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追善供養

2022年06月30日 | 仏教用語の解説(一)

 「大白法」平成30年2月16日(第975)

  【仏教用語の解説】4

    追 善 供 養

         追善供養とは

 追善供養とは、故人の冥福を祈るために追って善行を修することです。

日蓮正宗では、

正しい御本尊を中心として、法要・塔婆の建立・墓参などを行い、

その功徳をもって故人の抜苦与楽・仏道増進に資するのです。

 回向の道理 

 回向とは

自分自身の積んだ功徳善根を他に廻らせ、向かわしめることです。

この回向の道理により、

願主の積んだ善根が亡き精霊に向かい、利益することになります。

 この回向の大事を示す例に、

目連尊者の故事があり、『仏説盂蘭盆経』に詳しく説かれています。

 目蓮は釈尊の弟子の中でも神通第一と言われた弟子です。

ある時目連が神通力をもって亡き母の姿を見たところ、

母は慳貪の罪により餓鬼道に堕ち、骨と皮だけになっていました。

目蓮は神通力によって母に食べ物を送りますが、

母が食べ物を口に入れようとするとすべて炎となり、

かえって母を苦しめるばかりで、どうすることもできませんでした。

 つまり、神通力では母の宿業を浄化することができなかったのです。

 目連が釈尊に教えを請うたところ、

夏安居〔✽1〕が明ける七月十五日に十方の聖僧を招いて供養すれば、

その功徳の一端が母に及ぶであろうと指南され、

目連がその通りにしたところ、母は一劫の間、餓鬼道の苦を脱れたということです 。

 この話は、盂蘭盆会の起源として一般的に知られています。

 神通第一の目連でさえも、自らの神通力ではなく、

聖僧に供養した功徳によって母の苦を除くことができたのです。

 

 追善供養の功徳

 『新池殿御消息』には、

子供を亡くした新池殿が追善供養のため、

日蓮大聖人にお米を御供養したことが記されています。

 それに対し大聖人は、 

 「竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候。

 小善なれども法華経に供養しまいらせ給ひぬれば功徳此くの如し。     

 (中略)法華経の行者を供養せん功徳は、

 無量無辺の仏を供養し進らする功徳にも勝れて候なり」

  (御書一三六三㌻)

とお仰せられ、

一滴の水を手に入れた竜がたくさんの雨を降らせるようにたとえわずかな志であっても、

法華経に対する供養は無量の功徳となって亡き子に及び、

さらに末法にあって法華経の行者たる日蓮大聖人を供養する功徳は

あらゆる仏を供養する功徳に勝れると教示されています。

 逆に、

 「阿弥陀仏や大日如来、達磨など、

 謗法に対する供養は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちる原因である(趣意)」

 (御書一三六四㌻)

とも仰せです。

 また『御義口伝』には、

 「今日蓮等の類 聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、

 南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ

 (中略)法華不信の人は堕在無間なれども、

 題目の光を以て孝子法華の行者として訪はんに豈此の義に替はるべきか」

 (御書一七二四㌻)

とあり、提婆達多が仏の光明に照らされて成仏したように、たとえ

無間地獄に堕ち苦悩に喘ぐ人がいたとしても、成仏することができるのです。

したがって孝子が正法を受持し追善供養すれば、

必ず成仏できると御指南されています。

 塔婆建立の意義

本宗では追善供養の際、塔婆を建立してその功徳を故人に回向します。

 塔婆は詳しくは卒塔婆と言い、

釈尊をはじめとする諸仏の入滅後にその舎利(遺骨)を安置して、

その仏徳を供養するために建てられた仏塔(ストゥーパ)に由来します。

 塔婆の形は五輪(地水火風空)を象っていますが、

本宗においては妙法蓮華経の五字を意味しています。

 法華経『法師品第十』には、

 「舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。

 此の中には、已に如来の全身有す」(法華経 三二六㌻)

と、仏の滅後には、仏舎利を安置し供養するのではなく、

法華経に如来の全身が具わっているのであるから、

法華経に対して塔を建てて供養するようにと記されています。 

 大聖人は塔婆供養の意義について、

『草木成仏口決』に、

 「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。(中略)

 我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、

 死の成仏にして草木成仏なり」(御書五二二㌻)

と教示されています。

すなわち、

五輪の塔婆に、妙法五字と故人の戒名を認めて開眼供養することにより、

亡くなった人の霊を仏身に表わし、その功徳が故人に回向されるのです。

 追善供養の実践

 追善供養の実践には、 先に述べた塔婆供養が最善の方法です。

 塔婆供養は、個人の命日忌や回忌法要の他、お盆、お彼岸、

毎月の御経日などの機会に寺院に申し込んで建てることができます。

 さらに、墓地がある場合は、

墓地に塔婆を持参して読経・唱題を行うこともできます。

その際の塔婆の建て方について、

総本山第九世日有上人は『化儀抄』に、

 「一、卒塔婆を立つる時は大塔中にて十如是自我偈を読みて、

 さて彼の仏を立つる所にて、又十如是自我偈を読むべし」

と御指南されています。

総本山及び各寺院の墓地においては、

まず中央の三師塔にお詣りしてから、各自の墓前に向かいます。

 また、本宗では古来「常盆・常彼岸」と言われ、

朝夕の勤行などでも毎日、先祖を供養することが重要であるとされています。

さらに追善供養の本義は、正しい御本尊に対する、

願主の信力・行力をもって故人の仏道増進に資することにあるのですから、

追善供養のためには、

まず私たち自身が、日々信心を練磨していくことが大切です。

 成仏の根源たる題目

 塔婆に認められる題目及び本宗僧俗の唱える題目の根源の法体は、

一大秘法の本門の本尊、

すなわち総本山大石寺の奉安堂に在す本門戒壇の大御本尊です。

 したがって、

塔婆に題目が認められていたとしても、日蓮大聖人の意に背き、

大御本尊を信仰の対象としない他宗他派によって営まれる追善供養には、

一分の功徳もありません。

そればかりか、かえって故人を苦しめる結果となります。

 追善供養の実践は、故人はもちろんのこと、

願主自身にとっても大きな功徳を積む機会となることを忘れずに、

日々精進してまいりましょう。

 

 

 

   〔✽1〕 夏安居(げあんご) 安居とは、

       外出しないで一定の住居に留まること。

       インドで夏の

       雨期に当たる三カ月間(四月十六日から七月十五日)、

       僧侶は遊行を止めて一処に集まり、

       遊行中の罪の懺悔や経典の講説が行われた。



 

        次回は、「四悉檀」についての予定です。

 

 


仏性

2022年06月29日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年1月16日(第973号)

  【仏教用語の解説】3

   仏  性 

 仏性とは、衆生に具わる仏としての性分や、成仏の可能性を意味します。

 仏性と同義の言葉として如来蔵や仏種という言葉もあります。

如来蔵とは如来を蔵するの意で成仏の因のこと、仏種とは仏になる種という意味です。

 煩悩に覆われた仏性

 釈尊は法華経において、

一切衆生は仏の子供であり父の釈尊と同じように仏としての性分を具え、

成仏できることを明かされました。

また涅槃経では、

 「一切の衆生に悉く仏性あり」

と、すべての衆生が仏性という成仏の因、成仏の種を持っていることを説かれました。

しかし一方で、

 「衆生の仏性も、亦復是の如し。常に一切の煩悩に覆われて見ることを得べからず

 (中略)善男子、是の如く菩薩、位十地〔✽1〕に階るだも、尚了了に仏性を知見せず。

 何に況んや声聞・縁覚の人にして能く見ることを得んや」

とあります。つまり、衆生に本来具わっているはずの仏性は、

煩悩に覆われて見ることができず、別教の十地という高い境界の菩薩ですら知見する

ことができないのであるから、声聞・縁覚の二乗も当然見ることはできないのであると、

仏性を顕わして成仏することの難しいことを示されています。

 敗 種

 一般的に小乗仏教では、衆生自らが仏になることを説かず、

阿羅漢果〔✽2〕を得て灰身滅智〔✽3〕し、身心を無に帰するとされますので、

仏性という概念がありません。

 一方、大乗仏教では仏性という概念を示しますが、

法相宗などでは機根によって成仏できるかできないかはあらかじめ決まっており、

絶対にそれを変えることはできないと主張します。(五性各別)

 これは、法華経以前の爾前経には二乗や女人の成仏を説かないため、

爾前経によって宗旨を立てる宗派では、自ずと成仏できない機根があるとされるのです。

 従って、爾前経における二乗の仏性・仏種は、

絶対に成仏の芽が出ない焼いた種や腐った種の意で、敗種と言われます。

 法華経における仏性

 『法華経方便品』には、

 「若し法を聞くこと有らん者は 一(ひと)りとして成仏せずということ無けん」

 (法華経 一一八㌻)

と説かれ、

法華経を信受するすべての衆生は、法華経の功徳によって必ず成仏できると説かれました。

 そして、爾前経では決して成仏することができないとされてきた二乗、女人、また

五逆罪を犯して必ず無限地獄に堕ちるとされた一闡提の提婆達多でさえも成仏できる

説かれました。

 本当の意味での仏性、一切衆生の成仏が法華経において明かされたことにより、

初めて十界互具・一念三千が確立されたのです。

  三因仏性

  天台大師は法華経の理のもとに、仏性を三つの側面から捉え三因仏性を説きました。 

 三因仏性とは、

①正因仏性(すべてのものに具わる一念三千の理)

②了因仏性(理を照らす智慧)

③縁因仏性(智慧を起こすための善業)

という三つです。

衆生は修行を積み、智慧によって仏性を開発していくことにより成仏するとしたのです。

 そして妙楽大師はさらに、

 「一草一木、一礫一塵、各々一仏性、各々一因果ありて、縁了を具足す」

と説き、草木や石ころ、塵一つまで、一念三千の諸法、

法界全体が正・了・縁の三因仏性を具えた仏の当体の一部であり、成仏することができると、

さらにその意義を徹底したのです。

 仏性を顕わすには

 天台大師が説いた三因仏性は智慧によって仏性を開発するという教えですが、

大聖人は「以信代慧」と説かれ、

末法には一分の智慧がなくても信によって行を起こすことで顕われると説かれます。

 そして末法における仏性を現実に顕わすための行とは 『法華初心成仏抄』に、

 「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、

 南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏と云ふなり。

 譬へば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。

 空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し。

 口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」

  (御書一三二〇㌻)

と、末法の御本仏日蓮大聖人が御図顕された御本尊に対して御題目を唱える時、

籠の中の鳥が、空飛ぶ鳥の鳴き声に誘われて外に出ようとするように、

我が命に具わる仏性が自ずと顕われるのであると説かれています。

 不軽の跡を紹継す

大聖人は『聖人知三世事』に、

 「我が弟子等之を存知せよ。日蓮は是法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」

 (御書 七四八㌻)

と示されています。

 不軽菩薩とは、 『法華経常不軽菩薩品第二十』に説かれている菩薩で、

一切衆生に尊い仏性が具わることを知り、 在家・出家を問わず、

すべての人を礼拝したという菩薩です。

 不軽菩薩が礼拝した人は、不軽菩薩を悪口罵詈し、杖や瓦石をもって迫害しました。

不軽菩薩はそれでも礼拝行を止めず、逆縁ではありましたが衆生を成仏に導こうとされました。

 末法の一切衆生の皆等しく仏性を具えています。 

しかし多くの人は間違った教えや思想によって苦悩に喘ぎ、仏性を顕わせずにいます。

 大聖人はそうした衆生を成仏させるために、

不軽菩薩と同じように順縁・逆縁を問わず、すべての衆生を折伏し導こうとされたのです。

 現在の宗門は、こうした大聖人の御心のままに、

御法主日如上人猊下御指南のもと、

平成三十三年・法華講員八十万人体制構築をめざして大前進をしています。

 私達は日蓮大聖人の教えを正しく受け継ぐ、真の仏子であるという自覚のもとに、

折伏・育成に精進してまいりましょう。

 



✽1 十地(の菩薩)別教では菩薩が仏になるために、五十二位の段階があるとされる。

   十地とは、四十一番目から五十番目の位を言い、

   見惑・思惑・塵沙惑といった無数の煩悩を断じて、

   さらに一分の無明惑を断じて円教の十住位に到った断無明の高位の菩薩。

✽2 阿羅漢果 小乗の最高位、見惑・思惑の煩悩を断じ尽した位。

✽3 灰身滅智 十界のうち、地獄界から天上界までの六道

        (地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天上)の衆生は死んでもなお六道を輪廻し、

        苦しみの境界を抜け出せないとされるが、

        声聞界・縁覚界の二乗の衆生は身心を無に帰して

        三界から解脱し輪廻の苦しみを離れることをもって最高の悟りとする。 

        身を灰にし、智を滅する境界なので灰身滅智と言う。

 

 

             次回は、「追善供養」についての予定です。

 

 

 

 


四苦八苦

2022年06月28日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成29年12月16日(第971号)

 【仏教用語の解説】2

  四 苦 八 苦 

 四苦八苦とは、私たちが生活していく上で避けて通ることのできない苦しみです。

 誰もが必ず大なり小なりいろいろな悩みや問題を抱えており、苦しみから離れた生活はないと言えます。

『法華経譬喩品第三』には、

 「三界は安きこと無し 猶家宅の如し 衆苦充満して 甚だ怖畏すべし 常に生老 病死の憂患有り 是の如き等の火 熾然として息まず」(法華経一六八㌻)

とあり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の衆生が業の因縁によって輪廻転生する欲界、色界、無色界の三界は、衆生の煩悩により苦悩が充満した世界であるとされています。その煩悩家を焼き尽くす炎の如きものであり、その中で暮らす衆生は安まることがないのです。

 釈尊は出家を決意する動悸となった一つに、四門出遊の逸話があります。釈迦族の王子であった釈尊は、迦毘羅衛城の東門から出ると老人に合い、南門から出ると病人に会い、西門から出ると死者に会いました。 王子は、生あるものは必ず老・病・死の苦しみから逃れることができないという無常を感じました。そして北門から出たところで一人の沙門(出家者)に会い、その清浄な姿を見て、出家の意思を固められたと言われています。

 四苦とは根本的な苦しみである生老病死の四つの苦しみ、八苦は四苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四つを加えたものです。

四苦八苦の内容は次の通りです。

一、生苦・ 生まれることの苦しみ

二、老苦・老いる苦しみ

三、病苦・病にかかる苦しみ

四、死苦・死ぬ苦しみ

五、愛別離苦・愛する者と別れる苦しみ

六、怨憎会苦・憎む者と会う苦しみ 

七、求不得苦・求める物を得ることができない苦しみ

八、五陰盛苦・五陰(衆生の色心を表わす 色・受・想・行・識)が盛んになることによって生じる苦しみ

 私たちが生活の上で感じる苦しみや悩みは、人によって異なりますが、およそこの四苦八苦に大別されます。

 苦悩の原因と解決法

 『大智度論』に、 

 「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く(中略)仏の大慈大悲は真実に最大なり」

とあるように、仏は苦悩の根本原因を悟り、衆生の苦悩を除くため、慈大悲をもって様々な教えを説かれました。

 苦悩の原因は、衆生の心に必ず存在する煩悩によります。 煩悩が生じることにより悪業を積み、そこから結果として苦を生じます。そしてまたその苦から煩悩が増長するという悪循環により、苦しみの境界から抜け出せなくなるのです。 

 それに対し仏は、苦の原因となる煩悩を除くためには善業を修し、よい果報を得ていかなければならないとして、因果の理法を示されました。

 また、衆生の生命は今生一生限りではなく、三世永遠であると示し、今生・後生によい果報を得るために何をなすべきか、 そのための方法を説かれたのです。

 しかし、釈尊の説かれた仏教は正法時代、像法時代〔✽1〕の本已有善〔✽2〕の衆生のための教えであり、末法の本未有善〔✽3〕の衆生はその教えに従っても苦しみがなくなることはありません。

 日蓮大聖人は『報恩抄』に、

  「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(御書一〇三六㌻)

と仰せられ、本未有善の衆生は、末法の御本仏である日蓮大聖人が唱え出だされた題目を唱えることにより、その功徳によって苦しみの境界から抜け出せることを示されています。

 唱題で苦を取り除こう

  『立正安国論』に、 

  「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(御書 二三四㌻)

とあるように、世間に目を向ければ、戦争や災害が絶え間なく起こり、また連日のように悲惨な事件や犯罪があり、不幸な出来事が起こり続けていると言えます。

 これらの原因は、衆生が己の煩悩に任せ、目先の利益や執着によって自分勝手に振る舞い、さらに我見を持って様々な宗教・思想に毒され謗法の悪業を積んでいるところにあります。

 人々が正法に背いて様々な悪法を崇めることにより、世の中が乱れ、国土が乱れ、そこに住む衆生は、 より苦しむことになるのです。 『一生成仏抄』に、

 「衆生の心けがるれば土もけがれ、 心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」 (御書 四六㌻)

と、衆生が迷い苦しむ国土は自ずと乱れ、正法を受持する清い心の衆生の国土は浄土となる。国土が浄土になるか、穢土になるかは、そこに暮らす衆生の心の善悪によるものであると教示されています。 

 また『四条金吾殿御返事』に、 

 「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(御書 九九一㌻) 

と示されています。

 私たちは生活していく上で、様々な苦しみと向き合わなければなりません。その際、しっかりと御本尊に題目を唱え、 苦楽を達観した 仏の境界に立ってこそ、苦しみや困難を乗り越えていくことができるのです。

 日蓮大聖人の仏法を知らない人々は、自分自身が本当に苦しみから抜け出し、幸せになるための方法を知りません。また国土に蔓延する苦しみから自身一人だけが逃れ、幸福になることなど絶対にできません。

 それは、自分自身の幸せを願うだけの信心は、大聖人様が仰せの仏道修行とはならないためです。

 日々の真剣な勤行・ 唱題に励み、慈悲の心をもって折伏と育成に精進し、自他共に幸福な人生を歩める仏国土を築いてまいりましょう。

 




✽1 正法時代、像法時代(末法時代)

釈尊は、自らの入滅後に仏法が衰えていく様相を、「正法時代」(釈尊滅後千年)、 「像法時代」 (その後の千年)、 「末法時代」(像法時代の後、万年)と三つの時代に分けた。 正法時代は釈尊の教えが正しく伝わる時代で、迦葉・阿難・龍樹・天親等の人師論師が小乗教や権大乗教を弘めた。像法時代は教えや修行の形のみが正法時代に像ており、天台大師・伝教大師等が法華経迹門の教えを弘めた。そして仏滅後二千年が過ぎて釈尊の仏法が効力をなくし、 人々の心が荒廃し争い合い、仏法を修行しない者が充満末法時代には、御本仏日蓮大聖人様が出現され、南無妙法蓮華経を弘められた。

✽2 本已有善 既に善根を有している機根を言い、前に仏法の種を植えられた正法・像法時代の衆生。 

✽3 本未有善 未だ善根を有さない機根で、仏となるべき種を持たない末法の衆生のこと。 

 

 

   次回は、「仏性」について予定です。

 

 

 

 

 


授戒

2022年06月27日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成29年11月16日(第969号)より転載

  【仏教用語の解説】1

    授 戒 

 古来より、仏教を受持する者は必ず何らかの戒を受け、持戒の誓いを立てました。それを、戒を受け誓いを立てる側からは受戒と言い、授ける側からは授戒と言います。

 授戒の場所を戒場と言いましたが、授戒の作法が形成される中で、結果を示す壇が作られたことから、戒壇と言うようになりました。

 なぜ授戒をするのか

 南山律宗の祖である中国の道宣は、戒法・戒体・戒行・戒相という戒の四科を説きました。

  「戒法」とは、仏が制定された戒の法、戒の内容。

  「戒体」とは、戒を受ける時、自然に命に具わる防非止悪の徳のある法体。

  「戒行」とは、戒を受けた者が戒の内容に従って持戒し、身口意の三業に実践修行すること。

  「戒相」とは、持戒の行者が威儀を成じ、徳が顕れる相。

 授戒の儀式は、この戒の四科のうち、行者の身に戒体という防非止悪の徳のある法体を宿し、持戒の誓いを深く命に刻むために行うのです。

 授戒の作法

 戒には小乗・大乗に様々な種類があり、授戒の儀式もまちまちです。

 日本における授戒の儀式は、南山律宗の鑑真が渡来し、東大寺に戒壇を築いて授戒を行ったことを始まりとし、その後、

下野薬師寺(栃木県)と筑紫観世音寺(福岡県)にも戒壇が築かれました。

 これらの戒壇は、基本的に僧侶に対して、小乗具足戒(比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒)を授戒するために築かれたものでした。

 具足戒の授戒の作法は、三師七証を基本とします。

 三師とは、戒を授ける直接の師である戒和尚、

戒壇で白四羯磨(戒和尚や受戒者の名前を読み上げ、三師七証の皆に授戒の賛否を三回問う)を行う羯磨阿闍梨、

授戒の威儀・作法を教える教授阿闍梨の三人のことで、七証とはそれを見届ける七人の証人です。

 伝教大師の大乗戒壇建立

 奈良時代以降、僧侶になるためには具足戒を受け、僧綱という組織に入ることが義務づけられました。

 比叡山の天台法華宗の僧侶も、小乗具足戒を受け、その後に比叡山に戻ることになっていました。

 これに対し伝教大師は、実大乗たる法華経の行者が小乗戒を受けることを不服として、大乗戒壇の建立を奏請(天皇に奏上して裁可を求めること)したのです。しかし、奈良の各宗の反対に遭い、伝教大師の在世には実現しませんでした。

 伝教大師の滅後七日目に勅許が下り、弟子の義真により、円頓大乗戒の授戒が行われるようになりました。

 その授戒の作法は、戒和尚として釈尊、羯磨阿闍梨として文殊師利菩薩、教授阿闍梨として弥勒菩薩、諸証として十方の諸仏、同学等侶として十方の菩薩を勧請し、在すことを念じ、そして現前の師を伝戒の師として戒を受けるのです。

 戒体の不同

 小乗の戒体は今生一生限りで失われることから尽形寿戒、また、一生を終えれば壊れて価値がなくなってしまうことから、

素焼きの粗末な器に譬えて瓦器戒とも言います。

 大乗戒の戒体は、金銀で出来た器のように、生まれ変わり、戒を破って形が損なわれたとしても、金銀の価値が残ることから金銀戒とも言われます。

 しかし大聖人は、像法以前の一切の諸戒を束ねて、

 「爾前迹門の諸戒は今一分の功徳なし」(御書一一一〇㌻)

と教示されています。

 末法においては、日蓮大聖人の下種仏法の意義に基づき下種本門戒を受戒し、実践しなければならないのです。

 下種本門戒とその戒体

大聖人は『教行証御書』に、

 「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為り。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれど破れず。是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つべし」(御書一一〇九㌻)

と説かれ、妙法の受持、三大秘法の受持に万行・万善・万戒の功徳を納めるので、その他の戒は不要であると説かれました(受持即持戒)。

 そしてその戒体は一得永不失の金剛宝器戒として一度受ければ破れることなく、必ず行者を仏果に導く功徳があるとされます。

 下種本門戒の授戒

 御授戒の儀式は、日蓮正宗寺院の御宝前にて行われます。そこで御本尊に具わる法即人の宗祖日蓮大聖人を戒師とし、末寺の住職を伝戒師として儀式が行われます。

 授戒文は、①法華本門の正法正師の正義の受持、②法華本門の三大秘法の受持、③法華本門の不妄語戒の受持を誓う内容となっています。

 この中の法華本門の不妄語戒とは、大聖人が『本門戒体抄』(御書一四四一㌻)に説かれた「寿量品の久遠の十重禁戒」〔✽1〕の一つです。一般的に不妄語戒とは、妄語(嘘)をしてはならないという戒ですが、『本門戒体抄』では、爾前の仏が二乗作仏を説かないのは妄語罪であり、それを受持する所化の衆生も同じであると説かれます。つまり 「法華本門の不妄語戒」とは、妄語・方便である爾前迹門の仏と法を捨てて、真実の仏法である法華本門の大法を受持するという意味です。

 また、伝戒師たる末寺住職と受戒者が、共に「持ち奉るべし」と称えるのは、末寺住職は、持つべきであるとの意、受戒者は持っていきますと誓いを立てる意になります。

 御授戒で下種本門戒を受けることにより、金剛宝器戒という最高の戒体を命に宿し、真の仏子として妙法受持の一歩を踏み出すことになるのです。

 世の中には、この有り難い金剛宝器戒を受けながら退転状態にある人もいます。私たちは妙法受持の中に含まれる謗法厳誡の精神の上から、すべての人たちを折伏していかなければならないのです。



 

 

✽1 十重禁戒とは、大乗の菩薩が必ず持つべき不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語などを含む十種の戒律で、破れは僧団から追放され地獄に堕ちるとされる重罪である。大聖人は『本門戒体抄』(御書一四四〇㌻)において、法華経本門に約して十重禁戒を説かれている。そこには、爾前経の仏は、法華経本門寿量品における真実を隠し、衆生に三世常住の生命と、真の成仏を明かさないので、妄語や殺生等、十重禁戒を犯す罪があると説かれている。本宗入信の授戒文に「法華本門の不妄語戒」の名称を挙げるのは、『本門戒体抄』に説かれる、法華本門の十重禁戒の内の一つを挙げて、十重禁戒のすべてを授ける意です。

 

 

 

 

 


受持即観心

2022年06月23日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」平成29年10月16日(第967号)

  【教学基礎講座】終

   受持即観心 

ー 御本尊受持が根本 ー

 

 受持即観心とは

 受持即観心とは、日蓮大聖人が『観心本尊抄』において示された御法門で、末法の修行法を言います。すなわち、妙法の大漫荼羅御本尊を信仰の対境として受持(信心・唱題)する一行こそ、末法の一切衆生が即身成仏を遂げるべき観心修行に当たることを示されたものです。

 「観心」とは、教相(理論・教え)に対する語で、教相に即した禅定・智慧の観念・観法の修行のことです。

 

 「観心」の意義

一般に「観心」とは、「心を観ずる」ことで、正法・像法時代の釈尊の仏法においては、この「我が己心を観ずる」という修行がその主体となっています。

①正法時代の観心

釈尊在世および正法時代の最上利根の衆生は、この観心の修行によって「不起の一念」(無意識の一念。心識活動以前の状態の一念)や、「八識元初の一念」(あらゆる現象を生み出す根本である最初の一念)を観じて、成仏することができたのです。

②像法時代の観心

 次に像法時代においては、衆生の機根が下劣になり、心の奥深くにある不起の一念や八識元初の一念を観じて成仏することができなくなり、「根塵相対の一念」(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が六塵〔六境〕に対して起こす認識作用の一念)を観ずるという、観念・観法の修行によって功徳を成じました。

すなわち、天台大師が『摩訶止観』に、

 自己の心を観じて十界互具・一念三千の理を悟る修行を説きましたが、これによって我が己心に仏界が具することを体得し、発現したのです。つまり、像法における観心は、天台で説く、我が六識の妄心を観じて十法界を見ることをその形式とするのです。

③末法時代の観心(受持即観心)

さて、末法時代に入ると衆生の機根はさらに下がり、下根下機の故に、我が己心を観ずる理論的な観念・観法、すなわち天台で説く通常の観心修行では功徳を成ずることができなくなりました。

故に、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、

 「末法の我等衆生の観心は、通途の観心の行相に同じからず。謂わく、但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、 是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり」(御書文段 一九八㌻)

と、日蓮大聖人の仏法においては、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが末法の観心となることを御教示です。

つまり、末法においては、大聖人の仏法を受持することが、そのまま悟りを得る観心修行となるのです。

 大聖人は「観心の法門」として、

 法華経並びに開結二経の教説を元としてさらに一重立ち入り、文上熟脱の観心ではなく、文底下種の法門に即する観心修行を明かされました。

 大聖人が仰せの観心の法門とは、文底本因下種の法門を指すのであり、文底下種本門における観心のことです。

 具体的には、『観心本尊抄』に、

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書 六五三㌻)

と仰せの受持即観心の法門です。

釈尊が成仏するために積んだ因行と果徳は、すべて南無妙法蓮華経の御本尊に納まっており、これを受持信行する衆生は、そのまま観心の悟りを成就して成仏の功徳を受けることができるのです。

 この御文における「釈尊の因行果徳・・・」とは、文上熟脱、すなわち爾前権経・法華経迹門・法華経本門における釈尊の一切の功徳、一切の経々の功徳が、押し並べて本因下種の妙法五字の御本尊に、本然として具足していることを明かされたものです。

 つまり、本因下種の妙法大漫荼羅本尊は、一切の諸仏・諸経を生み出す根源であり、また一切の諸法・諸経が帰結する根源なのです。

 したがって、下根下機の末法の衆生であっても、御本尊を受持信行するところに、法体である南無妙法蓮華経と境智冥合し、自然と釈尊の因行果徳の功徳を譲り受け、凡夫の身のまま即身成仏の本懐を遂げることができるのです。

 この妙法受持の一行が、即、末法の一切衆生の即身成仏のための観心となるというのが、受持即観心の法門です。

 

 総体の受持

さらに、この受持の一行が、即、末法観心の修行となる理由について詳しく述べると、受持には「総体の受持」と「別体の受持」の二義があります。

 釈尊は、法華経『法師品第十』や『如来神力品第二十一』の長行に、「受持・読・誦・解説・書写」という五種法師(五種の妙行)を説かれていますが、神力品の偈頌では、その中の受持の一行を、五種の妙行全体を含めた「総体の受持」として説示されています。

 なお、この「総体の受持」に対して、他の四行を含まない単独の受持を「別体の受持」と言うのです。

 日蓮大聖人は『日女御前御返事』に、

 「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」(御書一三八九㌻)

と、末法における修行は、妙法受持の一行に五種の修行の全体が含まれる「総体の受持」であることを御教示です。

 また『御義口伝』には、「此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親り之在り」(御書一七九五㌻)

と、末法に上行菩薩が出現して、ただ、妙法を受持する一行によって衆生を成仏せしめることを明示されています。

 

 妙法の四力

 この「総体の受持」の一行、すなわち末法観心の修行は、法体たる御本尊の勝妙な功徳によって成就するのであり、大聖人御在世当時の天台宗で主張していた止観勝法華・禅勝止観等の自力でもなく、また他力のみでもありません。

 我々衆生の信力・行力と、御本尊に具わる仏力・法力の四力の妙用によって功徳を成就するのです。

 故に、日寛上人は前掲の『観心本尊抄』の御文のついて、同文段に、「此の文の中に四種の力用を明かすなり。

 謂わく『我等受持』とは即ち是れ信力・行力なり。 『此の五字』とは即ち是れ法力なり。 『自然 譲与』は豈仏力に非ずや。(中略)若し仏力・法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや」

(御書文段二二八㌻)

と、信力・行力・仏力・法力の四力が相俟って、初めて受持即観心が成ずることを教示されています。

 

       ◇       ◇

 

 日蓮正宗の僧俗は、末法の御本仏・宗祖日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、自行化他にわたる題目を唱えて行くところに、末法の観心たる「受持即観心」の義が共有することを明記しなければなりません。

  即身成仏の境界を得るため、それぞれがさらなる折伏弘通に大いに精進してまいりましょう。

 

          ◇       ◇

 

 本誌八九三(平成26年9月16日)号より連載してきた

 「教学基礎講座」は・今回をもって終了します。

  ご愛読ありがとうございました。

 

 

 

 次回より、新企画「仏教用語の解説」を連載します。

 

 

 

 


下種三宝

2022年06月22日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」平成29年9月16日(第965号)

  【教学基礎講座】31

  下  種  三  宝  

ー 久遠元初の三宝が末法に出現 ー

 

 三宝とは

 仏法においては、衆生が尊敬し、供養し、帰依すべき信仰上の対象として仏・法・僧の三宝が立てられます。仏とは真実の法を覚智し、衆生を救済される仏法の教主、法とは仏の悟りと慈悲に基づいて世に説かれた教法、僧とはその仏法を譲り受け、後世に正しく護り伝えていく方を言います。

 この三つはいずれも、衆生を救い世を清浄に導く最高の宝であることから、三宝と言うのです。

 

 三宝の種類

 仏教には、小乗・権大乗・迹門・本門・文底下種という勝劣浅深がありますが、それらの教法によって三宝の種類、内容が異なります。

 例えば小乗の三宝は、 小乗の教主を仏宝、蔵教を法宝、声聞・縁覚の二乗等を僧宝とします。

 権大乗の三宝は、 権大乗の諸教主を仏宝、通教・別教等を法宝、大乗の菩薩を僧宝としています。

 さらに法華経の迹門においては、始成正覚の釈尊を仏宝、迹門理の一念三千を法宝、法華会上の声聞・縁覚・菩薩を僧宝とします。

 また本門の文上脱益の三宝は、久遠実成の釈尊を仏宝、本門事の一念三千を法宝、上行菩薩等の地涌の菩薩を僧宝としています。

 最後に文底下種の三宝については、総本山第二十六世日寛上人が『当流行事抄』に、

 「文上脱益の三宝に執せず、須く文底下種の三宝を信ずべし。是れ則ち末法適時の信心なり」(六巻抄 一九四㌻)

と説かれているように、末法に久遠元初・文底下種の三宝が出現されるのです。

その久遠元初即末法の仏宝とは日蓮大聖人、法宝とは本門戒壇の大御本尊、僧宝とは血脈付法の日興上人を随一とする御歴代上人であり、この久遠元初・文底下種の三宝を信ずることが、末法適時の信心なのです。このように、教法に従ってそれぞれの三宝が説かれますが、教法が方便ならばその三宝も方便、教法が真実ならばその三宝も真実となりますので、小乗より権大乗、 権大乗より迹門、迹門より本門の三宝が勝れていると言えるのです。

 言うまでもなく、

文底下種仏法は最高真実の教法ですから、末法出現の久遠元初・文底下種の三宝こそが最勝の三宝なのです。

 

 仏宝と法宝は人法一箇

  さて、大聖人が『御義口伝』 に、

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 一七七三㌻)

と説かれ、『経王殿御返事』に、

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 六八五㌻)

と仰せのように、

仏宝である末法の御本仏日蓮大聖人と、法宝である本門戒壇の大御本尊とは、人法一箇であり、一体不二の関係にあります。

 すなわち、久遠元初における御本仏の御悟りがそのまま妙法(法宝)であり、その真実の妙法がそのまま御本仏大聖人の御内証なのです。

 したがって、 戒壇の大御本尊はそのまま御本仏の悟りであり、かつ大聖人の御当体であると拝すべきです。

 このように、仏宝と法宝は一体不ニの御本尊でありますが、この御本尊が世に 出現されても、これを正しく相伝される僧宝の存在がなければ仏法は断絶してしまいます。 

 

 三宝は一体

 故に大聖人が『真言見聞』に、

 「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(御書 六〇八㌻)

と仰せのように、

三宝は一体であることから、僧宝においても、仏宝・法宝に対するのと同じように尊崇しなければなりません。

 日寛上人は下種の僧宝について『当流行事抄』に、

「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり。仏恩甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も若し此れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや。豈開山上人の結要伝受の功に非ずや」

(六巻抄 一九七㌻)

と唯授一人の血脈相承の上から法体の僧宝を示され、さらに『当家三衣抄』に、

「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師」(六巻抄 二二五㌻)

と、僧宝の根源である第二祖日興上人をはじめ、嫡々付法の御歴代上人が、総じての僧宝であることを示されています。

 

 三宝の奉安形式

 下種三宝が一体であることは、当宗の御本尊の奉安形式を見ても明らかです。多くの末寺の奉安形式は、大曼荼羅御本尊の中に三宝が具わると拝する一体三宝式です。

 法宝である御本尊の全体の法水は瀉瓶して僧宝に結要伝受された故に、仏・法・僧の三宝は御本尊の御一体の中に具わるのです。

 なお、総本山大石寺の御影堂のように、御本尊の御前に大聖人の御影を安置し、人と法を分けた形は、末法の住持たる大聖人を面としたものであるから住持三宝とも称しますが、その意義においては一体三宝式となります。

 また、総本山の客殿などでは、中央の御本尊に向かって、左に大聖人(仏宝)、右に日興上人(僧宝)の御影が奉安されていますが、これを別体三宝式と称します。この奉安形式は、三宝の意義を顕わすために、人法一箇の御本尊が三宝に開かれた形をとったものです。

 いずれの奉安形式も日蓮正宗七百年来の下種三宝の尊義を顕わすものです。

 

 三宝尊信と三宝誹謗

 大聖人は『光日上人御返事』に、

 「今御覧ぜよ。法華経誹謗の科と云ひ、日蓮をいやしみし罰と申し、経と仏と僧との三宝誹謗の大科によて、

 現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給ふべし」(御書 一五六六㌻)

と、諸宗の謗法によって三宝を誹謗すれば、必ず無間地獄に堕ちると説かれています。なぜならば、十界互具の義も明かさずに、凡夫も仏も一体であるという観念のみにとらわれてしまう宗教が大乗の諸宗や異流義にはありますが、それらはその観念に偏執するあまり、三宝の意義が不明確となり、ひいては法華経を誹謗することになるからです。

 こうした法華経誹謗の諸宗に帰依するならば、三宝尊信の信仰そのものが成り立たず、かえって憍慢謗法に陥り三宝を誹謗する結果となるのです。

 それに対して、大聖人の下種仏法は、唯一最勝の大御本尊(三宝一体)を尊信し、南無妙法蓮華経と唱え奉る事行によって、衆生が即身成仏すると説くのです。

 それ故に大聖人は『四恩抄』に、

 「法の恩を申さば法は諸仏の師なり。諸仏の貴き事は法に依る。されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし。

 次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝・は必ず僧によて住す」(御書 二六八㌻)

と三宝の恩を重視して、衆生を救済し化導する立場から、三宝の意義を説かれています。

 

       ◇      ◇

 

 御歴代上人以外の本宗僧俗も、正法を弘宣させていただくという広い意味からは、僧宝の一分の意義を持ちますが、何よりも法体としての下種三宝を正しく拝し尊信して、成仏の筋道を明確にすべきなのです。

 前御法主日顕上人猊下は、

「日興上人様が末法万年の上の衆生を導く唯授一人の御相伝において『南無妙法蓮華経 日蓮在判』と御本尊の本体をはっきりとお示しになり、人法一箇を中心においてお示しあそばされておるのであります。また、その脇に『日興(在判)』とお書きになったところに、それを正しく末法万年に伝えるところの僧宝の姿があるのです」

 (大日蓮 五四〇号)

と御本尊の相貌に約して、人法一箇の大御本尊にそのまま三宝が具わると御指南されています。

 私たち衆生側の信仰から言えば、この三宝一体の大御本尊を受持して、三宝の恩徳を拝し、三宝を尊信することこそが成仏への重要な信心姿勢となるのです。 

 

 

 

 

 


三大秘法(宗旨の三箇)下

2022年06月21日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」平成29年6月16日(第959号)

       【教学基礎講座】30

        三大秘法(宗旨の三箇)下  

         ー 本門の題目 ー

 

 日蓮大聖人は『開目抄』に、

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此の魂魄佐土の国にいたりて」(御書 五六三㌻)

と、竜の口での発迹顕本の現証を示されていますが、

さらに『御義口伝』には、

「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御書 一七六五㌻)

と教示されています。

 これは 大聖人の弘通された本門の題目が末法出現の本仏、

すなわち

大聖人の御身に具わる題目(三身具足の仏身)であることを如実に示すものです。

  なぜならば、

本門の題目は法報応三身具足の本門の本尊に収まり、さらにその本門の本尊は、

発迹顕本された大聖人の一身に具わるからです。

 

  本門の題目とは

 

 さて、本門題目の理は一切衆生に通じ宇宙法界にも遍満していますが、

本門の本尊から独立して本門の題目のみが法界に遍満するわけではありません。

また、

御本仏大聖人の御内証を離れて、別個に本門の題目を求めることも大きな誤りです。

  本門の題目とは久遠元初の本仏の宝号であり、

その功力も本門戒壇の大御本尊に収まっています。

また衆生の信心修行の立場では、御本仏の御教導に随って、

本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることです。

 

  三種の題目

 

 大聖人が御書中で説かれる「法華経」「題目」「妙法五字」という言葉には、

大聖人所顕の下種の題目の他に、釈尊の法華経(脱益)における二種の題目の意義があります。

 法華経二十八品の妙法蓮華経は、

義の上から見れば、迹門の妙法と本門の妙法との二種に判別されます。

法華経迹門では、爾前権経を開いて諸法実相の妙法を顕わしますが、

さらに本門では久遠実成の妙法を顕わします。

  ただし、

この本門の妙法も、 釈尊の法華経に説き顕わされた本果脱益の題目であって、

大聖人の顕わされた真実最勝の本因下種の題目ではありません。

 脱益の法華経における二種の題目は、

大聖人の御内証に具わる本門の題目に帰結するのです。

 

 信の題目・

 行の題目

 

 この本門の題目には、信の題目と行の題目があります。

『 法蓮抄』に、

「信なくしてこの経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」(御書 八一四㌻)

と仰せのように、信行が具足されてこそ成仏に至ることができるのです。

 故に総本山第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、

「本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり」(六巻抄 七〇ページ)

と教示されています。

 たとえ唱題の修行があっても、信心がなければ成仏は叶わず、

反対に信心があると言っても、修行が欠けていれば少しも功徳にはなりません。

 また、本門の題目の実体は本門の本尊にありますから、

この大御本尊を信じて題目を唱えることによって、

大御本尊と衆生が境智冥合し、即身成仏という大功徳が生ずるのです。

 したがって、

信行具足の題目といっても、

諸宗の誤った対境(本尊) に向かって唱えるならば全く功徳はなく、

本門の題目とはなりません。

 

 理行の題目・

 事行の題目

 

  大聖人は『三大秘法抄』に、 

「題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。(中略) 像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり」(御書一五九四㌻)

と 仰せのように、

 釈尊滅後の竜樹・天台等の諸師は、観念観法の傍ら題目も唱えましたが、それは理の法体を対境とする自行としての題目であるため、これを理行の題目と言います。

  これに対し、事行の題目とは、本仏がその不思議の御内証の妙因妙果を説き顕わされた人法体一の事の法体・本門の本尊を対境とした題目であり、本仏自らが実際に行じ、他の衆生を教導する自行化他の南無妙法蓮華経なのです。

 ですから

末法の衆生は、大聖人の仰せのまま、自らの成仏を願うと共に、

広く他のために折伏を行じていくことが大切です。

それが事行の題目を受持する尊い姿なのです。

そこには理行の題目とは比較にならない広大深遠の力用があるのです。

 

 唱題の功徳

 

 大聖人は『松野殿御返事』の中で、

「聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云々。 更に勝劣あるべからず候(中略)但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」(御書 一〇四六㌻)

と仰せです。

  すなわち、

末法の衆生が本門戒壇の大御本尊を信じて唱え奉る題目は、

御本仏の唱え給う題目と、功徳において勝劣は全くありません。

  ただし、

たとえ同じように題目を唱えたとしても、

法華経の心に背き、大聖人の御心に背いて唱えるならば、

その題目に真実の功徳はありません。

法華経に随順し、大聖人の御心に適った唱題こそ、真実の本門の題目となるのです。

 

       ◇       ◇

 

 以上、三回に分けて三大秘法について述べてきましたが、

本門の本尊の住処が本門の戒壇であり、

本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるのが本門の題目ですから、

戒壇も題目もすべて本門の本尊に収まります。

 日寛上人は『観心本尊抄文段』に、

 「就中 弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究境の中の究境、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(御書文段 一九七㌻)

と示されています。

  故に、

大聖人の顕わされた三大秘法は、

その随一である本門戒壇の大御本尊を離れては、

けっして存在しないことを銘記すべきです。

 大聖人は『当体義抄』に、

「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、報身・般若・解脱の三徳と転じ(中略)本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子壇那等の中の事なり」(御書 六九四㌻)

と、

末法の衆生が本門の題目を唱えるとき、

御本仏と一体の妙法当体蓮華仏と顕われ、成仏が决定すると仰せです。

  すなわち、

大御本尊の仏力・法力の勝れた妙用と、

大聖人の御心に随順した我ら衆生の信力・行力の四力によって、

初めて即身成仏の本懐を遂げることができるのです。

 

 

 

 

 

 


三大秘法(宗旨の三箇)中

2022年06月20日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」平成29年5月16日(第957号)

       【教学基礎講座】29

        三大秘法(宗旨の三箇)中  

         ー 本門の戒壇 ー

 

 戒壇建立の歴史

 

 戒壇とは、

防非止悪(非を防ぎ悪を止める)の戒の授受、「授戒」を行う壇場を意味します。

釈尊の時代、祇園精舎に築かれたものが最初とされています。

 日本では仏教の進展に伴い、

小乗の戒壇、大乗の戒壇と、時代を追って建立されました。 

 小乗の戒壇は、鑑真による奈良・東大寺の戒壇がその始めです。

その後、

下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県太宰府市)の観世音寺にそれぞれ建立され、

日本を三分して授戒が行われたのです。これが世に言う日本の三戒壇です。 

  また

大乗の戒壇は、

伝教大師の遺志を受け継いだ初代座主・義真によって、比叡山に建立されました。

しかし、

この戒壇も所詮は迹門の戒壇であり、

文底独一本門の仏法が弘まる末法には何の利益もなく、

衆生を成仏に導くことはできません。 

 

 末法の戒壇

 

 そこで、大聖人が末法の御本仏として、本門の戒壇を示されたのです。

 大聖人の仏法における戒壇とは、

本門の本尊を安置して授戒の儀式を行い、爾前迹門の謗法を捨て、

三大秘法を受持信仰することを誓って懺悔滅罪する場所であり、

即身成仏の本懐を遂げるべき場所を指します。 そしてさらには、

日々信心修行する本尊安置の場所に、戒壇の意義が存します。

 日蓮大聖人の仏法における戒壇義の根本は、

従来の迹門等の戒壇が示す授戒の儀式執行の場所としての意義に止まらず、

三大秘法総在の本門の本尊所住の所、

本門の題目・本門の戒壇の実義が存することにあるのです。

その意義からすれば、大御本尊の御安置されている所が、すなわち本門の戒壇なのです。

本門の本尊を離れて、本門の戒壇はけっして存在しません。 

 したがって、

末法の衆生が救済される根本の戒壇は、本門の本尊が奉安されている場所に限られます。

  つまり本門戒壇の大御本尊が安置される総本山大石寺こそが、

一閻浮提の人々が懺悔滅罪する根源の地であり、

そこに、大石寺が広宣流布の根本道場たる所以があるのです。

 

  事の戒壇・義の戒壇

 

 この本門の戒壇には、事の戒壇と義の戒壇があります。

もとより、大聖人が顕わされた三大秘法は一切法の源ですが、

その三大秘法のすべてが本門の本尊に具わります。

 故に

その根源たる本門戒壇の大御本尊は、三大秘法総在の事の法体そのものですから、

その御安置の所は、現時における事の戒壇なのです。

  なお、

大聖人御遺命の事の戒壇については 、

さらに深い意義が拝されるので、後に述べることにします。

 次に

義の戒壇についてですが、本門戒壇の大御本尊の分身散体として、

本宗の各寺院・各家庭に安置される御本尊の住処は、 

その義理が事の戒壇に当たる故に義の戒壇と言います。

 日寛上人は『文底秘沈抄』に、

「所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」

(六巻抄 六一㌻)

と述べられ、『依義判文抄』に、

「本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり」

(同 一〇四㌻)

と教示されています。

 戒壇の大御本尊は根源の本尊であり、

それ以外の大聖人直筆、あるいは日興上人以下歴代上人御書写の御本尊は、

その根源に繋がる御本尊です。

 そして一切の御本尊は、その功徳力がすべて根源から流れ通うものですから、

その意義はそのまま事の戒壇に当たるのです。

 ただし、

たとえ大聖人御直筆であっても、

唯授一人の血脈と大御本尊への信仰から離れた他宗格護の本尊には、

事の戒壇に通ずる意義は全くありません。

そこには一分の功徳もないばかりか、

その御本尊を拝むことによって、かえって罪障を積むことになるのです。

 

 広宣流布と本門の戒壇

 

 さて、戒壇の大御本尊の住処は、 現時における事の戒壇に当たります。

  現在の奉安堂は、

 戒壇の大御本尊が安置されている故に、現時における事の戒壇で、

しかし

大聖人は、『三大秘法抄』『日蓮一期弘法付嘱書』の中で、さらに、

将来の広宣流布の事相に約して、本門戒壇建立について御教示されています。 

すなわち『三大秘法抄』に、

「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃住を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懴悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり」(御書 一五九五㌻)

と、

具体的に戒壇建立への大目標を示され、さらに『日蓮一期弘法不嘱書』に、

国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇せらるべきなり。

時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(御書一六七五㌻)

と、戒壇建立を遺命されています。

  この戒壇建立の御指南中の「事の戒法」とは、無始の罪障を消滅し、

三業の悪を止めるという末法の「本門戒」の内容を意味します。

私たちは、三大秘法の御本尊を受持信仰し、

御遺命の本門戒壇建立の実現に向かって折伏弘通に邁進することが、

自他の即身成仏の上で最も大事であることを銘記しなければなりません。

 

 

 

 

 


三大秘法(宗旨の三箇)上

2022年06月19日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成29年4月16日(第955号)

       【教学基礎講座】28 

        三大秘法(宗旨の三箇)上  

         ー 本門の本尊 ー

 

 三大秘法は

 末法の三学

 

 私たちが成仏するためには、いったいどのような修行に依ればいいのでしょう。 

 このことを仏教で具体的に説いているのが 「戒・定・慧」の三学です。

つまり、

悪を止めて善い行いを勧める「戒」(防非止悪の義)と、

精神を統一し心の散乱を防ぐ「定」(静慮の義)、さらに、

悩みの根本を明らかにし、

  仏の説く真理を体得する「慧」(照明の義)です。

 これは、仏教すべてに説かれていますが、

小乗・大乗の教えと正像末という、時によりその修行は異なります。

そこで日蓮大聖人様は、

久遠元初以来の妙法に具わる三学を三大秘法として整足されたのです。

 

 三大秘法開合の相

 

 三大秘法とは、本門の本尊と戒壇と題目です。

本尊は「人」と「法」、 

戒壇が「事」と「義」、

題目が「信」と「行」とに

開かれて六大秘法となり、さらに開けば八万法蔵となるのです。

 反対に、八万法蔵は六大秘法に収まり、

それが最終的に、一大秘法である本門の本尊に収まります。

したがって、

一大秘法の本門の本尊を、三大秘法総在の本尊とも称するのです。

 このように、大聖人が顕わされた三大秘法が一切法の源であり、

その根本は本門戒壇の大御本尊に帰結するのです。

 

 本尊の字義

 

 「本尊」という言葉には、

根本尊崇(大法の根本であるから尊い)・ 

本来尊重(もとから尊ぶべきもの)・

本有尊形(もとのままの尊き姿)の

三つの意義があり、それぞれ体・用・相を現わしています。

 故に本尊とは、最も勝れているものを用いることが肝心です。 

 

 法の本尊

 

 まず第一に法の本尊について、

『草木成仏口決』に、

 「一念三千の法門をふりすゝぎたてたるは大曼荼羅なり」(御書五二三㌻)

と示されています。 

これは、 本尊とは一念三千の妙法を顕わしているということです。

 つまり、大聖人は五重相対・五重三段の判釈によって、寿量文底に秘沈されている久遠元初・事の一念三千の妙法蓮華経を説き出だされ、それを本門の本尊として顕わされたのです。 「法華経の題目を以て本尊とすべし」とか、「妙法蓮華経を本尊」等、 御書の諸文に示される法本尊に関する御教示は、すべてこのことを言います。

 また『当体義抄』には、

「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し」(御書六九五ページ)

と、この久遠元初の妙法を詳しく示されています。

  このことからも大聖人の大漫荼羅本尊は、十界互具・事の一念三千の当体を顕わしたものと言えます。 

 

 人の本尊

 

 次に人の本尊について述べると、

一般日蓮宗各派においては『報恩抄』の、

「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六㌻) 

との御文等によって、早計に色相荘厳の釈尊像を本尊と立てています。

これは御書の真意を拝せない故の誤謬と言えます。

  この御書に示された「教主釈尊」とは、寿量文上の教主釈尊ではなく、寿量文底の教主・久遠元初の自受用報身如来のことです。

『三大秘法抄』 には、

「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり」(御書一五九四㌻)

さらに『三世諸仏総勘文抄』の、

「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(御書一四一九㌻)

との御文によれば、末法の本尊となる仏は久遠元初本因妙・名字凡夫位の本仏釈尊であり、インドに出現した寿量文上の色相荘厳・本果脱益の釈尊とは、天地、水火ほどの勝劣があります。この名字即の凡夫位の御姿をもって一切衆生に本因下種の御化導をされる方こそ末法の本仏であり、それは宗祖日蓮大聖人をおいて他にいらっしゃいません。故に大聖人を外用は上行再誕、内証は久遠元初の自受用身と拝するのです。

 

 人法一箇の本尊

 

 以上、

法の本尊・人の本尊と分けて示しましたが、本尊に二種類あるわけではありません。

 先の『三世諸仏総勘文抄』の御文によると、 久遠元初の仏は、「名字凡夫の位」で「我が身は地水火風空なり」と「即座に悟りを開いた」わけですから、人法不離・人法一箇であることが判ります。『 当体義抄』の「因果倶時不思議の一法・名づけて妙法蓮華」と、「我が身は地水火風空」とは同じことを示されています。

  もともと不離相即の久遠元初の仏と妙法が末法の本尊と現われるのですから、 この本尊は人法一箇の本尊であり、「久遠元初の自受用報身如来」即「事の一念三千の南無妙法蓮華経」なのです。

 

 大聖人の御当体 

 即本門の本尊

 

 先に述べたように、

大聖人の御内証が久遠元初の自受用報身如来ですから、

この本門の本尊は、大聖人の一身の御当体であると言えます。

『 経王殿御返事』には、

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 六八五㌻)

と、その意を明確に示されています。

  この本門の本尊は、

内証久遠元初の本仏たる大聖人が末法に出現して、 初めて顕わされた本尊なのです。

 

本門の本尊は

弘安二年の大漫荼羅

 

 大聖人は多くの漫荼羅本尊を顕わされましたが、その中でも、弘安二年十月十二日御図顕の大漫荼羅を究極中の究極の本尊とし、本門戒壇の大御本尊と尊称します。今日、日蓮正宗総本山大石寺に厳護し奉る大御本尊です。 これこそ三大秘法総在の本門の本尊です。

 総本山第二十六世日寛上人は、

『観心本尊抄文段』に、

「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」(御書文段 一八九㌻)

と示されています。

  唯授一人の血脈相伝によって正しく現代に伝えられるこの本門戒壇の大御本尊には、このように一切衆生の罪障を消滅し、真実の幸福を得さしめる久遠元初の御本仏の仏力と、事の一念三千の南無妙法蓮華経の法力とが倶に具わっているのです。

 一方、たとえそれが大聖人直筆の漫荼羅であったとしても、他の本尊はすべて一機一縁のために顕わされた本尊です。根本の本門戒壇の大御本尊を離れれば、直ちに本尊としての力用を失ってしまうことを知らねばなりません。

 

 

 

 

 

 


宗教の五綱

2022年06月18日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成29年3月16日(第953号)

       【教学基礎講座】27 

        宗 教 の 五 綱  

       ー 宗旨決定の原理 ー

 

 五綱とは五義とも言い、

宗教を正しく選択するために日蓮大聖人が説き明かされた教義で、

教・機・時・国・教法流布の前後、の五つを言います。

『教機時国抄』には、

「此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか」(御書 二七一㌻)

と御教示されており、

正しい仏法を判定する原理・大綱という意味から「五綱教判」とも言います。

この五義については、『開目抄『観心本尊抄』『撰時抄』『報恩抄』の他、

重要御書の各所に述べられています。

 

 教綱判

 

 教綱判とは、それぞれの教義について比較検討し判定することです。

 大聖人は『開目抄』に、

「教の浅深をしらざれば理の浅深弁ふものなし」(御書 五六一㌻)

と仰せられ、

真理の浅深は、その真理を説く「教義」の浅深・正邪にかかっていると明かされています。

 今、日蓮大聖人が示された五重相対によって宗教の全体を分類すると、

内道ー外道 大乗ー小乗 実教ー権教 本門ー迹門 文底下種ー文上脱益

となり、

この五重の相対判釈によって文底下種の大法、

すなわち

日蓮大聖人の仏法が、一切の教えの中で最も勝れた教えであることが明かされます。

 このほか五重三段などの教判によっても教義の高低・浅深が判断され、

末法下種の妙法が最も勝れていることが明かされています。

(「教学基礎講座」二十一〜二十六参照)

 

 機綱判

 

 機とは衆生が仏の教えを受け止めようとする心の状態、

また教法に対する衆生の能力を言います。

 釈尊の在世、並びに滅後の正法・像法二千年の衆生は、

久遠の結縁によって、成仏の根本となる仏種が下種されていました。

ですから衆生は調熟・得脱のための教えさえ受ければ、成仏へと導かれました。

これら過去に釈尊の下種を受けていた人々を「本已有善」あるいは熟脱の機と言います。

 これに対して、

釈尊の滅後二千年を経た末法に入ると、

釈尊の化導による下種結縁の衆生はいなくなり、

仏となるべき種を持たない「本未有善」の衆生ばかりとなるのです。

 よって末法においては、『法華初心成仏抄』に、

「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし」(御書一三一六㌻)

とあるように、

久遠元初の仏が出現して、初めて妙法をもって折伏逆化するべき

最初下種の機縁となっていることを知ることが大聖人の機綱判です。

 

 時綱判

 

 釈尊は五十年の説法中、

前の四十余年間はすべての衆生を救済する一仏乗の法華経を秘してこれを説かず、

最後の八年に至って初めて説き出だされ、在世における出世の目的を完成させました。

  さらに滅後については、

大集経等において正・像・末の三時を示して、衆生の機根は時に従って悪機鈍根となり、

末法に至っては闘諍言訟・白法隠没という、仏教中に争いが生じ、

釈尊の法は隠没する時代となり、釈尊の化導・利益が終えることを予言しました。

 大聖人は経文に照らして、「時」 の推移の上から、

それぞれの時代に正しく契合する仏法流布の様相を示されると共に、

末法に弘めるべき大法は、

上行菩薩へ付嘱せられた結要の大法・本地の妙法であることを明示されています。

 

 国綱判

 

 国綱判について、大聖人の御教示では三つの意義があります。

  第一は 一般的な国の種々の様相であり、

教法を弘通するには、その国々の特殊性を考えなければならないこと。

  第二には釈尊の教法と日本国の関係を明らかにされて

『法華翻経』の「此の経典東北に縁あり」等の文、

さらに聖徳太子の法華経抄請来等々、歴史の上から見て、

日本国が法華経に有縁の国であることを明かされています。

 そして

 第三に、『御講聞書』 に、

「本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所」(御書一八二四㌻)

とあるように、

日本は末法の御本仏出現の本国・三大秘法広布の根本の妙国であると明かされています。

  これらのことを知った上で、

その国に弘まるべき法を判定することを国を知ると言います 。

 

 教法流布の前後

 

 経文には、世が進むにつれて人々の機根はだんだんと低下し、

末法に入って濁悪の世となることが説かれています。

この末法の人々を救うには

正法・像法の前代よりさらに勝れた教法が必要となります。

  妙楽大師の示した

「教 弥 実なれば位弥下く、教弥権なれば位弥高し」

(摩訶止観輔行伝弘決・御書一一一二㌻参照)とは、

下劣の機根には、より力のある根本的な教えが必要であることを明示しています。

  すなわち、

教法流布の前後とは、釈尊滅後における弘通の順序次第であり、

教法の流布には従栓浅至深の前後関係があることを示したものです。

 その実証として、仏教が広まった歴史を概説しますと、

インドにおいては釈尊が出世して九十五種の外道の教法を破り、

滅後においては馬鳴・龍樹の論師が小乗を破して権大乗を弘め、

次に中国において

天台大師が南三北七の小乗・権大乗を破り実大乗経である法華経を弘めました。

また我が国では

固有の神道に執着した物部氏を、聖徳太子と蘇我氏が滅ぼして仏教を伝えました。

さらに桓武天皇の世に伝教大師が現れて天台大師の教えを継ぎ、

南都六宗の権門の義を打ち破り、法華一乗を弘通しました。

  これらの教法の流布には、

その流れの上から見れば、大聖人が出現された末法においては、

像法時代における天台宗の法華経迹門の教えから、さらに一重立ち入った

最も深い教法である法華経・独一本門の仏法でなければならないことが明白となります。

 これを知ることが教法流布の前後を知るということなのです。

 

 五義の一致

 

 これらの五義のそれぞれは本来一致すべきものです。

すなわち教法が権教であれば、

機も権教の機、時も権教の時、国も権教の国、流布も権教の前後に当たっていなくてはなりません。

 また施す教えに権実・本迹・種脱の別があれば、

その教えを説く仏にも別があり、衆生の機にも権実・本迹・種脱の別があるのです、

 末法の今は、まさに下種の実機、

下種の時、下種の国、下種の大法が出現すべき前後に当たっているのですから、

教も下種の仏法、仏も下種仏でなくてはなりません。

 よって末法の私たちが根本的に救われるためには、

末法出現の御本仏・日蓮大聖人の下種仏法の南無妙法蓮華経という教えによらなければならないのです。

 

 

 

 

 

 


五重三段 下

2022年06月17日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成29年2月16日(第951号)

       【教学基礎講座】26  

       《五  重  三  段》  下

     ー 文底下種三段末法流通の正体 ー

 

 今回は、いよいよ五重三段の教判が説かれた目的である第五の文底下種三段です。

 

 序分

 

 まず、『観心本尊抄』を拝してみましょう。

「又本門に於ても序正流通有り。過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方三世諸仏の微塵の経々は皆寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく」(御書 六五五㌻)

 ここに明らかなように、三千塵点劫の古の大通十六王子覆講の法華経より、中間を含め釈尊が出世して説いた一代五十年の諸経、また横に十方、縦に三世一切の諸仏が説いた微塵の経々のすべてが、文底下種三段の序分となります。一往、文面では文上本門は序分に含まれません。それは文上本門が、始成正覚を払って久遠を開顕した純円の教法であって、「小乗教・邪教・未得道教・覆相教」ではないからです。しかし、文底の意義よりみれば、文上本門も再住は垂迹化他の教法として、文底下種三段の序分となります。

 

 正宗分

 

 次に文底下種三段の正宗分について言えば、先の『観心本尊抄』の文により、それが『寿量品』であり一品二半であることが理解できます。

 一品二半には、第四の本門脱益三段の正宗一品二半と、文底下種三段の正宗一品二半とがあります。この両者の名は同じく一品二半ですが、後の流通分に「彼は脱、此は種なり」と示されるように、その意義内容には天地水火ほどの違いがあるのです。

 総本山第二十六世日寛上人は、『観心本尊抄文段』の中で、本門脱益三段の一品二半と文底下種三段の一品二半との意義内容の異なりについて、「配立の不同」という三つの観点から説明されています。

 「配立の不同」とは、一品二半の立て方の相違です。本門脱益三段は天台の立て方で、『涌出品』の略開近顕遠・動執生疑の文(法華経四一九㌻七行目より)『寿量品』・『分別功徳品』の十九行の偈に至るまでの一品二半です。これに対して、文底下種三段は大聖人の立て方で、『涌出品』の略開近顕遠の文を除いた動執生疑(法華経 四二二㌻三行目)よりの一品二半なのです。簡単に言えば、略開近顕遠を含む一品二半を立てるのが天台の配立、含まないのが大聖人の配立となります。

 この配立の違いは、「種脱の不同」に基づきます。つまり、天台の配立による第四の正宗一品二半は、在世脱益のための文上本果の教法であり、大聖人の配立による第五の正宗一品二半は、末法下種のための文底本因の教法なのです。

 そして、天台の配立による第四の三段の一品二半を「略広開顕の一品二半」「在世の本門」と名付けるのに対し、大聖人の配立による第五の三段の一品二半を「広開近顕遠の一品二半」「末法の本門」と名付け、また「我が内証の寿量品」(御書 六五七㌻)と称します。

 第五の三段の一品二半を「我が内証の寿量品」とするのは、『涌出品』の動執正疑によって『寿量品』の説法が起こるためで、一品二半の意義が文底の寿量品にあることによります。この「我が内証の寿量品」とは、『百六箇抄』に、

 「我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり」(御書 一六九五㌻)

と説かれるように、本果脱益を説き顕わす文上寿量品の二千余字ではなく、御本仏日蓮大聖人が証得された文底下種の当体、すなわち久遠元初本因名字の妙法蓮華経をよく説き顕わす側の文底寿量品の二千余字を言います。この文底の文々句々が、文底下種三段の正宗一品二半の意義内容となるのです。

 なお、この文底下種三段の正宗一品二半によって説き顕わされる本因妙の当体は、末法流通の正体となりますから、正宗分と混同してはなりません。

 

 流通分

 

 流通について、『観心本尊抄』の文面には、これが流通文であるとは示されていません。 しかし、日寛上人は文脈の綱格の上から、文底下種の正宗分の文に続く「迹門十四品の正宗八品は・・・・・」より、最後近くの「法華を知る者は世法を得可きか」まで、迹本二門の三段(大白法九四九号四面三照)のすべての文が、流通分に当たるとされています。そして、「総じて一代五十余年の諸経、十方三世の微塵の経々、並ぶに八宗の章疏を以て、或は序分に属し、或は流通に属し、謂わく、彼の体外の辺は以て序分と為し、彼の体内の辺は以て流通に属するなり」(御書文段二六二㌻)

と御教示されています。つまり、文底下種三段の正宗分である久遠元初唯密の正法から見たならば、迹門・本門を含む一代五十年の諸経や十方三世諸仏の微塵の経々は、この三段の序分ともなり流通分ともなるということです。しかし、そこには体内と体外の相違があります。この体外と体内の立て分けは、文底下種三段正宗分の大法が顕われる以前か、以後かという違いによります。迹門について言えば、未だ本門の顕われる前の迹門は、実際の天月を知らずに池に映った月を真の月と思うようなもの(本無今有)に過ぎません。これに対して、本門が顕われた後の迹門は、池の月は天の真月の影と知った立場で、本門に即した常住の迹門となります。前者が体外の迹門で文底下種三段の序分となり、後者が体内の迹門で流通分となるのです。

 また、本門について言えば、『観心本尊抄』には、本門はもとより末法のために説かれた流通分であるとされています。しかし、この本門にも体外・体内の両意があります。文底下種の大法が顕われる以前の本門は、やはり単なる池月のような体外の文上脱益で、文底の序分に過ぎません。一方、下種の大法が顕われて後の本門は、文底体内の文上脱益、つまり種家の脱益で、文底下種の流通分となるのです。

 このように、本迹二門を含む一代五十年の諸経並びに十方三世諸仏の微塵の経々等において、文底体外の辺は文底下種三段の序分とし、文底体内の辺は流通分とするのです。

 文底体内におけるこれらの経々が、なぜ流通分になるかというと、「迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん」の意で、これら文底体内の本迹以下の経々には、正宗一品二半によって説き顕わされた流通の正体である本因下種の妙法を、さらに助顕し、弘通する意義があるからです。

 

 流通の正体

 

 流通分において最も重要なことは、末法流通の正体を決するということで、ここに末法の一切衆生が即身成仏を遂げる観心の本尊が説かれます。

 該当部分を挙げると、

「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(御書 六五六㌻)という御文です。

 ここでは、まず在世の本門と末法の本門とを相対して、一往、純円の名が同じであると示されます。在世の本門は、教主は久成の仏で始成の方便がなく、教法は久遠の一念三千で本無今有の方便がないので純円と言います。

これに対して、末法の本門は、教主は名字凡夫の本仏で色相荘厳の方便がなく、教法は下種の妙法で熟脱の方便がないので純円と言うのです。

 次に「但し」以下は、再往、法体に相異のあることが明かされます(再往体異)。日寛上人は、これを文・義・意の三つの観点より決せられています。

 『御書文段』を拝すれば、文の重では、在世と末法との本門の異なりが判じられます。つまり、在世の教主は色相荘厳の脱仏であるから「脱」、末法は名字凡夫の下種仏であるから「下種」と言い、また在世の本門は文上脱益の一品二半であるから「一品二半」、末法の本門は文底下種の妙法であるから「但題目の五字」と言います。

 義の重では、末法流通の正体が示されます。在世脱仏の説く本門は、在世脱益のためであって末法流通の正体とはなりません。末法下種仏の説く本門正宗は、末法下種のためですから、そのまま末法流通の正体となるということです。意の重では、末法一切衆生の観心成仏の本尊が結成されます。要するに、在世脱益の人法は教相の本尊であるため、末法観心の本尊とはなりませんが、末法下種の人法は、そのまま末法観心の本尊となるのです。この末法観心の本尊とは、正宗分の一品二半たる「我が内証の寿量品」によって説き顕わされた所詮の人法一箇の御当体で、人に約せば御本仏日蓮大聖人、法に約せば本門戒壇の大御本尊となるのです。

 このため『観心本尊抄』では、さらに本門脱益三段の文証を挙げて検証し、結要不嘱の筋目から地涌の菩薩が末法に出現し、仏法の根源である寿量品文底本因下種の法体、本門の本尊を建立し、弘通すべきことを、「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書 六六一㌻)

と結論づけられているのです。

 このように、末法の観心の本尊を結成するところにこそ、五重三段の帰結があり、また末法万年にわたる一切衆生の即身成仏の要道が決せられるのです。

 

 

 

 

 


五重三段 上

2022年06月16日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成29年1月16日(第949号)

       【教学基礎講座】25  

       《五  重  三  段》  上

    ー 一代仏教並びに十方三世微塵の経教の真髄 ー

 

 前回では、『開目抄』に示される五重相対の中の第五番目に当たる種脱相対を述べましたが、このように浅い教えから深い教えに向かって、末法弘通の正法を導き出すのが日蓮大聖人の教判の構格であり、今回述べる五重三段もその一つです。

 大聖人御一代において、人本尊・法本尊開顕の双壁をなす重要書として『開目抄』と『観心本尊抄』が挙げられますが、この五重三段はその『観心本尊抄』に説かれている教判で、五重相対と並ぶ大聖人独自の代表的な教判です。 

 経典などを判釈するために、

その内容に応じて文章に科段を設けることを科文と言い、

一般に「序分」「正宗分」「流通分」の三段に区分されます。

ここで

「序分」とは、 

一経の序論とも言うべきもので、

正意とする教法を説くための準備段階として説かれるものです。

次に

「正宗分」 とは、

一経の本論とも言うべきもので、

まさに本意とし目的とする、中心の教法が説かれている正説段を言います。

そして

「流通分」は、

この「正宗分」の教法を広く流布し、衆生を利益することを目的とするところを言うのです。

 

 大聖人は、この三段の分科を用いられて、

仏の教説を一代一経三段・法華経一経三段(法華経十巻三段とも言う)・

迹門熟益三段・本門脱益三段・文底下種三段と五重に分けられ、浅い所から次第に深い所へ、また総より別へと入り、最終的に末法の衆生の尊崇すべき文底下種の本尊を顕わし出されているのです。

 

 一代一経三段

 

 本来、序分・正宗分・流通分は、三分科経と言って一つの経典の中で、その内容から三段に分けられるものですが、大聖人は釈尊一代五十年の五時の経教すべてを総括して一経とみなし、そこに三段を立てて一代聖教を判釈する規範として定められたのです。

 つまり、前四味の教えである華厳・阿含・方等・般若の膨大な諸経をすべて序分とし、無量義経・法華経・観普賢菩薩行法経(普賢経)の法華三部経十巻を正宗分とし、涅槃経等を流通分とされました。

 

 すなわち、法華経以前の四十二年間の経々は、法華経を説くに当たって、衆生の機根を調えるために説かれた方便ですから、法華経からすれば総じて序分に当たります。次に、法華経十巻には諸法実相と久遠実成をもって一念三千が説かれることにより、所化の衆生に対する教化が成就し、能化である仏の本懐が遂げられたので、これを正宗分の真実の教えとするのです。また涅槃経は法華経の化導に漏れた衆生等を救い取るために説かれた桾拾(落ち穂拾い)の教えですから、流通分に相当します。

 

 法華経一経三段

 

 ここでは、前の一代一経三段の正宗分となる法華三部経十巻について、さらに序・正・流通を分けます。

 すなわち、無量義経と法華経の『序品第一』を序分とし、『方便品第二』から『分別功徳品第十七』の「十九行の偈」に至るまでの十五品と半品を正宗分、『分別功徳品』の「現在の四信」より普賢経に至るまでの十一品半と一経は流通分となります。

 無量義経には、「無量義とは一法より生ず」と説かれ、一切法の根源は法華経にあることを暗示し、さらに「四十余年には未だ真実を顕わさず」と、爾前の諸経は法華経の方便であったことを指摘されています。

また、序品には真実の大法が説かれる前に起こると言われる六つの瑞相(珍しい兆し)が示され、これを発端として弥勒菩薩・文殊菩薩の問答があり、六瑞は法華経が説かれる前相であると明かされます。このようなことから、大聖人はこれらを序分と定められたのです。

 次に『方便品』から『分別功徳品』前半までは、「二乗作仏」「久遠実成」が説かれることによって、初めて一念三千の法門が顕われ、これこそ釈尊真実の教法なので正宗分とされるのです。続いて「分別功徳品」後半から普賢経までの説法は、滅後の法華持経者の功徳と不嘱の次第を示して、末代悪世において法華経を弘通・流布せしめるためのものですから流通分となります。

 

 迹門熟益三段

 

 以上に述べた一代一経三段と法華経一経三段は、共に「総」の三段と言われ、五重三段の中でも総括的に序・正・流通の三段のみを示し、それらの中心となる教法が、いずれに存するのかを規定されたものです。

 そして、これから述べる第三重の迹門熟益三段より以下の三つの三段が「別」の三段となり、ここから具体的にそれぞれの三段で顕わされる本尊や前段との勝劣、化導の始終についての教示がなされます。

 迹門熟益三段は、法華経十巻を本迹二門に分け、そのうちの無量義経と迹門を三段に分けたものです。すなわち、無量義経と序品が序分に当たり、『方便品第二』より『人記品第九』までの八品が正宗分、『法師品第十』より『安楽行品第十四』に至る五品が流通分となります。

 無量義経と序品が序分となるのは、前に述べたように、これらが正宗分のための準備として説かれたものだからです。次に『方便品』よりの八品は、初めに略開三顕一として、諸法実相に基づく理の一念三千が説かれます。続いて広開三顕一として、法説周・譬説周・因縁説周の三周説法により二乗作仏が定まり、所化の衆生が未来成仏の記別を受けて、迹門当分の利益を得たことから正宗分とします。そして『法師品』より『安楽行品』までは、在世はもとより滅後の弘教を奨励し勧められているところから流通分とするのです。

 この迹門熟益三段の正宗分で説かれる本尊です。仏は始成正覚の応即法身と言われる円教の仏であり、所説の法は諸法実相に約した百界千如・二乗作仏で、爾前四十余年の諸教にはない一代に超過した教法です。また、三千塵点劫の古、大通智勝仏の十六王子による法華覆講を下種とし、以降の中間、今日の爾前経を熟益とし、迹門の説法に至って、その種子を顕わして得脱するという、化導の始終が明かされます。

 しかし、後の本門からすれば、教主も所説の法も共に本有久成の真実を開いていませんので、髄他意の法門となります。それ故に迹門は、本門の脱益に対して熟益と言うのです。

 

 本門脱益三段

 

 本門脱益三段は、法華経十巻のうち本門十四品と普賢経を三段に分けて、『従地涌出品第十五』の前半品を序分とし、『涌出品』の略開近顕遠の文よりの後半品と『如来寿量品第十六』、『分別功徳品第十七』の前半までの一品二半を正宗分とし、『分別功徳品』の後半、現在の四信より以下を流通分とします。

 『涌出品』には、まず娑婆世界において、滅後の弘経を願う迹化・他方の菩薩を釈尊が制止したことに応じて、上行等の四菩薩を上首とする、六万恒河沙の地涌の菩薩が大地より涌現して虚空を覆います。これに対して弥勒菩薩は、地涌の菩薩を一人も知らず、どこから、何の因縁によって来たのか、また誰の教化による菩薩なのか、いかなる教法を修行してきたのかと、釈尊に尋ねたのです。これが仏の久遠を開顕する序分に当たります。

 その後釈尊は弥勒に対して、地涌の菩薩は、下方の空中に位し、過去無数劫より仏の真実の智慧を行じてきたこと、そして釈尊の成仏の当初より教化してきた所化であることを明かした上で、「我久遠より来 是等の衆を教化せり」と答えられ、仏寿の久遠なることを略して開顕されました。これを略開近顕遠と言います。

  この釈尊の説法を聞き、始成正覚の釈尊に対して、弥勒をはじめとする在世の衆生は心が揺れ動き、いったい釈尊自体がいかなる仏なのかと疑問を生ずるのです。 これを動執生疑と言います。 その答えとして説かれたのが『寿量品』の広開近顕遠の説法です。

 次の『分別功徳品』の前半は、寿量品説法の利益が説かれます。 仏寿の久遠なることを聞いた菩薩大衆は、種々の功徳を得て、初住乃至等覚という不退の位に至り、総じて菩薩に円教法身の授記がなされ、 さらに弥勒の領解と続きます。

 以上の略広にわたる開近顕遠の一品二半の説法が、本門脱益三段の正宗分となります。

 なお、『分別功徳品』の後半より普賢経までが流通分になることは、法華経一経三段に述べた通りです。

 さて、ここで説かれる本尊は、本門脱益の本尊であり、仏は久遠実成の仏、法は三妙合論の上に示される事の一念三千の法門です。

 すなわち、『寿量品』を中心とする、この開近顕遠が説かれたことにより、無始の九界と仏界が十界互具するのみならず、仏の生命と功徳が、久遠の昔より現実の国土世間に遍くゆきわたっていることが明かされ、ここに真の一念三千が顕わされたのです。釈尊在世の衆生は、この本門の開顕によってことごとく得脱することができ、脱益の化導が完結したと言えます。

 

     ◇    ◇

 

   以上のように、第四重の本門脱益三段まで述べてきましたが、この在世の衆生の得脱を 深く掘り下げてみると、彼らは初住乃至等覚という不退の位に至りながらも、その内証観心の境界において久遠当初の下種を覚知し、凡夫の名字即の位に立ちかえって妙覚の悟りを開いたというのが、在世得脱の真実の姿なのです。 これを文底体内の文上の得益と言います。

  これは、最後の文底下種三段を明らかにしなければ、その真実相は顕われてきません。  しかし、その内容はまことに深遠であり、かつ大聖人の正意にして末法弘通の法体のことでもありますから、次回に詳しく述べることにします。

 

 

 

 

 

 


種脱相対

2022年06月13日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成28年12月16日(第947号)

 【教学基礎講座】24

  種 脱 相 対

ー 末法救済の大白法 ー

 

 今回は種脱相対について述べます。これは五重の相対の第五、また三重秘伝(第一重は権実相対、第二重は本迹相対、第三重は種脱相対)の第三の法門に当たり、大聖人独自の教判における最奥の法門です。

 この相対は、法華経本門における文上脱益の法・仏と、文底下種益の法・仏の法体との比較であり、そこには在世脱益の機と、末法下種益の機との比較相対を含みます。すなわち、大聖人の出世の本懐、上行所顕の法門を明らかにし、釈尊仏法との相異を示すのがこの相対判の意とするところです。

 

 種熟脱の三益

 種熟脱の三益とは、法華経において仏が衆生を化導する始終を説き明かしたもので、下種益、熟益、脱益のことを言います。

 下種益とは仏になる種子を衆生の心田に下すことで、

 熟益とは過去において下された仏種を成長させて機根を調熟させることです。

 脱益とは下種された仏種が成長し終わって実を結び、得脱して仏の境界に至ることです。

 この種熟脱には、迹門の三益、本門の三益、文底下種の三益の三種があります。

①迹門の三益は、法華経『化城喩品第七』に説かれる三益のことで、三千塵点劫における大通智勝仏の十六王子による法華覆講を下種とし、中間・今日の爾前四十余年を熟益とし、法華経迹門の開三顕一の説法による得脱を脱益とするものです(熟益仏法)

②本門の三益は、法華経『如来寿量品第十六』に説かれる三益のことで、久遠を下種とし、三千塵点劫の大通智勝仏及び爾前四十余年と法華経迹門までを熟益とし、本門寿量品に至って得脱することを脱益とするものです(脱益仏法)

 なお、この迹門の三益・本門の三益は共に、過去に下種を受けた本已有善の衆生に対する三益です。

③文底下種の三益は、過去において未だ下種を受けていない本未有善の衆生に対するもので、それらの衆生が久遠元初の本法たる本因下種の妙法を下種されることにより、正直に受持信行する順縁の衆生は熟・脱の二益を同時に具え、直ちに得脱することを示したものです(下種仏法)

 

 能説の教主(仏)の相違

 種脱の相違を明らかにするため、初めに、法を説く教主について述べると、釈尊は『寿量品』において、五百塵点劫の久遠を開顕し、仏になるための本因本果を示されました。しかし、これは五百塵点劫という有限に即した無限の仏の寿命で、それ以前は法華経『寿量品』に、

「我本菩薩の道を行じて」(法華経 四三三㌻)

と説かれているように、菩薩としてその本因の修行をしていたことが明かされています。

 天台は当文を、円教の菩薩行により、初住位に登って常住の境界を開いた時を指すと釈しています。しかし、初住の位に登るためには、前々における円教の修行を要します。これこそ本因初住の当文の文底に秘沈された久遠元初の名字即の凡夫本仏として、三世諸仏の出世の根源である本因下種の妙法を直ちに修行し覚道された姿であり、真の事の一念三千の法体なのです。

 ですから、『寿量品』の文上に説かれる久遠五百塵点劫成仏の釈尊は、本果脱益の仏と言い、久遠元初・本因下種の本仏から見れば垂迹化他の仏であり、劣るのです。

 大聖人は『三世諸仏総勘文抄』・『当体義抄』・『三大秘法抄』に、必ず「当初」の二字を用いて、五百塵点劫の久遠と、久遠元初の本地の相違を明確に示されています。

 また脱益の教主は、本已有善の機情に髄順する故に、常に色相荘厳の尊形の姿をもって化導します。これを本果妙の仏と言います。これに対して下種の教主は、『総勘文抄』等に示されるように、久遠元初に名字即の凡夫のまま即座に悟りを開いた仏であり、本未有善の衆生を利益する時も、此の凡身の姿そのままをもって教化します。これを本因妙の仏と言います。

 故に、末法の本未有善の衆生を利益する能説の教主は、外用は上行菩薩の再誕、内証は久遠元初の御本仏として末法に御出現された凡夫即極の日蓮大聖人をおいてほかにいないのです。

 これを『百六箇抄』に、

「今日蓮が修行は久遠名字の振る舞ひに介爾計りも違はざるなり」(御書 一六九五㌻)

と、久遠元初の本因下種の仏と大聖人は、その御振る舞いと名字凡夫の位において全く同じであり、同一の仏であることが明かされています。

 さらに『本因妙抄』には、「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(御書一六八〇㌻)

と、教主の相違をより明確に示されています。つまり脱益の教主とは、「寿量品」を説く久遠五百塵点劫の釈尊であり、下種の法主とは、久遠元初の本仏が衆生救済のため、末法に御出現された大聖人のことを言うのです。

 

 所説の法体の相違

 次に、法体の相違について、大聖人様は『観心本尊抄』に、

「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(御書 六五六㌻)

と、在世脱益の法体は一品二半、末法下種益の法は題目の五字と明示されています。

 つまり、熟脱の教主の説く法体は、本門文上の一品二半であり、これを文上脱益・理上の一念三千と言います。これに対して、下種の教主の法体は、『寿量品』の文底に秘沈された妙法蓮華経であり、これを文底下種・事の一念三千と言うのです。

 このことを『開目抄』には、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」(御書 五二六㌻)

と仰せです。

 この文底下種の妙法こそ、一切衆生の成仏の本種子、諸仏の能生の根源なのです。

 文上脱益の法体は、本種子である妙法より生ずる法であるから、文底下種の妙法に劣り、末法救済の法とはならないのです。

 

 衆生の機根の相違

 さらに、化導される衆生の機根によって種脱の相違を明らかにすると、インド出現の釈尊の化導を受ける衆生は、本已有善と言って、久遠の昔に既に下種を受けており、脱益の教法をもって成仏を遂げる機根です。

 これに対して、末法の衆生は、本未有善と言って、未だ下種を受けていない衆生であり、順逆二縁の差別なく、久遠元初即末法の本仏によって、直ちに本因下種の化益を受ける機根なのです。

 

 本因下種の妙法は一切法の根源

 これまで述べてきたように、釈尊の化導は、久遠元初の下種に始まり、法華経本門を脱益とし、さらに正像二千年をもってその化益を終えたのです。ですから、本未有善の衆生ばかりとなる末法にあっては、この脱益の釈尊の仏法は、何の利益もなさないものとなるのです。

 そこで釈尊は、この衆生に新たに仏種を下し救済するため、法華経『神力品』で上行菩薩に『寿量品』の文底に秘沈された本因下種の妙法を結要付嘱し、末法の弘通を託したのです。その上行菩薩の再誕として、末法に御出現されたのが大聖人であり、その本地を明かせば、久遠元初の御本仏なのです。したがって、大聖人の説かれる妙法は、『寿量品』の文底に秘沈された久遠元初本因下種の妙法であることが判ります。

 さらにこの妙法は、本来、久遠元初の自受用身即末法の御本仏大聖人御所持の大法であり、もともと脱益の釈尊のものではありません。

 脱益の法華経によって本已有善の衆生が得脱したといっても、そのための成仏の種子は、久遠元初において下種されたものですから、その根源となるのは、やはり本因下種の妙法と言えます。

  つまり、大聖人こそ、根源の仏であり、その説かれる南無妙法蓮華経の大法こそが、一切法の根源であることを明かし、これ以外に、私たちが成仏する法はないことを教示されたのが種脱相対なのです。

 他門日蓮宗各派は、不相伝の故に、あくまでも文上本果脱益の釈尊に執着し、 この種脱相対の法門を理解することができません。 大聖人門下を自称すれども、自らその資格を失っているのが現実の姿です。

 唯一、日蓮正宗にのみ、大聖人の真実の教えが伝わっていることを、改めて確認していくことが大事です。

 

 

 

 

 

 


結要付嘱

2022年06月12日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成28年11月16日(第945号)

       【教学基礎講座】23

        結 要 付 嘱

     ー 上行所伝の妙法五字 ー

 

 付嘱とは

 

 前回までは、

権実相対して法華経が釈尊の出世の本懐であることが明かされたこと、

さらに

本迹相対して本門『寿量品』に久遠実成が明かされて真の一念三千が開示されたことを

述べました。

今回は法華経の付嘱について述べます。

 

 付嘱とは、相承、相伝と同義で、

仏(師匠)が弟子に法を伝授して、法の伝持、守護、弘宣を託すことです。

 法華経の経文に説かれた付嘱には、付嘱された法が真実であると説かれていて、

この付嘱に背いて勝手な法義を立てることは邪義となり、仏法の壊乱を来たします。

 ですから、仏法においては常に付嘱を重視します。

それは、正法をもって未来の衆生を救済する仏の慈悲の現われなのです。

 

 総別の付嘱

 

 釈尊は『寿量品』の説法によって、在世の衆生を得脱せしめ、

残る有縁の衆生に対しても正法時代・像法時代の二千年の間に

その熟脱の利益を行きわたらせたので、釈尊の化導は一応完結しました。

 さらに釈尊は、滅後末法のために法華経『神力品第二十一』で、

「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、(中略)要を以て之を言わば、

如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、

如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」(法華経五一三)

と、

あらゆる教法の功徳が込められた妙法蓮華経の五字を四句に要約して説かれ、

上行菩薩等の地涌の菩薩に付嘱されました。

 これを別付嘱と言い、結要付嘱とも本尊付嘱とも言います。

 

 さらに次の『嘱累品第二十二』では、迹化他方を含む一切の菩薩に対して、

「爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って、大神力を現じたもう。

右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、(中略)今以て汝等に付嘱す」(法華経 五一八㌻)

と、

総じて法華経に属する一切の教法を付嘱されました。これを総付嘱と言います。

 ただし、迹化の諸菩薩は滅後末法の弘通を誓願しましたが、

釈尊はこれを許さず、正像二千年における応分の法の弘通を付嘱されたに過ぎません。

 以上のように、

総別の付嘱からみれば、『神力品』の結要付嘱(別付嘱)によって、

上行菩薩が末法に出現されて、妙法蓮華経の大法を弘通されるという次第が明らかとなります。

 

 上行菩薩と結要付嘱

 

 末法に御出現の日蓮大聖人は、

法華経を一字一句、御身の振る舞いの上に読まれ(身読)、

釈尊の法華経が真実の仏法であることを証明されました。

 それは取りも直さず、大聖人は付嘱の上から上行菩薩の再誕であり、

大聖人の弘通された妙法五字も単なる経典の題目ではなく、

結要付嘱をもって付嘱された寿量文底の要法(上行所伝の妙法)であることの証明にもなるのです。

 故に大聖人は『観心本尊抄』に、

「所詮迹化・他方の大菩薩に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。

末法の初めは謗法の国にして悪機なる故に之を止めて、

地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て

閻浮の衆生に授与せしめたまふ」(御書 六五七㌻)

と明確に示され、

妙法弘通の御自身が、外用においては上行菩薩であることを御教示されています。

 また、付嘱の意義をさらに深く拝すれば、

結要付嘱の妙法五字は釈尊の手から上行菩薩の所有に移っていることが判ります。

 このことは、『御義口伝』に、

「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ず。

既に此の品の時上行菩薩に付嘱し玉ふ故なり」(御書 一七八三㌻)

と宣示されています。

 

 三大秘法と結要付嘱

 

 ところで、

法華経『寿量品第十六』では、

釈尊が久遠の昔に成道(久遠実成)したことが明かされますが、

その成道の本因となる根本の法が、経文の上に明確には示されていません。

 それについて、大聖人は『開目抄』に、

 「一念三千の法門は但法華経の本文寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」(御書 五二六㌻)

と仰せられ、また『本因妙抄』に、

「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、

直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(御書 一六八四㌻)

と、その根本の法について明示されています。

 すなわち、

『寿量品』の文底に秘沈された妙法蓮華経こそが、

釈尊をはじめ諸仏の本因となる本法であり、それが上行菩薩に付嘱された法体なのです。

 さらに大聖人に『三大秘法稟承事』に、

「問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。

答ふ(中略)実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」

(御書 一五九三㌻)

と仰せられ、

四句の要法とは釈尊が本因妙の修行をされた三大秘法であることを明かされています。

 以上のように、

法華経の肝要として結要付嘱された四句の要法は、

末法御出現の日蓮大聖人によって文底秘沈の大法、三大秘法として顕わされたのです。

 

 御本仏所持の大法

 

 先に述べたように、

『神力品』の結要付嘱によって、

既に上行菩薩が釈尊より妙法五字を譲り与えられたという意義からみれば、

その妙法五字は御本仏大聖人所持の大法であると拝せます。

 すなわち

大聖人は、

外用の上からは結要付嘱を受けられた上行菩薩の再誕と称されますが、

内証深秘の上からは本法を所持される久遠元初の自受用報身如来の再誕であり、

末法有縁の御本仏に在すのです。

 『曽谷殿御返事』に、

「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、

余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし」(御書一〇三九㌻)

と仰せの如く、

末法の衆生は根源の師たる御本仏大聖人に随順して下種を受けなければ、

三界六道の苦悩に沈んでしまうことを銘記すべきです。

 末法の衆生は、

釈尊の法華経ではなく、大聖人所顕の三大秘法総在の大御本尊によって成仏できるのです。

 

 

 

 

 

 


本迹相対

2022年06月11日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成28年10月16日(第943号)

       【教学基礎講座】22

        本 迹 相 対

     ー 始成と久成・教理と仏身 ー

 

 前回(本紙九四一号)の権実相対では、

大乗の中でも法華経(実教)が勝れ、爾前経(権教)が劣る故に、

成仏直道の法門として法華経の教えを選び取ることを述べました。

今回はさらにその法華経においても、本門と迹門との相違があり、

これを相対して勝劣を分別し、迹門より本門が勝れていることを述べます。

 

 理の一念三千

 

 法華経二十八品のうち、

迹門は『序品第一』から『安楽行品第十四』までの前半部分を言い、

内容の中心は『方便品第二』です。

 ここで説かれる重要なことは、諸法実相と二乗作仏です。

これによって、爾前経に二乗不作仏と説かれていた大きな欠点を解決し、

他経には見られない

十界互具・百界千如・一念三千の法門が説き表わされるのです。

 この一念三千の一念とは、一刹那(瞬間)の心という意味です。

三千とは、十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩の九界と仏界)

が互いに具有(十界互具)し合って百界となり、この百界がそれぞれ

十如(相・性・体・力・因・縁・果・報・本末究境等の十如是)を具えて千如となり、

さらにこの千如が三種(五陰・衆生・国土)世間にわたって表われていることから、

三千の意義が成立します。

 すなわち、

一瞬の心の動きの中に、三千という一切法が具わっているというのが、一念三千の法門です。

 

 迹門の失

 

 しかし、迹門で説かれた一念三千の法門には、本無今有・有名無実の失があります。

 釈尊は初めて本門『寿量品』で、

これまでの始成正覚(十九歳で出家し、三十歳で初めて仏に成った)という

仮の立場を発って久遠実成(久遠の昔に成った)の本地を顕しました。

これを発迹顕本と言いますが、迹門では未だ発迹顕本されていないので、

この一念三千は本無今有であり有名無実となります。

 つまり、

迹門は諸法実相(理)の上から一念三千を説くので「今有」ですが、

久遠実成(本仏の常住)が説き明かされていないので「本無」となります。

 また

迹門に、二乗・悪人・女人等も成仏できると説かれていますが、

釈尊を成道せしめた根源の種子(本法)が明かされていないため、

仏の始成正覚に執着し、久遠の本因本果を知らないのです。

ですから、

迹門の一念三千は、成仏という「名」はあっても「実」がなく「有名無実」です。

 したがって、

この一念の法門は、あたかも水中の月、波の上の根無し草のようなもので、

本門の久遠実成を明かす法門には遠く及びません。

 

 本門『寿量品』の三妙合論

 本門は、『従地涌出品第十五』から『普賢菩薩勧発品第二十八』までを言い、

『寿量品第十六』が中心となります。

 本門で重要なことは、釈尊が『寿量品』で久遠実成を明かしたということです。

これは、久遠成道の因果と、その化導の国土を明かすことによって、

仏身に具わる一念三千を、釈尊の現実の身の上に説き顕したものです。

このことを三妙合論とも言います。これによって成仏の根源が明らかになるのです。

 そこで本因・本果・本国土の三妙を経文を挙げて示します。

本因妙ー「我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」

本果妙ー「我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他劫」

本国土妙ー「我常在此。娑婆世界。説法教化」

 

 本因妙とは、

五百塵点劫の仏果を成ずるための修行を示したものですが、

これは仏の境界に具わる九界の常住を明かしています。

 本果妙とは、

始成正覚としてきた釈尊の仮の姿を打ち破って、

五百塵点劫の久遠の本地を示し、これに即して仏の常住を明かしています。

これによって

爾前権経に説かれた、阿弥陀如来・大日如来等の仏は、久遠の釈尊の垂迹化他の仏であり、

『寿量品』の釈尊の一身に、すべての諸仏が統一されたのです。

 本国土妙とは、仏の住する国土を明かしています。

これまで仏の住処は十方浄土であり、この娑婆世界は穢土であると説かれていましたが、

『寿量品』で初めて、久遠実成の本仏の本国土がこの娑婆世界であることが説かれ、

一切の仏土が統一されたのです。

 このように本門『寿量品』の説法によって、迹門の教理、つまり

成仏の因果はことごとく打ち破られ、真の一念三千の法門が成立するのです。

 これを大聖人様は『開目抄』に、

「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。

四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。

爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕はす。

此即ち本因本果の法門なり。

九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、

真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(御書 五三六㌻)

と、本門の勝れていることを示されています。

 この三妙合論によって、

釈尊在世の衆生は、久遠の昔に下種された本種子を思い出し、

深い信心をもって一体となり成仏を遂げるのです。

これをもって、

久遠以来の下種結縁による衆生への釈尊の化導は、完結するのです。

 

 迹面本裏と本面迹裏

 

 このように迹門と本門とでは、天と地、水と火の如き大きな違いがあります。

 像法時代の天台大師は、本門の重要性を知っていましたが、

時と機根に合わせて法華経の迹門を面とし本門を裏として、

迹門の教えを中心に一念三千を説きました。このような天台の立場を迹面本裏と言います。

 これに対して、

末法御出現の大聖人は、一往、本門を面とし迹門を裏とする本面迹裏の立場をとられています。

 しかし、その真意は、

熟脱の法である文上教相上の本門・迹門を共に迹とし、

寿量文底独一の本因下種本門こそ真の本門とされるものです。

 

     ◇     ◇

 

 以上、

法華経の本迹二門の勝劣を述べてましたが、

本迹相対で示される本門の一念三千といえども、

大聖人の独一本門から見れば、本迹共に理の一念三千となり劣るのです。

 それ故、

私たちの成仏のためには、

大聖人の種脱相対によって示される、事の一念三千を選び取ることが肝要なのです。

 

     ◇     ◇

 

『治病大小権実違目』日蓮大聖人御真蹟 中山法華経寺蔵

「法華経に又二経あり。所謂迹門と本門となり。

 本迹の相違は水火・天地の違目なり」(御書 一二三六㌻)

 

大聖人様は、本迹の相違について天地雲泥の差があると仰せである。

しかし

その御真意は、熟脱の法である法華経文上の本迹は共に迹門であり、

文底独一の本因下種本門こそ真の本門であると仰せられている