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受持即観心

2022年06月23日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」平成29年10月16日(第967号)

  【教学基礎講座】終

   受持即観心 

ー 御本尊受持が根本 ー

 

 受持即観心とは

 受持即観心とは、日蓮大聖人が『観心本尊抄』において示された御法門で、末法の修行法を言います。すなわち、妙法の大漫荼羅御本尊を信仰の対境として受持(信心・唱題)する一行こそ、末法の一切衆生が即身成仏を遂げるべき観心修行に当たることを示されたものです。

 「観心」とは、教相(理論・教え)に対する語で、教相に即した禅定・智慧の観念・観法の修行のことです。

 

 「観心」の意義

一般に「観心」とは、「心を観ずる」ことで、正法・像法時代の釈尊の仏法においては、この「我が己心を観ずる」という修行がその主体となっています。

①正法時代の観心

釈尊在世および正法時代の最上利根の衆生は、この観心の修行によって「不起の一念」(無意識の一念。心識活動以前の状態の一念)や、「八識元初の一念」(あらゆる現象を生み出す根本である最初の一念)を観じて、成仏することができたのです。

②像法時代の観心

 次に像法時代においては、衆生の機根が下劣になり、心の奥深くにある不起の一念や八識元初の一念を観じて成仏することができなくなり、「根塵相対の一念」(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が六塵〔六境〕に対して起こす認識作用の一念)を観ずるという、観念・観法の修行によって功徳を成じました。

すなわち、天台大師が『摩訶止観』に、

 自己の心を観じて十界互具・一念三千の理を悟る修行を説きましたが、これによって我が己心に仏界が具することを体得し、発現したのです。つまり、像法における観心は、天台で説く、我が六識の妄心を観じて十法界を見ることをその形式とするのです。

③末法時代の観心(受持即観心)

さて、末法時代に入ると衆生の機根はさらに下がり、下根下機の故に、我が己心を観ずる理論的な観念・観法、すなわち天台で説く通常の観心修行では功徳を成ずることができなくなりました。

故に、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、

 「末法の我等衆生の観心は、通途の観心の行相に同じからず。謂わく、但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、 是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり」(御書文段 一九八㌻)

と、日蓮大聖人の仏法においては、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが末法の観心となることを御教示です。

つまり、末法においては、大聖人の仏法を受持することが、そのまま悟りを得る観心修行となるのです。

 大聖人は「観心の法門」として、

 法華経並びに開結二経の教説を元としてさらに一重立ち入り、文上熟脱の観心ではなく、文底下種の法門に即する観心修行を明かされました。

 大聖人が仰せの観心の法門とは、文底本因下種の法門を指すのであり、文底下種本門における観心のことです。

 具体的には、『観心本尊抄』に、

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書 六五三㌻)

と仰せの受持即観心の法門です。

釈尊が成仏するために積んだ因行と果徳は、すべて南無妙法蓮華経の御本尊に納まっており、これを受持信行する衆生は、そのまま観心の悟りを成就して成仏の功徳を受けることができるのです。

 この御文における「釈尊の因行果徳・・・」とは、文上熟脱、すなわち爾前権経・法華経迹門・法華経本門における釈尊の一切の功徳、一切の経々の功徳が、押し並べて本因下種の妙法五字の御本尊に、本然として具足していることを明かされたものです。

 つまり、本因下種の妙法大漫荼羅本尊は、一切の諸仏・諸経を生み出す根源であり、また一切の諸法・諸経が帰結する根源なのです。

 したがって、下根下機の末法の衆生であっても、御本尊を受持信行するところに、法体である南無妙法蓮華経と境智冥合し、自然と釈尊の因行果徳の功徳を譲り受け、凡夫の身のまま即身成仏の本懐を遂げることができるのです。

 この妙法受持の一行が、即、末法の一切衆生の即身成仏のための観心となるというのが、受持即観心の法門です。

 

 総体の受持

さらに、この受持の一行が、即、末法観心の修行となる理由について詳しく述べると、受持には「総体の受持」と「別体の受持」の二義があります。

 釈尊は、法華経『法師品第十』や『如来神力品第二十一』の長行に、「受持・読・誦・解説・書写」という五種法師(五種の妙行)を説かれていますが、神力品の偈頌では、その中の受持の一行を、五種の妙行全体を含めた「総体の受持」として説示されています。

 なお、この「総体の受持」に対して、他の四行を含まない単独の受持を「別体の受持」と言うのです。

 日蓮大聖人は『日女御前御返事』に、

 「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」(御書一三八九㌻)

と、末法における修行は、妙法受持の一行に五種の修行の全体が含まれる「総体の受持」であることを御教示です。

 また『御義口伝』には、「此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親り之在り」(御書一七九五㌻)

と、末法に上行菩薩が出現して、ただ、妙法を受持する一行によって衆生を成仏せしめることを明示されています。

 

 妙法の四力

 この「総体の受持」の一行、すなわち末法観心の修行は、法体たる御本尊の勝妙な功徳によって成就するのであり、大聖人御在世当時の天台宗で主張していた止観勝法華・禅勝止観等の自力でもなく、また他力のみでもありません。

 我々衆生の信力・行力と、御本尊に具わる仏力・法力の四力の妙用によって功徳を成就するのです。

 故に、日寛上人は前掲の『観心本尊抄』の御文のついて、同文段に、「此の文の中に四種の力用を明かすなり。

 謂わく『我等受持』とは即ち是れ信力・行力なり。 『此の五字』とは即ち是れ法力なり。 『自然 譲与』は豈仏力に非ずや。(中略)若し仏力・法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや」

(御書文段二二八㌻)

と、信力・行力・仏力・法力の四力が相俟って、初めて受持即観心が成ずることを教示されています。

 

       ◇       ◇

 

 日蓮正宗の僧俗は、末法の御本仏・宗祖日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、自行化他にわたる題目を唱えて行くところに、末法の観心たる「受持即観心」の義が共有することを明記しなければなりません。

  即身成仏の境界を得るため、それぞれがさらなる折伏弘通に大いに精進してまいりましょう。

 

          ◇       ◇

 

 本誌八九三(平成26年9月16日)号より連載してきた

 「教学基礎講座」は・今回をもって終了します。

  ご愛読ありがとうございました。

 

 

 

 次回より、新企画「仏教用語の解説」を連載します。

 

 

 

 


下種三宝

2022年06月22日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」平成29年9月16日(第965号)

  【教学基礎講座】31

  下  種  三  宝  

ー 久遠元初の三宝が末法に出現 ー

 

 三宝とは

 仏法においては、衆生が尊敬し、供養し、帰依すべき信仰上の対象として仏・法・僧の三宝が立てられます。仏とは真実の法を覚智し、衆生を救済される仏法の教主、法とは仏の悟りと慈悲に基づいて世に説かれた教法、僧とはその仏法を譲り受け、後世に正しく護り伝えていく方を言います。

 この三つはいずれも、衆生を救い世を清浄に導く最高の宝であることから、三宝と言うのです。

 

 三宝の種類

 仏教には、小乗・権大乗・迹門・本門・文底下種という勝劣浅深がありますが、それらの教法によって三宝の種類、内容が異なります。

 例えば小乗の三宝は、 小乗の教主を仏宝、蔵教を法宝、声聞・縁覚の二乗等を僧宝とします。

 権大乗の三宝は、 権大乗の諸教主を仏宝、通教・別教等を法宝、大乗の菩薩を僧宝としています。

 さらに法華経の迹門においては、始成正覚の釈尊を仏宝、迹門理の一念三千を法宝、法華会上の声聞・縁覚・菩薩を僧宝とします。

 また本門の文上脱益の三宝は、久遠実成の釈尊を仏宝、本門事の一念三千を法宝、上行菩薩等の地涌の菩薩を僧宝としています。

 最後に文底下種の三宝については、総本山第二十六世日寛上人が『当流行事抄』に、

 「文上脱益の三宝に執せず、須く文底下種の三宝を信ずべし。是れ則ち末法適時の信心なり」(六巻抄 一九四㌻)

と説かれているように、末法に久遠元初・文底下種の三宝が出現されるのです。

その久遠元初即末法の仏宝とは日蓮大聖人、法宝とは本門戒壇の大御本尊、僧宝とは血脈付法の日興上人を随一とする御歴代上人であり、この久遠元初・文底下種の三宝を信ずることが、末法適時の信心なのです。このように、教法に従ってそれぞれの三宝が説かれますが、教法が方便ならばその三宝も方便、教法が真実ならばその三宝も真実となりますので、小乗より権大乗、 権大乗より迹門、迹門より本門の三宝が勝れていると言えるのです。

 言うまでもなく、

文底下種仏法は最高真実の教法ですから、末法出現の久遠元初・文底下種の三宝こそが最勝の三宝なのです。

 

 仏宝と法宝は人法一箇

  さて、大聖人が『御義口伝』 に、

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 一七七三㌻)

と説かれ、『経王殿御返事』に、

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 六八五㌻)

と仰せのように、

仏宝である末法の御本仏日蓮大聖人と、法宝である本門戒壇の大御本尊とは、人法一箇であり、一体不二の関係にあります。

 すなわち、久遠元初における御本仏の御悟りがそのまま妙法(法宝)であり、その真実の妙法がそのまま御本仏大聖人の御内証なのです。

 したがって、 戒壇の大御本尊はそのまま御本仏の悟りであり、かつ大聖人の御当体であると拝すべきです。

 このように、仏宝と法宝は一体不ニの御本尊でありますが、この御本尊が世に 出現されても、これを正しく相伝される僧宝の存在がなければ仏法は断絶してしまいます。 

 

 三宝は一体

 故に大聖人が『真言見聞』に、

 「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(御書 六〇八㌻)

と仰せのように、

三宝は一体であることから、僧宝においても、仏宝・法宝に対するのと同じように尊崇しなければなりません。

 日寛上人は下種の僧宝について『当流行事抄』に、

「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり。仏恩甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も若し此れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや。豈開山上人の結要伝受の功に非ずや」

(六巻抄 一九七㌻)

と唯授一人の血脈相承の上から法体の僧宝を示され、さらに『当家三衣抄』に、

「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師」(六巻抄 二二五㌻)

と、僧宝の根源である第二祖日興上人をはじめ、嫡々付法の御歴代上人が、総じての僧宝であることを示されています。

 

 三宝の奉安形式

 下種三宝が一体であることは、当宗の御本尊の奉安形式を見ても明らかです。多くの末寺の奉安形式は、大曼荼羅御本尊の中に三宝が具わると拝する一体三宝式です。

 法宝である御本尊の全体の法水は瀉瓶して僧宝に結要伝受された故に、仏・法・僧の三宝は御本尊の御一体の中に具わるのです。

 なお、総本山大石寺の御影堂のように、御本尊の御前に大聖人の御影を安置し、人と法を分けた形は、末法の住持たる大聖人を面としたものであるから住持三宝とも称しますが、その意義においては一体三宝式となります。

 また、総本山の客殿などでは、中央の御本尊に向かって、左に大聖人(仏宝)、右に日興上人(僧宝)の御影が奉安されていますが、これを別体三宝式と称します。この奉安形式は、三宝の意義を顕わすために、人法一箇の御本尊が三宝に開かれた形をとったものです。

 いずれの奉安形式も日蓮正宗七百年来の下種三宝の尊義を顕わすものです。

 

 三宝尊信と三宝誹謗

 大聖人は『光日上人御返事』に、

 「今御覧ぜよ。法華経誹謗の科と云ひ、日蓮をいやしみし罰と申し、経と仏と僧との三宝誹謗の大科によて、

 現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給ふべし」(御書 一五六六㌻)

と、諸宗の謗法によって三宝を誹謗すれば、必ず無間地獄に堕ちると説かれています。なぜならば、十界互具の義も明かさずに、凡夫も仏も一体であるという観念のみにとらわれてしまう宗教が大乗の諸宗や異流義にはありますが、それらはその観念に偏執するあまり、三宝の意義が不明確となり、ひいては法華経を誹謗することになるからです。

 こうした法華経誹謗の諸宗に帰依するならば、三宝尊信の信仰そのものが成り立たず、かえって憍慢謗法に陥り三宝を誹謗する結果となるのです。

 それに対して、大聖人の下種仏法は、唯一最勝の大御本尊(三宝一体)を尊信し、南無妙法蓮華経と唱え奉る事行によって、衆生が即身成仏すると説くのです。

 それ故に大聖人は『四恩抄』に、

 「法の恩を申さば法は諸仏の師なり。諸仏の貴き事は法に依る。されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし。

 次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝・は必ず僧によて住す」(御書 二六八㌻)

と三宝の恩を重視して、衆生を救済し化導する立場から、三宝の意義を説かれています。

 

       ◇      ◇

 

 御歴代上人以外の本宗僧俗も、正法を弘宣させていただくという広い意味からは、僧宝の一分の意義を持ちますが、何よりも法体としての下種三宝を正しく拝し尊信して、成仏の筋道を明確にすべきなのです。

 前御法主日顕上人猊下は、

「日興上人様が末法万年の上の衆生を導く唯授一人の御相伝において『南無妙法蓮華経 日蓮在判』と御本尊の本体をはっきりとお示しになり、人法一箇を中心においてお示しあそばされておるのであります。また、その脇に『日興(在判)』とお書きになったところに、それを正しく末法万年に伝えるところの僧宝の姿があるのです」

 (大日蓮 五四〇号)

と御本尊の相貌に約して、人法一箇の大御本尊にそのまま三宝が具わると御指南されています。

 私たち衆生側の信仰から言えば、この三宝一体の大御本尊を受持して、三宝の恩徳を拝し、三宝を尊信することこそが成仏への重要な信心姿勢となるのです。 

 

 

 

 

 


三大秘法(宗旨の三箇)下

2022年06月21日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」平成29年6月16日(第959号)

       【教学基礎講座】30

        三大秘法(宗旨の三箇)下  

         ー 本門の題目 ー

 

 日蓮大聖人は『開目抄』に、

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此の魂魄佐土の国にいたりて」(御書 五六三㌻)

と、竜の口での発迹顕本の現証を示されていますが、

さらに『御義口伝』には、

「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御書 一七六五㌻)

と教示されています。

 これは 大聖人の弘通された本門の題目が末法出現の本仏、

すなわち

大聖人の御身に具わる題目(三身具足の仏身)であることを如実に示すものです。

  なぜならば、

本門の題目は法報応三身具足の本門の本尊に収まり、さらにその本門の本尊は、

発迹顕本された大聖人の一身に具わるからです。

 

  本門の題目とは

 

 さて、本門題目の理は一切衆生に通じ宇宙法界にも遍満していますが、

本門の本尊から独立して本門の題目のみが法界に遍満するわけではありません。

また、

御本仏大聖人の御内証を離れて、別個に本門の題目を求めることも大きな誤りです。

  本門の題目とは久遠元初の本仏の宝号であり、

その功力も本門戒壇の大御本尊に収まっています。

また衆生の信心修行の立場では、御本仏の御教導に随って、

本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることです。

 

  三種の題目

 

 大聖人が御書中で説かれる「法華経」「題目」「妙法五字」という言葉には、

大聖人所顕の下種の題目の他に、釈尊の法華経(脱益)における二種の題目の意義があります。

 法華経二十八品の妙法蓮華経は、

義の上から見れば、迹門の妙法と本門の妙法との二種に判別されます。

法華経迹門では、爾前権経を開いて諸法実相の妙法を顕わしますが、

さらに本門では久遠実成の妙法を顕わします。

  ただし、

この本門の妙法も、 釈尊の法華経に説き顕わされた本果脱益の題目であって、

大聖人の顕わされた真実最勝の本因下種の題目ではありません。

 脱益の法華経における二種の題目は、

大聖人の御内証に具わる本門の題目に帰結するのです。

 

 信の題目・

 行の題目

 

 この本門の題目には、信の題目と行の題目があります。

『 法蓮抄』に、

「信なくしてこの経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」(御書 八一四㌻)

と仰せのように、信行が具足されてこそ成仏に至ることができるのです。

 故に総本山第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、

「本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり」(六巻抄 七〇ページ)

と教示されています。

 たとえ唱題の修行があっても、信心がなければ成仏は叶わず、

反対に信心があると言っても、修行が欠けていれば少しも功徳にはなりません。

 また、本門の題目の実体は本門の本尊にありますから、

この大御本尊を信じて題目を唱えることによって、

大御本尊と衆生が境智冥合し、即身成仏という大功徳が生ずるのです。

 したがって、

信行具足の題目といっても、

諸宗の誤った対境(本尊) に向かって唱えるならば全く功徳はなく、

本門の題目とはなりません。

 

 理行の題目・

 事行の題目

 

  大聖人は『三大秘法抄』に、 

「題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。(中略) 像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり」(御書一五九四㌻)

と 仰せのように、

 釈尊滅後の竜樹・天台等の諸師は、観念観法の傍ら題目も唱えましたが、それは理の法体を対境とする自行としての題目であるため、これを理行の題目と言います。

  これに対し、事行の題目とは、本仏がその不思議の御内証の妙因妙果を説き顕わされた人法体一の事の法体・本門の本尊を対境とした題目であり、本仏自らが実際に行じ、他の衆生を教導する自行化他の南無妙法蓮華経なのです。

 ですから

末法の衆生は、大聖人の仰せのまま、自らの成仏を願うと共に、

広く他のために折伏を行じていくことが大切です。

それが事行の題目を受持する尊い姿なのです。

そこには理行の題目とは比較にならない広大深遠の力用があるのです。

 

 唱題の功徳

 

 大聖人は『松野殿御返事』の中で、

「聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云々。 更に勝劣あるべからず候(中略)但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」(御書 一〇四六㌻)

と仰せです。

  すなわち、

末法の衆生が本門戒壇の大御本尊を信じて唱え奉る題目は、

御本仏の唱え給う題目と、功徳において勝劣は全くありません。

  ただし、

たとえ同じように題目を唱えたとしても、

法華経の心に背き、大聖人の御心に背いて唱えるならば、

その題目に真実の功徳はありません。

法華経に随順し、大聖人の御心に適った唱題こそ、真実の本門の題目となるのです。

 

       ◇       ◇

 

 以上、三回に分けて三大秘法について述べてきましたが、

本門の本尊の住処が本門の戒壇であり、

本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるのが本門の題目ですから、

戒壇も題目もすべて本門の本尊に収まります。

 日寛上人は『観心本尊抄文段』に、

 「就中 弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究境の中の究境、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(御書文段 一九七㌻)

と示されています。

  故に、

大聖人の顕わされた三大秘法は、

その随一である本門戒壇の大御本尊を離れては、

けっして存在しないことを銘記すべきです。

 大聖人は『当体義抄』に、

「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、報身・般若・解脱の三徳と転じ(中略)本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子壇那等の中の事なり」(御書 六九四㌻)

と、

末法の衆生が本門の題目を唱えるとき、

御本仏と一体の妙法当体蓮華仏と顕われ、成仏が决定すると仰せです。

  すなわち、

大御本尊の仏力・法力の勝れた妙用と、

大聖人の御心に随順した我ら衆生の信力・行力の四力によって、

初めて即身成仏の本懐を遂げることができるのです。

 

 

 

 

 

 


三大秘法(宗旨の三箇)中

2022年06月20日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」平成29年5月16日(第957号)

       【教学基礎講座】29

        三大秘法(宗旨の三箇)中  

         ー 本門の戒壇 ー

 

 戒壇建立の歴史

 

 戒壇とは、

防非止悪(非を防ぎ悪を止める)の戒の授受、「授戒」を行う壇場を意味します。

釈尊の時代、祇園精舎に築かれたものが最初とされています。

 日本では仏教の進展に伴い、

小乗の戒壇、大乗の戒壇と、時代を追って建立されました。 

 小乗の戒壇は、鑑真による奈良・東大寺の戒壇がその始めです。

その後、

下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県太宰府市)の観世音寺にそれぞれ建立され、

日本を三分して授戒が行われたのです。これが世に言う日本の三戒壇です。 

  また

大乗の戒壇は、

伝教大師の遺志を受け継いだ初代座主・義真によって、比叡山に建立されました。

しかし、

この戒壇も所詮は迹門の戒壇であり、

文底独一本門の仏法が弘まる末法には何の利益もなく、

衆生を成仏に導くことはできません。 

 

 末法の戒壇

 

 そこで、大聖人が末法の御本仏として、本門の戒壇を示されたのです。

 大聖人の仏法における戒壇とは、

本門の本尊を安置して授戒の儀式を行い、爾前迹門の謗法を捨て、

三大秘法を受持信仰することを誓って懺悔滅罪する場所であり、

即身成仏の本懐を遂げるべき場所を指します。 そしてさらには、

日々信心修行する本尊安置の場所に、戒壇の意義が存します。

 日蓮大聖人の仏法における戒壇義の根本は、

従来の迹門等の戒壇が示す授戒の儀式執行の場所としての意義に止まらず、

三大秘法総在の本門の本尊所住の所、

本門の題目・本門の戒壇の実義が存することにあるのです。

その意義からすれば、大御本尊の御安置されている所が、すなわち本門の戒壇なのです。

本門の本尊を離れて、本門の戒壇はけっして存在しません。 

 したがって、

末法の衆生が救済される根本の戒壇は、本門の本尊が奉安されている場所に限られます。

  つまり本門戒壇の大御本尊が安置される総本山大石寺こそが、

一閻浮提の人々が懺悔滅罪する根源の地であり、

そこに、大石寺が広宣流布の根本道場たる所以があるのです。

 

  事の戒壇・義の戒壇

 

 この本門の戒壇には、事の戒壇と義の戒壇があります。

もとより、大聖人が顕わされた三大秘法は一切法の源ですが、

その三大秘法のすべてが本門の本尊に具わります。

 故に

その根源たる本門戒壇の大御本尊は、三大秘法総在の事の法体そのものですから、

その御安置の所は、現時における事の戒壇なのです。

  なお、

大聖人御遺命の事の戒壇については 、

さらに深い意義が拝されるので、後に述べることにします。

 次に

義の戒壇についてですが、本門戒壇の大御本尊の分身散体として、

本宗の各寺院・各家庭に安置される御本尊の住処は、 

その義理が事の戒壇に当たる故に義の戒壇と言います。

 日寛上人は『文底秘沈抄』に、

「所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」

(六巻抄 六一㌻)

と述べられ、『依義判文抄』に、

「本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり」

(同 一〇四㌻)

と教示されています。

 戒壇の大御本尊は根源の本尊であり、

それ以外の大聖人直筆、あるいは日興上人以下歴代上人御書写の御本尊は、

その根源に繋がる御本尊です。

 そして一切の御本尊は、その功徳力がすべて根源から流れ通うものですから、

その意義はそのまま事の戒壇に当たるのです。

 ただし、

たとえ大聖人御直筆であっても、

唯授一人の血脈と大御本尊への信仰から離れた他宗格護の本尊には、

事の戒壇に通ずる意義は全くありません。

そこには一分の功徳もないばかりか、

その御本尊を拝むことによって、かえって罪障を積むことになるのです。

 

 広宣流布と本門の戒壇

 

 さて、戒壇の大御本尊の住処は、 現時における事の戒壇に当たります。

  現在の奉安堂は、

 戒壇の大御本尊が安置されている故に、現時における事の戒壇で、

しかし

大聖人は、『三大秘法抄』『日蓮一期弘法付嘱書』の中で、さらに、

将来の広宣流布の事相に約して、本門戒壇建立について御教示されています。 

すなわち『三大秘法抄』に、

「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃住を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懴悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり」(御書 一五九五㌻)

と、

具体的に戒壇建立への大目標を示され、さらに『日蓮一期弘法不嘱書』に、

国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇せらるべきなり。

時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(御書一六七五㌻)

と、戒壇建立を遺命されています。

  この戒壇建立の御指南中の「事の戒法」とは、無始の罪障を消滅し、

三業の悪を止めるという末法の「本門戒」の内容を意味します。

私たちは、三大秘法の御本尊を受持信仰し、

御遺命の本門戒壇建立の実現に向かって折伏弘通に邁進することが、

自他の即身成仏の上で最も大事であることを銘記しなければなりません。

 

 

 

 

 


三大秘法(宗旨の三箇)上

2022年06月19日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成29年4月16日(第955号)

       【教学基礎講座】28 

        三大秘法(宗旨の三箇)上  

         ー 本門の本尊 ー

 

 三大秘法は

 末法の三学

 

 私たちが成仏するためには、いったいどのような修行に依ればいいのでしょう。 

 このことを仏教で具体的に説いているのが 「戒・定・慧」の三学です。

つまり、

悪を止めて善い行いを勧める「戒」(防非止悪の義)と、

精神を統一し心の散乱を防ぐ「定」(静慮の義)、さらに、

悩みの根本を明らかにし、

  仏の説く真理を体得する「慧」(照明の義)です。

 これは、仏教すべてに説かれていますが、

小乗・大乗の教えと正像末という、時によりその修行は異なります。

そこで日蓮大聖人様は、

久遠元初以来の妙法に具わる三学を三大秘法として整足されたのです。

 

 三大秘法開合の相

 

 三大秘法とは、本門の本尊と戒壇と題目です。

本尊は「人」と「法」、 

戒壇が「事」と「義」、

題目が「信」と「行」とに

開かれて六大秘法となり、さらに開けば八万法蔵となるのです。

 反対に、八万法蔵は六大秘法に収まり、

それが最終的に、一大秘法である本門の本尊に収まります。

したがって、

一大秘法の本門の本尊を、三大秘法総在の本尊とも称するのです。

 このように、大聖人が顕わされた三大秘法が一切法の源であり、

その根本は本門戒壇の大御本尊に帰結するのです。

 

 本尊の字義

 

 「本尊」という言葉には、

根本尊崇(大法の根本であるから尊い)・ 

本来尊重(もとから尊ぶべきもの)・

本有尊形(もとのままの尊き姿)の

三つの意義があり、それぞれ体・用・相を現わしています。

 故に本尊とは、最も勝れているものを用いることが肝心です。 

 

 法の本尊

 

 まず第一に法の本尊について、

『草木成仏口決』に、

 「一念三千の法門をふりすゝぎたてたるは大曼荼羅なり」(御書五二三㌻)

と示されています。 

これは、 本尊とは一念三千の妙法を顕わしているということです。

 つまり、大聖人は五重相対・五重三段の判釈によって、寿量文底に秘沈されている久遠元初・事の一念三千の妙法蓮華経を説き出だされ、それを本門の本尊として顕わされたのです。 「法華経の題目を以て本尊とすべし」とか、「妙法蓮華経を本尊」等、 御書の諸文に示される法本尊に関する御教示は、すべてこのことを言います。

 また『当体義抄』には、

「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し」(御書六九五ページ)

と、この久遠元初の妙法を詳しく示されています。

  このことからも大聖人の大漫荼羅本尊は、十界互具・事の一念三千の当体を顕わしたものと言えます。 

 

 人の本尊

 

 次に人の本尊について述べると、

一般日蓮宗各派においては『報恩抄』の、

「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六㌻) 

との御文等によって、早計に色相荘厳の釈尊像を本尊と立てています。

これは御書の真意を拝せない故の誤謬と言えます。

  この御書に示された「教主釈尊」とは、寿量文上の教主釈尊ではなく、寿量文底の教主・久遠元初の自受用報身如来のことです。

『三大秘法抄』 には、

「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり」(御書一五九四㌻)

さらに『三世諸仏総勘文抄』の、

「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(御書一四一九㌻)

との御文によれば、末法の本尊となる仏は久遠元初本因妙・名字凡夫位の本仏釈尊であり、インドに出現した寿量文上の色相荘厳・本果脱益の釈尊とは、天地、水火ほどの勝劣があります。この名字即の凡夫位の御姿をもって一切衆生に本因下種の御化導をされる方こそ末法の本仏であり、それは宗祖日蓮大聖人をおいて他にいらっしゃいません。故に大聖人を外用は上行再誕、内証は久遠元初の自受用身と拝するのです。

 

 人法一箇の本尊

 

 以上、

法の本尊・人の本尊と分けて示しましたが、本尊に二種類あるわけではありません。

 先の『三世諸仏総勘文抄』の御文によると、 久遠元初の仏は、「名字凡夫の位」で「我が身は地水火風空なり」と「即座に悟りを開いた」わけですから、人法不離・人法一箇であることが判ります。『 当体義抄』の「因果倶時不思議の一法・名づけて妙法蓮華」と、「我が身は地水火風空」とは同じことを示されています。

  もともと不離相即の久遠元初の仏と妙法が末法の本尊と現われるのですから、 この本尊は人法一箇の本尊であり、「久遠元初の自受用報身如来」即「事の一念三千の南無妙法蓮華経」なのです。

 

 大聖人の御当体 

 即本門の本尊

 

 先に述べたように、

大聖人の御内証が久遠元初の自受用報身如来ですから、

この本門の本尊は、大聖人の一身の御当体であると言えます。

『 経王殿御返事』には、

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 六八五㌻)

と、その意を明確に示されています。

  この本門の本尊は、

内証久遠元初の本仏たる大聖人が末法に出現して、 初めて顕わされた本尊なのです。

 

本門の本尊は

弘安二年の大漫荼羅

 

 大聖人は多くの漫荼羅本尊を顕わされましたが、その中でも、弘安二年十月十二日御図顕の大漫荼羅を究極中の究極の本尊とし、本門戒壇の大御本尊と尊称します。今日、日蓮正宗総本山大石寺に厳護し奉る大御本尊です。 これこそ三大秘法総在の本門の本尊です。

 総本山第二十六世日寛上人は、

『観心本尊抄文段』に、

「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」(御書文段 一八九㌻)

と示されています。

  唯授一人の血脈相伝によって正しく現代に伝えられるこの本門戒壇の大御本尊には、このように一切衆生の罪障を消滅し、真実の幸福を得さしめる久遠元初の御本仏の仏力と、事の一念三千の南無妙法蓮華経の法力とが倶に具わっているのです。

 一方、たとえそれが大聖人直筆の漫荼羅であったとしても、他の本尊はすべて一機一縁のために顕わされた本尊です。根本の本門戒壇の大御本尊を離れれば、直ちに本尊としての力用を失ってしまうことを知らねばなりません。

 

 

 

 

 

 


宗教の五綱

2022年06月18日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成29年3月16日(第953号)

       【教学基礎講座】27 

        宗 教 の 五 綱  

       ー 宗旨決定の原理 ー

 

 五綱とは五義とも言い、

宗教を正しく選択するために日蓮大聖人が説き明かされた教義で、

教・機・時・国・教法流布の前後、の五つを言います。

『教機時国抄』には、

「此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか」(御書 二七一㌻)

と御教示されており、

正しい仏法を判定する原理・大綱という意味から「五綱教判」とも言います。

この五義については、『開目抄『観心本尊抄』『撰時抄』『報恩抄』の他、

重要御書の各所に述べられています。

 

 教綱判

 

 教綱判とは、それぞれの教義について比較検討し判定することです。

 大聖人は『開目抄』に、

「教の浅深をしらざれば理の浅深弁ふものなし」(御書 五六一㌻)

と仰せられ、

真理の浅深は、その真理を説く「教義」の浅深・正邪にかかっていると明かされています。

 今、日蓮大聖人が示された五重相対によって宗教の全体を分類すると、

内道ー外道 大乗ー小乗 実教ー権教 本門ー迹門 文底下種ー文上脱益

となり、

この五重の相対判釈によって文底下種の大法、

すなわち

日蓮大聖人の仏法が、一切の教えの中で最も勝れた教えであることが明かされます。

 このほか五重三段などの教判によっても教義の高低・浅深が判断され、

末法下種の妙法が最も勝れていることが明かされています。

(「教学基礎講座」二十一〜二十六参照)

 

 機綱判

 

 機とは衆生が仏の教えを受け止めようとする心の状態、

また教法に対する衆生の能力を言います。

 釈尊の在世、並びに滅後の正法・像法二千年の衆生は、

久遠の結縁によって、成仏の根本となる仏種が下種されていました。

ですから衆生は調熟・得脱のための教えさえ受ければ、成仏へと導かれました。

これら過去に釈尊の下種を受けていた人々を「本已有善」あるいは熟脱の機と言います。

 これに対して、

釈尊の滅後二千年を経た末法に入ると、

釈尊の化導による下種結縁の衆生はいなくなり、

仏となるべき種を持たない「本未有善」の衆生ばかりとなるのです。

 よって末法においては、『法華初心成仏抄』に、

「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし」(御書一三一六㌻)

とあるように、

久遠元初の仏が出現して、初めて妙法をもって折伏逆化するべき

最初下種の機縁となっていることを知ることが大聖人の機綱判です。

 

 時綱判

 

 釈尊は五十年の説法中、

前の四十余年間はすべての衆生を救済する一仏乗の法華経を秘してこれを説かず、

最後の八年に至って初めて説き出だされ、在世における出世の目的を完成させました。

  さらに滅後については、

大集経等において正・像・末の三時を示して、衆生の機根は時に従って悪機鈍根となり、

末法に至っては闘諍言訟・白法隠没という、仏教中に争いが生じ、

釈尊の法は隠没する時代となり、釈尊の化導・利益が終えることを予言しました。

 大聖人は経文に照らして、「時」 の推移の上から、

それぞれの時代に正しく契合する仏法流布の様相を示されると共に、

末法に弘めるべき大法は、

上行菩薩へ付嘱せられた結要の大法・本地の妙法であることを明示されています。

 

 国綱判

 

 国綱判について、大聖人の御教示では三つの意義があります。

  第一は 一般的な国の種々の様相であり、

教法を弘通するには、その国々の特殊性を考えなければならないこと。

  第二には釈尊の教法と日本国の関係を明らかにされて

『法華翻経』の「此の経典東北に縁あり」等の文、

さらに聖徳太子の法華経抄請来等々、歴史の上から見て、

日本国が法華経に有縁の国であることを明かされています。

 そして

 第三に、『御講聞書』 に、

「本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所」(御書一八二四㌻)

とあるように、

日本は末法の御本仏出現の本国・三大秘法広布の根本の妙国であると明かされています。

  これらのことを知った上で、

その国に弘まるべき法を判定することを国を知ると言います 。

 

 教法流布の前後

 

 経文には、世が進むにつれて人々の機根はだんだんと低下し、

末法に入って濁悪の世となることが説かれています。

この末法の人々を救うには

正法・像法の前代よりさらに勝れた教法が必要となります。

  妙楽大師の示した

「教 弥 実なれば位弥下く、教弥権なれば位弥高し」

(摩訶止観輔行伝弘決・御書一一一二㌻参照)とは、

下劣の機根には、より力のある根本的な教えが必要であることを明示しています。

  すなわち、

教法流布の前後とは、釈尊滅後における弘通の順序次第であり、

教法の流布には従栓浅至深の前後関係があることを示したものです。

 その実証として、仏教が広まった歴史を概説しますと、

インドにおいては釈尊が出世して九十五種の外道の教法を破り、

滅後においては馬鳴・龍樹の論師が小乗を破して権大乗を弘め、

次に中国において

天台大師が南三北七の小乗・権大乗を破り実大乗経である法華経を弘めました。

また我が国では

固有の神道に執着した物部氏を、聖徳太子と蘇我氏が滅ぼして仏教を伝えました。

さらに桓武天皇の世に伝教大師が現れて天台大師の教えを継ぎ、

南都六宗の権門の義を打ち破り、法華一乗を弘通しました。

  これらの教法の流布には、

その流れの上から見れば、大聖人が出現された末法においては、

像法時代における天台宗の法華経迹門の教えから、さらに一重立ち入った

最も深い教法である法華経・独一本門の仏法でなければならないことが明白となります。

 これを知ることが教法流布の前後を知るということなのです。

 

 五義の一致

 

 これらの五義のそれぞれは本来一致すべきものです。

すなわち教法が権教であれば、

機も権教の機、時も権教の時、国も権教の国、流布も権教の前後に当たっていなくてはなりません。

 また施す教えに権実・本迹・種脱の別があれば、

その教えを説く仏にも別があり、衆生の機にも権実・本迹・種脱の別があるのです、

 末法の今は、まさに下種の実機、

下種の時、下種の国、下種の大法が出現すべき前後に当たっているのですから、

教も下種の仏法、仏も下種仏でなくてはなりません。

 よって末法の私たちが根本的に救われるためには、

末法出現の御本仏・日蓮大聖人の下種仏法の南無妙法蓮華経という教えによらなければならないのです。

 

 

 

 

 

 


五重三段 下

2022年06月17日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成29年2月16日(第951号)

       【教学基礎講座】26  

       《五  重  三  段》  下

     ー 文底下種三段末法流通の正体 ー

 

 今回は、いよいよ五重三段の教判が説かれた目的である第五の文底下種三段です。

 

 序分

 

 まず、『観心本尊抄』を拝してみましょう。

「又本門に於ても序正流通有り。過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方三世諸仏の微塵の経々は皆寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく」(御書 六五五㌻)

 ここに明らかなように、三千塵点劫の古の大通十六王子覆講の法華経より、中間を含め釈尊が出世して説いた一代五十年の諸経、また横に十方、縦に三世一切の諸仏が説いた微塵の経々のすべてが、文底下種三段の序分となります。一往、文面では文上本門は序分に含まれません。それは文上本門が、始成正覚を払って久遠を開顕した純円の教法であって、「小乗教・邪教・未得道教・覆相教」ではないからです。しかし、文底の意義よりみれば、文上本門も再住は垂迹化他の教法として、文底下種三段の序分となります。

 

 正宗分

 

 次に文底下種三段の正宗分について言えば、先の『観心本尊抄』の文により、それが『寿量品』であり一品二半であることが理解できます。

 一品二半には、第四の本門脱益三段の正宗一品二半と、文底下種三段の正宗一品二半とがあります。この両者の名は同じく一品二半ですが、後の流通分に「彼は脱、此は種なり」と示されるように、その意義内容には天地水火ほどの違いがあるのです。

 総本山第二十六世日寛上人は、『観心本尊抄文段』の中で、本門脱益三段の一品二半と文底下種三段の一品二半との意義内容の異なりについて、「配立の不同」という三つの観点から説明されています。

 「配立の不同」とは、一品二半の立て方の相違です。本門脱益三段は天台の立て方で、『涌出品』の略開近顕遠・動執生疑の文(法華経四一九㌻七行目より)『寿量品』・『分別功徳品』の十九行の偈に至るまでの一品二半です。これに対して、文底下種三段は大聖人の立て方で、『涌出品』の略開近顕遠の文を除いた動執生疑(法華経 四二二㌻三行目)よりの一品二半なのです。簡単に言えば、略開近顕遠を含む一品二半を立てるのが天台の配立、含まないのが大聖人の配立となります。

 この配立の違いは、「種脱の不同」に基づきます。つまり、天台の配立による第四の正宗一品二半は、在世脱益のための文上本果の教法であり、大聖人の配立による第五の正宗一品二半は、末法下種のための文底本因の教法なのです。

 そして、天台の配立による第四の三段の一品二半を「略広開顕の一品二半」「在世の本門」と名付けるのに対し、大聖人の配立による第五の三段の一品二半を「広開近顕遠の一品二半」「末法の本門」と名付け、また「我が内証の寿量品」(御書 六五七㌻)と称します。

 第五の三段の一品二半を「我が内証の寿量品」とするのは、『涌出品』の動執正疑によって『寿量品』の説法が起こるためで、一品二半の意義が文底の寿量品にあることによります。この「我が内証の寿量品」とは、『百六箇抄』に、

 「我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり」(御書 一六九五㌻)

と説かれるように、本果脱益を説き顕わす文上寿量品の二千余字ではなく、御本仏日蓮大聖人が証得された文底下種の当体、すなわち久遠元初本因名字の妙法蓮華経をよく説き顕わす側の文底寿量品の二千余字を言います。この文底の文々句々が、文底下種三段の正宗一品二半の意義内容となるのです。

 なお、この文底下種三段の正宗一品二半によって説き顕わされる本因妙の当体は、末法流通の正体となりますから、正宗分と混同してはなりません。

 

 流通分

 

 流通について、『観心本尊抄』の文面には、これが流通文であるとは示されていません。 しかし、日寛上人は文脈の綱格の上から、文底下種の正宗分の文に続く「迹門十四品の正宗八品は・・・・・」より、最後近くの「法華を知る者は世法を得可きか」まで、迹本二門の三段(大白法九四九号四面三照)のすべての文が、流通分に当たるとされています。そして、「総じて一代五十余年の諸経、十方三世の微塵の経々、並ぶに八宗の章疏を以て、或は序分に属し、或は流通に属し、謂わく、彼の体外の辺は以て序分と為し、彼の体内の辺は以て流通に属するなり」(御書文段二六二㌻)

と御教示されています。つまり、文底下種三段の正宗分である久遠元初唯密の正法から見たならば、迹門・本門を含む一代五十年の諸経や十方三世諸仏の微塵の経々は、この三段の序分ともなり流通分ともなるということです。しかし、そこには体内と体外の相違があります。この体外と体内の立て分けは、文底下種三段正宗分の大法が顕われる以前か、以後かという違いによります。迹門について言えば、未だ本門の顕われる前の迹門は、実際の天月を知らずに池に映った月を真の月と思うようなもの(本無今有)に過ぎません。これに対して、本門が顕われた後の迹門は、池の月は天の真月の影と知った立場で、本門に即した常住の迹門となります。前者が体外の迹門で文底下種三段の序分となり、後者が体内の迹門で流通分となるのです。

 また、本門について言えば、『観心本尊抄』には、本門はもとより末法のために説かれた流通分であるとされています。しかし、この本門にも体外・体内の両意があります。文底下種の大法が顕われる以前の本門は、やはり単なる池月のような体外の文上脱益で、文底の序分に過ぎません。一方、下種の大法が顕われて後の本門は、文底体内の文上脱益、つまり種家の脱益で、文底下種の流通分となるのです。

 このように、本迹二門を含む一代五十年の諸経並びに十方三世諸仏の微塵の経々等において、文底体外の辺は文底下種三段の序分とし、文底体内の辺は流通分とするのです。

 文底体内におけるこれらの経々が、なぜ流通分になるかというと、「迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん」の意で、これら文底体内の本迹以下の経々には、正宗一品二半によって説き顕わされた流通の正体である本因下種の妙法を、さらに助顕し、弘通する意義があるからです。

 

 流通の正体

 

 流通分において最も重要なことは、末法流通の正体を決するということで、ここに末法の一切衆生が即身成仏を遂げる観心の本尊が説かれます。

 該当部分を挙げると、

「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(御書 六五六㌻)という御文です。

 ここでは、まず在世の本門と末法の本門とを相対して、一往、純円の名が同じであると示されます。在世の本門は、教主は久成の仏で始成の方便がなく、教法は久遠の一念三千で本無今有の方便がないので純円と言います。

これに対して、末法の本門は、教主は名字凡夫の本仏で色相荘厳の方便がなく、教法は下種の妙法で熟脱の方便がないので純円と言うのです。

 次に「但し」以下は、再往、法体に相異のあることが明かされます(再往体異)。日寛上人は、これを文・義・意の三つの観点より決せられています。

 『御書文段』を拝すれば、文の重では、在世と末法との本門の異なりが判じられます。つまり、在世の教主は色相荘厳の脱仏であるから「脱」、末法は名字凡夫の下種仏であるから「下種」と言い、また在世の本門は文上脱益の一品二半であるから「一品二半」、末法の本門は文底下種の妙法であるから「但題目の五字」と言います。

 義の重では、末法流通の正体が示されます。在世脱仏の説く本門は、在世脱益のためであって末法流通の正体とはなりません。末法下種仏の説く本門正宗は、末法下種のためですから、そのまま末法流通の正体となるということです。意の重では、末法一切衆生の観心成仏の本尊が結成されます。要するに、在世脱益の人法は教相の本尊であるため、末法観心の本尊とはなりませんが、末法下種の人法は、そのまま末法観心の本尊となるのです。この末法観心の本尊とは、正宗分の一品二半たる「我が内証の寿量品」によって説き顕わされた所詮の人法一箇の御当体で、人に約せば御本仏日蓮大聖人、法に約せば本門戒壇の大御本尊となるのです。

 このため『観心本尊抄』では、さらに本門脱益三段の文証を挙げて検証し、結要不嘱の筋目から地涌の菩薩が末法に出現し、仏法の根源である寿量品文底本因下種の法体、本門の本尊を建立し、弘通すべきことを、「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書 六六一㌻)

と結論づけられているのです。

 このように、末法の観心の本尊を結成するところにこそ、五重三段の帰結があり、また末法万年にわたる一切衆生の即身成仏の要道が決せられるのです。

 

 

 

 

 


五重三段 上

2022年06月16日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成29年1月16日(第949号)

       【教学基礎講座】25  

       《五  重  三  段》  上

    ー 一代仏教並びに十方三世微塵の経教の真髄 ー

 

 前回では、『開目抄』に示される五重相対の中の第五番目に当たる種脱相対を述べましたが、このように浅い教えから深い教えに向かって、末法弘通の正法を導き出すのが日蓮大聖人の教判の構格であり、今回述べる五重三段もその一つです。

 大聖人御一代において、人本尊・法本尊開顕の双壁をなす重要書として『開目抄』と『観心本尊抄』が挙げられますが、この五重三段はその『観心本尊抄』に説かれている教判で、五重相対と並ぶ大聖人独自の代表的な教判です。 

 経典などを判釈するために、

その内容に応じて文章に科段を設けることを科文と言い、

一般に「序分」「正宗分」「流通分」の三段に区分されます。

ここで

「序分」とは、 

一経の序論とも言うべきもので、

正意とする教法を説くための準備段階として説かれるものです。

次に

「正宗分」 とは、

一経の本論とも言うべきもので、

まさに本意とし目的とする、中心の教法が説かれている正説段を言います。

そして

「流通分」は、

この「正宗分」の教法を広く流布し、衆生を利益することを目的とするところを言うのです。

 

 大聖人は、この三段の分科を用いられて、

仏の教説を一代一経三段・法華経一経三段(法華経十巻三段とも言う)・

迹門熟益三段・本門脱益三段・文底下種三段と五重に分けられ、浅い所から次第に深い所へ、また総より別へと入り、最終的に末法の衆生の尊崇すべき文底下種の本尊を顕わし出されているのです。

 

 一代一経三段

 

 本来、序分・正宗分・流通分は、三分科経と言って一つの経典の中で、その内容から三段に分けられるものですが、大聖人は釈尊一代五十年の五時の経教すべてを総括して一経とみなし、そこに三段を立てて一代聖教を判釈する規範として定められたのです。

 つまり、前四味の教えである華厳・阿含・方等・般若の膨大な諸経をすべて序分とし、無量義経・法華経・観普賢菩薩行法経(普賢経)の法華三部経十巻を正宗分とし、涅槃経等を流通分とされました。

 

 すなわち、法華経以前の四十二年間の経々は、法華経を説くに当たって、衆生の機根を調えるために説かれた方便ですから、法華経からすれば総じて序分に当たります。次に、法華経十巻には諸法実相と久遠実成をもって一念三千が説かれることにより、所化の衆生に対する教化が成就し、能化である仏の本懐が遂げられたので、これを正宗分の真実の教えとするのです。また涅槃経は法華経の化導に漏れた衆生等を救い取るために説かれた桾拾(落ち穂拾い)の教えですから、流通分に相当します。

 

 法華経一経三段

 

 ここでは、前の一代一経三段の正宗分となる法華三部経十巻について、さらに序・正・流通を分けます。

 すなわち、無量義経と法華経の『序品第一』を序分とし、『方便品第二』から『分別功徳品第十七』の「十九行の偈」に至るまでの十五品と半品を正宗分、『分別功徳品』の「現在の四信」より普賢経に至るまでの十一品半と一経は流通分となります。

 無量義経には、「無量義とは一法より生ず」と説かれ、一切法の根源は法華経にあることを暗示し、さらに「四十余年には未だ真実を顕わさず」と、爾前の諸経は法華経の方便であったことを指摘されています。

また、序品には真実の大法が説かれる前に起こると言われる六つの瑞相(珍しい兆し)が示され、これを発端として弥勒菩薩・文殊菩薩の問答があり、六瑞は法華経が説かれる前相であると明かされます。このようなことから、大聖人はこれらを序分と定められたのです。

 次に『方便品』から『分別功徳品』前半までは、「二乗作仏」「久遠実成」が説かれることによって、初めて一念三千の法門が顕われ、これこそ釈尊真実の教法なので正宗分とされるのです。続いて「分別功徳品」後半から普賢経までの説法は、滅後の法華持経者の功徳と不嘱の次第を示して、末代悪世において法華経を弘通・流布せしめるためのものですから流通分となります。

 

 迹門熟益三段

 

 以上に述べた一代一経三段と法華経一経三段は、共に「総」の三段と言われ、五重三段の中でも総括的に序・正・流通の三段のみを示し、それらの中心となる教法が、いずれに存するのかを規定されたものです。

 そして、これから述べる第三重の迹門熟益三段より以下の三つの三段が「別」の三段となり、ここから具体的にそれぞれの三段で顕わされる本尊や前段との勝劣、化導の始終についての教示がなされます。

 迹門熟益三段は、法華経十巻を本迹二門に分け、そのうちの無量義経と迹門を三段に分けたものです。すなわち、無量義経と序品が序分に当たり、『方便品第二』より『人記品第九』までの八品が正宗分、『法師品第十』より『安楽行品第十四』に至る五品が流通分となります。

 無量義経と序品が序分となるのは、前に述べたように、これらが正宗分のための準備として説かれたものだからです。次に『方便品』よりの八品は、初めに略開三顕一として、諸法実相に基づく理の一念三千が説かれます。続いて広開三顕一として、法説周・譬説周・因縁説周の三周説法により二乗作仏が定まり、所化の衆生が未来成仏の記別を受けて、迹門当分の利益を得たことから正宗分とします。そして『法師品』より『安楽行品』までは、在世はもとより滅後の弘教を奨励し勧められているところから流通分とするのです。

 この迹門熟益三段の正宗分で説かれる本尊です。仏は始成正覚の応即法身と言われる円教の仏であり、所説の法は諸法実相に約した百界千如・二乗作仏で、爾前四十余年の諸教にはない一代に超過した教法です。また、三千塵点劫の古、大通智勝仏の十六王子による法華覆講を下種とし、以降の中間、今日の爾前経を熟益とし、迹門の説法に至って、その種子を顕わして得脱するという、化導の始終が明かされます。

 しかし、後の本門からすれば、教主も所説の法も共に本有久成の真実を開いていませんので、髄他意の法門となります。それ故に迹門は、本門の脱益に対して熟益と言うのです。

 

 本門脱益三段

 

 本門脱益三段は、法華経十巻のうち本門十四品と普賢経を三段に分けて、『従地涌出品第十五』の前半品を序分とし、『涌出品』の略開近顕遠の文よりの後半品と『如来寿量品第十六』、『分別功徳品第十七』の前半までの一品二半を正宗分とし、『分別功徳品』の後半、現在の四信より以下を流通分とします。

 『涌出品』には、まず娑婆世界において、滅後の弘経を願う迹化・他方の菩薩を釈尊が制止したことに応じて、上行等の四菩薩を上首とする、六万恒河沙の地涌の菩薩が大地より涌現して虚空を覆います。これに対して弥勒菩薩は、地涌の菩薩を一人も知らず、どこから、何の因縁によって来たのか、また誰の教化による菩薩なのか、いかなる教法を修行してきたのかと、釈尊に尋ねたのです。これが仏の久遠を開顕する序分に当たります。

 その後釈尊は弥勒に対して、地涌の菩薩は、下方の空中に位し、過去無数劫より仏の真実の智慧を行じてきたこと、そして釈尊の成仏の当初より教化してきた所化であることを明かした上で、「我久遠より来 是等の衆を教化せり」と答えられ、仏寿の久遠なることを略して開顕されました。これを略開近顕遠と言います。

  この釈尊の説法を聞き、始成正覚の釈尊に対して、弥勒をはじめとする在世の衆生は心が揺れ動き、いったい釈尊自体がいかなる仏なのかと疑問を生ずるのです。 これを動執生疑と言います。 その答えとして説かれたのが『寿量品』の広開近顕遠の説法です。

 次の『分別功徳品』の前半は、寿量品説法の利益が説かれます。 仏寿の久遠なることを聞いた菩薩大衆は、種々の功徳を得て、初住乃至等覚という不退の位に至り、総じて菩薩に円教法身の授記がなされ、 さらに弥勒の領解と続きます。

 以上の略広にわたる開近顕遠の一品二半の説法が、本門脱益三段の正宗分となります。

 なお、『分別功徳品』の後半より普賢経までが流通分になることは、法華経一経三段に述べた通りです。

 さて、ここで説かれる本尊は、本門脱益の本尊であり、仏は久遠実成の仏、法は三妙合論の上に示される事の一念三千の法門です。

 すなわち、『寿量品』を中心とする、この開近顕遠が説かれたことにより、無始の九界と仏界が十界互具するのみならず、仏の生命と功徳が、久遠の昔より現実の国土世間に遍くゆきわたっていることが明かされ、ここに真の一念三千が顕わされたのです。釈尊在世の衆生は、この本門の開顕によってことごとく得脱することができ、脱益の化導が完結したと言えます。

 

     ◇    ◇

 

   以上のように、第四重の本門脱益三段まで述べてきましたが、この在世の衆生の得脱を 深く掘り下げてみると、彼らは初住乃至等覚という不退の位に至りながらも、その内証観心の境界において久遠当初の下種を覚知し、凡夫の名字即の位に立ちかえって妙覚の悟りを開いたというのが、在世得脱の真実の姿なのです。 これを文底体内の文上の得益と言います。

  これは、最後の文底下種三段を明らかにしなければ、その真実相は顕われてきません。  しかし、その内容はまことに深遠であり、かつ大聖人の正意にして末法弘通の法体のことでもありますから、次回に詳しく述べることにします。

 

 

 

 

 

 


種脱相対

2022年06月13日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成28年12月16日(第947号)

 【教学基礎講座】24

  種 脱 相 対

ー 末法救済の大白法 ー

 

 今回は種脱相対について述べます。これは五重の相対の第五、また三重秘伝(第一重は権実相対、第二重は本迹相対、第三重は種脱相対)の第三の法門に当たり、大聖人独自の教判における最奥の法門です。

 この相対は、法華経本門における文上脱益の法・仏と、文底下種益の法・仏の法体との比較であり、そこには在世脱益の機と、末法下種益の機との比較相対を含みます。すなわち、大聖人の出世の本懐、上行所顕の法門を明らかにし、釈尊仏法との相異を示すのがこの相対判の意とするところです。

 

 種熟脱の三益

 種熟脱の三益とは、法華経において仏が衆生を化導する始終を説き明かしたもので、下種益、熟益、脱益のことを言います。

 下種益とは仏になる種子を衆生の心田に下すことで、

 熟益とは過去において下された仏種を成長させて機根を調熟させることです。

 脱益とは下種された仏種が成長し終わって実を結び、得脱して仏の境界に至ることです。

 この種熟脱には、迹門の三益、本門の三益、文底下種の三益の三種があります。

①迹門の三益は、法華経『化城喩品第七』に説かれる三益のことで、三千塵点劫における大通智勝仏の十六王子による法華覆講を下種とし、中間・今日の爾前四十余年を熟益とし、法華経迹門の開三顕一の説法による得脱を脱益とするものです(熟益仏法)

②本門の三益は、法華経『如来寿量品第十六』に説かれる三益のことで、久遠を下種とし、三千塵点劫の大通智勝仏及び爾前四十余年と法華経迹門までを熟益とし、本門寿量品に至って得脱することを脱益とするものです(脱益仏法)

 なお、この迹門の三益・本門の三益は共に、過去に下種を受けた本已有善の衆生に対する三益です。

③文底下種の三益は、過去において未だ下種を受けていない本未有善の衆生に対するもので、それらの衆生が久遠元初の本法たる本因下種の妙法を下種されることにより、正直に受持信行する順縁の衆生は熟・脱の二益を同時に具え、直ちに得脱することを示したものです(下種仏法)

 

 能説の教主(仏)の相違

 種脱の相違を明らかにするため、初めに、法を説く教主について述べると、釈尊は『寿量品』において、五百塵点劫の久遠を開顕し、仏になるための本因本果を示されました。しかし、これは五百塵点劫という有限に即した無限の仏の寿命で、それ以前は法華経『寿量品』に、

「我本菩薩の道を行じて」(法華経 四三三㌻)

と説かれているように、菩薩としてその本因の修行をしていたことが明かされています。

 天台は当文を、円教の菩薩行により、初住位に登って常住の境界を開いた時を指すと釈しています。しかし、初住の位に登るためには、前々における円教の修行を要します。これこそ本因初住の当文の文底に秘沈された久遠元初の名字即の凡夫本仏として、三世諸仏の出世の根源である本因下種の妙法を直ちに修行し覚道された姿であり、真の事の一念三千の法体なのです。

 ですから、『寿量品』の文上に説かれる久遠五百塵点劫成仏の釈尊は、本果脱益の仏と言い、久遠元初・本因下種の本仏から見れば垂迹化他の仏であり、劣るのです。

 大聖人は『三世諸仏総勘文抄』・『当体義抄』・『三大秘法抄』に、必ず「当初」の二字を用いて、五百塵点劫の久遠と、久遠元初の本地の相違を明確に示されています。

 また脱益の教主は、本已有善の機情に髄順する故に、常に色相荘厳の尊形の姿をもって化導します。これを本果妙の仏と言います。これに対して下種の教主は、『総勘文抄』等に示されるように、久遠元初に名字即の凡夫のまま即座に悟りを開いた仏であり、本未有善の衆生を利益する時も、此の凡身の姿そのままをもって教化します。これを本因妙の仏と言います。

 故に、末法の本未有善の衆生を利益する能説の教主は、外用は上行菩薩の再誕、内証は久遠元初の御本仏として末法に御出現された凡夫即極の日蓮大聖人をおいてほかにいないのです。

 これを『百六箇抄』に、

「今日蓮が修行は久遠名字の振る舞ひに介爾計りも違はざるなり」(御書 一六九五㌻)

と、久遠元初の本因下種の仏と大聖人は、その御振る舞いと名字凡夫の位において全く同じであり、同一の仏であることが明かされています。

 さらに『本因妙抄』には、「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(御書一六八〇㌻)

と、教主の相違をより明確に示されています。つまり脱益の教主とは、「寿量品」を説く久遠五百塵点劫の釈尊であり、下種の法主とは、久遠元初の本仏が衆生救済のため、末法に御出現された大聖人のことを言うのです。

 

 所説の法体の相違

 次に、法体の相違について、大聖人様は『観心本尊抄』に、

「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(御書 六五六㌻)

と、在世脱益の法体は一品二半、末法下種益の法は題目の五字と明示されています。

 つまり、熟脱の教主の説く法体は、本門文上の一品二半であり、これを文上脱益・理上の一念三千と言います。これに対して、下種の教主の法体は、『寿量品』の文底に秘沈された妙法蓮華経であり、これを文底下種・事の一念三千と言うのです。

 このことを『開目抄』には、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」(御書 五二六㌻)

と仰せです。

 この文底下種の妙法こそ、一切衆生の成仏の本種子、諸仏の能生の根源なのです。

 文上脱益の法体は、本種子である妙法より生ずる法であるから、文底下種の妙法に劣り、末法救済の法とはならないのです。

 

 衆生の機根の相違

 さらに、化導される衆生の機根によって種脱の相違を明らかにすると、インド出現の釈尊の化導を受ける衆生は、本已有善と言って、久遠の昔に既に下種を受けており、脱益の教法をもって成仏を遂げる機根です。

 これに対して、末法の衆生は、本未有善と言って、未だ下種を受けていない衆生であり、順逆二縁の差別なく、久遠元初即末法の本仏によって、直ちに本因下種の化益を受ける機根なのです。

 

 本因下種の妙法は一切法の根源

 これまで述べてきたように、釈尊の化導は、久遠元初の下種に始まり、法華経本門を脱益とし、さらに正像二千年をもってその化益を終えたのです。ですから、本未有善の衆生ばかりとなる末法にあっては、この脱益の釈尊の仏法は、何の利益もなさないものとなるのです。

 そこで釈尊は、この衆生に新たに仏種を下し救済するため、法華経『神力品』で上行菩薩に『寿量品』の文底に秘沈された本因下種の妙法を結要付嘱し、末法の弘通を託したのです。その上行菩薩の再誕として、末法に御出現されたのが大聖人であり、その本地を明かせば、久遠元初の御本仏なのです。したがって、大聖人の説かれる妙法は、『寿量品』の文底に秘沈された久遠元初本因下種の妙法であることが判ります。

 さらにこの妙法は、本来、久遠元初の自受用身即末法の御本仏大聖人御所持の大法であり、もともと脱益の釈尊のものではありません。

 脱益の法華経によって本已有善の衆生が得脱したといっても、そのための成仏の種子は、久遠元初において下種されたものですから、その根源となるのは、やはり本因下種の妙法と言えます。

  つまり、大聖人こそ、根源の仏であり、その説かれる南無妙法蓮華経の大法こそが、一切法の根源であることを明かし、これ以外に、私たちが成仏する法はないことを教示されたのが種脱相対なのです。

 他門日蓮宗各派は、不相伝の故に、あくまでも文上本果脱益の釈尊に執着し、 この種脱相対の法門を理解することができません。 大聖人門下を自称すれども、自らその資格を失っているのが現実の姿です。

 唯一、日蓮正宗にのみ、大聖人の真実の教えが伝わっていることを、改めて確認していくことが大事です。

 

 

 

 

 

 


結要付嘱

2022年06月12日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成28年11月16日(第945号)

       【教学基礎講座】23

        結 要 付 嘱

     ー 上行所伝の妙法五字 ー

 

 付嘱とは

 

 前回までは、

権実相対して法華経が釈尊の出世の本懐であることが明かされたこと、

さらに

本迹相対して本門『寿量品』に久遠実成が明かされて真の一念三千が開示されたことを

述べました。

今回は法華経の付嘱について述べます。

 

 付嘱とは、相承、相伝と同義で、

仏(師匠)が弟子に法を伝授して、法の伝持、守護、弘宣を託すことです。

 法華経の経文に説かれた付嘱には、付嘱された法が真実であると説かれていて、

この付嘱に背いて勝手な法義を立てることは邪義となり、仏法の壊乱を来たします。

 ですから、仏法においては常に付嘱を重視します。

それは、正法をもって未来の衆生を救済する仏の慈悲の現われなのです。

 

 総別の付嘱

 

 釈尊は『寿量品』の説法によって、在世の衆生を得脱せしめ、

残る有縁の衆生に対しても正法時代・像法時代の二千年の間に

その熟脱の利益を行きわたらせたので、釈尊の化導は一応完結しました。

 さらに釈尊は、滅後末法のために法華経『神力品第二十一』で、

「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、(中略)要を以て之を言わば、

如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、

如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」(法華経五一三)

と、

あらゆる教法の功徳が込められた妙法蓮華経の五字を四句に要約して説かれ、

上行菩薩等の地涌の菩薩に付嘱されました。

 これを別付嘱と言い、結要付嘱とも本尊付嘱とも言います。

 

 さらに次の『嘱累品第二十二』では、迹化他方を含む一切の菩薩に対して、

「爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って、大神力を現じたもう。

右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、(中略)今以て汝等に付嘱す」(法華経 五一八㌻)

と、

総じて法華経に属する一切の教法を付嘱されました。これを総付嘱と言います。

 ただし、迹化の諸菩薩は滅後末法の弘通を誓願しましたが、

釈尊はこれを許さず、正像二千年における応分の法の弘通を付嘱されたに過ぎません。

 以上のように、

総別の付嘱からみれば、『神力品』の結要付嘱(別付嘱)によって、

上行菩薩が末法に出現されて、妙法蓮華経の大法を弘通されるという次第が明らかとなります。

 

 上行菩薩と結要付嘱

 

 末法に御出現の日蓮大聖人は、

法華経を一字一句、御身の振る舞いの上に読まれ(身読)、

釈尊の法華経が真実の仏法であることを証明されました。

 それは取りも直さず、大聖人は付嘱の上から上行菩薩の再誕であり、

大聖人の弘通された妙法五字も単なる経典の題目ではなく、

結要付嘱をもって付嘱された寿量文底の要法(上行所伝の妙法)であることの証明にもなるのです。

 故に大聖人は『観心本尊抄』に、

「所詮迹化・他方の大菩薩に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。

末法の初めは謗法の国にして悪機なる故に之を止めて、

地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て

閻浮の衆生に授与せしめたまふ」(御書 六五七㌻)

と明確に示され、

妙法弘通の御自身が、外用においては上行菩薩であることを御教示されています。

 また、付嘱の意義をさらに深く拝すれば、

結要付嘱の妙法五字は釈尊の手から上行菩薩の所有に移っていることが判ります。

 このことは、『御義口伝』に、

「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ず。

既に此の品の時上行菩薩に付嘱し玉ふ故なり」(御書 一七八三㌻)

と宣示されています。

 

 三大秘法と結要付嘱

 

 ところで、

法華経『寿量品第十六』では、

釈尊が久遠の昔に成道(久遠実成)したことが明かされますが、

その成道の本因となる根本の法が、経文の上に明確には示されていません。

 それについて、大聖人は『開目抄』に、

 「一念三千の法門は但法華経の本文寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」(御書 五二六㌻)

と仰せられ、また『本因妙抄』に、

「文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、

直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(御書 一六八四㌻)

と、その根本の法について明示されています。

 すなわち、

『寿量品』の文底に秘沈された妙法蓮華経こそが、

釈尊をはじめ諸仏の本因となる本法であり、それが上行菩薩に付嘱された法体なのです。

 さらに大聖人に『三大秘法稟承事』に、

「問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。

答ふ(中略)実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」

(御書 一五九三㌻)

と仰せられ、

四句の要法とは釈尊が本因妙の修行をされた三大秘法であることを明かされています。

 以上のように、

法華経の肝要として結要付嘱された四句の要法は、

末法御出現の日蓮大聖人によって文底秘沈の大法、三大秘法として顕わされたのです。

 

 御本仏所持の大法

 

 先に述べたように、

『神力品』の結要付嘱によって、

既に上行菩薩が釈尊より妙法五字を譲り与えられたという意義からみれば、

その妙法五字は御本仏大聖人所持の大法であると拝せます。

 すなわち

大聖人は、

外用の上からは結要付嘱を受けられた上行菩薩の再誕と称されますが、

内証深秘の上からは本法を所持される久遠元初の自受用報身如来の再誕であり、

末法有縁の御本仏に在すのです。

 『曽谷殿御返事』に、

「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、

余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし」(御書一〇三九㌻)

と仰せの如く、

末法の衆生は根源の師たる御本仏大聖人に随順して下種を受けなければ、

三界六道の苦悩に沈んでしまうことを銘記すべきです。

 末法の衆生は、

釈尊の法華経ではなく、大聖人所顕の三大秘法総在の大御本尊によって成仏できるのです。

 

 

 

 

 

 


本迹相対

2022年06月11日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成28年10月16日(第943号)

       【教学基礎講座】22

        本 迹 相 対

     ー 始成と久成・教理と仏身 ー

 

 前回(本紙九四一号)の権実相対では、

大乗の中でも法華経(実教)が勝れ、爾前経(権教)が劣る故に、

成仏直道の法門として法華経の教えを選び取ることを述べました。

今回はさらにその法華経においても、本門と迹門との相違があり、

これを相対して勝劣を分別し、迹門より本門が勝れていることを述べます。

 

 理の一念三千

 

 法華経二十八品のうち、

迹門は『序品第一』から『安楽行品第十四』までの前半部分を言い、

内容の中心は『方便品第二』です。

 ここで説かれる重要なことは、諸法実相と二乗作仏です。

これによって、爾前経に二乗不作仏と説かれていた大きな欠点を解決し、

他経には見られない

十界互具・百界千如・一念三千の法門が説き表わされるのです。

 この一念三千の一念とは、一刹那(瞬間)の心という意味です。

三千とは、十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩の九界と仏界)

が互いに具有(十界互具)し合って百界となり、この百界がそれぞれ

十如(相・性・体・力・因・縁・果・報・本末究境等の十如是)を具えて千如となり、

さらにこの千如が三種(五陰・衆生・国土)世間にわたって表われていることから、

三千の意義が成立します。

 すなわち、

一瞬の心の動きの中に、三千という一切法が具わっているというのが、一念三千の法門です。

 

 迹門の失

 

 しかし、迹門で説かれた一念三千の法門には、本無今有・有名無実の失があります。

 釈尊は初めて本門『寿量品』で、

これまでの始成正覚(十九歳で出家し、三十歳で初めて仏に成った)という

仮の立場を発って久遠実成(久遠の昔に成った)の本地を顕しました。

これを発迹顕本と言いますが、迹門では未だ発迹顕本されていないので、

この一念三千は本無今有であり有名無実となります。

 つまり、

迹門は諸法実相(理)の上から一念三千を説くので「今有」ですが、

久遠実成(本仏の常住)が説き明かされていないので「本無」となります。

 また

迹門に、二乗・悪人・女人等も成仏できると説かれていますが、

釈尊を成道せしめた根源の種子(本法)が明かされていないため、

仏の始成正覚に執着し、久遠の本因本果を知らないのです。

ですから、

迹門の一念三千は、成仏という「名」はあっても「実」がなく「有名無実」です。

 したがって、

この一念の法門は、あたかも水中の月、波の上の根無し草のようなもので、

本門の久遠実成を明かす法門には遠く及びません。

 

 本門『寿量品』の三妙合論

 本門は、『従地涌出品第十五』から『普賢菩薩勧発品第二十八』までを言い、

『寿量品第十六』が中心となります。

 本門で重要なことは、釈尊が『寿量品』で久遠実成を明かしたということです。

これは、久遠成道の因果と、その化導の国土を明かすことによって、

仏身に具わる一念三千を、釈尊の現実の身の上に説き顕したものです。

このことを三妙合論とも言います。これによって成仏の根源が明らかになるのです。

 そこで本因・本果・本国土の三妙を経文を挙げて示します。

本因妙ー「我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」

本果妙ー「我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他劫」

本国土妙ー「我常在此。娑婆世界。説法教化」

 

 本因妙とは、

五百塵点劫の仏果を成ずるための修行を示したものですが、

これは仏の境界に具わる九界の常住を明かしています。

 本果妙とは、

始成正覚としてきた釈尊の仮の姿を打ち破って、

五百塵点劫の久遠の本地を示し、これに即して仏の常住を明かしています。

これによって

爾前権経に説かれた、阿弥陀如来・大日如来等の仏は、久遠の釈尊の垂迹化他の仏であり、

『寿量品』の釈尊の一身に、すべての諸仏が統一されたのです。

 本国土妙とは、仏の住する国土を明かしています。

これまで仏の住処は十方浄土であり、この娑婆世界は穢土であると説かれていましたが、

『寿量品』で初めて、久遠実成の本仏の本国土がこの娑婆世界であることが説かれ、

一切の仏土が統一されたのです。

 このように本門『寿量品』の説法によって、迹門の教理、つまり

成仏の因果はことごとく打ち破られ、真の一念三千の法門が成立するのです。

 これを大聖人様は『開目抄』に、

「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。

四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。

爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕はす。

此即ち本因本果の法門なり。

九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、

真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(御書 五三六㌻)

と、本門の勝れていることを示されています。

 この三妙合論によって、

釈尊在世の衆生は、久遠の昔に下種された本種子を思い出し、

深い信心をもって一体となり成仏を遂げるのです。

これをもって、

久遠以来の下種結縁による衆生への釈尊の化導は、完結するのです。

 

 迹面本裏と本面迹裏

 

 このように迹門と本門とでは、天と地、水と火の如き大きな違いがあります。

 像法時代の天台大師は、本門の重要性を知っていましたが、

時と機根に合わせて法華経の迹門を面とし本門を裏として、

迹門の教えを中心に一念三千を説きました。このような天台の立場を迹面本裏と言います。

 これに対して、

末法御出現の大聖人は、一往、本門を面とし迹門を裏とする本面迹裏の立場をとられています。

 しかし、その真意は、

熟脱の法である文上教相上の本門・迹門を共に迹とし、

寿量文底独一の本因下種本門こそ真の本門とされるものです。

 

     ◇     ◇

 

 以上、

法華経の本迹二門の勝劣を述べてましたが、

本迹相対で示される本門の一念三千といえども、

大聖人の独一本門から見れば、本迹共に理の一念三千となり劣るのです。

 それ故、

私たちの成仏のためには、

大聖人の種脱相対によって示される、事の一念三千を選び取ることが肝要なのです。

 

     ◇     ◇

 

『治病大小権実違目』日蓮大聖人御真蹟 中山法華経寺蔵

「法華経に又二経あり。所謂迹門と本門となり。

 本迹の相違は水火・天地の違目なり」(御書 一二三六㌻)

 

大聖人様は、本迹の相違について天地雲泥の差があると仰せである。

しかし

その御真意は、熟脱の法である法華経文上の本迹は共に迹門であり、

文底独一の本因下種本門こそ真の本門であると仰せられている

 

 

 

 

 

 

 


権実相対

2022年06月09日 | 教学基礎講座(二)

    「大白法」 平成28年9月16日(第941号)

       【教学基礎講座】21

        権 実 相 対

      ー 四十余年未顕真実 ー

 

 釈尊の教説を総合的に判釈する方法に、「大小相対」と「権実相対」があります。

小乗経より大乗経の方が勝れていることは、先に述べましたが(本誌九一九号)、

その大乗経に権と実があり、

権とは、仮の教えを施すことであり、実とは仏の真実の教えということです。

これは天台大師が三種の教相の中で示された判釈ですが、

大聖人はこれを依用され、『開目抄』に、

 「但し仏教に入って五十余年の経々、八万法蔵を勘へたるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり(中略)但し法華経計り教主釈尊の正言なり。三世十方の諸仏の真言なり」(御書 五二六㌻)

と示されるように、

五重相対判の中で、法華経と爾前経を比較して、その勝劣を明かし、

権実雑乱した当時の仏教界を破折されています。

 そこで今回は、

法華経に説かれる教えと、爾前経で説かれる教えの違いについて述べます。

 

 約部奪釈の円

 

 まず第一の違いは、

法華経で説かれる円理と、爾前経の円理との相違が挙げられます。

 仏の出世の本懐は、

声聞・縁覚・菩薩の三乗を、等しく一仏乗に帰せしめることにあります。

すなわち、三乗それぞれが機根の相違によって、同じ教えを聞いても、

受け取る内容に違いがあれば、真実の成仏にはなりません。それ故、

その機根を調えるために、仏は種々の方便をもって、

真実の教えを聞くに耐えられるまでの状態にしました。

それが、爾前経の中で説かれる方便の教えです。

 「四教」の中でも詳しく説明しましたが(本紙九二五号)、

天台大師は五時八教判の中で、

法華経とそれ以前の諸大乗経との内容の相違を、詳しく明かしています。

 それによりますと、五時のうち、

初めに説かれた華厳経には、

別教と円教の教理を兼ねたもの〈兼〉が説かれています。

 第二時の阿含経は円教は説かれず、

ただ小乗・蔵教のみの教えを説いたもの〈但〉です。

 第三時の方等経には、

小乗と大乗の相違を明らかに説き、

小乗に執着するものを厳しく叱る(弾呵)ことを説き、

それに蔵・通・別の三教と円教とを比較、

対説したもの〈対〉が説かれています。

 第四時の般若経は淘汰の教えと言われ、

円教に通・別二教を帯びたもの〈帯〉が説かれています。

 これらに対して、

法華経では『方便品』において、

十如是を説いて諸法実相・三諦円融の法理〈純〉を説き明かしています。

これこそ蔵・通・別の方便を一切含まない、純円一実の教えであり、

森羅万象すべてのものの真実の相を明確に示したものと言えます。

 爾前の円にも与えて肯定的に円融相即が説かれているので、

法華・爾前同一の円とするのが約教与釈であり、

反対に爾前の円は方便を兼帯していることから円の本義がなく、

法華のみ純円独妙として見るのが約部奪釈です。

 

 二乗作仏を明かす

 

 第二番目の違いは、

二乗の成仏が説かれているか否かということです。

 三諦円融の理を天台大師は一念三千の法理によって示しましたが、

この三千とは何をもとに説き出されたものかと言えば、

華厳経の十界・法華経の十如是・大智度論の三世間によってものです。

十界各々互いに相具して百界となり、

その各界に十如是を具えて千如是を具えて千如是、

さらに三世間を具えて三千世間となり、一念三千の数量が定まります。

 華厳経には、十界の名称が説かれてはいますが、

声聞・縁覚の二乗の成仏が約束されなければ、十界互具が成り立ちません。

華厳経ばかりでなく、法華経以前の諸大乗経には、

すべて二乗の成仏は説かれていないのです。

 しかし、

法華経迹門に至って、具足の通として初めて具体的に、

末来に二乗が成仏する記別を説き明かしました。これによって

十界の生命ことごとく成仏する実義が顕われ、仏界と九界が互いに融じて、

十界互具・百界千如・一念三千の法相が成り立ちます。

 ですから、華厳・大論は死の法門、法華の十如是は活の法門とも言われるように、

十如是、二乗作仏が説き明かされ、法華経の円融具足に基づく開会によって、

初めて華厳の教理や、大論の法理が衆生救済の原理として活かされるのです。

 

 久遠実成を明かす

 

 第三番目の相違は、仏の始成正覚と久遠実成という点です。

これは本迹相対の法門として論じられることでもあります。

 法華経以前の諸大乗経は、

すべて十九出家、三十成道の、いわゆる始成正覚の釈尊の説法です。

仏の寿命が永遠でなければ、私たちの成道も無常のものとなります。

そこで法華経本門『寿量品』において釈尊は、

久遠五百塵点劫の本地を顕わし、仏の寿命が永遠なることを示したのです。

これによって一念三千の法理が、過去・現在・未来の三世に亘る、

時間的永遠性の上に現証をもって証明されたのです。

 例えば、大日経で説く「我一切本初」などは、

法華経に顕された法身・報身・応身の三身具足の仏などではなく、

単なる法身という、宇宙本来のありのままの理体仏に過ぎません。

これには、衆生を教化する智慧(報身)もなければ、

その力用(応身)も具わっていません。それを、大日経にも法華経で説く

久遠実成の法門があるとするのは、善無畏をはじめとする真言諸師が、

法華経の義を盗み入れた邪説に過ぎないのです。

法華経『寿量品』の五百塵点劫の開顕は、

久遠の昔から、三身相即の仏の常住を明かしているもので、

爾前権経には全く見られなかったことです。

 

      ◇    ◇

 

 以上のように、

法華経が他の一切の諸経に勝れている所以は、

天台大師が余すところなく説き示し、妙楽大師がさらにそれを祥釈し、

大聖人も『開目抄』に、

「華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給へり。此等の経々に二つの失あり。一には『行布を存するが故に仍未だ権を開かず』と、迹門の一念三千をかくせり。二には『始成を言ふが故に曽て未だ迹を発せず』と、本門の久遠をかくせり」(御書 五三五㌻)

と示されているように、

本迹相対、種脱相対の序説としてこれを用いられました。

しかしこの相対判で示される一念三千の法門は、あくまでも理の法門です。

私たちの成仏は、大聖人の種脱相対によって明かされる、

事の一念三千の法門によってのみ可能となるのです。

 

      ◇    ◇

 

      五重相対の図

 

     ①内道   ーーー  外道    =   内外相対  

     ②大乗   ーーー  小乗    =   大小相対

     ③実大乗  ーーー  権大乗   =   権実相対

     ④本門   ーーー  迹門    =   本迹相対

     ⑤文底下種 ーーー  文上脱益  =   種脱相対 

 

   

 

     


三種九部の法華経

2022年06月08日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成28年7月16日(第937号)

   【教学基礎講座】20

  三種九部の法華経  

ー 末法流布の妙法蓮華経 ー

 三種九部の法華経とは、文義意・種熟脱・広略要の三種類、九つの内容に法華経を判別されたものを言います。

 日蓮大聖人は、この三種九部の判別の上から、末法流布の法華経は意・種・要の法華経であるとされて、法華経の真意を説き明かされています。

 文義意の法華経

 文義意の語は、一般に広く用いられていますが、文とは文面、義とはその文の意味、意とは文義によって顕される主旨のことです。

 文義意の法華経についていえば、文とは一部八卷の法華経の文字、義とは迹門と本門の教理、意とは妙法蓮華経の五字のことです。

 通常は文に従って、その意味を理解し、その上で文の主旨(意)を弁えることになりますが、仏法における文義意の法華経に関しては、通常の場合とは全く逆の順序を踏まなければなりません。

 これは、法華経の心は凡夫のうかがい知ることのできない、唯仏与仏の悟りであり、末法の凡夫には御本仏の所作・体験の上にしかそれを拝する手立てがないからです。そのために意の法華経を根本とするのです。

 大聖人は『四信五品抄』に、

 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、唯一部の意ならくのみ」(御書一一一四㌻)

 また『曽谷入道殿御返事』に、

 「此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず、義にあらず、一経の心なりと釈せられて候」(御書一一八八㌻)

と仰せです。

すなわち、文義よりも意の法華経を根本とする理由は、文義意の法華経の中では意の法華経たる妙法蓮華経の五字こそが、一代仏教の功徳が具わる仏の心(意)そのものだからです。

 意の法華経を離れては法華経(仏)の心を求めることはできず、末法の衆生の成仏は不可能なのです。

 逆に大聖人の意の法華経より立ち返って、釈尊、天台の文・義の法華経を拝するとき、法華経の真意が明らかになるのです。

 種熟脱の法華経

 種熟脱とは、仏が衆生を成仏へと導く経過を、稲などの穀物が生育していく過程に譬えたものです。

  大聖人は『曽谷殿御返事』に、

  「法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり」(御書一〇四〇㌻)

 と説かれています。

 つまり、仏が植え手となって成仏の種子を衆生の心田に植えることを下種と言います。

  さらに熟とは、下種された成仏の種子が芽生え生育するのを助けて、それを次第に熟させていくことです。

 最後の脱とは、種子が成長して熟し切ったところで、穀物の実りを収穫させること、すなわち得脱(悟りを得ること)させることです。

 そもそも仏法では、因果を踏まえた種熟脱の三益があって初めて真実の利益があるのです。法華経は、この種熟脱の法門を、一切経の中で初めて明確に説いたのです。

 ところが法華経以外の諸経には、どの仏によって成仏の種子が植えられ、その種子がどのように調熟され、脱せられるかという、仏の化導の過程が明かされていないのです。

 ところが法華経以外の諸経には、どの仏によって成仏の種子が植えられ、その種子がどのように調熟され、脱せられるかという、仏の化導の過程が明かされていないのです。

 諸経の教えがいかに甚深であると称しても、この種熟脱が説かれていなければ、衆生にとっては無益、無縁の教えであると断ずることができます。

 大聖人は『秋元御書』に、

    「種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」

     (御書一四四七㌻)

と説かれ、あらゆる仏は、妙法蓮華経の五字を種子として仏になることができたと仰せです。衆生はもとより、諸仏も下種の妙法蓮華経を成仏の種子としているのです。

 広・略・要の法華経

 広・略・要については、法体と修行の面、あるいは法華経の不嘱の面において御書に種々の御教示があります。

 法華経について言えば、広は一部八卷の法華経、略は『方便品』・『寿量品』の両品、要は『寿量品』の文底に秘沈された妙法蓮華経の五字のことです。

 大聖人は『法華取要抄』に、

    「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(御書 七三六㌻)

と説かれるように、大聖人は要の法華経を所持して末法に御出現なされたのです。

 釈尊在世・正法時代の衆生は、広く法華経を受持・読・誦・解説・書写するという、五種の妙行を行じました。

 また像法時代の天台大師は略して『方便品』・『寿量品』を重んじて、自らは毎日、法華経の題目も唱えましたが、それを人々のためには説きませんでした。それは第一に、釈尊からの不嘱がなかったからです。

 釈尊は、法華経の会座に居並ぶ弟子たちの誰にも許されなかった末法の弘教と肝要の法門の建立を、地涌の上首・上行菩薩に託されたのです。

 釈尊の滅後二千年を経過すると、釈尊有縁の衆生は次第に少なくなり、やがて成仏のための種子が全くない荒凡夫のみの末法の時代となります。

 この末法の時代に、衆生を救済することができるのは、本法を所持された上行菩薩の再誕・末法の御本仏日蓮大聖人以外にはおられません。

 末法の衆生は、大聖人の御化導に随って、広略の法華経を捨てて、正しい肝要の法華経を受持することにより成仏できるのです。

       ◇     ◇

 以上の三種九部の法華経は、それぞれの異なった立場から、御本仏大聖人の末法出現を明かし、さらには三大秘法の建立を指し示しています。

 すなわち末法流布の法華経は、大聖人の所持された意・種・要の妙法蓮華経の五字であり、成仏のための修行とその功徳の一切は、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊に納まるのです。

 私たち末法の衆生は、この大御本尊を受持することにより、必ず即身成仏できるのです。

 

 

 


開三顕一

2022年06月07日 | 教学基礎講座(二)

 「大白法」 平成28年6月16日(第935号)

  【教学基礎講座】19

    開 三 顕 一  

一 切衆生皆成仏道の教え ー  

 

 開三顕一とは

 開三顕一とは、読んで字の如く「三を開いて一を顕わす」ことであり、法華以前の声聞・縁覚・菩薩の三乗の教  えを開き、一仏乗の真実の教えを顕わし出すことを言います。

 釈尊はインドに出現し、三十歳に菩提樹下で悟りを開いてより、華厳・阿含・方等・般若等の教えを四十二年にわたり説かれ、最後の八カ年に法華涅槃の教えを説かれましたが、最後の説法である法華経を説くに当たって、法華部の開経である無量義経に、

 「種々に法を説くこと、方便力を持てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三㌻)

と説かれ、さらに法華経『方便品』には、

 「世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたもうべし」(法華経九三㌻)

 「唯一乗の法のみ有り 二無く亦三無し」(法華経一一〇㌻)

等と仰せられて、法華以前の四十余年の爾前経における三乗の教えは方便の仮の教えであり、これから説く法華経の一仏乗の教えこそが真実の教えであると宣示されています。

 釈尊の本懐

 なぜ法華経が真実の教えであるかと言いますと、法華経に初めて一切衆生の成仏の道が示されたからなのです。釈尊は『方便品』の中に自身の出世の本懐について、

 「我本誓願を立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき 

 我が昔の所願の如き 今者已に満足しぬ」(法華経一一一㌻)

と示されました。つまり釈尊は昔より一切衆生の成仏を願われてきましたが、現在この法華経を説くことによって、二乗をはじめとする一切衆生がおしなべて成仏できるのだから、自分の所願は既に満足したのだと仰せになったのです。

 そして、その願いは三世十方の諸仏の共通の願いでもあったのです。

『方便品』には、

 「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」(法華経 一〇一㌻)

と説かれています。つまり三世十方の諸仏はただ一つの重大な因縁・目的をもって、この世に出現したのであり、その唯一の重大な因縁・目的とは、一切衆生が持っている仏の知見(智慧)を開き示し悟らせ、その道に入らしめるため、つまり一切衆生を皆、真の成仏に導くためだったと説かれたのです。これを四仏知見(開・示・悟・入)と言います。

 四一開会

 この四仏知見は、仏の智慧の一切を挙げて法華経に帰一させたのであり、一仏乗の法華経以外には別に仏の智慧はないことを明示されていますから、これを「理一開会」と言います。つまりすべてのものを一つの妙法の円理の中に開会したのです。なお開会とは、開顕会融・開顕会帰の略称のことで、方便の教えを開くことによって真実の教えを顕わす共に、方便の教えを真実の教えの中に融合し会入し帰一することを言います。

 次に釈尊は、「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」(法華経 一〇二㌻)

と説き、「人一開会」を示されました。これは、四十余年の方便の諸経においては、声聞・縁覚・菩薩というように人々を差別的に区別して教化しましたが、法華経においてはこのような差別を取り払って、一切衆生すべてを皆平等に法華円教の菩薩、つまり真の仏の子として一仏乗の教えに帰一されたのです。

 さらに釈尊は、

 「諸の所作有るは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て、衆生に示悟したまわんとなり」(法華経 一〇二㌻)

と「行一開会」を示されました。これは、仏知見を体得する直道には一仏乗の修行のみがあって、三乗等の方便の諸行がないことを言います。

 次に釈尊は、

 「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」

 (法華経一〇三)

と説いて「教一開会」を示しました。これは、仏の教えは声聞・縁覚・の二乗やこれに菩薩を加えた三乗等の教えでは本来なく、ただ一乗の妙法であることを示し、諸乗を法華経に開会したことを言うのです。

 このように理・人・行・教にわたって一乗に開会したことを「四一開会」というのです。

 施開廃の三義

 中国の天台大師は、この開会を説明するために施開廃の三義を立てました。この施開廃の三義とは、為実施権・開権顕実・廃権立実のことを言います。

 為実施権とは実のために権を施すことで、実教である法華経を説くために、四十二年間権教の爾前諸経を説いて衆生の機根を調えられたのであり、あくもでも権教は実教のための方便であることを言います。

 次に開権顕実とは、権の教えを開いて真実の教えを顕すことであり、廃権立実とは権を廃して実を立てるのであり、実教を説き明かした以上、もはや権教は廃亡してなくなり、実教のほかに立てる法がないことを言います。

 法華経と権の教えである爾前経との関係は、施開廃の三義をもって説明できます。また、すべての権の教えが真実の法華経に収まっていく姿は、あたかも幾多の河川が一つの大海に収まることに譬えられます。

 日蓮大聖人は『上野殿母尼御前御返事』に、

  「たとえば大塔をくみ候には先づ材木より外に足代と申して多くの小木を集め、一丈二丈計りゆひあげ候なり。かくゆひあげて、材木を以て大塔をくみあげ候ひつれば、返って足代を切り捨て大塔は候なり。足代と申すは一切経なり、大塔と申すは法華経なり。仏一切経を説き給ひし事は法華経を説かせ給はんための足代なり。(中略)大塔をくまんがためには足代大切なれども、大塔をくみあげぬれば足代を切り落とすなり。正直捨方便と申す文の心是なり。足代より塔は出来して候へども、塔を捨てゝ足代ををがむ人なし」(御書一五〇九)

と、大塔と足代の譬えをもって、法華経と一切経の関係について説明されています。

 

       ◇     ◇

 

 開三顕一は、法華経迹門の教説の中心で、爾前経に絶えて説かれなっかた釈尊の随自意の説法であり、その説相には略開三顕一と広開三顕一があります。

 略開三顕一は、まさにただ仏と仏のみしか判らないもので、それは『方便品』の十如実相によって顕わされた理の一念三千の法門です。

 この法理は、続く広開三顕一の三周の説法(法説周・譬説周・因縁説周)によって明かされ、永不成仏とされた二乗の作仏へと実際に繋がるのです。その初めの法説の中で説かれたのが、五仏同道における四仏知見であり、四一開会です。

 これにより上根の舎利弗が未来成仏の記別を受け、その後、譬説・因縁説によって中・下根に二乗の成仏が説き明かされるのです。

 しかしながら、この開三顕一・理の一念三千の法門もまた迹門の分域であり、本門の事の一念三千の法門からすれば一重劣っています。大聖人は『開目抄』に、

 「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」(法華経 五三六)

と仰せられているように、本門の教えが説かれて初めて一切衆生成仏の原理である一念三千の法門も確立するのであり、開三顕一の法門も生かされてくるのです。

 

 

 

 

 


唯一真実の教法 下

2022年06月06日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成28年5月16日(第933号)

    【教学基礎講座】18

        法 華 経  

 ー 唯一真実の教法 ー  下

   法華経本門と三益

 

 法華経の特長②

  本門の特長

  ー 久遠実成(開近顕遠) ー

 釈尊は爾前経や法華経迹門において、今から三千年前にインドで誕生し、十九歳で出家、三十歳で初めて成仏したという「始成正覚」の立場で法を説かれましたが、

 法華経本門においては『寿量品第十六』に、

 「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」 (法華経四二九㌻)

と説かれているように、久遠五百塵点劫という昔に既に成道していたとする釈尊の本地(仏の真実の境地)を明かされました。これを「久遠実成」と言い、久遠実成が明かされる法門を「開近顕遠」(近を開いて遠を顕わす)と言います。

 釈尊は、久遠実成の具体的な内容を『寿量品』において、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙をもって明かされました。

 まず、久遠実成の本果について、

  「我成仏して已来、甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祗劫なり。常住にして滅せず」

  (法華経四三三)

と、釈尊が仏果を成じたのは久遠の昔であると明かされ、さらにその仏の寿命は不滅常住であると示されています。

 そして成道の本因について、

  「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」

   (法華経四三三)

と、久遠の過去における菩薩道の実践にあったことを明かされます。さらに、

  「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(法華経四三一)

と、この娑婆世界こそが常住の仏である釈尊の本国土であり、常にこの娑婆世界にあって衆生を教化してきたことを説かれています。すなわち、一切の仏は久遠以来常住の本仏に統一されると共に、一切の国土も本地本仏の住まわれる娑婆世界として説かれました。そして、九界の一切衆生も、本有常住の仏と同体の存在であることが説き明かされたのです。これによって事実の上に一念三千の法門が成立し、衆生の成仏が現実のものとなったのです。

 法華経の特長③

  法華経の付嘱

    ー別不嘱と総不嘱ー

 釈尊は、自身の滅後における妙法弘通のため、法華経において二つの付嘱を明らかにされました。

 付嘱とは相承・相伝と同義で、仏(師匠)が弟子に法を授けて、その法の伝持と弘宣を託すことです。

 法華経の付嘱は、『如来神力品第二十一』の別付嘱と『嘱累品第二十二』の総付嘱で、

 その起こりは『宝塔品第十一』から始まります。釈尊が『宝塔品』で仏滅後の弘経を勧められたことに対し、

 『勧持品十三』では、二乗は娑婆世界以外の国土での弘経を誓願し、迹化の菩薩は此土の弘経を誓願します。また『涌出品第十五』では、他方の国土の菩薩も弘経を誓願しました。しかし、釈尊はそれらを退け、上行等の本化地涌の菩薩を召し出だしました。そして、『如来寿量品第十六』で久遠の本地を明かされた後、『如来神力品第二十一』において、

 「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」(法華経五一三)

と、法華経の肝要である妙法蓮華経の大法を「四句の要法」に括って、上行等の地涌の菩薩に付嘱されたのです。この付嘱を「結要付嘱」と言い、本化地涌の菩薩だけに限ってなされたので「別付嘱」と言います。

 次いで釈尊は、本化・迹化無量の菩薩に、法華経乃至一切の経々を分に応じて弘通するよう総じて付嘱されました。これを「総付嘱」と言います。

 つまり釈尊は、迹化の諸菩薩には正・像二千年における法華経弘通を付嘱したのみで、滅後末法の弘通は許されなかったのです。したがって、末法においては、「別付嘱」を受けた上行菩薩が出現して法華経の要法たる南無妙法蓮華経の五字七字を弘通されるのです。

 熟脱と下種

 釈尊の説かれた法華経は、仏法の種熟脱の三益に約せば、迹門は熟益、本門は脱益の法華経です。

  大聖人が『秋元御書』に、

 「種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」

  (御書一四四七)

と仰せられ、また『上野殿御返事』に、

 「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」

 (御書一二一九)

と仰せのように、末法の衆生の成仏のために、本因下種の法華経、

すなわち寿量文底の南無妙法蓮華経を受持信行し、弘めていくことが肝要です。

 

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 法華経の構成

  一部八卷二十八品『無量義経』一巻、

  『観普賢菩薩行法経』一巻を加えて法華三部経または法華経十卷

  『序品第一』から『安楽行品第十四』を迹門と言う。

  『従地湧出品第十五』から『普賢菩薩観発品第二十八』を本門と言う。

 

 法華経の特長

 ①迹門・・・爾前経では成仏できないとされてきた声聞・縁覚の二乗に対し、

       成仏の記別が与えられた(二乗作仏)。

       二乗作仏を中心として一切の九界の衆生が成仏できることが明かされ、

       理論の上に一念三千の法門が確立された。

 ②本門・・・釈尊が久遠五百塵点劫に既に成道していたという本地を明かされる(久遠実成)。

       事実の上に一念三千の法門が明かされ、衆生の成仏が現実のものとなった。

 

 種熟脱の三益

  衆生を得脱させるための化導の始終(順序)として、

  下種益・熟益・脱益が示されている。

  爾前権経には説かれない法華経のみの重要な法門。

  下種益は、仏が衆生の心田に仏種を下すこと。

  熟益は、仏種を成長させて機根を調熟させること。

  脱益は、仏種が実を結び衆生が得脱して仏の境界に至ること。

 

 法華経の付嘱

 ・別付嘱『神力品第二十一』

   法華経の肝要を「四句の要法」に括り地涌の菩薩に付嘱された。

   この付嘱を「結要付嘱」と言い、本化地涌の菩薩だけに特別になされた。

 ・総付嘱『嘱累品第二十二』

   本化・迹化の無量の菩薩に総じて付嘱された。ただし釈尊は、

   迹化の諸菩薩には正・像二千年の法華経弘通を付嘱されたのみで、

   滅後末法の弘通は許されなかった。