城疑ひなかるべし」

  (同 九〇六㌻)

と諌められる通り、堕地獄の苦しみを必ず被るため、誡門を面(おもて)として折伏すべきです。

 しかし、謗法を悔い改める者に対しては、「謗法不信のあかをとり、信心のなはてをか(固)たむべきなり。浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし」(同)

との御慈悲あふれる御教導に従って、勘門を面として、自行化他の信行に共に邁進し、大いに信心を励まして、互いに異体同心を心がけ成仏を期すべきです。

 信心の出発・再出発に臨む新たな地涌の眷属が陸続と輩出することを願い、このたびの大佳節に際し、折伏・育成に一層精進してまいりましょう。

 

 

 

 

 


⑨日蓮正宗への入信 ①

2023年01月22日 | 法華講員の心得(一)

大白法 令和3年4月1日(第1050号)から転載

 妙法の振舞い

 『法華講員の心得』より

  ⑨日蓮正宗への入信 ①

 入信とは、誤った宗教を捨てて、日蓮正宗の信徒になることをいいます。

 入信にあたっては、謗法払いをしたのち、御授戒を受け、御本尊を下付していただきます。

再入信の場合は勧誡を受けます。

謗法払い

 入信に際しては、 他宗の信仰の対象物である本尊や神札、神棚や祠(ほこら)、念珠、経典、お守り、縁起物(だるま、熊手、破魔矢)などを取り払います。これを「謗法払い」といいます。この謗法払いは日蓮正宗の信仰を清浄に実践していくために絶対に欠かせないものです。(法華講員の心得 三〇㌻)

 

[信行のポイント]

 今回は日蓮正宗への入信にあたり、謗法の念慮を断ち、正直に信心を持つことの大切さについて学びます。

 

 正直に信仰に励むことが大切

 日蓮大聖人様は、

 「仏と申すは正直を本とす」(御書 三五九㌻)

と、仏法は常に「正直」を根本とすることを御教示されています。 

 法華経『方便品』には、

 「正直に方便を捨てて、但無上道を説く(法華経以前に説いてきた方便権教を正直に捨て、ただ真実無上の仏道である法華経を説く)」 (法華経 一二四㌻)

と説かれ、大聖人様はこの経文を引かれて、

 「法華已前の経は不正直の経、方便の経。法華経は正直の経、真実の経なり」(御書 九㌻)

と仰せられています。

 正直とは、嘘や偽り、ごまかしがなく、そのままにということです。仏法においては、仏の語そのままに方便権教を捨てて、最高真実の法華経の教えを素直に信じることをいうのです。

 では、具体的に私たちが信仰すべき正直な教えとは、一体何なのでしょうか。

 大聖人様は『当体義抄』に、

 「日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てゝ、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり」(同 七〇一㌻)

と、御教示です。 また総本山第六十七世日顕上人は、

 「南無妙法蓮華経を唱えることは、唯一の成仏の道である。故に、これに他の方便の教えによる様々なものを交えては、良薬に毒薬を混じえることになり、大きな誤りとなる。南無阿弥陀仏とか、南無遍照金剛その他、一切、邪義邪宗の偽仏の称号等を絶対に、心にも、口にも、身にも混じえないことが肝要である」(すべては唱題から 七八㌻)

と、誤った思想や信仰への執着を捨て、末法の御本仏・日蓮大聖人様の御(み)教えのままに、正直に純粋な信心で御本尊様に向かい、法華経の肝心である本因下種の南無妙法蓮華経を唱えることが成仏への方途であると仰せられています。

 

 謗法払い

 謗法とは、誹謗正法の略です。大聖人様は『真言見聞』 に、

 「謗法とは謗仏謗僧なり」(御書 六〇八㌻)

と、御教示です。これは正法を信じないこと、 正法を説く人を謗ることなど、日蓮大聖人の正しい教えに背く一切の教えや思想、行いのことをいいます。

 入信に当たっては、一切の謗法を捨てて、日蓮大聖人の教えを信じ、三大秘法の仏法を受持することを誓う授戒式を執り行います。これを「御授戒」といいます。また、過去に御授戒を受けたことがある再入信の場合は「勧誡式」を執り行います。

 入信の際には、それまで所持してきた他宗の本尊や仏像・神札・お守りなどの謗法物を取り払います。これを「謗法払い」といいます。

 謗法払いを行う理由は、正法の信仰を始めるに当たり、それまでの謗法への執着を決然と断ち切るためです。それら他宗の謗法物には、人を救うどころか正宗の信仰を惑わし、人を不幸にする魔の働きがあるからです。

 もし正法の信仰に謗法を雑えて修行するならば、正しい信仰の功徳は消滅して、かえって大きな罪業を積むことになります。

 大聖人様は、『曽谷殿御返事』に、

 「何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばい(杯)に蟹の足一つ入れたらんが如し。『毒気深入、失本心故』とは是なり」(同 一〇四〇㌻)

と仰せられ、『新池御書』に、

 「いかなる智者聖人も無間地獄を遁(のが)るべからず。又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし」(同 一四五八㌻)

と仰せられています。

 紹介者はこれらの御教示を、これから入信する方の生涯を左右するのだと自覚し、懇切丁寧に説明、よく理解せしめることが大切です。

 入信前に、入信者が自ら謗法払いができるよう促しましょう。

 

 次回は、御授戒・御本尊下付・勧誡について学んでまいります。

 

 

 

 

 

 


仏教の起源 その②

2023年01月21日 | 教学基礎講座(一)

大白法(平成26年12月16日)第899号

 【教学基礎講座】3

  仏教の起源 その②

  ー釈尊の生涯ー

 現在、釈迦の生涯に関する年代や年齢などにいろいろな説がありますが、ここでは日蓮大聖人様が用いられたと言われる『周書異記』の説に従って、釈尊の生涯を紹介したいと思います。

  〈釈迦族〉

 釈迦とは、現在のネパール地方の南部に住んでいた種族の名前であり、この釈迦族は当時、 一種の共和国を形成していたと言われています。まず十人の長を選び、その中から一人の長を選出して、これを王と称していました。この釈迦族の首府を迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)と言いました。

  〈釈尊の誕生〉

 この釈迦族から出た聖者(ムニ)を尊称して釈迦牟尼世尊と言い、これを訳して釈尊と言います。釈尊は迦毘羅衛城の浄飯王(シュッドーダナ)を父とし、摩耶(マーヤー)夫人を母として誕生しました。誕生した悉達多太子が、七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言った話は広く知られています。

  〈阿私陀仙人の涙〉

 浄飯王は太子の誕生を喜び、将来を阿私陀仙人に占ってもらうことにしました。すると仙人は「この王子は将来、大王になってインドを統率するか、出家したなら偉大な仏になるであろう。しかし、年老いた私はその王子の成人した姿を見ることができない」と言って涙を流したと言われています。

  〈出家〉

 悉達多太子は幼い頃から聡明であり、青年時代には文武両道においても非常に優れていたので、浄飯王は太子に王位を継がせようとしました。しかし太子にはその気持ちはなく、妃(きさき)の耶諭陀羅(ヤショーダラー)との間に男子羅睺羅(ラーフラ)が生まれたのを機に、出家の道を志す気持ちが次第に強まっていきました。

 ある時、太子は四方の城門から遊楽に出ることになりました。ところが最初に、東の門から出ると老人に会い、次に南の門より出ると病人に会い、西の門から出ると死者に会いました。そのたびに快楽の欲望を失い、ますます俗世に嫌気が差した太子が最後に北の門から出ると、身も心も清浄な一人の出家者に出会いました。そこに正しく自分の理想の姿を見出した太子は、この時出家の意志を固めたのです。これを「四門出遊(遊観)」と言います。

  〈成道〉

 王宮を出た太子は、王から遣わされた阿若憍陳如(アジュニャ・カウンディンヤ)等五人の比丘と共に、初めは阿羅邏迦蘭(アーラーダ・カーラーマ)優陀羅羅摩子(ウドラカ・ラーマプトラ)という二人の仙人について修行したと言われていますが、それによって悟りを得ることはできませんでした。その後、十二年間にわたってあらゆる苦行を修めましたが、快楽に溺れるのと同様に、極端な苦行もまた無意味なことを悟り、仏陀伽耶(ブッタガヤ)の近くにある尼連禅河(ナイランジャナ−)で沐浴し、牧女の捧じた乳粥を食べて元気を恢復しました。

 これを見た五人の比丘たちは、釈尊が退転したと思い、皆その場を去っていきました。その後、釈尊は菩提樹の下の金剛宝座に座して沈思黙想の末、ついに悟りを開き、ここに仏陀(覚者)となったのです。時に三十歳でした。この時、伽耶という町で仏陀が悟りを開いたということか ら、以後この地を仏陀伽耶と呼ぶようになったのです。

  〈転法輪〉

 釈尊は成道したその座で二十一日間華厳経を解き、その後、波羅奈国(バーラナシー)の鹿野苑(サルナ−ト)に行き、釈尊が苦行を捨てたとき、その元を去った五人をまず最初に教化し弟子としました。次いで、仏陀伽耶方面に行き、迦葉(カッサパ)三兄弟を弟子とし、進んでマカダ国の王舎城(ラージャグリハ)へ入り、そこで舎利弗(シャ−リプトラ)、目犍連(マウドガリヤ−ヤナ)の二大弟子を始め、多くの人々を教化する一方、頻婆娑羅王(ビンビサーラ)によって竹林精舎、また舎衛国の須達(シュダッタ)長者によって祇園精舎が供養され教団は大いに興隆しました。

 故郷の迦毘羅衛城に帰ったときは、従弟の阿難、釈尊の子羅睺羅、義母の摩訶波闍波提、妃の耶諭陀羅等、多くの同族が弟子となりましたが、阿難の兄、提婆達多(デーヴァダッタ)は、マカダ国の太子阿闍世と結託して釈尊の化導を妨害しました。

 このような九横の大難と言われる法難に遭いながら法を説き、最後にマカダ国の霊鷲山(グリドラクータ)で、出世の本懐である法華経を説き明かしたのです。

 これら一大説教の内容は、後に中国の天台大師によって五時八教として判釈されました。

  〈涅槃〉

 五十年間の説法教化の後、拘尸那掲羅(クシナガラ)の沙羅双樹の下で、二月十五日、八十歳で入滅されました。これを涅槃と言います。

  〈八相成道〉

 仏が衆生を救うために、御一生のうちに現わされた八つの姿を八相成道と言います。

 八相成道とは、

①下天(都率天より降下すること)、

②託胎(母の胎内に宿ること)、

③出胎(出生すること)、

④出家(家を出て修行の道に入ること)、

⑤降摩(悟りを妨げる魔を断破すること)、

⑥成道(悟りを開くこと)、

⑦転法輪(説法をして衆生を教化すること)、

⑧入涅槃(説法を終えて入滅すること)です。

私たちは、この八相成道を示された釈尊の真実の目的が、法華経を説くためであったことを忘れてはなりません。


仏教の起源 その①

2023年01月21日 | 教学基礎講座(一)

大白法(平成26年10月16日)第895号

 【教学基礎講座】2

 仏教の起源  その① 

 ー文明・社会的背景ー

 

 「仏教」という言葉には、「仏の説いた教え」と「仏になる教え」との二つの意味があります。

 この仏についても、仏教ではその経典によって、様々に解き明かされており、必ずしもインド出現の釈迦に限られたものではありません。しかし歴史的に見れば、仏教はインドの釈迦によって初めて説き出されました。今、私たちが、インド仏教の起源を学ぶことは、仏法者の常識として、さらには大聖人の仏法を、より深く知るためにも、意義のあることと言えましょう。

 今回は、仏教が成立する以前のインドの様子について、簡単に説明しておきたいと思います。

   【仏教成立以前の状況】

   〈文明〉

 紀元前3000年から2500年頃にかけて、当時インド領に属していたインダス川流域にはインダス文明が栄えていました。インダス文明は、メソポタミア文明・エジプト文明・中国文明等と共に、人類最初の古代文明の一つであり、当時すでに下水道まで完備していたモヘンジョ=ダロとハラッパの両都市の遺跡は世界に広く知られています。また、当時既に文字を使用していたことも、古代文明の特色として挙げることができます。
このインダス文明の中心となった地域は、現在はパキスタン領になっています。

   〈民族・人種〉

 紀元前2500年頃のインドには、ドラヴィダ族と言われる人種が広く定着し、そのほかにも多くの人種がそれぞれの地域に住んでいました。紀元前1500年頃になって、インダス川上流のパンジャーブ地方にアーリア人が侵入し、先住民を征服したことから、次第に自由民(アーリア人)隷属民(ドラヴィダ人など)との区別がつけられるようになりました。

   〈階級制度〉 

 その後、アーリア人がガンジス川上流地方に移住した頃には、人種間の区別から、職業や地位による厳格な身分の差別が定着し、カースト制度と呼ばれる四姓制度が確立されました。

 この四姓とは、

  ①バラモン(婆羅門、司祭)・
  ②クシャトリヤ(王候、士族)・
  ③ヴァイシャ(庶民・商工層)・
  ④シュードラ(隷民=アーリア人以外の人種) を言い、

 「カースト(caste)とは、ポルトガル語の casta(血統)に由来するインド社会で歴史的に形成された身分制度です。このカースト制度は、その後さらに細かく分かれて、その数は4000種にもなり、異なった階級の間での結婚はもちろんのこと、食事を共にすることさえも禁じられたのです。 

  〈バラモン教・ヴェーダ聖典〉

 このような社会体制の基盤となったのは、アーリア人による「リグ・ヴェーダ」を根本聖典とするバラモン教でした。アーリア人はもともと宗教的な民族で、大自然の現象を畏敬し、自然の力を神格化しました。
 その大自然の神々への讃歌・祈祷・呪法・音楽などをまとめた聖典を「リグ・ ベェーダRigVeda]と言います。 (「ヴェーダ」とは「神聖な知識」という意味です)この「リグ・ヴェ−ダ」が基本となって、さらに三つのウェーダ聖典が作られました。

 大聖人様は御書に、この四つのヴェーダを「四韋陀」と記されています。
 このように紀元前1500から500年ごろのインドは、「ヴェーダ時代」とも言われるように、バラモン教が広く行われ、それにつれて四姓制度も深く定着していきました。ガンジス川で沐浴し、牛を崇めることで知られるヒンドウー教は、バラモンの思想が基礎となって出来た宗教です。

  〈その他の思想・宗教〉

 長い年月にわたってヴェーダ聖典を尊重する中で、経典「ブラーフマナ」に 代表される祭式万能思想が生まれ、さらに知識を重視し、宇宙の根本真理を探究する思想が芽生えてきました。
 特に、「 リグ・ヴェーダ」に 端を発した真理探究の思想は、紀元前800から500年ごろに至って、ウパニシャッド( 奥義書)哲学として結実します。

 このウパニシャッドーの思想とは、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と 個人の存在の根本原理アートマン(我)とが同一であるという「梵我一如」の考え方が基本となっています。この他にも 『開目抄』等にみられる三人のバラモンの行者(三仙)、すなわち迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の教えがあり、また釈尊が出現された時代には、中インドで六師外道が勢力を誇っていました。

 『三三蔵祈雨事』には、「外道と申すは仏前八百年よりはじまりて、はじめは二天三仙にてありしが、やうやくわかれて九十五種なり」(御書八七六㌻)とあります。

ここでいう「二天」とは、古代インドで崇拝された摩醯首羅天(大自在天)と毘紐天(自在天)のことです。

        ◇   ◇

   バラモンをはじめとする仏教以外の思想について、

  大聖人様は

 『開目抄』に、「外道の所詮は内道に入る即ち最要なり」(同 五二五㌻)と、法華経の開会の立場から内道(仏教)に入るための序段と位置づけられています。なお、これらの思想・宗教は、いずれも因果の理法が明確でなく、現実から遊離した教えであったために、すべての人を根本的に救済する力はなく、カースト支配の社会体制を改革することもできなかったのです。

 

(つづく)

 

釈迦のめざしたもの

2023年01月21日 | 教学基礎講座(一)

大白法(平成26年9月16日)第893号

 【教学基礎講座】1

 「釈迦のめざしたもの」

 

 《はじめに》

 このたび平成四年二月号より毎月一回全三十二回にわたり連載した「教学基礎講座」を再掲載することになりました。
 この「教学基礎講座」では初めに釈尊について、その生涯と教義を概説します。さらに仏教の教理の中から主要な語句を解説しながら、基本的な教義を順次紹介し、その後、釈尊の法華経、天台・伝教の法華経、そして日蓮大聖人の文底下種の法華経について、それぞれの立場と関連性を述べ、最後に日蓮大聖人の仏法全般からその要点を解説します。

 なお、再掲に当たっては、今後の法華講員の教学研鑽に役立つよう、必要な部分については加筆・訂正します。

      ◇    ◇

 仏教は、すべての人の根本的な救済を目指しています。

 では釈尊はいかなる理念をもって民衆を救済しようとしたのか、

二つのエピソードから考えてみたいと思います。 

 〈四門出游(四門遊観)〉

 釈尊はカピラ城の太子だったとき、王城の四つの門から外出した際、東門で腰の曲がった老人に、南門で死にかかった病人に、西門で葬列の死者に出会い、これらの老・病・死という現実は誰人も逃れられない苦しみの相であることを知って、その解決方法を考えているとき、北門で一人の出家者が身も心も清浄でいる姿を見て、決然として出家の志を抱きました。

 〈修行と開悟〉

 出家した釈尊は、まず二人の仙人を順次に訪れ、教えの通り禅定を修行しましたが、満足のできるものではありませんでした。

 そこで釈尊は山林にこもって苦行を修しましたが、それでも悟りを得られなかったため、河で身を清め、村の少女が捧げる乳粥を食べて元気を取り戻しました。そして苦行は悟りにとって無意義なものであることを知り、近くにある菩提樹の下で沈思瞑想し、ついに大悟を得て覚者となりました。時に釈尊三十歳の時であったと言われています。

現実重視〉

 これらのエピソードから釈尊が現実を直視した上で、人生を苦と捉え、その解決の道を求めたことが判ります。すなわち仏教の基本理念は、現実の人生を重視するところに立脚しているのです。

 〈毒矢の譬え〉

 この苦を救済することについて、『箭喩経』という経典に「毒矢の譬え」があります。

それはおよそ次のような話です。ある人が毒矢に当たって苦しんでいた。彼の親戚や友人は、早く医者に診せることを勧めたが、肝心の本人は、「私に毒矢を射たのは、バラモンの人か、庶民か、それとも隷民か。またその人の姓名は何というのか。その人は長身か短身か、皮膚の色はどうか。どこに住んでいるか。それが判らないうちは毒矢を抜き取るわけにはいかない」と言い、さらに彼は、「この毒矢に使った弓は何か、どんな種類の弓か、その弓の弦は何で作られたものか、矢幹は何か、矢は何の羽を使用したのか、毒の種類は何か」などと質問し議論しているうちに、毒が全身に回って、ついに死んでしまったという。
 この喩えは、仏教の現実重視の立場を端的に表しています。すなわち人生の悩みや苦しみを解決するのに、直接役に立たない不毛の議論は避けるべきであると教えています。

 〈仏教では超越神の存在を否定〉

 釈尊の生きた時代は、「来世は現実に存在するか否か」「世界は有限か無限か」「身体と霊魂は同じか否か」などの観念論が盛んに論じられていました。しかし釈尊は、それらの観念論はいくら追求しても、直ちに結論を出せる問題ではなく、かえって偏った考えに執着して、正覚(正しい悟り)を得られないと戒められています。また仏教では、現実から遊離した創造神や超越神などの架空の存在を認めず、人間の迷悟(迷いや悟り)や禍福(災いと幸せ)は、すべて自らの原因と結果によってもたらされるのであって、それ以外の何ものでもないと説いています。
 最近、仏教に名を借りた新興宗教が「霊界からのお告げ」と称してこれを売り物にしていますが、これなどは仏教とは似ても似つかぬ外道(仏教以外の低級宗教)と言うべきでしょう。 

〈未来の果は現在の因による〉

 私たちはややもすれば、貪り・怒り・愚かという三毒の矢が我が身に刺さっているのに、目先のことに執われて、毒矢を抜き取ることを忘れがちではないでしょうか。
  釈尊はこの世界の現実を見つめ、人生を「四門出遊」に表わされる四苦・八苦そのものと見、その苦をさらに踏み込んでこの世のすべては苦であり、空であり、無常であり、無我であると達観しました。そして諸々の苦の根本的解決は三世(過去・現在・未来)に亘る因果の法に立脚しなければならないことを明かされました。つまり現在の果報は過去の業因によるものであり、未来の果報は現在の業因によると言うのです。しかも三世は別々のものではなく、過去と未来は現在の一念に包含されるが故に、過去の悪業を浄化し、未来に菩提の果報を得るためには、現世において無上の善業たる正法に信順しなければならないと説いて、釈尊は苦の現実相からの解脱をめざしたのです。


  🖊〈総本山の五重塔〉

 釈迦の仏教はインドから日本へと東に渡ってきた。末法において大聖人の仏法が日本からインドへと西に還り、さらに広宣流布するという意義から総本山の五重塔は西向きに建っていると言われる。  

 

 

 

 

 

                          

 

 

 

 


⑧社会から信頼される人になりましょう

2023年01月20日 | 法華講員の心得(一)

大白法 令和3年2月1日(第1046号)から転載

 妙法の振舞い

 『法華講員の心得』より

  ⑧社会から信頼される人になりましょう

 日蓮正宗の信仰は、けっして現実の生活からかけ離れたものではありません。

 日蓮大聖人は、

 「法華経を信仰する人は、世間の道理をも弁えることができる」

  (意訳・観心本尊抄)

と教えられています。

 私たちは、日蓮大聖人の仏法を信仰することによって、正しい人生観をもち、良識ある社会人として人格を磨いていくことができるのです。

 信仰によって培われる慈悲の心は、他人に対する思いやりとなり、仏を敬う真心は誠実な人格となってあらわれます。これらの思いやりと誠実な人柄は、おのずと周囲からの信頼を生むことになります。

 私たち法華講員は、信仰によって福徳を積むとともに人格を磨き、社会から信頼される人になるよう精進しましょう。

 (法華講員の心得 二六㌻)

 

[信行のポイント]

 生活の上に信仰を実践しよう

 一般に社会活動の目的は、人々がよりよい生活を享受し、精神的にも物質的にも安定した幸せを得ることにあります。そのために、それぞれの立場や能力に応じた役割を担い、様々な生活が営まれています。

 このことを一歩立ち入って考えてみると、本当に安心した生活、幸せで充実した人生を願うならば、個々人レベルでの心がけや姿勢だけでは足りないことが、現実の社会を見れば明らかでしょう。

 理想的な社会にしていくためには、 一人ひとりが日蓮大聖人の仏法を信仰していくことが大切です。

 本文には、『観心本尊抄』の、

 「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得(う)べきか」

  (御書 六六二㌻)

との御文が引用されています。

 この御金言には、 「空が晴れわたれば、大地全体が日に照らされて自ずと明らかになる。本因下種の法体たる妙法の大御本尊への確かな信仰に撤すれば、自ずと世法の全体を体得し、少しも迷うことがない」と御示しです。

 私たち凡夫は、正しい仏法に依って初めて、正しい心・正しい人格を築くことが叶い。世間の事象の本質を見極めることができます。法華講員は、 既に尊い仏法を教えていただき行ずることのできる立場にあります。 ですから、日々の信行によって培った生命力と人間性を発揮して、自他の幸福のために努力を惜しむべきではありません。

 大聖人は『檀越某御返事』に、

 「御み(仕)やづか(官)いを法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と相違(い)背(はい)せず』とは此なり」(同 一二二〇㌻)

と御教示あそばされています。

 「御みやづかい」とは、仕事や学業などの実生活のことです。私たちの生活は、そのまま妙法の信仰の現われであり、功徳を実証する貴重な場となるのです。

 

  世の模範となろう

 法華講員が日蓮正宗の信仰を行ずる規範として『日蓮正宗法華講連合会規約』があります。この規約の第十二条の中に、

 「(3) 篤(あつ)く三宝を敬(うやま)い、日蓮正宗信徒たることを深く自覚し、四恩報謝の念を体し、もって世人の模範となること」とあります。日蓮正宗の仏法僧の三宝への清淨な信心を根本に、善業をもって人々に報い、また社会にはよき国民の務めを果たし、「世人の模範となること」は法華講員にとって大切な心得なのです。

 大聖人は『崇峻天皇御書』 に、

 「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」

  (御書 一一七四㌻)

御教示あそばされています。

 閻浮提第一の正法を信受し日蓮大聖人の弟子檀那として広布の大道に生きる者には、それにふさわしい生き方があります。具体的には、正しい信仰に裏打ちされた、品位と礼節を保ち、常識と節度ある言動を心がけること。また、誰人に対しても誠実に慈悲をもって接し、世の模範となることです。このことについて、総本山第六十七世日顕上人は、

 「広布の確実な進展とともに法界を浄化し、清気・清風を世に送り、国家社会の自他倶安同帰寂光の礎を建設」(大白法 四一四号)

と御指南されました。

  また御法主日如上人猊下は、

 「日頃の振る舞いこそが布教であります。(中略)多くの人々を正しく導くために、身口意の三業にわたる強盛なる信心に励み、もって不軽菩薩がそうであったように、人に説得力を持つ力を身につけていくことが肝要であります。そして、そのためには、たゆまない普段の仏道修行、日常の振る舞いが大事であることを銘記すべきであります」(大日蓮 七三九号)

と御指南されています。

 私たちは、自らが勤行・唱題の実践を重ね折伏に励む中で、妙法の振る舞いを行ずることが叶い、人格が磨かれていくのです。

 折伏相手から「あなたの言うことならば信頼できる。私も信心してみよう」と言ってもらえるような、社会に信頼される法華講員となれるよう、精進してまいりましょう。

 (次回は三月一日号に掲載予定)

 

 

 

 

 


熱原法難四

2023年01月19日 | 日蓮大聖人の御生涯(四)

大白法 令和3年6月1日(第1054号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 146

  日蓮大聖人の御生涯 ㉜

   熱原法難 四

 

 南条家への迫害

 平左衛門尉頼綱等による法華講衆への迫害は、富士下方荘熱原の信徒、神四郎・弥五郎・弥六郎の斬首にとどまらず、さらに上方荘の上野の地頭である南条時光殿一家にも及ぶことになりました。

 地頭という要職にあった南条時光殿は、二十歳の青年でありながらも強盛な信心をもって、日興上人をはじめとする僧侶たちを外護し、農民たちを護るなど支柱的存在として大いに尽力しました。

 このため、南条時光殿をはじめとする上野の南条家に対しての風当たりは強く、日蓮大聖人が、

 「これひとへに法華経に命をすつるゆへなり。またく主君にそむく人とは天御覧あらじ。其の上わづかの小郷にをほくの公事せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし」(御書 一五二九㌻)

と仰せのように、 公事(年貢以外の賦課をいい、細々した種々の税や雑多な労役の総称)の重い負担を課せられ、乗る馬もなく、家族は着る物にも難渋するなど、逼迫した生活を余儀なくされたのです。

 しかし、このような中においても、日興上人の薫陶を受けながら、一家力を合わせて強盛な信心を貫きました。

 

 法華誹謗の現罰

 入信間もない神四郎・弥五郎・弥六郎をはじめとする熱原法華講衆が法難に殉じた強い信心の姿は、令和の今日においても色あせることはありません。

 しかし、これと対照的に、大聖人の仏法に背き、正法を受持信行する弟子檀那を迫害した人々の末路が、いかに悲惨なものであったかについて述べます。

 大聖人が熱原法難の渦中に著された『聖人御難事』には、

 「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣・万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、(中略)大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか」(同 一三九七㌻)

と仰せです。

 また、

 「三位房なんどのやうに候を(臆)くびょ(病)う、物をぼへず、よ(欲)くふかく、うた(疑)がい多き者どもは、ぬ(塗)れるう(漆)るしに水をかけ、そ(空)らをき(切)りたるやうに候ぞ。

 三位房が事は大不思議の事ども候ひしかども、(中略) は(腹)らぐ(黒)ろとなりて大づちをあたりて候ぞ」(同 一三九八㌻)

と仰せのように、法華講衆を迫害した大進房・長崎時綱・大田親昌は、乗り慣れているはずの馬から落ちて悶死しました。大聖人の弟子として布教の応援に駆けつけたはずの三位房は、 院主代・行智の言葉に誑(たぶら)かされて大聖人を信じきることができずに退転し、その罰を受けて不慮の死を遂げたのです。

 すなわち、正法受持の弟子檀那を迫害する者は、たとえ国王・大臣などの高位の者であっても、また過去に弘教の功績を残した者であっても、法華誹謗の罪によって厳しい仏罰を被ることが明らかです。 

 それは執権・北条時宗の懐刀として、権力をかさに大聖人に敵対し、迫害した平左衛門尉頼綱も例外ではありません。

 その最期は、日興上人の『弟子分本尊目録』 に、

 「其の後十四年を経て平入道判官父子、謀反を発して誅せられ畢ぬ。父子これただ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」(歴代法主全書)

と記録されている通りです。

 熱原法難から十四年後の永仁元(一二九三)年四月、栄華の春を謳歌していた平頼綱は、慢心を増長させて謀反を企て、ついに幕府(北条貞時)によって誅殺されることになるのです。

 

 平左衛門尉頼綱

 平頼綱は、第五代執権・北条時頼の時代に内管領の要職にあった平盛時の子息で、父の後を継いで北条得宗家被官(御内人)となりました。

 第八代執権・北条時宗、第九代執権・北条貞時の時代には、父と同じように内管領となり、また北条貞時の乳母の夫であったことから、その立場を利用して幕府内で大きな権力を握ることができたのです。

 この平頼綱と肩を並べる人物として幕府内には、北条時宗の舅で北条貞時の外祖父に当たる安達泰盛が、有力な御家人として存在していました。

 御内人の代表である平頼綱と御家人の代表である安達泰盛は、幕政運営を巡って対立することがありました。

 執権・北条時宗が弘安七(一二八四)年四月に死亡すると、安達泰盛が主導して幕政改革を行いますが、その急激な改革に武士の不満が高まりました。そうした武士たちを味方につけた平頼綱によって、弘安八年十一月、ついに安達泰盛は一族の多くと共に滅ぼされてしまいます。(霜月騒動) 

 これにより、幕府内において平頼綱に対抗できる人物は皆無となり、平頼綱による独裁的な恐怖政治が行われるようになったのです。 

 弘安二年当時、既に大きな権力を持っていた平頼綱に対し、毅然たる姿勢で謗法破折を行い平伏することのない大聖人とその弟子をはじめ、いかなる拷問にも屈することなく、強盛な信心をもって声高らかに唱題する法華講衆の存在は、平頼綱にとって衝撃的なことでありました。平頼綱はそこに屈辱感を抱くと共に、憎悪の念を燃えたぎらせました。

 そして、その憎悪は、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬首に処すという凄(せい)惨(さん)な形となって表われたのです。

 

 峻厳なる因果の道理

 永仁元(一二九三)年、権力の絶頂期にあった平頼綱は、次男の飯沼判官資宗を大将として幕府転覆を企てます。 しかし、これを知った長男の平宗綱は、 日頃から弟の飯沼資宗だけが平頼綱に寵愛されているのを妬んでいたため、その腹いせに幕府に密告したのです。

 そして、同年四月、執権・北条貞時の軍によって平頼綱の自邸が襲撃され、平頼綱と飯沼資宗は処刑、密告した平宗綱も佐渡へ流罪となり、家屋と所領は没収、妻子も追放となりました。

 これにより、足かけ九年続いた平頼綱の政治は幕を下ろしたのです。

 この時の様子を、総本山第四世日道上人は『御伝土代』 に、

 「子息飯沼の判官馬に乗り、小蟇目を以て一々に射けり、其の庭にて平左衛門入道父子打たれり、法華の罰なり」(日蓮正宗聖典 七四六㌻)

と御教示されており、 奇しくも神四郎・弥五郎・弥六郎を斬首に処した自邸の庭で父子共々誅殺されたことに、仏法の因果応報の厳しい裁きを見ることができます。

 また、第二十六世日寛上人は『撰時抄愚記』に、

 「今案じて云わく、平左衛門入道果円の首を刎ねらるるは、是れ即ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の頭を刎ねらるるは、是れ即ち安房国の蓮祖の御頸を刎ねんとせしが故なり。嫡子宗綱の佐渡に流さるるは、是れ即ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。其の事、既に符号せり、豈大科免れ難きに非ずや。(中略)現報に遠近有り。遠くは蓮師打擲の大科に由り、近くは熱原の殺害に由るなり」(御書文段 三六八㌻ )

と、平頼綱不死の滅亡の遠因は大聖人への誹謗と迫害にあったこと、また、近因は熱原法難にあったことを御指南されております。

 私たちは、仏法の因果の道理を信じ、いかなる誘惑があろうとも退転することなく、御本尊を信じ、広宣流布を目指して、自行化他の信心に挺身していくことが大切です。

 



 次回は「大聖人の出世の本懐」について学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 


熱原法難三

2023年01月18日 | 日蓮大聖人の御生涯(四)

大白法 令和3年5月1日(第1052号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 145

  日蓮大聖人の御生涯 ㉛       

   熱原法難 三

 前回は、弘安二年九月二十一日、行智らの策謀によって、熱原法難の法華講衆二十人が他人の田の稲を不法に刈り取ったとする刈田狼藉の罪を捏造され、罪人として鎌倉に護送されたこと。そして、この事件について日興上人から報告を受けられた日蓮大聖人は十月一日に『聖人御難事』を認(したた)め、法難の最中にある法華講衆を励まされると共に、行智らの策謀を暴(あば)いて真実を訴え出るために申状の草案(『滝泉寺申状』)の執筆に取りかかられたこと。その後、十月十二日付の 『伯耆殿御返事』と共に『滝泉寺申状』の草案を日興上人のもとへ送付して、門下の僧俗が団結して事件の解決に向け手を尽くされた場面を学びました。

 今回は、鎌倉に護送された熱原の法華講衆がどのような状況になったのか、そして事件の最前線で指揮を執る日興上人から逐一報告を受けられた大聖人が、どのように御指南されたかを学んでいきます。 

 

 処 刑

 鎌倉に護送された熱原の法華講衆を取り調べたのは、大聖人を憎んで数々の迫害を加え、命まで奪おうとした平左衛門尉頼綱でした。頼綱にしてみれば、熱原地方の刈田狼藉の罪などはたいした問題ではなく、これを機会に「日蓮が一門」を弾圧し、殲滅することが目的だったのです。

 十月十五日、頼綱は神四郎・弥五郎・弥六郎ら熱原の法華講衆二十人を自邸の庭に引き出し、事件の真相には少しも触れることなく、乱暴な態度で、「汝ら速やかに法華の信仰をやめて、念仏を称(とな)えるならば、即座に罪を許して帰国させてやろう、もし信仰を改めなければ必ず重罪に処するから、よくよく思案を定めて返答をいたせ」と厳しく申し渡しました。

 鎌倉幕府の中でも強い権力を有する頼綱の威嚇は、たとえ他の鎌倉の剛の武士であっても声を出せないほどの恐ろしいものでしたが、日興上人や日秀師の薫陶を受けた神四郎等の信心は堅固で、「この身を法華経の恩為に捧げ奉ることは、まことに願ってもない幸せである」と、少しも恐れず泰然自若として、「たとえ身は殺されても、日蓮大聖人の教えを守り抜くことこそ、私たちの本義でございます」と、 きっぱりと言い返しました。

 傲慢な頼綱は激怒して「お前たちは農民の分際で天下の内管領に言葉を返す不敵さ、おそらく悪魔に魅入られたのであろう。正気の沙汰ではあるまい。判官、蟇目の矢をもって、こやつらを痛めつけよ」といきり立ったのです。

 蟇目の矢とは、矢の先端部分に鏃(やじり)の代わりに穴を空けた鏑(かぶら)を取り付けたもので、鏑に空けられた穴が蟇蛙(ひきがえる)の目に似ていることから蟇目の矢と呼ばれます。蟇目の矢で射ると穴から風が入ってヒューヒューと鳴り、その不気味な音により悪魔を退散させると信じられ、鎌倉当時、流鏑馬、笠懸、犬追物など、射術の訓練や神事で用いられていました。

 頼綱の命によりその蟇目の矢をもって責めたのは、当時十三歳になる頼綱の次男・飯沼判官資宗でした。容赦なく次から次へと放たれる拷問の矢は、骨も砕かんばかりの痛みをもって、神四郎たちの身をさんざんに責めました。

 頼綱は、神四郎たちがすぐにも悲鳴をあげて改宗すると思っていました。しかし神四郎たちは一向に怯まず、かえって「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と唱える声が、ますます高まっていったのです。

 力強い唱題の声に、頼綱は不安と苛立ちを覚え、大聖人に対する憎悪と驕慢の心が増し、とうとう狂乱の極みに達し、ついに神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を事件の首謀者として、暴虐無惨にも斬首の刑に処したのです。

 苦痛をものともせず、死を恐れず、法のために殉ぜんとするこの強信怖退の姿こそは、まさに『如説修行抄』に、

 「一(いち)期(ご)過ぎなむ事は程無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ。縦(たと)ひ頸(くび)をばのこ(鋸)ぎりにて引き切り、どう(胴)をばひ(菱)しほ(鉾)こを以てつゝき、足にはほ(絆)だしを打ってき(錐)りを以てもむとも、命のか(通)よはんき(際)はゝ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にゝしぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契(ちぎ)りの約束ならば、須(しゅ)臾(ゆ)の程に飛び来たりて手を取りてか(肩)たに引き懸けて霊山へは(走)しり給はゞ、二聖・二天・十羅刹女・受持者を(擁)うご(護)の諸天善神は、天蓋を指し幢(はたほこ)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光(じゃつこう)の宝刹(ほうせつ)へ送り給ふべきなり。あらうれしや、あらうれしや」(御書 六七四㌻)との御聖訓を身で読み、不惜身命の信心を全うしたといえます。

 日興上人は、尋常ではない拷問(ごうもん)の様子を、急使を立てて大聖人に御報告しました。

 

 聖人等御返事

 十七日の酉の時(午後六時〜七時頃)に、鎌倉からの急使が身延の大聖人のもとに到着しました。二日前の十五日に神四郎・弥五郎・弥六郎が斬罪に処せられたとの知らせを読まれるや、心から三烈士を追善回向されると共に、すぐに御返礼を認められました。「十月十七日戌時」と時刻までも記されることから、緊迫した模様が伝わってきます。 この書状が『聖人等御返事』です。 

「今月十五日酉時御文、同じき十七日酉時到来す。彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云。偏に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹の入り易(か)はりて法華経の行者を試みたまふか。例せば雪山童子・尸(し)毘(び)王(おう)等の如し。将又悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等、五五百歳の法華経の行者を守護すべきの御誓ひは是なり。大論に云はく『能く毒を変じて薬と為す』と。天台云はく『毒を変じて薬と為す』云云。妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか」

 (同 一四〇五㌻)

 神四郎・弥五郎・弥六郎の三烈士が妙法に命を捧げたことは、まさにただ事ではないと仰せられ、これは雪山童子、尸毘王等と同じように、十羅刹女が頼綱の身に入って法華経の行者を試したものか、あるいは悪鬼が頼綱に入ったのかと、その理由を示されます。

 そして、これこそ諸仏・諸天が ”魔法の法華経の行者を守護する” との誓いを果たしている相であると教示され、「毒を変じて薬と為す」とはこのことであると述べられます。そして、必ず賞罰の結果が現われるであろうと断じられています。

 先ほどの御文に、三烈士の処刑は諸仏・諸天の御加護であるとの仰せについて、逆に守護がなっかたから斬罪に処されたのではないかと思うかも知れません。しかし、神四郎たちの五尺の凡身は、たとえ敢えなく刑場の露とは消えても、妙法に捧げた魂魄はたちどころに常寂光の宝刹に安住し、即身成仏という、未来永遠に亘る境界を成就し、瓦礫のような価値もないはかなき人生を、成仏という黄金に変えたのです。

 こうして、会ったこともない一介の農民が、法華講衆として妙法の信仰を真に体現したことにより、大聖人は万感の思いをもって『聖人等御返事』 を綴られたことが拝察できます。

 大聖人は当抄の終わりに、日興上人に対し、

 「伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐべし」(同)

と記されています。

 これは、熱原の三烈士が殉死を遂げた今こそ問注を遂げ、頼綱に対して、はっきりと現罰を蒙ることを申し渡すようにと指図されたものです。これを受け、日興上人は大聖人の草案による『滝泉寺申状』を直ちに提出されたものと推測されます。

 私たちが宿縁深厚にして、濁悪の末法に生を受けながら、値い難き御本尊に巡り合って一生成仏の信仰ができるのも、熱原三烈士のように、不惜身命の信行を貫いた人たちがあってのことです。その熱原の法華講衆の名誉を汚さないためにも、今こそ現代の法華講衆として不自惜身命の信心をもって、果敢に折伏弘教に邁進していきましょう。

 

 

 

 

 

 


熱原法難二

2023年01月17日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和3年4月1日(第1050号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 144

  日蓮大聖人の御生涯 ㉚     

   熱原法難 二

 前回学んだように、第二祖日興上人の富士下方における弘教によって、熱原の百姓である神四郎・弥五郎・弥六郎の兄弟をはじめとする多くの人々が、日蓮大聖人の仏法に入信をしました。

 一方で、当地にあった滝(りゅう)泉(せん)寺(じ)の院(いん)主(じゅ)代(だい)であった行(ぎょう)智(ち)らは奸(かん)計(けい)を巡らして、あるいは政所の役人と結託して偽の御教書を作ったり、あるいは甘言をもって法華講衆に離反工作をしたのです。

 その結果、神四郎らの兄・弥籐次は籠絡されてしまい、大聖人が応援のために遣わした三位房をも門下から離脱させて行基側に付けてしまったのです。

 日を追うごとに熱原の法華講衆への弾圧は強まり、ついに弘安二(一二七九)年の四月には刃傷事件が起こり、八月には弥四郎が殺される無法な凶悪事件まで発生するに至りました。 

 日興上人は熱原の信徒のこと、法難の状況などを細かに大聖人に御報告され、大聖人は一門の団結を固めるよう御手紙を下されました。それが次の『異体同心事』です。

 「あ(熱)つわ(原)らの者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なしと申す事は外典三千余巻に定まりて候。(中略)日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多くの火あつまれども一水にはき(消)ゑぬ。此の一門も又かくのごとし」(御書 一三八九㌻)

 かつて殷の紂王は、大軍を率いて周との決戦に臨みましたが、紂王の軍勢は心がばらばらであったために、周の武王が率いるわずか八百人の団結が強い軍勢に敗れ去りました。同じように、大聖人の一門は人数こそ少なくとも、一つの志のもとに団結するならば、いかなる難をも乗り越え、法華経を弘めていくことができるのです。

 四月・八月の刃傷事件が示すように 、法華講衆を取り巻く富士下方の状況は、極めて危険なものがありました。しかし、この大聖人の激励を受けた法華講衆は、日興上人の御指導のもとで一致団結し、ますます信仰に励んでいったのです。

 

 不当な捕縛

 弘安二年九月二十一日(現在の十一月三日) に、日頃、下野房 日秀師の教化にあずかっていた熱原の信徒たちが集まり、日秀師が所有する田の稲刈りを手伝っていました。

 しかし、これを好機と見なした行智は、大聖人一門を一網打尽にしようと、下方庄や加島庄一帯の得宗領から、大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱(一説には平頼綱の叔父)らに声をかけ、多くの手勢を率いて押し寄せたのです。

農民信徒たちには何の落ち度がないにもかかわらず、こうして役人と結託した行智の横暴によって、あえなく捕縛されてしまい囚われの身となってしまいました。

 法華経『勧持品第十三』には、

 「濁劫悪世の中には 多く諸(もろもろ)の恐(く)怖(ふ)有らん 悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜む」(法華経 三七七㌻)

と説かれています。悪世末法には、この法華経を信仰する者に対して、悪鬼が人々の心に入り込むことによって、多くの迫害が起きる。けれども、仏を敬い深く信ずるが故にその難を耐え忍び、法を弘め、自らの身命よりも無上の仏道を重んじなければならない。常々、日興上人から教えられていたように、この経文の通りの恐るべき難が自分たちの身の上に降りかかってきたのでした。

 行智は悪謀を巡らして、神四郎の兄・弥籐次の名のもとに、熱原の法華講衆が弓矢を身につけて院主の支配する坊の土地に打ち入って稲を刈り、下野房日秀の住房に取り入れたとする刈田狼藉の罪をでっち上げたのです。

 当然のことながら、事実無根の虚偽の訴えでありましたが、この訴状によって神四郎たち二十人は罪人として、鎌倉へと護送されることになったのです。

 一方で、一連の事件の中で 、熱原法華講衆を迫害した大進房や大田親昌、長崎時綱らは乗り慣れているはずの馬から落ち、中でも大進房は苦しんだ挙句に息絶え、また大聖人一門から離反した三位房も不慮の死を遂げるなど、たちまちに現罰が現れたのでした。

 

 『滝泉寺申状』

 日興上人は、直ちに身延の大聖人のもとへ、この事件を御報告されました。

 大聖人は囚われた法華講衆の身の上を思いやられ、門下の一大事であると御考えになりました。十月一日の『聖人御難事』には、

 「各々獅子王の心を取り出だして、いかに人を(嚇)どすともを(怖)づる事なかれ。獅子王は百獣にを(怖)ぢず、獅子の子又かくのごとし。彼等は野(や)干(かん)のほ(吠)うるなり、日蓮が一門は獅子の吼ゆるなり。(中略)設(たと)ひ大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給ふゆへに、ば(罰)っしがたかるべしと存じ給へ。すこしもた(弛)ゆむ心あらば魔たよりをうべし」(御書 一三九七㌻)

と仰せられ、この信心をやめさせようと人々がどれほど脅迫したとしても、けっして恐れることなく、諸天善神の加護を信じて、いよいよ強盛に信心を固めるように励まされています。

 そして、現世でこのような大難に遭っても退転しないで信心を貫き通すのであれば、必ず後生は仏になるのである。熱原の人々も互いに励まし合って、確固たる信心の境界に立って不退転の覚悟を定めるようにと仰せられています。 

 大聖人は、まさに今、死と隣合わせという法難の最中にある法華講衆を励まされると共に、行智らの策謀を暴いて真実を幕府に訴え出るために申状の草案の執筆に取りかかられました。これが『滝泉寺申状』です。

 同申状は大きく前半と後半とに分かれ、前半は大聖人が執筆され、後半は事件の詳細を知る日興上人が書かれたとも、訴訟に詳しい富木常忍がまとめたとも言われています。

 前半では、まず行智らの訴えとして、

 「日秀・日弁、日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経、或は真言の行人は皆以て今世後世叶ふべからざるの由、之を申す云云取意」

  (同 一四〇〇㌻)

を挙げ、これに対する反論の形を取って、仏法の正邪を文証・理証・現証の上から明かされています。

 まず、日本国一同が法華経に背いて邪法を信仰しているために、種々の天災や、自界叛逆難と他国侵逼難とが起こるのであり、これを諌言した大聖人はかえって謗法の諸人の讒言によって遠流死罪に及んだことが記されておます。

 そして真言師らの蒙古調伏について、承久の乱の時に祈祷したにもかかわらず天皇方は負けた事実を挙げて批判され、浄土や華厳等の諸経は未顕真実の方便であることを教示されて、これらの子細について不審があれば、諸宗の高僧らと引き合わせて公場対決をして、是非を決するべきである旨を述べられています。

 続く後半では 、行智らの訴状にある刈田狼藉は、全くの虚偽であり、行智らの悪行をつらつらと挙げて、重科は行智にこそあることを示し、この訴訟が不実の濫訴であることを指弾されています。

 この申状の草案は十月十二日付の『伯耆殿御返事』と共に、日興上人のもとへと届けられました。『伯耆殿御返事』には、このような趣旨で申状を書き上げること、ただし囚われている農民信徒の身の安全が確保されるならば、問注(訴訟)に及ぶ必要はないことなど、細々とした御指示が下されています。

 このように九月二十一日の襲撃事件に対して、門下の僧俗が団結して解決に向け手を尽していましたが、その直後に平左衛門尉頼綱父子による苛烈な迫害が行われたのです。

 この詳細は次回に譲りますが、

この熱原法難は、凡夫の浅い見解ではなく、仏法の信心の眼で拝することによってこそ、この法難の尊さを学ぶことができると、敢えて付言しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


熱原法難 一

2023年01月15日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和3年2月1日(第1046号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 143

  日蓮大聖人の御生涯 ㉙       

   熱原法難 一

 それではいよいよ、日蓮大聖人が出世の本懐(世に出現された本当の目的)を遂げられる契機となった、熱原法難について学びましょう。

 今回は、富士下方熱原の地に大聖人の教えが弘まった経緯と、法難直前の様子までを拝します。

 

 日興上人の甲斐・駿河弘教

 熱原法難のあらましを知るために、まずは第二祖日興上人の折伏弘教の足跡をたどってみましょう。

 日興上人は、大聖人に入門してから常にお側でお仕えし、弘長元(一二六一)年の伊豆配流、文永八(一二七一)年の佐渡配流の際にもお供をされました。その御縁によって、大聖人御入滅の後も配流地の門下を薫育されており、『佐渡国法華講衆御返事』等の書状から、その様子を窺(うかが)い知ることができます。

 文永十一(一二七四)年五月、大聖人が身延に入山されると、日興上人は給仕のかたわら、周辺各地に足を運ばれ、布教と信徒教導に励まれました。

 甲斐国(現在の山梨県)では、波(は)木(き)井(り)一族の他に秋山家などが帰依し、寂日坊日華師が入門するなど改宗・出家する者も相次ぎました。

 また駿河国(現在の静岡県中部・東部)では南条家や、日興上人の縁をもとに富士、庵原、興津といった広い範囲で弘教が進み、多くの信徒が帰依しています。

 この他、武蔵と遠江の両国、そして配流時の縁をたどり伊豆方面にも教線は伸びていきました。特に伊豆国では、南条家の遠戚である新田家を教化し、これが後に第三祖日目上人となる虎王丸の入門に繋がっています。

 

 富士下方弘教

 こうした弘教のうち、 富士下方(現在の富士市)は、日興上人が修学された蒲原四十九院と岩本実相寺を中心に進められました。

 岩本実相寺は、以前学んだように一切経蔵を有するほどの寺院であり(大白法九九〇号)、四十九院も多くの僧侶が住する寺院であったと伝わっています。 

 日興上人の教化により、まず実相寺の筑前房・豊前房、四十九院の賢秀房・承賢房等の僧侶が帰伏改衣し、その縁によって寺域内の住民も次々と帰依するようになりました。

 すると、 改宗者が続出したことにより、自分たちの権力や、これまでの生活が脅かされることに危機感を抱いたのが四十九院・ 実相寺の院主たちでした。実相寺院主の道暁、四十九院寺務(住職)の二位律師厳誉らが急先鋒に立っての弾圧が始まったのです。

 門下に対する誹謗や威嚇は、後述する熱原と時を同じくしてだんだんと強まり、ついに弘安元(一二七八)年には、日興上人を始め日持・賢秀房・承賢房等の諸師が四十九院から追放される事態となったのです。

 日興上人らが連名によって不当性を訴えられた『四十九院申状』には、厳誉による讒言が次のように記されています。

 「四十九院の内、日蓮が弟子等居住せしむるの由、其の聞こえ有り。彼の党類、仏法を学し乍ら外道の教に同じ、正見を改めて邪義の旨に住せしむ、以ての外の次第なり、大衆等評定せしめ寺内に住せしむべからざるの由の所に候なり」(歴代法主全書)

 四十九院は天台宗系の寺院であったと言われており、一往、法華経を依経とする点は共通しています。それにもかかわらず、 大聖人の教えを「外道」「邪義」 と見なし、一方的な詮議の末に大聖人門下の住坊や田畑を取り上げ、寺域から追い出すに至りました。

 申状提出のその後については詳らかではありませんが、日興上人は、この出来事に怯むどころか、いよいよ布教に専心されました。

 

 滝(りゅう)泉(せん)寺(じ)と熱(あつ)原(はら)郷(ごう)

 話は少し遡りますが、日興上人によって本格的に始まった弘教は、建治元年頃、岩本実相寺から東へ四、五キロのところにあった天台宗の古刹滝泉寺にも及びました。

 当時の滝泉寺は、院主代の行智という入道が寺務を代行していました。半僧半俗の入道が院主代を努めていたのは、行智が平左衛門尉頼綱の一族であったからとも言われます。

 行智は、天台宗の教義を理解するはずもなく、その所行は僧侶としてひどいものでした。以下にいくつか挙げてみましょう。

・滝泉寺内の法華三昧堂の供僧である和泉坊蓮海に命じて、法華経の巻物をほぐして紺染の型紙 などに仕立て直した。

・堂舎修理の際、屋根を葺くための薄板一万二千枚のうち八千枚を私的に流用した。

・無知無才で盗みをはたらいた兵部坊静印から罰金を取った上で許し、徳の勝れた人と称して滝泉寺の供僧に採用した。

・出家の身でありながら領内の農民を促して猟をし、鶉・狸・鹿を殺して寺内で食した。

・仏前の池に毒を入れて魚を殺し、村里で売った。

 当然、このような院主代の非行を見て、求道心を持った僧侶が使えるはずもなく、日興上人の教化によって下野房(後の日秀)・越後房(後の日弁)・少輔房(後の日禅)・三河房頼円等、帰伏改宗する者が現れました。

 さらに在俗の領民にも帰依する者が出始めると、これに危機感をおぼえた行智は人々を扇動し、大聖人の門下に迫害を加え始めました。

 しかしこの動きに対し、大聖人は、

 「返す返すする(駿)が(河)の人々みな同じ御心と申させ給ひ候へ」

        (御書 八八二㌻)

と一同に異体同心の結束を促されると共に、応援として弟子の覚乗房らを遣わされたため、門下はかえって団結し、折伏の手を緩めることはありませんでした。

 翌建治二年、増加し続ける門下の勢いに行智は我慢ならず、日秀・日弁・日禅・頼円等の諸師に、命令に従わなければそれぞれの住坊を追放すると申し渡しました。

 その命令とは、法華経の読誦を停止し、阿弥陀経を読み念仏を称えるとの起請文を提出せよというもので、法華経を奉ずる天台宗寺院とは思えぬものでした。

 頼円は命令に応じて起請文を書き身の安泰を計りましたが、他の三人はけっして従うことなく、擯出の処置を受けました。

 日禅師は富士上方河合の生家に身を寄せましたが、日秀・日弁の二師は滝泉寺のほかに頼るところもなかったため、なお統制の及ばぬ寺内の坊に移って折伏を続けました。

 この折伏によって弘安元(一二七八)年になると、滝泉寺周辺の熱原郷では、神四郎・弥五郎・弥六郎の兄弟三人をはじめとする農民たちにも、大聖人の教えが急速に広まりました。

 

 法華衆に対する行智の奸計

 行智は、もはや滝泉寺の力だけでは打つ手がないと考え、法華衆禁圧のために様々な手段を講じ始めました。

 一つは造反工作で、 まず神四郎が兄弟の実兄である弥籐次入道を籠絡し、さらに大聖人から応援に遣わされていた三位房に付け入り、ついには離反させてしまいました。

 もう一つは富士下方にある政所の役人との結託です。 彼らは偽りの御教書を二度にわたって作り、法華衆徒を脅迫するなどしました。

 弘安二年に入ると、迫害は一層激しさを増しました。

 四月八日、滝泉寺近くの浅間神社で流鏑馬の神事が行われていましたが、その雑踏の中で、法華衆徒・四郎が 刃物で切りつけられ傷を負うという事件が起こりました。

 次に同年八月には、同じく法華衆徒の弥四郎が、何者かに首を切られるという殺害事件まで起こったのです。

 総本山第五十九世日亨上人は、

この弥四郎の殉難について、

 「貴重な人命を損じても政所代が承知して内々にや(行)らせたので表面には何人か討つたか分つた様で明らぬ、神四郎等のやうに殉難の壮烈を喧傅唱導せられぬのは大いに気の毒の至りである、此れも殉難者として神四郎等と共に廟食追弔せらるべきである」(熱原法難史 一三四㌻)

と、熱原三烈士と共に顕彰し追善供養の誠を尽くすべきであると仰せられています。

 しかし、これほどの事件に対しても、行智と結託した政所の役人はまともに取り合わず、結果として行智らは非道を激化させ、法華衆の教勢壊滅を狙ったことが翌月の大事件へと繋がったのです。

 次回は熱原法華講衆の不自惜身命の信仰と、本門戒壇の大御本尊御図顕について学びます。

 

 

 

 

 

 


大悪大善御書

2023年01月14日 | 御報恩御講(一)

令和五年一月度 御報恩御講

『大悪大善御書』      文永十二年 五十四歳

 大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる。すでに大謗法国にあり、大正法 必ずひろまるべし。各々なにをか なげ (嘆)かせ給ふべき。迦葉尊者にあらずとも、まい(舞)をもまい(舞)ぬべし。舎利弗にあらねども、立ちてを(踊)どりぬべし。上行菩薩の大地より い(出)で給ひしには、を(踊)どりてこそ い(出)で給ひしか。普賢菩薩の来たるには、大地を六種に う(動)ごかせり。

 

【通解】大事の前には小さな前兆はない、大悪が起これば大善が来るものである。既に大謗法が国に現れているので、大正法は必ず広まるであろう。あなた方は何か嘆いておられるのか。迦葉尊者ではなくとも、舞を舞って喜ぶべきであろう。舎利弗ではなくとも、立ち上がって踊るべきである。上行菩薩は大地からお出になる時、歓喜踊躍して出現されたではないか。普賢菩薩が出現した時には、大地を六種に震動させている。

 

【拝読のポイント】

 大悪の最たるものは謗法

 仏法では、五逆罪は無間地獄の業因とされます。大聖人は、『顕謗法抄』に「懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況んや懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出づる期かたかるべし」(御書 二七九)と仰せられ、謗法罪は五逆罪をはるかに超えた大罪であると断言されています。

 また謗法者が国に充満すれば、国土・国家に過酷な現証が出来することを、『立正安国論』に「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災い起こり難起こる」(同 二三四)と教示されています。しかも大聖人は、 謗人(身)・謗家・謗国という三義を示され、たとえ自身は謗法を犯さずとも、家族乃至一国に充満する謗法を対治しなければ、 その罪は免れがたいことを指摘されているのです。 (秋元御書・同一四五二参照)

 一家和楽を願い、一切衆生救済と立正安国実現のために、子の苦しみを何としても取り除こうとする親のような慈悲心を、固く強く持ち、積極的に謗法を破折していく以外に道はありません。

 

 日如上人御指南

 折伏を忘れた信心は、本宗のなかには存在しません。まさに、自行化他にわたりての南無妙法蓮華経であります。一人ひとりが折伏をしっかり行じていくところに、必ず大きな功徳が存することは間違いありません。 広宣流布を願う我々が一致団結して、この難局を乗り切っていくことが肝要であろうと思います。(大日蓮・令和四年十一月号)

 

 まとめ

 『折伏躍動の年』の初御講にあたり、共に本年の精進と折伏請願目標の達成を御宝前に誓い会いましょう。また本年は、日蓮大聖人御聖誕八百年の慶祝記念行事として、三月四日には慶祝記念総会、その日を初日として十二月まで慶祝記念総登山が実施されます。必ずを誘い合って参加して御報恩の誠を尽くし、もって広布に向かって大きく前進してまいりましょう。 

 

 

 

 

 


⑦異体同心を心がけましょう

2023年01月12日 | 法華講員の心得(一)

大白法 令和2年12月1日(第1042号)から転載

 妙法の振舞い

 『法華講員の心得』より

  ⑦異体同心を心がけましょう

法華講員はお互いに日蓮大聖人の仏法を信仰し、その教えを弘めていく信心の同志です。

 日蓮大聖人は、 「信心の同士が力をあわせて努力すれば、いかなる大事をもなしとげ、困難をも克服できる」

  (意訳・異体同心事)

と、異体同心の大切さを教えられています。

 日蓮正宗の信心において、同信の人たちが団結し、互いに励まし合い、助け合っていくことが何よりも大切な心がまえです。

  これに反して、同志の陰口を言ったり、些細な欠点をあげつらったりすることは、これまで積んだ功徳を失うばかりか、信心の組織を乱す大きな罰となりますから、厳に慎まなければなりません。

 私たちは、自己の成仏を願い、広宣流布を推進するためにも、異体同心の精神をもって信心に励んでいきましょう。

                     (法華講員の心得 二四㌻)



[信行のポイント]

 「異体同心」とは、人それぞれに異なる個性・特性、生活上の立場などを持ちながら、御本仏日蓮大聖人様の教えのままに団結し、信心の志を同じくすることです。

 

 三宝信順の信心で広布前進

 私たち凡夫は、三世の理法に暗く、謗法罪障の濁りにより根本の仏性を忘れて六道の命で生活しているため、煩悩が尽きません。 その迷いの命を中心とすることは、不幸の原因となります。したがって、異体同心は、単に凡夫が和合すればよいということではありません。

  御法主日如上人猊下は、

 「心を同じくするといっても、どこに心を合わせていくかが問題であります。

 もし、自分の心に合わせる、つまり自分の心にまかせて仏法を見るとすると、我見に陥り、真の異体同心は生まれません。自分の心を仏法に任せていくところに、真の異体同心が生まれるのであります」

  (大白法 八〇九号)

と御指南されています。

 真の異体同心とは、一切衆生を成仏に導かれる 下種三宝(本門戒壇の大御本尊、御本仏日蓮大聖人、第二祖日興上人以来の御歴代上人)の御心に同ずる信心を本義とするのです。

 仏法は、人間誰もが直面する苦悩を根本的に解決する道を説き明かしており、正しい仏法を信仰することによって社会は浄化されていきます。

 御法主日如上人猊下が、

 「大聖人様の仏法は(中略)一人ひとりの幸せから多くの人の幸せに,

つまり点から線、線から面へ広がっていく、いわゆる広宣流布を目指していく仏法であります」

  (同 八三四号)

と御指南される如く、日蓮正宗は、この世の生きとし生けるものすべての成仏・幸福を願い、一切の人々に対して日蓮大聖人が解かれた仏法を弘め、共に実践していくことを目的としており、 清淨にして安穏な世界平和を目指して精進しているのです。

 

 法華講先達の信心

 日蓮大聖人は、弘安二(一二七九)年十月十二日、一切衆生が尊(そん)敬(ぎょう)礼(らい)拝(はい)・信心口(く)唱(しょう)すべき根本究(く)境(きょう)たる、本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされました。大御本尊御図顕の機縁として、日興上人のもと、熱原の法華講衆が不惜身命と護惜建立の志で異体同心の団結をもって、身命に及ぶ法難を乗り越えたことがあります。

 この本門戒壇の大御本尊の脇書には、

 「右現当二世の為に造立 件(くだん)の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白」と、「法華講」の名称を大聖人御自らが認められています。

 まさに法華講こそ、大御本尊への絶対の確信を持った、上(じょう)求(ぐ)菩(ぼ)提(だい)下(げ)化(け) 衆生の菩薩の集まり、広宣流布を願う講中です。

 大聖人は『生死一大事血脈抄』に、

 「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」

(御書 五一四㌻)

と仰せです。先達の信行を継ぎ、異体同心して自行化他にわたる題目を実践するとき、三世に亘る成仏が叶うのです。

 また『兄弟抄』に、

 「この法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」

  (御書 九八六㌻)

と仰せのように、広宣流布への精進は正しく魔との闘いとなります。

 大聖人の、

 「日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚え候」

   (御書 一三八九㌻)

と、異体同心の団結があれば、必ず法華弘通の大願は成就するとの御教えを実現すべく、また総本山第三十一世日因上人が『十箇条法門』で、

 「一結講中異体同心未来迄も相離れ申す間(ま)敷(じく)候。中に於て一人地獄に落ち入り候はば講中寄り合いて救い取るべし。一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし」

と仰せのように、共に励まし合い、結果増をしながら成仏の道を志す、異体同心の信心を各位が興してまいりましょう。