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大御本尊建立

2023年01月26日 | 日蓮大聖人の御生涯(四)

大白法 令和3年9月1日(第1060号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 147

  日蓮大聖人の御生涯 ㉝  

     大御本尊建立

 前回まで四回にわたって学んだ熱原法難は、熱原法華講衆が法に殉ずるという痛ましい出来事でしたが、本門戒壇の大御本尊が建立される契機となりました。 

 

 出世の本懐

 出世の本懐とは、仏・ 菩薩が世に出現した真の目的のことをいいます。

 これまで学んできたように、大聖人一期の御化導には大小様々な難が競い起こりましたが、これらは大聖人御自身を第一とし、時に弟子・檀那へと波及するものでした。

 しかし熱原法難は、大聖人の教導があったとはいえ、日興上人の弘教に端を発する、弟子・信徒に対する弾圧でした。しかも信徒の多くは、入信から日が浅く、文字の読み書きも満足にできない農民たちです。そのうち二十人は刈田狼藉の罪を着せられて捕縛、鎌倉へ送られました。

 大聖人は、こうした日興上人と熱原法華講衆による師弟相対、不自惜身命の実相を目の当たりにして深く思惟され、いよいよ出世の本懐を遂げる時の到来を感じられました。

 その御心境を、弘安二(一二七九)年十月一日の『聖人御難事』に、

 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書 一三九六㌻)

と記されています。

 既に大聖人は『観心本尊抄』や『法華取要抄』等において、本尊と三大秘法の本門建立を予証されていましたが、漫荼羅の体相という内因の面でも究竟の時を迎えられていました。ここに熱原法難は、下種仏法の究竟の法体を建立する、大きな外縁となったのです。 

 そして熱原の農民に対する弾圧が吹き荒れる最中の同二年十月十二日、大聖人は末法万年・令法久住を慮(おもんばか)られて、楠の堅牢な板に妙法漫荼羅を認(したた)めると、弟子の和泉公日法に彫刻を命ぜられました。

 こうして本門戒壇の大御本尊が図顕建立されたのです。

 『経王殿御返事』に、

 「日蓮がたま(魂)しひをす(墨)みにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(同 六八五㌻)

と、また『草木成仏口決』に、

 「一念三千の法門をふ(振)りす(濯)ゝぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」 (同 五二三㌻)

と仰せのように、大御本尊は大聖人の御魂(こん)魄(ぱく)そのものであり、末法万年の一切衆生が即身成仏する未曾有の大法に他なりません。

 また、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇に安置するという御相伝の上から、本門戒壇の大御本尊と称されるのです。

 さて、先に挙げた『聖人御難事』において大聖人は、釈尊・天台大師・伝教大師が出世の本懐を遂げるまでの年数を挙げられています。

 まず「仏は四十余年」とは、成道から四十二年を過ぎて説かれた法華経が、釈尊出世の本懐であることを指します。

 また、「天台大師は三十余年」とは、一念三千の法門を説き明かした『摩訶止観』の講説、「伝教大師は二十余年」 とは、日本で初めての大乗戒壇建立が、それぞれ出世の本懐に当たるのです。

 最後の「余は二十七年なり」とは、建長五(一二五三)年の宗旨建立以来の年数であり、大聖人御自身が出世の本懐を遂げる意志を明かされた御文なのです。 

 総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』 に、

 「問う、弘安の御本尊、御本懐を究尽するや。答う、実に所問の如し、乃ち是れ終窮究竟の極説なり。(中略)吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄(観心本尊抄)を終わり、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり。(中略)天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮究竟の極説を顕わす、寧ろ不思議に非ずや」 (御書文段 一九六㌻)

と教示されており、弘安二年十月十二日、大聖人御年五十八歳で御図顕の大御本尊が、出世の本懐であることは明らかです。

 また、

 「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(同 一九七㌻)

と、本門戒壇の大御本尊が、大聖人御一期における究竟の中の究竟、本懐中の本懐であると示されています。

 伝教大師の出世の本懐について、総本山第六十七世日顕上人は、

 「延暦二十四年の帰朝より戒壇院建立まで二十二年であり、大師の没後ではありますが、大難という意味からは『二十余年の本懐』とは、これを仰せられたものかと思われます」(大白法 五九六号)

と、天長四(八二七)年、延暦寺戒壇院を建立を示すことを御指南です。なお、その他にも、

①延暦二十一(八〇二)年、高雄における天台三大部講義と南都六宗の破折。

②延暦二十四年、入唐先で天台の法門を受け帰朝。

③延暦二十五年、比叡山に天台法華宗を開宗。

④弘仁十三(八二二)年、入寂七日後、大乗戒檀建立の允許。

との四説があります。

  また他門日蓮宗では、大御本尊を認めないため、先に挙げた『聖人御難事』の御文について、詳述しない傾向があります。

 鶴岡八幡宮の大火

 弘安三(一二八〇)年十一月十四日、鎌倉の鶴岡八幡宮で火災が発生し、上下両宮や楼門等を焼失する大きな被害が出ました。前月の二十八日にも、境内の構成施設である神宮寺や千体堂を焼く火災が起こったばかりでした。

 文永の役以降、幕府は蒙古からの二度の使者を斬首し、再び襲来が予想される大軍を迎え撃つ準備を進めていました。大きな戦を前に緊迫した社会情勢があって、源氏の氏神として崇敬する八幡宮の神威失墜を案じた幕府は、火災の翌日の十五日には再建を沙汰しています。 

 鶴岡八幡宮といえば、文永八(一二七一)年九月十二日の夜半、竜口の刑場へ連行される大聖人が、大音声をもって八幡大菩薩を諌暁したその場所です。

 一方、同年十二月十六日の『四条金吾許御文』には、この火災について、

 「十一月十四日の子(ね)の時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給ひぬる故をかんがへ候に、此の神は正直の人の頂にやどらんと誓ヘるに、正直の人の頂の候はねば居処なき故に、栖なくして天にのぼり給ひけるなり」(御書 一五二四㌻)

 と、不正直の謗法者が充満するため、八幡大菩薩は天に去ったことを示されています。

 大聖人は同じ十二月に『諌暁八幡抄』を認められています。

 同抄で大聖人は今回の火災について、法華経の会座において正法の行者が守護すると誓った八幡大菩薩が、日蓮一門を守護しないために蒙った責めであると指摘されます。さらに国のため、仏法興隆のためにも、速やかに為政者の謗法を治罰し、末法の法華経の行者を守護せよと、厳しく諌暁されています。

 また、一部の弟子が大聖人の強折を理解できないことに対して、折伏が慈悲行である理由を示されます。同抄の、 

 「二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(同 一五三九㌻)

 「一切衆生の同一の苦は悉く是 日蓮一人の苦なり」(同 一五四一㌻)

等の御文は、大難を恐れることなく一切衆生を救おうとされる、御本仏の境界から披瀝された大慈悲以外の何物でもないのです。

 大聖人は本抄の結びとして、 

 「月は西より東へ向かへり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり、日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり」 (同  一五四三㌻)

と、 インドから伝わった仏法が、インドへ、さらに世界へと流布していくことが明かされました。

しかも流布する「日本の仏法」は、

 「月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり」(同)

と、釈尊の仏法を遥かに越えた末法万年の衆生を救う大法であると仰せになっています。 

 これは正しく末法の御本仏日蓮大聖人の仏法であり、中でも、弘安二年十月十二日に図顕された、本門戒壇の大御本尊のことです。

 同抄には、 特定の対告衆は示されていません。大聖人が、三大秘法の妙法が一切衆生成仏のための唯一の大白法であり、未来に広宣流布していく相を示されたことは、私たち門下一同への精進を促されたものと拝すべきでしょう。

 

 

 

 

 


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