「大白法」平成29年10月16日(第967号)
【教学基礎講座】終
受持即観心
ー 御本尊受持が根本 ー
受持即観心とは
受持即観心とは、日蓮大聖人が『観心本尊抄』において示された御法門で、末法の修行法を言います。すなわち、妙法の大漫荼羅御本尊を信仰の対境として受持(信心・唱題)する一行こそ、末法の一切衆生が即身成仏を遂げるべき観心修行に当たることを示されたものです。
「観心」とは、教相(理論・教え)に対する語で、教相に即した禅定・智慧の観念・観法の修行のことです。
「観心」の意義
一般に「観心」とは、「心を観ずる」ことで、正法・像法時代の釈尊の仏法においては、この「我が己心を観ずる」という修行がその主体となっています。
①正法時代の観心
釈尊在世および正法時代の最上利根の衆生は、この観心の修行によって「不起の一念」(無意識の一念。心識活動以前の状態の一念)や、「八識元初の一念」(あらゆる現象を生み出す根本である最初の一念)を観じて、成仏することができたのです。
②像法時代の観心
次に像法時代においては、衆生の機根が下劣になり、心の奥深くにある不起の一念や八識元初の一念を観じて成仏することができなくなり、「根塵相対の一念」(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が六塵〔六境〕に対して起こす認識作用の一念)を観ずるという、観念・観法の修行によって功徳を成じました。
すなわち、天台大師が『摩訶止観』に、
自己の心を観じて十界互具・一念三千の理を悟る修行を説きましたが、これによって我が己心に仏界が具することを体得し、発現したのです。つまり、像法における観心は、天台で説く、我が六識の妄心を観じて十法界を見ることをその形式とするのです。
③末法時代の観心(受持即観心)
さて、末法時代に入ると衆生の機根はさらに下がり、下根下機の故に、我が己心を観ずる理論的な観念・観法、すなわち天台で説く通常の観心修行では功徳を成ずることができなくなりました。
故に、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「末法の我等衆生の観心は、通途の観心の行相に同じからず。謂わく、但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、 是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり」(御書文段 一九八㌻)
と、日蓮大聖人の仏法においては、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが末法の観心となることを御教示です。
つまり、末法においては、大聖人の仏法を受持することが、そのまま悟りを得る観心修行となるのです。
大聖人は「観心の法門」として、
法華経並びに開結二経の教説を元としてさらに一重立ち入り、文上熟脱の観心ではなく、文底下種の法門に即する観心修行を明かされました。
大聖人が仰せの観心の法門とは、文底本因下種の法門を指すのであり、文底下種本門における観心のことです。
具体的には、『観心本尊抄』に、
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書 六五三㌻)
と仰せの受持即観心の法門です。
釈尊が成仏するために積んだ因行と果徳は、すべて南無妙法蓮華経の御本尊に納まっており、これを受持信行する衆生は、そのまま観心の悟りを成就して成仏の功徳を受けることができるのです。
この御文における「釈尊の因行果徳・・・」とは、文上熟脱、すなわち爾前権経・法華経迹門・法華経本門における釈尊の一切の功徳、一切の経々の功徳が、押し並べて本因下種の妙法五字の御本尊に、本然として具足していることを明かされたものです。
つまり、本因下種の妙法大漫荼羅本尊は、一切の諸仏・諸経を生み出す根源であり、また一切の諸法・諸経が帰結する根源なのです。
したがって、下根下機の末法の衆生であっても、御本尊を受持信行するところに、法体である南無妙法蓮華経と境智冥合し、自然と釈尊の因行果徳の功徳を譲り受け、凡夫の身のまま即身成仏の本懐を遂げることができるのです。
この妙法受持の一行が、即、末法の一切衆生の即身成仏のための観心となるというのが、受持即観心の法門です。
総体の受持
さらに、この受持の一行が、即、末法観心の修行となる理由について詳しく述べると、受持には「総体の受持」と「別体の受持」の二義があります。
釈尊は、法華経『法師品第十』や『如来神力品第二十一』の長行に、「受持・読・誦・解説・書写」という五種法師(五種の妙行)を説かれていますが、神力品の偈頌では、その中の受持の一行を、五種の妙行全体を含めた「総体の受持」として説示されています。
なお、この「総体の受持」に対して、他の四行を含まない単独の受持を「別体の受持」と言うのです。
日蓮大聖人は『日女御前御返事』に、
「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」(御書一三八九㌻)
と、末法における修行は、妙法受持の一行に五種の修行の全体が含まれる「総体の受持」であることを御教示です。
また『御義口伝』には、「此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親り之在り」(御書一七九五㌻)
と、末法に上行菩薩が出現して、ただ、妙法を受持する一行によって衆生を成仏せしめることを明示されています。
妙法の四力
この「総体の受持」の一行、すなわち末法観心の修行は、法体たる御本尊の勝妙な功徳によって成就するのであり、大聖人御在世当時の天台宗で主張していた止観勝法華・禅勝止観等の自力でもなく、また他力のみでもありません。
我々衆生の信力・行力と、御本尊に具わる仏力・法力の四力の妙用によって功徳を成就するのです。
故に、日寛上人は前掲の『観心本尊抄』の御文のついて、同文段に、「此の文の中に四種の力用を明かすなり。
謂わく『我等受持』とは即ち是れ信力・行力なり。 『此の五字』とは即ち是れ法力なり。 『自然 譲与』は豈仏力に非ずや。(中略)若し仏力・法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや」
(御書文段二二八㌻)
と、信力・行力・仏力・法力の四力が相俟って、初めて受持即観心が成ずることを教示されています。
◇ ◇
日蓮正宗の僧俗は、末法の御本仏・宗祖日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、自行化他にわたる題目を唱えて行くところに、末法の観心たる「受持即観心」の義が共有することを明記しなければなりません。
即身成仏の境界を得るため、それぞれがさらなる折伏弘通に大いに精進してまいりましょう。
◇ ◇
本誌八九三(平成26年9月16日)号より連載してきた
「教学基礎講座」は・今回をもって終了します。
ご愛読ありがとうございました。
次回より、新企画「仏教用語の解説」を連載します。