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種脱相対

2022年12月29日 | 日蓮正宗要義(一)

⑩日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

  第一目 五重の相対

              (五)種脱相対

 種脱相対とは、まさに下種益の法仏の法体と、脱益の法仏との相対であり、それはそのまま末法下種の機と、在世脱益の機との相対の意を含む。大聖人の出世の本懐、上行所顕の法門はまさにここに存する。不相伝の諸門流は、このような相対に耳目を驚(きょう)動(どう)し、いまだに異論喧(けん)囂(ごう)としているが、これら異見我流の批判にかかわらず、種脱における法仏の相対は、まさに大聖人独自の正義であることに、いささかも変わりはないのである。

 種脱相対とは、観心本尊抄の

 「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」 (新編六五六)

の文、並びに開目抄の

 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(新編 五二六)

の文による。日顕上人は前掲開目抄の「但」の字は一字であるが、 下の三句に冠するものと指南された。すなわち、一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経であり、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法の意である。

 これが三大秘伝であり、第一重は権実相対、第二重は本迹相対、第三重は種脱相対に当たるのである。

 総じて日興上人以外の門流においては、文上の法体のほかに文底の法体を認めない。 開目抄によって文底の語は使用されるが、文上久遠の釈尊の法体を顕わす一品二半に対し、それをそのまま束ねたものとして、上行菩薩の唱導による末法の衆生の題目観心をそれに当てているのがほとんどである。法体に当てはめれば、 文上即文底論を主張する。

 そのため種脱の相違を在世と末法の機根に約して考えており、 法体はこの機に応じて、券(けん)(題目の五字)と舒(じょ)(一品二半)の相の異なりはあっても、その実体は在世独顕の本仏釈尊、本法妙法であって、在未の異なりはないとする。券(けん)舒(じょ)の法体は、体異にあらず相異であって、種脱はあくまで在末の機の違いによるというのである。これは大聖人の化導の本義を滅し、御書の意に背く本末転倒の見解である。

 種脱の違いは、開目抄・ 観心本尊抄とも、在末の二機に対する相違のみではなく、文体明らかに種脱の体異を示されるものである。まず第一にいえることは、五重相対・五重三段中の第四重までは、ともに従浅至深・捨劣得勝して教法・教主、いわゆる法仏の体異を明らかにしているから、第五の相対・第五の三段のみを相の異なりとすることは、まことに辻褄が合わない。

 第二には結要付嘱の筋目である。およそ大聖人が上行菩薩の後身として出現せられたことは、何人も認めざるをえないところである。しかし、この上行菩薩としての出現の自覚と、それにより当然決定される法義の筋道については、各派とも存外に無関心か、あるいはあえて掘り下げを好まない。

 大聖人の法門は、霊山会上の契約により、上行菩薩が付嘱の本法である妙法を胸中に持って末法に出現せられ、法華経の予証をことごとく身に当てて行ぜられ、付嘱の妙法と行者の絶大威力を顕わされることがその一つである。

 そこで右付嘱の筋道を明確にして、法門の起尽を定めなければならない。霊山虚空会の結要付嘱により、末法弘通の妙法は既に釈尊の手から離れ、上行菩薩の手中に存している。またこの妙法は一代仏教の根幹であり、それを包摂するから、 この妙法が上行菩薩の所有ということは、取りも直さず一切の仏教が上行菩薩の権能の中にあるということである。既に上行菩薩に付嘱せられた後の釈尊は、末法の化導に何ら具体的な関係を持たれていないことを知るべきである。

 次に第三として、末法出現の妙法蓮華経が本果の釈尊仏法との対比において、本因の位置と体の異を顕わし、もって末法弘通の大法の全貌を示すところに、上行所伝の法門の鋼格があることを知らなければならない。種脱相対こそ大聖人の法門であって、経旨の本迹論までは、天台大師の助言に過ぎないのである。

 この種脱相対は、在世と末法の体同益異を示すものではなく、観心本尊抄の第四の三段の正宗一品二半と第五の三段の正宗一品二半とは名同義異にして、第五の三段の正宗一品二半と下種流通の正体たる題目の五字とは名異義同であり、在世と末法は種脱の意義の異なる所以を判釈されたのである。下種の法と仏に対する脱益の法と仏の異なりは、第五の法門三段と第四の法門三段にあり、その内容において文底と文上、名字凡夫と色相荘厳、本因妙と本果妙、久遠元初と迹中化他、観心直(じき)達(だつ)と理上法相、因果一念と因果並常等の義異が存する。また益異としては下種正益と脱益正益、凡夫即極即身成仏と初住ないし等覚である。すなわち第四の三段の正宗一品二半が文上の義を顕わすのに対し、第五の三段の正宗一品二半は文底の義を詮(あき)らめている。これが「我が内証の寿量品」といわれる所以であり、本果迹中化他の仏身でなく、本因久遠元初を所詮とするのである。

 これを明らめることが種脱相対の内容である。大聖人は佐渡以降において、その法義と宗旨の化導的展開をますます充足なされることによって、末法万年に流通する大法の正体を確立されたのである。

 観心本尊抄の種と脱についての文も、また開目抄の文底秘沈の文も、大聖人が総括して仰せられたものであり、その包蔵する本因名字の大仏法の深義内容は、その後種々な面より教示されるところである。この重の法門が大聖人の諸御書における久遠の法体を示される重要な文に明らかに拝取され、誰人も虚心担懐に法義を談ずるならば首背せざるをえないのである。

 各御書(総勘文抄・当体義抄・三大秘法抄等)に久遠の本地を示されるについて、必ず「当初」の二字を用いられていることもその明証の一つである。この当初の二字は、単なる衍(えん)字(じ)ではない。衍字とするには、重大な文に必ず使われているといわなければならない。当初とは、まさに久遠元初を示されるものであり、総勘文抄によれば、凡夫即極をもって仏法の根源とし、その位妙は本因名字を志向されることが明らかである。天台大師の「本迹約身約位」(玄下 二八二)の決判を軽々に看過してはならない。

 更に大聖人より日興上人への御相伝の本因妙抄に

 「一代応仏のい(域)きをひかえたる方は、理の上の法相なれば、一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を、脱益の文の上と申すなり。文底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(新編一六八四)

と説かれるところは、入室体信の弟子に相承された法門であるから、その教示は更に明確であり、これまた各御書の文と軌を一にする。

 寿量文底の妙法とは、応仏釈尊の脱益の本門寿量品、つまり色相をもって荘厳する仏の化導の領域ではなく、本因名字の位において証するところの妙法の直達正観であり、真の事の一念三千、即身成仏の法なのである。下種の仏法とは本因名字の妙法であることを明らかにするのが種脱相対である。釈尊や三世十方の諸仏が成仏の根本の種子として尊崇されるのは、妙法五字である。ところが妙法には体・宗・用(ゆう)の三章を具えるから、人格的主体が具わる。その人格は妙法を所有される方であり、取りも直さず末法出現の日蓮大聖人である。これこそ本因妙抄の

 「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(新編一六八〇)

の元意、その他開目抄の主師親三徳の開示によるものであり、法と仏に種と脱の別のあることが明らかである。また末法の衆生は下種の仏により、根本の仏乗種を植えられて、凡夫身に即身成仏をなすところの下種の利益であり、在世の脱益の相と明らかに異なっている。我々末代の凡夫が三十二相身皆金色の釈尊と等しくなることは、できるはずもないことであり、凾(かん)蓋(がい)不相応というほかはない。下種の機には下種の教主こそふさわしく、凡夫成仏の目的に合致するのである。もって種脱相対の法門が肝要な所以である。

 

 

 

 

 


(四)本迹相対

2022年11月19日 | 日蓮正宗要義(一)

⑨日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

  第一目 五重の相対

              (四)本迹相対

 

 本迹相対とは、釈尊の法華経二十八品のうち、 涌出品・寿量品に説き明かされる久遠実成の教説と、迹門前十四品ないし爾前経の始成正覚の教説との勝劣・相違を表わす法門である。すなわち釈尊一代の化導における本門と迹門の相対をいうのである。

 法華経二十八品のうち、前十四品は伽耶において始めて正覚を成じた仏の所説であるから迹門といい、後十四品は発迹顕本して久遠の本地を顕わされた仏の所説であるから本門という。

 迹門方便品において諸法実相を説き、更に正宗八品に法・譬・因の三周の説法を設けて、爾前四十余年に永不成仏と嫌われた二乗の授記作仏が説示せられた。授記を受けた諸声聞は歓喜踊躍して、清浄な九界即仏界の道果を信受享楽したことが経文に説かれている。

 ここに爾前経の二乗不作仏・始成正覚の二失のうち、一失を免れることになったが、その十界互具・百界千如の融通の悟りは根本の証明論拠を欠くため、まことの一念三千の法とならず、したがって二乗の作仏ということも名のみあって真義に到達できない。

 一念三千は、二乗作仏によって詮顕される理法であり、二乗作仏はよく一念三千の法を詮顕するところの実義である。しかるに迹門の一念三千と二乗作仏はそれぞれ本無今有と有名無実の二失を存するのである。一念三千の二失をいうならば、諸法実相を説き、そのうえに一念三千が論ぜられるゆえに今有であるが、仏の顕本がなく、久遠本有の法が示されないから本無である。また開目抄に

 「まことの一念三千もあらわれず」(新編五三六)

と説かれるのは、そのまま有名無実を示されるものである。

 次に二乗作仏の二失とは、 迹門においては、いまだ仏と成るための根本の種子である久遠の当初の妙法を覚知していないから本無であり、しかも劫・国・名号の作仏授記を受けるゆえに今有である。また迹門の二乗は、釈尊を伽耶始成の仏と信ずるが、その所信を愛着する点は思惑であり、久遠の本因本果を知ることがない邪見は見惑に当たる。このように、いまだ見思二惑をも断尽していないから、根本無明の惑を断尽することはありえない。したがって作仏とはいっても、有名無実である。

 以上能栓の二乗作仏と、所詮の一念三千の二義ともに、迹門には本無今有と有名無実の二失のあることが明らかである。次に開目抄には、本門教相上の発迹顕本について、本迹の相違を述べるに

 「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果やぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕はす。此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(新編 五三六)

と述べられている。この文は、破迹顕本の表現によって示されているが、顕本の義としては廃迹顕本・開迹顕本・会迹顕本等、十重の顕本の意義も当然具わるのである。

 涌出品・寿量品の開顕により、所化の伽耶始成の仏身に関する執着は、徹底して打ち破られた。このことは今まで爾前・迹門で説いてきたところの蔵・通・円のそれぞれの教主、三蔵劣応身・通教勝応身・別教他受用身・円教法身の仏に対する観念を根底から覆し去ったわけである。したがって仏果が虚妄となったのであるから、その仏果を得るための仏因として、四教のそれぞれに示す種々の修行も必然的に打ち破られて、泡沫に等しいものとなった。

 故にこの四教をもって薬味とし、四十余年間化導してきたところの爾前・迹門の経々における、九界の因も仏界の果もまた当然、打ち破られることになる。

 華厳経の毘盧遮那報身仏、小乗の劣応身、方等・般若の四種・三種の仏身、法華迹門の応即法身仏、三世十方分身仏、その他各宗の各経典を根拠として談ずる無量の仏身等は、すべてそのもとの教主の涅槃とともに滅尽する無常の仏であり仏土である。

 これらの仏因仏果が、すべて寿量顕本によって打ち破られて、本仏の絶大威力をもって、本門の十界常住が説き出されたのである。この本因本果の法門に文上と文底の二意が存する。

 文上の本因本果とは、印度応現の釈尊の化導を立場とし基調として、そのところより顕わすところの常住の本因本果の実義である。寿量品に

 「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」(開結四三三)

と本因の常住を明かす文について、天台大師は法華文句九に

 「仏は円因を修して初住に登りたまふ時、已に常寿を得たまへり、常寿は尽き叵(がた)し、已に上の数に倍せり、況(いわ)んや復果をや」(文下 六四一)

と述べている。この能化に約する本因常住の意を探るとき、その所領の意は一切九界の無始常住を示されたものといえる。また

 「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり(中略)常住にして滅せず」(開結四三三)

 と示される本果の常住を文底体内の文上の意より見れば、無始の仏界の開顕となる。しかし、右両文の中心となる「我」とは、印度応現の釈尊であり、その釈尊の立場より時間的な常住において、 本因妙と本果妙をともに示されるところを、 文上における久遠の妙法の宗旨とする。ここに諸経の仏身が統一されて、大日・阿弥陀等も釈迦仏の分身であることが確立したのである。

 霊山一会の大衆は、仏の本果常住を聞いて無始以来の自己と本仏との常住の因縁を悟り、仏の本因常住を聞いて、本仏と因を等しくする常住の身であることを知る。「脱は現に在リと雖も具(つぶ)さに本種を騰(あ)ぐ」(記上  七一)の意である。

 このように無始の九界即仏界、十界互具の観心をもって、本有の三因仏性を開発し、本仏同体の我が身であることが感得される。更に一転して久遠の名字凡夫の位に立ちかえり、ただ信の一字をもって我が身こそ久遠下種の妙法当体の蓮華仏と開覚し、因果一念の不思議の悟りを証得したのである。故に釈尊の究極の化導も寿量品であり、在世の衆生の即身成仏も、本門寿量品の開顕にあったことを知らなければならない。

 このように迹門より一重立ち入って、本門の特勝を示すものが本迹相対の法門である。かの涌出品における弥勒等の動執生疑(どうしゅうしょうぎ)は、まさに本迹の懸隔(けんかく)にただならないものがあることを示しており、この相違を観心本尊抄に

 「所説の法門も亦天地の如し」(新編  六五五)

と決せられている。

 次に文底の本因本果との関係について一言する。経文の上の本迹の相違は印度応現の釈尊を基点とするが、もし久遠の本より望むときは迹門の化導中における本迹の相対にすぎない。前掲開目抄の文の本因本果を一往釈尊中心に示されるのは、久遠より迹を垂れた化導において、その迹を発(はら)って本を顕わすためである。それは要するに迹の中の本迹の次元であり、これを文上といい、経旨本迹という。これに対し、久遠元初本因名字の当体当相に本地本極の因果一念に即する三千を顕わすのが文底の立場であり、末法上行菩薩の宗旨における本迹である。故に先の開目抄の文は、一往文上・再往文底に約す意味を持っている。ともかく在世本門の開顕は、伽耶始成の迹を発(はら)い釈尊の久遠常住を示すことをもって、垂迹化他あるいは名字不同の諸仏を統一し、十界常住のうえに国土世間の円融を開き、草木国土悉皆成仏の義を述べて、真の一念三千が顕わされた。仏の化導は、在世の衆生が久遠の種子を覚知し、即身成仏の妙果を得たことによって、完了したのである。

 したがって釈尊の化導中の法華経に前後を分かつときは、迹門前十四品より涌出品・寿量品が一重勝れた意味を持つ。これを末法の化導における順序として右の本迹の勝劣を表わされるのが、日蓮大聖人の五重相対の中、本迹相対の法門である。 

 

 

 

 

 

 


(三)権実相対

2022年11月09日 | 日蓮正宗要義(一)

⑧日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

  第一目 五重の相対

(三)権実相対

 権とは仮の施設で、実とは真実ということである。仏教における権実の理念は種々の内容にわたって多岐であるが、権実相対という場合の権実は、大小相対と同様、釈尊の教説を二筋に分かつ、最も基本的な教法の筋目を示すために用いられるのである。

 四教に当てはめれば、権とは蔵・通・別の三教であり、実とは円教である。また五時・五味等の経部に当てはめれば、権とは爾前四十余年の諸経であり、実とは後八箇年に説かれた法華経をいうのである。大聖人の権実の法門は約部、すなわち爾前経と法華経の間に、方便と真実、勝と劣を立て分けるのを権実相対という。

 御書においてこの法義に触れるところは多いが、これは大聖人独自の法門ではなく、それ自体としては天台・伝教の助言である。権実雑乱していた当時の宗教界の情況に対しては、上行所伝の妙法を弘通される破邪の対象として、随時に権実の筋目を正されたのである。開目抄には、

 「但し仏教に入って五十余年の経々、八万法蔵を勘へたるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり(中略)但し法華経計り教主釈尊の正言なり。三世十方の諸仏の真言なり」(新編 五三五)

と示されるところ、一念三千のうえから勝劣・浅深を決せられている。右文の行布とは行列排布の意である。浅深隔歴の法を前後に排布して修行することで、華厳経の菩薩の長い劫(時間)を経る修行と位が、次第に浅いところより深い境界に至りつつ、前後各々隔てがあることをいうのである。今は通じて爾前諸経の教理がいずれも声聞・縁覚・菩薩の三乗を差別する義に適用せられ、諸経が一念三千を覆い隠すことを示されている。法華経の内容において、よく一念三千の意義を顕わし、明らかにする法門は何かといえば、二乗作仏と久遠実成である。諸大乗経には種々の深い理を説いているが、二乗作仏と久遠実成の義門だけは絶えて説かれていない。これを説くのは、一代経中にただ法華経あるのみである。

 このように、法華経の一代に超過する所以は、中国に出現した天台大師が光闡し、更に六祖妙楽大師が縦横に扶釈して余すところがない。止観弘決に

 「遍く法華已前の諸教を尋ぬるに、実に二乗作仏の文及び如来の久成を明かすの説無し」(弘下ー本ー一八八)と明示するところである。しかるに、法相宗においては五性各別を立て、定性の独覚と声聞及び無性有情は永久に成仏不能であるとする。また華厳宗・三論宗・真言宗においては、一切衆生皆当作仏を主張するが、その根元の依経である華厳経・般若経・大日経等の経々に二乗作仏を欠いている。単に円融の理は説くが、二乗の不作仏を救うに足りる明らかな証拠は見当たらない。二乗が作仏しなければ十界互具の義を欠き、したがって二乗の心を具えているところの一切衆生の成仏は决定することができない。法華経にこそ、明らかに二乗が未来の世に成仏する授記を説き、仏の慈悲の究境円満を示している。永不成仏と决定していた二乗すらなお成仏するのであるから、まして菩薩・凡夫などの九界に衆生が成仏することは当然である。

 すなわち、法華経において九界に即する仏界の実義が顕われ、九界と仏界が融じて十界互具・百界千如・一念三千の法門が円満するのである。

 また爾前の諸経には、仏の久遠実成の教説を隠蔽している。大日経に説く「我一切本初」とは、法華経に顕わされた法身・報身・応身の三身具足の仏ではなく、単に法身という宇宙法界本来の、ありのままの理体仏に過ぎない。大日経に法華経のような久遠実成の法門があるというのは、善無畏を根本とする真言各師の誑惑に過ぎないのです。

 これに対し、法華経寿量品は、久遠の古より三身具足する仏の実在を顕わしており、その勝劣はおのずから明らかである。大日経のみならず、華厳経その他の爾前の諸経に、このような三身円満の仏はまったく顕わされていない。この二つの筋目よりして、四十余年の権教に一念三千の義はなく、したがって一切衆生の成仏の種子としての三因仏性(正因・了因・縁因)が説かれていない。また一念三千をよく詮顕する二乗作仏・久遠実成の教説も絶えてないと断ずることができる。

 これを再言すれば、法華経は個々のすべての生命に、あらゆる善悪と無限の幸・不幸の可能性とが、徹底して具わっていることを明示する教えである。

 この原理を知らず迷っているときは凡夫であるが、これを確信して、この根本原理のうえに我が身を適切に対処する方法に身を委ねれば、いかなる人も幸せになり、法華経で説く成仏ができるのである。法華経はすべての個性に成仏の、つまり最大幸福の道を開いたところに大きな意義がある。これを迹門では諸法実相といい、また生命論的には十界互具というのである。諸経における人身論中の最高究竟を示したものが、法華経の迹門といえるのである。

 しかしこの原理は、よくこれを証得し、実践した仏がなければ、それ自体が完全な実在の理として顕われず、また宗教的な救済においても不完全であって真実の徹底がない。そこで法華経本門には、仏がこの世にうまれてから修行をして、三十の時に仏に成ったと強く執われている所化大衆の認識を打ち破り、久遠の修因感果の仏であることを示されたことにより、円融・一切皆成、十界互具・一念三千の原理がまことの実在として顕われた。換言すれば、仏の三身の永遠の実在により、一切衆生の個性の永遠性とその身に具わる成仏の種子が開覚され、宗教的な救済が徹底したのである。

 更に本門の仏の境界は、ただ個性的な存在のみでなく、草木国土も仏の体内の存在として、宇宙法界全体が仏の功徳体であることが明らかとなる。もっともその所有の中心実体に本果と本因があり、法華経では本果の釈尊に具わる所以を示している。ここに一代諸経中に絶えてない最高の仏身論が存する。

 大聖人はこの記小と久成の法門こそ一代経の綱骨であると、天台の法義を助言せられたのである。

 

 

 

 

 

 


(二)大小相対

2022年11月03日 | 日蓮正宗要義(一)

⑦日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

  第一目 五重の相対

              (二)大小相対

 

   大は大乗、小は小乗であるが、普通、小乗とは、小根性の声聞・縁覚の人を運ぶための法門で、乗とは運載を義とする。修するところの教・理・行・果も、これを修する人の機もともに小劣であることをいう。これに対し、大乗とは小乗に対する言葉で、大根性の人の乗る法門である。大とは広大を意味し、菩薩を運んで菩提の彼岸に到達させる、自利・利他の法門を指すのである。

 大小の名義に関する大聖人の教示の中には、小乗三蔵経と諸大乗経との勝劣、あるいは倶舎等の小乗宗と大乗宗の相対を示される文のほかに、五重の相対のそれぞれの所対に大小の名を当てはめて用いられる文である。前者が通途の大小相対であり、後者は大小の名を通じて五重の各相対に当てられるのである。例えば、文底下種三段の文に、「一品二半よりの外は小乗教」(観心本尊抄・新編六五五)と仰せのごとくである。通途の大小相対は、むしろ御書の文としては少なく、あまり小乗対破を示されていない。これは既に印度における大小乗の交替の時代に概ね解決した問題であり、更に、中国・日本においてもこれを踏襲再破して、既に解決済みの問題であること、また当時は念仏・真言・禅等の権大乗の仏法が隆盛を誇っており、律を主張する者もその思想は厳密な小乗でなく、大小兼学的のものがあった。したがって、法義上、厳密な立場で大小相対に主点を置かれる必要があまりなかったものと思われる。

 故に小乗大乗分別抄、あるいは小乗小仏要文等に示される小乗の語は、それぞれの所対における外道・小乗・権大乗・法華迹門、あるいは文上本迹二門であって、広義に用いられていることを一言にしておく。その中に本来の大小相対の意も当然含まれているが、大小の名義に関する大聖人の使用は、 むしろ後者にあることが拝せられる。

  厳密な大小乗の勝劣に関しては、教機時国抄の中に

 「阿含経を小乗と説く事は方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり。 法華経には『一向に小乗を説きて法華経を説かざれば仏慳貪に堕すべし』と説きたまふ」(新編二七〇)

と示されるに過ぎない。 また小乗大乗分別抄では、それぞれ五重の所対のうえから、小乗・大乗を論ぜられる第二重において

 「仏教に入っても鹿苑十二年の説、四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して、小乗経と名づけたり」(新編七〇四)

 とのわずかに四十数字の説示を見るのみである。小乗小仏要文(新編四五八)では、華厳・阿含・方等・般若・無量義経・迹門十四品・薬王品以下の六品、普賢経と涅槃経を小乗とされており、 ただ本門八品のみを除いてあることは、それをもって大乗に当てられるものであろう。 本門の立場からの判釈であり、末法為正のうえから、付嘱の始終(八品)の文をとって大乗と示されるのであるが、これを付嘱の法体に当てはめれば、観心本尊抄の第五重の三段における正宗分・下種の一品二半、すなわち題目の五字に帰するものである。故に要文の大小の説示は、その実際の意味においては権実・本迹・種脱の相対に当てられている。

  故に開目抄の五重の相対の文段について、大小相対の文を挙げて一科とする者も多いが、これに対して日寛上人が、権実・権迹の二科とし、大小を省かれたわけは、むしろこの辺にあろうかと思われる。

 その他、釈尊一代五時継図等では阿含経をもって小乗教とし、説処は波羅奈国鹿野苑、内容は経律論の三蔵、説示は十二年間、 機は三乗の根性に対する漸機の中の誘引であり、宗としては倶舎・成実・律の三宗と示されている。

  経律論の三蔵とは、経は四阿含経、律は四分律・摩訶僧祗律・五分律等、論は六足論・発智論・大毘婆娑論等である。

  要するに大小の対立は、釈尊の滅後、その教えの伝習について、進歩的態度をとった大衆部と、保守的態度をとった上座部とに分かれたが、この進歩・保守の二派が更に二十部派までに分裂した。これは釈尊の入滅を転機として、教団の維持と存続の必要から、教法や律法について、文字どおりに解釈して伝統を重んずる者と、文字に拘泥(こうでい)せず、教律の信意を把握し、その精神を顕わそうとする者とが相対立し、前者は上座部となり、後者は大衆部となったのである。 この対立の中から次第に両者を止揚した思想的立場において、釈尊の正法と真意を顕彰しようとする思想が醞醸(うんじょう)され、 次第に大きな位置を占めるようになった。それが自らを大乗仏教と称し、それ以前の上座部系の仏教を指して小乗と呼ぶ形として現われてきたのである。

  小乗の上座部が保守的、伝統的、形式的、客観的であるのに対し、大衆部は進歩的、創造的、実質的、主観的な立場の相違があった。 しかるに大衆部は、大乗仏教の母胎となり、大乗興起の後は大部分、その中へ包括されたのである。故に根本仏教としての釈尊の教義が定まってより、上座部・大衆部の対立を経て興った大乗仏教は、まさにその総合の位置にあったといえる。 すなわち根本仏教より部派仏教へ移行するに従い、次第に上座部系統では、仏教以外の思想見解があった万有実有論・心不浄説等のごとき非仏教的見解を持つに至ったが、このような部派仏教そのものの中から反省し、進んで部仏陀の根本仏教へ復帰しようとする人々が現れた。それが大衆部から大乗運動を興した人々である。故に大乗仏教は従来の仏教に対し、新しい要素を加えて新たに生まれ出たわけではなく、部派仏教が自ら反省し、仏陀の教法である縁起論への復帰を志願したところに、新しい教学が興ったというべきである。

 換言すれば、仏教を単に教理として、伝承維持する態度が大乗的であり、これに対し仏教を自らの解脱の道として実践する態度が大乗的といえるのである。 菩薩の行、成仏の道もこれを客観的に眺めるのでなく、自らの実践の立場より見るとき、三世実有法体恒有の客観的実有観より相資相依の関係による縁起説をとることとなる。

つまり、上座部系統においては、一切の現象は各別の実体が存するという実有説を採るが、このような考え自体、仏陀の根本的思想と相違する。 上座部の註釈的・分析的な教法解明の方法による結果、いつとなく外道の哲学的思惟を採用して、その立場から仏教を理解し組織するに至った。故に根本仏教より大乗仏教に至るまでの、思想の全体を概観して正閏を論ずるとき、上座部系統はむしろ傍流で、大衆部こそ正流ということができる。その立場から止揚された大乗もしかりであって、むしろ大乗こそ仏陀の根本精神を伝えつつ民衆救済の実践に邁進したのである。

  したがって大乗非仏説のごときは、表面の相のみを見た軽率な判断といわざるをえないのである。

  また釈尊の説かれた四阿含の小乗経典は、幾多の因縁・譬喩を交えてその明かすところも広漠の感があるが、趣意とするところは四諦・十二因縁・八正道等を示し、これを空諦無漏の理念により説いている。 しかしいまだ大乗における当体即空の観念に及ばず、仮有建立を所具として中道実相を明かす三諦円融観には、遠く隔たる偏真の空理である。

  現実問題として考えるとき、小乗の苦と不浄と無常・無我の哲理をいかに習得しても、その人生観・世界観からは、 個人的な諦観と心の安らぎはあっても、人々とともにあらゆる困難を乗り越えて、三世にわたる真の幸福を切り開き、力強い生命を獲得していく教えを見出だすことはできない。 また今日の複雑な世界を指導し救済する大乗的理念が包蔵されていないことは明らかである。小乗教としての教理や行法に、現代における日本民族ないし世界民衆の繁栄と平和・幸福はまったく期待できないのである。

  今日は、既に至極の大乗である日蓮大聖人の仏法流布の時代に到達している。 故に昔の小乗に対する権大乗の立場ではなく、大聖人の如上の御書に示されるように、下種大乗仏教の立場から、いまだ釈尊仏教の小乗に迷う東洋諸国の人々をも、その見解を止揚せしめ、真の教法による幸福の道へ教導すべきである。

 

 

 

 

 


(一)内外相対

2022年10月21日 | 日蓮正宗要義(一)

日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

 第一目 五重の相対

   (一)内外相対

 

  第一の内外相対は、仏教と仏教外の教法の相対であって、開目抄には、儒教・ 道教と印度婆羅門の外道の教えを挙げ、仏教と相対してこれを破するとともに、開会の立場から、これらを仏教に包括されている。 広く論ずれば、有史以来の、また洋の東西を含むあらゆる宗教・哲学・道徳が摂属されることは当然であるが、 大聖人は当時、代表的な印度・中国の仏教外の哲学・宗教としての儒教・道教・婆羅門教の大要をとって、開目抄にお示しになったのである。

  まず儒教については、三皇・五帝・三王・孔子・老子等、中国古代の聖人を挙げ、その法の所詮は、周公・ 孔子の有の玄、老子の無の玄、莊子の亦有亦無の玄を出でないとされる。

  有の玄は、周易の太極説と呼ばれるもので、易経に顕著に説いてある。止観弘決に

 「太極両儀を生ずと云ふが如し。分かって天地と為り、変じて陰陽(おんみょう)と為る。故に是両儀を生ずと曰ふ(中略)八卦六爻亦陰陽变化(はっけろっこうまたおんみょうへんげ)を出でず、变化相易(かわ)りて吉凶生ず。吉凶生ずと雖も理を窮め性を尽くして以て天命に至る。故に知んぬ、即ち是有に約して玄を明かすなり」(弘下ー末 六〇一)

 というように 、太極という一気もって、宇宙万物の出生変化の根本とする。太極を積極的先天的本体として見るから、 有の玄というのである。

 老子の無の玄とは、虚融である。虚無に徹したところに一切に融通する大道があり、一切の万物はそこより生ずるというのである。つまり無意志・無目的な自然において、一切を統一する道があり、この道は虚無であるから、万物を包容し、また万物を生ずる。人間の生死は、そのまま道であり、人間は物欲を去り、無為自然にいるところにまことがあるとする。すなわち、聖人君子の智識とか、仁義等の人倫道徳とか、人生百般の巧慧・利得等の観念を捨て去ったところ、自然に道義は恢復(かいふく)し、民衆の幸福があると説くのである。このように虚無大道を根底として、消極的に道を説くので無の玄という。

 次に亦有亦無の玄とは、莊子の哲学である。老子の道を学んで更に無を徹底し、その究極するところ、道はあらゆる所に遍満し、常恒にして不変であると見た。無といい、有というも相対的であり、大道は有無を超えて、よく有にして無であると説くゆえに亦有亦無というのである。

 開目抄では、これらの聖人・賢人について

 「但現在計りしれるににたり。現在にをひて仁義を制して身をまぼり、国を安んず。此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう。此等の賢聖の人々は聖人なりといえども、過去をしらざること凡夫の背をみず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるがごとし」(新編五二四)

と仰せられて、現在一世の因果は説くが、三世の因果を知らず、六道の輪廻に暗いことを指摘されている。その人生観・世界観は、人間界に限って余界を見ず、また死後の変移も考えないから、その生命観的視野が浅く狭いのである。したがって生命の完全な相と正しい法則を示すものでなく、人々をして真の幸福に誘引することはできない。

 次に、開目抄では印度の外道について、その祖、摩醯首羅天・毘紐天の二天と、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三仙を挙げて六師外道の哲学を略示し批判せられている。

 三仙六師の外道は、摩訶止観第十に

  「一には迦毘羅外道、此には黄頭と翻ず。因中に果有りと計す。

  二には漚楼僧佉、此には休睺と翻ず。因中に果無しと計す。

  三には勒娑婆、此には苦行と翻ず。因中に亦は果有り亦は果無しと計す」(止下 七三七)

といい、また

 「仏出でたまふ時に至り、六の大師有り。所謂、富蘭那迦葉、迦葉は姓なり、不生不滅を計す。未伽梨枸賒梨子は、衆生の苦楽は因縁有ること無く、自然にして爾なりと計す。刪闍夜毘羅胝子は衆生時熟して道を得、八万劫到れば縷丸数極まると計す。阿耆多翅舎欽波羅、欽波羅は麁衣なり、罪報の苦は厳に投げ髪を抜くを以て之に代ふと計す。伽羅鳩駄迦旃延は亦有亦無を計す。尼犍陀若提子は業の所作は定んで改むべからずと計す」(止下−七三八)

と述べている。また開目抄に

「其の見の深きこと巧みなるさま、儒家にはにるべくもなし。或は過去二生・三生乃至七生八万劫を照見し、又兼ねて未来八万劫をしる。其の所説の法門の極理は、 或は因中有果、或は因中無果 、或は因中亦有果亦無果等云云。此外道の極理なり(中略)外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ」(新編 五二五)

と批判されている。前述の迦毘羅外道の因中有果説は、人生の吉凶禍福に因果を立てるのであるが、十界周遍の因果の道理に暗く、六道迷中のそれのみであり、その生命観はやはり偏狭低劣を免れない。漚楼僧佉外道の因中無果は、一切の苦楽昇沈と因果とは別であり関係ないとする自然論で、因果を否定する迷見である。勒娑婆の因中亦有果亦無果は、因果の道理が有でもあり無でもあると巧みに立てるが、それは迷中の因果を出でない。六師のある者は一切を虚空と説いて、君子・父子の忠孝の道を否定し、またある者は、因果を否定する。あるいは八万劫という、時による自然解決を説く運命論や、非因計因の修行論等である。 要するにすべての外道は三世の生死、輪廻の法則を知らず、迷いの基としての自我に対する根本的な解決がないため、正しい因果を否定する邪見となる。したがって、これら誤った生命観を歪められた人生観・世界観からは、正善の道なく、真の幸福な生命も現われてこないのである。仏教は三世を貫く因縁因果の道理を示し、自性・他性・共性・無因性のすべてを否定し、すべてを肯定する総合的見地に立ってよくこれを用いつつ、執らわれのない全体的な生命観による転迷開悟の教えを立てるのであり、真に民衆の幸福の根元を説く正法である。このように仏教は儒教・道教・婆羅門教等の宗教哲学の一切に勝れていることを明らめるのが内外相対である。

 

 

 

 

 

 


第一目 五重の相対

2022年10月08日 | 日蓮正宗要義(一)

日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

 

  第一目

   五重の相対

 五重相対とは、開目抄に示されるところで、観心本尊抄の五重三段とともに、大聖人独自の教判である。特に開目抄は、その目的として、人類が帰依すべき人格を主師親の三徳として示し、また釈尊一代の教法の浅深を決判されるところにある。これに五重の段階があって、浅きより深きへ向かって勝劣を論ずるのである。

 開目抄の説相は述の順序によれば内外・権実・種脱・権迹・本迹の各相対の順であるが、浅深の次第よりすれば内外・権実(権迹)・本迹・種脱の順となる。

 

 内外相対とは、内道すなわち仏教で、とは外道である。

          仏教仏教外の一切の教えとの相対をいう。

 権実相対とは、法華以前の四十余年の経々を方便とし、

        法華経を真実本懐として両者を相対するのである。

 権迹相対とは、爾前諸経法華迹門相対であり、

 本迹相対は、久遠実成の本門始成正覚の迹門との相対であり、

 種脱相対は、下種の法華経脱益の法華経相対である。

 

 この五重相対と、観心本尊抄の五重三段は次のように対当している。

      開目抄  観心本尊抄         開目抄の文

第一 内外相対 一代一経三段の意を用う 「此の仏陀」(新編五二六)等の下の文

第二 権実相対 法華経一経三段の意を用う「但し仏教」(新編五二六)等の下の文

第三 種脱相対 文底下種三段の意を用う 「但しこの経」(新編五二六)等の下の文

第四 権迹相対 迹門熟益三段の意を用う 「此に予愚見」(新編五二八)等の下の文

第五 本迹相対 本門脱益三段の意を用う 「二には教主釈尊」(新編五三四)等の下の文

 

 

 故に権迹相対は、迹門熟益三段の意により、迹門の二乗作仏と爾前権経の不作仏を明らめるべく、特に開目抄において判ぜられたことが拝される。また開目抄の文の次第において、浅深の順序によれば第五であるべき種脱相対が、第三に説かれているのは、日寛上人が

 「今次上の義便を受けて即ち此に之を明かすなり」(歴全五ー九五)

と判ぜられるように、前の権実相対を明かす文に、法華の真実について、釈迦・多宝・十方分身の説法と証明を述べる文があり、このような三仏の本意は、本門寿量品の文底の妙法に存するので、その文を受けて次に種脱相対が述べられたのである。右、日寛上人の文段の五重の中には、大小相対が除外されている。但し右文段の種脱相対中「広く諸宗を簡ぶ」なか、すなわち開目抄の本文では「倶舎・成実・律宗等は阿含経によれり(新編五二七㌻)」

以下に、わずかながら大小相対の意が拝される。日寛上人が大小相対を採られない理由は、一には抄全体の文相文意に準拠し、二には観心本尊抄の五重三段との対当により、三には各御書の文意が、多く大小の名目を本迹・種脱の異なりの意味に転用せられていることから、大小相対を省いて権迹を立てられたものであろう。また教機時国抄では、教綱において大小・権実の相対を述べられる半面、内外・権迹・本迹・種脱各相対の文は省略されており、化導の時期により、それぞれ隠顕のあることが判るのである。故に五重相対は、一般的な従浅至深の次第からいえば、内外・大小・権実・本迹・種脱というべきであり、開目抄の文相からは、五重三段との相望より、大小を省いて内外・権実・種脱・権迹・本迹の五重となる。

 権実相対が爾前経と法華経との相対の概要であるのに対し、権迹相対はその中の二乗作仏と不作仏に関し、釈尊在世の化導において精しく相違を判別したものということができる。これより一般的な五重相対の概略を述べよう。

 

 

 

 

 

 


序 天台教判 (三)三種の教相

2022年10月04日 | 日蓮正宗要義(一)

日蓮正宗要義 改訂版 からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

 

  序 天台教判

   (三)三種の教相

 三種の教相は天台大師が法華玄義の一巻に示すもので、一代仏教を貫いてその意義を開闡するところの教相が、法華経に三種あることを説いている。法華経が他のあらゆる経々に超えて勝れていることは、これによって明らかである。なお、教相の教とは「聖人下に被らしむるの言」、相とは「同異を分別すること」と天台大師は説いている。

 

 その第一は、「根性の融不融の相」である。法華経は根性が融の教、爾前四十余年は不融の教と立て分けるのである。

 すなわち爾前四十余年の諸経は、その内容において高低様々であるが、結局は根性が別々であり、融け合うことがない。しかしこれら爾前の経で永久に仏と成れないとされた二乗も女人も、法華経に至って仏知見を受け得る状態に到達した。このように、あらゆる衆生が仏知見を開くことはただ法華経のみであり、爾前四十余年の諸経に絶えてないところである。したがって爾前経は衆生の智慧・根性等、総じて生命に関する根本的な理解と融合がない。ここに爾前経は不融、法華は融として同異を分別し、第一の教相とする。

 

 第二は「化導の始終不始終の相」である。

 爾前四十余年の経々には、仏と衆生との化導の因縁関係が不明である。つまり、いつ仏との縁が結ばれ、どうなってきたかという問題について、始めも終わりも説かれていない。しかるに法華経の化城喩品には、三千塵点劫の住昔に、大通智勝仏が出現して法華経を説かれたが、その十六王子の沙弥が再び法華経を説いた。これを法華覆講という。この法華経の下種によって、多くの衆生が結縁したのである。これを三千塵点劫の結縁といい、今番釈尊の化導はそれに基づくものであることを示された。ここに仏と衆生との過去よりの因縁関係、すなわち化導の源が明らかとなり、仏種の結縁が明確になったのである。爾前経は化導について不始終であり、法華経は始終を明かすものと決判して同異を分かつ。この意義において第二の教相を立てるのである

 

 第三には「師弟の遠近不遠近の相」である。

 爾前経にあっては釈尊の久遠の寿命が明かされておらず、中間の燃燈仏、その他爾前経に説かれたあらゆる仏と釈尊との関係、ひいては衆生との関係も明らかでない。一切の大衆の釈尊に対する仏としての生命的認識は、インドに生まれた、十九出家・三十成道以来の仏であった。釈尊が始成正覚であるなら、十方の諸仏との関係も不明であり、また説くところの実相真如も実体のないものとなる。師の師たる所以が明らかでなく、師弟によって決する成仏の真義が確立しない。これは爾前の諸経が釈尊と弟子との、師弟の近々(過去の比較的近世)の関係をも、また遠々(過去永遠の昔)の関係をもともに顕していないからである。今、法華経の涌出品・寿量品に至って、釈尊が久遠の仏であり、三世十方の仏もその分身であることを説かれたので、師弟の近々のみならず、遠々の教化の実事が示され、衆生の本源的な開覚、すなわち久遠の下種を覚知する即身成仏の大利益がなされたのである。

 故に爾前経は、釈尊の本身並びに衆生との遠近の関係を明かさないので不遠近であり、これを説くから遠近の相が明らかである。ここに爾前・迹門は不遠近、法華本門は遠近として、第三の教相を示されるのである。

 この三種の教相の、先の二意は迹門、後の一意は本門であり、この筋目より一代の経々を見通すとき、法華経が釈尊一代五十年の経々中における出世の本懐であり、衆生成仏の要道であることが明確となる。要するに三種の教相とは、天台大師が、一代五十年の教法中における法華特勝の意義を、経文上の三面の説相より論証したものである。

 

 

 

 

 

 


序 天台教判 (二)八教

2022年09月24日 | 日蓮正宗要義(一)

日蓮正宗要義 改訂版 からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

     序  天台教判

     (二)八 教

 前項の五時判は、釈尊一代の化導に対する縦の面からの見方である。これに対し、横の面からの教法の見方として八教判がある。八教とは化儀の四教と化法の四教で、仏の化導を病人に対する医師と医薬に譬えるが、薬の調合方法としての薬方は化儀であり、薬の内容に当たる薬味は化法である。

 化法の四教とは蔵・通・別・円の四教である。

 およそ仏教における正しい真理とは空仮中の三諦であり、諦とはつまびらかな真実の理を表わす語である。衆生が様々の迷いを生じて悪道に沈むのは、煩悩という心の迷いがあって、この三諦を理解できず、これに迷うからである。

 しかるに仏の絶対の悟りというものは、四教のうちの円教であり、この円教では空と仮と中が各々切り離されたものでなく、互いに具わり合っているところに、真の理があることを示す。これを円融の三諦という(円教については後に述べる)

 この円の理は難解難入であるから、直ちに理解できない者のために、仏はこの円の内容より衆生の根力に従ってその一面一面を取り出して示される。それが方便の蔵・通・別の三教である。

 蔵とは三蔵経の意である。経・律・論の三蔵は小乗のみとは限らないが、竜樹菩薩が大智度論で、大乗に対し小乗を三蔵として論じ、天台もこの意を受け、三蔵の語をもって小乗と呼称したのである。その教理は、しばらく説一切有部(有部)によれば、欲界・色界・無色界の三界内の六道の因果を生死の業と説くとともに、この苦悩を脱却して涅槃を証する道を示すのである。衆生の個々の生命やその存在は因縁によって存するから、その実体は苦・空・無常・無我であるが、色心等の法は常住であるとして我空法有と説く。空を観ずるに当たっては、万象を分析することによってそれに達するゆえに析空といい、このような空は現実を否定する空の一偏のみであるから、但空ともいう。他の仮・中の諦理との間の融通がなく、偏真の空理と見られるのである。

 このように、諸法は因縁によって生滅すると見るのが、生滅の真理観である。

これに基づいて、

 声聞は苦・集・減・道(集は因、苦は果、すなわち迷中の因果。道は因、滅は果、すなわち悟りの因果)の四諦を修する。

 縁覚は無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死(無明・行は過去の二因、識・名色・六入・触・受は現在の五果、愛・取・有は現在の三因、生・老死は未来の二果で、すなわち三世両重の因果)の十二因縁を修し、菩薩は布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度を修する。蔵教ではつぶさに、このような修行の相とそのうえの位とが説かれている。真理を蔽い隠す我々の煩悩については、次の通教と同様、我執にありとし、その我執の内容としては空理を障礙するところの見思二惑(見惑は思想的な迷い、思惑は情欲的な迷い)のみを体として示すのである。これを欲界・色界・無色界の三界六道に執われる迷いの意味から界内の惑という。

 通教とは二つの意がある。その一は空の理が前の蔵教と所詮は同じである意味において、互いに通じているので通同といい、その二は蔵教と異なって、その空が後の高尚な別教・円教に通ずる意義があるから、通人という。この二意より通教というのである。通同は説明を要しないが、通入についてやや詳しく述べる。通教はやはり六道の因果を明かし、これを脱却するために空を説くことは蔵教と同じながら、その空は体空といい、蔵教の析空と異なる。万象を分析して、ようやく空を悟るのでなく、事物現象の当体が直ちに空であると説く。これを体空といい、当体即空というところ、その当体には、おのずから有の存在を含むことより、不但空ともいう。また有を含みながらも、幻のごとしといって幻有即空と談ずる。更にその空は蔵教の人空法有に対し、人法二空を立てるのである。通教における、このような幻有と即空の二が、やがて非有非空の中理を予想し、別教・円教等の大乗に入る初門となる。諸法の当体即空にして生滅なしという(無生滅の)真理観を基として、やはり声聞・縁覚・菩薩の三乗ともに、それぞれ四諦・十二因縁・六度の法を観じ体空の真理を悟るのが通教の教理である。

 次の別教は先の蔵通二教とも、後の円教とも別であるから別教という。前の二教と異なるところは、真理のうえで空仮中の三諦を明かし、灰身滅智(小乗の三乗は但空の修行のため身心ことごとく空無に帰すること)の者の与り知らない三界六道外(これを界外という)の因縁の相、すなわち菩薩が仏果を目指して進む長期の修行の因果を説くことである。

 また後の円教と異なるところは、三諦を同時に、また同体として照らすのでなく、初めに空諦、次に仮諦、後に中諦と次第に移りつつ修行する。つまり空を対象とするときは仮・中を知らず、仮のときは空・中なく、中に入れば仮・空の理を亡ずる。これを次第の三諦という。その中道も、空・仮の二辺を離れた但なる中であるから、但中という。次に三諦の真理を説くので我々の生命に存する迷いとしては、空理を障礙する見思二惑のほかに、仮諦を障礙する塵沙の惑(現実の因縁の相に暗い迷い)と、中道中諦を障礙する無明の惑(生命それ自体に関する根本的な迷い)を説くのである。塵沙・無明はともに六道外の境界において感ずる惑であるから、界外の惑という。

 別教は小乗の三乗を除いた大乗の菩薩のみを対象とした教えである。菩薩の意義は、衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願証という四弘誓願を起こすのであり、衆生を導くことを要旨とする。そのためには多くの衆生の個別相、因縁の相を学び、かつこれに通暁する必要がある。しかるに衆生は無量であるから、無量の四諦、つまり無量の苦・集・減・道の因縁観を基本とし、菩薩が五十一位を経て上求菩提下化衆生に励みつつ、次第に煩悩を断じ、次第に三諦の理を証するのである。以上、別教の綱格を略示した。

 最後に円教について述べる。円の意義には不縦不横、円融、円満、円妙、円足、円頓等がある。まず不縦不横についていえば、その縦とは概して時間的な表示、横とは空間的表現に通ずる。通常の我々の思考は個別的なところに存する。つまり時間的には過去と現在と未来とについて別個に考える。空間的にも、自らの生命と他の生命は明らかに異なることが認められる。このような見方も、生活上の観念としては必要である。しかしその差別的見解は一面のみの真理であり、直ちに物の本質を照らすものではない。本来、円の理とは一瞬一瞬の生命に時間・空間のすべてを含み具えている。不縦とは「縦ならず」で、縦の時間的な相違変化や無数の現われの本質は、時間のすべてを内在する現在の一瞬一念の不可思議な生命を指すのである。不横とは「横ならず」で、空間的な無数の差異や現われの本質は、やはりそのすべてを内在する一念の不思議の生命であることを述べている。

 これを空仮中についていえば、縦とは次第であり、初め空、次に仮、次に中という推移によって修行する相である。横とは差別であり、空は空、仮は仮、中は中とそれぞれ横に並びつつ、別個にして互いの関連がない形を指す。今は不縦のゆえに次第がなく、一時に空仮中を円かに具え、また不縦のゆえに差別なく、一存在を挙げれば宛然として即空・即仮・即中であり、円かに諸法を具す。これが円の不縦不横の意義である。

 円融とは、円はこのように一法に即して一切法であるから、宇宙法界の存在における、上は尊高至極の仏界より、下は最苦最悪の地獄界までのすべてが、互いに具わり融け合っていて、決して切り離された単独の存在ではない。悪も善も、仏も地獄・餓鬼・畜生も、すべて連なり合い、相資相依の存在であるという不思議の理に名づける。

 次に円満とは、右の円満の理が事々物々の主体的立場において、その意義と価値を表わすことをいう。一法を挙げれば、どのような片々区々の存在であろうと、宇宙法界の一切を具えて不増不滅であり、本来十界互具し、一念三千の覚体であることを顕わす本門的意義を持っている。円妙、円足、すべてこれに準じて考えられよう。また円頓とは仏の化導に当てはめた語で、速疾頓成を意味するのである。

 要するに、円教は円融三諦の中道を所詮とするものであり、空といえば一空一切空であって、法界すべてが空寂に帰し、仮といえば一仮一切仮で、法界の至る所に差別の相が歴々として建立し、中といえば一中一切中で、法界の個も全もことごとく中道不思議の妙体である。一即三・三即一・即空・即仮・即中で互いに障礙することなく、相待、絶待ただ不思議にして、言語道断心行所滅の当体・当相に名づける。このような中道を別教の但中に対し、不但中と称する。

 このように一法と雖も中道実相の妙体であるから、何らかの価値を特に造作する必要がない。つくろいなすべきことが、法理のうえにおいてありえないから、このような中道を無作という。この無作の観のうえに、自身や法界の苦・集・滅・道を観ずるのが中道実相観である。三乗・五乗ないし地獄より菩薩までの九法界は、この円教に入って、すべてが仏乗と開かれるのである。その修行の位は下図のごとく、八位六即が示されている。

(八位)      (六即)

             理 即

             

       |ーーー名字即

五品弟子位ーー|

       |ーーー観行即

十信ーーーーーーーーー相似即

十住ーーーーー|

十行ーーーーー|

十回向ーーーー|ーーー分真即

十地ーーーーー|

等覚ーーーーー|

妙覚ーーーーーーーーー究竟即




 次に化儀の四教を略説する。すなわち頓・漸・秘密・不定である。この四通りの投薬方法により、仏は前述の蔵・通・別・円の薬の内容を適当に調合し、加減して衆生を導かれるのである。まず頓とは誘引の手段を用いず、直ちに仏の高広の理を説く化導法である。これに対して、漸とは次第階梯の意で、下劣の機に応じて蔵・通・別等の方便を説いて、衆生の根性を調えるのである。次に秘密とは秘密不定教、不定とは顕露不定教のことである。右の両者に共通の言葉として「不定教」の名称があるが、これは同聴異聞のことである。仏の一音の説法をある者は小と聞き、ある者は大と聞く等、同聴異聞して利益の各々異なることをいう。そして顕露不定教とは、衆生が仏の説法を聞くに当たり、互いに顕露の状態であること、つまり一会の衆が皆互いに仏の法を聞くことを知りつつ、しかも仏の微妙の表現により、内容と利益を得ることが異なる教導法をいう。秘密不定教とは仏の説法の知慧や用きが、現実に空間を超えて、同座または別座十方において、各々を互いに相知らしめず、しかも一説法に対し同聴異聞して、得益に不同のあることをいうのである。要するに頓と漸は、機の相違による法の内容の違いであり、秘密と不定は、同時聴聞の衆生に対して道を増進させるため、得益や知・不知を不同ならしめる仏の教化法である。釈尊はこれらの形式をもって種々に法を説き、形声の二益を施されたのである。


序 天台教判 (一)五時

2022年09月12日 | 日蓮正宗要義(一)

②日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

 

     序  天台教判

     (一)五 時 

 五時とは釈尊一代五十余年の教法を、各経々の記事や内容により、五つの説時に区分し配列したものである。

 第一の華厳時は釈尊成道の時、摩訶陀国の大阿蘭若処及び普光明殿、更には忉利天、夜摩天、兜率天、他化自在天宮等の説処においる三七日の説法。

 第二の阿含時は波羅奈国鹿野苑における十二年間の説法。

 第三方等時は各所における十六年間(A説)、八年間(B説)時不定(C説)の説法。

 第四般若時は摩訶陀国王舎城の霊鷲山、白鷺池、他化自在天宮等の十四年間(A説)、二十二年間(B説)三十年間(C説)の説法。

 第五法華涅槃時のうち、法華経は霊鷲山における八年の説法、涅槃経は拘尸那掲羅国抜跋提河の畔り、沙羅林における一日一夜の説法である。

 天台の教判では一代を右の五時に分け、この意義と理由を明らかにしている。

 その根拠の一つとしては、華厳経の四照の譬えを、天台が義をもって次のごとく三照と判じたのである。すなわち、日出でてまず一に高山を照らし、二に幽谷を照らし、三に平地を照らす。更に三の平地を開いて、食時(午前八時)、禺中(午前十時)、正中(正午)の三として、ここに五時が立てられる。

 次に涅槃経の五味の譬えは、同経聖行品に

 「牛より乳を出だし、乳より酪を出だし、酪より生穌を出だし、生穌より熟穌を出だし、熟穌より醍醐を出だす。醍醐は最上なり」(正蔵一二 七七五)

 とあり、仏を牛に譬え、この仏の教法は初め乳より転々として醍醐に至るごとく、最後において真の仏性開顕に至る譬えとしている。この譬えも五時に配当することができる。

以上を図示すると次のようになる。 

 

 

(華厳四照)      (天台三照)(五味)(五時)

 

一切諸大山王を照らすー高山を照らすー乳味ー華厳時

 

一切の大山を照らすー|

          |幽谷を照らすー酪味ー阿含時

金剛宝山を照らすーー|

 

 

                                           |食時ー生穌味ー方等時

大地・平地を照らすー|禺中ー熟穌味ー般若時 

          |正中ー醍醐味ー法華時



更に五時の正しい根拠となるのは法華経信解品の説相で、四大声聞が釈尊の化導を回顧しつつ、自らその意義を述べた長者窮子の譬えである。

 

 その経証について天台大師は、傍追を擬宜・華厳時とし、二誘を誘引・阿含時とし、体信を弾訶・方等時とし、領知を淘汰・槃若時とし、付業を開会・法華時に当てて釈している。

 擬宜とは「よろしきところをおしはかる」の意である。釈尊は三十歳の時、伽耶城菩提樹下に悟りを開かれた後、衆生を導くために思惟した結果、まず最初の二十一日間に華厳の会座を設けて大乗の法を説き、衆生の仏道に対する能力・根力の大小を推し測られたのである。声聞・縁覚という二乗の機類は、聾のごとく唖のごとく、まったく教法を理解することができなかったという。このように華厳経は化法の四教(後述)のうちでは、別円の二の教理を含む、大乗の高尚な義が説かれている。

 次の誘引とは、相手の程度に応じた教えを説くことによって、仏の慈悲の懐へ「誘い、手引きする」ことをいう。二乗の人々はその心は怯弱・下劣であり、直ちに大乗の教えを聞いても理解する力を欠き、利益がない。そのための釈尊は、その根性に合致する小乗教、つまり諸阿含経を説かれたのである。阿含経は最も低級な三蔵経の偏空の教理によっている。

 次の弾呵とは「つまはじきし、しかりつける」意である。小乗教を学んで、小なる境界に執われている声聞に、大乗の真実性・優秀性を比較して示し、その執心を弾劾し呵責して、小を恥じ大を慕う心を起こさせることである。方等部の多数の経典がこれに当たり、蔵・通・別・円の四つの教理がすべて含説されている。

 次の淘汰とは「より分け、精選する」意である。前の方等時で二乗の人々はようやく小を捨て大を求める志を持ったので、この般若経に来て、教法の真意に本来、大小の区別はなく、すべてが大乗教であることを領知させる。小乗卑劣の見解をより分け、篩い落として、大乗の一法に精選し統一するのである。これを般若の法開会ともいう。教理としては、三蔵・小乗教を除く通・別・円の三教が含まれている。

 最後の開会とは「開き、会する」義である。すなわち声聞・縁覚・菩薩の三乗の教法観を開き、仏の境界を会得せしめ、それに合致せしめるのである。これに相待・絶待の二つの開会があるが、その中の相待開会とは、従来四十余年の間の華厳・阿含・方等・般若等の経々の教法・修行・人位・真理は、すべて最高一仏乗の真実に至らしめるため、仮の法を用いたものであり、真実の教・行・人・理は法華経に初めて説き示すものとして、爾前経の不真実に対して、法華の真実を顕わすことをいう。すなわち諸経と相待し、比較して法華経の妙義を顕わすのである。

 次に絶待開会とは、法華経以前の各経々は、本来法華経から出たものであり、別体ではない。故に法華経が説かれたうえは、各々独立した存在ではなく、すべて法華経に帰一して、その体内の方便教であると決する。これを絶待開会という。法華経において、初めてそれぞれの経々を説かれた意味が明らかとなるのに対し、他の経々

はまったくこの意義を有していない。そこで諸経がことごとく法華経の中に会入される義を表わすことを開会というのである。故に法華経の教理は、方便の蔵・通・別の三教が混入せず、ただ円教の一大法理のみである。

 涅槃経は後番の五味ともいい、般若経の法開会(大小乗の差異区別を亡ぼし、大乗の一理とする)、法華経の人開会(諸乗すなわち人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の五乗もことごとく一仏乗に帰すとして、永く成仏できないとされた二乗の人々の成仏を示し、一念三千を説く)の説法に成仏できなかった人々に、更に五味の法を説き、広く仏性が遍く一切のものにいきわたる所以(常住仏性)を示し、一仏乗に導くのである。法華経が一切の衆生を成仏せしめることを秋の大収穫に譬えるのに対し、涅槃経は悉有仏性を説くゆえに、後の落穂拾いに譬え、捃拾教と称する。

 

 

 

 

 

 


「五綱」・「教」

2022年09月09日 | 日蓮正宗要義(一)

①日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

五綱とは宗祖日蓮大聖人が教機時国抄等に示された教判であり、教・機・時・国・教法流布の前後の五つをいう。教機時国抄に

 「此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか」(新編二七一)

と仰せのように、正しい仏法を弘め民衆を救うためには、その宗旨の決定に当たり、右の五つの方面から厳密にその意義を究め尽くさなければならないのである。

 故にこの五義は宗教を批判選択し、宗旨を決定する原理であり、大綱であるから、五綱教判というのである。またこの五義の詳細については、開目抄・観心本尊抄・撰時抄・報恩抄、その他重要御書の各処に、それぞれ明確に述べられている。

 第一項 教

 教とは天台大師が法華玄義一に

「聖人下に被らしむるの言」(玄上−二九)

 と示している。この聖人とは釈尊であり、その言とは一代仏教を指しているが、もし広義に論ずれば、古今を通じてあらゆる民族の歴史に現われた宗教・哲学・道徳・生活法の一切を含むのであり、これを説いた多くの先覚者・指導者が聖人に当たるのである。

 人類は有史以来から、その時々の環境に順応しつつ、またこれを超克して発展してきた。

 開目抄の

 「三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁へて孝をいたす」(新編五二三)

 の文のごとく、各民族あるいは部族の歴史的段階においては、倫理・道徳などが初めにはなかったのを、聖人が出現してこれを教え、次第に万物の霊長としての人間生活が形成されてきたのである。また、したがって固有の世界観・人生観が発達して宗教・哲学を持つようになり、論理観・道徳観の発展とともに善悪の観念が定まり、これによって社会の秩序と統制等が保たれたのである。

 一口に教えといっても、その含むところは実に膨大であり、世界人類文化史上の精神面のすべてを含んでいる。その様相は広くは世界宗教史、あるいは哲学史・倫理史を開かなければならないが、要するに教えの教えたる所以は、まず適切な真理観と価値観を教え、道理を基本とする善悪を教えて、正善の道へ人を趣向せしめるところにある。それが終局的には大きな幸福につながる道だからである。もし真理感が不備であれば、教法の内容・視野ともに偏狭であり、価値観に欠けるときは実益を伴わない意味がある。しかるに何が善で何が悪であるかは、従来の人類文化の足跡に徴するに、その時代により社会によって判断基準が様々である。

 過去に善であったものが現在は悪であり、その逆となることもある。また個と全、団体的基準と社会的基準、社会的基準と国家的基準、国家的基準と人類的基準等で善悪が異なることも見受けられるところである。例えば国家間の戦争では、敵を殺すことが善として賞されるが、人類愛の見地からは人を殺すことが悪とされるようなものである。更に世間法としての善悪と出世間法すなわち宗教としての善悪がある。これらの評価は、その教えとともにまことに様々であって、もし一概に並べて、その言を問うとき、甲論乙駁まことに帰趨を知らないものがあろう。教法といい、善悪というも、その時代に従った基準、すなわちその時代に現れている真理の段階に基準を立てなければならない。

 一般的には、善とは理に順うことをいい、悪とは理に違うことをいう。しからば何が不完全で、何が完全な理であるかという真理の高低、広狭、適否が判定されなければならない。そこにもろもろの真理や、善悪を説く一切の教法自体を判釈する必要があるのである。

 このすべての意義を含みつつ、仏教が最も生命の本質を正しく把握し、説き示す教えであるゆえに、最終的には、広大な仏教の内容を整理決判することが、真の教えを顕わすうえに必要となる。これが印度から中国にかけて興った仏教各家の教相判釈、いわゆる教判である。

 印度では仏滅後七百年の頃より、竜樹・無著・天親等の論師が現れて、大乗教を高揚して、以前の小乗との差異を明確に説いた。中国においては、小乗・大乗の諸経典をそれぞれ比較し、所依とする経典を中心として、他の経典の位置を決定する体系化の作業が、諸家によって立てられた。

 但しこれらは、その基準とし、所依とする経典の意義・内容によって正誤様々であった。中国の南北朝時代には南三北七といい、揚子江の北に七家、南に三家の代表的仏教学派があり、それぞれの教判を立て、自らの教義を鼓吹した。このうち南地の三家は、常住教として涅槃経を第一とすることは共通している。北地の七家は、あるいは涅槃経を立てる者、華厳経を第一とする者、あるいは満字教・一音教等様々であるが、帰するところは華厳と涅槃の二経が、判釈の中央となっていることが目立つのである。

 この跡を受けて、中国の陳・髄の時代に天台宗の開祖智顗(天台大師)が出現し、法華経を中心とする一大仏教体系を打ち立て、仏教の意義を全体的に明らかにしたのである。

 そこで以下、教綱を述べるに当たり、初めに天台の教判について説明し、次に大聖人の独自の教判を拝述する。けだし天台の教判は、一には釈尊一代の仏教の始末を一括して、その意義を明らかにするものであり、二には大聖人の仏法にあっても、その外郭的な基礎として依用されているからである。

 要するにこの教綱の意義は、大聖人が開目抄に

「教の浅深をしらざれば理の浅深弁ふものなし」(新編五六一)

 と仰せられるごとく、真理や善悪の浅深は、一にかかって教えの判定の正邪如何に存する。このうえから教法に関する一切を爼上にして、その高低・正誤・方便と真実等を判ずるのが第一の教綱である。