goo blog サービス終了のお知らせ 

しあわせブログ!

価値観が変わると すべて変わる(何歳なっても) 
過去の行いは現在の果 現在の行いは現在・未来の結果

善知識・悪知識

2022年07月25日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年10月16日(第991号)    

  【仏教用語の解説】10

   善知識・悪知識

 善知識・悪知識とは

 「知識」とは一般的に「知ること」「理解すること」、あるいはその内容を言いますが、仏教では、「友人」・「知人」を意味します。したがって善知識とは、自分を正しく導いてくれる徳のある友人の意に当たり、善友や親友とも称されます。その反対に悪知識とは、悪法を説いて人々を不幸に陥れる悪友のことを指します。

 世間のことわざに、「朱に交われば赤くなる」と言われますが、仏道修行に励む私たちにとっても、身近な知人から受ける影響は多大であり、善につけ悪につけ信仰の在り方を左右します。

 日蓮大聖人は『立正安国論』に、「蘭室の友に交わりて麻畝の性と成る」(御書 二四八㌻)

と仰せられています。すなわち、高貴な蘭の香りのする部屋に入れば自ずと自分にもその香りが移り、また、単体では曲がって生長する蓬も麻と一緒に植えれば真っ直ぐ伸びます。

 これと同じように私たちの信心修行も、時に辛いことがあったり、また魔が心に入り込んで信心が停滞したとしても、善知識に接することで自然に感化され、誤った信心の姿勢を正していくことができます。

 反対に、人を不幸に陥れる悪知識との縁が深くなれば、信仰の退転に繋がってしまう場合があります。

 悪知識の恐ろしさについて大聖人は、『涅槃経疏』を引かれて次のように教示されています。

 「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧みにして愚癡の人の心を取って善心を破るといふ事なり。総じて涅槃経の心は、十悪・五逆の者よりも謗法・闡提のものをおそるべしと誡めたり」

(御書 二二四㌻)

 すなわち、悪知識とは「謗法・闡提のもの」と示される如く、仏の正法を誹謗して誤った教えを説く者です。言葉巧みに修行者の心の隙に入り込み、ついにはその人の善良な信心を破ってしまうために、十悪や五逆罪を犯す者よりも恐ろしい存在であると説かれているのです。

 浄蔵・浄眼の故事

 善知識の助けによって正法に帰依して成仏を成し遂げることができた例として、法華経『妙荘厳王品』(法華経五八三㌻)には、妙荘厳王とその息子である浄蔵・浄眼という二人の故事が説かれています。

 父・妙荘厳王は始め外道の教えにとらわれていました。また二人の王子は、菩薩行を修して種々の三昧に通達していましたが、時に雲雷音宿王華智仏による法華経の説法を聴聞し、さらに母・浄徳夫人からの言いつけもあり、父王を正法へと導くことを決意して、種々の神通力を現じました。それを見た父王は大いに歓喜して、ついには娑羅樹王仏という仏の記別が与えられました。

 経文には、

 「此の二子は、是れ我が善知識なり。(中略)善知識は、能く仏事を作し、示教利喜して、阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ。

 大王当に知るべし。善知識は是れ大因縁なり。所謂化導して、仏を見ることを得、阿耨多羅三藐三菩提の心を発さしむ」(法華経 五九二㌻)

と、この二人の息子は父王にとっての善知識であると説かれており、善知識が仏道増進にとっての大きな助けであり、ついには成仏の境界へと導いてくれる存在であることが示されています。

 四種の善知識

 天台大師は『法華文句』(法華文句記会本下ー五七六㌻)に、先の『妙荘厳王品』の経文を釈して、具体的に四種類の善知識をしめしています。

①外護の善知識「能く仏事を作し」・・・修業者を援助し、仏法の弘通を援護する人

②教授の善知識=「示教利喜」・・・仏法の教えを説き示してくれる人

③同行の善知識=「化導して、仏を見ることを得」・・・共に修行に励んでくれる人

④実際実相の善知識=「菩提に入らしむ」・・・実際に成仏の功徳を与えてくれる大法(仏)

 これらを私たちの身近な状況に当てはめるならば、共に信仰に励む法華講員や、所属寺院の指導教師の存在こそ、同行・教授の善知識であるととらえることができます。

 また、実際実相の善知識については『御講聞書』に、

 「所詮実相の知識とは所詮南無妙法蓮華経是なり」(御書 一八三七㌻)

と教示されています。 すなわち、実際実相の知識とは法華経寿量品文底の南無妙法蓮華経を指します。

 御法主日如上人猊下は、

 「善知識とは一般的には、教えを説いて仏道へと導いてくれる善い友人・指導者のことを指しますが、ここで善知識と仰せられているのは、末法御出現の御本仏、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人様のことであります。つまり、御本仏大聖人様が末法に御出現あそばされて一切衆生の三因仏法を扣発し、凡夫即極の成仏を現ぜしめるが故であります。

 したがってまた、今時に約して申せば、人法一箇の大御本尊様を指すのであります」(大白法 八〇一号)

と御指南されており、最高の善知識たる本門戒壇の大御本尊への絶対的な信心によって、私たちは成仏を遂げることができるのです。

 悪知識を恐れず

 折伏を行じる

 私たちの仏道修行にとって、信心を破る悪知識の影響を恐れるのは大切なことです。ただし、その一方で、悪知識の存在がかえって信心の大きな糧となる場合もあります。

 大聖人は『種々御振舞御書』に、

 「今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめにあへり。(中略)相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。(中略) 釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり」

 (御書 一〇六二㌻)

と仰せられています。

 大聖人は法華経に予証される数々の難を忍ぶことにより、自らが末法出現の法華経の行者、末法の御本仏であると証明されました。

 裏を返せば大聖人は相模守(北条時宗)や平頼綱等の迫害者の存在によって法華経の行者たり得たのであり、「相模守殿こそ善知識よ」と仰せられるように仏法迫害の悪知識が、大聖人にとっては、かえって善知識となっていたのです。

 私たちも、悪知識に惑わされない堅固な信心を持つのはもちろんですが、「艱難汝を玉にす」との格言の如く、悪知識から受ける様々な逆境をも力に変えて、積極的にそれらの謗法に染まった知人・友人を折伏していくことが肝要です。



次回は、「九横の大難」についての予定です


正像末の三時

2022年07月21日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年9月16日(第989号)

  【仏教用語の解説】9

   正像末の三時

 正像末の三時とは、

釈尊の滅後に仏法がどのように伝わり弘まっていくかを三つの時代区分で示したもので、

釈尊滅後から千年を正法時代 、次の千年を像法時代、それ以降の万年を末法時代と言います。

 大聖人は、 

正像末の時代によって仏法の得益が異なることを『顕仏未来記』に、

「正法千年は教行証の三つ具に之を備ふ、像法千年には教行のみ有って証無し。

末法には教のみ有って行証なし等云々」(御書 六七六㌻)

と仰せです。

 正法時代には

教えも修行も正しく実践され、正しい証果・悟りを得ることができました。

 次の像法時代には、

正法時代に像(似)て形式的に教えと修行は存続していきましたが、

徐々に仏道の果報を得る者は失われていきました。

 最後の末法時代には教えのみが残って修行も悟りも無に帰し、

人心は荒廃し、争いの絶えない時代になるというのです。

 このように、

釈尊が入滅してから時代が経つにつれて徐々に仏法の得益は失われ、

末法には五濁にまみれた世の中になってしまうのです。

 五箇の五百歳

正像末の三時の時代区分については、経典によって諸説があるものの、

日蓮大聖人は、さらに釈尊滅後の時代を五百年ずつに区切る、

 大集経の「五箇の五百歳」を基本とされています。すなわち、

①解脱堅固・・・正法時代の前半五百年に当たる。

 釈尊の法が正しく伝えられ、智慧を得て悟りを得る者が多い時代です。

②禅定堅固・・・正法時代の後半五百年に当たる。衆生が大乗仏教を修し、 

 心を静めて三昧に入る禅定の修行が広く行われた時代。

③読誦多聞堅固・・・像法時代の前半五百年に当たる。

 経典を読誦することや、講説を聴聞する者が多い時代。

④多造塔寺堅固・・・像法時代の後半五百年に当たる。寺塔を建立することの多い時代。

⑤闘諍言訟白法隠没・・・釈尊滅後二千年を過ぎた後の万年に当たる。

 諍いが多く、釈尊の仏法である白法の力が隠没して

 その修行や功徳が失われる時代。

 大聖人は、御自身の在世の時には既に第五の白法隠没の時で、末法時代に入っていることを

示されています。

 三時の弘教

 釈尊は、正像末の三時を経るにつれて仏法の力が失われていくことを説かれました。

しかし大聖人は、その反面、付嘱〔✽1〕によって、

その時に適した仏法が弘まっていくことを『撰時抄』等に示されています。

まず、正法時代は迦葉・阿難といった釈尊の直弟子が小乗経を弘め、

後に竜樹菩薩や天親菩薩が権大乗経を弘通するとされます。

正法時代に仏法を弘めた迦葉・阿難・竜樹・天親といった人は、

釈尊の仏法を口伝付嘱によって相続した人で付法蔵の人師と言われています。

 次の像法時代は

中国の南岳大師や天台大師、日本の伝教大師が法華経迹門を弘通し、

理の一念三千によって衆生を救う時代とされます。

 大聖人は『観心本尊抄』に、

 「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現し」

  (御書 六六〇㌻)

と仰せであり、

南岳大師の内証は観音菩薩、天台大師・伝教大師の内証は薬王菩薩であると仰せです。

これらの人師は、釈尊から像法時代に法華経を弘めるよう付嘱を受けた方々なのです。

 実際に、天台大師や伝教大師は、

当時に弘まっていた間違った宗派を破折し、正法である法華経を弘通されました。

 次の末法時代の万年は、

極度に人心が荒廃し、釈尊の仏法は去年の暦の如く無益となり、

衆生を救済することができなくなってしまう時代です。

 釈尊は、末法の衆生を救済するため、

法華経の会座に上行菩薩を上首とする六万恒河沙という無数の地涌の菩薩を召し出だして、

結要付嘱という特別な付嘱を授けました。

 この付嘱は、釈尊の仏法の一切を束ね、妙法蓮華経の要法を結んで付嘱するもので、

これによって一切の仏法は、釈尊の所有から地涌上行菩薩の所有へと移るのです。

この地涌の菩薩について、法華経の『神力品第二十一』には、

「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」

 (法華経 五一六㌻)

と、暗闇のような濁悪の末法の世を、日月のように明るく照らし出し、

人々を正しい仏道に導くと示されています。

 また、『涌出品第十五』には、

 「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経 四二五㌻)

と、

蓮華が汚泥の中にあって浄らかに咲くように、濁世に染まらずに妙法を弘めるともあります。

 日蓮大聖人は、自らが末法出現の上行菩薩であるという深い御自覚のもと、

自らを日月と蓮華になぞらえて「日蓮」と自称されたのです。

 さらに『百六箇抄』には、

 「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」 (御書 一六八五㌻)

と仰せられ、

地涌上行菩薩は、一応は釈尊の弟子ですが、本当の御姿は久遠元初自受用身という、

釈尊をも含めた一切の仏の根源となる御本仏であられることを御教示されました。

 御本仏大聖人は、結要付嘱の法体である三大秘法の宗旨を建立され、

末法濁悪の民衆を利益するための大白法を弘通されたのです。

 末法は大白法が

 広宣流布する時

 末法は釈尊の仏法の得益が失われてしまう反面、

法華経『薬王菩薩本事品第二十三』には、

     「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」

  (法華経 五三九㌻)

と、法華経が広宣流布する時代であるとも記されています。

この法華経こそ、

外用は上行菩薩の再誕、本地は元初自受用身の再誕である大聖人が弘められる

三大秘法の大白法なのです。

 大聖人は『報恩抄』に、

 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。

 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。 無間地獄の道をふさぎぬ。

 此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり」

  (御書 一〇三六㌻)

と仰せであり、大聖人の大慈大悲により、未来永劫に亘って、

大白法が一切衆生を抜苦与楽せしめることを御教示されています。

 私たちは日蓮正宗僧俗は、

大聖人の仏法のみが末法の一切衆生を救う教えであると深く自覚し、

折伏を実践してまいりましょう。




     〔✽1付嘱〕 師匠(仏)が弟子に教法を付与し、 弘法を嘱託すること。

           付とは物を与えること、嘱とは事を託すことをいう。





          次回は、「九横の大難」について予定です。

 

 

 

 


極楽往生

2022年07月17日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年7月16日(第985号)     

   【仏教用語の解説】8

    極 楽 往 生

― 念仏宗(浄土宗・浄土真宗等)の教義 ―

 

 「極楽往生」とは、念仏を称えて至心に阿弥陀仏の慈悲を請えば、

死後に阿弥陀仏が迎えに来て極楽世界に往生を遂げるという念仏宗の教義です。

 阿弥陀仏によれば、極楽は、私たちが暮らす娑婆世界から西方に向かい、

十万億の仏土を過ぎたところにあるとされる、阿弥陀仏は教主とする浄土で、

あらゆる苦悩が存在せず、ただ楽のみがある世界と言われています。

日蓮大聖人は、「極楽往生」について立宗の初期より厳しく破折されています。

往生成仏の根拠、阿弥陀の「四十八願」

阿弥陀仏が過去に法蔵比丘という名前で修行していたとき、

四十八の誓願を立てたことが無量寿経に説かれています。

 念仏宗では、

その四十八願の中の十八番目が念仏によって極楽往生できることの根拠であると説きます。

無量寿経には、

「設い我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して、

乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚をとらじ。ただ、五逆と誹謗正法とを除く」とあります。

つまり阿弥陀仏は、衆生が至心に極楽往生を願い、十回でも念仏をしたならば、

必ず極楽浄土に往生せさせる。

それができなければ自分は仏にはならないと誓願したといいます。

ただし、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)と誹謗正法の者を除く、

とあることに留意すべきです。

 日本における念仏信仰日本では、

比叡山が開かれて以来、天台宗の修行の一部で念仏が行われ、

また天台僧・恵心が『往生要集』を著してから、

念仏による極楽往生を願う人が多くなっていきました。

 大聖人が出家された清澄寺(当時天台宗)でも念仏が盛んで、

『妙法比丘尼御返事』 には、

「皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、

 いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願をおこす」

 (御書 一二五八㌻)

と、

大聖人は念仏を唱える人々が苦しむ現実を目の当たりになされ、深い疑いを起こし、

正法を求めるべく願を立てたと仰せられています。

法然の専修念仏

親鸞の悪人正機

法然はもともと天台宗の僧侶でしたが、 『選択本願念仏集』(選択集)を著し、

浄土三部経(阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経)を除く、

一切の諸仏・諸経を「捨・閉・閣・抛」 (捨てよ・閉じよ・閣け・抛て)せよと説き、

称名念仏以外を行ってはならないと、専修念仏を説きました。

法然が専修念仏を主張する根拠は、曇鸞・道綽・善導といった、

中国浄土教の人師の釈にあります。

 すなわち、

善導の『往生礼讃偈』には、念仏のみを修する者は、

「十即十生、百即百生」(十人が十人、百人が百人極楽往生を遂げる)、

それ以外の教えに依るならば 「千中無一」(千人に一人も極楽往生できない)

と説かれています。

法然はこうした釈などを根拠に、専修念仏を主張するのです。

専修念仏について大聖人は、 「四十八願の中に、第十八願に云はく

『施ひ我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く』云々。

 たとひ弥陀の本願実にして往生すべくとも、

 正法を誹謗せむ人々は弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか。

 又法華経の二の巻には 『若し人信ぜざれば其の人命終して阿鼻獄に入らん』云々。

 念仏宗に詮する導・然の両人は、経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給ふべしや」

 (御書 一一二八㌻)

と示されています。

先に示したように、 念仏宗が極楽往生の根拠とする阿弥陀仏の四十八願の中に、

五逆罪と誹謗正法の者は往生できないと説かれ、

また法華経に、法華経を誹謗する者は阿鼻地獄に堕ちるとあります。

こうした仏説に従えば、専修念仏を説き、

法華経を含む諸経を 「千中無一」、「捨閉閣抛」などと

誹謗する善導・法然らが阿鼻地獄に堕ちることは必定であり、 それに従う者も同じです。

 仏説による大聖人の御教示と、善導ら人師の誤った解釈による法然の専修念仏、

どちらが正しいかは言うまでもありません。

 また、法然の弟子で浄土真宗の祖とされる親鸞は、

法然の専修念仏を発展させ、「悪人正機」を説きました。

親鸞の教えを記した『歎異抄』には、

 「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」とあり、

善人でさえも往生できるのであるから、悪人が往生することは、

むしろ当然であると説いたのです。

 これは、善業を修して成仏を願う善人は、阿弥陀仏に頼る気持ちが薄く救われにくいが、

悪人こそが阿弥陀仏の救済の正機と知り、自らが悪人たることを自覚し、

専ら阿弥陀仏の救済に頼ろうとする他力本願の人ほど救われるのであるというものです。

 親鸞のこうした教えは、仏法の因果の道理を完全に無視しています。

 このような考え方は、当然ながら悪を増長するもので、親鸞の門下には当初から

「本願誇り」と言われる積極的に悪事を行う一類がいたと言われています。

 親鸞の悪人正機は、明らかに仏説に背くものです。

 念仏に利益なし

 念仏の教えは、

死後に往生できると説くもので、現世・今生のうちには何らの利益も説かれていません。

 その証拠に、中国浄土教の祖である善導は、阿弥陀仏の来迎を待ちきれず、

寺前の柳の木に首をくくり、西方に向かって念仏を称えて飛び降り自殺を図りました。

しかし、柳の枝が折れてすぐには死にきれず、七日七晩悶絶し、

うめき苦しんで絶命(悶絶躄地)したと言われています

 (念仏無間地獄抄・御書 四一㌻)

 さらに法然は、善導が柳の木から飛び降り自殺したことを

『善導十徳』の七番目に挙げて賛嘆しています。

 このように念仏宗の極楽往生という教えは、現世に生きる者が、

念仏を称えて死後に極楽往生を願うだけの、非常に退廃した教えなのです。 

 真実の仏法を死後に極楽往生を願う念仏の教えは、飢饉疫病に苦しみ、

生きる望みを失った鎌倉の庶民に爆発的に広まっていきました。

 しかし、実教である法華経には、阿弥陀仏教の教えが方便であり、

「未顕真実」(法華経 二三㌻)の教えであると説かれると共に 、の娑婆世界こそが、

仏が常駐する仏国土であると明かされています。

 大聖人は、「立正安国」「娑婆即寂光」の原理を示して、

折伏弘通すべきことを教示されています。

 私たちは、間違いに気づかず、念仏に執している人たちに、

法華経に説かれた真実の仏法、その根幹である大聖人の本因下種の仏法を教え、

折伏していかなければならないのです。

 

 

 



      次回は、「正像末の三時」についての予定です。

 

 

 

 

 

 


娑婆即寂光

2022年07月13日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年6月16日(第983号)

   【仏教用語の解説】7

      娑婆即寂光

 娑婆即寂光とは、私たちが住む苦悩に満ちたこの娑婆世界が、

実は仏の住まわれる常寂光土であることを示す言葉です。

 娑婆世界

 娑婆とは、梵語「サハー」の音写で「忍」や「堪忍」を意味します。

この世界の衆生には様々な煩悩があり、

悪業を積んでいて苦しみから逃れることができないために、常に堪え忍ばなければならず、

また諸菩薩が 衆生を救済するため、苦難を堪え忍んで教化するので、娑婆世界と言います。

 四種の浄土(四土)

 天台大師は浄土に四種(四土)あることを説いています。

一、 梵聖同居土。凡夫と声聞・縁覚などの聖者が共に住する国土。

  これに同居穢土と同居浄土があり、不浄充満の娑婆世界は同居穢土となります。

二、方便有余土。見惑・思惑といった煩悩を断じた声聞・縁覚が居住する国土。

三、実報夢障礙土。見惑・思惑・塵沙惑を断じた菩薩が居住する国土。

四、常寂光土。永遠の悟りを得て、法身・般若・解脱の三徳を具えた諸仏如来が居住する国土。

 『普賢経』に、

 「釈迦尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる。その仏の住処を常寂光と名づく」

  (法華経 六四二ページ)

とあり、法華経の信意を説く釈尊の本地は自受用身であり、

その住処は常寂光土であると説かれています。

 娑婆世界こそ

 常住の浄土

 釈尊は『寿量品』において、久遠五百塵点劫の本地を開顕した後、自らの住処について、

 「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」 (法華経 四三一㌻)

と、自らは久遠已来常に娑婆世界にあって衆生を教化してきたと説かれました。

穢土〔✽1〕と思われていた娑婆世界が、

実は仏の常住する寂光土であることが明かされたのです。

 四土の別が生じた理由について

天台大師が、

  「諸土の別異は、像の如く飯の如し。業力に隔てられて感見不同なり」

   (法華玄義釈籤会本 下ー 二三二㌻)

と、鏡や器が同じであっても、鏡に映る像や器の上の飯が異なれば

全く異なった見え方をするのと同じように、衆生の境界が違えば、    

その業と果報とによって国土の見え方が異なり、四土の差別を生じる、と示しました。

 大聖人は『観心本尊抄』に、

 「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。

 仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり。

 此即ち己心の三千具足、三種の世間なり」(御書 六五四㌻) 

と説かれ、娑婆世界とは、災難を離れた常住不滅の浄土であり、仏も衆生も共々に、

三世永遠の生命を得て常住する国土であることを仰せです。

すなわち、一念三千が娑婆世界を寂光土とするための原理であり、

衆生の命が仏界に至れば、自ずとその国土が寂光土になるということなのです。

 一心欲見仏

 不自惜身命

 『寿量品』の自我偈(法華経 四四一㌻)には、

寂光土について、

種々の珍宝や宝樹により莊嚴された安穏なる国土で、天人が天鼓を打ち鳴らし、

曼荼羅華を降らし、衆生が遊楽している所であると説かれています。

 そしてさらに、そのような寂光土に、 いつでも行くことができると説かれています。 

すなわち、

 「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 

 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」 (法華経 四三九㌻)

と、衆生の心が素直で柔軟になり、身命を惜しまず仏を渇仰恋慕するならば、

その時直ちに霊山浄土〔✽2〕 が現われ、

そこで常住説法されている仏に会うことができると説かれているのです。

 大聖人の住処

 即寂光土

 大聖人は『四条金吾殿御消息』

に、

「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。

 娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、

 片瀬の中には竜の口に、日蓮が命をとどめをく事は、

 法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(御書 四七八㌻)

と仰せられ、

法華経のために頸を切られようとした竜の口こそ、

大聖人自らが法華経のために命を捧げた場所であり、寂光土であると仰せです。

すなわち大聖人は「一心欲見仏 不自惜身命」 の振る舞いによって

自らを末法出現の御本仏と発迹顕本され、

この娑婆世界が寂光土であるという実義を示されたのです。

 また『南条殿御返事』には、

 「教主釈尊の一大事の秘宝を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。

 (中略)かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」

  (御書 一五六九㌻)

と、 一大事の秘法たる大御本尊を胸に収める自らの住処が霊山浄土であるとも仰せです。

つまり、大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊おわしますところこそが寂光土であり、

霊山浄土なのです。

 私たちの住処を

 寂光土へ

 私たち日蓮正宗の僧俗は、

総本山大石寺を大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊おわします寂光土と拝し、

折々に登山参詣することが肝要です。

 また『御義口伝』に、

 「霊鷲山とは寂光土なり。(中略)

霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処を説くなり云々」

(御書 一七七〇㌻)

との御指南から、日蓮正宗の寺院や信徒宅には御法主上人猊下が御書写された御本尊が在し、

その御本尊に対する信行が、直ちに本門戒壇の大御本尊に通ずるところから、

その道場が即寂光土となるのです。

 さらに、私たちが大聖人の御金言と御法主上人猊下の御指南を体し、

身命を惜しまず折伏弘通に励むところ、やはり寂光土であるということができます。

 本宗僧俗が広宣流布をめざして精進していくところに、娑婆即寂光の意義が成就するのです。

       

       

    〔✽1〕穢土 浄土の対義語。不浄なるものが充満した穢れた国土。

         迷い苦しみから抜けられない衆生が住む。

         〔✽2〕霊山浄土 霊山とは、釈尊が法華経を説かれたインドの霊鷲山を指すが、

           特に『寿量品』の会座として御本仏が常住して説法される荘厳された浄土を、

              仏国土、寂光土とされることから霊山浄土という。

        

 

        次回は、「極楽住生」について予定です。  

 

 

 


謗法厳誡

2022年07月04日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年4月16日(第979号)

  【仏教用語の解説】6

   謗 法 厳 誡 

   「謗法厳誡」とは、

謗法を厳しく誡めるとの意味で、古来、本宗の宗是として堅く持ち続けられてきました。

 謗法とは

 謗法とは誹謗正法の略で、正法に違背し謗ることです。

一般的には大乗経に対する誹謗を言いますが、法華経『譬喩品』には、

 「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切 世間の仏種を断ぜん(中略)

     若しは仏の在世 若しは滅度の後に 其れ斯くの如き経典を誹謗すること有らん

  (中略)其の人命終して 阿鼻獄に入らん」(法華経 一七五㌻)

とあり、 「此の経」、すなわち

仏の真実の教えである法華経を誹謗することが、地獄に堕ちる謗法であると説かれています。

 さらに日蓮大聖人は『法華初心成仏抄』に、

 「末法当時は久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給ふべき

 法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり」

  (御書 一三一二㌻)

と御教示されています。

 つまり、末法においては、

大聖人が弘通される法華経の肝心たる南無妙法蓮華経のみが衆生を救済する正法となるため、

これ以外のすべての信仰や、大聖人の仏法を信じないこと自体が謗法に当たります。

 この大聖人の立てられた正法の筋道を、

ただ一人正しく御承継された方こそ第二祖日興上人です。

本宗における謗法厳誡の宗是は、

取りも直さず、日興上人の厳格なる御振る舞いに由来しています。

 すなわち、日興上人の申状には、「爾前迹門の謗法を対治し」 (日蓮正宗聖典 五六八㌻)

爾前経や法華経迹門に依って立つ宗旨は皆、謗法であり対治すべきと断じられ、

そのような法華経の本門と迹門との立て分けに迷う、

五老僧〔✽1〕らの邪義を厳しく破折されました。

 破邪顕正

 大聖人は『立正安国論』を著されて、国家の安寧のためには、

そこに暮らす人々が正法を受持しなければならないと説かれました。

この『立正安国論』の「立正」の二文字について、総本山第二十六世日寛上人は、

「破邪顕正」の意義を含むと説かれています(立正安国論愚記・御書文段四㌻)。

 正しく『安国論』本文の、

 「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書 二四一㌻)

との御金言の通り、

正法を立てるためには、間違った教え、すなわち謗法を破折することが不可欠であり、

謗法の破折なくして正法が立つことはないのです。

 また『善無畏三蔵抄』には、

 「設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。(中略)

 日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし、

 禅宗・真言宗も又謬りの宗なりなんど申し候は、

 強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし」(御書 四四五㌻)

と御教示されています。

謗法を見過ごし、当たり障りなく、優しく人に接することは「軟語」、

優しい言葉のようですが、実は人を悪道に堕とす非情の言葉となります。

これに対し、謗法を破折するのは「強言」、強く厳しい言葉のようですが、

人を成仏へと導く真実の優しい言葉となるのです。

 私たちは謗法を容認せず、

常に慈念をもって折伏を行じていくことを心がけなければなりません。

 謗法与同を恐れる

 『秋元御書』には、

 「法華経の敵を見て、責め罵り国主にも申さず、人を恐れて黙止するならば、

 必ず無間大城に堕つべし。譬へば我は謀叛を発こさねども、

 謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し」(御書 一四五三㌻)

と仰せられています。

 これは、たとえ自身の信仰においては謗法を犯していなくとも、

周囲の人々の謗法を認知していながらこれを放置するならば、共犯の罪に当たり、

堕地獄の原因となるということです。このような周囲の謗法を看過する共犯の振る舞いを、

大聖人は「与同罪」と仰せられ、固く誡められているのです。

 また、日興上人の『日興遺誡置文』には、

 「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」(御書 一八八五㌻)

と、与同罪を恐れるが故に、

謗法の寺社の主催する法要・祭礼には参加することのないよう誡められています。

 血脈違背は大謗法

 日興上人は『佐渡国法華講衆御返事』に、「案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、

これは聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これが大謗法にて候なり」 (歴代法主全書)

と御指南され、大聖人の後継者として血脈を一身に受け継がれる日興上人に背き,

大聖人の直弟子であると主張する輩に対しては、大謗法であると厳しく咎められています。

 総本山第九世日有上人も 「その筋目を違はば即身成仏と云う義は有るべからざるなり

(中略)血脈に違うは大不信謗法なり、堕地獄なり」

と血脈の筋目に違うことは大謗法であり、堕地獄であると厳しく御指南されています。

 つまり、たとえ大聖人の仏法を信じ、御本尊を拝むという姿があったとしても、

血脈付法の御法主上人に背くことがあったならば、

それは大謗法であると知らなければなりません。

 謗法厳戒

 大聖人は『曽谷殿御返事』に、

 「何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。 

 うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(御書 一〇四〇㌻)

と御教示されています。この「漆千杯に蟹の足一つ」とは、

千杯ものたくさんの漆があったとしても、そこに蟹の足が一つでも入れば、

すべての漆が使い物にならなくなってしまうことを言われたものです。

 これと同じように、たとえどんなに法華経を信じる気持ちがあっても、

たった一つの謗法があれば功徳善根は無に帰し、地獄に堕ちてしまうのです。

 私たちは、御法主上人猊下の御指南に随順し、自ら謗法を犯さないことはもちろん、

他の謗法を見たならば正義を示して導いていくことが肝要です。

その自行化他の振る舞いこそが成仏への道となることを知り、

なお一層の精進をしていきましょう。





   〔✽1〕五老僧 

   日蓮大聖人が御入滅に先立って定められた六人の本弟子(六老僧)のうち、

   日興上人様を除いた五人(日昭・日朗・日向・日頂・日持)のこと。

   日興上人は、日蓮大聖人から唯授一人の血脈相承を受けられて第二祖となられたが、

   五老僧は、大聖人の正義から離れ日興上人に違背していった。

 

 

                     次回は、「娑婆即寂光」についての予定です。

 

 

             

 

 


四悉檀

2022年07月01日 | 仏教用語の解説(一)

 「大白法」平成30年3月16日(第977号)

  【仏教用語の解説】5

    四 悉 檀

 四悉檀とは

四悉檀とは、龍樹菩薩が

『大智度論』において仏の教法(説法)を四つに分けて説明したものです。

天台大師の『法華玄義』には、悉檀の言葉の意味について、

「悉の言は遍なり、檀は翻じて施と為す。

仏、四法を以て遍く衆生に施す。故に悉檀と言うなり」

(法華玄義釈籖会本 上 ー 一一九㌻)

と説明しています。

 すなわち、

「悉」 とは遍くすべてに及ぶの意、 「檀」とは施すの意であり、

 悉檀とは

仏がすべての衆生に対して利益を施すこと、またその方法を意味します。

 仏は衆生を導くために方便を含むたくさんの教えを説かれましたが、

それは、仏が四悉檀を用いて法を説いたからです。

四悉檀とは世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀の四つです。

 一、世界悉檀(楽欲悉檀)

  世間の衆生の望んで欲するところ、

  人々の心に従って法を説いて歓喜させ、利益を与えて導く方法

二、為人悉檀(生善悉檀)

  各各為人悉檀とも言い、仏がそれぞれの衆生の能力・性質などに適した法を説き、

  衆生の善心・善根を増長、または生じさせて導く方法

三、対治悉檀(断悪悉檀)

  間違った考えを改めさせて、煩悩や悪業に応じた方法によって悪を断じて対治すること。

  衆生の三毒〔✽1〕を対治させるために、貪欲な者には不浄観、瞋恚の者には慈悲の心、

  愚痴の者には因縁等を説いて観じさせること

四、第一義悉檀(入理悉檀)

  前の三つが段階的な化導方法であるのに対して、

  第一義である真実に法を直ちに説いて、衆生に真理を教え悟らせること

  世界・為人・対治悉檀の三つは、

  第一義悉檀へと導くための段階的な方便の化導であり、厳密には真実とは言えません。

  『大智度論』には、

  仏が種々の法を説くのは、第一義悉檀を説くためであると示されており、 

  最後の第一義悉檀が最も重要になります。

 摂折二門

 摂折二門とは摂受門と折伏門のことです。

摂受は摂引容受の義で、それぞれの機根に合わせた教えを説き、

相手の過ちを直ちに破折せずに、次第に誤りを破して真実に誘引する方法です。

折伏は破折屈伏の義で、 邪義を許さず、直ちに悪法を破折して正法に帰依 させることです。

四悉檀を摂折二門に配すると、

世界悉檀・為人悉檀の二つが摂受門、対治悉檀・第一義悉檀の二つが折伏門になります。

天台大師は『法華玄義』に、

「法華は折伏して権門の理を破す」(法華玄義釈籖会本 下 ー 五〇二㌻)

と説かれており、

法華経は唯一の真実の教えであるため、

法華経を説くことは必ず爾前権教を破折する折伏の化導となります。

しかし、正法・像法時代の衆生は、 過去世に妙法との下種結縁がある本已有善の衆生であり、

その場合には法華経文上以下の熟脱の教えによって段階的に導くという、

摂受を用いられました。

総本山第二十六世日寛上人は『末法相応抄』に、

「末代は本未有善の衆生にして是れ下種の時なり、

 故に世界・為人を廃して対治・第一義を立つ。 

 宜しく諸宗の邪義を破して五字の正道を開かしむべきが故に、

 末法に於ては摂受門を捨てて折伏門を用うべし」

  (六巻抄 一二八㌻)

と、

正像時代とは異なり、末法の衆生は過去世において

妙法の下種結縁がない本未有善の衆生ですから、邪義邪宗を許すことなく折伏を行じ、

本因下種の妙法を下種すべき時であると説かれています。

 時機に適った折伏行

 末法において、

正法弘通のためには、 折伏を行じて邪義邪宗を破折しなければなりません。

しかし、折伏相手に対しては、ただやみくもに破折するだけでは

正法の道理に目覚めさせることはできません。

どんな事情があるにせよ、きちんとした仏法の道理を説いて聞かせ、

最終的には謗法を廃して、真実の三大秘法の仏法に導き入れることが大切です。 

こうした点から日蓮大聖人は『太田左衛門尉御返事』に、 

「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、

 且く世間普通の義を用ゆべきか」(御書 一二二二㌻)

とも仰せられています。

つまり

折伏を大前提としながら、その上に四悉檀にも心をかけ、

その時々に応じた弘教の方法を用いて行く必要があります。

末法の日蓮大聖人の仏法の第一義悉檀とは、 三大秘法の受持を説き示すことです。

大聖人が「四悉檀を心に懸け」と言われる意味は、その第一義悉檀に入らしめるために、

世界・為人・対治悉檀を用いるということです。

 世界悉檀とは、

世間に迎合することではなく、第一義たる三大秘法の受持を示しながら、

世の人々が望み、喜ぶところにしたがって利益を与えることです。

 為人悉檀は本来、 摂受門に配当される弘教方式ですが、

折伏の際に用いることもあるでしょう。

また、

折伏相手にこれまでの信仰を改めさせるのは容易なことではありません。

その場合、

三大秘法の説示を前提としつつ、為人悉檀を用いて相手の考え方を見極め、

徐々に正法を説くことが必要な場合もあるでしょう。

 対治悉檀は、まさに邪義邪宗の謗法を直ちに破折して正法へと導くことです。

世間の人々に三大秘法を受持せしめるために、

世界・為人・対治の三悉檀を適した形で用いていかなければなりません。

我々は、時に適した折伏行をもって、 正法広布に精進することが肝要です。

本門の本尊に対し信心をもって題目を唱え、そしてより多くの人への折伏に励み、

広布に向かって邁進してまいりましょう。




   〔✽1〕 三毒 貪瞋癡の三つの煩悩のこと。

       この三つは、

       衆生の善の心を最も害す根元の煩悩であることから、三毒と言う。

       三毒は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の境界を表している。

       つまり、

       貪欲は自分の欲するものに執着して貪る心で、餓鬼の生命を言う。

       瞋恚は自分の心に違うものを瞋る心で、瞋りは他人に苦を与えるので、

       それが業因にとなって来世には自らが地獄の報いを受ける。

       愚痴とは、道理に迷う愚かな心で、本能的に動く畜生の生命を言う。





 

 

 

          次回は「娑婆即寂光」についての予定です。

 

 

 

 

 


追善供養

2022年06月30日 | 仏教用語の解説(一)

 「大白法」平成30年2月16日(第975)

  【仏教用語の解説】4

    追 善 供 養

         追善供養とは

 追善供養とは、故人の冥福を祈るために追って善行を修することです。

日蓮正宗では、

正しい御本尊を中心として、法要・塔婆の建立・墓参などを行い、

その功徳をもって故人の抜苦与楽・仏道増進に資するのです。

 回向の道理 

 回向とは

自分自身の積んだ功徳善根を他に廻らせ、向かわしめることです。

この回向の道理により、

願主の積んだ善根が亡き精霊に向かい、利益することになります。

 この回向の大事を示す例に、

目連尊者の故事があり、『仏説盂蘭盆経』に詳しく説かれています。

 目蓮は釈尊の弟子の中でも神通第一と言われた弟子です。

ある時目連が神通力をもって亡き母の姿を見たところ、

母は慳貪の罪により餓鬼道に堕ち、骨と皮だけになっていました。

目蓮は神通力によって母に食べ物を送りますが、

母が食べ物を口に入れようとするとすべて炎となり、

かえって母を苦しめるばかりで、どうすることもできませんでした。

 つまり、神通力では母の宿業を浄化することができなかったのです。

 目連が釈尊に教えを請うたところ、

夏安居〔✽1〕が明ける七月十五日に十方の聖僧を招いて供養すれば、

その功徳の一端が母に及ぶであろうと指南され、

目連がその通りにしたところ、母は一劫の間、餓鬼道の苦を脱れたということです 。

 この話は、盂蘭盆会の起源として一般的に知られています。

 神通第一の目連でさえも、自らの神通力ではなく、

聖僧に供養した功徳によって母の苦を除くことができたのです。

 

 追善供養の功徳

 『新池殿御消息』には、

子供を亡くした新池殿が追善供養のため、

日蓮大聖人にお米を御供養したことが記されています。

 それに対し大聖人は、 

 「竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候。

 小善なれども法華経に供養しまいらせ給ひぬれば功徳此くの如し。     

 (中略)法華経の行者を供養せん功徳は、

 無量無辺の仏を供養し進らする功徳にも勝れて候なり」

  (御書一三六三㌻)

とお仰せられ、

一滴の水を手に入れた竜がたくさんの雨を降らせるようにたとえわずかな志であっても、

法華経に対する供養は無量の功徳となって亡き子に及び、

さらに末法にあって法華経の行者たる日蓮大聖人を供養する功徳は

あらゆる仏を供養する功徳に勝れると教示されています。

 逆に、

 「阿弥陀仏や大日如来、達磨など、

 謗法に対する供養は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちる原因である(趣意)」

 (御書一三六四㌻)

とも仰せです。

 また『御義口伝』には、

 「今日蓮等の類 聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、

 南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ

 (中略)法華不信の人は堕在無間なれども、

 題目の光を以て孝子法華の行者として訪はんに豈此の義に替はるべきか」

 (御書一七二四㌻)

とあり、提婆達多が仏の光明に照らされて成仏したように、たとえ

無間地獄に堕ち苦悩に喘ぐ人がいたとしても、成仏することができるのです。

したがって孝子が正法を受持し追善供養すれば、

必ず成仏できると御指南されています。

 塔婆建立の意義

本宗では追善供養の際、塔婆を建立してその功徳を故人に回向します。

 塔婆は詳しくは卒塔婆と言い、

釈尊をはじめとする諸仏の入滅後にその舎利(遺骨)を安置して、

その仏徳を供養するために建てられた仏塔(ストゥーパ)に由来します。

 塔婆の形は五輪(地水火風空)を象っていますが、

本宗においては妙法蓮華経の五字を意味しています。

 法華経『法師品第十』には、

 「舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。

 此の中には、已に如来の全身有す」(法華経 三二六㌻)

と、仏の滅後には、仏舎利を安置し供養するのではなく、

法華経に如来の全身が具わっているのであるから、

法華経に対して塔を建てて供養するようにと記されています。 

 大聖人は塔婆供養の意義について、

『草木成仏口決』に、

 「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。(中略)

 我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、

 死の成仏にして草木成仏なり」(御書五二二㌻)

と教示されています。

すなわち、

五輪の塔婆に、妙法五字と故人の戒名を認めて開眼供養することにより、

亡くなった人の霊を仏身に表わし、その功徳が故人に回向されるのです。

 追善供養の実践

 追善供養の実践には、 先に述べた塔婆供養が最善の方法です。

 塔婆供養は、個人の命日忌や回忌法要の他、お盆、お彼岸、

毎月の御経日などの機会に寺院に申し込んで建てることができます。

 さらに、墓地がある場合は、

墓地に塔婆を持参して読経・唱題を行うこともできます。

その際の塔婆の建て方について、

総本山第九世日有上人は『化儀抄』に、

 「一、卒塔婆を立つる時は大塔中にて十如是自我偈を読みて、

 さて彼の仏を立つる所にて、又十如是自我偈を読むべし」

と御指南されています。

総本山及び各寺院の墓地においては、

まず中央の三師塔にお詣りしてから、各自の墓前に向かいます。

 また、本宗では古来「常盆・常彼岸」と言われ、

朝夕の勤行などでも毎日、先祖を供養することが重要であるとされています。

さらに追善供養の本義は、正しい御本尊に対する、

願主の信力・行力をもって故人の仏道増進に資することにあるのですから、

追善供養のためには、

まず私たち自身が、日々信心を練磨していくことが大切です。

 成仏の根源たる題目

 塔婆に認められる題目及び本宗僧俗の唱える題目の根源の法体は、

一大秘法の本門の本尊、

すなわち総本山大石寺の奉安堂に在す本門戒壇の大御本尊です。

 したがって、

塔婆に題目が認められていたとしても、日蓮大聖人の意に背き、

大御本尊を信仰の対象としない他宗他派によって営まれる追善供養には、

一分の功徳もありません。

そればかりか、かえって故人を苦しめる結果となります。

 追善供養の実践は、故人はもちろんのこと、

願主自身にとっても大きな功徳を積む機会となることを忘れずに、

日々精進してまいりましょう。

 

 

 

   〔✽1〕 夏安居(げあんご) 安居とは、

       外出しないで一定の住居に留まること。

       インドで夏の

       雨期に当たる三カ月間(四月十六日から七月十五日)、

       僧侶は遊行を止めて一処に集まり、

       遊行中の罪の懺悔や経典の講説が行われた。



 

        次回は、「四悉檀」についての予定です。

 

 


仏性

2022年06月29日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年1月16日(第973号)

  【仏教用語の解説】3

   仏  性 

 仏性とは、衆生に具わる仏としての性分や、成仏の可能性を意味します。

 仏性と同義の言葉として如来蔵や仏種という言葉もあります。

如来蔵とは如来を蔵するの意で成仏の因のこと、仏種とは仏になる種という意味です。

 煩悩に覆われた仏性

 釈尊は法華経において、

一切衆生は仏の子供であり父の釈尊と同じように仏としての性分を具え、

成仏できることを明かされました。

また涅槃経では、

 「一切の衆生に悉く仏性あり」

と、すべての衆生が仏性という成仏の因、成仏の種を持っていることを説かれました。

しかし一方で、

 「衆生の仏性も、亦復是の如し。常に一切の煩悩に覆われて見ることを得べからず

 (中略)善男子、是の如く菩薩、位十地〔✽1〕に階るだも、尚了了に仏性を知見せず。

 何に況んや声聞・縁覚の人にして能く見ることを得んや」

とあります。つまり、衆生に本来具わっているはずの仏性は、

煩悩に覆われて見ることができず、別教の十地という高い境界の菩薩ですら知見する

ことができないのであるから、声聞・縁覚の二乗も当然見ることはできないのであると、

仏性を顕わして成仏することの難しいことを示されています。

 敗 種

 一般的に小乗仏教では、衆生自らが仏になることを説かず、

阿羅漢果〔✽2〕を得て灰身滅智〔✽3〕し、身心を無に帰するとされますので、

仏性という概念がありません。

 一方、大乗仏教では仏性という概念を示しますが、

法相宗などでは機根によって成仏できるかできないかはあらかじめ決まっており、

絶対にそれを変えることはできないと主張します。(五性各別)

 これは、法華経以前の爾前経には二乗や女人の成仏を説かないため、

爾前経によって宗旨を立てる宗派では、自ずと成仏できない機根があるとされるのです。

 従って、爾前経における二乗の仏性・仏種は、

絶対に成仏の芽が出ない焼いた種や腐った種の意で、敗種と言われます。

 法華経における仏性

 『法華経方便品』には、

 「若し法を聞くこと有らん者は 一(ひと)りとして成仏せずということ無けん」

 (法華経 一一八㌻)

と説かれ、

法華経を信受するすべての衆生は、法華経の功徳によって必ず成仏できると説かれました。

 そして、爾前経では決して成仏することができないとされてきた二乗、女人、また

五逆罪を犯して必ず無限地獄に堕ちるとされた一闡提の提婆達多でさえも成仏できる

説かれました。

 本当の意味での仏性、一切衆生の成仏が法華経において明かされたことにより、

初めて十界互具・一念三千が確立されたのです。

  三因仏性

  天台大師は法華経の理のもとに、仏性を三つの側面から捉え三因仏性を説きました。 

 三因仏性とは、

①正因仏性(すべてのものに具わる一念三千の理)

②了因仏性(理を照らす智慧)

③縁因仏性(智慧を起こすための善業)

という三つです。

衆生は修行を積み、智慧によって仏性を開発していくことにより成仏するとしたのです。

 そして妙楽大師はさらに、

 「一草一木、一礫一塵、各々一仏性、各々一因果ありて、縁了を具足す」

と説き、草木や石ころ、塵一つまで、一念三千の諸法、

法界全体が正・了・縁の三因仏性を具えた仏の当体の一部であり、成仏することができると、

さらにその意義を徹底したのです。

 仏性を顕わすには

 天台大師が説いた三因仏性は智慧によって仏性を開発するという教えですが、

大聖人は「以信代慧」と説かれ、

末法には一分の智慧がなくても信によって行を起こすことで顕われると説かれます。

 そして末法における仏性を現実に顕わすための行とは 『法華初心成仏抄』に、

 「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、

 南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏と云ふなり。

 譬へば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。

 空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し。

 口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」

  (御書一三二〇㌻)

と、末法の御本仏日蓮大聖人が御図顕された御本尊に対して御題目を唱える時、

籠の中の鳥が、空飛ぶ鳥の鳴き声に誘われて外に出ようとするように、

我が命に具わる仏性が自ずと顕われるのであると説かれています。

 不軽の跡を紹継す

大聖人は『聖人知三世事』に、

 「我が弟子等之を存知せよ。日蓮は是法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」

 (御書 七四八㌻)

と示されています。

 不軽菩薩とは、 『法華経常不軽菩薩品第二十』に説かれている菩薩で、

一切衆生に尊い仏性が具わることを知り、 在家・出家を問わず、

すべての人を礼拝したという菩薩です。

 不軽菩薩が礼拝した人は、不軽菩薩を悪口罵詈し、杖や瓦石をもって迫害しました。

不軽菩薩はそれでも礼拝行を止めず、逆縁ではありましたが衆生を成仏に導こうとされました。

 末法の一切衆生の皆等しく仏性を具えています。 

しかし多くの人は間違った教えや思想によって苦悩に喘ぎ、仏性を顕わせずにいます。

 大聖人はそうした衆生を成仏させるために、

不軽菩薩と同じように順縁・逆縁を問わず、すべての衆生を折伏し導こうとされたのです。

 現在の宗門は、こうした大聖人の御心のままに、

御法主日如上人猊下御指南のもと、

平成三十三年・法華講員八十万人体制構築をめざして大前進をしています。

 私達は日蓮大聖人の教えを正しく受け継ぐ、真の仏子であるという自覚のもとに、

折伏・育成に精進してまいりましょう。

 



✽1 十地(の菩薩)別教では菩薩が仏になるために、五十二位の段階があるとされる。

   十地とは、四十一番目から五十番目の位を言い、

   見惑・思惑・塵沙惑といった無数の煩悩を断じて、

   さらに一分の無明惑を断じて円教の十住位に到った断無明の高位の菩薩。

✽2 阿羅漢果 小乗の最高位、見惑・思惑の煩悩を断じ尽した位。

✽3 灰身滅智 十界のうち、地獄界から天上界までの六道

        (地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天上)の衆生は死んでもなお六道を輪廻し、

        苦しみの境界を抜け出せないとされるが、

        声聞界・縁覚界の二乗の衆生は身心を無に帰して

        三界から解脱し輪廻の苦しみを離れることをもって最高の悟りとする。 

        身を灰にし、智を滅する境界なので灰身滅智と言う。

 

 

             次回は、「追善供養」についての予定です。

 

 

 

 


四苦八苦

2022年06月28日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成29年12月16日(第971号)

 【仏教用語の解説】2

  四 苦 八 苦 

 四苦八苦とは、私たちが生活していく上で避けて通ることのできない苦しみです。

 誰もが必ず大なり小なりいろいろな悩みや問題を抱えており、苦しみから離れた生活はないと言えます。

『法華経譬喩品第三』には、

 「三界は安きこと無し 猶家宅の如し 衆苦充満して 甚だ怖畏すべし 常に生老 病死の憂患有り 是の如き等の火 熾然として息まず」(法華経一六八㌻)

とあり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の衆生が業の因縁によって輪廻転生する欲界、色界、無色界の三界は、衆生の煩悩により苦悩が充満した世界であるとされています。その煩悩家を焼き尽くす炎の如きものであり、その中で暮らす衆生は安まることがないのです。

 釈尊は出家を決意する動悸となった一つに、四門出遊の逸話があります。釈迦族の王子であった釈尊は、迦毘羅衛城の東門から出ると老人に合い、南門から出ると病人に会い、西門から出ると死者に会いました。 王子は、生あるものは必ず老・病・死の苦しみから逃れることができないという無常を感じました。そして北門から出たところで一人の沙門(出家者)に会い、その清浄な姿を見て、出家の意思を固められたと言われています。

 四苦とは根本的な苦しみである生老病死の四つの苦しみ、八苦は四苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四つを加えたものです。

四苦八苦の内容は次の通りです。

一、生苦・ 生まれることの苦しみ

二、老苦・老いる苦しみ

三、病苦・病にかかる苦しみ

四、死苦・死ぬ苦しみ

五、愛別離苦・愛する者と別れる苦しみ

六、怨憎会苦・憎む者と会う苦しみ 

七、求不得苦・求める物を得ることができない苦しみ

八、五陰盛苦・五陰(衆生の色心を表わす 色・受・想・行・識)が盛んになることによって生じる苦しみ

 私たちが生活の上で感じる苦しみや悩みは、人によって異なりますが、およそこの四苦八苦に大別されます。

 苦悩の原因と解決法

 『大智度論』に、 

 「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く(中略)仏の大慈大悲は真実に最大なり」

とあるように、仏は苦悩の根本原因を悟り、衆生の苦悩を除くため、慈大悲をもって様々な教えを説かれました。

 苦悩の原因は、衆生の心に必ず存在する煩悩によります。 煩悩が生じることにより悪業を積み、そこから結果として苦を生じます。そしてまたその苦から煩悩が増長するという悪循環により、苦しみの境界から抜け出せなくなるのです。 

 それに対し仏は、苦の原因となる煩悩を除くためには善業を修し、よい果報を得ていかなければならないとして、因果の理法を示されました。

 また、衆生の生命は今生一生限りではなく、三世永遠であると示し、今生・後生によい果報を得るために何をなすべきか、 そのための方法を説かれたのです。

 しかし、釈尊の説かれた仏教は正法時代、像法時代〔✽1〕の本已有善〔✽2〕の衆生のための教えであり、末法の本未有善〔✽3〕の衆生はその教えに従っても苦しみがなくなることはありません。

 日蓮大聖人は『報恩抄』に、

  「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(御書一〇三六㌻)

と仰せられ、本未有善の衆生は、末法の御本仏である日蓮大聖人が唱え出だされた題目を唱えることにより、その功徳によって苦しみの境界から抜け出せることを示されています。

 唱題で苦を取り除こう

  『立正安国論』に、 

  「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(御書 二三四㌻)

とあるように、世間に目を向ければ、戦争や災害が絶え間なく起こり、また連日のように悲惨な事件や犯罪があり、不幸な出来事が起こり続けていると言えます。

 これらの原因は、衆生が己の煩悩に任せ、目先の利益や執着によって自分勝手に振る舞い、さらに我見を持って様々な宗教・思想に毒され謗法の悪業を積んでいるところにあります。

 人々が正法に背いて様々な悪法を崇めることにより、世の中が乱れ、国土が乱れ、そこに住む衆生は、 より苦しむことになるのです。 『一生成仏抄』に、

 「衆生の心けがるれば土もけがれ、 心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」 (御書 四六㌻)

と、衆生が迷い苦しむ国土は自ずと乱れ、正法を受持する清い心の衆生の国土は浄土となる。国土が浄土になるか、穢土になるかは、そこに暮らす衆生の心の善悪によるものであると教示されています。 

 また『四条金吾殿御返事』に、 

 「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(御書 九九一㌻) 

と示されています。

 私たちは生活していく上で、様々な苦しみと向き合わなければなりません。その際、しっかりと御本尊に題目を唱え、 苦楽を達観した 仏の境界に立ってこそ、苦しみや困難を乗り越えていくことができるのです。

 日蓮大聖人の仏法を知らない人々は、自分自身が本当に苦しみから抜け出し、幸せになるための方法を知りません。また国土に蔓延する苦しみから自身一人だけが逃れ、幸福になることなど絶対にできません。

 それは、自分自身の幸せを願うだけの信心は、大聖人様が仰せの仏道修行とはならないためです。

 日々の真剣な勤行・ 唱題に励み、慈悲の心をもって折伏と育成に精進し、自他共に幸福な人生を歩める仏国土を築いてまいりましょう。

 




✽1 正法時代、像法時代(末法時代)

釈尊は、自らの入滅後に仏法が衰えていく様相を、「正法時代」(釈尊滅後千年)、 「像法時代」 (その後の千年)、 「末法時代」(像法時代の後、万年)と三つの時代に分けた。 正法時代は釈尊の教えが正しく伝わる時代で、迦葉・阿難・龍樹・天親等の人師論師が小乗教や権大乗教を弘めた。像法時代は教えや修行の形のみが正法時代に像ており、天台大師・伝教大師等が法華経迹門の教えを弘めた。そして仏滅後二千年が過ぎて釈尊の仏法が効力をなくし、 人々の心が荒廃し争い合い、仏法を修行しない者が充満末法時代には、御本仏日蓮大聖人様が出現され、南無妙法蓮華経を弘められた。

✽2 本已有善 既に善根を有している機根を言い、前に仏法の種を植えられた正法・像法時代の衆生。 

✽3 本未有善 未だ善根を有さない機根で、仏となるべき種を持たない末法の衆生のこと。 

 

 

   次回は、「仏性」について予定です。

 

 

 

 

 


授戒

2022年06月27日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成29年11月16日(第969号)より転載

  【仏教用語の解説】1

    授 戒 

 古来より、仏教を受持する者は必ず何らかの戒を受け、持戒の誓いを立てました。それを、戒を受け誓いを立てる側からは受戒と言い、授ける側からは授戒と言います。

 授戒の場所を戒場と言いましたが、授戒の作法が形成される中で、結果を示す壇が作られたことから、戒壇と言うようになりました。

 なぜ授戒をするのか

 南山律宗の祖である中国の道宣は、戒法・戒体・戒行・戒相という戒の四科を説きました。

  「戒法」とは、仏が制定された戒の法、戒の内容。

  「戒体」とは、戒を受ける時、自然に命に具わる防非止悪の徳のある法体。

  「戒行」とは、戒を受けた者が戒の内容に従って持戒し、身口意の三業に実践修行すること。

  「戒相」とは、持戒の行者が威儀を成じ、徳が顕れる相。

 授戒の儀式は、この戒の四科のうち、行者の身に戒体という防非止悪の徳のある法体を宿し、持戒の誓いを深く命に刻むために行うのです。

 授戒の作法

 戒には小乗・大乗に様々な種類があり、授戒の儀式もまちまちです。

 日本における授戒の儀式は、南山律宗の鑑真が渡来し、東大寺に戒壇を築いて授戒を行ったことを始まりとし、その後、

下野薬師寺(栃木県)と筑紫観世音寺(福岡県)にも戒壇が築かれました。

 これらの戒壇は、基本的に僧侶に対して、小乗具足戒(比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒)を授戒するために築かれたものでした。

 具足戒の授戒の作法は、三師七証を基本とします。

 三師とは、戒を授ける直接の師である戒和尚、

戒壇で白四羯磨(戒和尚や受戒者の名前を読み上げ、三師七証の皆に授戒の賛否を三回問う)を行う羯磨阿闍梨、

授戒の威儀・作法を教える教授阿闍梨の三人のことで、七証とはそれを見届ける七人の証人です。

 伝教大師の大乗戒壇建立

 奈良時代以降、僧侶になるためには具足戒を受け、僧綱という組織に入ることが義務づけられました。

 比叡山の天台法華宗の僧侶も、小乗具足戒を受け、その後に比叡山に戻ることになっていました。

 これに対し伝教大師は、実大乗たる法華経の行者が小乗戒を受けることを不服として、大乗戒壇の建立を奏請(天皇に奏上して裁可を求めること)したのです。しかし、奈良の各宗の反対に遭い、伝教大師の在世には実現しませんでした。

 伝教大師の滅後七日目に勅許が下り、弟子の義真により、円頓大乗戒の授戒が行われるようになりました。

 その授戒の作法は、戒和尚として釈尊、羯磨阿闍梨として文殊師利菩薩、教授阿闍梨として弥勒菩薩、諸証として十方の諸仏、同学等侶として十方の菩薩を勧請し、在すことを念じ、そして現前の師を伝戒の師として戒を受けるのです。

 戒体の不同

 小乗の戒体は今生一生限りで失われることから尽形寿戒、また、一生を終えれば壊れて価値がなくなってしまうことから、

素焼きの粗末な器に譬えて瓦器戒とも言います。

 大乗戒の戒体は、金銀で出来た器のように、生まれ変わり、戒を破って形が損なわれたとしても、金銀の価値が残ることから金銀戒とも言われます。

 しかし大聖人は、像法以前の一切の諸戒を束ねて、

 「爾前迹門の諸戒は今一分の功徳なし」(御書一一一〇㌻)

と教示されています。

 末法においては、日蓮大聖人の下種仏法の意義に基づき下種本門戒を受戒し、実践しなければならないのです。

 下種本門戒とその戒体

大聖人は『教行証御書』に、

 「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為り。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれど破れず。是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つべし」(御書一一〇九㌻)

と説かれ、妙法の受持、三大秘法の受持に万行・万善・万戒の功徳を納めるので、その他の戒は不要であると説かれました(受持即持戒)。

 そしてその戒体は一得永不失の金剛宝器戒として一度受ければ破れることなく、必ず行者を仏果に導く功徳があるとされます。

 下種本門戒の授戒

 御授戒の儀式は、日蓮正宗寺院の御宝前にて行われます。そこで御本尊に具わる法即人の宗祖日蓮大聖人を戒師とし、末寺の住職を伝戒師として儀式が行われます。

 授戒文は、①法華本門の正法正師の正義の受持、②法華本門の三大秘法の受持、③法華本門の不妄語戒の受持を誓う内容となっています。

 この中の法華本門の不妄語戒とは、大聖人が『本門戒体抄』(御書一四四一㌻)に説かれた「寿量品の久遠の十重禁戒」〔✽1〕の一つです。一般的に不妄語戒とは、妄語(嘘)をしてはならないという戒ですが、『本門戒体抄』では、爾前の仏が二乗作仏を説かないのは妄語罪であり、それを受持する所化の衆生も同じであると説かれます。つまり 「法華本門の不妄語戒」とは、妄語・方便である爾前迹門の仏と法を捨てて、真実の仏法である法華本門の大法を受持するという意味です。

 また、伝戒師たる末寺住職と受戒者が、共に「持ち奉るべし」と称えるのは、末寺住職は、持つべきであるとの意、受戒者は持っていきますと誓いを立てる意になります。

 御授戒で下種本門戒を受けることにより、金剛宝器戒という最高の戒体を命に宿し、真の仏子として妙法受持の一歩を踏み出すことになるのです。

 世の中には、この有り難い金剛宝器戒を受けながら退転状態にある人もいます。私たちは妙法受持の中に含まれる謗法厳誡の精神の上から、すべての人たちを折伏していかなければならないのです。



 

 

✽1 十重禁戒とは、大乗の菩薩が必ず持つべき不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語などを含む十種の戒律で、破れは僧団から追放され地獄に堕ちるとされる重罪である。大聖人は『本門戒体抄』(御書一四四〇㌻)において、法華経本門に約して十重禁戒を説かれている。そこには、爾前経の仏は、法華経本門寿量品における真実を隠し、衆生に三世常住の生命と、真の成仏を明かさないので、妄語や殺生等、十重禁戒を犯す罪があると説かれている。本宗入信の授戒文に「法華本門の不妄語戒」の名称を挙げるのは、『本門戒体抄』に説かれる、法華本門の十重禁戒の内の一つを挙げて、十重禁戒のすべてを授ける意です。