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熱原法難三

2023年01月18日 | 日蓮大聖人の御生涯(四)

大白法 令和3年5月1日(第1052号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 145

  日蓮大聖人の御生涯 ㉛       

   熱原法難 三

 前回は、弘安二年九月二十一日、行智らの策謀によって、熱原法難の法華講衆二十人が他人の田の稲を不法に刈り取ったとする刈田狼藉の罪を捏造され、罪人として鎌倉に護送されたこと。そして、この事件について日興上人から報告を受けられた日蓮大聖人は十月一日に『聖人御難事』を認(したた)め、法難の最中にある法華講衆を励まされると共に、行智らの策謀を暴(あば)いて真実を訴え出るために申状の草案(『滝泉寺申状』)の執筆に取りかかられたこと。その後、十月十二日付の 『伯耆殿御返事』と共に『滝泉寺申状』の草案を日興上人のもとへ送付して、門下の僧俗が団結して事件の解決に向け手を尽くされた場面を学びました。

 今回は、鎌倉に護送された熱原の法華講衆がどのような状況になったのか、そして事件の最前線で指揮を執る日興上人から逐一報告を受けられた大聖人が、どのように御指南されたかを学んでいきます。 

 

 処 刑

 鎌倉に護送された熱原の法華講衆を取り調べたのは、大聖人を憎んで数々の迫害を加え、命まで奪おうとした平左衛門尉頼綱でした。頼綱にしてみれば、熱原地方の刈田狼藉の罪などはたいした問題ではなく、これを機会に「日蓮が一門」を弾圧し、殲滅することが目的だったのです。

 十月十五日、頼綱は神四郎・弥五郎・弥六郎ら熱原の法華講衆二十人を自邸の庭に引き出し、事件の真相には少しも触れることなく、乱暴な態度で、「汝ら速やかに法華の信仰をやめて、念仏を称(とな)えるならば、即座に罪を許して帰国させてやろう、もし信仰を改めなければ必ず重罪に処するから、よくよく思案を定めて返答をいたせ」と厳しく申し渡しました。

 鎌倉幕府の中でも強い権力を有する頼綱の威嚇は、たとえ他の鎌倉の剛の武士であっても声を出せないほどの恐ろしいものでしたが、日興上人や日秀師の薫陶を受けた神四郎等の信心は堅固で、「この身を法華経の恩為に捧げ奉ることは、まことに願ってもない幸せである」と、少しも恐れず泰然自若として、「たとえ身は殺されても、日蓮大聖人の教えを守り抜くことこそ、私たちの本義でございます」と、 きっぱりと言い返しました。

 傲慢な頼綱は激怒して「お前たちは農民の分際で天下の内管領に言葉を返す不敵さ、おそらく悪魔に魅入られたのであろう。正気の沙汰ではあるまい。判官、蟇目の矢をもって、こやつらを痛めつけよ」といきり立ったのです。

 蟇目の矢とは、矢の先端部分に鏃(やじり)の代わりに穴を空けた鏑(かぶら)を取り付けたもので、鏑に空けられた穴が蟇蛙(ひきがえる)の目に似ていることから蟇目の矢と呼ばれます。蟇目の矢で射ると穴から風が入ってヒューヒューと鳴り、その不気味な音により悪魔を退散させると信じられ、鎌倉当時、流鏑馬、笠懸、犬追物など、射術の訓練や神事で用いられていました。

 頼綱の命によりその蟇目の矢をもって責めたのは、当時十三歳になる頼綱の次男・飯沼判官資宗でした。容赦なく次から次へと放たれる拷問の矢は、骨も砕かんばかりの痛みをもって、神四郎たちの身をさんざんに責めました。

 頼綱は、神四郎たちがすぐにも悲鳴をあげて改宗すると思っていました。しかし神四郎たちは一向に怯まず、かえって「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と唱える声が、ますます高まっていったのです。

 力強い唱題の声に、頼綱は不安と苛立ちを覚え、大聖人に対する憎悪と驕慢の心が増し、とうとう狂乱の極みに達し、ついに神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を事件の首謀者として、暴虐無惨にも斬首の刑に処したのです。

 苦痛をものともせず、死を恐れず、法のために殉ぜんとするこの強信怖退の姿こそは、まさに『如説修行抄』に、

 「一(いち)期(ご)過ぎなむ事は程無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ。縦(たと)ひ頸(くび)をばのこ(鋸)ぎりにて引き切り、どう(胴)をばひ(菱)しほ(鉾)こを以てつゝき、足にはほ(絆)だしを打ってき(錐)りを以てもむとも、命のか(通)よはんき(際)はゝ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にゝしぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契(ちぎ)りの約束ならば、須(しゅ)臾(ゆ)の程に飛び来たりて手を取りてか(肩)たに引き懸けて霊山へは(走)しり給はゞ、二聖・二天・十羅刹女・受持者を(擁)うご(護)の諸天善神は、天蓋を指し幢(はたほこ)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光(じゃつこう)の宝刹(ほうせつ)へ送り給ふべきなり。あらうれしや、あらうれしや」(御書 六七四㌻)との御聖訓を身で読み、不惜身命の信心を全うしたといえます。

 日興上人は、尋常ではない拷問(ごうもん)の様子を、急使を立てて大聖人に御報告しました。

 

 聖人等御返事

 十七日の酉の時(午後六時〜七時頃)に、鎌倉からの急使が身延の大聖人のもとに到着しました。二日前の十五日に神四郎・弥五郎・弥六郎が斬罪に処せられたとの知らせを読まれるや、心から三烈士を追善回向されると共に、すぐに御返礼を認められました。「十月十七日戌時」と時刻までも記されることから、緊迫した模様が伝わってきます。 この書状が『聖人等御返事』です。 

「今月十五日酉時御文、同じき十七日酉時到来す。彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云。偏に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹の入り易(か)はりて法華経の行者を試みたまふか。例せば雪山童子・尸(し)毘(び)王(おう)等の如し。将又悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等、五五百歳の法華経の行者を守護すべきの御誓ひは是なり。大論に云はく『能く毒を変じて薬と為す』と。天台云はく『毒を変じて薬と為す』云云。妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか」

 (同 一四〇五㌻)

 神四郎・弥五郎・弥六郎の三烈士が妙法に命を捧げたことは、まさにただ事ではないと仰せられ、これは雪山童子、尸毘王等と同じように、十羅刹女が頼綱の身に入って法華経の行者を試したものか、あるいは悪鬼が頼綱に入ったのかと、その理由を示されます。

 そして、これこそ諸仏・諸天が ”魔法の法華経の行者を守護する” との誓いを果たしている相であると教示され、「毒を変じて薬と為す」とはこのことであると述べられます。そして、必ず賞罰の結果が現われるであろうと断じられています。

 先ほどの御文に、三烈士の処刑は諸仏・諸天の御加護であるとの仰せについて、逆に守護がなっかたから斬罪に処されたのではないかと思うかも知れません。しかし、神四郎たちの五尺の凡身は、たとえ敢えなく刑場の露とは消えても、妙法に捧げた魂魄はたちどころに常寂光の宝刹に安住し、即身成仏という、未来永遠に亘る境界を成就し、瓦礫のような価値もないはかなき人生を、成仏という黄金に変えたのです。

 こうして、会ったこともない一介の農民が、法華講衆として妙法の信仰を真に体現したことにより、大聖人は万感の思いをもって『聖人等御返事』 を綴られたことが拝察できます。

 大聖人は当抄の終わりに、日興上人に対し、

 「伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐべし」(同)

と記されています。

 これは、熱原の三烈士が殉死を遂げた今こそ問注を遂げ、頼綱に対して、はっきりと現罰を蒙ることを申し渡すようにと指図されたものです。これを受け、日興上人は大聖人の草案による『滝泉寺申状』を直ちに提出されたものと推測されます。

 私たちが宿縁深厚にして、濁悪の末法に生を受けながら、値い難き御本尊に巡り合って一生成仏の信仰ができるのも、熱原三烈士のように、不惜身命の信行を貫いた人たちがあってのことです。その熱原の法華講衆の名誉を汚さないためにも、今こそ現代の法華講衆として不自惜身命の信心をもって、果敢に折伏弘教に邁進していきましょう。