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本門の本尊

2022年12月27日 | 教学ノート(三)

大白法 平成29年3月16日(第953号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

     ㉚  本門の本尊

 本門の本尊とは、日蓮正宗の教えの根本である三大秘法 (本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)の1つを言います。

 大聖人様は『法華取要抄』に、

 「問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(御書 736㌻)

と、末法の御本仏として、法華経の真髄である三大秘宝を説き明かされています。

 また、大聖人様は『本尊問答抄』に、

 「本尊とは勝れたるを用ふべし」(同 1275㌻)

と仰せられています。

 もともと「本尊」という言葉には、

・根本尊崇(法の根本であるから尊い)

・本有尊形(もとのままの尊き姿)

・本来尊重(もとから尊ぶべきもの)

という3つの意義があります。

 大聖人様はこれらの意義が具わる正しい本尊として大漫荼羅を顕わされました。この本尊が本門の本尊です。

 本門の本尊には、「人」と「法」の2つの意義があります。

 「人」の本尊とは、久遠の法体を所持される日蓮大聖人様を言います。

 「法」の本尊とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経を言います。

  この「人」と「法」の本尊は一体であり、優劣があったり別々に存在したりするわけではありません。これを人法一箇と言います。御本尊様の中心に「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められているのは、大聖人様が人法一箇の御内証を顕わされたものです。

 そして、大聖人様が顕わされた多くの本尊の中で、弘安2年10月12日に顕わされた大漫荼羅本尊こそ、究竟中の究竟とされる最も勝れた本尊です。

 この本尊を「本門戒壇の大御本尊」と尊称し、約700年間、総本山大石寺に厳護されています。

 この本門戒壇の大御本尊様は、三大秘法の意義が具わり、一切衆生を成仏に導く根本の本尊です。

 この御本尊様を固く信じ、それぞれの所属寺院や家庭の御本尊様に向かって、日々勤行・唱題に励むことが私たちの幸せの源となるのです。



 

🖊 三大秘法について

 

       三  大  秘  法  開  合  の  相

 

一大秘法  本門戒壇の大御本尊様

 

三大秘法  本門の本尊ーーー(六大秘法)人本尊 ▶ 八

                    法本尊 ▶ 万

      本門の戒壇ーーー(六大秘法)事戒壇 ▶ 四

                    義戒壇 ▶ 千

      本門の題目ーーー(六大秘法)信題目 ▶ 法

                    行題目 ▶ 門

 

 

 

 

 

 

 


三学

2022年12月25日 | 教学ノート(三)

大白法 平成29年2月16日(第951号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

  ㉙ 三 学

 三学とは、仏道を修行する者が必ず学ばなくてはならない、戒学・定学・慧学の三つの修行のことを言います。

  戒定慧の三学は、 釈尊の数多くの教えに説かれています。

また、あらゆる教えは、この三学に集約されます。

  戒学は、防非止悪(非を防ぎ悪を止む)を旨として、身口意の三業による悪い行いを止め、善い行いを実践するように努めることを言います。

 定学は禅定のことで、心を静めて雑念を払い心が乱れないようにすることを言います。

 慧学は智慧のことで、定学により迷いを払って煩悩を断ち、真理を体得することを言います。

 この三つは、戒律を守ること(戒学)によって禅定に入り(定学)、禅定により真理を照らす智慧を成す(慧学)ので、相互の関係にあります。

 よって、仏道を修行する者は、この三学すべてを具えて、初めて成仏することができるのです。

 日蓮大聖人様は『四信五品抄』に、

 「末法の時代に初めて悟りを求める者は、必ず 円教の三学すべてを実践する必要があるのでしょうか。お答え申し上げると、これは非常に大事なことである。仏様は、末法においては戒と定の二学を止めて、ひたらす慧の一つに限って実践すべきであると仰せである。しかし、智慧を得ることは困難であるから、信心を智慧の代わりにするのである(趣意)」(御書 1112㌻)

と仰せられています。

 つまり、私たちの修行は、三学のうちの慧学に限られるのですが、智慧を得ることは非常に困難であります。よって私たちは、御本尊様への信心をもって成仏のための修行とし、御本尊様より智慧を賜るのです。これを”以信代慧”と言います。

 また大聖人様は、「信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因」 (同 1112㌻)

と信心を根本とする修行こそが末法における修行とされ、反対に正法を信じない不信は、成仏できない原因になると御教示されています。

 『本因妙抄』に、

 「信心強盛にして但余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり」(同 1679㌻)

と仰せのように、私たちは戒定慧の三学が具わる御本尊様に対し、強盛にして確固たる信心をもって御題目を唱え、弘めることにより、即身成仏の大功徳を得られるのです。



🖊 三学と三大秘法

 大聖人様は『御義口伝』に、

 「戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり」

  (御書 1773㌻)

と、 三学を三大秘法に配当されています。戒は本門の戒壇、定は本門の本尊、慧は本門の題目に当たります。大聖人様が顕わされた三大秘法こそ三学の根幹であり、私たちは三大秘法を固く信受して成仏が叶うのです。

 

 

 

 

 

 


法華経の行者

2022年12月18日 | 教学ノート(三)

大白法 平成29年1月16日(第949号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

  ㉘ 法華経の行者

  法華経の行者とは、法華経に説かれている教えの通りに修行して、教えを弘める人を言います。 

 日蓮大聖人様は、法華経を説かれた釈尊をはじめ、 中国の天台大師(智顗(ちぎ))、日本の伝教大師(最澄)を法華経の行者とされています。

  末法の法華経の行者については、釈尊が『法華経勧持品第十三』の、

 「 仏(ほとけ)の滅(めつ)度(ど)の後(のち)の  恐(く)怖(ふ)悪世の中に於て 我等当(まさ)に広く説くべし 諸(もろもろ)の無智の人の 悪(あつ)口(く)罵(め)詈(り)等(とう)し 及び刀(とう)杖(じょう)を加うる者有らん(中略)数(しば)数(しば)擯(ひん)出(ずい)せられ 塔(とう)寺(じ)を遠(おん)離(り)せん」

 (法華経 375㌻)

という二十行(ぎょう)の偈(げ)文(もん)に、三類の強敵が競い起こり様々な難に遭(あ)うことが説かれています。

 

 大聖人様は『寂日房御書』に、

 「勧持品の二十行の偈の文(もん)は日本国の中には日蓮一(いち)人(にん)よめり」

  (御書 1393㌻)

と、この法華経勧持品二十行の偈に説かれる経文の通りに身をもって読まれたのは、日本国においては、大聖人様ただ御(お)一人(ひとり)であると仰せられました。

 さらに、大聖人様は『種々御振舞御書』に、

 「今 日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五時を弘めてかゝるせ(責)めにあへり。仏(ぶつ)滅(めつ)度(ど)後(ご)二千二百余年が間、 おそらくは 天台智者大師も『一(いつ)切(さい)世(せ)間(けん)  多(た)怨(おん)難(なん)信(しん)』の経文をば行じ給はず。

 『数(さく)々(さく)見(けん)擯(ひん)出(ずい)』の明(みょう)文(もん)は但(ただ)日蓮一人なり」(同 1062㌻)

と仰せられて、末法に出現して妙法五字を弘痛し、法華経の経文をその身に実証された真の法華経の行者は、御自身のみであることを明かされたのです。

 そして、大聖人様は『右衛門大夫殿御返事』に、 

 「日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に(中略)斯(し)人(にん)行(ぎょう)世(せ)間(けん)の五(いつつ)の文字の中の人の文字をば誰とか思(おぼ)し食(め)す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚(おぼ)えたり」(同 1435㌻)

と仰せのように、上行菩薩の再誕として、根本の妙法を弘通し、末法の衆生に下種折伏されました。

 しかし、この上行菩薩の再誕という御(お) 立(たち)場(ば)は、 一往(浅い義)であり、再往(一重立ち入った真実の義)は末法の一切衆生を救済される久遠元初の御本仏であらせられるのです。 




🖊 ポイント

 大聖人様は、『四菩薩造立抄』に、

 「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(御書 1370㌻)

と仰せられ、第二祖日興上人は『佐渡国法華講衆御返事』に、

 「このほうもんはしでしを、たゞして、ほとけになるほうもんにて候なり」

と仰せられています。

 私たち、大聖人様の弟子壇那である日蓮正宗の僧俗は、御本仏大聖人様の教えの通りに、日々信心修行に邁進することによって成仏することができるのです。

 

 

 

 

 

 


末法

2022年12月16日 | 教学ノート(三)

大白法 平成28年12月16日(第947号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

  ㉗ 末 法

 末法とは、正・像・末の三時のうち、第三番目の時代のことを言います。

末法について『大集経』には、

 「次の五百年は、我が法中において、闘諍言訟し、白法恩没し損減して堅固なり」

と、釈尊の仏法の力がなくなり、人心が荒れて、世相の混乱により争いの絶えない時代であると説かれています。

 また、末法の衆生について、日蓮大聖人様は『妙法曼荼羅供養事』に、

 「三千大千世界の一切衆生の眼(まなこ)をぬける罪よりも深く、十方世界の堂塔を焼きはらへるよりも越えたる大罪を、一人して作れる程の衆生、日本国に充満せり」(御書 690㌻) 

と、貪欲・瞋恚・愚癡などの本能が盛んで、まるで大重罪を犯したほどの罪深い人々であると仰せられています。

 釈尊は、この末法の衆生を救う教えについて、『法華経薬王菩薩本事品第二十三』に、 

 「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」

  (法華経 539㌻)

と説かれ、それは法華経であり、広く世界に弘められるとされています。

  しかし、大聖人様は『上野殿御返事』に、

 「今、 末法に入りぬれば余経も法華経もせ(栓)んなし。但(ただ)南無妙法蓮華経なるべし」

  (御書 1219㌻)

と、釈尊が説かれた法華経では救われないと説かれました。それは、末法の衆生には、釈尊の説かれた法華経では功徳がないからです。

 よって、先の『薬王菩薩本事品』の経文は、法華経でなく、南無妙法蓮華経の大白法が末法に広宣流布することを予証されたものなのです。

 そして、大聖人様が『蓮盛抄』に、

 「夫仏は一切衆生に於て主師親の徳有り」 (同 28㌻)

と説かれ、『開目抄』に、

 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(同 577㌻)

と説かれるように、大聖人様こそが末法の御本仏であることを御示しです。

その大聖人様が説き顕わされた法華経の肝要である「南無妙法蓮華経」によらなければ、幸せになることができないのです。

 私たちが生まれた末法の世相は混乱を極めています。しかし、私たちは、大聖人様の教えを弘めることによって末法濁悪の世を、安穏で平和な世界へと変えていくことができるのです。



🖊 ポイント

 大聖人様は、像法時代に生まれた天台大師や伝教大師について、

 「此等の論師人師、末法闘諍堅固の時、地涌出現し給ひて本門の肝心たる南無妙法蓮華経の弘まらせ給ふべき時を知りて、恋させ給ひて是(か)くの如き釈を設けさせ給ひぬ」(御書 1500㌻)

と、根本の南無妙法蓮華経が弘められる末法に生まれることができなかったため、末法に対して憧れの念を懐いていたと仰せられています。

 

 

 

 

 

 

 


三時

2022年12月13日 | 教学ノート(三)

大白法 平成28年11月16日(第945号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

  ㉖ 三 時

 釈尊は自らの入滅後、仏法が流布していく順序を「正法時代」の千年、「像法時代」の千年、「末法時代」を万年と3つの段階(時)に分けられました。 

 また、大集経では、500年ごとに区切って「五箇の五百歳」としてその特長を説いています。

 三時に、この五箇の五百年を当てはめると、まず、

釈尊入滅後、

最初の五百年は「解脱堅固」と言い、衆生の根性が素直であったことから、仏の智慧を得て悟りを開く者が多い時代です。 

 次の五百年は「禅定堅固」 と言い、悟りを得るために心をひとつに定めて深く思惟する修行が広く行われる時代です。

 この千年は、仏の教えが正しく伝わる時代という意味から正法時代と言い、迦葉・阿難・竜樹・天親等の人師論師(仏法を習い極めた人)が、小乗教や権大乗教を弘めました。

 三番目の五百年は「読誦多聞堅固」と言い、お経を読誦し聴聞することが広く行われる時代です。

 四番目の五百年は「多造塔寺堅固」と言い、寺院や仏塔の建立が広く行われる時代です。

 この千年は、教えや修行の形のみが、正法時代に像(に)ているという意味から像法時代と言い、天台大師・伝教大師等が法華経迹門の教えを弘めました。

 そして、五箇の五百歳の最後、第五の五百年は「闘諍言訟・白法隠没・損滅堅固」と言い、釈尊の仏法が衰え、人々の心が荒廃し争い合う時代になって、仏法を修行しない者が充満することから末法時代と言うのです。また「 第五の五百年」は五百年間ではなく、「万年」という未来永劫を指します。

 釈尊は、『法華経神力品二十一』に、

 「日月の光明の 能く諸々の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」

  (法華経 516㌻)

と説かれたように、釈尊の教えが隠没(衰えてなくなってしまう) する末法には、「斯の人」が出現して、衆生を救う大白法を説かれるとされています。 この方こそ、末法に妙法蓮華経を弘通された御本仏日蓮大聖人様なのです。

 天台大師は、

 「後の五百歳、遠く妙道に沾(うるお)わん 」

と、後の五百歳、つまり遠く未来にわたって妙法が流布することを予証されています。

 私たちは、末法の今こそ妙法流布の時代であることを知り、広宣流布に向かって日々折伏行に邁進することが大切です。



 

 

 

🖊 ポイント

 大聖人様は、『種々御振舞御書』に、

「今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせ(攻)めにあへり。 仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も『一切世間多怨難信』の経文をば行じ給はず。 『数々見擯出』の明文は但日蓮一人なり」(御書 1062㌻)

と仰せのように、大聖人様こそ、妙法五字の弘通によって、法華経の経文に説かれる数々の法難を、身をもって拝読された真の法華経の行者、末法の御本仏であらせられるのです

 

 

 

 

 

 

 


身口意の三業

2022年12月09日 | 教学ノート(三)

大白法 平成28年10月16日(第943号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

  ㉕ 身口意の三業

 身口意の三業とは、人間の行為(業) を身業・口業・意業の三種に分類したものです。

  身業は身体でなす行為、口業は口で言うこと。 意業は心で思うことです。

私たちのすべての行為は、 三業のいずれかに属しています。

 この身口意の三業の中で中心となるのは、 意業です。

例えば、あることをしようと心に思うと、それが行為として現れたり、言葉として表現されます。

つまり、私たちの一切の言動(身業・口業)は、心(意業)にしたがって生ずるのです。

 また身口意の三業は、善・悪・ 無記に立て分けられます。

 まず悪の三業とは、

「身業」に殺生・偸盗(盗むこと)・邪淫(みだらなこと、)

「口業」に妄語(嘘をつくこと)・綺語(真実ではない言葉)・悪口・両舌(先と後で言うことが違うこと)

「意業」に貪欲(貪りの心)・瞋恚(瞋りの心)・愚癡(愚かな心)があり、これを十悪とも言います。

 善の三業は、十悪を行わない、身に不殺生等、口の不妄語等、意に不貪欲等で、これを十善とも言います。

 また善悪の結果を招かないものを、無記の三業と言います。

 これらの行為は、未来にもたらされる原因となり、

行為の善悪にしたがって、未来に善悪様々な結果として現われてきます。

 御法主日如上人猊下は、

 「私達には心があります。この心が悪い方向へ行くと悪い行いをします。

また悪いことを言います。

正しい心を持っていれば、正しいことを行います。そしてまた正しいことを言います。

よって、この身口意の三業ということが非常に大事でありまして、

この身口意の三業が悪いほうへ傾いていきますと、

その人の人生は苦しみの世界に入っていきます。正しいほうに向いていますと、

私達の生活は本当に正しい、成仏の境界に至ることができるのであります」

 (大白法 701号)

と仰せです。

 私たちは、身口意の三業にわたり正しい信心修行に励むことが大切であり、

その善行によって必ず御本尊様の大功徳を得られます。

そして、この信心姿勢こそ、大聖人様の弟子檀那として恥じない、正直な信心なのです。

 



🖊 ポイント

総本山第二十六世日寛上人は、

 「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。

口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。

手に珠数(じゅず)を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」

(御書文段608㌻)

と御教示です。

 私たちは常に、 心に折伏を忘れず、折伏を行い、御本尊様に向かい勤行・ 唱題に励むことが最も重要です。




『四箇の名言』

 『建長寺道隆への御状』に

 「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と云云」

  (御書 三七五㌻)と、


三障四魔

2022年12月07日 | 教学ノート(三)

大白法 平成28年9月16日(第941号)

 「 教 学 ノ ー ト 」 

  ㉔  三 障 四 魔

 三障四魔とは、仏道修行を妨げ、私たちを悪道に至らしめる3種の障害と4種の魔を言います。 

 

 まず三障とは、煩悩障、業障、報障のことを言います。

 「煩悩障」とは、貪・瞋・癡の三毒などの煩悩によって仏道修行を妨げられる障(さわ)り、

 「業障」とは、五逆や十悪などの重罪を犯すことによって仏道修行を妨げられる障り、

 「報障」とは、過去の悪業の報いによる障りで、地獄・餓鬼・畜生などとして生まれ、

             善業を積むことができない状態を言います。

 

 次に四魔とは、煩悩魔、陰魔(おんま)、死魔、天子魔のことを言います。

 「煩悩魔」とは、煩悩を盛んにさせ、仏道を行ずる者の智慧を奪う魔、

 「陰魔」とは、五陰魔とも言い、

           人間の肉体と精神を構成する調和を乱し、仏道に障害を起こす魔、

 「死魔」とは、自らの死により仏道修行を続けられなくなることや、

                         身近な人の死によって疑いを起こさせる魔、

 「天子魔」とは、食欲や睡眠欲などの本能的な欲望に支配された

                            欲界・第六天の他化自在天に住む魔王のことで、第六天の魔王とも言います。

 この第六天の魔王は、仏道を成就することを妨害して精気を奪うなど、あらゆる障魔の根源です。

 これらの障魔が様々な姿形(すがたかたち)に変じて、私たちの仏道修行を妨げるのです。

大聖人様は、三障四魔について『兄弟抄』 に、

 「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。

第五の巻に云はく『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる。

乃至 隨(したが)ふべからず畏(おそ)るべからず。

之に髄へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修(しゅう)することを妨ぐ』等云云。

此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」

(御書 986㌻)

と仰せられています。

 このように、正法を信仰して折伏に励む者には、必ず三障四魔が起こり仏道修行を妨げられるのです。 

 しかし、大聖人様は『聖人御難事』に、

 「月々日々につ(強)より給へ」(同 1397㌻) 

と仰せられています。

 私たちは、障魔に負けることのないよう、

日々の勤行・唱題・折伏に一生懸命邁進することによって自分自身の罪障を消滅し、

即身成仏することができるのです。

 

 

 

🖊 ポイント

 御法主日如上人猊下は、 

 「あらゆる障魔は、正しい仏法の教えを守り、幸せを築こうとすると、

影が身に添うように、 粉然として競い起こってきます。

魔の力は強く、その影響力から逃れることは大変でありますが、

しかし、この魔との戰いのなかにこそ、仏法の修行の要諦があり、

しっかりと題目を唱え、正法広布に身を捧げ進んでいけば、

魔を魔と見破り、未来を明るく開いていくことが必ずできるのであります」

(大日蓮 836号)

と仰せられています。

 

 

 

 


三毒

2022年12月02日 | 教学ノート(三)

大白法 平成28年8月16日(第939号)

 「教学ノート」 

  ㉓ 三 毒

 三毒とは、

 貪欲(とんよく)(貪(むさぼ)る心)・瞋恚(しんに)(瞋(いか)る心)・愚癡(ぐち)(愚(おろ)かな心)の三種類の煩悩のことを言います。

衆生の善心を害する根本的な煩悩であることから、毒に譬えた語で、貪瞋癡(とんじんち)の三毒とも言います。

 『五百弟子受記品』には、

 「衆に三毒有り」(法華経 296㌻)

と説かれているように、私たち、一切の衆生が持っている煩悩です。

 日蓮大聖人様は『観心本尊抄』に、

 「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かは畜生」(御書 647㌻)

と仰せで、貪瞋癡の三毒は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の境界を表しています。

 貪欲とは、自分の欲しいものに執着して貪る心で、餓鬼の生命を言います。

 瞋恚とは、自分の心に違うものを瞋る心を言います。瞋りは苦を与えるため、それが業因となって地獄の報いを受けるのです。

 愚癡とは、道理に迷う愚かな心で、本能的に動く畜生の生命を言います。

 大聖人様は三毒について『始聞仏乗義』に、

 「此の苦果の依身は其の根本を探り見れば貪・瞋・癡の三毒より出でたるなり」(同 1208㌻)

と仰せのように、貪瞋癡の三毒は、私たちがこの身に受ける様々な苦しみの根元となるのです。

 また『曽谷殿御返事』には、

 「邪法をあい(愛)し、正法をにくむ、三毒がう(強)じゃう(盛)なり。(中略)

飢渇(けかち)は大貪(だいとん)よりをこり、やく(疫)びょう(病)はぐ(愚)ち(癡)よりをこり、合戦は瞋恚よりをこる」

 (同 1386㌻)

とあり、貪瞋癡の三毒は邪宗教によって悪循環し、増大していきます。そして、正法に違背し、邪宗教を信仰することで、三毒は単に個人の不幸、迷いの根元となるだけではなく、貪りから飢饉、瞋恚から戦争、愚癡から疫病が起こり、日本乃至全世界の人々と国土の不幸の根元となるのです。

 では、いかなる法によって貪瞋癡の三毒は対治することができるのでしょうか。『開目抄』に、

 「貪・瞋・癡等の三毒は仏の種となるべし」(同 530㌻)

とあるように、私たちは大聖人様が説かれた妙法蓮華経を正しく素直に受持・信行することによって、貪瞋癡の毒気は成仏の因となり、即身成仏の大利益を得ることができるのです。



🖊 ポイント

 御法主日如上人猊下は、

 「貪瞋癡の三毒に害せられ、苦悩にあえぐ、より多くの人達を正しい信心に導いていくことが、大聖人様の弟子檀那として今、最も肝要であり、これこそ御本仏大聖人のお心にかなう自行化他の信心であります」(大白法 801号)

と仰せです。

 私たちは多くの人々を救うために、自行化他の信心に励むことが大切です。特に折伏行の実践は、三毒が元で起こる飢饉や戦争などを断ち切ることができ、相手の幸福のみならず、世界の平和をも築けるのです。


宿業

2022年11月24日 | 教学ノート(三)

大白法 平成28年7月16日(第937号)

 「教学ノート」 

  ㉒ 宿 業

 宿業とは、 過去世からの善悪の行いによって、現世や未来世に苦楽の結果を招くことを言います。

 私たちは、一人ひとり生まれながらにして容姿や能力などが異なります。

 それは、因果の道理において、過去世からの一切の行為・言動・思考のすべてが、善悪の行為として命に積み重なり、現世や未来世に結果としてその報いを体や心に受けるからです。

 この宿業の相には、 業因(原因)と業果(結果)があります。

 業因とは、 身・口・意の三業です。身業とは身体で行動すること、口業とは口から言葉を発すること、意業とは心で思うことです。

 この身・口・意に、人のすべての行為が含まれます。

 次に、 業果には、共業(ぐう ごう)と不共業、定業と不定業が挙げられます。

 共業とは、国土の災害や社会の問題など、誰もが共通して受ける業のことです。

 不共業とは、 病気などの個人的に受ける業のことです。

  また、定業とは、過去世からの行いによって既に定まって変えることのできない業のことを言い、不定業とは、善悪の行いによって改められる業のことを言います。

 さらに宿業を受ける時は、順現受業(現世ですぐに報いを受ける) 、 順次受業(未来世で報いを受ける)、順後受業(未来世の次の世以降で報いを受ける)の3種があります。

 大聖人様は、『可延定業御書』に、

 「定業すら能く能く懴悔すれば必ず消滅す。何(いか)に况(いわ)んや不定業をや」

  (御書 760㌻)

と仰せられ、『佐渡御書』に、

 「宿業はかりがたし。(中略)偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」(同 580㌻)

と仰せられております。

 私たちは、大聖人様の仏法を信じ、三大秘法の御本尊様に御題目を唱え、一人でも多くの人にこの妙法を弘めていくことが大切です。

 その信行によって、過去世からのあらゆる謗法罪障を消滅し、すべての人が幸せな生活を送ることができるのです。

 🖊 ポイント

  総本山第26世日寛上人は、

  「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向かい、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。是れ則ち身口意三業に法華を信ずる人なり」(御書文段 608㌻)

と、身口意の三業の上に、破邪顕正の精神を常に忘れず、折伏を行じていくことが肝要であると御指南されています。


煩悩

2022年11月22日 | 教学ノート(三)

大白法 平成28年6月16日(第935号)

 「教学ノート」 ㉑

        煩 悩

 煩悩とは、私たちの心身をかき乱し、悩まし、穢す、ありとあらゆる精神作用の総称です。つまり、私たちの生命に具わる、成仏するための障りとなる欲望や迷いの心のことを煩悩と言います。

 煩悩は、「百八煩悩」 や「八万四千の煩悩」という言い方があるように、

数多くあると言われています。 天台大師は、そのように数多くの煩悩を、見惑(真実の道理に対する惑い)・ 思惑(諸事物を思慮して起こる惑い)・塵沙惑(衆生を自在に教化することができない妨げ)・無明惑(無数の煩悩の根源)に大きく分けています。このうちの見惑と思惑は合わせて見思惑とも言い、見思・塵沙・無明の三つの惑を三惑と総称します。

 また煩悩は「惑」や「縛」などという呼び方をされるように、一切衆生は煩悩によって悪行を犯し、その結果として苦悩の報いを受けて生死(迷いの世界)に縛られ続けるのです。

 そこで釈尊は、無数の煩悩によって迷いの世界から抜け出せない衆生を救済するために、多くの教えを説き、煩悩を断つことで悟り( 成仏)に到達できると説かれました。

 法華経以前に説かれた爾前経では、 成仏するためには生死を繰り返しながらたくさんの煩悩を徐々に断じていき、すべての煩悩を断じ尽くしたところに成仏があると説かれました。

  しかし、真実の教えである法華経に至ると、煩悩と菩提(仏様の悟り)は相反するものではなく、私たちの生命に共に具わってるものと明かされました。そして、根本においてこの二つは、本来、一体のものであり、煩悩はそのまま菩提となると説かれたのです。これを煩悩即菩提と言います。 

 日蓮大聖人様は『当体義抄』 に、

 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(御書 694㌻)

と、南無妙法蓮華経と信じて唱える功徳によって、煩悩を直ちに菩提へと転ずる、即身成仏という仏法究極の利益を得られると仰せです。

 したがって私たちは、本門戒壇の大御本尊様に対する不惜身命の強盛な信心と唱題により、煩悩がそのまま成仏の因となり、その身そのままで成仏の大果報を得ることができるのです。 

 

 

 

 

  🖊 ポイント

 御法主日如上人猊下は、

 「人々の苦しみや悩み、不幸、こういったものはどこから出てくるかと言うと、結局は煩悩から生まれてくるわけで、この煩悩が悪業の因縁を作り、そして、その悪業の因縁によって人々が苦しむのであります。それがずっと永遠に続くのでありまして、つまり苦しみがまた煩悩を生み、煩悩が悪業の因縁を作る、そして悪業の因縁によって苦しむ、そしてまた煩悩を作る、これを輪廻三道と言いますけれども、そこから抜け出すことができないのであります。

 この三道を法身・般若・解脱の三徳に転じていくのは、大聖人様の仏法以外にないのであります」(大白法  686号)

と仰せです。