「大白法」 平成28年1月16日(第925号)
【教学基礎講座】14
四教と三諦円融
ー法華経こそ真実円融の法ー
天台大師は釈尊の説法を五時八教によって判釈しました。この五時八教の八教は、大きく二つに分けられます。 説法の形式によって分類したものを化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)と言い、内容・教理の面から分類したものを化法の四教(蔵・通・別・円)と言います。これらは薬の調合の仕方(化儀)と薬味(化法)に譬えられます。
私たちは衆生が様々な迷いを生じて悪道に沈むのは、煩悩という妄心によって真理である空・仮・中の三諦に迷うからであり、釈尊が仏教を説かれたのも、三諦の原理によって人々を救おうとされたからです。
しかし、仏の悟りである三諦の理は実に難解なので、 釈尊は方便を用いたり、あるいは真理を頓ちに説き示したり(頓)、浅い所から深い所への漸次に説いたり(漸)、また衆生の根力に従って顕露不定教を説いたり(不定)、 同じ法座にいながら聞くものによって説法の内容が異なって聞こえるというような、他の者がどのような説法を聞いているのか判らないように個々に対して法を説く秘密不定数(秘密)を用いたりしたのです。
これらの手段によって説かれた四教について説明してみましょう。
蔵 経
蔵とは、経・律・論の三蔵を意味します。竜樹菩薩が『大智度論』で大乗に対する小乗を三蔵と論じ、また法華経『安楽行品』にも「小乗に貧著する三蔵の学者」とあるところから、小乗の教えを蔵教と言うようになりました。
ここでは、見思の二惑が真理としての空理を蔽い隠す煩悩であるとして、欲界・色界・無色界の三界六道の因果を説き、声聞には四諦の法、縁覚には十二因縁、菩薩には六波羅蜜という修行によって三界から解脱する空理を悟ることが究竟の涅槃であると説きます。
蔵教では、衆生個々を含め、三界の諸法はことごとく因縁離合の力によって生滅するものであると説きます。その実体は本来、「苦・空・無常・無我」なのですが、衆生はみだりに実我実性があると執着するために、得ては喜び、失っては悲しみ、いつも煩悩を起こして妄業を作り、その結果、未来に苦果を招いてしまうのです。 ですからその一つ一つを分析して、最終的に空を観ずるという析空観を修行すれば、煩悩を断じ除くことができると説くのです。
しかし、 このような空は現実を否定する空の一遍のみの教えであることから但空とも言い、他の仮・中の諦理との間に繋がりがない偏った空理、すなわち偏空の教えとされています。
通 教
通とは、空の理が前の蔵経と所詮は同じであることから通同、また後の高度な別教・円教に通じているので通入と言い、そこから通教と言います。
ここでは、蔵教と違って直ちに道理を基礎として見た空理を立てます。 すなわち因縁即空・無生無滅の法理によって、万有の諸法とは直ちに空であることを説くのです。これを体空と言います。
しかし、また当体即空と説く当体には、 凡夫の主観を基にして生じた相を一端は認めておいて、それを通教の教理によって三界の諸法はそのまま即空であり、無生無滅であるとするのです。故に、そこには自ずと有の存在を含んでいるということになり、これを蔵教の但空に対して不但空とい言います。
通教では、二乗や鈍根のの菩薩は灰身滅智と言って、煩悩の源となる自分の身を灰にする無余涅槃を最高の境地としますが、利根の菩薩は、さらにこの空理の中に深く含まれている中道の理を見出して、後の高度な別円二教の悟りにも通入します。 これを被接と言います。
別 教
別教の別とは、先の蔵通二教とも後の円教とも異なるという意味です。
ここでは、ただ空理だけを明かすのではなく、広く空仮中の三諦を明かし、さらに三界六道の外(界外)の因縁の相をも明かして、菩薩が仏果をめざして進む長期の修行の因果を説きます。
しかし、この三諦は離歴三諦と言われます。 空諦・仮諦はそれぞれ別々のものであり、真如である中道も、空仮の二辺を離れた但なる中であるところから但中と言われ、教えの上では先の通教と共に方便説を帯びた権大乗の分域を脱することができません。したがって、その修行方法も次第三観・隔歴三観が説かれます。
ところが、実際にこれに従い、空観・仮観と離歴の修行を積み、中道観を修行する初地という位にまで登ると、そこには別教で説かれる但中の理(空諦でも仮諦でもない純浄無垢な真如中道)が現れるのではなく、自然と円教の教理の中へ入っていくことになります。 このように初地以上の位の人が円教の人となり、現実には修行者がいなくなってしまうことを有教無人と言います。
円 教
円とは、 偏ることがない完全な者という意味です。
別教の説では、真如と現象界とを純浄無垢と無明妄染とにはっきりと分けていますから、修行も次第・隔歴して真如中道を求めることになります。
しかし、円教では真如中道の理に、本来宇宙法界の万有の本性を具し、常に一体不二であって、そのどちらかが先に現れたり後に帰入するというものではないので不縦と言い、またことごとくが真如以外のものではないから不横と言います。
また空仮中の三諦円融は、法体に別なく隔たりなく、しかも凡夫の思議が及ぶところではない故に円妙と言い、もとより諸法を具えて欠けるところがないので円満と言い、一法に万法を収めるので円足と言い、先後の別なく次第に経て修行成就するものではないので円頓と称されます。
さらに智円と言って一切智・道種智・一切種智の三智の相が一体であることや、行円と言って一行は即一切行であること、位円と言って初位に一切位の功徳があることなどが説かれ、不遍の円理、即空即仮即中、中道即一切法の理が明かされるのです。
このように円教では真理を説き示す教相法門の全面に「円融」という思想が徹底され、修行の面における観心門においても「円頓」と言って、一心三観の妙修が説かれます。 これに至って初めて、仏の悟りは煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即寂光の妙理であることが示されるのです。
真の円教
爾前の円と、法華の円との相違について、天台大師は三種の教相を明かす中に、約教・約部の法門として示しています。
すなわち約教・約部の両時に前三為麁・後一為妙ありとして、約教の時は蔵・通・別の三教は方便の教えであり、円教のみが真実の教えであるとしています。 これは今まで述べてきた四教の内容そのままの意味です。また、約部とは、五時判に配して勝劣を判断する立場ですから、華厳部には別円二教が説かれ、方等部には蔵通別円の四教が説かれ、般若部にも通別円の三教が説かれているのです。
しかし、法華経の円と比べたときに、法華経以前の三教(華厳・方等・般若)は方便の教えを帯した円であり、後の一教(法華経)のみ純円一実の教えであると厳格に判ぜられています。つまり、三諦円融の法門は、法華経が説かれて初めて真実のものとなるのです。
天台大師はこの法華経によって理の一念三千の法門を示し、大聖人は末法の御本仏として、その本門『寿量品』の文底に秘沈された妙法を事行の一念三千たる本門戒壇の大御本尊として御建立されたのです。
私たちはこの御本尊をひたすら受持信行するところに、自ずと三諦円融の妙理を体得し健全な人生を歩むことができるのです。
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化法の四教と空仮中の三諦
蔵経:空(析空、但空)
通教:空(体空、不但空)
別教:空仮中(隔歴の三諦、但中)
円教:空仮中(円融の三諦、不但中)
※法華経以前の教えに説かれる円は方便の教えを帯びたものであり、法華経のみ純円一実の教え