⑩日蓮正宗要義 改訂版からの転載
第一章 日蓮大聖人の教義
第一節 五綱
第一項 教
第一目 五重の相対
(五)種脱相対
種脱相対とは、まさに下種益の法仏の法体と、脱益の法仏との相対であり、それはそのまま末法下種の機と、在世脱益の機との相対の意を含む。大聖人の出世の本懐、上行所顕の法門はまさにここに存する。不相伝の諸門流は、このような相対に耳目を驚(きょう)動(どう)し、いまだに異論喧(けん)囂(ごう)としているが、これら異見我流の批判にかかわらず、種脱における法仏の相対は、まさに大聖人独自の正義であることに、いささかも変わりはないのである。
種脱相対とは、観心本尊抄の
「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」 (新編六五六)
の文、並びに開目抄の
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(新編 五二六)
の文による。日顕上人は前掲開目抄の「但」の字は一字であるが、 下の三句に冠するものと指南された。すなわち、一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経であり、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法の意である。
これが三大秘伝であり、第一重は権実相対、第二重は本迹相対、第三重は種脱相対に当たるのである。
総じて日興上人以外の門流においては、文上の法体のほかに文底の法体を認めない。 開目抄によって文底の語は使用されるが、文上久遠の釈尊の法体を顕わす一品二半に対し、それをそのまま束ねたものとして、上行菩薩の唱導による末法の衆生の題目観心をそれに当てているのがほとんどである。法体に当てはめれば、 文上即文底論を主張する。
そのため種脱の相違を在世と末法の機根に約して考えており、 法体はこの機に応じて、券(けん)(題目の五字)と舒(じょ)(一品二半)の相の異なりはあっても、その実体は在世独顕の本仏釈尊、本法妙法であって、在未の異なりはないとする。券(けん)舒(じょ)の法体は、体異にあらず相異であって、種脱はあくまで在末の機の違いによるというのである。これは大聖人の化導の本義を滅し、御書の意に背く本末転倒の見解である。
種脱の違いは、開目抄・ 観心本尊抄とも、在末の二機に対する相違のみではなく、文体明らかに種脱の体異を示されるものである。まず第一にいえることは、五重相対・五重三段中の第四重までは、ともに従浅至深・捨劣得勝して教法・教主、いわゆる法仏の体異を明らかにしているから、第五の相対・第五の三段のみを相の異なりとすることは、まことに辻褄が合わない。
第二には結要付嘱の筋目である。およそ大聖人が上行菩薩の後身として出現せられたことは、何人も認めざるをえないところである。しかし、この上行菩薩としての出現の自覚と、それにより当然決定される法義の筋道については、各派とも存外に無関心か、あるいはあえて掘り下げを好まない。
大聖人の法門は、霊山会上の契約により、上行菩薩が付嘱の本法である妙法を胸中に持って末法に出現せられ、法華経の予証をことごとく身に当てて行ぜられ、付嘱の妙法と行者の絶大威力を顕わされることがその一つである。
そこで右付嘱の筋道を明確にして、法門の起尽を定めなければならない。霊山虚空会の結要付嘱により、末法弘通の妙法は既に釈尊の手から離れ、上行菩薩の手中に存している。またこの妙法は一代仏教の根幹であり、それを包摂するから、 この妙法が上行菩薩の所有ということは、取りも直さず一切の仏教が上行菩薩の権能の中にあるということである。既に上行菩薩に付嘱せられた後の釈尊は、末法の化導に何ら具体的な関係を持たれていないことを知るべきである。
次に第三として、末法出現の妙法蓮華経が本果の釈尊仏法との対比において、本因の位置と体の異を顕わし、もって末法弘通の大法の全貌を示すところに、上行所伝の法門の鋼格があることを知らなければならない。種脱相対こそ大聖人の法門であって、経旨の本迹論までは、天台大師の助言に過ぎないのである。
この種脱相対は、在世と末法の体同益異を示すものではなく、観心本尊抄の第四の三段の正宗一品二半と第五の三段の正宗一品二半とは名同義異にして、第五の三段の正宗一品二半と下種流通の正体たる題目の五字とは名異義同であり、在世と末法は種脱の意義の異なる所以を判釈されたのである。下種の法と仏に対する脱益の法と仏の異なりは、第五の法門三段と第四の法門三段にあり、その内容において文底と文上、名字凡夫と色相荘厳、本因妙と本果妙、久遠元初と迹中化他、観心直(じき)達(だつ)と理上法相、因果一念と因果並常等の義異が存する。また益異としては下種正益と脱益正益、凡夫即極即身成仏と初住ないし等覚である。すなわち第四の三段の正宗一品二半が文上の義を顕わすのに対し、第五の三段の正宗一品二半は文底の義を詮(あき)らめている。これが「我が内証の寿量品」といわれる所以であり、本果迹中化他の仏身でなく、本因久遠元初を所詮とするのである。
これを明らめることが種脱相対の内容である。大聖人は佐渡以降において、その法義と宗旨の化導的展開をますます充足なされることによって、末法万年に流通する大法の正体を確立されたのである。
観心本尊抄の種と脱についての文も、また開目抄の文底秘沈の文も、大聖人が総括して仰せられたものであり、その包蔵する本因名字の大仏法の深義内容は、その後種々な面より教示されるところである。この重の法門が大聖人の諸御書における久遠の法体を示される重要な文に明らかに拝取され、誰人も虚心担懐に法義を談ずるならば首背せざるをえないのである。
各御書(総勘文抄・当体義抄・三大秘法抄等)に久遠の本地を示されるについて、必ず「当初」の二字を用いられていることもその明証の一つである。この当初の二字は、単なる衍(えん)字(じ)ではない。衍字とするには、重大な文に必ず使われているといわなければならない。当初とは、まさに久遠元初を示されるものであり、総勘文抄によれば、凡夫即極をもって仏法の根源とし、その位妙は本因名字を志向されることが明らかである。天台大師の「本迹約身約位」(玄下 二八二)の決判を軽々に看過してはならない。
更に大聖人より日興上人への御相伝の本因妙抄に
「一代応仏のい(域)きをひかえたる方は、理の上の法相なれば、一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を、脱益の文の上と申すなり。文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(新編一六八四)
と説かれるところは、入室体信の弟子に相承された法門であるから、その教示は更に明確であり、これまた各御書の文と軌を一にする。
寿量文底の妙法とは、応仏釈尊の脱益の本門寿量品、つまり色相をもって荘厳する仏の化導の領域ではなく、本因名字の位において証するところの妙法の直達正観であり、真の事の一念三千、即身成仏の法なのである。下種の仏法とは本因名字の妙法であることを明らかにするのが種脱相対である。釈尊や三世十方の諸仏が成仏の根本の種子として尊崇されるのは、妙法五字である。ところが妙法には体・宗・用(ゆう)の三章を具えるから、人格的主体が具わる。その人格は妙法を所有される方であり、取りも直さず末法出現の日蓮大聖人である。これこそ本因妙抄の
「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(新編一六八〇)
の元意、その他開目抄の主師親三徳の開示によるものであり、法と仏に種と脱の別のあることが明らかである。また末法の衆生は下種の仏により、根本の仏乗種を植えられて、凡夫身に即身成仏をなすところの下種の利益であり、在世の脱益の相と明らかに異なっている。我々末代の凡夫が三十二相身皆金色の釈尊と等しくなることは、できるはずもないことであり、凾(かん)蓋(がい)不相応というほかはない。下種の機には下種の教主こそふさわしく、凡夫成仏の目的に合致するのである。もって種脱相対の法門が肝要な所以である。