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熱原法難四

2023年01月19日 | 日蓮大聖人の御生涯(四)

大白法 令和3年6月1日(第1054号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 146

  日蓮大聖人の御生涯 ㉜

   熱原法難 四

 

 南条家への迫害

 平左衛門尉頼綱等による法華講衆への迫害は、富士下方荘熱原の信徒、神四郎・弥五郎・弥六郎の斬首にとどまらず、さらに上方荘の上野の地頭である南条時光殿一家にも及ぶことになりました。

 地頭という要職にあった南条時光殿は、二十歳の青年でありながらも強盛な信心をもって、日興上人をはじめとする僧侶たちを外護し、農民たちを護るなど支柱的存在として大いに尽力しました。

 このため、南条時光殿をはじめとする上野の南条家に対しての風当たりは強く、日蓮大聖人が、

 「これひとへに法華経に命をすつるゆへなり。またく主君にそむく人とは天御覧あらじ。其の上わづかの小郷にをほくの公事せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし」(御書 一五二九㌻)

と仰せのように、 公事(年貢以外の賦課をいい、細々した種々の税や雑多な労役の総称)の重い負担を課せられ、乗る馬もなく、家族は着る物にも難渋するなど、逼迫した生活を余儀なくされたのです。

 しかし、このような中においても、日興上人の薫陶を受けながら、一家力を合わせて強盛な信心を貫きました。

 

 法華誹謗の現罰

 入信間もない神四郎・弥五郎・弥六郎をはじめとする熱原法華講衆が法難に殉じた強い信心の姿は、令和の今日においても色あせることはありません。

 しかし、これと対照的に、大聖人の仏法に背き、正法を受持信行する弟子檀那を迫害した人々の末路が、いかに悲惨なものであったかについて述べます。

 大聖人が熱原法難の渦中に著された『聖人御難事』には、

 「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣・万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、(中略)大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか」(同 一三九七㌻)

と仰せです。

 また、

 「三位房なんどのやうに候を(臆)くびょ(病)う、物をぼへず、よ(欲)くふかく、うた(疑)がい多き者どもは、ぬ(塗)れるう(漆)るしに水をかけ、そ(空)らをき(切)りたるやうに候ぞ。

 三位房が事は大不思議の事ども候ひしかども、(中略) は(腹)らぐ(黒)ろとなりて大づちをあたりて候ぞ」(同 一三九八㌻)

と仰せのように、法華講衆を迫害した大進房・長崎時綱・大田親昌は、乗り慣れているはずの馬から落ちて悶死しました。大聖人の弟子として布教の応援に駆けつけたはずの三位房は、 院主代・行智の言葉に誑(たぶら)かされて大聖人を信じきることができずに退転し、その罰を受けて不慮の死を遂げたのです。

 すなわち、正法受持の弟子檀那を迫害する者は、たとえ国王・大臣などの高位の者であっても、また過去に弘教の功績を残した者であっても、法華誹謗の罪によって厳しい仏罰を被ることが明らかです。 

 それは執権・北条時宗の懐刀として、権力をかさに大聖人に敵対し、迫害した平左衛門尉頼綱も例外ではありません。

 その最期は、日興上人の『弟子分本尊目録』 に、

 「其の後十四年を経て平入道判官父子、謀反を発して誅せられ畢ぬ。父子これただ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」(歴代法主全書)

と記録されている通りです。

 熱原法難から十四年後の永仁元(一二九三)年四月、栄華の春を謳歌していた平頼綱は、慢心を増長させて謀反を企て、ついに幕府(北条貞時)によって誅殺されることになるのです。

 

 平左衛門尉頼綱

 平頼綱は、第五代執権・北条時頼の時代に内管領の要職にあった平盛時の子息で、父の後を継いで北条得宗家被官(御内人)となりました。

 第八代執権・北条時宗、第九代執権・北条貞時の時代には、父と同じように内管領となり、また北条貞時の乳母の夫であったことから、その立場を利用して幕府内で大きな権力を握ることができたのです。

 この平頼綱と肩を並べる人物として幕府内には、北条時宗の舅で北条貞時の外祖父に当たる安達泰盛が、有力な御家人として存在していました。

 御内人の代表である平頼綱と御家人の代表である安達泰盛は、幕政運営を巡って対立することがありました。

 執権・北条時宗が弘安七(一二八四)年四月に死亡すると、安達泰盛が主導して幕政改革を行いますが、その急激な改革に武士の不満が高まりました。そうした武士たちを味方につけた平頼綱によって、弘安八年十一月、ついに安達泰盛は一族の多くと共に滅ぼされてしまいます。(霜月騒動) 

 これにより、幕府内において平頼綱に対抗できる人物は皆無となり、平頼綱による独裁的な恐怖政治が行われるようになったのです。 

 弘安二年当時、既に大きな権力を持っていた平頼綱に対し、毅然たる姿勢で謗法破折を行い平伏することのない大聖人とその弟子をはじめ、いかなる拷問にも屈することなく、強盛な信心をもって声高らかに唱題する法華講衆の存在は、平頼綱にとって衝撃的なことでありました。平頼綱はそこに屈辱感を抱くと共に、憎悪の念を燃えたぎらせました。

 そして、その憎悪は、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬首に処すという凄(せい)惨(さん)な形となって表われたのです。

 

 峻厳なる因果の道理

 永仁元(一二九三)年、権力の絶頂期にあった平頼綱は、次男の飯沼判官資宗を大将として幕府転覆を企てます。 しかし、これを知った長男の平宗綱は、 日頃から弟の飯沼資宗だけが平頼綱に寵愛されているのを妬んでいたため、その腹いせに幕府に密告したのです。

 そして、同年四月、執権・北条貞時の軍によって平頼綱の自邸が襲撃され、平頼綱と飯沼資宗は処刑、密告した平宗綱も佐渡へ流罪となり、家屋と所領は没収、妻子も追放となりました。

 これにより、足かけ九年続いた平頼綱の政治は幕を下ろしたのです。

 この時の様子を、総本山第四世日道上人は『御伝土代』 に、

 「子息飯沼の判官馬に乗り、小蟇目を以て一々に射けり、其の庭にて平左衛門入道父子打たれり、法華の罰なり」(日蓮正宗聖典 七四六㌻)

と御教示されており、 奇しくも神四郎・弥五郎・弥六郎を斬首に処した自邸の庭で父子共々誅殺されたことに、仏法の因果応報の厳しい裁きを見ることができます。

 また、第二十六世日寛上人は『撰時抄愚記』に、

 「今案じて云わく、平左衛門入道果円の首を刎ねらるるは、是れ即ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の頭を刎ねらるるは、是れ即ち安房国の蓮祖の御頸を刎ねんとせしが故なり。嫡子宗綱の佐渡に流さるるは、是れ即ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。其の事、既に符号せり、豈大科免れ難きに非ずや。(中略)現報に遠近有り。遠くは蓮師打擲の大科に由り、近くは熱原の殺害に由るなり」(御書文段 三六八㌻ )

と、平頼綱不死の滅亡の遠因は大聖人への誹謗と迫害にあったこと、また、近因は熱原法難にあったことを御指南されております。

 私たちは、仏法の因果の道理を信じ、いかなる誘惑があろうとも退転することなく、御本尊を信じ、広宣流布を目指して、自行化他の信心に挺身していくことが大切です。

 



 次回は「大聖人の出世の本懐」について学んでいきましょう。