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四教と三諦円融

2022年05月30日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成28年1月16日(第925号)

  【教学基礎講座】14

     四教と三諦円融 

ー法華経こそ真実円融の法ー

 

 天台大師は釈尊の説法を五時八教によって判釈しました。この五時八教の八教は、大きく二つに分けられます。 説法の形式によって分類したものを化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)と言い、内容・教理の面から分類したものを化法の四教(蔵・通・別・円)と言います。これらは薬の調合の仕方(化儀)と薬味(化法)に譬えられます。

 私たちは衆生が様々な迷いを生じて悪道に沈むのは、煩悩という妄心によって真理である空・仮・中の三諦に迷うからであり、釈尊が仏教を説かれたのも、三諦の原理によって人々を救おうとされたからです。

 しかし、仏の悟りである三諦の理は実に難解なので、 釈尊は方便を用いたり、あるいは真理を頓ちに説き示したり(頓)、浅い所から深い所への漸次に説いたり(漸)、また衆生の根力に従って顕露不定教を説いたり(不定)、 同じ法座にいながら聞くものによって説法の内容が異なって聞こえるというような、他の者がどのような説法を聞いているのか判らないように個々に対して法を説く秘密不定数(秘密)を用いたりしたのです。

 これらの手段によって説かれた四教について説明してみましょう。

  蔵 経

 蔵とは、経・律・論の三蔵を意味します。竜樹菩薩が『大智度論』で大乗に対する小乗を三蔵と論じ、また法華経『安楽行品』にも「小乗に貧著する三蔵の学者」とあるところから、小乗の教えを蔵教と言うようになりました。 

 ここでは、見思の二惑が真理としての空理を蔽い隠す煩悩であるとして、欲界・色界・無色界の三界六道の因果を説き、声聞には四諦の法、縁覚には十二因縁、菩薩には六波羅蜜という修行によって三界から解脱する空理を悟ることが究竟の涅槃であると説きます。

 蔵教では、衆生個々を含め、三界の諸法はことごとく因縁離合の力によって生滅するものであると説きます。その実体は本来、「苦・空・無常・無我」なのですが、衆生はみだりに実我実性があると執着するために、得ては喜び、失っては悲しみ、いつも煩悩を起こして妄業を作り、その結果、未来に苦果を招いてしまうのです。 ですからその一つ一つを分析して、最終的に空を観ずるという析空観を修行すれば、煩悩を断じ除くことができると説くのです。

 しかし、 このような空は現実を否定する空の一遍のみの教えであることから但空とも言い、他の仮・中の諦理との間に繋がりがない偏った空理、すなわち偏空の教えとされています。 

 通 教

 通とは、空の理が前の蔵経と所詮は同じであることから通同、また後の高度な別教・円教に通じているので通入と言い、そこから通教と言います。

 ここでは、蔵教と違って直ちに道理を基礎として見た空理を立てます。 すなわち因縁即空・無生無滅の法理によって、万有の諸法とは直ちに空であることを説くのです。これを体空と言います。

 しかし、また当体即空と説く当体には、 凡夫の主観を基にして生じた相を一端は認めておいて、それを通教の教理によって三界の諸法はそのまま即空であり、無生無滅であるとするのです。故に、そこには自ずと有の存在を含んでいるということになり、これを蔵教の但空に対して不但空とい言います。

 通教では、二乗や鈍根のの菩薩は灰身滅智と言って、煩悩の源となる自分の身を灰にする無余涅槃を最高の境地としますが、利根の菩薩は、さらにこの空理の中に深く含まれている中道の理を見出して、後の高度な別円二教の悟りにも通入します。 これを被接と言います。

 別 教

 別教の別とは、先の蔵通二教とも後の円教とも異なるという意味です。

 ここでは、ただ空理だけを明かすのではなく、広く空仮中の三諦を明かし、さらに三界六道の外(界外)の因縁の相をも明かして、菩薩が仏果をめざして進む長期の修行の因果を説きます。

 しかし、この三諦は離歴三諦と言われます。 空諦・仮諦はそれぞれ別々のものであり、真如である中道も、空仮の二辺を離れた但なる中であるところから但中と言われ、教えの上では先の通教と共に方便説を帯びた権大乗の分域を脱することができません。したがって、その修行方法も次第三観・隔歴三観が説かれます。

 ところが、実際にこれに従い、空観・仮観と離歴の修行を積み、中道観を修行する初地という位にまで登ると、そこには別教で説かれる但中の理(空諦でも仮諦でもない純浄無垢な真如中道)が現れるのではなく、自然と円教の教理の中へ入っていくことになります。 このように初地以上の位の人が円教の人となり、現実には修行者がいなくなってしまうことを有教無人と言います。

 円 教

 円とは、 偏ることがない完全な者という意味です。

 別教の説では、真如と現象界とを純浄無垢と無明妄染とにはっきりと分けていますから、修行も次第・隔歴して真如中道を求めることになります。

 しかし、円教では真如中道の理に、本来宇宙法界の万有の本性を具し、常に一体不二であって、そのどちらかが先に現れたり後に帰入するというものではないので不縦と言い、またことごとくが真如以外のものではないから不横と言います。

 また空仮中の三諦円融は、法体に別なく隔たりなく、しかも凡夫の思議が及ぶところではない故に円妙と言い、もとより諸法を具えて欠けるところがないので円満と言い、一法に万法を収めるので円足と言い、先後の別なく次第に経て修行成就するものではないので円頓と称されます。

 さらに智円と言って一切智・道種智・一切種智の三智の相が一体であることや、行円と言って一行は即一切行であること、位円と言って初位に一切位の功徳があることなどが説かれ、不遍の円理、即空即仮即中、中道即一切法の理が明かされるのです。

 このように円教では真理を説き示す教相法門の全面に「円融」という思想が徹底され、修行の面における観心門においても「円頓」と言って、一心三観の妙修が説かれます。 これに至って初めて、仏の悟りは煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即寂光の妙理であること示されるのです。

 真の円教

 爾前の円と、法華の円との相違について、天台大師は三種の教相を明かす中に、約教・約部の法門として示しています。

 すなわち約教・約部の両時に前三為麁・後一為妙ありとして、約教の時は蔵・通・別の三教は方便の教えであり、円教のみが真実の教えであるとしています。 これは今まで述べてきた四教の内容そのままの意味です。また、約部とは、五時判に配して勝劣を判断する立場ですから、華厳部には別円二教が説かれ、方等部には蔵通別円の四教が説かれ、般若部にも通別円の三教が説かれているのです。

 しかし、法華経の円と比べたときに、法華経以前の三教(華厳・方等・般若)は方便の教えを帯した円であり、後の一教(法華経)のみ純円一実の教えであると厳格に判ぜられています。つまり、三諦円融の法門は、法華経が説かれて初めて真実のものとなるのです。

 天台大師はこの法華経によって理の一念三千の法門を示し、大聖人は末法の御本仏として、その本門『寿量品』の文底に秘沈された妙法を事行の一念三千たる本門戒壇の大御本尊として御建立されたのです。

 私たちはこの御本尊をひたすら受持信行するところに、自ずと三諦円融の妙理を体得し健全な人生を歩むことができるのです。

 

      ◇     ◇

 

 化法の四教と空仮中の三諦

  蔵経:空(析空、但空)

  通教:空(体空、不但空)

  別教:空仮中(隔歴の三諦、但中)

  円教:空仮中(円融の三諦、不但中)

※法華経以前の教えに説かれる円は方便の教えを帯びたものであり、法華経のみ純円一実の教え

 

 

 

 

 

 

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三諦について

2022年05月29日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成27年12月16日(第923号)

 【教学基礎講座】13

  三諦について 

ー真実の姿を明らかにする方法ー

 

 三諦とは何か

 物事の真実の姿は、一方の面だけで見極めることはできません。また、対立する二つの面だけで、全体的な把握をすることも完全ではありません。

 そこで、対立する二面いずれにも偏ることなく、両方を融合して真実の姿を明らかにする第三の面が必要となります。

 天台大師は、諸法の実相を明らかにする方法として、この三方面を「空仮中の三諦」として説き、さらにこの三諦を修行することによって苦の根源である見思・塵沙・無明の三惑を断ずることができると説きました。 

 「諦」とは審諦とも言い、「つまびらか」「あきらか」ということであり、真実不虚の義で、仏の悟りによる真理を意味します。

 この三諦の名は、『仁王経』の「二諦品」に出ていますし、空仮中の名は、『菩薩瓔珞本業経』の「賢聖学観品」と『中観論』の「四諦品」に出ています。

 ちなみに、中国の慧文禅師は『中観論』の、

「因縁所生法 我説即是空 亦為是仮名 亦是中道義」

いう四句によって三諦の妙旨を悟ったと言われ、それを弟子の南岳大師に授け、さらに南岳から天台大師に伝えられたと言われています。

 三諦の特徴

〈空 諦〉

  「空」の字は一般的に「うつろ・ない・欠けた」という意味に理解されていますから、「空とは無(非存在)」 と考えがちですが、仏教では精神のあるものも、ないものも、一切世間のものはすべて因縁によって生じており、因縁によって生じる事物は、それ自体に実体はないとし、 これを空と説いています。つまり、一切の事物には実体がないという真理を空諦と言うのです。

 天台大師は、小乗仏教の説く空は、存在を分析して空であることを観ずる 析空観であり、大乗仏教の説く空は、 存在そのものを直ちに空と観ずる体空観であると説いています。

 また小乗は、空のみを見て不空を見ないから但空と言い、大乗は一切の存在を空であると見ながら、同時に空でない仮諦・中諦の面も見るので不但空と言います。

〈仮 諦〉

 仮諦とは、 いかなるものも、実在はしないけれども、現実には、その姿がはっきりと現れていることを言います。

 仮とは「仮に想定されたもの」のことであり、実在しないけれども比喩的な意味で「存在する」と説くことです。故に、実体性はないものの、現象として仮に存在する意味として用いられています。 現象としての諸法が仮であることは『大品般若経』に、

 ①物体は多くのものが集まって作り上げられている(受仮)

 ② 法そのもの法、因と縁とによって生じたものである(法仮)

 ③すべては名 のみであって、実体のないものである(名仮)

の三仮が説かれ、あらゆるものに自性(もの自体の本性)のないことを示して、凡夫のとらわれを破しています。

〈中 諦〉

 中諦とは、仮諦と空諦の二辺に執着しない中正の真理を言います。

 つまり、すべてのものは、因縁によって仮に存在しているに過ぎない故に空である。空という固定的な体もない故に、空もまた空と言えます。したがって、仮と空を共に否定し、空と仮を共に立てて偏執のないところに真実がある、というのを中諦とも中道とも言います。

 この中道は、二者の中間というような折衷的な考えでなく、空諦と仮諦の両面を包摂したところの真理ということができます。

 この中道を四教(釈尊の教えを蔵経、通教、別教、円教の四つに分類したもの)の上に見るとき、蔵経には中道が存在しないので「夢中」と 言い、通教は中道を含むので「含中」、別教は単独の中道しか説かないので「但中」、円教は三諦円融の中道を説くので「不但中」と言います。

  隔歴三諦と円融

 この三諦の見方には二つあります。

 一 には、三諦各々を個々に独立した真理として考える別教の「隔歴の三諦」です。

 二には、三諦の孤立性を廃して、一諦のうちに互いに三諦を具えて、各々が即空・即仮・即中であると立てる円教の「円融の三諦」 です。

  「隔歴の三諦」とは、次第三諦と言います。空仮中の三諦が 各々別であって、空諦は空であって仮・中ではなく、仮諦は仮にして空・中ではない、 中諦は中であって空・仮でない、という意味であり、別教で説く教えです。

 これに対し、「円融の三諦」は、空仮中の三諦が互いに融け合い、 三諦の各々が他の二諦を互いに具することで、空諦そのままが仮諦・中諦であり、仮諦そのままが空諦・中諦であり、中諦そのままが空諦・仮諦であると説きます。

 この「円融三諦」の法理を円教と言いますが、天台大師は、この円融三諦を領解し感得するために一心三観の修行を立てました。

 三観とは、三諦を観ずることを言い、 衆生の一念がそのまま円融の三諦であると、明らかに観ていくことです。

 この一心三観によって覚知する法理が一念三千です。

 『御義口伝』には、

 「円融三諦は何物ぞ。所謂南無妙法蓮華経是なり。此の五字は日蓮出世の本懐なり」(御書 一七二九㌻)

と示されています。

 日蓮大聖人は、天台の立てる一念三千を理観であるとし、末法の衆生を直ちに悟りの境界へと達せしめる事行として、三大秘法の大御本尊を確立されたのです。

 

       ◇    ◇

 

 三 諦】

 

  「空 諦」

   一切の事物には実体がないという真理

       一切世間のものはすべて因縁によって生じており、

    因縁によって生じる事物は、 それ自体に実体はないとし、 

            これを空と説く。 

 

   「仮 諦」

   いかなるものも実在はしないけれども、現実にはその姿が現れていること

       実体性はないものの、現象として仮に存在する意味。

     あらゆるものに自性のないことをし示して、

     凡夫のとらわれを破している。

 

  「中 諦」

   仮諦と空諦の二辺に執着しない中正の真理

       仮と空を共に否定し、空と仮を共に立てて、

         偏執のないところに真実がある。

            空諦と仮諦の中間というような折衷的な考えでなく、

       両面を包摂したところの真理。

 

 

 

 

 

 

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釈迦のめざしたもの

2022年05月28日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

大白法(平成26年9月16日)第893号

 【教学基礎講座】1

 「釈迦のめざしたもの」

 

 《はじめに》

 このたび平成四年二月号より毎月一回全三十二回にわたり連載した「教学基礎講座」を再掲載することになりました。
 この「教学基礎講座」では初めに釈尊について、その生涯と教義を概説します。さらに仏教の教理の中から主要な語句を解説しながら、基本的な教義を順次紹介し、その後、釈尊の法華経、天台・伝教の法華経、そして日蓮大聖人の文底下種の法華経について、それぞれの立場と関連性を述べ、最後に日蓮大聖人の仏法全般からその要点を解説します。

 なお、再掲に当たっては、今後の法華講員の教学研鑽に役立つよう、必要な部分については加筆・訂正します。

      ◇    ◇

 仏教は、すべての人の根本的な救済を目指しています。

 では釈尊はいかなる理念をもって民衆を救済しようとしたのか、

二つのエピソードから考えてみたいと思います。 

 〈四門出游(四門遊観)〉

 釈尊はカピラ城の太子だったとき、王城の四つの門から外出した際、東門で腰の曲がった老人に、南門で死にかかった病人に、西門で葬列の死者に出会い、これらの老・病・死という現実は誰人も逃れられない苦しみの相であることを知って、その解決方法を考えているとき、北門で一人の出家者が身も心も清浄でいる姿を見て、決然として出家の志を抱きました。

 〈修行と開悟〉

 出家した釈尊は、まず二人の仙人を順次に訪れ、教えの通り禅定を修行しましたが、満足のできるものではありませんでした。

 そこで釈尊は山林にこもって苦行を修しましたが、それでも悟りを得られなかったため、河で身を清め、村の少女が捧げる乳粥を食べて元気を取り戻しました。そして苦行は悟りにとって無意義なものであることを知り、近くにある菩提樹の下で沈思瞑想し、ついに大悟を得て覚者となりました。時に釈尊三十歳の時であったと言われています。

現実重視〉

 これらのエピソードから釈尊が現実を直視した上で、人生を苦と捉え、その解決の道を求めたことが判ります。すなわち仏教の基本理念は、現実の人生を重視するところに立脚しているのです。

 〈毒矢の譬え〉

 この苦を救済することについて、『箭喩経』という経典に「毒矢の譬え」があります。

それはおよそ次のような話です。ある人が毒矢に当たって苦しんでいた。彼の親戚や友人は、早く医者に診せることを勧めたが、肝心の本人は、「私に毒矢を射たのは、バラモンの人か、庶民か、それとも隷民か。またその人の姓名は何というのか。その人は長身か短身か、皮膚の色はどうか。どこに住んでいるか。それが判らないうちは毒矢を抜き取るわけにはいかない」と言い、さらに彼は、「この毒矢に使った弓は何か、どんな種類の弓か、その弓の弦は何で作られたものか、矢幹は何か、矢は何の羽を使用したのか、毒の種類は何か」などと質問し議論しているうちに、毒が全身に回って、ついに死んでしまったという。
 この喩えは、仏教の現実重視の立場を端的に表しています。すなわち人生の悩みや苦しみを解決するのに、直接役に立たない不毛の議論は避けるべきであると教えています。

 〈仏教では超越神の存在を否定〉

 釈尊の生きた時代は、「来世は現実に存在するか否か」「世界は有限か無限か」「身体と霊魂は同じか否か」などの観念論が盛んに論じられていました。しかし釈尊は、それらの観念論はいくら追求しても、直ちに結論を出せる問題ではなく、かえって偏った考えに執着して、正覚(正しい悟り)を得られないと戒められています。また仏教では、現実から遊離した創造神や超越神などの架空の存在を認めず、人間の迷悟(迷いや悟り)や禍福(災いと幸せ)は、すべて自らの原因と結果によってもたらされるのであって、それ以外の何ものでもないと説いています。
 最近、仏教に名を借りた新興宗教が「霊界からのお告げ」と称してこれを売り物にしていますが、これなどは仏教とは似ても似つかぬ外道(仏教以外の低級宗教)と言うべきでしょう。 

〈未来の果は現在の因による〉

 私たちはややもすれば、貪り・怒り・愚かという三毒の矢が我が身に刺さっているのに、目先のことに執われて、毒矢を抜き取ることを忘れがちではないでしょうか。
  釈尊はこの世界の現実を見つめ、人生を「四門出遊」に表わされる四苦・八苦そのものと見、その苦をさらに踏み込んでこの世のすべては苦であり、空であり、無常であり、無我であると達観しました。そして諸々の苦の根本的解決は三世(過去・現在・未来)に亘る因果の法に立脚しなければならないことを明かされました。つまり現在の果報は過去の業因によるものであり、未来の果報は現在の業因によると言うのです。しかも三世は別々のものではなく、過去と未来は現在の一念に包含されるが故に、過去の悪業を浄化し、未来に菩提の果報を得るためには、現世において無上の善業たる正法に信順しなければならないと説いて、釈尊は苦の現実相からの解脱をめざしたのです。


  🖊〈総本山の五重塔〉

 釈迦の仏教はインドから日本へと東に渡ってきた。末法において大聖人の仏法が日本からインドへと西に還り、さらに広宣流布するという意義から総本山の五重塔は西向きに建っていると言われる。                            

 

 

 

 

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仏教の起源 その①

2022年05月28日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

大白法(平成26年10月16日)第895号

 【教学基礎講座】2

 仏教の起源 その① 

 ー文明・社会的背景ー

 

 「仏教」という言葉には、「仏の説いた教え」と「仏になる教え」との二つの意味があります。

 この仏についても、仏教ではその経典によって、様々に解き明かされており、必ずしもインド出現の釈迦に限られたものではありません。しかし歴史的に見れば、仏教はインドの釈迦によって初めて説き出されました。今、私たちが、インド仏教の起源を学ぶことは、仏法者の常識として、さらには大聖人の仏法を、より深く知るためにも、意義のあることと言えましょう。

 今回は、仏教が成立する以前のインドの様子について、簡単に説明しておきたいと思います。

   【仏教成立以前の状況】

   〈文明〉

 紀元前3000年から2500年頃にかけて、当時インド領に属していたインダス川流域にはインダス文明が栄えていました。インダス文明は、メソポタミア文明・エジプト文明・中国文明等と共に、人類最初の古代文明の一つであり、当時すでに下水道まで完備していたモヘンジョ=ダロとハラッパの両都市の遺跡は世界に広く知られています。また、当時既に文字を使用していたことも、古代文明の特色として挙げることができます。
このインダス文明の中心となった地域は、現在はパキスタン領になっています。

   〈民族・人種〉

 紀元前2500年頃のインドには、ドラヴィダ族と言われる人種が広く定着し、そのほかにも多くの人種がそれぞれの地域に住んでいました。紀元前1500年頃になって、インダス川上流のパンジャーブ地方にアーリア人が侵入し、先住民を征服したことから、次第に自由民(アーリア人)隷属民(ドラヴィダ人など)との区別がつけられるようになりました。

   〈階級制度〉 

 その後、アーリア人がガンジス川上流地方に移住した頃には、人種間の区別から、職業や地位による厳格な身分の差別が定着し、カースト制度と呼ばれる四姓制度が確立されました。

 この四姓とは、

  ①バラモン(婆羅門、司祭)・
  ②クシャトリヤ(王候、士族)・
  ③ヴァイシャ(庶民・商工層)・
  ④シュードラ(隷民=アーリア人以外の人種) を言い、

 「カースト(caste)とは、ポルトガル語の casta(血統)に由来するインド社会で歴史的に形成された身分制度です。このカースト制度は、その後さらに細かく分かれて、その数は4000種にもなり、異なった階級の間での結婚はもちろんのこと、食事を共にすることさえも禁じられたのです。 

  〈バラモン教・ヴェーダ聖典〉

 このような社会体制の基盤となったのは、アーリア人による「リグ・ヴェーダ」を根本聖典とするバラモン教でした。アーリア人はもともと宗教的な民族で、大自然の現象を畏敬し、自然の力を神格化しました。
 その大自然の神々への讃歌・祈祷・呪法・音楽などをまとめた聖典を「リグ・ ベェーダRigVeda]と言います。 (「ヴェーダ」とは「神聖な知識」という意味です)この「リグ・ヴェ−ダ」が基本となって、さらに三つのウェーダ聖典が作られました。

 大聖人様は御書に、この四つのヴェーダを「四韋陀」と記されています。
 このように紀元前1500から500年ごろのインドは、「ヴェーダ時代」とも言われるように、バラモン教が広く行われ、それにつれて四姓制度も深く定着していきました。ガンジス川で沐浴し、牛を崇めることで知られるヒンドウー教は、バラモンの思想が基礎となって出来た宗教です。

  〈その他の思想・宗教〉

 長い年月にわたってヴェーダ聖典を尊重する中で、経典「ブラーフマナ」に 代表される祭式万能思想が生まれ、さらに知識を重視し、宇宙の根本真理を探究する思想が芽生えてきました。
 特に、「 リグ・ヴェーダ」に 端を発した真理探究の思想は、紀元前800から500年ごろに至って、ウパニシャッド( 奥義書)哲学として結実します。

 このウパニシャッドーの思想とは、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と 個人の存在の根本原理アートマン(我)とが同一であるという「梵我一如」の考え方が基本となっています。この他にも 『開目抄』等にみられる三人のバラモンの行者(三仙)、すなわち迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の教えがあり、また釈尊が出現された時代には、中インドで六師外道が勢力を誇っていました。

 『三三蔵祈雨事』には、「外道と申すは仏前八百年よりはじまりて、はじめは二天三仙にてありしが、やうやくわかれて九十五種なり」(御書八七六㌻)とあります。

ここでいう「二天」とは、古代インドで崇拝された摩醯首羅天(大自在天)と毘紐天(自在天)のことです。

        ◇   ◇

   バラモンをはじめとする仏教以外の思想について、

  大聖人様は

 『開目抄』に、「外道の所詮は内道に入る即ち最要なり」(同 五二五㌻)と、法華経の開会の立場から内道(仏教)に入るための序段と位置づけられています。なお、これらの思想・宗教は、いずれも因果の理法が明確でなく、現実から遊離した教えであったために、すべての人を根本的に救済する力はなく、カースト支配の社会体制を改革することもできなかったのです。

 

 

 

(つづく)

 
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仏教の起源 その②

2022年05月28日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

大白法(平成26年12月16日)第899号

 【教学基礎講座】3

  仏教の起源 その②

  ー釈尊の生涯ー

 現在、釈迦の生涯に関する年代や年齢などにいろいろな説がありますが、ここでは日蓮大聖人様が用いられたと言われる『周書異記』の説に従って、釈尊の生涯を紹介したいと思います。 

  〈釈迦族〉

 釈迦とは、現在のネパール地方の南部に住んでいた種族の名前であり、この釈迦族は当時、 一種の共和国を形成していたと言われています。まず十人の長を選び、その中から一人の長を選出して、これを王と称していました。この釈迦族の首府を迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)と言いました。

  〈釈尊の誕生〉

 この釈迦族から出た聖者(ムニ)を尊称して釈迦牟尼世尊と言い、これを訳して釈尊と言います。釈尊は迦毘羅衛城の浄飯王(シュッドーダナ)を父とし、摩耶(マーヤー)夫人を母として誕生しました。誕生した悉達多太子が、七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言った話は広く知られています。

  〈阿私陀仙人の涙〉

 浄飯王は太子の誕生を喜び、将来を阿私陀仙人に占ってもらうことにしました。すると仙人は「この王子は将来、大王になってインドを統率するか、出家したなら偉大な仏になるであろう。しかし、年老いた私はその王子の成人した姿を見ることができない」と言って涙を流したと言われています。

  〈出家〉

 悉達多太子は幼い頃から聡明であり、青年時代には文武両道においても非常に優れていたので、浄飯王は太子に王位を継がせようとしました。しかし太子にはその気持ちはなく、妃(きさき)の耶諭陀羅(ヤショーダラー)との間に男子羅睺羅(ラーフラ)が生まれたのを機に、出家の道を志す気持ちが次第に強まっていきました。

 ある時、太子は四方の城門から遊楽に出ることになりました。ところが最初に、東の門から出ると老人に会い、次に南の門より出ると病人に会い、西の門から出ると死者に会いました。そのたびに快楽の欲望を失い、ますます俗世に嫌気が差した太子が最後に北の門から出ると、身も心も清浄な一人の出家者に出会いました。そこに正しく自分の理想の姿を見出した太子は、この時出家の意志を固めたのです。これを「四門出遊(遊観)」と言います。

  〈成道〉

 王宮を出た太子は、王から遣わされた阿若憍陳如(アジュニャ・カウンディンヤ)等五人の比丘と共に、初めは阿羅邏迦蘭(アーラーダ・カーラーマ)優陀羅羅摩子(ウドラカ・ラーマプトラ)という二人の仙人について修行したと言われていますが、それによって悟りを得ることはできませんでした。その後、十二年間にわたってあらゆる苦行を修めましたが、快楽に溺れるのと同様に、極端な苦行もまた無意味なことを悟り、仏陀伽耶(ブッタガヤ)の近くにある尼連禅河(ナイランジャナ−)で沐浴し、牧女の捧じた乳粥を食べて元気を恢復しました。

 これを見た五人の比丘たちは、釈尊が退転したと思い、皆その場を去っていきました。その後、釈尊は菩提樹の下の金剛宝座に座して沈思黙想の末、ついに悟りを開き、ここに仏陀(覚者)となったのです。時に三十歳でした。この時、伽耶という町で仏陀が悟りを開いたということか ら、以後この地を仏陀伽耶と呼ぶようになったのです。

  〈転法輪〉

 釈尊は成道したその座で二十一日間華厳経を解き、その後、波羅奈国(バーラナシー)の鹿野苑(サルナ−ト)に行き、釈尊が苦行を捨てたとき、その元を去った五人をまず最初に教化し弟子としました。次いで、仏陀伽耶方面に行き、迦葉(カッサパ)三兄弟を弟子とし、進んでマカダ国の王舎城(ラージャグリハ)へ入り、そこで舎利弗(シャ−リプトラ)、目犍連(マウドガリヤ−ヤナ)の二大弟子を始め、多くの人々を教化する一方、頻婆娑羅王(ビンビサーラ)によって竹林精舎、また舎衛国の須達(シュダッタ)長者によって祇園精舎が供養され教団は大いに興隆しました。

 故郷の迦毘羅衛城に帰ったときは、従弟の阿難、釈尊の子羅睺羅、義母の摩訶波闍波提、妃の耶諭陀羅等、多くの同族が弟子となりましたが、阿難の兄、提婆達多(デーヴァダッタ)は、マカダ国の太子阿闍世と結託して釈尊の化導を妨害しました。

 このような九横の大難と言われる法難に遭いながら法を説き、最後にマカダ国の霊鷲山(グリドラクータ)で、出世の本懐である法華経を説き明かしたのです。

 これら一大説教の内容は、後に中国の天台大師によって五時八教として判釈されました。

  〈涅槃〉

 五十年間の説法教化の後、拘尸那掲羅(クシナガラ)の沙羅双樹の下で、二月十五日、八十歳で入滅されました。これを涅槃と言います。

  〈八相成道〉

 仏が衆生を救うために、御一生のうちに現わされた八つの姿を八相成道と言います。

 八相成道とは、

①下天(都率天より降下すること)、

②託胎(母の胎内に宿ること)、

③出胎(出生すること)、

④出家(家を出て修行の道に入ること)、

⑤降摩(悟りを妨げる魔を断破すること)、

⑥成道(悟りを開くこと)、

⑦転法輪(説法をして衆生を教化すること)、

⑧入涅槃(説法を終えて入滅すること)です。

私たちは、この八相成道を示された釈尊の真実の目的が、法華経を説くためであったことを忘れてはなりません。

 

 

 

 

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中道

2022年05月26日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成27年11月16日(第921号)

【教学基礎講座】12

    中    道 

  ー真実の智慧と実践ー

 中道とは何か

 中道の基本的な意味は、物事がすべて因縁によって生滅するという仏法の正しい智慧に基づいて、「苦楽」「有無」「断常」等の物事の両極端にとらわれず常に不二中道を歩むということです。古い経典(修行道地経) の中に、仏法の中道に関した次のような「鳥の譬え」あります。

 ある王宮で毎日のように多くの鳥が捕らえられて、その中で大きく太ったものから順番に食膳に供されていました。その中の一羽の鳥がこの様子を見て、心中密かに「自分もあまり食べ過ぎて肥満になれば、必ず殺されて食われてしまう。とは言っても食べずにいては死んでしまう。どちらにしても死からは逃れられない。とにかく今のままで、できる限り長生きをするために、ほどよい節制をして適量を食べることにしよう」と考えたのです。

  その賢い鳥は、その日から直ちに適切な減量を実行しました。その結果、自分の体がちょうど鳥かごの網の目を通り抜けるまで痩せたため、そこから大空に飛び出して自由になることができたといいます。(趣意)

 私たち凡夫も、往々にして自分の置かれた危機的状況を正しく理解できずに、目先のことだけに固執するような愚かな鳥のように振る舞うことがあります。現実の問題として、 私たちの中に極端な利己心や執着心がある場合、仏法の中道を実現することは容易ではないのです。

 したがって、中道の知恵を持って我が身を照らす、物事に対する両極端を反省することによって中道を目指す糸口が見つかるのです。

 中道の特長

 釈尊は物事の極端が二辺を捨てて中道を悟りました。その中道とは正しい智慧であり、正しい実践であり、正しい真実の姿であると言えます。

 仏教において「諸行無常」「生老病死」と説かれているように、私たちの現実世界は静的なものではなく、物事の状態は絶えず変化していきます。

 その変化の状況の中で収納を実践するためには、全体を正しく見極める智慧と、そこから正しい回答を選択する批判的な智慧という 二つの性格を持った「中道智」が必要です。

 また極端な執着を持てば中道智は発揮されませんから、中道智は般若の智慧(空の智慧)も有していると言えます。

 以上の点に中道の特長が見られますが、この中道を実践することによって調和のとれた自由自在の境地が得られるのです

 中道の種々の立場

〈苦楽中道〉

 釈尊は五人の苦行者に苦楽中道の教えを説かれました。その苦楽中道とは苦行と快楽との極端な二辺を離れた中道のことです。人生の苦楽両方において極端に走ることなく中道の智慧をもって適切な行為をしていけば、苦楽中道の快適な生活を営めるのです。

 仏教説話の中の琴の譬え(箜篌の譬え)で、釈尊は苦行者ソーナに次のように説いています。

釈尊「ソーナよ、お前が家にいた時、琴を習ったことはあるか」

ソーナ「はい、習いました」

釈尊「琴を弾くとき、琴の弦を強く張れば良い音が出たか」

ソーナ「いいえ、弦をあまり強く張りすぎては、良い音は出ないものでございます」

釈尊「それでは、弦を緩めたほうが良い音が出るか」

ソーナ「弦を緩め過ぎても、やはり良い音はいたしません」

釈尊「琴を弾くときでも、弦を緩め過ぎず、程良く調子を整えれば良い音が出たというのだな」

ソーナ「はい、おっしゃるとおりでございます」

釈尊「ソーナよ、修行も琴と同じことだ。努力が過ぎても執着を生じる。 緩め過ぎても怠慢を生じるものだ」

この言葉に、彼はうなずいた。それを見て釈尊はなおも言葉を続けた。

釈尊「道を求める場合は執着し過ぎず、そうかと言って怠らず、緩急のよろしくを得ることこそ大切なのだ」

(律蔵大品五・仏教説話大系 二−二八六㌻参照)

 〈有無中道〉

 中道は種々の立場から説明されますが、知的な立場からは有無中道が説かれます。 釈尊の教えの根底には、因縁(因果)の道理が貫かれています。その仏教の因縁(縁起)説においては、有と無という二辺に偏った見解を排除し、「有に非ず無に非ず」という道理を「有無中道」と言います。有無中道を持ち合わせているとも言えます。

  例えば、私たちは有に執着をして、自分の若さや財産がいつまでもあると思っていますが、それらの存在は壊れやすいもので、あるように見えても固定的実体としてあるのではないのです。そのことは老死に直面すれば誰にでも理解できることです。

  また一方、無に執着をして有無中道の無を、虚無の意味に捉えることも誤りです。それでは虚無主義に陥ってしまい、真実の智慧とはなりません。

 世間の物事は因縁和合して存在していますが、そこには有と無の両面の性質があると正しく見通すことが有無中道の教えなのです。

 〈八不中道〉

  インドの論師である龍樹は、 釈尊の説いた中道の意味をさらに、不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去の八不中道によって示しています。この中の不生・不滅について言えば、現実の生滅の世界がそのまま不生・不滅の世界であると見極めるのが八不中道の教えです。

  例えば、 植物の種を土に蒔いたら芽が出たといいますが、芽が出た時には既に種は水分と栄養を吸って芽に変化しています。ここでは芽から見れば「生じた」ことになりますが、同時に種から見れば「滅した」ことにもなるのです。つまり「生」「滅」のどちらかに偏った見方をすれば種と芽との関係でも判るように、物事の不生・不滅の中道の姿をとらえることができないのです。

 このように八不中道の教説も、不生・ 不滅等の八不の立場から中道の一面を正しく説明しているのです。

  法華経の中道

  以上のように、中道の意味を種々の立場から述べてきましたが、法華経で説く中道とは、諸経で扱う部分的な中道ではなく、仏法の中道の全体を明らかにした円融三諦の中道のことです。

 天台大師は『摩訶止観』に、

「譬えば明鏡の如し。明は即空に喩え、像は即仮に喩え、鏡は即中に喩え。合に非ず散に非ず、合散宛然なり」(摩訶止観弘決会本ー上 二〇五㌻)

と円融三諦を説明しています。

 つまり、鏡があらゆるものを映し出すのは空諦であり、鏡に映る万物の像は仮諦であり、鏡それ自体は空諦も仮諦も具足した中諦(中道)であると説いているのです。

 天台大師は、法華経の円融三諦の上から、凡夫の心を対象とした観心修行を説き、凡夫の心の中にある真実中道の理を妙法と見なしたのです。

        ◇    ◇

 しかし末法の私たちは、凡夫の心を対境とする天台過時の観心修行をしても、妙法の功徳を得ることはできません。末法の観心は、御本仏の御当体たる大御本尊を直ちに信じて下種の題目を唱えることです。

 大聖人は『御義口伝』に、

「一とは中道、大とは空諦、事とは仮諦なり。この円融三諦は何物ぞ。所謂南無妙法蓮華経なり。この五字は日蓮出世の本懐なり、之を名づけて事と為す」(御書 一七二九㌻)

を仰せられ、法華経「方便品」に諸仏出世の本懐を一大事因縁と説きますが、その本義は空仮中の三諦を円融相即した 本門の大御本尊にあると教示されています。したがって、この大御本尊を根本とした中道を拝する修行こそが、正しい成仏の道となるのです。

 

 

 

 

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小乗と大乗

2022年05月21日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成27年10月16日(第919号)

【教学基礎講座】11

 「小乗と大乗」

 ー苦海の海を漕ぎ渡る船ー

 これまで仏教の基礎的なことについて述べてきましたが、それらをまとめる意味で、今回は小乗と大乗について述べてみましょう。

 この「乗」とは乗り物の意味で、仏の教えは人々を迷いの此岸(現実界)から悟りの彼岸(理想界)に渡す乗り物ですから、 仏教を乗り物に譬えて「乗」というのです。

  小乗の教え

 小乗とは劣乗ともいい、小さな乗り物、 劣った乗り物という意味です。これは自分だけの悟りや救済を目的とした、小根性の者が乗る自利の教えですから小乗と言うのです。天台大師の判釈によれば、釈尊が十二年間にわたって説かれた阿含経で、経・律・論の三蔵を説いたものを小乗教と言います。

 この経・律・論の三蔵とは、経は四阿含経、律は四分律・摩訶僧祗律・五分律等、論は六足論・発智論・大毘婆沙論等で、それらを所依として日本で成立した宗派が、倶舎・成実・律の三宗です。

 大乗の教え

 大乗とは音訳して摩訶艷衍とも言い、大きな乗り物、勝れた乗り物の意味で、こちらは小乗の教えのように自らの悟りや救済を求めるだけでなく、他の人々をも広く救済し仏道を得させる大根性の者が乗る自覚覚他(自ら悟り他を悟らせる)の教えです。

 この大乗の教えも、大聖人が五重の相対判で示されるように、権大乗教と実大乗教とに分かれます。ここでは一往、大乗一般について述べることとします。

 小乗と大乗の対立

 釈尊滅後、弟子たちはその教えをどのように習い伝えるかについて、保守的態度をとった上座部と、進歩的態度をとった大衆部とに別れました。前者は教えや戒律というものを文字通りに解釈して伝統を重んじようとし、後者は文字に囚われずに仏の教えの真意を把握し、その精神を顕わそうとしたのです。

 これらを総称して部派仏教といいますが、次第に形骸化して,仏教本来の宗教的立場を失ったために、この両者の対立の中で大衆部を中心として、仏教をより思想的に高度に掘り下げ、釈尊本来の精神に復帰させようとしたのが大乗仏教です。

 この大乗仏教の立場から、それ以前の上座部系の仏教を指して、軽蔑の意味で命名したのが小乗であり、自ら小乗とは言いません。

  小乗と大乗の相違

  そこでもう少し詳しく両者の教えの違いについて、その主なものを示してみましょう。

 

  一、 声聞乗と菩薩乗

 小乗を声聞乗、大乗を菩薩乗とも言います。 小乗仏教では、仏である釈尊に対し、弟子たちはただ仏陀の教えを聞き、それに従って終了しますが、決してその修行によって佛陀となることはできず、せいぜい声聞の最高の悟りである阿羅漢果や辟支仏果を得られるに過ぎないとされます。

 さらにこれは、あくまで自分だけの完成や解脱のために修行するという、自己中心的な教えとも言われます。

 これに対して、大乗仏教では「一切衆生悉有仏性」の立場から、どんな人でも菩提心を起こせば菩薩になることができ、その請願と自覚をもって六波羅蜜等の修行を積むならば、誰でも仏になることができると説くのです。たとえ今生に叶わなくとも、未来には必ず仏になることができるとされます。

 ですから、大乗仏教は一切衆生を救済し社会全体を浄化向上させる、自利利他の教えと言えるのです。

 二、有と空

 部派仏教はアビダルマという綿密な教学を研究しました。アビダルマとは「論」や「対法」などと訳されますが、これは「法に対するもの」の意味で、法とはここでは仏の説法としての経典を指しており、経典に対する説明・注釈・研究などを言います。

 釈尊は当時の外道が問題にしていた「何があるか」というような実体の有無(存在論、実在論)によっては、人間の苦悩を解決することができないとして、有(存在)について問題にすることを禁じていました。 しかし、このアビダルマではそのことを論じています。

  本来仏教が主眼としていることは、私たちが存在するか否かではなく、私たち人間に関わる生滅変化の現象なのです。 その現象が 「いかにあるか」(状態)、それを私たちは「いかにすべきか」「いかに対処すべきか」(態度)ということです。これを縁起説と言い、四諦・八正道や十二縁起などの仏教の基本法理は、すべてこれを説いたものです。

 このように、大乗仏教は「偏空」に囚われた小乗の教えを破して、般若の空を強調し、法華経で説く中道実相を明かす三諦円融観には及ばないまでも、釈尊の教え本来の正しい縁起説を復活させたのです。

  大乗仏教成立の意義

 以上のことからも判るように、小乗の教えは理論のための理論が多く、仏教本来の目的から遊離したものでした。

  これに対して大乗の教えは、より信仰的 ・実践的でありながら、その説かれる教理の内容は、小乗教では遠く及ばない高度なものです。

 釈尊滅後から大乗仏教に至るまでの思想的展開を見たときには、上座部系統のいわゆる小乗教は、仏教を部分的に据えた見方であり、大衆部の立場から興ってきた大乗仏教こそが、一切衆生の救済を目的とした釈尊のまことの精神を伝えるものと言えます。

   大聖人の大小相対

    大聖人の大小乗に対する判釈は、一般的な相対判としての御文は、それほど多くありません。 それは大聖人の弘通される仏法は、大乗の中にも実大乗、実大乗の中でも本門寿量品、さらにその文底下種の本門にあって、一般的な大小の相対は、既に解決済みだからです。

 『 観心本尊抄』の文底下種三段を明かす御文の中で、「一品二半よりの外は小乗教」と示されるように、法華経の本門文底下種の立場から見れば、内証の寿量品によって説き顕わされる本因下種の南無妙法蓮華経こそ唯一の大乗であり、その他の権・迹・文上本門も、ことごとく小乗教とみなされるのです。ですから真の大乗の教えは、末法出現の大聖人を待たなければ、明らかにならないのです。

 

 

 

 

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六波羅蜜

2022年05月19日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

「大白法」 平成27年9月16日(第917号)

【教学基礎講座】10

「六 波 羅 密」

 ー慈悲と智慧の菩薩行ー 

 

 「六波羅蜜とは何か」

 六波羅蜜とは六度とも言われ、大乗の菩薩が修行すべき、

「布施(檀那)・持戒(尸羅)・忍辱(羼提)・精進(毘梨耶)・禅定(禅那)・智慧(般若)」

の六種の徳目のことです。

 波羅蜜は梵語のパーラミーターの音訳であり、

「完全」「完成」などという意味があります。

  また波羅蜜とは、「彼岸に到る」と訳し、

迷いの此岸を脱して悟りの彼岸に到達するための修行を言います。

 漢訳の六度とは、

六つの船に乗って悟りの岸に渡(度)るための修行法という意味になります。

 

 六波羅蜜の特長

 釈尊は衆生の機根に応じて声聞に四諦、縁覚に十二因縁、菩薩に六度を説きました。

 四諦と十二因縁は、

小乗の悟りを得るための二乗(声聞・縁覚)の修行でしたが、

この六波羅蜜(六度)は大乗の悟りを目的とした菩薩の修行を指します。

  そのために、小乗の修行が自己の救済のみを求めたのに対して、

六波羅蜜では特に「布施と忍辱」の二つの修行を説いて、

他者をも救済するという大乗の利他(慈悲)の精神を重視します。

  また権大乗の般若経では六波羅蜜のうち、特に智慧(般若)波羅蜜が

他の五波羅蜜を支え、先導する役目を果たすと説かています。

  このように、六波羅蜜では利他の精神と般若の立場とが堅持され、

その点に大乗の菩薩行としての特長が認められます。

 

  六波羅蜜の説明

〈布施波羅蜜〉

 小乗の菩薩も六波羅蜜を修行しましたが、

ここでは主に大乗の菩薩の修行の上から説明します。

 布施とは、他に施し与えることですが、

これには「財施・法施・無畏施・身施」等が説かれます。 

財施とは他に金銭財物などを与えることであり、

法施とは教えを説き与えることです。 

無畏施とは相手の畏れを取り除いてやり、安心を与えることです。また

身施とは自分の身を投げ 出して他に奉仕することです。

 大乗の菩薩は他者を救済するためにこれらの布施を行いますが、

釈尊は「施す」という執着心を持って布施をしてはならないと教えています。

 菩薩は「施す者・施される者・施し物」の三者に対する執着心がなく、

その三者も本来的に空であると見ます。

これを「三輪清浄(空寂の布施)と言います。

とらわれのない空の智慧をもって、

菩薩は布施と言う利他行を完成するわけです。

 

  〈持戒波羅蜜〉

 持戒とは文字通り戒を持つことですが、

また戒を守ろうとする自発的な决定心をも指しています。

 戒の種類は、在家修行者に五戒・八斎戒があり、

比丘に二百五十戒、比丘尼に 三百五十戒等があります。

 これらの戒は主に小乗戒において用いられますが、

持戒波羅蜜には大乗の利他の精神に基づいた菩薩戒が説かれます。

この菩薩戒には、「防非止悪」(悪事を防ぎ止めること)の意味も含めて

「止悪・修善・利他」の三種の用きがあります。

これを三聚浄戒(三種の浄らかな戒)と言います。

 三聚浄戒の特色は、

上に向かってはどこまでも菩提(悟り)を求め、

下には無数の衆生を救済するという自発的な自利利他の精神にあります。

 

  〈忍辱波羅蜜〉

 忍辱とは、 あらゆる侮辱や迫害に耐え忍び、慈悲の心を起こすことです。

  忍辱には生忍と法忍の二種があり、生忍とは尊敬を受けても自慢せず、

迫害されても怒りや怨みを起こさないことです。

法忍とは寒暑や飢え、病等にあっても動揺せず、

精神的な邪見や憍慢などにあっても動じないことです。

 この忍辱波羅蜜は、自我法我への執着を離れ、

一切が空であるという般若の智慧によって得られると説いてます。

 

 〈精進波羅蜜〉

 精進という言葉は

日常語でも使われますが、精進とは弛まず仏道を修行することです。

 これには身精進と心精進とがあります。

この二種の精進には他の五波羅蜜の修行に、身心共に打ち込んで、

弛まずに励むとの意味もあります。

  つまり

身精進は布施・持戒を修すること、

心精進は忍辱・禅定・智慧の修行に専念することです。

  ここでも智慧のない精進は、

盲目の精進であり、真の精進波羅蜜にはなり得ないのです。

 

 〈 禅定波羅蜜〉

 禅定とは、心静かに精神を統一し、真理を見極める修行を言います。また

その修行によって心身共に動揺することがなくなり、

安定した状態にあることを禅定と言います。

本来、仏法者が必修すべき修行徳目を「戒定慧の三学」と言いますが、

第二の定学はこの禅定のことです。

  釈尊は、快楽と苦行の二辺を離れ、

正しい禅定を深めて悟りに至ったのですから、

本来、智慧と禅定は不可分であると言えます。

 智慧を離れた禅定は野弧禅(邪禅)であると仏法では戒めています。

 

 〈智慧波羅蜜〉

  般若経では、

般若波羅蜜の重要性を明かし、一切皆空という事物の平等の本質を悟り、

その般若の智慧を完成する意義を説いています。

  大乗の菩薩はその般若の空の智慧を得ています。

その智慧は、

あらゆる分別や差別を離れて一切は平等(空)であると洞察する、

平等智のことです。

 しかし、 大乗の菩薩はその平等智だけに安住することはありません。

つまり空の智慧を通して、いったん現実の妄執を払いますが、

再び利他のために現実世界に目を向けて、真の差別智(仮)を得るのです。 

 こうして平等智と差別智とが適切に得られて、

初めて現実世界での六波羅蜜の実践が成り立つのです。

 

 法華経と六波羅蜜

 このように、大乗の菩薩は慈悲と智慧に裏付けされた六波羅蜜を

修行して大乗の悟りを得ることができます。

  この六波羅蜜について般若経には

平等智(空智)が 六波羅蜜の重要な役割を果たすと説かれていますが、

その智慧は法華経の円融円満の仏智(中道智)に

比較すれば偏頗なもので劣るのです。

 それ故、

法華経には、権大乗の六波羅蜜は成仏のための完全な教えではなく、

法華経こそが真実の教えであり、

これを根本とする菩薩行が真の成仏道であると示されています。

 無量義経には、

「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す」(法華経 四三㌻)

六波羅蜜の修行とその功徳は、法華経に具わると説かれています。

  また大聖人は『観心本尊抄』に、

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。

我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ(御書

 六五三㌻)

と仰せになっています。

 末法の私たちは、文底下種の大御本尊を受持することによって、

六波羅蜜の修行の功徳も、さらに成仏の果報も自然に得ることができるのです。

 

 

 

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十二因縁

2022年05月18日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

「大白法」 平成27年7月16日(第913号)

【教学基礎講座】9

  「十 二 因 縁」

ー仏教の中心思想「縁起」ー

 

 「縁起」とは

 十二因縁とは縁起の理法を言います。

私たちはよく「縁起を担ぐ」などと言いますが、

このような時の縁起は「ものの起こる兆し」「前兆」などの意味で使われます。

また 「◯◯寺縁起」 などの場合のこれは、

「起こったいわれ」とか「由来」などの意味で使われます。

 縁起 とは「縁りて起こること」であり、

本来の意味は、他との関係が縁となって生起すること、

すなわち現象の相互依存の関係を示したものと言えます。

 現象というものは無常であり、常に消滅変化するものですが、

その変化は無軌道なものではなく、

一定の条件の下では決まった法則があり、それを縁起というのです。

 縁起 の考えは仏教の中心思想であり、他の宗教や哲学とは違う独特の教理です。

  十二因縁は

「十二支縁起」「十二因生」とも称され、倶舎論などに説かれています。

釈尊は最初、声聞に四諦の法を説き、縁覚にこの十二因縁の法を説きました。

 

 「十二因縁の説明」

 十二因縁のそれぞれについて、

『大毘婆沙論』 には、次のように説明されています。

①「無明」とは、

過去の世に存在する諸々の煩悩のこと。

②「行」とは、

無明煩悩により過去世の善悪の行業を起こして、今世の種々の報いを受ける原因のこと。

③「識」とは、

過去世の煩悩と行業により、心識が初めて母胎等に託生する一刹那の位置のこと。

前世の果報が転じ尽きて、

それに基づいて今世の生有の五陰(色・受・想・行・識) が起こる。

④「名色」とは、

母胎託生の第二刹那以後の状態で、名とは心法、色とは色法のこと。

心法は大小等の形と質量がないので名をもって表わす。

色法は極微の大小の形があり、六根の身根と意根のみあるので、名色と言う。

⑤「六入」とは、六根のこと。六処とも言う。

母胎内において、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が具わる位を言う。

⑥「触」とは、出胎より二、三歳までの位で、

思慮分別することなく、ただ眼前の事物に触れるのみの状態を言う。

⑦「受」とは、事物事相を領納する心を言う。

快く愛すべき境を楽として領納し、不快の境を苦と領受し、

そのいずれでもない境を関心なく領受する。

四・五歳より十四、五歳までの位を言う。

⑧「愛」 とは、対境の資具と淫とを貪る位で、

十六、七歳以後、愛心増長し、諸物・諸品等に染著することを言う。

⑨「取」とは、青年以後、 世を終えるまでの位で、

名誉欲やあらゆる利欲に執着し、貪欲のために日夜、忙惚することを言う。

⑩「有」とは、行業であり、

将来に種々の善悪の果を作る因となる業を言う。

これは未来の生の業因を意味する。

⑪「生」とは、

現在の業因によって未来の苦果を感ずる一刹那の五陰であり、

現在より未来に続いて生まれる初めの一念を言う。

⑫「老死」とは、衰変を老と言い、壊滅を死と言う。



 「三世両重の因果」

 これらの十二支を

過去・現在・未来の三世に亘る関係として示したのが、三世両重の因果です。

 最初の無明・行の二支は過去世の二因を、

次の識・名色・六入・触・受の五支は現世の五果を示し、

これで過去と現世の第ー位重の因果を説き、

次の愛・取・有の三支は 現世の三因を、

最後の生・老死の二支は未来世の第二重の因果を説き、

全体で三世に亘る両重の因果関係を説き示すのです。

 つまり、衆生の輪廻は窮まりなく、

善悪の因果の断絶がないことを十二因縁をもって表わすのです。 

 

「惑・業・苦の因縁」

また、 この十二支は、惑・業・苦の三つに摂せられます。

すなわち、

惑は過去の「無明」と現在の「愛」と「取」であり、

業とは過去の「行」と 現在の「有」であり、 

苦とは、現在の「識」「名色」「六入」「触」「 受」と、

    未来の「生」「老死」の二果です。

 そこで、初めの

「無明」を滅すれば「行」が滅し、

「行」が滅すれば「識」が滅し、乃至「老死」が滅して

三界六道の惑、業、苦より離れることを説くのです。

  このように十二因縁は、

前因と後果が次第に連続して間断なく続いていくのです。

 

 「流転と還滅の十二因縁」

以上、十二因縁について説明しましたが、大事なことは、

私たちの現実の苦悩に対し、その根源を突き止め、それを断つということです。

 その意味から「流転の十二因縁」「幻滅の十二因縁」と

いうことが説かれます。

  すなわち、

「無明」から「行」が縁起し、その「行」から「識」が縁起する。

そして順に次第して「生」「老死」の苦の成立に及ぶという

観察が「流転の十二因縁」です。

これは苦悩の生ずる法則を明かし、迷いの姿を示したものと言えます。

  これに対して

「無明」を滅すれば「行」が滅す、

「行」が滅すれば「識」が滅すというように順次、滅除していき、

最後に

「生」「老死」の苦しみを滅することを教えたのが還滅の十二因縁です。

 

     ◇   ◇

 

 十二因縁を観察するとき、

私たち一人ひとりの生命の因果の道理が明らかとなり、

苦悩の原因は、

その道理に対する無知によるものであることが理解できます。

 縁覚は十二因縁によって悟ったと言われますが、

その悟りは小乗の仏果に過ぎず、真の悟りにはなりません。

ましてや、末法の私たちが、

この十二因縁観によって修行しても成仏することはできないのです。

 大聖人は『御義口伝』に、

「元品の無明を退治する利剣は信の一字なり」(御書 一七六四㌻)

と仰せになっています。

  末法の私たちにとって、

苦悩の源である根本の無明を退治し、成仏を遂げる方法は、

御本尊に対する絶対の信を基とする仏道修行以外にないのです。

 

 

 

 

 

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釈尊最初の説法「四諦」

2022年05月17日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

「大白法」 平成27年6月16日(第911号)

【教学基礎講座】8

釈尊最初の説法「四諦」

ー苦からの脱却ー

 

◎《四諦とは何か》

 釈尊は三十歳の時、菩提樹の下で悟りを開きました。

覚者となって初めに法を説くことを「初転法輪」と言います。

釈尊は初転法輪として、

鹿野苑で阿若陳如ら五人に四諦の法門を説きました。

「諦」は「真理」の ことですから、

四諦とは「仏が悟った四つの真理」ということです。

 この四諦は

苦諦・集諦・滅諦・道諦を言い、 苦の現実相とその原因(苦諦・集諦)、

さらに苦を脱却した悟りの境地とそこに至る修行(滅諦・道諦)を

明らかにすることを説いたものです。

  一般に物事の因果を論ずる場合、

はじめに原因を挙げ次に結果を述べますが、苦集滅道という順序は、

苦の結果(苦)・苦の原因(集)・涅槃(さとり)の結果(滅)・涅槃の原因(道)というように、 結果を先に挙げています。

それはなぜかと言いますと、はじめに結果の相をはっきり示して、

より効果的に衆生を導こうとするためなのです。

 

 一、苦諦

   ー苦の現実相ー

 私たちの住む世界、

すなわち欲望に支配される欲界は汚れと苦悩が充満しています。

人生の苦しみの相は様々ですが、

それらの中で最も基本的なものとして四苦・八苦と三苦が挙げられます。

 (1)四苦

①生苦(迷いの世界を流転していく苦しみ、また生まれる時の苦しみ)

②老苦(年老いて心身共に衰弱する苦しみ)

③病苦(精神や肉体が不調となることによって受ける苦しみ)

④死苦(全ての財産と縁者を失い、心身ともに破壊する苦しみ)

 (2)八苦

 八苦とは、前の四苦に次の四苦を加えたものです。

愛別離苦(肉親や友人等の愛しい人や執着する物事と離別する苦しみ)

②怨憎会苦(恨み憎む人に会う苦しみ)

③求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)

④五陰盛苦(自分の身や感覚・認識等に執着することによる苦しみ)

 (3)三苦

①苦苦(望ましくないものについて生じる心理的な苦痛)

②壊苦(望ましいものが変化消滅することによって生じる苦しみ)

③行苦(すべてのものが無常であることに伴って認識される苦しみ)

 

 二、集諦

   ー苦の原因ー

「集」とは集起・招集のことで、ここでは

「煩悩が集まり起こる」という意味と

「煩悩によって生死(迷いの世界)の苦を招き集める」という意味から

「集諦」と言います。 

 仏教では、私たちが苦しむ原因は煩悩にあると説きますが、

煩悩の中でも三界六道の煩悩は見思の惑と言われるもので、

見惑とは真実の道理に迷う理性生の惑であり、

思惑とは物事を思慮する時に起こる感情的な迷いを言い、

これらは貪・瞋・癡の三毒が根本になっています。

 また、『四諦経』には、

苦の原因として、欲愛・有愛・無有愛の「三愛」が説かれています。

欲愛とは心身の欲望を満たそうとする情愛を言い、

有愛とは物質や思想さらに生存そのものに対する執着を言い、

無有愛とは生存を否定する考えに執着することを言います。

 

 三、滅諦

   ー口を離れた理想境ー

 「滅」とは、

苦の因である煩悩をすべて滅し尽くした状態を言い、この世の無常を超越し、

執着をなくすことが苦を消滅した悟りの境地なのであり、

これを滅諦と言います。この状態を涅槃寂静の境地とも言います。

 

 四、道諦

   ー理想境に至る修行ー

 道諦とは苦を消滅するには正しい修行が必要であるということです。

釈尊は、聖者となるためには「八正道」を修行せよと説きました。

 八正道とは、

①正見(仏教の道理に適った正しい智慧)

②正思唯(正しい考えと意思)

③正語(妄語や悪口等を排した正しい言動)

④正業(殺生や偸盗等を離れた正しい行為)

⑤正命(身口意の三業を清淨にした正しい生活)

⑥正精進(善法を求めるための正しい努力)

⑦正念(涅槃の理想とそのための修行を忘れることなく常に思う心)

⑧正定(正しい知恵による精神統一)のことです。 

 

 ◎四種の四諦

 

 この四諦の法は、『諸経と法華経と難易の事』に、

「声聞には四諦、縁覚には十二因縁、菩薩には六度」(御書一四六九㌻)

と仰せられるように、

声聞が見思の惑を断じて阿羅漢果を得るためのもので、未だ真実を顕わさない小乗教の法門です。しかし天台大師は、四諦の法は、苦を脱却する因果の法という点において、仏教全般に通じる根本法事であるとして、蔵・通・別・円の四教のそれぞれ四諦を立てました。 これが「四種の四諦」です。今その名目を挙げてみますと、

①消滅の四諦(蔵教) 

 四諦因果の諸法に生あり滅ありと説く。

②無生の四諦(通教)

 迷悟の因果は共に空無であり、実の消滅はないと説く。

③ 無量の四諦(別教)

 界内(六道)と界外(四聖界)にわたる四諦の法門は無量であり、

 菩薩が修学するものと説く。

④無作の四諦(円教)

 法界の真実相は煩悩即菩提・生死即涅槃であり、断証の造作を離れたものと説く。

このように、衆生の苦を解決するために説かれた仏教と言っても、

その教義は経典によって様々です。

 日蓮大聖人は『御義口伝』に、

「法華経に値ひ奉る時、八苦の煩悩の火、自受用報身の智火と開覚するなり」(御書一七三九㌻)

と仰せられ、さらに、

「妙の一字の智剣を以て生死煩悩の縄を切るなり」(御書一七五九㌻)

と御指南されています。

すなわち末法における真実の解脱は、

文底の大法たる大御本尊を受持し奉り、信心に励む以外にないのです。

 

 

 

 

 

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業について

2022年05月15日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

「大白法」 平成27年5月16日(第909号)

【教学基礎講座】7

「業について」 

ー 宿業の重罪を消滅 ー

 

一、《業とは何か》

 一般に、物事が思うようにはかどらず、いらいらするときに「業を煮やす」と言います。

このほかにも「業火」「業病」など、「業」のつく日常語がたくさんありますが、

それらは必ずしも「業」の本来の意味を正しく伝えていないようです。

 私たちは、仏法を実践する上で、「業」の考え方を正しく理解することが大切です。

「業」は、梵語でカルマと言い、「行為」を意味します。 また、

その人の行いとその影響力を含めて「業」という場合があります。

 例えば、人を傷つけた場合、

その行為自体は一瞬ですが、傷つけられた人の痛みや傷跡、また

その行為に伴う「後悔」や「悪感情」などが残り、後に必ず苦しみます。

  このように業とは、

行為のことですが、その行為は後々にまで影響を及ぼすのです。

業の原因となる業因、 その報いである業果・ 業報も、業因感果つまり

善因善果・悪因悪果の厳然たる因果の道理に基づくものです。

 

二、《業の種類》

(1)身口意の三業

 業には、因の面と果報の面との両面がありますが、

業因となる行為は次の、

①身業(身体による行為)

②口業(言語による行為)

③意業(心の用き、思念)

の三業に分けられます。

  この身口意の三業にわたる行為の中に、人間の善悪のすべての業が含まれるのです。

 次に、

業を果報の面から捉えたものとして、共業・不共業、定業・不定業が挙げられます。

 

(2)共業と不共業 

 共業とは、人間が共通して背負う業のことです。

例えば社会全体を襲う災害や社会の発展などのように、

誰もが共通して受ける因果のことを共業と言います。

  これに対して不共業とは個人的な業のことです。

例えば子供が病気で苦しんでるのを母親が代わってやることはできません。

個人的な快楽や苦痛などは不共業なのです。このように、

業は個人的なものでありながら、同時に社会的、歴史的な働きをも持っています。

 

(3)定業と不定業

 大聖人の『可延定業御書』には、

「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何に況んや不定業をや」( 御書760ページ)

と説かれています。

 この定業とは、

過去世の業によって定まっている今世の善悪の業報を言い、

不定業とはそれが定まっていないことを言います。

また善悪・苦楽の区別がつかないものを無記業と言います。 

 

三、《業の性質》

人間は、

過去・現在・未来と三世に亘り業を積み重ねて生きているのであり、

それぞれ善悪の業因と、その果報の上に人生があります。

この業の性質について見てみると「自業自得」と「業因業果」とが挙げられます。

 

(1)自業自得

 自業自得とは、

 自ら為した行為の果報は自らが受けるということです。 

 仏典《スッタ・二パータ》には、「けだし何者の業も滅びることはない。

それは必ず戻ってきて、(業を為した) 主がそれを受ける。

愚者は 罪を犯して、来世にあってはその身に苦を感じる」

『法句経』には、「自ら悪をなして自ら汚れ、自ら悪を為さずして自ら浄し、

人はそれぞれ自ら浄となり自ら不浄となる」とあります。つまり、

自分の行為(=業因)の結果は必ず自分に返ってくる(=業果)のですから、

自分の行為は、最後まで自分で責任を取らなければならないということです。

たとえ他人の為した行為の影響を受けたとしても、

他人の行為によって自分の将来が決定されるということではありません。

業の 考え方は 、

自分の行為(=業因)に 対する自らの責任が根底となっているのです。 

 

(2)業因業果

 三世の因果の中では、善悪の行為が業因となって、

必ず善悪・苦楽の果報を生じますが、業の因果の相として二通りあります。

 ひとつは、因と果とが同性質の場合です。

これは貪(むさぼり)の行為によって、

さらに慳(もの惜しみ)や無慚(恥じらいのないこと)

の心が強くなるような場合であり、 これを等流の因果と言います。

もうひとつは因と果とが異なる場合です。

これは善因を行えば楽果があり、悪因を行えば苦果がある

いうような場合であり、これを異熟の因果と言います。

  このように業因は必ず果報を生ずるのですが 、その業果を受ける時期は、

その業因の在り方によってまちまちであり、

これについて、

①順現受業(現世で報いを受ける)

②順次受業(次世で報いを受ける)

③順後受業(第三世以降での果報)

という「三時業」が説かれています。

 

四、《業と宿命》

 仏教以外の教えでは人生観として、

第一は神が人間の運命を支配するという見解、

第二は人間の運命は偶然によって決まるという見解、

第三は人間の一生は運命的に永遠の過去から既に決められているという見解

の三つに大別できます。

 しかし、仏教から見ると、これらはいずれも浅薄で偏った考えです。

仏教では、現実的な因果の理法に立脚して、

人生の苦楽はすべて自ら為した業によって決まると説きます。

 私たちは自分の生国や親を決定したり、選定したりすることはできません。

また生まれながらに個人の能力や容姿なども、それぞれ異なっています。

この差別相は何に起因するかと言えば、

過去世からの業によるのであり、これを宿業と呼びます。

 この宿業の考えは、運命論とは違います。

なぜならば宿業は自らの業因によってその報いを受けるものであり、私たちは

現在の業因によって未来の人生をいかようにも変化させられるのですから、

神などの絶対者によって人生が決定づけられたり、

人生は単なる偶然であると説く運命論とは全く異なるものです 。

 

五、《幸福な人生への道》

 過去世からの宿業によって、現在の私たちは様々に拘束されていますが、

仏法ではその業報の中にあっても、未来の果報を自らの意志と行動、

すなわち身口意の三業によって決定できると説いています。

 大聖人は『佐渡御書』に、

「宿業はかりがたし。(中略)偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」(御書580ページ)

と、先業の重罪も消滅できると説かれています。

  私たちは大御本尊を受持する功徳によって、

過去世の罪業を消滅し、現在と未来に幸福な人生を構築できるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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煩悩

2022年05月14日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

「大白法」 平成27年4月16日(第907号)

【教学基礎講座】6

  「煩 悩」 

ー 不 幸 の 原 因 ー

 

一、《苦しみの原因は何か》

 仏教では、誰人も逃れることのできない苦しみとして、生老病死の四苦を磨いていますが、私たちの人生にはこの四苦の他にも、 様々な苦労や悩みが次々と襲ってきます。この限りない苦悩は、一体何によって、どこから生まれてくるのでしょうか。もし苦悩の根源を究明し、その源の働きを変えることができるならば、私たちの人生は不幸や苦しみを取り除くことができるはずです。仏教では苦しみは悪業によって生じ、悪業は煩悩から生じると説いています。

 

二、《煩悩とは何か》

  煩悩とは、梵語でKlesa(クレーシャ)と言い、「心を汚すもの」「苦しめるもの」 と訳されます。また漢訳では「惑」(まようこと)・「使」(悪童にかりたてること)・「染」(汚れ染まること)などと表されます。また小乗教では煩悩の異名として「髄眠」という言葉を用います。これは、煩悩が表面に現れることなく心の奥に潜在し、本人の意思と関係なく縁に従って作用するところから名付けられたものです。これらの解釈からも判るように、煩悩とは人間の心身を悩乱させて、成仏の正道を妨げる作用のことです。

 

三、《煩悩の種類》

『成唯識論』には、

煩悩について、基本となっている「根本煩悩」と、

そこから派生して起こる「髄煩悩」とに区別して説いています。

根本煩悩とは、

①貪(愛着すること)

②瞋(怒ること)

③癡(道理に暗く愚かなこと)

④慢(驕り高ぶること)

⑤疑(法を信ぜず躊躇すること)

⑥見(邪悪な考えに執すること)

ですが、

このうち前の五つは五鈍使といい、第三の癡を無明と言う場合もあります。

次に、

髄煩悩としては、

忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・驕・害・

無慚・無愧・惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知

の二十種が挙げられています。

 

四、《 三惑とは何か》

 天台大師は『摩訶止観』で、

すべての煩悩(惑)を 三種類に分けて説きました。

これを見思・塵沙・無明の三惑と言います。 

(1)見思惑     

 この惑は、見惑と思惑のことで、

三界六道の苦果の因となるので「界内(三界六道)の惑」と言い、 また

声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき惑なので「通惑」と

言います。

 見惑とは、

物事の道理に迷う後天的な惑であり、思想的な過ちを言います。

この見惑に五利使と 五鈍使を合わせて十使が挙げられます。

五利使は、

①身見(自我に執着する考え)

②辺見(生命は死によって無となる、

    あるいは霊魂となって永遠に続くなどの一辺に偏る考え)

③邪見(因果の道理を無視する考え)

④見取見(前の三見に固執し、劣ってるものを優れていると見る考え)

⑤戒禁取見(仏法上、戒められ禁じられている邪行に固執する考え)

を言い、

これらは思想的な迷いであり、正しい道理を理解すれば直ちに除くことが

できる鋭利な煩悩なので「利使」の名がつけられています。

 これに対して

五鈍使は前に挙げた貪瞋癡慢疑であり、この惑は過ちに気付いても

即時に消滅できる性質のものではないので「鈍使」と言います。 

 次に思惑とは、

「倶生惑」とも言い、物事に対して本能的に起こる感情の迷いであり、

五鈍使の中の①貪・②瞋・③癡・④慢の四つを指します。

 小乗教の修行によって

見惑を断じた位を見道と言い、思惑を断じた位を修道と言い、

見思両方を断じた位を無学道とも阿羅漢果とも言います。

なお数量を言えば見惑に八十八使、思惑に八十一品あります。

世間で除夜の鐘などを例にとって百八煩悩などと言いますが、

これは見惑・思惑による数量です。 

 

(2)塵沙惑

 この惑と第三の無明惑は、

菩薩のみが断ずる惑なので「別惑」と言い、

六道の域外の惑ですから「界外の惑」とも言います。

塵沙とは、 塵や砂のように微細で無量無数を表した言葉です。

大乗の菩薩が衆生を化導し救済するときに様々な障害が起こりますが、

これに対処する菩薩は無量の法門に通達する必要があり、

それらを学ぶにしたがって起こる無数の惑を塵沙惑と言います。

 

(3)無明惑

 これは、

中道法性の悟り(成仏)を妨げるすべての煩悩の根本となる惑です。

円教では妙覚(仏)の位に至るまでに四十二位の段階が定められています

が、その一つひとつに菩薩の断ずべき無明惑があり、

最後の四十二品目の無明惑を 「元品の無明」と言います。 

 大聖人は『治病大小権実違目』に、

「元品の法性は梵天・帝釈等と顕はれ、

元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」(御書1237ページ)

と仰せられ、

成仏に到達する直前には元品の無明が第六天に姿を変えて、

成仏を妨げるためにあらゆる手段を尽くすことを説かれています。 

 

五、《煩悩の原因は何か》

 私たちの苦しみは煩悩によって起こるのですが、

では煩悩はいったい何に起因するのでしょうか。

 『瑜伽師地論』に、「謂く六種の因あり、一には所表に由る、二には所縁に由る、三には親近に由る、四には邪教に由る、五には教習に由る、六には作意に由る」

とあります。

私たちが邪宗教を破折し、また謗法に親近することを戒める理由は、

邪教や謗法が煩悩を起こす悪縁となり、不幸の原因となるからなのです。

 

六、《煩悩即菩提》

 小乗教では

煩悩を滅ぼさなければ悟りは得られないと説き、

身体まで滅する灰身滅智を最高の境地としますが、

法華経の結経である観普賢菩薩行法経 では、

「煩悩を断ぜず、五欲を離れずして、諸根を浄め、諸罪を滅除 することを得」

(法華経610ページ)と説き、

煩悩を離れるのではなく、そのまま菩提に転換させていくことを教えています。

 日蓮大聖人は『当体義抄』に、

「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、

煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」(御書694ページ)

と仰せられ、

清浄な信心で三大秘法の本門戒壇の大御本尊に唱題するとき、

私たちの煩悩はそのまま成仏の因となり、

凡夫の身のまま仏の境界に至ることができると御指南されているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今日を考える

2022年05月04日 | 日記

 

2022.5.4 みどりの日。

・時の流れに、未来が、今をどう過ごすか 未来は・・・・・・&。

・「変化時」は「生き方」を、そして「五感」を楽しむ。

「冨」と「権力」・「責任」と「自由」・「恐れ」と「弱さ」を克服を。



2022.5.3(憲法記念日)

 「冨」と「自由」 「恐れ」と「弱さ」 「責任」と「権力」等などなど、 

これらの言葉に、「不」いう言葉を使用し

「不冨」「不自由」「不恐」「不弱」「不責任」「不権力」など、

各々に付いた言葉がいまの世界ではないでしょうか。

恐ろしい人間社会化・人類滅亡へと。。。。。。。狂気の沙汰も金次第か

 

 

「2022.5.3~4」に 感じた「心から」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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仏宝

2022年05月01日 | 教学ノート(二)

大白法 平成27年7月16日(第913号)

 「教学ノート」12ページ

  「仏宝」

 仏宝とは三宝の1つで、真実の法を悟り衆生を救済する仏様のことを言います。私たちは仏宝である仏様を信じ、供養して成仏の境界を得ることができます。

 ただし、どの仏様でも仏宝としてよいのかというと、そうではありません。私たちを幸せな境界へと導いてくださる仏様を、仏宝と立て帰依しなければなりません。

 今から三千年前にインドに誕生された釈尊は、十九歳で出家し三十歳で悟りを開いて仏となられました。 そして八十歳で亡くなるまでに、多くの教えを説いて衆生を成仏の境界へと導き、さらに釈尊が亡くなった後の衆生までも救うことができたのです。

 この釈尊の教えで成仏できた衆生(この衆生を本已有善と言う)は、すでに成仏の種子を下されているため、釈尊の教えによって成仏に至ったのです。

 ところが末法今日の私たちは、成仏の種子を下されていないため、新たに下種を必要とする衆生(この衆生を本未有善と言う)なのです。

 このため、末法の本未有善の私たちは、釈尊に帰依しても利益はなく、成仏の種子を下してくださる仏様を信じなければ成仏はできないのです。

 よって、釈尊は、上行菩薩というお方に末法の衆生救済を任されました。 その上行菩薩の再誕として鎌倉時代に誕生され、私たちに成仏の種子を下される仏様が日蓮大聖人様です。

 大聖人様は『観心本尊抄』に、

    「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(御書六五六㌻)

と、釈尊は本已有善の衆生を成仏させる仏であり、大聖人様は妙法蓮華経の題目の五字によって本未有善の衆生に下種をする仏であると説かれています。

 また『秋元御書』には、

    「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」(御書一四四八㌻)

と、妙法蓮華経の下種を受けた利益によって釈尊を含むすべての仏が成仏したことを明かされています。

  末法の今日、本未有善の私たちは、下種の仏様である大聖人様を仏宝と立てて信じ帰依することが大切です。

そして妙法蓮華経の題目を唱え、また他に伝えることで、即身成仏の大利益を得ることができるのです。





 🖊ポイント

大聖人様は「開目抄」に、

「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(御書 五七七ページ)

と説かれています。私たちは大聖人様を主徳(衆生を守護する徳)・師徳(衆生を教導する徳)・親徳(衆生を慈愛する徳)の末法下種三徳を兼ね備えられた御本仏であると拝することが大切です。

 

 

 

 

 

 

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仏教の特徴

2022年05月01日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

大白法 平成27年2月16日(第903号)

【教学基礎講座】5

「仏教の特徴」 

ー四 法 印ー

《◎法印とは何か》

 私たちが日頃使っている印鑑は、自分と他人とを区別する「しるし」であり、

自分という人間の 「標章」でもあります。

 これと同じように、

仏教の法理の中で他の宗教と明確に区別すべき勝れた特性、

すなわち「真実の標識」を「法印」と言います。

  この法印として、三法印、四法印が広く知られていますが、

今回は四法印について説明しましょう。 

 

 四法印とは、

①諸行は無常である(諸行無常)

②一切の行は苦である(一切行苦)

③諸法は無我である(諸法無我)

④涅槃は寂静である(涅槃寂静)

の四句を言います。

 

この中の、

②一切行苦を除いたものを三法印と言い、

四法印に「一切の法は苦である」の一句を

加えたものを五法印と言います。





《一、無常とは何か》

 無常という言葉は、「無情」と 同音のためか、一般的には悲観的な意味で用いたり、

儚い人生を指して用いることが多いようです。

しかし「諸行無常」の「諸行」とは、この世に存在するすべてのもの、一切の現象をいい、

「無常」とは一瞬たりとも止まることなく変化するということですから、ものごとが向上し発展することも無常の相(すがた)であると言えるのです。

 涅槃経には、雪山童子の話が説かれていますが、修行中の雪山童子が命を捨てて求め聞こうとした教えが「無常偈」と言われる経文です。

それは、

「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽

(すべてのものが変化している、これが生滅の法である。

生滅を共に滅するところが寂滅であり、これこそ真実の楽なのである)」

と言うものです。 ここには、

四法印のうち「諸行無常」と「涅槃寂静」の法理が示されています。

 

 日本の「いろは歌」も、この無常を詠ったものです。

「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日超えて浅き夢見じ酔もせず」

つまり、

すべての現象は一瞬の停止もなく生滅し変化することを意味しています。 



《二、一切行苦とは何か》 

  仏教では、一切の現象は無常であるが故に苦であると説いています。

 この苦について、 苦苦、壊苦、行苦の三苦があります。

 苦苦とは、肉体的な感覚の苦を言います。

 壊苦とは、事物が衰えたり、亡びたりすることによって感じる苦しみであり、

 貧困、失望、老衰などの精神的な苦しみを言います。

 行苦とは、四法印の一つである一切行苦を言い、

 一切の現象(諸法・諸行)は無常なるが故に苦であるということです。

 仏教で苦という現実相を強調するのは、人生を安易に考えることなく、

 現実を直視することを教え、より高い理想と真の解脱を求めることを教えるためです。

 

《三、無我とは何か》

 「諸法無我」とは、簡単に言えば、

一切の存在は無常の法の故に固有の実体的な本性はないということです。

 この世に存在する現象は、すべて常に変化しているのであり、

人間も五陰(色、受、想、行、識)が仮に和合したものに

過ぎないのですから、固定した自性や我というものは存在しないのです。

 この考えは、大乗仏教の「空」の思想と同じものと言えます。

この諸法無我の教えは、私たちにとって、本来執着すべき何物もなく、

自と他との区別によって愛憎の心にとらわれることを戒めているのです。

 

《四、涅槃寂静とは何か》

 衆生は現実の苦を感ずることによって、

同時に苦のない、救いという理想を意識するようになります。

 仏教では、現実世界の理想として涅槃寂静が説かれています。

 涅槃とは、貪欲(むさぼり)・瞋恚(怒り)・愚痴(おろか) などの

一切の煩悩が滅し尽くしたところにあり、涅槃は「吹き消すこと」を

意味した言葉です。つまり、煩悩の火を吹き消すことを涅槃と言います。

 この涅槃こそ寂静すなわち寂然として波一つ立たない静かな境地であり、

衆生はこの寂静の境地に至ったとき、

初めて我が心に真如の月を映し出すことができると説いているのです。 

 

《諸法実相 ー 一実相印 ー》

 以上の三法印・四法印は主として小乗仏教に説かれたものですが、

大乗仏教とりわけ法華経では、法印としては「諸法実相」の一法印のみで

あると説いてます。この説は天台大師の「法華玄義」に示されています。

 すなわち、法華経の『方便品』には十如是をもって諸法実相を説明し、

仏の智慧は現実の相の真理に体達し、一切のものは仏性を具え、

真理の当体であると説きました。

この諸法実相によって一念三千の法理が確立されましたが、これまた、

先の四法印を法華経の立場から諸法実相の教理を包摂したものと言えます。

 大聖人様は『御義口伝』に、

「法華の心を信ずるは種なり。諸法実相の 内証に入れば仏果を成ずるなり」(御書1741㌻)

と説かれ、

諸法実相の悟りこそ仏の究極であり、その実証を顕わされた一念三千の当体こそ末法流布の大法たる南無妙法蓮華経の大御本尊であると教示されたのです。

 

 

 

 

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