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御教導

2023年01月10日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和2年12月1日(第1042号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 142

  日蓮大聖人の御生涯 ㉘      

   御  教  導

 今回は,身延における門弟への御教導と、この頃の主な壇越の動向について述べます。

 

 門弟の育成(法華経の講義) 

 身延における日蓮大聖人の御住まいは、

 「今年は十二のはし(柱)ら四方にかう(頭)べをな(投)げ、四方のかべは一そ(所)にた(倒)うれぬ」

  (御書 一一八九㌻)

とあるように、」入山して四年目の健治三(一二七七)年には、柱が朽ちて傾き、壁も崩れ落ちて修復をしなくてはならない、粗末な草庵でした。しかし、そのような御住まいにあっても、

 「法華読誦の音(こえ)晴天に響き、一乗談義の言(ことば)山中に聞こゆ」

  (同 九五七㌻)

と仰せのように、昼夜に法華経を読誦し、また御法門を論談する充実した日々を過ごされていたのです。

 当初は、大聖人とわずかな門弟で生活していた草庵でしたが、次第に各地から門弟が聴講に参詣するようになって、

 「今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」

  (同 一三八六㌻)

と仰せのように、弘安二(一二七九)年には、狭い身延の山中に百人を超す門弟が住して研鑽するようになりました。

 このような人材を育成することは、大聖人が鎌倉を離れて身延に隠棲することを決められた四つの理由の中でも、法体の確立と共に重要なことでした。

 修行の心構えとして「信仰(信)・修行(行)・学解(学)」

の三つの筋目を立て、

 「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候」

  (同 六六八㌻)

と仰せられ、また、

 「有(う)解(げ)無(む)信(しん)とて法門をば解(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず。有(う)信(しん)無(む)解(げ)とて解(げ)はなくとも信心あるものは成仏すべし」

  (同 一四六一㌻)

と誡(いまし)められています。

このように大聖人は、門弟に厳格な信心修行を督励されると共に、特に法華経の講義を行われたのです。 

 この時、大聖人が講義された法華経の内容を筆録されたのが、『就註法華経口伝(御義口伝)』です。

 この『御義口伝』について、総本山第十七世日精上人の『富士門家中見聞(家中抄)』には、

 「聖人山居の後(のち)門弟子の請いにより法華経の御講釈あり。御弟子衆数(あま)多(た)ありといえども日興達士の撰にあたり給いしかば、章安所録の天台の章(しょう)疏(しょ)に習って聖人の説法を記録し給う事合(がつ)して二百二十九箇条、其の外旅(たび)旅(たび)の聞(もん)を集めて日興記と名づく。是れ聖人編集の註(ちゅう)法華経に就いての口伝なり」

 (日蓮正宗聖典 六一三㌻)

とあるように、大聖人が講じられた法華経の深義を第二祖日興上人が筆録され、大聖人の御(ご)允(いん)可(か)を得て重要な法門書です。

  この『御義口伝』の講義には、日興上人をはじめとする身延在住の門弟や、 安房(千葉県)や佐渡(新潟県)、駿河(静岡県)などから登山してきた門弟たちも聴講に加わり、閑静な身延の草庵も、聴講の大勢の門弟で賑わったものと拝されるのです。

 

 当時の壇越について 

 ここで、大聖人御在世当時の主な檀越の動向について簡単に紹介します。

 

①富木常忍

 富木常忍は、下総国若宮(千葉県市川市) を領有していた武士で、建長五年(一二五三)年の末頃に大聖人に帰依し、同僚の大田乗明や曽谷教信などを折伏して、鎌倉の四条金吾と共に関東方面の中心的な檀越として活躍しました。

 また常忍は、 万年にわたる文書格護の条件を備えた大檀越であったことから、『観心本尊抄』、『法華取要抄』、『四信五品抄』 などの重要な御書をはじめ、 四十余篇にわたる御書を賜っています。

  大聖人御入滅後は、 私邸を法華堂(中山法華経寺)に改めて、大聖人の御真蹟の散逸を防いで伝承に力を注ぎ、正安元(一二九九)年、八十四歳で逝去しました。

 

②四条金吾

 四条金吾は、北条家の支族である江間家に仕えた忠臣で、武道と医術に優れた人物です。

 康元元(一二五六)年、二十七歳の時に大聖人に帰依し、以来、富木常忍らと共に信仰に励み、鎌倉における檀越の中心者として活躍しました。

 文永八(一二七一)年の竜口法難の際には、自らも死を覚悟して、刑場まで大聖人のお供をし、その後の配流先である佐渡へも訪れました。また、配流中の大聖人により『開目抄』 を賜っています。

 主君である江間光時は、極楽寺良観に帰依していました。金吾が主君に対して折伏を行うと、それが主君の怒りに触れることになったのです。さらに、金吾に対して妬みを持つ同僚たちからの讒言もあって、所領の没収や領地替えなどに遭い、厳しい境遇となりました。また、 桑ヶ谷問答では、追い打ちをかけるように主君より法華経の信仰を捨てる旨の起請文の提出を迫られましたが、金吾は大聖人より御教導を戴き、一歩も退くことなく、信心強盛に耐え忍びました。

 その後、 疫病にかかった主君を治療して完治させたことで、金吾の忠誠心の厚いことを感じた主君は、金吾への信頼を回復し、所領も加増したのです。

  このほか金吾は、身延の大聖人への御供養の品々を届けると共に、大聖人の身を案じ、薬を調合して差し上げるなど、信心の誠を尽くし、正安二(一三〇〇)年、七十一歳で逝去しました。

 

③池上兄弟

 鎌倉幕府の作事奉行であった池上康光の息子たちで、兄は宗仲(右衛門大夫)、弟は宗長(兵衛志)といい、六老僧の一人である日昭の甥(おい)に当たります。

 康元元年頃に大聖人に帰依したと伝えられ、特に兄の宗仲は、鎌倉の檀越の中でも最古参の強信者でした。

 しかし、父の康光は、極楽寺良観の信者であったため、息子たちが法華経の進行をすることに強く反対し、建治二(一二七六)年頃、康光は良観の入れ知(ぢ)恵(え)によって宗仲を勘当し、弟の宗長に家督を継がせようとしたのです。これを知った大聖人は、兄弟に対して『兄弟抄』を認められ、兄弟とその夫人たちが心を合わせて正法を貫き、障魔に打ち勝つよう激励されました。

 その後、宗仲の勘当は一時許されましたが、建治三年の十一月に至り、再び勘当されました。これは、同年六月の桑ヶ谷問答において、良観の庇護僧である竜象房が敗北したことに対する、良観の報復でした。

 しかし大聖人の力強い御教導によって、当初、信仰が軟弱であった弟の宗長も次第に信仰を深めて兄の宗仲や妻たちと力を合わせ、父の康光を折伏しました。その結果、弘安元(一二七八)年には、宗仲の勘当が解け、康光も大聖人に帰依することとなったのです。

 弘安二年、康光の死に際して、大聖人は『孝子御書』を送り、父を正法に帰依させた兄弟らの信心を称賛されています。

 

④南条時光

 南条時光は、駿河國富士郡上野(静岡県富士宮市)の地頭であった南条兵衛七郎の次男として、正(しょう)元(げん)元(一二五九)年に誕生しました。

 父の兵衛七郎は御家人であり、鎌倉において大聖人の教化を受け、純真に信仰に励みました。文永二(一二六五)年、三月八日に兵衛七郎が死去した際には、大聖人が墓参のために鎌倉から上野の南条家に赴かれています。

 成人した時光は、日興上人の教化と母親の薫陶を受けて、富士地方の中心檀越として活躍しました。特に建治から弘安にかけての熱原法難では、日興上人の指揮のもと、同信の僧俗に対し、身を挺して外護したことから、大聖人より「上野賢人」との尊称を賜っています。しかし、こうした姿勢から、不当に重い税を課せられるなどして生活が窮地に陥りましたが、そのような窮乏の時でさえ、大聖人への御供養を欠かさない信心姿勢を貫いたのです。

 時光は、その強盛な信心と御供養の志によって、門下中で最も多くの御書を賜っており、大聖人御入滅後は、身延を離山された日興上人を上野の地へ招き、大石寺創建に尽力しました。

 晩年の時光は、入道して「大行」と称し、元(げん)弘(こう)二(一三三二)年五月一日、七十四歳で逝去しました。

 

⑤阿仏房

 阿仏房は、佐渡の強盛な念仏の信者でした。

 初めこそ塚原三昧堂におられた大聖人を念仏の敵と見なし害しようとしましたが、大聖人の尊容に胸打たれたばかりか、かえって折伏され、それまで深く信じていた念仏を捨て、妻の千日尼と共に大聖人に帰依したのです。 以来、文永十一(一二七四)年に大聖人が鎌倉に帰られるまで、陰ながら大聖人に仕えました。

 大聖人が身延に入山されてからも、老齢の身でありながら、遥々佐渡より海を渡って、幾度も身延に参詣しました。その姿は後世私たちの、登山参詣の手本といえます。

 弘安二年三月二十一日、九十一歳の高齢で逝去し、その純真な信心に対して大聖人は「阿仏上人」と尊称されています。

 以上、主な檀越について紹介しましたが、この他にも佐渡・相模・甲斐・駿河・遠江・上総・下総等に信心強盛な檀越が点在しており、大聖人より御書を賜り、各地で純真な信心に励んでいたのです。

 

 

 

 

 

 

 


多宝富士大日蓮華山大石寺1

2023年01月07日 | 多宝富士大日蓮華山大石寺(一)

令和2年5月1日 大白法(第1028号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第1回「多宝富士大日蓮華山大石寺」

 日蓮正宗の総本山は、静岡県富士宮市にある「多宝富士大日蓮華山大石寺」です。

 宗祖日蓮大聖人様から唯受一人の血脈を受けられた第二祖日興上人様によって、正応三(一二九〇)年1十月十二日に開創されました。「大石寺」という寺号は、地名の「大石ヶ原」に由来します。 開基檀那は、富士上野(現在の富士宮市)の地頭・南条時光殿(大行尊霊)です。

 大聖人様が御入滅された後、日興上人様は身延山久遠寺の別当職に就かれました。しかし、その数年後に顕著となる地頭らの謗法と、大聖人様の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書 一六七五㌻)との御遺命により、正応二年の春、 本門戒壇の大御本尊をはじめ、大聖人様の御灰骨、御書、御遺物等の重宝を捧持して、 身延の山を離れ、大聖人様御在世当時からの強盛な信者であった南条殿の請いによって富士山の麓、大石ヶ原に移られました。

 そして、翌正応三年、大石寺を建立して本門戒壇の大御本尊様を安置し奉り、多くの御弟子方を養成されて、万代に亘る仏法流布の基礎を築かれました。

  爾来七百有余年、本門戒壇の大御本尊様と血脈付法の御法主上人猊下がおわします、最勝の霊地です。

 

参考写真画    https://www.nichirenshoshu.or.jp/jpn/taisekiji-buildings.ht

 

令和2年5月16日 大白法(第1029号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第2回「奉安堂」

 奉安堂は、平成十四年十月、総本山第六十七世日顕上人の御初願のもと、宗旨建立七百五十年を慶祝する記念事業として、国内・海外の日蓮正宗の御僧侶や信徒から寄せられた、真心からの尊い御供養によって建てられました。

 建物の大きさは、面積が一万二千九百八十八平方メートル、 高さは五十五メートルで、約五千名分の信徒席が設けられています。堂宇内部の須弥壇の中央には、本門戒壇の大御本尊様が奉安され、向かって左側には大聖人様の御灰骨、右側には弟子の日法が大御本尊様を御彫刻申し上げた際に造られた最初の御影である最初仏が安置されています。

 ここでは、御法主上人猊下の大導師のもとに御開扉が行われ、本宗の御僧侶・信徒に限り、本門戒壇の大御本尊様の御内拝をさせていただくことができるのです。 

 この御開扉の意義は、 大聖人様の御法魂に在す大御本尊様に御目通りを賜り、 日頃の信心と生活の御報恩を申し上げ、謗法の罪障を消滅し、広宣流布と自らの幸せを願うことにあります。

 鎌倉時代、御在世当時の信徒は、大聖人様に御目通りできる喜びを胸に、不便で困難な中をお詣りされました。この信仰の気持ちは、いつの時代においても持(たも)ち続けなければならない大切なことです。 

 

 

令和2年6月16日 大白法(第1031号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第3回「御影堂」

 御影堂は、古来「御堂」とも称され、宗祖日蓮大聖人の等身の御影像を安置する堂宇で、本宗の信仰上、重要な意義を有する建物です。

 第二祖日興上人によって創建され、現在の建物は寛永九(一六三二)年、総本山第十七世日精上人の代に、阿波徳島の藩主・蜂須賀至鎮公夫人の敬台院殿の寄進によって再建造営されたものです。 

 間口二十五メートル、奥行・高さ二十三メートルで、昭和四十一年には県の有形文化財に指定されています。

 堂宇内部の須弥壇には、日精上人が延宝七(一六七九)年に認められた大漫荼羅本尊が奉安され、その御前には、嘉慶二(一三八八)年、越前の仏師、法橋快恵によって、謹刻された大聖人等身の御影が安置されています。この奉安の形式は、御本尊様が人法一箇であることを表わされています。

 また、御御影が表わされる理由について、日興上人が『富士一跡門徒存知事』に、

 「影像を図する所詮は後代には知らせしめんが為なり」

  (御書 一八六九㌻)

と、後の時代の人たちに御本仏・大聖人様の御姿を知らせるためと説かれています。

  現在の建物が再建されてから三百八十有余年を経た平成二十五年十一月、平成の大改修を終え、その荘厳にして優美な姿を蘇らせました。

 

 

令和2年7月16日 大白法(第1033号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第4回「六 壷」

 六壷は、 第二祖日興上人が、正応三年十月十二日に建立された大石寺発祥の建物です。創建当時は、持仏堂をはじめとする六つの部屋に分かれていたので、この名があると伝えられています。その後は、種々の変遷を経て、明治二十二(一八八九)年一月一日、総本山第五十二世日霑上人の代に、独立した堂宇として建立されました。さらに第六十四世日昇上人、第六十六世日達上人の代に復興改築がなされました。

 現在の建物は、昭和六十三(一九八八)年十月七日、第六十七世日顕上人の御発願により、大石寺開創七百年の記念事業として再建新築されたものです。

 建物の構造は、十間(約十八メートル)四面の平屋建て総けやき造り、屋根は寄せ棟造り本瓦葺きで、外壁は土壁塗りの漆喰仕上げという伝統的な木造建築です。

 内部は百七十畳の純木造物でありながら、四本の柱のみとなっており、ここに集う僧俗が共に御本尊様を拝することができるように考慮されています。

 堂宇内部の須弥壇には、日興上人が乾元二(一三〇三)年八月に御書写された持仏堂安置の御本尊が奉安されています。ここで毎朝、代々の御法主上人猊下が客殿の丑寅勤行に引き続いて広宣流布の御祈念をされています。

 

 

令和2年8月16日 大白法(第1035号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第5回「客 殿」

 客殿は、寛正六(一四六五)年三月、総本山第九世日有上人によって創建され、その後、その後、第二十七世日養上人、第五十二世日霑上人、第六十四世日昇上人、第六十六世日達上人の代にそれぞれ再建されています。

 現在の建物は、平成十年三月、第六十七世日顕上人の御発願により新築されました。

 間口と奥行が共に約五十メートル、高さが三十六メートルの二階建てで、千百十二畳敷きの大広間があります。

 堂宇内部の須弥壇中央には、第二祖日興上人が、宗祖日蓮大聖人より受けられた血脈相承の深義を、第三祖日目上人に授けられたことを表わす譲座御本尊が奉安され、向かって左側には大聖人、右側には日興上人の御影が安置されています。この安置の形式を別体三宝形式といい、仏法僧の三宝を表わしています。

 また、客殿の礼盤(大導師席)は、御宝前の正面ではなく西側に構えられています。それは大聖人が常住不滅であらせられることを表わすと共に、参詣の信徒に文底下種の三宝を取り次がれる日目上人の座となります。

 客殿は歴代の御法主上人猊下が毎朝、広宣流布の御祈念をされる丑寅勤行をはじめ、御霊宝虫払大法会、また彼岸会、盂蘭盆会、広布唱題会等、一年を通して様々な法要・儀式が執り行われます。

 

参考写真画   https://www.nichirenshoshu.or.jp/jpn/taisekiji-buildings.ht

 

令和2年9月16日 大白法(第1037号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第6回「御 宝 蔵」

 客殿北側の杉木立に囲まれた場所に,御宝蔵があります。

  この建物は、寛正六(一四六五)年二月、総本山第九世日有上人により小(こ)校(あぜ)倉(くら)造りで造営され、宝暦十(一七六〇)年、第三十三世日元上人により門を修復、寛政二(一七九〇)年に、第三十七世日(にち)琫(ぽう)上人により再建されました。また、寛政五年、第四十世日任上人の代に修理、さらに安政四(一八五七)年、第五十二世日霑上人の代に修理が加えられ石垣が巡らされました。次いで、昭和六(一九三一)年に、第六十世日開上人が外郭を整えられ、昭和四十三年、第六十六世日達上人が修理を加えられて現在に至っています。

 御宝蔵は、間口七・二メートル(四間)、奥行九メートル(五間)の規模をもつ銅(どう)桟(さん)葺(ぶき)の土蔵造りで、周囲には塀が巡らされ、その外側が堀が囲んでいます。

 かつては御宝蔵に本門戒壇の大御本尊が御安置されており、厳粛に御開扉が執り行われていました。

 大聖人御真筆の御本尊や『諌暁八幡抄』『南条殿御返事』等の御真筆の御書、御歴代上人御書写の御本尊等の重宝が数多く厳護されています。これらは、後世に末長く伝えていくために毎年春に行われる御霊宝虫払大法会の折に必要な手入れをし、参詣の信徒に披露されます。





令和2年10月16日 大白法(第1039号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第7回「五 重 塔」

 五重塔は、総本山第二十六世日寛上人と徳川幕府第六代将軍家宣公の御台所である天英院殿の発願により資金を残されたのが始まりです。

 その後、日養上人から五代にわたる御法主上人が、 その御意志を受け継がれ、 第三十一世日因上人の代に、諸国を歓化して得た浄財と、備中松山藩主の板倉勝澄公の寄進により、寛延二(一七四九)年六月十二日に建立。昭和四十一年六月には国の重要文化財に指定されました。

 第四十三世日相上人、第六十四世日昇上人、第六十六世日達上人それぞれの代、そして、御法主日如上人猊下により修復がなされ、平成二十九年一月十六日に修復完成法要が奉修されました。

 塔の規模は東海道随一と言われ、三間半(六・四メートル)四面、高さは三十四・三メートルで、土台から上部まで心柱が貫通しています。

 堂宇内部には、日因上人が寛延二年二月二十八日に認められた常住御本尊が奉安され、毎年二月十六日には「御塔開き」が奉修されています。

 本来、寺院建物は南向きに建立されますが、五重塔は西向きに建てられています。それは、釈尊の仏法がインドから東漸して日本へ来たのに対し、日蓮大聖人の仏法が日本から西に向かい全世界へ広宣流布することを示しているからです。




令和2年11月16日 大白法(第1041号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第8回「三 門」

 三門は、江戸時代に総本山第二十四世日永上人と第二十五世日宥上人が建立資金を御用意され 、正徳二(一七一二)年に幕府に対し三門建立を発願されたことが始まりです。

 そして、第六代将軍徳川家宣公、 同正室で発願主の天英院殿から寄進を受け、亨保二(一七一七)年八月二十二日に建立されました。

 その後、第五十二世日霑上人、第五十七世日正上人の代に修理、昭和十年に第六十世日開上人により、大聖人第六百五十御遠忌の記念事業として大修繕がなされました。

 現在は、御法主日如上人猊下にもと宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の慶祝記念事業として大改修工事が進められており、いよいよ(※)明年一月に完成奉告法要が奉修されます。

 間口は約二十四メートル、奥行は約十一メートル、高さは約二十二メートルで、堂宇内部には、日宥上人が亨保二年に認められた常住御本尊が奉安されています。

 大石寺の三門は全国でも稀に見る木造朱塗りの大楼門で、規模は東海道随一であり、昭和四十一年には静岡県の有形文化財に指定されました。

 総本山の建物は古来、王城の宮殿に因んで建てられています。王城には東・西・南・北の四門があり、三門には、このうち北門を除いた東・西・南の三つの門を総括して一門とするという意義があります。





令和2年12月16日 大白法(第1043号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第9回「塔中・参道」

 総本山の山門をくぐり、歩みを進めると、幅広い石畳の参道が続いています。

 この参道の石畳は大石寺創建当時は敷かれていませんでした。江戸時代になって参道の中央部分に敷かれ、現在の形に整備されたのは昭和三十六年、総本山第六十六世日達上人の代に行われた大改修工事の時です。

 

      ◇

 

参道の両側には、蓮蔵坊をはじめ、浄蓮房・理境坊・久成坊・百貫坊・蓮東坊・寂日坊・本住坊・観行坊・本境坊・蓮成坊・了性坊・南之坊の十三カ坊が建ち並んでいます。

 これらの坊は、いずれも第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四世日道上人の御弟子方によって開創されました。

 また、潤井川に沿って、妙遠坊・報恩坊・遠信坊・東之坊・本種坊・石之坊・雪山坊の七カ坊、客殿前広場の南側に、妙泉坊・妙住坊・遠寿坊の三カ坊が建ち並んでいます。

 塔中の各坊は、全国から登山する信徒の宿坊・ 休憩坊として使用されます。

 平成十八年から二年かけて、御法主日如上人猊下のもと『立正安国論』正義顕揚七百五十年の記念事業として塔中坊建替え工事が行われました。

 これは、将来起こりうる地震に備えた耐震構造にするため、新築または改築がなされたものです。



 

令和3年1月16日 大白法(第1045号)からの転載

私たちの総本山大石寺

 第10回「 総 門 」

  総門は、大石寺境内の南端に位置する表玄関です。

この門は、大永二(一五二二)年、総本山第十二世日鎮上人によって建立された記録が最古で、その後、第十七世日精上人、第四十世日任上人の代に再建や修築がなされました。

 現在の門は明治十三(一八八〇)年、第五十五世日布上人の代に宗祖日蓮大聖人第六百遠忌並びに二祖日興上人・三祖日目上人第五百五十遠忌の御報恩として再建・新築され、第六十四世日昇上人の代に修築されたものです。

 そして、平成十年に第六十七世日顕上人によって現在の、境内入り口の正面に移され、正式な表門として周辺整備もなされました。

 門の大きさは、間口三間二尺(約六メートル)、奥行二間四尺(約四・八メートル)です。また、古来、黒塗りであることから「黒門」と称されてきました。

 日顕上人は、総門の意義について、総門移転開通式の砌に、

 「要するに御戒壇様のまします寂光の霊地である総本山に、世間の謗法充満のなかで生活される方々が道心を発(おこ)してここに参詣をせられる、そして総本山に第一歩を印(いん)してくぐられる門」(大白法 五一五号)

と御指南されています。




  

参考写真画   https://www.nichirenshoshu.or.jp/jpn/taisekiji-buildings.ht

 

 

 

 

 


上野尼御前御返事

2023年01月05日 | 平成新編日蓮大聖人御書(一)

上野尼御前御返事

     弘安三年十一月十五日   五九歳

 麞(しらげ)牙(ごめ)一駄四斗定・あら(洗)ひいも(芋)一俵送り給(た)びて南無妙法蓮華経と唱へまいらせ候ひ了んぬ。

 妙法蓮華経と申すは蓮(はちす)に譬へられて候。天上には摩訶曼陀羅華、人間には桜の花、此等はめでたき花なれども、此等の花をば法華経に譬へには仏取り給ふ事なし。一切の花の中に取り分けて此の花を法華経に譬へさせ給ふ事は其の故候なり。或は前花後菓と申して花は前(さき)菓(み)は後なり。或は前菓後花申して菓は前、花は後なり。或は一花多菓、或は多花一菓、或は無花有菓と品々に候へども、蓮華と申す花は菓と花と同時なり。一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説く、かゝる故に不定なり。法華経と申すは手に取らば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり。譬へば天月の東の山の端(は)に出づれば、其の時即ち水に影の浮かぶが如く、音とひゞきとの同時なるが如し。 故に経に云はく「若し法を聞くこと有らん者は一(ひとり)として成仏せずといふこと無けん」 云云。 文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。(御書 一五七四)最初から9行目末まで。

 

 

 

 

 

 

 


新年の辞

2023年01月04日 | 第68世御法主日如上人猊下御指南(一)

新年の辞

立宗七百七十一年の新春を寿ぎ奉る

(大白法 令和5年1月1日 第1092号 からの転載

 立宗七百七十一年の新春を迎え、法華講連合会委員長・関野洋夫氏ほか全国法華講員御一同には、清々しく新年をお迎えのことと存じます。
 さて、本年「折伏躍動の年」は、各講中共に、仏祖三宝尊への御報恩謝徳のもと、僧俗一致・異体同心の団結をもって果敢に折伏を行じ、一天広布へ向けて大きく躍動し、御奉公の誠を尽くしていかなければならない極めて大事な年であります。
 特に今、依然として「新型コロナウイルス感染症」の勢いが止まず、世情騒然とした状況を呈していますが、斯くなる時こそ、私共は身軽法重・死身弘法の御聖訓を旨に決然として折伏に立ち上がり、この難局を乗り越えなければなりません。
 大聖人は『立正安国論』に、
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ(やぶ)壊れんや。国に衰微(すいび)無く土に破壊(はえ)無くんば身は是(これ)安全にして、心は是禅定ならん。此の詞(ことば)此の言(こと)信ずべく崇(あが)むべし」(御書250)
と仰せであります。
 正しく仏法の鏡に照らしてみる時、今日の混乱の原因は、多くの人々が正法に背き、邪義邪宗の謗法に犯されているからであり、この謗法を退治し、一人でも多くの人が信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善、即ち三大秘法の南無妙法蓮華経に帰依することが仏国土実現の為には絶対不可欠な要件となるのであります。
 大聖人は『如説修行抄』に、
「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや。されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(御書673)
と仰せられ、五濁乱漫とした末法濁悪の今日の世相を観る時、正しく今日の窮状を救済する方途は、邪義邪宗の謗法の害毒によって苦悩に喘ぐ多くの人に妙法を下種し、もって正法に帰依せしむることであると仰せられているのであります。
 依って、大聖人は『南条兵衛七郎殿御書』に、
「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたき(敵)をだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につか(仕)ふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をし(知)りながら奏(そう)しもせず、私にもあだ(怨)まずば、奉公皆う(失)せて還(かえ)ってとが(咎)に行なはれんが如し、当世の人々は謗法の者とし(知)ろしめすべし」(御書322)
と仰せであります。
 即ち、世の中の苦悩と不幸と混乱の原因は、すべからく邪義邪宗の謗法の害毒にあり、したがって、例え如何なる大善をつくり、法華経を千万部書写しようとも、邪義邪宗の謗法を退治しなければ、即ち破邪顕正の折伏を実行しなければ、得道はあり得ないと仰せであります。
 されば、私共は大御本尊の広大無辺なる功徳を拝信し、各支部共に講中の総力を結集して大折伏戦を展開し、もって全世界の平和と全人類の幸せを実現すべく妙法広布に邁進していくことが今こそ最も肝要であります。
 各位の愈々の信心倍増を心からお祈りし、新年の挨拶といたします。

 

 

 

 

 


十字御書

2023年01月01日 | 平成新編日蓮大聖人御書(一)

②『平成新編 日蓮大聖人御書 大石寺』からの転載

  『十字御書』 

           弘安四年一月五日 六〇歳 

 十(むし)字(もち)一百まい・かし(菓子)ひと(一)こ(籠)給び了んぬ。正月の一日は日のはじめ、月の始め、とし(年)のはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつ(満)がごとく、日の東より西へわたりてあき(明)らかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあい(愛)せられ候なり。

 (御書 一五五一)最初から3行目まで。