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新たなる日々!

開目抄 御述作

2022年09月21日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

大白法 令和2年4月1日(第1026号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 134

 日蓮大聖人の御生涯 ⑳

  開目抄 御述作



 前回学んだように、塚原問答において、念仏の邪義を完膚なきまでに打ち破られた日蓮大聖人の尊容に、これまで大聖人に敵意をもっていた佐渡の人々が、次第に敬服するようになりました。

 

  最蓮房の帰伏

 その一人に、天台宗の僧侶であった最蓮房日浄がいます。

 最蓮房は、 大聖人よりも先に流罪の身として佐渡に住していたのですが、 塚原問答決着の約二週間後、 文永九(一二七二)年二月初旬に大聖人に帰伏しています。

  そして、大聖人より数々の重要な法門書を賜っていますが、 その一つである『生死一大事血脈抄』 の中で、大聖人は、

 「殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴し貴し」(御書 五一四㌻)

と、最蓮房の仏法修学の姿勢と求道の志を賞賛されています。

 

 御述作の興起

 塚原問答の翌月、文永九年二月、大聖人は 『開目抄』を御述作されて、 四条金吾をはじめとする門下一同に与えられました。

 当時、大聖人が竜口法難から佐渡御配流と身命に及ぶ迫害を受ける中、その迫害の手は鎌倉の弟子檀那へも及び、牢に入れられたり所領没収などの刑に処される者も出たため、弟子檀那の中には信心を捨てて退転する者が続出していたのです。 

 大聖人は、この時の様子を 『弁殿尼御前御書』に、

 「しかりといえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの、大体或はをち、或は退転の心あり」

  (同 六八六㌻)

また、『新尼御前御返事』には、

 「かまくらに御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて」(同 七六五㌻)

と述懐されています。

 総本山第二十六世日寛上人は 『開目抄愚記』に、

 「当抄の述作は、竜口法難に由来する。大聖人は、真の法華経の行者として三徳具備の仏である。しかし、日本の人々はこれを知らずに強く憎み、責め、その上(竜口の刑場にて)命に及んだ。(大聖人に)迫害を加えても、(迫害者には)罰は当たらず、諸天の加護もない。これによって弟子檀那は、大聖人は法華経の行者ではないと疑いを起こした。故に真の法華経の行者であることを示し、疑いを払って信心を起こさせるために当抄を述作されたのである(趣意)」

 (御書文段 五三㌻)

と御教示です。 

 すなわち『開目抄』の御述作の興起は、竜口法難にあるのです。迫害によって弟子檀那が「大聖人を迫害した者に現罰が出ないのはなぜか」、また「大聖人に諸天の加護がないのは、法華経の行者ではないからではないか」との不信を抱いて、退転者が続出するという一門の危機に当たって、不信を取り除き、真の主師親三徳に対する盲目を開かしめるためでした。

 

 主師親三徳兼備の御本仏

 『開目抄』は上下二巻から構成され、内容を主題の標示(標)・主題の解釈(釈)・結論(結)の三つに大別して著されています。

 冒頭に、

 「夫一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり」(御書 五二三㌻)

と仰せのように、一切衆生が尊敬すべき主師親の三徳(主題の表示)を挙げ、さらに儒教、インドの外道、内道(仏教)の順に進み、仏教の中でも一代聖教の勝劣浅深(主題の解釈)を判じて、

 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろめたまはず、但我が天台智者のみこれをいだけり」(同 五二六㌻)

と仰せのように、法華経本門寿量品の文底に秘沈される一念三千の法門こそ、真実の成仏の法であることを示されます。

 そして、諸宗が法華経に背いていた当時の状況下において、大聖人ただ一人が法華経の行者として立ち上がり、数々の大難を受けてこられたことを述べられます。

 後半では、法華経の経文に照らして厳密に、大聖人御自身が末法の法華経の行者であることを明かされます。

 その上から、

 「詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。(中略)我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」

  (同 五七二㌻)

と、諸天の加護があるか否かは問題ではなく、いかなる大難が起ころうとも法華経の行者としての大確信の上から、妙法流布に尽くしていくとの誓願を述べられます。

 そして、

 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(同 五七七㌻)

と仰せのように、末法においては大聖人ただお一人が、御内証において主師親の三徳を具えた御本仏である(結論)ことを宣言されています。故に本抄は、「人本尊開顕の書」と称されています。

 

 五重相対

 なお、『開目抄』で示された、勝劣浅深を判ずる教判の「五重相対」 についても述べておきます。

 これは内道において、釈尊に具わる主師親三徳を挙げ、また釈尊が説き示す教えの勝劣浅深を明らかにされたものです。

  本抄には、内外相対、権実相対・種脱相対、権迹相対、本迹相対と記され、一般的な五重相対にはある大小相対がないのは、大乗教と小乗教の判釈(大小相対)は 解決済みであること、そして権教(爾前経)における二乗(声聞・縁覚)の不成仏と法華経迹門における二乗の成仏を特に明らかにするためであると拝されます。ちなみに、浅深の次第からすると、内外相対・権実相対・権迹相対・本迹相対・種脱相対となります。

 一般的な五重相対について、概略を記します。

 内外相対とは、内道、 すなわち仏教と外道や儒教等、仏教以外の教えとの比較相対で、内道は三世に亘る仏道の因果の理を説くので勝れ、外道は六道にあっても適切な三世に亘る因果の理法を説かないので劣ることから内道が勝れます。

 大小相対とは、大乗教と小乗教の比較相対で、大乗教は自他共に救うので勝れ、小乗教は自己の解脱のみを求め、他の衆生を救うことができないので劣ることから大乗教が勝れます。

 権実相対とは、権教(爾前経)と実教(法華経)の比較相対で、実教は、前半迹門では諸法実相を軸として二乗(声聞・縁覚)の成仏を明かし、後半本門では仏の久遠における成道と常住の御化導を説くので勝れ、権教は二乗の成仏を説かず、仏も始成正覚(釈尊が今世において成仏したこと)の域を出ないので劣ることから実教が勝れます。

 本迹相対とは、実教である法華経の迹門と本門の比較相対で、本門は仏の久遠の成道を説き明かすので勝れ、迹門は始成正覚の垂迹(本仏が衆生救済のために、敢えて仮の仏の姿として現われること)の仏の法なので劣ることから法華経本門が勝れます。

 種脱相対とは、本門の中心寿量品における文底下種の仏法と文上脱益の仏法の比較相対で、文底本因下種の仏法は、成仏の根源である下種の本法と久遠元初凡夫即極の本仏による御化導を顕わすので勝れ、文上脱益の仏法は本果久遠五百塵点劫における色相荘厳の垂迹化他の仏の成道と本門脱益の法を顕わすまでなので劣ることから文底下種の仏法が勝れます。

 最後の種脱相対によって説き明かされた文底下種の妙法こそ、末法出現の御本仏大聖人によって建立される真実の妙法であり、末法の一切衆生の成仏の根源です。

 

 成仏の直道を歩む

 『開目抄』に、

 「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん」(同 五七四㌻)

と仰せです。

 平時には強盛な信心を貫いているように見えても、ひとたび身に迫る大難が発生すると、保身の上から、あるいは疑念を抱いて信心から離れる人がいます。

 しかし大聖人は、苦境に立たされた時、 直ちに諸天の加護を得られなかったとしても、常に御本尊に対しての絶対の信を忘れずに自行化他に徹すれば御仏智が用き、やがて必ず一切の問題を克服し、成仏の大功徳を得ることができると御教示されています。

 こうして極寒の佐渡で『開目抄』を著わされ下種仏法の主師親三徳を顕わされた大聖人は、この後も、およそ二年を佐渡で暮らされることとなります。

 

 

 

 

 

 

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塚原問答

2022年09月17日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和2年3月1日(第1024号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 133

 日蓮大聖人の御生涯 ⑲

  塚 原 問 答



 塚原配所の生活

 文永八(一二七一)年十一月一日、現在の暦で換算すると、十二月四日の厳冬に、日蓮大聖人は塚原の配所に入られました。

 『富木入道殿御返事』には、

 「北国佐渡国に下著候ひて後、二月は寒風頻りに吹いて、霜雪更に降らざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず」(御書 四八七㌻)

と記されているように、佐渡に到着された時期はまさに膚を裂くような酷寒であったことが想像されます。

 また、寒さを防ぐための肝心の建物も天井の板間が合わず、四壁は荒れ果て崩れており、その隙間からひっきりなしに雪交じりの寒風が吹き込んでくるという粗末なものでした。

 そのような室内に敷皮を敷き、四六時中簑を着て寒さに堪え忍ばれておられました。

 大聖人はこのような苛酷な状況下にあっても、「眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向かひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ」

 (同 一〇六三㌻)

と、昼夜を分かたず読経と唱題、法華講談の日々を過ごされ、文永九年の年が開けました。

 

 塚原問答

 一方では、大聖人の佐渡流罪を耳にした念仏者や律宗の僧侶たちが多数寄り合い、大聖人を亡き者にしようと謀議していました。

その話し合いの結果、

 「六郎左衛門尉殿に申して、きらずんばはからうべし」(同 一〇六四㌻)

として、地頭・本間重連のいる守護所へ大挙して押しかけ、大聖人殺害を迫りました。

 これに対して、本間重連は、

 「上より殺しまうすまじき副状下りて、あなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかし」(同)

と述べて、法門をもって決着するように促しました。

 これによって、文永九年正月十六日、諸宗の僧らが続々と大聖人がいる塚原の三昧堂に集まり、「塚原問答」が始まります。

 この法論には、佐渡の国の僧だけではなく越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々から諸宗の僧侶たちや、百姓の入道たちも加わり、塚原の三昧堂の大庭から山野へかけて数百人規模の群衆となりました。そして地頭の本間重連一統が見守る中で、法論が開始されました。集まった諸宗の僧侶たちは口々に大聖人を罵り、騒ぎ、その音声はまるで地震か雷鳴のようでした。

 大聖人はしばらく騒がせておいてから、「各々方静まりなさい。法論のためにこそおいでになったのではないか。悪口等は無益である」と声高に仰せられました。

 その場にいた重連をはじめ多くの人々が「まことにその通りである」と言って、座を鎮め、しつこく悪口を言っていた念仏者たちの首根を捕まえて遠くへと追いやりました。

 問答の内容について、『種々御振舞御書』には、次のように記されています。

 「さて止観・真言・念仏の法門一々にかれが申す様をでっしあげて、承伏せさせては、ちゃうとはつめつめ、一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ。利剣をもてうりをきり、大風の草をなびかすが如し」(同)

問答の様子は右のように、鎌倉の諸大寺の学匠でさえ全く相手にならないのに、佐渡や奥州の田舎僧侶が大聖人に対して太刀打ちできるはずがありません。大聖人の詰問に答えることができず、一言二言で論断されてしまうほどの、無能な僧たちだったのです。

 彼らは、

 「仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ。(中略)或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが事なりけりと云ふものもあり。或は当座に袈裟・平念珠をすてゝ念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり」(同 一〇六五㌻)

とあるように、大聖人の正義を前に無知蒙昧な醜態をさらけ出したのです。大聖人は、敵意と憎悪に満ちた数百人を相手にして法論し、これを見事に圧倒なさったのです。



 自界叛逆難の予言

 問答が終わり、法論に破れた僧侶たちは最初の威勢も虚しく意気消沈して立ち去っていきました。

 そして見物の人たちもそれぞれ思い思いにその場を離れ、本間一族も立ち去ろうとした時に、大聖人は本間重連を呼び止められ、

 「いつ鎌倉へ上がられるのか」

とお尋ねになられました。

 そしてこれに対して重連が、

 「下人どもに農事をさせてからで、七月頃になりましょう」

と答えたところ、大聖人は、

 「ただ今戦が起ころうとしているのに、急いで鎌倉へ駆け上り手柄を立てて領地を賜らないのか。何といってもあなた方は相模の国では名の知れた武士である。それが田舎で田を作っていて戦の陣列に加わらなかったならば、恥となるであろう」

と、鎌倉において合戦が起こる旨の予言をされました。

 本間重連をはじめとする一門の者や、さらにその場に居合わせた念仏者や見学の者たちは、この大聖人の予言に対して、ただただ訝しく思うだけでした。



 再度の問答

 明くる十七日、前日の塚原における問答で惨敗した念仏者たちは、性懲りもなく彼らの首領であった印性房弁成を立てて、塚原の三昧堂に再び訪れました。

 そして弁成が質問しました。

 「法然上人は法華経を抛てよと書かれたのではない、一切衆生に念仏を唱えさせ、この功徳によって往生疑いなしと書き付けられたのである。これについては、比叡山や円城寺の僧で、今、佐渡に流されている人も『よい教えである』と褒めている。それなのに、あなただけは、どうして法然上人の義を破するのか」

こうした取るに足らない質問に対し、大聖人は、

 「鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ。無慚とも申す計りなし」

  (御書 五八一㌻)

と、愚かな弁成を一々に論破され、その時の記録を『法華浄土問答抄』として遺されました。そこには大聖人の花押と並べて印性房も花押を認め、念仏が邪義なることを弁成自ら認めたのです。

 このように佐渡における念仏僧の代表格である印性房弁成を完膚なきまで屈服させ、塚原における問答の一切がここに終結しました。



 本間重連への予言的中

 一月十六日の塚原問答の後、大聖人は立ち去る本間重連を呼び止め、自界叛逆の難が起きることを予言されましたが、これが現実のものとなったのです。それは北条家一門による内紛で、いわゆる「二月騒動」といい、別名「北条時輔の乱」です。

 この「二月騒動」とは、北条時頼の庶子・時輔が、異母弟の時宗が得宗・執権となって幕府の権力の座についたことに不満を持ち、謀反を企てたものです。これを事前に察知した時宗は、時輔の与党と見られた名越時章・教時兄弟を鎌倉で討ち、さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて時輔を討たせたのでした。

 この事件の報せは、ちょうど塚原問答での予言から一ヵ月後の、二月十八日に佐渡へ着いた早船によってもたらされました。

 「二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申す計りなし。六郎左衛門尉其の夜にはやふねをもて、一門相具してわたる。日蓮にたな心を合はせて、たすけさせ給へ」(同 一〇六五㌻)

とあるように、塚原問答の時には、大聖人の予言を不審がっていた本間重連をはじめ一門の者たちも、この報せを聞いてたいへん驚き、大聖人のもとへ馳せ参じ、今までの信仰を悔い改め「永く念仏申し候まじ」と誓いました。そしてその夜、本間重連は急遽、早船をもって一門を率いて、鎌倉へと渡っていきました。

佐渡の島民の中にも、大聖人の予言が的中したことにより、

 「此の御房は神通の人にてましますか、あらおそろしおそろし。今は念仏者をもやしなひ、持斎をも供養すまじ」(同 一〇六六㌻)

と畏敬の念を懐いて、念仏の信仰をやめると誓う者も現われました。

 今回は、塚原問答並びに自界叛逆難の予言的中を中心に日蓮大聖人の御化導を拝しました。こうした史実を学んだ私たちは、目睫に迫った大聖人御聖誕八百年の佳節に向かって、今こそ日蓮が弟子檀那として、大聖人の驥尾に附して二陣三陣と続いて勇猛果敢に折伏弘教に邁進してまいりましょう。








   次回は、『開目抄』の御述作について拝していきます。

 

 

 

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佐渡での生活

2022年09月13日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和2年2月1日(第1022号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 132

 日蓮大聖人の御生涯 ⑱

  佐渡での生活

 

 北海を越えて

 文永八(一二七一)年十月二十一日、日蓮大聖人は配流地である佐渡に向かうため、

越後国寺泊(新潟県長岡市)へと到着されました。現在の暦では十二月一日に当たり、立冬から大雪になる頃です。

 江戸時代の松尾芭蕉の『おくのほそ道』に、

 「荒海や佐渡によこたふ天河」(日本古典文学大系四十六『芭蕉文集』九一㌻)

という一句がありますが、北海の孤島である佐渡島へ渡るためには、風と海の状態をよく見て船を出さねばなりません。

大聖人を連れた一行も、『寺泊御書』に、

 「順風定まらず、其の期を知らず」(御書 四八四㌻)

とあるように、しばらく寺泊に滞在することとなったのです。

 渡航の機会を待つことおよそ一週間。大聖人を乗せた船は無事に佐渡島の松ヶ崎に到着しました。

 松ヶ崎は越後から海を渡ってきた船の船着き場です。今もなおこの海岸は、大きな船が着岸できるように角の取れた丸い石がたくさん積み重なっていて、波打ち際に立つと、繰り返す波によってカタカタカタと石が音を立てるのを聞くことができます。

 その松ヶ崎から、雪の積もる小佐渡山脈の峠道を越えて国中平野へと進み、北方に白雪を冠した大佐渡山脈を眺めながら、十一月一日に塚原の配所へと到着されたのです。

 

 塚原の配所

 塚原の配所について、『種々御振舞御書』には次のように記されています。

 「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき簑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(同 一〇六二㌻)

 塚原の場所については、塚原根本寺説、畑野町説などの諸説がありましたが、本宗では目黒町説を採っています。

 この目黒町は、当時の佐渡守護所と推定される下畑より五百メートルの近場であり、「塚の越」の地名があること、阿仏房の子息とされる藤九郎盛綱ゆかりの遺跡が近くにあることなど、塚原配所にふさわしい条件が揃っているからです。現在、この地には「塚原跡」碑が建立され、日蓮大聖人の史跡として整備されています。

 

 さてこの塚原跡に立ちますと、当時は刈萱が生い茂っていたようですが、今は広く田畑が広がっているのが見えます。佐渡島を上空から見ると、島の北方と南方に東西に広がる大佐渡・小佐渡の両山脈があり、その山脈に挟まれた国中平野は風の通り道であることが判ります。もともと遮るものが何もない大海の孤島である佐渡島の、さらに風の通り道にある国中平野ですので、この塚原の地は当然のように風が強く、天候が変わりやすい土地です。冬場には晴れ間と吹雪とが交互に訪れ、その風の強さによって、雪はこんもりと積もるのではなく、地面にへばりつき、また木々の幹にこびりつくように積もるという土地でした。

 配所の建物は塚原三昧堂といいます。建物自体が一間四方の物置のような建物を想起する人が多いようですが、実際は仏を安置する祭壇が一間四方で、さらにその外側に一間ずつの回廊を備えた一間四面堂と呼ばれる様式であったと考えられます。しかし壁や床の板間は合わず、その隙間からひっきりなしに雪交じりの寒風が吹き込んでくるようなみすぼらしい草堂で、そのような室内に敷皮を敷き、四六時中簑を着て寒を防ぐ生活をされたのです。

 ここまで数人の弟子がお供をしてきましたが、こうした厳しい生活であることから、大聖人は日興上人お一人を残して、他の弟子たちを本国に帰らせました。

 『法蓮抄』には、この生活を述懐されて、

 「北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし。(中略)昼夜耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝暮に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり。現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ちぬ」(同 八二一㌻)

と記されていますが、このような厳しい寒さの中にあって、大聖人はひたすら読経と唱題、法義講談の日々を過ごされたのです。

 

 阿仏房夫妻の入信

 当時、佐渡に住む人々は因果の理も知らず、仏法の正邪も善悪も理解することがなく、荒い気性のままに大聖人に接していたようです。

 また『呵責謗法滅罪抄』に、

 「此の佐渡国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(同 七一七㌻)

とあるように、殊に念仏宗の勢力が強く、そのために念仏に厳しく破折する大聖人に対する風当たりは、なおのこと厳しいものがありました。

 阿仏房もその一人でした。念仏の強信者であった阿仏房は、大聖人のことを聞き、阿弥陀仏を冒涜する仏敵を自ら誅しようと、ひそかに塚原の三昧堂へとやってきたのです。

 しかしいざ堂内に入り、大聖人が合掌して唱題をするその尊容を見るや、たちまちに害意は消え失せました。阿仏房は居ずまいを正して大聖人に対面し、なぜ念仏を非難するのか、またなぜこのような流罪の身となったのかを質問しました。

 この問いに対し、大聖人は丁寧に念仏の教えが爾前方便の教えであって、真実の教えは法華経であることを説きました。それを聞いた阿仏房はたちまちに念仏を捨てて大聖人に帰依したのです。

 こうして信者となった阿仏房は、さっそく妻の千日尼に大聖人との対面の様子を話して入信させ、夫妻共に大聖人の信徒となったのです。

 さて流人には、その後見となる者より食料が支給されることになっていましたが、実際に大聖人に支給された食料は少なく、またお供の者の分までの食料はなく、草を摘んでは食とするような状況でした。

 さらに地頭や念仏者たちは、大聖人のもとへ誰も通うことができないように三昧堂の周辺を封鎖していましたが、そのような中、阿仏房は食料を納めた櫃を背負っては夜の暗がりに紛れて三昧堂へ行き、大聖人の生活を支えたのです。この老夫婦の外護の真心に、大聖人は、

 「只悲母の佐渡国に生れかわりて有るか」(同 一二五三㌻)

と仰せられ、深く感謝されています。

 その後、国府入道夫妻も入信し、阿仏房同様に人目を忍んで三昧堂に食料を届けるなど、外護の誠を尽くしました。

 しかし、このように少しずつ信徒が増えていくにつれ、大聖人に帰依をした人々に対する迫害もまた増えていったのです。一方で、佐渡在島の、さらに近隣諸国に住む念仏宗をはじめとする諸宗の者たちが、大聖人を亡き者にしようとして、ひそかに策謀を凝らしていたのでした。

 

 僧俗一致の大事

 さて『曽谷入道殿許御書』

 「涅槃経に云わはく『内には弟子有って甚深の義を解り、外には清淨の檀越有って仏法久住せん』云々(中略)今両人微力を励まし、予が願ひに力を副へ、仏の金言を試みよ」(同 七九〇㌻)

と仰せられています。これは曽谷入道と大田乗明の両名に対し、末法の法華経の行者たる大聖人の弘法に、両人も力を合わせて精進するように勧められた御言葉です。

 佐渡の苦しい生活を阿仏房夫妻・国府入道夫妻が支えられたように、私たちは信徒の立場として御宗門を外から護ると共に、また御住職の御指導のもとに一致団結して、広宣流布に向かって精進してまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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本間邸滞留・佐渡配流

2022年09月10日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年12月1日(第1018号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 131

 日蓮大聖人の御生涯 ⑰

  本間邸滞留・佐渡配流

 

 前回は、竜口法難において日蓮大聖人の御本仏としての御振る舞いを拝すると共に、発迹顕本の意義を学びました。

 今回は、その後の門下の動静と佐渡配流について学んでいきましょう。

 

 依智本間邸

 明星天の奇瑞に先立つ九月十三日の戌の刻(午後九時頃)、幕府の使者が鎌倉から本間邸に立て文(書状)を届けていました。

 警固の武士たちは、大聖人の斬首を命令する再度の使者ではないかと思いましたが、そうではありませんでした。

 湯治のため熱海にいた北条宣時への報告前に届けられた書状は、ひとまず大聖人の身の安全を確保する内容であり、その追伸には、

 「此の人(大聖人)はとがなき人なり。今しばらくありてゆるさせ給ふべし。あやまちしては後悔あるべし」(御書 一〇六一㌻)

と記されていました。

 翌十四日の卯の刻(午前七時頃)、十郎入道という者が、昨晩の鎌倉での出来事を知らせるために、本間邸を訪れました。

 その報告によると、立て文が本間邸に届けられた同じ時刻に、執権・北条時宗の館で、

 「大いなるさわぎ」(同 一〇六二㌻)

が起こったと言うのです。

 そこで、陰陽師を呼び寄せて占わせたところ、「日蓮御房を咎めたために国が大きく乱れる兆しが現れたのである、急いで赦さなければ世の中がどうなってしまうか判らない」と答えました。

 これを聞いて「赦免にしたほうがよいでしょう」との意見が出されました。

 また、大聖人が九月十日の評定所での召喚の折に、

 「遠流死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其の時後悔あるべし」(同 一〇五七㌻)

と、平左衛門尉に申し付けていたことから、「百日の内に戦が起こると言うのだから、それを待って判断すればよいのではないか」と言う者もいました。

 

 弟子檀那の動謡

 こうして、評定が再三行われたものの処遇は決定せず、

 「えちの六郎左衛門尉殿の代官右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四・五日はあるべげに候」(御書 四七七㌻)

と示されるように、四・五日の滞在であったはずの本間邸に、しばらく留められることになりました。

 その間、鎌倉では七・八回の放火があり、殺人事件も頻繁に起こりました。

 それらの事件について、幕府には、

 「日蓮が弟子共の火をつくるなり」(同 一〇六二㌻)

 「日蓮が弟子の所為なり」(同 一〇七四㌻)

との訴えがもたらされました。

 幕府はこれを聞き入れ、

 「日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからず」(同 一〇六二㌻)

と、要注意人物として大聖人の弟子檀那二百六十余人を選び出しましたが、皆遠流にすべきである、既に牢に入れた弟子は首を刎ねるべきであるなどの噂が立つほどでした。 

 これらの事件や讒言は、すべて持斎(八斎戒を持つ僧侶、ここでは極楽寺良観の弟子を指す)や念仏者の仕業であり、大聖人もろとも、弟子檀那を一掃せんとの思惑が働いていたのです。

 こうして門下にも迫害と苦難が及び、所領を失った者、主家を追われて扶持(給与)を奪われる者が出てきました。

 たいへん多くの弟子檀那がこれに耐えき切れず、『新尼御前御返事』に、

 「かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(御書 七六五㌻)

と御示しの如く、信仰を捨て大聖人のもとを去ってしまったのです。

 そこには『上野殿御返事』に、

 「大魔のつきたる者どもは、一人をけうくんしをとしつれば、それをひっかけにして多くの人をせめをとすなり。(中略)事のをこりし時、たよりをえておほくの人をおとせしなり」(同 一一二三㌻)

と示されるように、退転するだけではなく大聖人を批判する者、竜口法難以前に大聖人から離れ、この法難に乗じてさらに多くの人を退転させようと画策した者がいました。

 大聖人は御本仏としての御立場から、このような者たちに対しても、

『佐渡御書』で、

 「日蓮がかくなれば疑ひををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし」(同 五八三㌻)

と、大聖人を迫害する念仏者よりも重い罪となり、長く地獄で苦しむ様を嘆かれています。

 

 門下への激励

 門下全体に及ぶ迫害の中、『破良観等御書』に、

 「弟子等数十人をろうに申し入るゝ」(同 一〇七四㌻)

とあるように、実際に捕らえられて牢に入れられる者も数十人に上がりました。

 この時、日朗をはじめとする五人の弟子檀那も、幕府によって捕らえられ、土籠に幽閉されていましす。

 既に季節は初冬に差しかかっており、大聖人は、

 「今夜のさむきに付けても、ろうのうちのありさま、思ひやられていたはしくこそ候へ」(同 四八三㌻)

と五人を思い、本間邸滞在中に二通の書状を送り励まされています。

 また、下総(主として千葉県北部)の信徒を心配され、その中心的役割を担っていた太田左衛門尉・曽谷教信・金原法橋に宛てて、十月五日に『転重軽受法門』を送られました。

 同じく浄顕房・義浄房をはじめとする清澄寺の大衆には、同月初旬に『佐渡御勘気抄』を送られています。

 このように大聖人は、弟子檀那に対する為政者・念仏者等からの迫害に想いを巡らせ、信心を貫き通すようできる限り激励され、それに応えて、少数ながらも強盛に妙法の信仰を護り抜く弟子檀那の姿がありました。

 一方、大聖人御自身は、竜口の頸の座と、もはや避けようのない遠流の難について、 まさに法華経の身読であるとしてその法悦を綴られています。

 

 寺泊の津

 結局ひと月近く依智本間邸に拘留されていた大聖人でしたが、種々の讒言の影響もあり、当初言い渡されていた佐渡配流との処遇が決定されました。

  出発の十月十日、大聖人にお供をしたのは日興上人をはじめわずかの弟子方と富木常忍から遣わされた入道で、それに警固の武士数名が付き添いました。

 大聖人は佐渡への行程を『寺泊御書』に、 

 「今月十月十日、相州愛京郡依智郷を起って、武蔵国久目河の宿に付き、十二日を経て越後国寺泊の津に付きぬ。此より大海を亘って佐渡国に至らんと欲す」(同 四八四㌻

と記されています。『法蓮抄』に、

 「鎌倉を出でしより日々に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり。野を行き山を行くにも、そばひらの草木の風に髄ってそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ」(同 八二一㌻)

と仰せられているように、大聖人一行を念仏の敵と見なす人々が非常に多く、道中、心の休まる時間はありませんでした。

 それでも鎌倉街道から北国街道を経て、日本海側の直江津、そして船着き場のある寺泊(新潟県長岡市) へと到着したのです。

 ここで大聖人は、 

 「此の入道、佐渡国へ御供為すべきの由之を承り申す。然るべけれども用途と云ひ、かたがた煩ひ有るの故に之を還す。御志始めて之を申すに及ばず。人々に是くの如くに申させ給へ」(同 四八七㌻) 

と、富木常忍から遣わされた入道を下総に帰されました。

 何カ月、はたまた何年過ごすことになるのかも判らない、佐渡での生活費用の問題もさることながら、連れていくことで富木常忍へ迷惑が及ぶことを大聖人が考慮されたものと拝されます。

 寺泊から佐渡へは、小舟で冬の日本海を渡らねばならず、大聖人一行は順風を待って数日間、寺泊に滞在されました。




 

 

 次回は、佐渡の配所の様子や入島後の出来事などについて学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

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竜の口法難(発迹顕本)

2022年09月05日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年10月1日(第1014号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 130

  日蓮大聖人の御生涯 ⑯

  竜の口法難(発迹顕本)

 

 平左衛門尉等の策謀により、日蓮大聖人を斬首に処す計画が企てられ、文永八(一二七一)年九月十二日酉の刻(午後七時)、大聖人は、鎌倉の評定所より武士の警固のもと竜の口の刑場へと護送されました。 

 途中で大聖人が遣わした熊王丸によって、この知らせを受けた四条金吾は、兄弟と共に駆けつけてお伴し、大聖人一行は、刑場に到着したのです。

 

 竜の口法難(頸の座)

 刑場に到着すると、にわかに武士たちの動きが慌ただしくなり、いよいよ斬首の時が来たのでした。 四条金吾は「只今なり」と合掌しながら泣き崩れたのですが、これを御覧になった大聖人は、

「不覚の殿方である、これほどの悦びを笑いなさい、どうして約束を違えられるか(趣意)」(御書 一〇六〇㌻)

と、四条金吾の日頃の不惜身命の覚悟を促され、頸の座に悠然と端座されたのです。 そして、武士の一人が太刀を抜き、まさに大聖人の頸を切らんと振りかざした時、突如、月のような大きな光り物が江ノ島の方角より飛来したのです。時に丑寅の時刻(午前三時頃)。その光り物は、暗闇の中で居並ぶ人々の顔をはっきり映し出しました。これにより、大聖人の首を切ろうとした太刀取りは、目が眩んでその場に倒れ伏し、周りを囲んでいた武士たちも恐怖のあまり一町(約百メートル)ほども走り逃げ、 ある者は馬から降りて平伏し、またある者は馬の上でうずくまり、恐れおののくばかりでした。

 この時、大聖人は、

 「いかに殿方、これほどの大罪ある召人から遠のくのか、近くに寄って来られよ、近くに寄って来られよ(中略)こうして夜が明けてしまったらどうするのか、頸を切るなら早く斬りなさい、夜が明けてしまえば見苦しいではないか(趣意)」(同)

と声高らかに呼びかけられました。しかし、もはや近づく者は一人もいませんでした。 

 そして長い沈黙の後、大聖人は、武士の案内により依智(神奈川県厚木市)の本間邸へと向かわれたのです。

 翌十三日の正午頃、 本間邸に到着された大聖人は、昨夜以来の任務で疲れている警固の武士たちに酒を振る舞い、労をねぎらわれました。

 この大聖人の御慈悲に対し、武士たちの中には、昨夜の竜の口での出来事からも、自分たちが信じている念仏の信仰に疑問を抱く者も現われたのです。

 やがて、大聖人の警固は幕府の武士から本間家の武士に変わり、竜の口よりお伴してきた四条金吾兄弟もひとまず鎌倉へ帰りました。

 その夜、戌の刻(午後九時頃)、大聖人は武士たち数十人が警固する庭において、夜空に輝く月に向かい、法華経の行者を守護すると誓状を立てた月天子に対して、声高に守護の任を全うするように諌暁されました。そして、諌暁が 終わるや否や、月明かりの夜空から大きな明星が降り下って庭の梅の木にかかり、これを目の当たりにした武士たちは、驚きのあまり、邸の裏に逃げ隠れるなどの有り様だったのです。

 

 光り物について

 大聖人は、光り物の飛来について、頸の座より数日後に御述作の

『四条金吾殿御消息』に、

「三光天子の中で月天子は光り物となって現れて竜の口の頸の座を助け、明星天子は四・五日前に下ってきて日蓮に見参したのである。今は日天子だけが残っている。必ず守護があると心強く思っている。『法師品第十』には『則ち变化の人を遺わして、之が為に衛護と作さん』と、疑ってはいけない。『安楽行品第十四』には『刀杖も加えず』とあり、『普門品第二十五』には『刀尋いで段々に壊れなん』と説かれている。 これらの経文はよもや虚言ではない(趣意)(同 四七九㌻)

 すなわち、頸の座での光り物は、諸天のうちでも、三光天子の月天子の守護であったことを明かし、また、法華経の行者は種々の難に値うが、同時に必ず諸天の守護を受けることは法華経の文に明らかであると御教示されています。

 

 発迹顕本の意義

 さて、先述の竜の口法難は、大聖人の御生涯の中でも、最も重要な意義を持つ法難でした。

 それは、この法難を境として、上行菩薩の再誕日蓮としての仮の姿(垂迹身)を発って、久遠元初の自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)即日蓮という真実の姿(本地身)を顕わされたからです。これを「発迹顕本」と言います。

 大聖人は、龍ノ口法難の後、御配流となられた佐渡において『開目抄』を御述作されますが、その中で御自身の発迹顕本について、

 「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ」

(御書 五六三㌻)

と仰せられています。

 この御文の意味を、総本山第二十六世日寛上人の

『開目抄文段』から拝すると、

「『子の時』とは、大聖人が鎌倉に引き出されて竜の口に向かった時刻である。それは『種々御振舞御書』に『さて十二日の夜、武蔵守のあづかりにて、夜半に及んで頸を切られんがために鎌倉を出でしなり』と仰せである。

夜半とはすなわち子の時である。『丑の時』とは、正しく頸の座に引き据えられた時である。それは『妙法比丘尼御返事』に、『鎌倉竜口と申す処に九月十二日の丑の時に頸の座に引きすえられて候ひき』と仰せである。今『子丑』と言われたのは、鎌倉から引き出され竜の口の頸の座に据えられるまでの時刻を挙げられたのである。『頸はねらる』とは、まさに頸が刎ねられようとしているということである。例えば、『普明、頸を刎ねらる』(大智度論)の文と同様である。これは『及加刀杖』(勘持品)の文に当たり、『魂魄佐渡に到りて』とは、『数々見擯出』(勘持品)の文に相当する。故に日蓮大聖人は、『不愛身命、但惜無上道』の法華経の行者であることは明白である(趣意)」(御書文段 一六六㌻)

と御教示されています。

 しかしこれは、まだ一往、地涌上行菩薩の再誕である末法の法華経の行者としての御立場を示されたものです。 そして、より深い意義として、

 「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われたもう明文なり」(同 一六七㌻)

と、 大聖人の名字凡身の当体が、 内証久遠元初の自受用身として顕われたことの明文であると御教示されています。

 法難のあった丑寅の時刻について、丑の刻(午前二時)は陰の終わりにして死の終わりであり、寅の刻(午前四時)は陽の始めにして生の始めであることから、陰陽生死の中間を意味しています。ここに極めて重要な仏法上の意義があり、『開目抄』の文意としては、子丑の刻は凡身の死の終わりなので「頸はねられぬ」と仰せになり、 寅の刻は久遠元初の自受用身の生の始めなので「魂魄佐土の国にいたりて」と仰せられているのです。

 また、

 「娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模國の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(御書 四七八㌻)

と、大聖人が竜の口を指して常寂光土(仏土)であると仰せられているように、竜の口以後の大聖人の御振る舞いは、久遠元初の御本仏の御立場としての御振る舞いなのです。

 この龍ノ口法難における発迹顕本に当たって、刑場へ向かう途中に大聖人が、八幡宮の社頭において、諸天善神(八幡大菩薩)に対して法華経の行者を守護するよう諌めたこと、また、斬首の時刻が折りしも陰陽生死の中間であったこと、さらに斬首の瞬間に不思議な光り物の出現によって、鎌倉幕府の権力をもってしても斬首することができなかった厳然たる事実に、御本仏大聖人の様々な力用を拝することができるのです。

 私たちはこの発迹顕本の意義を深く拝すと共に、大聖人の諸宗破折と死身弘法の精神を心肝に染め、さらなる破邪顕正の折伏に邁進してまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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第二の国諌と八幡大菩薩への諌暁

2022年09月02日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年9月1日(第1012号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 129

  日蓮大聖人の御生涯 ⑮

  第二の国諌と八幡大菩薩への諌暁

 

 今回は、第二の国諌から竜の口の刑場に至るまでの内容に入っていきます。

 

 『一昨日御書』 

 日蓮大聖人は、評定所に召喚された文永八(一二七一)年九月十日より中一日置いた九月十二日、平左衛門尉頼綱に対し、反省を促すため『一昨日御書』を送りました。その中で『立正安国論』の予言が符号したことを挙げ、日蓮こそ未萌を知る聖臣であり、諸仏の使いであること、また今回の訴えは、すべて諸宗の僧らの策謀によること、一昨日の尋問において頼綱に対し、厳しく諫めたのも、ひとえに異敵を対治し、国土を安んずるためであると記し、

 「抑貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや、早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし」(御書 四七七㌻)

と、頼綱の再考を促しましたが、大聖人の誠実な訴えは頼綱には通じませんでした。 

 

 第二の国諌

 これらの諌暁に対して平左衛門尉頼綱は、ますます憎悪の念に駆られ、その日のうちに大聖人を召し捕るために、日が落ちて薄暗くなった夕方の五時頃、武装した数百人の兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵に押し寄せるという、狂乱極まりない行動に出たのです。

 松葉ヶ谷の草庵に着くと、土足で荒々しく踏み込み、経巻を踏みにじるなど暴虐の限りを尽くしました。大聖人は、この時の思いを『種々御振舞御書』に次のように記されています。

 「常日頃、月々に志していた願業はこれである。ああ幸いなるかな法華経のために一身を捨てよとは、臭い凡身の首を斬られるならば、砂と黄金を交換し、石をもって珠を買い求めるようなものではないか(趣意)」

(御書 一〇五八㌻)

 このような状況下にあっても、大聖人は今こそ法華経身読のまことの時なりと感じられ、泰然自若として唱題されていました。

 この時、頼綱の一の郎従である少輔房は、 大聖人が懐に入れられていた「法華経第五の巻」を奪い取り、その経巻で大聖人の頭を三度にわたって打ち据えました。この第五の巻には、末法に法華経を弘通するならば、三類の強敵が競い起こり、刀杖の難に遭うと説かれた『勧持品』が納められているのです。大聖人は不思議にもこの経巻で打ち据えられたことに、後年、少輔房を経文符合の恩人とも記されています。

 小さな草庵は、頼綱らの数百人の兵士によって瞬く間に足の踏み場もないほど荒らされ、残りの法華経も兵士たちが抛げ散らし、あるいは足で踏みつけ、あるいは身に巻きつけるなど、破壊行為を続けたのです。その時、突然、大聖人は大音声を放って、

 「あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ。とのばら、但今ぞ日本国の柱をたをす」(御書 一〇五八㌻)

と喝破されました。

 この大聖人の大音声に、乱暴の限りを尽くしていた平左衛門尉とその郎従たちは、一瞬我に返り、大聖人の烈々たる気迫に、顔色を失い、静まり返ったのです。

 この大音声こそ、第二回目の国家諌暁です。

 その後、頼綱たちは気を取り直し、やっとの思いで大聖人を捕らえたのでした。

 

 八幡大菩薩への諌暁

 『神国王御書』に、

 「鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし」(御書 一三〇五㌻)

と述べられるように、身を縄で縛られた大聖人は、 松葉ヶ谷の草庵から、まるで重罪人のように鎌倉の街中をひき回され、評定所へ連行されました。そして平左衛門尉より「佐渡流罪」との評決を言い渡されます。しかしこれは幕府としての表向きの評定であり、大聖人は『下山御消息』に、「一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流と聞こへしかども、内には頸を切ると定まりぬ」(御書 一一五一㌻)

と記されているように、内実は、大聖人を憎む平左衛門尉や武蔵守大仏宣時らの要人、そして良観ら諸宗僧侶や権門の女房たちの策謀により、その日の夜半のうちに、ひそかに大聖人を斬罪の刑に処するものだったのです。

 そして、酉の刻(午後七時頃)、大聖人は評定所から鎌倉の市中にある武蔵守宣時の邸へ預かりの身として連行され、しばらく留め置かれました。やがて深夜、子の刻(午前零時頃)になって、武装した武蔵守の家来数名に前後を固められ、馬に乗せられ出発したのです。

 佐渡流罪という罪状からみれば行き先は、宣時の家人・依智の本間六郎左衛門の館ですが、その目的地は竜の口の刑場でした。大聖人はもとよりその意向を察しており、その時の心境を、「今夜頸切られへまかるなり、この数年が間願ひつる事これなり、此の娑婆世界にしてきじとなりし時はたかにつかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらはれき。或はめに、こに、かたきに身を失ひし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失ふことなし。さらば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。其のあまりは弟子檀那等にはぶくべし」(御書 一〇五九㌻)

と述べられてます。

 大聖人を取り囲む一行が、若宮小路に出て鶴岡八幡宮の前まで来た時、大聖人は馬を止められました。いぶかしがる警固の武士たちに対し、「各々さわがせ給ふな、べちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事あり」(同)

と制止し、馬より降り、八幡大菩薩に向かって、「いかに八幡大菩薩はまことの神か」(同)

と叱責し、今こそ、日本第一の法華経の行者たる日蓮を守護されないならば、仏説を虚妄のものとすることになり、必ず釈尊の責めを被るであろうと大音声をもって諌暁されたのです。

 

 四条金吾のお供

 大聖人の一行は再び、暗闇の中を竜の口の刑場をめざして歩み始めました。一行が由比ヶ浜近くの御霊神社の前にさしかかったとき、大聖人は再び馬を止められ、「しばしとのばら、これにつぐべき人あり」(同)

 と仰せられ、大聖人は熊王丸という童子を遣わして四条金吾に事の次第を知らせました。

 知らせを聞いた四条金吾は、急いで兄弟と共に駆けつけ、大聖人にすがるように馬の轡に取りつき、大聖人の処刑があまりに急であり、また重刑を科せられたことに、嗚咽するばかりでありました。しかしやがて心を定め、刑がもし実際に執行されたなら、自らも殉死する覚悟を決め、竜の口までお供をしたのです。

 大聖人は、この時の四条金吾の不惜身命の信心にいたく心を打たれ、後に『四条金吾殿御返事』に、

 「文永八年の御勘気に時、既に相模国 竜口にて頸切られんとせし時にも、殿は馬の口に付きて足歩赤足にて泣き悲しみ給ひ、事実にならば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思ひ忘るべき」(同 一五〇一㌻)

と賞賛されています。

 私たちは、今一度、御本仏日蓮大聖人の御一期の御振る舞い・御化導を拝し、四条金吾のように赤誠の信心を見習って、不惜身命の折伏行に邁進しましょう。




 次回は、竜の口法難について学びます。

 

 

 

 

 

 

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策謀をめぐらす良観たち

2022年08月28日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年7月1日(第1008号)

 日蓮正宗の基本を学ぼう 128

 日蓮大聖人の御生涯 ⑭

   策謀をめぐらす良観たち

 

 前回学んだ通り、文永八(一二七一)年六月十八日から始まった極楽寺良観の祈雨は、干ばつが悪化し暴風が吹き荒れる結果となり、完全に失敗に終わりました。

 そもそも祈雨というのは、その降った雨の様子を見て功力を評価するものですが、良観の祈雨はそれ以前の問題だったのです。

 この六月十八日は現在の暦では八月二日に当たりますから、ついには八月中旬まで干ばつが続いてしまったことになります。そのことからも、人々の歎き、 農作物への打撃は相当のものであったと考えられます。

 そこで大聖人は、良観に弟子を遣わして、

 「人々の歎きはますます深まっている。速やかにその祈りを止めなさい(趣意)」

  (御書 一一三二㌻)

 「一丈の堀を超えられぬ者が十丈二十丈の堀を超えることができようか(中略)能因法師は破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らしたのに、二百五十戒を持つ人々が集まって十四日間も祈ったのに雨が降るどころか大風が吹く始末である。これをもって知りなさい。あなたたちの極楽往生は叶わないものであると(趣意)」(御書 一八五八㌻)

と伝え、良観はあまりの悔しさに涙を飲んだのでありました。

 この良観の失敗は、それに協力した鎌倉の諸大寺にとっても大きな恥辱となったのです。祈雨の勝負に負けた良観は、かねての約束通りに大聖人の弟子になるどころか、これらの諸大寺の高僧らと策謀をめぐらす有り様でした。

 その策謀とは、浄光明寺の、念阿弥陀仏(然阿)良忠の弟子行敏(乗蓮)を表に据え、大聖人への問難の書状を書かせて対決させようとしたのです。

 行敏は直ちに問難状を認めて、次の四点の疑難を大聖人に提出しました。

 「風聞した通りであれば、日蓮御房の主張する教義には不審がある。すなわち、

(1)法華経以前の爾前経は、すべて妄語であり生死の苦しみから離れる法ではないということ。

(2)大小の戒律は世間を惑わせ悪道に堕す法であること。

(3)念仏は無間地獄に堕ちる業であるということ。

(4)禅宗は天魔の説で、その修行する者は悪見を増長するということ。

 右を御房が本当に言ったのであれば、貴辺は仏法の怨敵である。よって、対面を遂げてその悪見を破ろうと欲するものである(趣意)」(御書 四七一㌻)

 この問難状は、僧・行敏の名前となっていますが、 その背後には極楽寺良観のほか、念阿良忠、道阿弥陀仏等の鎌倉諸大寺の人々がいました。 正しく自分たちは高徳の僧と仰がれながらも、その裏で他人を使って法華経の行者を迫害する僭聖増上慢の面目躍如の振る舞いですが、その狙いは私的な問答に大聖人を引っぱり出して屈服させようとしたところにあったのです。

 彼らの悪巧みを見抜いていた大聖人は、 かえってこの機会をとらえて公場対決によって正邪を決しようとお考えになりました。そして、行敏には次のように返事をされたのです。

 「行敏御房が不審に思うことについて、私的な問答ではなく、御房より上奏を経られて、その仰せくださるところの趣旨にしたがって、是非を糾明するべきである。このように公場にて正邪を決することこそ、願うところである(趣意)」(御書 四七二㌻)

 こうして私的な問答を仕掛けようとした思惑は外れ、行敏らは幕府問注所へ大聖人を謗ずる訴状を提出したのです。

 

 行敏の訴状

 当時の通例に従って、その訴状は問注所から大聖人のもとへと届けられ、直ちに大聖人は答弁となる陳状を認められました。これが『行敏訴状御会通』です。

 さて、行敏らの訴えは次の通りでした。

①八万四千の経教を、一を真実として他を非とするのは道理ではなく、その考え方こそ謗法である。

②日蓮房は法華経に執着して他の大乗の教えを誹謗している。

③日蓮房は法華経以前の諸経を妄語とした。

④日蓮房は禅宗を天魔の教え、戒律を世間を誑かす法であると言った。

⑤ 人々の信仰せるところの本尊、阿弥陀や観音などの尊像を火に焼き、水に流した。

⑥凶徒を草庵に集めている。

 右内容の一つひとつに対して、

大聖人は反論を加えられています。すなわち、

①〜④の内容は、大聖人自身の言葉ではなく、釈尊自身の御言葉(「四十余年未顕真実」など)によるものであること。

⑤は身に覚えのないことで、確かな証人を呼び出して事実を糾明すべきであり、もし証人がいなければ大聖人に罪を着せるための陰謀である。

⑥については、法華経守護のための弓箭刀杖は仏法に定まれる法である。 

 そしてこれらの陳述に続けて、こうした訴えの根源が極楽寺良観にあり、良観が自らの邪義を覆い隠すため、日蓮房は阿弥陀仏の怨敵であり、首を切り追放せよと言いふらしていることを述べられています。

 つまるところ訴状の内容(特に⑤)は、良観らによる大妄語であり、宗教の正邪を糾明せずに、ただ権力者に取り入って悪感情をかき立てさせ、もって大聖人とその門下に迫害を加えようとしたものであったのです。

 しかし良観らによる悪辣な策謀を信じ込んだ、北条時頼の妻であり時宗の母である後家尼御前をはじめとする、権力者の女房をたちが、執権ら北条氏一門並びに幕府要人たちに大聖人の処罰を強く迫ったのです。その様子が後年の『報恩抄』に次のように記されています。

 「多くの禅僧・念仏者・真言師たちが、幕府の奉行人、権力者、権力者の女房や時宗の母の後家尼御前に無数の讒言をしたために、最後には『天下第一の大事』『日本国を滅ぼそうと呪う法師である』『故最明寺殿(時頼)や極楽寺殿(重時)のことを無間地獄に堕ちたりという法師である。御尋ねするまでもなく、直ちに日蓮房を斬首し、その弟子たちも斬首や流罪などに処分すべき』と、後家尼御前たちが瞋りをなして強く訴えたので、その主張のままに行われたのである(趣意)」(御書 一〇二九㌻)

 こうして良観らの策謀によって、事態は大きくなり、大聖人は幕府評定所へ召喚されることとなったのです。

 

 評定所での召喚

 時に文永八年九月十日、大聖人は評定所へ召喚され、北条家の家司であり侍所の所司である平左衛門尉頼綱と対面しました。

 頼綱は大聖人に、「故最明寺入道殿、極楽寺殿の死亡に対し無間地獄に堕ちたと公言しているのか。建長寺・極楽寺等を焼き払え、道隆上人や良観上人等の首をはねよと言っているのか」と尋問しました。

 これに対して大聖人様は、

 「上件の事一言もたがはず申す」(御書 一〇五七㌻)

と答えられ、ただし、謗法を捨てて正法に帰依しなければ地獄に堕ちるであろうとの諫言は、故最明寺殿・極楽寺殿が存命の時から申し上げてきたことであって、死後初めて堕地獄であると言い出したとするのは、訴人の虚言であると申し述べられました。また、堕地獄となると主張したのはこの日本国を思うためであり、蒙古襲来が現実に迫ってる今、その国の安穏を思うのであれば、訴人を召喚して大聖人と対決させてから、両人の主張をもって判断するようにと仰せられたのです。

 大聖人は、さらに次のように申しつけられました。

 「もし幕府が一方的に訴人の訴えの通りに、理不尽に法華経の行者である大聖人を処罰するならば、国内の同士討ち(自界叛逆難)と蒙古襲来(他国侵逼難)が起こり、後悔するであろう(趣意)」(同 一〇二九㌻)

 この権力を恐れない堂々とした反論に、かえって頼綱は憎悪の念に駆られ、瞋りを露わにしたのであります。実は、この尋問は開かれこそしたものの、この時既に大聖人の処罰は定められていたのです。

 こうして、祈雨の勝負に負けた良観をはじめとする人々の悪意が大聖人と門下を取り囲み、策謀によって、いよいよ竜ノ口法難へと続いていくのです。




      ◇      ◇



 私たちは、 この一連の出来事を単なる歴史上の一事件とのみとらえるのではなく、我が身に当てはめて拝し、難に直面したときには自らも魔に負けない不退転の覚悟を持つことが大切です。

 

 

 

 

 

 

 

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他国侵逼難の兆候

2022年08月24日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年6月1日(第1006号)

 日蓮正宗の基本を学ぼう 127

 日蓮大聖人の御生涯 ⑬

  他国侵逼難の兆候

 

 前回は、小松原法難後に起こった種々の出来事について学びました。

 今回は、『立正安国論』に予言された二難のうち、他国侵逼難の兆候が現われてきた当時の様相を学んでいきましょう。

 

 蒙古の使者

 日蓮大聖人の御生涯を学ぶ序章として、御在世である十三世紀当時、蒙古國(モンゴル帝国)がユーラシア大陸の大半に及ぶ勢力を誇っていたことに触れました(大白法九七八号参照)

 文永五(一二六八)年一月、その蒙古國から日本へ、高麗の使節団によって初めての国書がもたらされました。「蒙古國牒状」あるいは「大蒙古國皇帝奉書」と称されるその書状は、通交関係を求めるものでしたが、日本に朝貢を促し、武力行使をほのめかす高圧的な内容でした。

 国書は、まず太宰府から鎌倉幕府に届けられ、その後朝廷に回送され、対応について評定が開かれました。結局、返答無用となり、七ヶ月後に高麗の使節団は帰還しています。

 その間、幕府は蒙古襲来に備えるよう御家人に通達すると共に、得宗家の北条時宗が十八歳で執権となり、権力の一元化を図りました。また、蒙古の求めに一切応じない姿勢を貫く一方、諸大社・ 寺院に蒙古調伏(撃退)の祈祷を命じました。

 蒙古国書の到来は、たちまち世間に弘まり、鎌倉はおろか日本国中が緊張に包まれる事態となりました。 

 かつて大聖人が、文応元(一二六〇)年の『立正安国論』に予言されていた「他国侵逼難」が、ついに現実の問題として現われてきたのです。

 蒙古の来牒を耳にされた大聖人は、四月五日に『安国論御勘由来』を著されました。

 この書には、『立正安国論』御著述の縁由と提出に至る経緯、この度の来牒による勘文(『立正安国論』)に記した予言の的中、そして蒙古国対治の方途を知るのは 大聖人お一人であることが明かされています。

 『安国論御勘由来』を送られた相手の法鑑房については、入道していた平左衛門尉頼綱の父盛時であるとする説と、北条家に近い出家僧であるとする説がありますが、定かではありません。確かなことは、書中に『立正安国論』を北条時頼に取り次いだ、宿屋入道との対面に関する記述があることから、幕府に近い立場の人物であったということです。 

 しかし、法鑑房からの返事はなかった様子で、 四ヵ月以上が経過した八月二十一日、大聖人は今度は宿屋入道に書状を認められ、新しく執権となった北条時宗の内奏を計られました。 

 

 十一通の諌状

 大聖人は、翌九月に再び宿屋入道へ書状を送られましたがいずれも返報はなく、公場において法の正邪を決する以外にないと、十月十一日に諌状を認められました。

 その宛先は、北条時宗、宿屋左衛門光則(宿屋入道)、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺の十一ヵ所であり、これが十一処への直諫状(十一通御書)です。

 そのうちの一通に、

 「敢へて諸宗を蔑如するに非ず。但此の国の安泰を存ずる計りなり」(御書 三八〇㌻)

と仰せのように、大聖人の烈々たる諸宗破折は、日本国の安泰と民衆の平安を願う一念から起こるものだったのです。

 しかし後年、大聖人が『種々御振舞御書』(御書 一〇五五㌻)に当時の様子を述懐されているように、幕府の要人や諸宗の僧侶等は、返事をしないばかりか、かえって諌状の使者に悪口を言う者までいました。

 さらには、大聖人に対して「頸を刎ねるべきである」「鎌倉から追い出すべきである」、その弟子・檀那についても「所領を没収して頸を切れ」「牢に入れよ」「遠流せよ」などと、謀略を巡らす有り様でした。

 大聖人の破折と御指摘は、彼らが怒りを覚えるほどに、仏法の正邪と権力者の本質を突くものだったと言えます。

 こうした事態を予見されてか、大聖人は諌状を送られた同日に、『弟子檀那中への御状』を認められています。

 この御状は、大聖人が十一ヵ所へ諌状を送られたことに伴い、一門へ不惜身命の覚悟を促されるものでした。

 御状に、

「定めて日蓮が弟子檀那、流罪死罪一定ならんのみ。少しも之を驚くこと莫れ。(中略)少しも妻子眷属を憶ふこと莫れ、権威を恐るゝこと莫れ。今度生死の縛を切りて仏果を遂げしめ給へ」

 (御書 三八〇㌻)

と、

 妙法のために流罪・死罪は定まったことであると覚悟し、妻子・眷属に気を引かれることなく信心を貫き通すよう御教示されています。

 

 再びの使者と

 『安国論奥書』

 以後も幕府側からの正式な返答はありませんでしたが、大聖人や弟子・檀那に直接的な危害が加えられることはありませんでした。

 文永六年頃まで、大聖人が主として破折されてきたのは念仏宗と禅宗でしたので、他の真言宗等は大聖人の書状を我が事として受け止めておらず、幕府としては伊豆配流赦免の際の事情もあり、再び罪なき大聖人を処罰することに踏み切れなかったのかも知れません。

 しかし文永六年、蒙古は返書を求めて再三日本に使節を派遣し、あるときは、対馬の島民二人を捕らえるなど、情勢は緊迫の一途をたどっていました。

 この年も大聖人は、再びの諌状を各所へ送るなど日本国の安寧を祈り、諸宗破折を絶えず続けられていましたが、十二月八日に至り、『立正安国論』を書写されると共に奥書を認めています。

 この奥書には、

 「又同六年重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ」(御書 四二〇㌻)

と、再びの牒状到来について記されると共に、

 「之に準じて之を思ふに未来も亦然るべきか」(同)

と、今後必ず国難が起こるであろうと仰せられています。

 これより以後、大聖人の破折は真言宗にも向けられるようになり、いよいよ邪宗が結託し、大聖人への敵対心を露わにし始めたのです。

 

 極楽寺良観の祈雨

 文永八年は、五月頃から全国的に干ばつが続き、農作業に多大な被害が出たために人々は困窮しました。

 幕府は、財政の維持と民衆の救済を目的として、極楽寺良観(忍性)に雨乞いの祈祷を命じました。良観は真言律宗の僧侶で、療病院や悲田院などの福祉施設を振興するなどして、人々から生き仏のように崇められていました。

 良観が、六月十八日から七日間の祈祷を行うと聞かれた大聖人は、仏法の正邪を広く知らしめる機会であるとお考えになり、良観の弟子に次のように伝えられました。

 「七日以内に雨を降らせたならば、日蓮は念仏が無間地獄への法であると申してきた法門を捨てて、良観上人の弟子となって小乗の二五〇戒を持とうではないか。その代わり雨が降らなければ、良観房は持戒者のように見えるけれども、その法門は人を惑わす悪義であることが明らかとなるであろう(中略)その時はひたすらに法華経を信仰せよ(趣意)」(御書 一一三一㌻)

 この祈雨に際しての約束を受諾した良観は、百人以上の弟子たちと共に祈りましたが雨が降る気配はありませんでした。

 良観は祈祷を失敗するわけにはいかず、 恥をかなぐり捨て、四・五日経過後に追って数百人の弟子を呼び寄せ、さらに十四日間に期間を延長するなどしました。

 しかしながら、最後まで雨が降ることはなく、干ばつは悪化して暴風が吹き荒れ、より一層、人々を苦しめる結果となりました。

 どんなに外面を取り繕い、日頃人々から崇められようとも、正法を前にして謗法者の祈りが叶うはずはなかったのです。

 

 

 

 

 次回は、極楽寺良観の祈雨の失敗以後、竜ノ口法難へと至る背景について学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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教線拡大と御母の逝去

2022年08月20日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年5月1日(第1004号)

 日蓮正宗の基本を学ぼう 126

 日蓮大聖人の御生涯 ⑫

 教線拡大と御母の逝去

 

 道善房との再会

 小松原において、東条景信による襲撃に遭われた 日蓮大聖人は、花房の蓮華寺に身を置かれました 。そして、三日後の文永元(一二六四)年十一月十四日、景信による襲撃事件を知った旧師の道善房は、大聖人の身を案じて蓮華寺へ訪ねてきたのです。その時、大聖人は宗旨建立以来、景信の妨害によって疎遠となっていた道善房に対して師恩を報ずるため、道善房が帰依する念仏の邪義を破折され、妙法に帰依するよう説かれました。この折伏が契機となり、後に道善房は妙法に帰依するのですが、心では妙法に帰伏しつつも 、ついには念仏を捨てることができませんでした。

 なお、再会より十二年後の建治二年三月十六日に道善房は死亡し、その知らせを受けた大聖人は、同年七月二十一日に『報恩抄』を述作され、弟子の日向に託して安房清澄寺の浄顕房・義浄房のもとへ送られました。そして故道善房の墓前と嵩が森の頂にて読み上げるよう指示され、幼少の頃より学問の手ほどきを受けた師への恩に報いられたのです。

 

 東条景信の死

(念仏は無間地獄の業因)

 文永元年九月二十二日述作の『当世念仏者無間地獄事』には、

「日本国中の四衆の人々は形は異なり替はると雖も、意根は皆一法を行じて悉く西方の往生を期す。仏法繁盛の国と見えたる処に一の大いなる疑ひを発こす事は、念仏宗の亀鏡と仰ぐべき智者達、念仏宗の大檀那たる大名小名並びに有徳の者、多分は臨終思ふ如くならざるの由之を聞き之を見る」(御書 三一三㌻)

とあり、また同抄に、

「念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」(法華経 二三㌻)

と仰せられています。

 すなわち、念仏に帰依する高僧や大檀那の臨終は非常に苦しんだ末に悶死することが多く、それは、かつての松葉ヶ谷の草庵襲撃を先導した極楽寺重時(北条重時)や小松原における襲撃の首魁である東条景信も例外ではありませんでした。

 景信は小松原の法難の後、日ならずして狂死したと言われています。

 これについて大聖人は、

「彼らは法華経の十羅刹の攻めをかほりて早く失せぬ」(御書 一〇三〇㌻)

と仰せられ、法華経の行者を苦しめた現罰として、十羅刹の責めを受けた結果であることを御教示されています。

  そもそも念仏(浄土宗等)の教義は、穢れた国土である娑婆世界より、浄い国土である西方極楽世界に往生を願うというものですが、法華経の開経である『無量義経』には、

「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三㌻)

とあり、『方便品』には、

「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経 一二四㌻)

とあるように、法華経が説かれる以前の経教(爾前経)は、すべて法華経に導くための方便の教えであり、法華経のみが真実の教えであることが明かされているのです。

 つまり、念仏の所依とする経典(浄土三部経)は、すべて釈尊が正直に捨てよと説かれた方便の経典なのです。 ところが日本浄土宗の開祖法然は、その著、『選択本願念仏集(選択集)』において、真実の教えである法華経を、捨てよ閉じよ等(捨閉閣抛)と誹謗したのです。これは法華経に背く大謗法罪に当たりますから、念仏を信仰する人々も極楽往生などはおろか無間地獄に堕ちることは必定であり、それは臨終の際の悪相として現れたのです。

 

  南条家墓参

 大聖人は、小松原法難の翌文永二年(一二六五)年より鎌倉を中心として、房総各地の弘教にも励まれ、その教線は上総・下総・安房へと広がりました。

 そのような中、同年三月八日、かねてより重病であった駿河國上野の信徒であった南条兵衛七郎が逝去し、その知らせを受けた大聖人は、鎌倉よりわざわざ上野の南条家を訪れられ、墓前にて懇ろに御回向されたのです。

 御家人である南条兵衛七郎は、鎌倉へ出た際に直接大聖人から教化を受けて入信し、夫人をはじめ一族を正法に導き、純粋な信仰を持った方でした。

 この兵衛七郎の子息が南条時光殿です。

 この時の時光殿は、わずか七歳の少年でしたが、父亡き後も母からの薫陶と日興上人の厳しい訓育によって南条家の跡取りとして、また、信仰者としても大きく成長を遂げ、後に大石寺開祖の大檀那となります。

 またその頃、後の六老僧に数えられる日向が入門し、信徒では上総の佐久間兵庫助重貞が一家を挙げて入信し、 長男の長寿麿(美作公日保)が大聖人の弟子に加えられました。 

 

 『法華題目抄』

 さて、この頃に著された御書に

『法華題目抄』があります。

 本抄は、文永三(一二六六)年一月六日、大聖人御年四十五歳の時に著され、内容から念仏に執着している女性に宛てた御消息と拝されます。

 本抄の大意を総本山第二十六世日寛上人の『法華題目抄文段』から拝すると、

「文の初めに能唱の題目の功徳を明かし、次に所唱の妙法の具徳を明かす。是れ則ち能唱の功徳の広大なる所以は、良に所唱の具徳と無量なるに由るが故なり」(御書文段六四九㌻)

と御教示のように、「能唱の題目」すなわち、唱題の功徳を明かす部分と、「所唱の妙法」すなわち、唱えられる妙法に具わる徳を明かす部分の二つに分けられます。

 まず「能唱の題目」では、信の題目、すなわち信心が重要であり、その上から唱題をしていくことが、あらゆる罪業を消し去り、無量の功徳を具えていくことを示されています。偉大な御本尊の仏力・法力を顕現するのは、衆生の信力・行力にあり、信心の実践こそが重要であると拝することができます。

 次の「所唱の妙法」では、妙法蓮華経の五字には一切の経典の功徳が納まる故に、衆生はこの五字を信じて唱題することで、その一切の功徳が具わることを明かされ、特に妙の一字に具わる徳については、一切の経典の功徳を含む義(具足円満)から、一切衆生の盲目を開く義でもあると説かれています。

 さらに、

 「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがえる義なり」(御書 三六〇)

と仰せのように、 爾前経では仏の種子を焦って成仏できないとされた二乗(声聞・縁覚)、一闡提人(正法誹謗の重罪の者)、女人のいずれも妙法蓮華経の妙の一字を受持することで、仏種が蘇って芽を出すように、成仏に至ることができると仰せられています。

 特に日本国の一切の女人が妙法の題目を唱えずに念仏に執着する理由は、悪知識に誑かされているからであると喝破され、念仏こそ女人の敵であり、心を改めて妙法の題目を唱えるよう御教示され、本抄を結ばれています。

 つまり本抄は、妙法蓮華経の御本尊には無量の福徳があり、信心の実践によって、どのような人であっても大きく境界を開いていけることを示されているのです。

 

 御母・妙蓮の逝去

 大聖人は、文永三年から文永四年にかけて、主に上総、下総を弘教され、その時、後の六老僧の一人である日頂が入門し、さらに教線も常陸や下野へと広がりました。

 このような折、かつて病を患い、大聖人の心からの平癒の祈念によって寿命を長らえた御母・妙蓮が、文永四年八月十五日、安祥として逝去されました。

 各地の布教に奔走されていた大聖人にとって、御母の逝去はとても辛く悲しい出来事であったと拝されます。

 しかし、翌文永五年には、武力行使によって勢力を拡大していた蒙古帝国が、ついに日本を属国とすべく使者を送ってくることになります。

 これにより、かねて大聖人が『立正安国論』で予言した「他国侵逼難」が現実のものとなり、日本(鎌倉幕府)は、風雲急を告げる事態となっていくのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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伊豆配流の御赦免から小松原法難まで

2022年08月16日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

日蓮正宗の基本を学ぼう 125

日蓮大聖人の御生涯 ⑪

伊豆配流の御赦免から

     小松原の法難まで

 前回は、伊豆配流の身となった大聖人が、相模灘を護送されて川奈の津へと到着された際、困窮していたところを船守弥三郎に助けられ、その夫婦より外護を受けたこと。そして、配流地である伊東の地頭・八郎左衛門の病気平癒の祈祷を行い、その結果、病が癒え、八郎左衛門は念仏を捨てて大聖人に帰依し、御礼として海中より引き上げられた一体の釈迦立像仏を御供養したこと。さらには伊豆配流中に著された『四恩抄』『教機時国抄』の概要を紹介し、最後に伊東八郎左衛門より御供養された一体仏の釈迦立像について学びました。

 御赦免

 今回は、伊豆配流を御赦免になられるところから、拝していきます。

 この伊豆配流は、もともと『妙法比丘尼御返事』に、

 「念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ」(御書 一二六三㌻)

と示されているように、松葉ヶ谷の襲撃で大聖人を殺害できなかった極楽寺重時(北条重時)、執権・北条長時の父子、念仏宗の僧徒たちが策謀した冤罪であり、理不尽極まるものでした。

 そのため、『下山御消息』には、

「正法に背く一闡提の国敵である法師らの讒言を信用して、その内容を吟味せずに、何の詮議もなく大事な政道を曲げられたのは、わざと災いを招こうとされたのか、全くはかないことである。しかし、事態が鎮まってみると、無実の罪で罰したことが恥ずかしかったためか、間もなく赦免となり、鎌倉へ戻されたのである」とあります。

また、『聖人御難事』には、

 「故最明寺殿の日蓮をゆるしゝ(中略)は、禍なかりけるを人のざんげんと知りて許しゝなり」(御書 一三九七㌻)

と記され、『破良観等御書』にも、

 「最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれて、いそぎゆるされぬ」(御書 一〇七九㌻)

とあるように、前の執権・北条時頼が、念仏宗の僧徒をはじめ、極楽寺重時・長時父子らの悪計によって幕府が無実の大聖人を罰したことに気づき、すぐに赦免の措置をとりました。

 こうして、弘長三(一二六三)年の二月二十二日、大聖人は、一年九ヵ月にわたる伊豆配流を御赦免になられ、鎌倉へ帰還されました。

 御母・妙蓮の蘇生

 翌文永元(一二六四)年の秋、大聖人は、御母・妙蓮の危篤の報せを受け、立宗宣言以来、十二年ぶりに故郷の安房へと急ぎ向かわれました。

 十二年ぶりの帰郷になったのも、幕府の要人である極楽寺重時、執権・長時父子、そして地頭・東条景信らの念仏者たちに阻まれて、安房の国東条の郷へ入ることができない状況であったからです。特に地頭の景信は、立宗宣言の時に念仏の信仰を破折された恨みに加えて、名越領家の尼の領地内にあった清澄寺と二間寺を奪って、念仏の寺に改宗させようと悪計を働いていたところを、大聖人の祈願と適切な指導によって裁判が領家側の勝利となってしまい、大聖人に対する憎悪と怨念を一層強くしていきました。

 大聖人は、故郷の安房に戻れば、地頭の景信に命を奪われるかも知れない状況の中で御母の危篤の報せに、我が身を顧みず帰省されたのです。

 悲母は、『伯耆公御房消息』によると、

 「ひとゝせ御所労御大事にならせ給ひ候て」(御書 一五八九㌻)

と述べられているように、一年ほども前から重い病に罹っていたようです。大聖人が御到着されたときには、懐かしい母はまさに臨終の状態でしたが、『可延定業御書』に、

 「されば日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(御書 七六〇㌻)

と、大聖人の心からの御祈念によって、悲母は日ならずして快復し、四年の寿命を延ばされました。 

 大聖人の孝養の一念は、

 「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書 三六〇㌻)

とあるように、悲母の現身に妙法不思議の力用を現わされたのです。

 小松原法難

 東条景信の襲撃

 その後、大聖人は安房の地に留まり、 花房の蓮華寺を拠点に布教に専念されていました。大聖人の帰郷を聞いた天津の領主・工藤吉隆は、大聖人の来臨を願いました。 

 工藤吉隆は、大聖人の伊豆配流中にも御供養を申し上げ『四恩抄』を賜っていることから、早くから大聖人の御化導によって帰依し、外護を尽くした安房地方における有力な篤信の信者であったことが想定されます。 

 大聖人は 吉隆の願いを受け、十一月十一日、弟子と信者の十人ばかりの供を連れて、花房の蓮華寺から、吉隆がいる天津の館に向かわれました。既に辺りは暗くなりかけていた頃、大聖人の一行が松原の大路にさしかかったとき、突如、東条景信が 数百人の武装した念仏者を率いて、襲いかかってきたのです。

 この時の様子について大聖人は、『南条兵衛七郎殿御書』に、

 「今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわずかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり」(御書 三二六㌻) 

と述べられているように、弟子の鏡忍房はその場で打ち殺され、急報を受けてわずかの手勢を率いて駆けつけた工藤吉隆も死力を尽くして防戦しましたが瀕死の重傷を負い、それがもととなって間もなく殉死したと言われます。その他の者も深手を負い、大聖人御自身も景信が切りつけた太刀によって右の額に深手を負われ、左手を骨折されるという、命に及ぶ大難を蒙られたのです。

 日本第一の法華経

 の行者 

 先ほど引用した『南条兵衛七郎殿御書』の御文の続きには、「このように難に遭うこと自体、法華経の予言通りであり、法華経の確信を増すばかるである」と述べられています。

そして、法華経『法師品第十』の、

 「而も此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」

  (法華経 三二六㌻)の文、

法華経『安楽行品第十四』の、

 「一切世間に怨多くして信じ難し」(御書 三九九㌻)

の文を引用され、これらの経文の通りに、 法華経の弘通のために、小松原の法難をはじめとする様々な命に及ぶ大難を受けられた御自身を、「ただ日蓮一人こそ法華経を身をもって読んだのである。まさに法華経『勘持品第十三』の『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』の経文の通りである。故に日蓮は日本第一の法華経の行者である」と宣言されています。

 続いて大聖人は、真の法華経の行者であるとの御自覚から、

 「もしさきにたゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ」

 (御書 三二六㌻)

と仰せられ、対告衆である南条兵衛七郎殿の信心を励まされています。





 次回は教線拡大と御母の逝去について学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

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