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③日蓮正宗の三宝に帰依しましょう

2022年10月27日 | 法華講員の心得(一)

大白法 令和2年8月1日(第1034号)から転載

 妙法の振舞い

 『法華講員の心得』より

  ③日蓮正宗の三宝に帰依しましょう

 

 仏教では、仏法僧の三宝に帰依することを教えています。

 三宝とは、この世に出現した仏と、仏が説いた法と、その法を伝える僧をいいます、。この三つがそろって、はじめて、衆生は仏法の功徳に欲することができるのです。ですから、仏法僧を「宝」として崇めるのです。

 日蓮正宗では次のように三宝を立てています。

 

 仏宝・・・日蓮大聖人

 「大聖人」という呼び方は、

 「仏・世尊は実語の人なり、故に聖人・大人と号す」(開目抄)

と仰せられるように、仏の別号である「大人」と「聖人」を合わせた名称です。また仏は主師親の三徳を具えた方をいい、御自ら、

 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(開目抄)

と仰せられ、日蓮大聖人こそ末法の人々を庇護し(主の徳)、教導し(師の徳)、養育される(親の徳)という三徳を具えた御本仏であることを明かされています。



 法宝・・・本門戒壇の大御本尊

日蓮大聖人は、末法の人々を成仏に導くため、久遠本仏としての御内証を御本尊として顕わされました。その御本尊とは、出世の本懐として弘安二年(一二七九)十月十二日に顕わされた「本門戒壇の大御本尊」です。

 「戒壇」とは、 御本尊を安置する処をいいます。日蓮大聖人は、広宣流布の暁に全世界の人々が参詣し、罪障消滅して成仏を願うために本門の戒壇を建立するようご遺命されています。この戒壇に安置される根源の御本尊ですから「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。

 日蓮正宗では、この大御本尊を法の宝として崇めます。



 僧宝・・・第二祖日興上人

 大聖人は、

 「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」(四恩抄)

と仰せのように、仏の徳とその教えは、僧侶によって後世まで伝えられます。

 日蓮大聖人の仏法は、日興上人をはじめ血脈相承を受けられたご歴代上人によって、末法万年にわたり、すべての人々に正しく流れ通うのです。

 このゆえに、日興上人を随一として、総本山のご歴代上人を僧宝として崇めるのです。特に、その時代や衆生の機根に応じて日蓮大聖人の仏法を教導される当代の御法主上人に随順することが、正しく僧宝を崇めることになります。

 なお、広い意味で、宗祖大聖人の血脈に連なる日蓮正宗の僧俗も僧宝に含まれます。

 私たちは、日蓮正宗のみに立てられる正しい三宝を敬い、信仰に励んでいくことが大切です。

                             (法華講の心得 十六㌻)




 [信行のポイント]

 

 仏教各宗派の立てる三宝を見ると、その教えの内容によって、小乗・権大乗・迹門・本門等、それぞれ異なった三宝が立てられています。( 末表参照)

 これら文上脱益の三宝は、過去に釈尊より下種を受け、正法・像法時代に得脱とする本已有善の衆生が敬うべき三宝です。ですから、釈尊仏法による下種を受けていない、本未有善の末法の衆生を救済する三宝とはなりません。

 総本山第二十六世日寛上人は『当流行事抄』において、

 「文上脱益の三宝に執着せず、仏法の根本である文底下種の三宝を信ずるべきである。これこそ末法の時に適った信心である。もしこの三宝の御力がなければ、どうして罪障の深い私たちが即身成仏することができるでしょうか(趣意)」(六巻抄 一九四㌻)

と御指南されています。文底下種の三宝とは、日蓮正宗で立てる三宝のことです。




 また、大聖人は『真言見聞』に、

 「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(御書六〇八)

と、謗法とは即、謗仏・謗僧であること。それは仏・法・ 僧の三宝が一体なる故であると教示されています。

 末法においては、文底下種の三宝を尊信しないことは謗法となるのです。

 私たちは、常に三宝一体の御本尊を受持して、三宝の恩徳を報ずるため、精進することにより、自他共に幸福な境界を確立することができるのです。







          

       仏宝      法宝       僧宝

 

小乗の三宝 インド応誕の釈尊 四諦・十二因縁  四果の聖人(声聞)・縁覚

 

 

権大乗の三宝  三十二相八十種好  六波羅蜜・三学  十住・十行・十回向・十地等の仏



法華経迹門の三宝   始成正覚の釈尊  理の一念三千   法華会上の声聞・縁覚・菩薩

 

         

法華経本門の三宝   久遠実成の釈尊  事の一念三千   本化の上行菩薩



文底下種の三宝  久遠元初の本仏・日蓮大聖人 南無妙法蓮華経・本門戒壇大御本尊  直授血脈付法の日興上人 

           






           (次回は9月1日号に掲載予定)

 

 

 

 

 


身延の御生活・蒙古襲来

2022年10月26日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和2年9月1日(第1036号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 139

  日蓮大聖人の御生涯 ㉕

          身延の御生活・蒙古襲来(文永の役)



 前回は、日蓮大聖人が身延入山に至った理由と経緯について学びます。

 今回は、その後の御生活についてさらに詳しく拝すると共に、入山の年に現実のものとなった蒙古襲来を中心に、文永年間末の出来事について学びましょう。

 

 鎌倉時代の大飢饉

 大聖人御座世当時、天災・人災が絶えることなく起こっていたことにたびたび触れてきましたが、特に大きな飢饉として二つの時期を挙げることができます。

 一つは、寛喜二(一二三〇)年から翌年にかけて発生した「寛喜の飢饉」です。

 この頃は、凶事が起こったことで年号を改める災異改元や、吉事の理由による祥瑞改元が行われていました。

 前年、飢饉を理由にした災異改元により年号が寛喜となりましたが、寛喜二年は追い打ちをかけるように降雪が記録されるほどの冷夏と長雨の年でした。その後、暖冬となったため被害は拡大し、延応元(一二三九)年頃までに国内の三分の一もの人が命を落としたとされ、其の規模から、鎌倉時代のみならず日本歴史上最大規模の飢饉とも言われています。

 善日麿としてまだ幼い大聖人も、その惨状を見聞きされ、

 「日本第一の智者となし給へ」(御書 四四三㌻等)

との志を強くする一因となったことでしょう。

 二つ目の大飢饉が、以前「日蓮大聖人の御生涯⑦」(大白法九九〇号参照)で『立正安国論』御述作の背景として取り上げた当時の天変地夭・飢饉疫癘の一つ、「正嘉の飢饉」です。

 正嘉元(一二五七)年の夏は干ばつとなり、真言僧の加賀法印(定清)が祈雨の修法を行うなどしたものの、長く日照りが続きました。翌正嘉二年も、七月は長雨と低温が続き、さらに八月一日の大風をはじめとする風雨の被害が頻発したことで、冬から翌年にかけて諸国で飢饉が発生しました。

 このとき、京の都でも路上に死者があふれ、食人の噂が広がる有り様でした。弘長元(一二六一)年十年には、餓死や逃亡によって住民不在の村が現れるなど、やはり数年にわたってその影響が尾を引きました。

 しかし、既に「日蓮大聖人の御生涯⑧」(大白法九九二号参照)で学んだように、大聖人はこうした災難来由の原因を『立正安国論』にはっきりと示されています。

 すなわち、日本国に邪宗邪義が蔓延る故に善神・聖人が立ち去り、後に悪鬼・魔神が移り着て災いや諸難を起こすという道理(神天上法門)が、経文に照らして明らかなのです。

 

 山中での御生活

 前回、御書を通して学んだように、大聖人が身延に入山された当時も、慢性的な飢饉が発生していました。

 前出の二度の大飢饉だけではなく、文永九(一二七二)年以降も干ばつによる飢饉が起こり、建治から弘安への改元も、飢饉由来の疫病によるとも言われています。

 大聖人も、建治四(一二七八)年二月の『松野殿御返事』に、

 「日本国数年の間に、打ち続き(飢渇)かちゆきゝて衣食たへ(中略)又去年の春より今年の二月中旬まで疫病国に充満す」(同 一二〇〇㌻)

と、記されています。

 身延近隣の農民が米一合すら売ってくれないというのも、仕方のない状況だったのです。

 各地の檀越は自らも困窮する中、袈裟・衣・小袖・帷子などの衣服や、食料品として米・麦・粟などの穀類、芋・大根・牛蒡をはじめとする野菜、塩・味噌の調味料類など御供養の品々を、身延の大聖人のもとへお届けしました。

 大聖人は、すべての御供養に対して一つひとつ返事を認められ、御礼を述べられると共に各人に合わせた御指南を与えられています。

 しかし、こうした御供養も、弟子たちを養い分け与えるには十分なものではなく、常に質素極まる生活を送られました。

 総本山第四世日道上人の『御伝土代』に、

 「大聖は法光寺禅門、西御門の東郷入道の屋形の跡に坊作って帰依せんとの給う」

  (歴代法主全書)

と記されています。幕府の要請に従っていれば、執権の館からもほど近い鎌倉の地で、幕府の庇護下で国家安泰を祈る道もありました。

 「蘇武が如く雪を食して命を継ぎ、李陵が如く蓑をきて世をすごす。山林に交はって果なき時は空しくして両三日を過ぐ。鹿の皮破れぬれば裸にして三・四月に及べり」(御書 九〇四㌻)

等の御文を拝するとき、大聖人がいかに御一期を通して万民の妙法信受を願い、権力者を諌め続けたのかを知らなければなりません。

 一方で大聖人は、

 「法華読誦の音(こえ)青天に響き、一乗談義の言(ことば)山中に聞こゆ」(同 九五七㌻)

と仰せのように、厳しい山中にありながら、心ゆくまで法華経を読誦し論談するという、修行の日々を過ごされました。

 当初は弟子たちを帰し静かだった庵室も、一人また一人と弟子や参詣者が訪れて大聖人の御法門を聴聞するようになり、いつしか賑やかさを増していったのです。

 

 文永の役

 身延に入山されて五ヵ月後の文永十一(一二七四)年十月、ついに大聖人の予言通り、蒙古(元)の大軍が日本に襲来しました。蒙古は、六度の使者を派遣して日本に従属を迫っていましたが、当然、日本はこれに従わず、南宋・高麗との争いに目途がつき、満を持しての日本侵攻でした。

 蒙古軍は、十月五日に対馬、十四日には壱岐へ攻め入り日本軍を斥けました。

 『一谷入道女房御書』には、

 「対馬の者かためて有りしに宗の総馬尉逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし、女をば或は取り集めて手をとをして船に結ひ付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是くの如し」(同 八三〇㌻)

と、この時の惨状を記されています。

 その後、十六日から十七日にかけて九州沿岸部を襲撃し勢いに乗った蒙古軍は、同月二十日、博多湾から早良郡百道原(現在の福岡市早良区)に上陸しました。

 赤坂や鳥飼潟で激しい戦闘が繰り広げられ、両軍は多くの損害を出しましたが勝敗は決せず、日没を機に戦闘を中断して双方陣地に戻りました。

 その夜、日本軍が夜襲を行ったとも伝わりますが、翌朝午前六時頃には、蒙古の軍船は既に博多湾から撤退していたといいます。

 撤退の理由を、夜間の暴風により蒙古軍の被害が甚だしかったためと記す書物もありますが、定かではありません。『高麗史』によれば、日本から帰らなかった者が一万三千五百人に上ったと記録され、帰還に一ヵ月以上を要したことから、帰還途上に沈没した軍船も多かったようです。

 また、むしろ、予想以上に自軍の被害が大きく連合を組んでいた高麗軍の士気も低下していたこと、日本軍と異なり援軍を見込めないなどの理由から、軍議を開いて撤退を決めたとの説が有力です。それに、本格的な冬の訪れの前に退却する予定だったと言われており、軍の出発が三ヵ月ほど遅れたことで、蒙古の想定にはもともと狂いが生じていたのです。 

 蒙古軍撤退直後の太宰府や武士が、戦いによる蒙古軍の撃退を幕府に報告する一方で、猛虎調伏の祈祷を命ぜられていた真言僧や神官は、自らの祈りによる神威・神風であると幕府に恩賞を要求したことが判っています。

  彼らは、蒙古襲来という事実と、対馬国の守護代をはじめとする武将や勇士、壱岐・対馬の島民など多くの犠牲を払ったことに目を瞑り、流言の流布と『八幡愚童訓』を代表する虚偽の記載に力を注ぐ有り様でした。

 大聖人は翌月の書状に、このような悲劇の原因を、

 「自界叛逆の難、他方侵逼の難すでにあひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり。是偏に仏法の邪見なるによる」(同 七四七㌻)

と断言され、 速やかに真言宗等の日本国中の謗法を止め、正法に帰依しなければならないと訴えられています。

 さらに十二月十五日、大聖人は弟子檀那一同への御教示として『顕立正意抄』を著されました。

 本抄で大聖人は、『立正安国論』の 意を顕わす」との題号通り、他国侵逼・自界叛逆のニ難が符合したにもかかわらず、正法に帰依しない幕府の態度はまさに天魔に見られた姿であると嘆かれています。 さらに、日本国中が謗法の心を改めなければ、近い将来に万民が無間地獄に堕ちることは疑いなく、それは大聖人の弟子であっても例外ではないと、厳しく戒めています。

 



  次回は、「建治年間の門下の動静と、大聖人の御教示」について触れられています。

 

 

 

 

 


良医病子

2022年10月24日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和2年7月16日(第1033号)からの転載

 仏教用語の解説 ㉙

 良  医  病  子

 

 良医病子の譬えとは、諸々の苦悩に喘ぐ衆生とそれを救済する仏の化導を、病の子供とそれを治療する父の良医に譬えたもので、法華経『如来寿量品第十六』に説かれています。

 この譬喩は法華経の七譬の一つで、「良医治子の譬え」「良医の譬え」ともいわれます。

 私たちが朝夕に読誦する『寿量品』の「譬如良医。智慧聡達」(法華経 四三五)以降、自我偈の前までにこの譬喩が説かれており、この部分を『寿量品』の「良医治子譬段」といいます。

 

  法華経は一切衆生救済の大良薬

 仏教では、衆生の苦を病、衆生を救う仏を良医、そして仏の教法を良薬に譬えます。

 仏は衆生の機根に応じて様々な説法をしたのですが、天台四教儀には、教えの内容である化法の四教(蔵・通・別・円)は薬味(薬の内容)であり、説法の方法である化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)は薬法(薬の調合方法)であるとし、法華以前に説かれた爾前経は薬法・薬味において法華経に劣り、法華経のみがすべての衆生の病を救う最高の大良薬であると示されています。

 

 譬えの概要

 聡明で薬の処方に精通し、百人にも及ぶ子供をもつ良医がいました。

 ある時、良医が所用で遠方へ出かけている間に、子供たちが誤って毒薬を服して苦しんでいました。悶絶する子供の中には、苦しみに堪えかねて本心を失う者までいました。

 良医が帰宅すると、子供たちは大いに喜んで、毒病を治して欲しいと願い出ます。良医は薬を調合し、

 「此の大良薬は、色香美味、皆悉く 具足せり。汝等服すべし。速やかに苦悩を除いて、復衆の患無けん」(法華経 四三六)

と言って、子供たちに色形、香り、味のいずれもすばらしい大良薬を与えました。すると、本心が残っていた子供はすぐに良薬を服して快復しましたが、本心を失った子供は、毒気のせいで良薬を良薬ではないと思い込み、服用しませんでした。

 未だに苦しむ子供を不憫に思った良医は、薬を飲ませようと、方便を設けます。すなわち、子供に、

 「自分は老いて死期が近い。この大良薬を、今、ここに留め置いておくから、お前たちは、これを取って必ず服用しなさい(趣意)」(同 四三七)

と告げて、家を出て、他国に至ってから使者を遣わし、父は死んだと子供たちに告げさせたのです。

 訃報を聞いた子供たちは、

 「もし父が生きていたら私共を憐れみ、救ってくれるが、今やその父は遠く他国で亡くなってしまった。私共は孤独で頼るところがない(趣意)」(同)

と深い悲しみに嘆きました。そして父の慈愛と力を思い起こした子供たちは、ついに本心を取り戻して大良薬を服し、快復したのです。

 その後、良医は帰宅したのでした。

 

 三世常住の化導

 この喩えでは、良医とは仏、毒薬を服した子供は一切衆生に譬えられます。

 まず、良医が遠く他国へ出かけることは、仏が過去世に、様々な名前で出現して衆生を導いていたことを指します。(過去益物)

 次に、良医が一度家に帰って大良薬を子供に与えることは、仏が娑婆世界に出現して毒病に喘ぐ衆生に法華経を説くという現在の化導に当たります。(現在益物)

 また、本心を失って良薬を服そうとしない子を治療しようと、良医が他国に出かけ使者を遣わし亡くなったと告げさせたことは、仏の入滅することを表します。すなわち、仏の存在に慣れてしまい、仏法を尊重しない衆生を覚醒させるため、常住ではあるけれども、敢えて滅に非ざる滅(非滅現滅)を示されるのです。

 最後に、良医が帰宅することは、方便による滅の相を現わしながらも、未来永劫に亘り衆生を教化する様相を表わしています。(未来益物)

 このように良医病子の喩えとは、仏が久遠以来、実は常住でありながら、出現したり入滅したりして、大慈大悲をもって衆生を導き利益してきたことを表わす譬えなのです。

 

 末法における良医とは日蓮大聖人

 中国の天台大師は、法華文句に良医(衆生を教化する宗教者)に十種があることを御教示です。

 成仏どころか、かえって病を悪化させ、時に死に至ったり、苦痛を伴うだけで何の効果も得られない外道の師。部分的な治療しかできない上に苦痛を伴う小乗の師。苦痛を与えないが大病は治せない権大乗の師。大病を治しても完全な健康体にまでは快復させることができない大乗の師などです。

 そして、最後の良医は法華本門に説かれる如来であり、一切の病を治し、病以前より優れた体にまで快復させる真実の師であります。

 日蓮大聖人は『寿量品』の大良薬について『御義口伝』に、

 「題目の五字に一法として具足せずと云ふ事なし。若し服する者は速除苦悩なり。されば妙法の大良薬を服する者は貪瞋痴の三毒の煩悩の病患を除くなり。(中略)今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大良薬の本主なり」(御書 一七六八) 

と説かれています。

 つまり、南無妙法蓮華経の題目こそが、あらゆる薬の効能をことごとく具足し、衆生の貪瞋痴の三毒を治癒する大良薬なり、日蓮大聖人こそが、大良薬の本主、すなわち末法の良医であると示されるのです。

 

 大良薬たる本門戒壇の大御本尊に帰依すべし

 大聖人は建長五(一二五三)年の宗旨建立以来、法華経に予証される法難を超克し、大慈大悲の上から、邪教の害毒に喘ぐ衆生の救済に心を砕かれました。そして、弘安二(一二七九)年十月十二日、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされ、末法万年に亘る信行の対境を留め置かれたのです。

 この大御本尊について、総本山第二十六世日寛上人は、

 「寿量品に云わく『是の好き良薬を今留めて此に在く、汝取って服すべし。差(い)えじと憂うること勿(なか)れ』等云云。応に知るべし、此の文正しく三大秘法を明かすなり。所謂『是好良薬』は即ち是れ本門の本尊なり」(六巻抄 九四㌻)

と仰せられ、良医病子の譬えにおける色香美味の大良薬とは、本門の本尊であることを御教示です。

 譬えの子供たちが毒気によって本心を失っていたように、末法の衆生は間違った思想・宗教によって、大良薬たる御本尊を前にしても、それを受持することができずにいます。

 しかし、大聖人が教示されるように、私たちの命は三世永遠に亘るのであり、そのことを自覚して、御本尊を受持し、御題目を唱えていくこと以外に真実の幸せはないのです。

 私たちは、正法の功徳に浴する有り難さを人々に伝え、大御本尊のもとへ導いてまいりましょう。




   次回は、「三衣」についての予定です。

 

 

 

 

 

 

 


(一)内外相対

2022年10月21日 | 日蓮正宗要義(一)

日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

 第一目 五重の相対

   (一)内外相対

 

  第一の内外相対は、仏教と仏教外の教法の相対であって、開目抄には、儒教・ 道教と印度婆羅門の外道の教えを挙げ、仏教と相対してこれを破するとともに、開会の立場から、これらを仏教に包括されている。 広く論ずれば、有史以来の、また洋の東西を含むあらゆる宗教・哲学・道徳が摂属されることは当然であるが、 大聖人は当時、代表的な印度・中国の仏教外の哲学・宗教としての儒教・道教・婆羅門教の大要をとって、開目抄にお示しになったのである。

  まず儒教については、三皇・五帝・三王・孔子・老子等、中国古代の聖人を挙げ、その法の所詮は、周公・ 孔子の有の玄、老子の無の玄、莊子の亦有亦無の玄を出でないとされる。

  有の玄は、周易の太極説と呼ばれるもので、易経に顕著に説いてある。止観弘決に

 「太極両儀を生ずと云ふが如し。分かって天地と為り、変じて陰陽(おんみょう)と為る。故に是両儀を生ずと曰ふ(中略)八卦六爻亦陰陽变化(はっけろっこうまたおんみょうへんげ)を出でず、变化相易(かわ)りて吉凶生ず。吉凶生ずと雖も理を窮め性を尽くして以て天命に至る。故に知んぬ、即ち是有に約して玄を明かすなり」(弘下ー末 六〇一)

 というように 、太極という一気もって、宇宙万物の出生変化の根本とする。太極を積極的先天的本体として見るから、 有の玄というのである。

 老子の無の玄とは、虚融である。虚無に徹したところに一切に融通する大道があり、一切の万物はそこより生ずるというのである。つまり無意志・無目的な自然において、一切を統一する道があり、この道は虚無であるから、万物を包容し、また万物を生ずる。人間の生死は、そのまま道であり、人間は物欲を去り、無為自然にいるところにまことがあるとする。すなわち、聖人君子の智識とか、仁義等の人倫道徳とか、人生百般の巧慧・利得等の観念を捨て去ったところ、自然に道義は恢復(かいふく)し、民衆の幸福があると説くのである。このように虚無大道を根底として、消極的に道を説くので無の玄という。

 次に亦有亦無の玄とは、莊子の哲学である。老子の道を学んで更に無を徹底し、その究極するところ、道はあらゆる所に遍満し、常恒にして不変であると見た。無といい、有というも相対的であり、大道は有無を超えて、よく有にして無であると説くゆえに亦有亦無というのである。

 開目抄では、これらの聖人・賢人について

 「但現在計りしれるににたり。現在にをひて仁義を制して身をまぼり、国を安んず。此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう。此等の賢聖の人々は聖人なりといえども、過去をしらざること凡夫の背をみず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるがごとし」(新編五二四)

と仰せられて、現在一世の因果は説くが、三世の因果を知らず、六道の輪廻に暗いことを指摘されている。その人生観・世界観は、人間界に限って余界を見ず、また死後の変移も考えないから、その生命観的視野が浅く狭いのである。したがって生命の完全な相と正しい法則を示すものでなく、人々をして真の幸福に誘引することはできない。

 次に、開目抄では印度の外道について、その祖、摩醯首羅天・毘紐天の二天と、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三仙を挙げて六師外道の哲学を略示し批判せられている。

 三仙六師の外道は、摩訶止観第十に

  「一には迦毘羅外道、此には黄頭と翻ず。因中に果有りと計す。

  二には漚楼僧佉、此には休睺と翻ず。因中に果無しと計す。

  三には勒娑婆、此には苦行と翻ず。因中に亦は果有り亦は果無しと計す」(止下 七三七)

といい、また

 「仏出でたまふ時に至り、六の大師有り。所謂、富蘭那迦葉、迦葉は姓なり、不生不滅を計す。未伽梨枸賒梨子は、衆生の苦楽は因縁有ること無く、自然にして爾なりと計す。刪闍夜毘羅胝子は衆生時熟して道を得、八万劫到れば縷丸数極まると計す。阿耆多翅舎欽波羅、欽波羅は麁衣なり、罪報の苦は厳に投げ髪を抜くを以て之に代ふと計す。伽羅鳩駄迦旃延は亦有亦無を計す。尼犍陀若提子は業の所作は定んで改むべからずと計す」(止下−七三八)

と述べている。また開目抄に

「其の見の深きこと巧みなるさま、儒家にはにるべくもなし。或は過去二生・三生乃至七生八万劫を照見し、又兼ねて未来八万劫をしる。其の所説の法門の極理は、 或は因中有果、或は因中無果 、或は因中亦有果亦無果等云云。此外道の極理なり(中略)外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ」(新編 五二五)

と批判されている。前述の迦毘羅外道の因中有果説は、人生の吉凶禍福に因果を立てるのであるが、十界周遍の因果の道理に暗く、六道迷中のそれのみであり、その生命観はやはり偏狭低劣を免れない。漚楼僧佉外道の因中無果は、一切の苦楽昇沈と因果とは別であり関係ないとする自然論で、因果を否定する迷見である。勒娑婆の因中亦有果亦無果は、因果の道理が有でもあり無でもあると巧みに立てるが、それは迷中の因果を出でない。六師のある者は一切を虚空と説いて、君子・父子の忠孝の道を否定し、またある者は、因果を否定する。あるいは八万劫という、時による自然解決を説く運命論や、非因計因の修行論等である。 要するにすべての外道は三世の生死、輪廻の法則を知らず、迷いの基としての自我に対する根本的な解決がないため、正しい因果を否定する邪見となる。したがって、これら誤った生命観を歪められた人生観・世界観からは、正善の道なく、真の幸福な生命も現われてこないのである。仏教は三世を貫く因縁因果の道理を示し、自性・他性・共性・無因性のすべてを否定し、すべてを肯定する総合的見地に立ってよくこれを用いつつ、執らわれのない全体的な生命観による転迷開悟の教えを立てるのであり、真に民衆の幸福の根元を説く正法である。このように仏教は儒教・道教・婆羅門教等の宗教哲学の一切に勝れていることを明らめるのが内外相対である。

 

 

 

 

 

 


②日蓮正宗

2022年10月18日 | 法華講員の心得(一)

大白法 令和2年7月1日(第1032号)から転載

 妙法の振舞い

 『法華講員の心得』より

  ②日蓮正宗とは

 

 日蓮正宗は、日蓮大聖人が、建長五年(一二五三)四月二十八日に、宗旨を建立されたことにはじまります。

 釈尊は、法華経のなかで、二千年後の末法という濁悪の時代に、悪業の衆生を救うべき法華経の行者が出現することを予言されています。

 宗祖日蓮大聖人は、その予言どおり末法に出現され、二度の配流や命におよぶ数々の法難を受けながら、一切衆生を救済するため、南無妙法蓮華経を弘められました。 そして、弘安二年(一二七九)十月十二日に、ご一代の教えの究極の法体として、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を顕わされたのです。

 日蓮大聖人はご入滅に際し、第二祖日興上人を後継者として定め、日蓮大聖人のご法魂である本門戒壇の大御本尊をはじめ仏法の一切を譲られました。これを「血脈相承」といいます。

 総本山大石寺は、この血脈相承を受けられた第二祖日興上人によって、正応三年(一二九〇)十月十二日に開かれました。これは日蓮大聖人の「本門の戒壇は富士の地に建立すべし」とのご遺命によるものです。

 この大石寺を総本山と仰ぐ日蓮正宗には、日興上人以来、代々の御法主上人によって、日蓮大聖人の教えが正しく伝えられてきました。

 現在、日蓮大聖人の仏法は、第六十八世日如上人に厳然と受け継がれています。

 日蓮正宗こそ、全世界の民衆に幸福と平和をもたらす唯一の教団であり、その教えを実践する信徒の集まりが法華講なのです。

 (法華講員の心得 十二㌻)

 

 信行のポイント

 日蓮大聖人が出現された鎌倉時代は、末法五濁乱慢の様相を示し、既成仏教の乱れと共に、様々な宗派が生まれました。

 当時、日本仏教の中心であり法華一乗を宣揚していた比叡山も、爾前権教の真言に誑惑されて、法華経の正意を歪めて真言の加持祈祷にのみ執していました。また新興勢力の禅・念仏は、釈尊の教説を否定するなど仏法の本義に背くものでした。

 これらの誤った信仰は功徳がないばかりか人々の悪業となり、引いては天変、地夭、飢饉、疫病などの災禍の根源となることが経典に説かれています。

 眼前に打ち続く災難を鎮めて、国と民衆を救済するため、日蓮大聖人は法華経の行者として数々の法難に遭われながら、法華経の真髄である南無妙法蓮華経の宗旨を建立されました。

 そして『立正安国論』において、金光明教、大集経、仁王経、薬師経など多くの経証を引かれた上で、

 「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」(御書 二五〇)

と、 一刻も早く邪宗邪義の信仰を捨てて正法正義に帰依することを誡められたのです。

 この日蓮大聖人の御振る舞いこそ、釈尊が法華経『神力品』に、

 「如来の滅後において(中略)あたかも太陽や月の光が諸々の闇を照らすように、地涌の菩薩の上首・上行菩薩が末法に出現され、多くの人々の心の闇を照らし、救済される(趣意)」

 (法華経 五一六)

と予言されたものでした。

  上行菩薩の再誕について、大聖人は『百六箇抄』に、

 「久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」

 (御書 一六八五)

と仰せられ、大聖人の御内証は、末法本未有善の衆生を救済される久遠元初自受用報身如来(御本仏)である深義を明されています。

  大聖人は、末法に流布すべき仏法について『高橋入道殿御返事』に、

 「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗教・大乗教並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」

 (御書 八八七)

と仰せられています。末法の衆生は釈尊の説かれた文上の法華経では成仏することはできないのであり、上行菩薩が釈尊より委嘱された法華経の肝要の法のみよく衆生を救済することが叶うのです。

 その寛容とは、正しく大聖人の説き弘められた文底独一本門の南無妙法蓮華経であり、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊に極まるのです。

 この御本仏日蓮大聖人の仏法の一切は『日蓮一期弘法付嘱書』に、

 「血脈の次第 日蓮日興」(同 一六七五)

と示された通り、唯授一人の血脈相承をもって、第二祖日興上人に付嘱せられ、爾来七百有余年、血脈相伝の御法主上人によって伝持あそばされているのです。

 日蓮正宗は、大聖人の御正意である本門戒壇の大御本尊と唯授一人血脈法水を根本に、広宣流布の実現と真の幸福をめざして正法を弘める唯一の宗団なのです。

 

 

 

 

 

 


『撰時抄』

2022年10月15日 | 御報恩御講(一)

令和四年十月度 御報恩御講

 『撰時抄』(せんじしょう)    

 建治元年六月十日 五十四歳

 一渧(いってい)あつまりて大海(だいかい)となる。微(み)塵(じん)つもりて須(しゅ)弥(み)山(せん)となれり。日蓮が法華経(ほけきょう)を信(しん)じ始(はじ)めしは日(に)本(ほん)国(ごく)には一渧(いってい)一(いち)微(み)塵(じん)のごとし。法華経(ほけきょう)を二(に)人(にん)・三人(さんにん)・十(じゅう)人(にん)・百(ひゃく)千万億人(せんまんのくにん)唱(とな)え伝(つた)うるほどならば、妙覚(みょうがく)の須(しゅ)弥(み)山(せん)ともなり、大(だい)涅(ね)槃(はん)の大海(だいかい)ともなるべし。仏(ほとけ)になる道(みち)は此(これ)よりほかに又(また)もとむる事(こと)なかれ。(御書八六八㌻二行目)

【通釈】一滴の水が集まって大海となる。塵が積もって須弥山となったのである。日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本国から見れば一滴のしずく、一粒の塵のようなものである。法華経を二人、三人、十人、百千万億人と唱え伝えていくならば、妙覚の須弥山となり、大涅槃の大海ともなる。成仏への道はこれよりほかに求めてはならない。

【拝読のポイント】
〇末法適時の正法とは
 本抄の冒頭に「夫(それ)仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(御書八三四)と仰せられています。仏法においては、今はいかなる時であるのか、そしてどのような法に利益があるのか、これが最重要事です。時に適った法を誤るならば、修行をいくら重ねても功徳がそなわることはありません。むしろ、『教機時国抄』には「時を知らずして法を弘むれば益無き上還って悪道に堕するなり」(同二七〇)と、厳しく仰せられているのです。
 総本山第二十六世日寛上人は、本抄題号の「撰時」について通別の三意を示され、中でも別しての本意として、正像末の三時のうち末法という時を撰び取る意を示されています。そして何よりも、末法に弘通すべき法と帰依すべき仏について、末法は文底秘沈の大法である三大秘法が広宣流布する時であること、また末法においては下種の教主である大聖人が三徳兼備の御本仏であること、との二意を示し、これをわきまえる重要性を教示されています(撰時抄愚記・御書文段二八九~九〇趣意)。末法の世に生きる私達は、御本仏大聖人と大聖人の妙法によってのみ一切衆生が救われることをしっかりと銘記いたしましょう。
〇今こそ折伏を実践する〝時〟
 本日、拝読箇所の「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧一微塵のごとし(中略)仏になる道は此よりほかに又もとむる事なかれ」との御文について、日寛上人は「漸々に寿量の妙法、広宣流布すべし(中略)『信』の字、『唱』の字、之を思え」(撰時抄愚記・御書文段三七二)と指南されています。
 すなわち、私達が大聖人に続き、破邪顕正の折伏を実践していくならば、必ず広宣流布は達成すること、またそのために、御本尊を固く信じ、自行化他のお題目を唱えていくこと、これが信心修行の要諦であるということです。
 コロナ禍をはじめとする様々な災いをなくすためには、私達が真剣な唱題を重ね、慈悲と勇気をもって、身近な人から折伏を実践していく以外に道はありません。まさに「今こそ折伏の時」、時を逃さず、自他ともの成仏につながる折伏に、果敢に挑戦していこうではありませんか。
○日如上人御指南
 法華経薬王品には(中略)広宣流布は必ず達成すると仰せでありますが、しかし、広宣流布は我々の努力なしでは達成することはできません。そこに今、我々が大聖人様の弟子檀那として、一切衆生救済の慈悲行である折伏をなすべき大事な使命があり、責務が存していることを知らなければなりません。そして、その使命と責務を果たしていくところに、我ら自身もまた広大なる御仏智を被り、計り知れない大きな功徳を享受することができるのであります。(大日蓮・平成二十六年十二月号)
□まとめ
 本年も残り二カ月半ほどとなりましたが、私達は時に適った信行ができているでしょうか。無為な時間を過ごしてはいないでしょうか。とにもかくにも、自らが行動を起こさなければ、何も変わることはありません。今、自分は何を為すべきか、このことを今一度見つめ直し、本年度の誓願成就に向けて、力の限り行動を起こしてまいりましょう。

 

 

 

 

 


身延入山

2022年10月13日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和2年8月1日(第1034号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 138

  日蓮大聖人の御生涯 ㉔

          身 延 入 山

 

 前回学んだように、日蓮大聖人の三度にわたる国主諌暁も幕府の用いるところとはなりませんでした。そのため大聖人は、

 「三度国をいさ(諌)むるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれい(例)なり」

  (御書一〇三〇㌻)

と、古(いにしえ)の賢人の例にならい、鎌倉を去り身延に隠栖される決意を固められたのです。

 

 隠栖の理由

 大聖人は、

 「旁存ずる旨ありしに依りて、当国当山に入りて」(同 一五〇一㌻)

と仰せのように、いくつかの理由によって隠栖の決意を固められたことが拝察されます。

 その理由として、第一には、四恩を報じ民衆を救済するために行った、三度にもわたる国主諌暁が幕府に用いられなかったため、今はこれまで、とされたからです。

 第二には、法華経を身読されたことで悟られた法義等を後世に残すためには、閑静な地において法義書等の著述に当たることが最適であると考えられたからです。

 第三には、万代に亘る広宣流布の基礎を作るためには、人材の育成が必要不可欠であることから、弟子たちを教育する環境が必要であったからです。

 第四には、『観心本尊抄』等に示された御内証の法体、すなわち、本門戒壇の大御本尊を建立し、三大秘法(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)の確立を図ることでした。

 以上の理由の中でも、第三の人材の育成と第四の法体の確立は、特に力を注ぐ必要があったものと拝されます。

 

 隠栖の地

 次に、 隠栖の地を身延に選ばれた理由は、当時の弟子たちの弘教地には、相模・武蔵・ 安房・ 下総・伊豆・駿河・甲斐などがありましたが、甲斐以外の地は、幕府容人の領地や他宗派の勢力地であったため、いずれも隠栖の地としては適していませんでした。

 それに対して甲斐国は、日興上人が弘教の基盤とされており、特に身延は、日興上人が直接強化した波木井実長が地頭を務めていることから、日興上人の勧めもあり、まずは身延に赴くことにされたのです。

 さらに身延の地は、後に戒壇を建立すべき最勝の地である富士山にも近く、また政治の中心地である鎌倉からも程よい距離にあることから、幕府の動静を知る上でも適しており、また、山深い場所である故に、隠栖するには最適の地であったと拝されます。

 

  身延入山

 文永十一(一二七四)年五月十二日、大聖人は、鎌倉の大勢の人々との別れを惜しみつつ、日興上人らの弟子たちを連れて身延に向かわれ出発されました。

 当時の鎌倉から身延までの道程は、

 「十二日さかわ(酒匂)、十三日たけのした(竹之下)、十四日くるまがへし(車返し)、十五日をゝみや(大宮)、十六日なんぶ(南部)、十七日このところ(此処)」 (同 七三〇㌻)

と仰せのように、鎌倉を出発された十二日に酒匂(神奈川県小田原市)、十三日には竹之下(静岡県駿東郡)、十四日には車返し(静岡県沼津市)、十五日には大宮(静岡県富士宮市)、十六日には南部(山梨県南巨摩郡)と、各所で一泊ずつされて、十七日にようやく身延の波木井実長の館に到着されました。

 しかし、身延での御生活は、

 「けかち申すばかりなし。米一合もうらず。がししぬべし。此の御房たちもみなかへして但一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ(同)

と仰せのように、折からの飢饉によって農民は一合の米さいも売ってくれません。そのため、 弟子のほとんどを帰されたとの記述からも、いかにたいへんであったかを知ることができます。

 この身延入山に当たって、後世他門の日蓮宗では、身延を特別視する身延中心説などを主張していますが、

 「いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ」(同)

と仰せのように、 大聖人の御心には、あくまで隠栖するための場所として身延を選ばれたに過ぎないことが拝されるのです。

 

 『法華取要抄』

 身延に入山されてから間もない五月二十四日、大聖人は『法華取要抄』を御述作され、下総の強信徒である富木常忍に与えられました。

 本抄は、 初めて三大秘法の名目が示され、法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経が、末法に弘まるべき法体であることを説かれた重要な御書であり、その内容は、大きく三段に分けられます。

 第一段では、釈尊が説かれた一代聖教についての勝劣・浅深を示され、 諸宗の僧侶が自分勝手に自らの信じる経典が優れているという主張を、釈尊自らの言葉(経文) によって破折して、法華経こそが勝れていることを明らかにされます。

 第二段では、釈尊が法華経を説いた目的について、

 「(迹門を逆次に読む時は)滅後の衆生を以て本と為す。在世の衆生は傍なり。滅後も以て之を論ずれば正法千年・像法千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり。」 (同 七三四㌻)

と仰せのように、法華経は在世の衆生の得脱のためであると同時に末法のために説かれ、 さらには大聖人のために説かれたことを明かされています。

第三段では、末法流布の大法としての本門の三大秘法の意義・内容が示されます。

 すなわち、

 「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」

  (御書 七三六㌻)

と、法華経の中でも広略を捨てて、肝要である文底下種の南無妙法蓮華経をもって末法流布の大法と定められます。その大法とは、

 「問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(同)

と仰せのように、在世・正像二千年に未だ弘められることのなかった三大秘法であることを明かされます。

 そして最後に、妙法流布の先相として、正嘉年中の大地震や文永の大彗星、それ以後、様々な天変地夭が起こったことを示された後、

 「是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か」 (同 七三八㌻)

と仰せのように、国土の混乱の後、上行菩薩らの聖人(日蓮大聖人)が末法に出現され、三大秘法を建立し、この大法が全世界に広宣流布することを御教示されています。

 

 庵室の造営

 身延に入山され、 波木井実長の館にて御過ごしであった大聖人に対して、実長は立派な堂宇の建立寄進を申し出ました。しかし、大聖人はこれを止められ、自ら質素な庵室を造営されて御住まいになられました。

 この庵室は、

 「この山のなかに、き(木)をうちきりて、かりそめにあじ(庵)ち(室)をつくりて候」

  (同 一一八九㌻)

と仰せのように、仮初めの庵室であることから、数年も経たずに痛みが目立ちはじめ、弟子たちが修復を試みるも、満足な修復には至らないほどの極めて質素な庵室でありました。

 しかし、この庵室において、約八年間にわたる身延での御生活が始まることとなったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


盂蘭盆

2022年10月11日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和2年6月16日(第1031号)からの転載

 仏教用語の解説 ㉘

  盂 蘭 盆

 

 「盂蘭盆」とは、毎年七月十五日(または八月十五日)を中心に行われる先祖供養の行事のことで、「お盆」ともいいます。

 盂蘭盆とは、古代インドの言葉である梵語の「ウランバナ」の音を漢字を用いて表現したもので、「倒懸」という意味です。これは餓鬼道に堕ちた人の飢えや渇きの苦しみが、足を縛られて逆さに吊るされるような苦しみであることから、このようにいわれます。

 

 盂蘭盆の起こり

 『仏説盂蘭盆経』には、盂蘭盆の起源となった次のような説話があります。

          ◇

 釈尊に随侍した十人の勝れた弟子の一人に、目連尊者という人がいました。

 目連尊者は、小乗仏教の修行によって、阿羅漢〔✽1〕という境地に至り、様々な神通力(超人的で不可思議な力)を得て、釈尊の弟子の中でも神通第一と言われるような弟子になりました。

 ある時、目連尊者は生み育ててくれた母の恩に報いるため、すべてを見通す天眼通により、亡き母・青提女がどのようにしているかを見渡しました。すると、母は生前に犯した慳貪の科〔✽2〕により餓鬼道に堕ち、飲食できずに骨と皮だけの姿となって、飢渇の苦しみに喘いでいたのです。

 これを見て悲しんだ目連尊者は、すぐさま神通力を使い、鉢にご飯を盛って、母のもとに送りました。しかし、母がそれを食べようとすると、ご飯は燃え上がって炭となり、食べることができません。目連尊者は悲しみ泣き叫び、すぐさま釈尊のところに行き、事の次第を申し上げました。

 すると釈尊は、

 「汝の力ではどうすることもできない」

と仰せられ、因果の報いからは逃れ難いことを示されました。

 しかし、目連とその母を哀れんだ釈尊は、母を救済する方法として、

 「夏安居〔✽3〕の最終日、七月十五日の自恣日に、聖僧に飲食などの供養をすれば、その功徳の一端が母に及び、母は餓鬼道の苦しみから逃れることができるであろう」

と説かれたのです。

 また一方で釈尊は、僧侶に対して、供養した人の先祖の菩提を願うように命じられました。

 すると、目連尊者と一座の大衆は皆大いに歓喜し、目連尊者は釈尊の仰せの通り、大勢の僧侶に百味の飲食を供養して、青提女は餓鬼道の苦しみから救われたのです。

 そこで目連尊者は、釈尊に対し、「私と母の青提女はこのたび、仏法僧の三宝の勝れた功徳を蒙ることができました。未来において親に孝行を尽くしたいと願う仏弟子も、この盂蘭盆の供養を行うべきだと思いますがいかがでしょうか」

と質問したのです。

 すると釈尊は、

 「大いに善いことである。毎年七月十五日、父母乃至七世の父母への孝行を思って盂蘭盆の供養を行い、もって父母の長養慈愛の恩に報いなさい」

と、告げられたのでした。

     ◇

 以上が、『盂蘭盆経』の内容です。

 法華経による真の成仏

 『盂蘭盆経』に説かれるように、神通第一の目連尊者でさえ、その神通力では、母を救うことはできませんでした。また、盂蘭盆供養の利益も、母を餓鬼の苦しみから逃れさせたに過ぎず、母を仏にすることはできませんでした。

 なぜならば、目連尊者自らが、未だ仏になっていなかったからです。

 このことについて日蓮大聖人は、

『四条金吾殿御書』に、

 「抑盂蘭盆と申すは、源(もと)目連尊者の母青提女と申す人、慳貪の業によりて五百生餓鬼道にをち給ひて候を、目連救ひしより事起こりて候。然りと雖も仏にはなさず。その故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし。霊山八箇年の座席にして法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏となり給ひ、此の時母も仏になり給ふ」

 (御書 四六九㌻)

と仰せられています。

 すなわち目連尊者は、後に阿羅漢の悟りを捨てて、法華経を信じた利益により、多摩羅跋栴檀香如来という仏に成ることができました。母の青提女は、目連尊者が仏になった功徳善根に引かれて、初めて成仏したのです。

 正しい盂蘭盆供養の在り方

 供養を営む上で最も大切なことは、正しい御本尊を中心に行うということです。

 目連尊者が、小乗の神通力で母を救うことができなかったように、因果の理法は厳然であり、誤った教えによって供養するならば、かえって悪業を積み苦しみを増すこととなるのです。

 目連尊者を起源とする盂蘭盆の行事は今日、日蓮正宗のみならず、仏教の各宗各派で行われています。しかし大聖人が念仏などの謗法を行えば地獄の苦を招くと言われているように、日蓮正宗以外の教えでは、先祖を救うことはできないのです。

 また日蓮正宗では古来「常盆常彼岸」と言われます。つまり、常日頃から父母をはじめ先祖代々に感謝し、追善供養を願うことが大切であるということです。

 したがって、私たちが朝夕に行う、勤行の五座の御観念文では、先祖代々の追善供養証大菩提を願います。これは亡き精霊のために、私たちが積んだ功徳善根を回向し、先祖の成仏を祈る意味があります。すなわち先祖を供養するために、まず自分自身が、御本尊に御題目を唱えて、功徳善根を積む必要があるのです。

 また大聖人は、精霊のために塔婆を建てれば、精霊のみならず願主にも大きな功徳があることを説かれています。そこで、盂蘭盆会や命日忌などには特に塔婆を建立し、お墓にお参りして先祖の追善供養を願うことなども重要なことです。

 私たちにとって盂蘭盆会とは、自らが先祖供養の大切さを再認識する機会であると共に、間違った教えによって悪業を積み、供養しているつもりでいる人に対して正しい供養の在り方を教え、御本尊のもとに導く機会になることを銘記しましょう。

 

〔✽1〕阿羅漢 小乗仏教における最高の悟りの境地のこと。

〔✽2〕慳貪の科 欲深く、物惜しみすること。

〔✽3〕夏安居 インドの風習で雨期の三ヵ月間、

        活発化する動植物の不意の殺生を避けるため、

        僧が外出せずに一カ所に集まり修行すること。

        その最終日の七月十五日は自恣日といい、

        安居中の反省懴悔を行い、また各地に戻っていく。



    次回は、「良医治子」についての予定です。

 

 

 

 

 

 


①私たちのめざすもの

2022年10月10日 | 法華講員の心得(一)

大白法 令和2年6月1日(第1030号)から転載

 妙法の振舞い

 『法華講員の心得』より

  ①私たちがめざすもの



 私たち「日蓮正宗」を信仰する者は、正しい仏法によって自分自身の幸福な境界を確立するとともに、真の平和社会を築いていくことをめざしています。

 仏教では、人間として真実の幸せは成仏するところにあると説いています。成仏とは、死後の成仏のみを願ったり、人間とかけ離れた存在になることではなく、現実生活のなかで私たち自身が、仏のような理想的な人格を形成し、安穏な境地にいたることをいうのです。

 仏には、法身・般若・解脱という三つの徳が具わっています。この三徳とは、清らかな生命と、物事を正しく判断する智慧、そして悩みや苦しみを克服する自在の境地をいいます。私たちも、正法を信仰することによって、自然にこれらの徳を身に具え、いかなる困難をも乗り越え、人生を力強く歩んでいくことができるのです。

 末法に出現された御本仏日蓮大聖人は、すべての人々に幸福をもたらすため、「南無妙法蓮華経」という正しい教えを説き明かしました。そして弟子・信徒に対して、この仏法を世界に弘めて真の平和社会を実現するようご遺命されたのです。このご遺命の実現を「広宣流布」といいます。

 このように、一人ひとりの成仏と広宣流布を目的として、日蓮大聖人の教えを正しく実践していくのが日蓮正宗の信仰です。



 信行のポイント

 今回から始まる「妙法の振舞い『法華講員の心得』より」では、冊子『法華講員の心得』から本文を紹介し、説明してまいります。

 

 第一回目の「私たちのめざすもの」では、日蓮正宗の信仰の目的である「成仏」と「広宣流布」の大切さについて述べられています。

 

        ◇     ◇

 

 「葬儀や法事の時以外は関係ない」

 「歴史的な名所を見ることができる」

 「スピリチュアルで心が癒される」

 これが、仏教寺院に対して多くの人が懐いているイメージの一例です。残念ながらいずれの見方も、衆生済度という仏教本来の目的を知らない偏見であり、ごく一面的な認識というべきです。

 「仏教」は、諸法実相(あらゆる存在の真実の相)を悟られた仏の教えで、「人間は何故存在し、いかに生きるべきか」という根本的命題を説き明かしています。

 中でも法華経は、その道理が正しく示されているので、仏の「出世の本懐」の経典とされています。出世の本懐とは、仏が世に出現した一大目的をいいます。

 御本仏日蓮大聖人は、この法華経の肝心が南無妙法蓮華経であると説き明かされました。そして、末法の人々を根本から救うために、南無妙法蓮華経の曼荼羅御本尊を顕わされました。

 私たちはこの御本尊を信じ奉り南無妙法蓮華経の題目を唱える時、御本尊と境智冥合することで、自らに内在している仏界の生命(仏性)が開き顕わされ、「成仏」という無上の功徳を成就することが叶うのです。

 この成仏の境界は、特別な世界で、限られた人だけが得るのではなく、御本尊を信じ、行ずるすべての人が等しく開くことができる境界です。常に御本尊を中心に成仏を願い、いつも自らの信心を磨き続けることで、幸福と不幸の因果を正しく弁える徳が私たちの生命に具わります。

 そして、実生活においては、それが無上の智慧となり、あらゆる艱難辛苦を乗り越えられる生命力となるのです。私たちは、細事に一喜一憂することなく、困難にも不動の信念を持って、信心を根本に喜びにあふれた人生を過ごしてまいりましょう。

 次に「広宣流布」は、日蓮大聖人の正法を全世界に流布させ、人々が本当の幸福を得て、真の平和な社会を築き上げることをいいます。

 日蓮大聖人は、立正安国の精神をもって、不幸の根源である誤った宗教を破折すると共に、国土社会の安穏と人々の幸福のために正法を弘通されました。

 そして今私たちは、御法主日如上人猊下の御指南のもと、令和三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年までに法華講員八十万人体勢を構築し、未来広布に資していくとの具体的な目標に向かって、異体同心して歩みを進めています。

 御法主日如上人猊下は、

 「周りの人が幸せにならなければ、本当の自分の幸せは絶対に生まれてこないのです。(中略)自分だけの幸せを願っていたのでは、いつまで経っても自分の幸せは来ません。自他共の幸せを願うことが、折伏の根本精神です。」(大白法 一〇二二号)

と御指南です。私たちは自らの幸せを求めるだけではなく、家族・友人をはじめ、すべての人の幸せを願って正法を弘め伝えていくことが大切です。

 今も世界中で、誤った思想・宗教によって、知らずに悪業を積み苦しみの原因を作っている人々が多くいます。

 正法を全世界に広宣流布し、自他共の幸せを実現することこそ、日蓮正宗を信仰する真の目的であり、私たち法華講員の使命と心得て、異体同心・勇躍歓喜し、常に精進してまいりましょう。

 

 

 

 

 

 


第一目 五重の相対

2022年10月08日 | 日蓮正宗要義(一)

日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

 

  第一目

   五重の相対

 五重相対とは、開目抄に示されるところで、観心本尊抄の五重三段とともに、大聖人独自の教判である。特に開目抄は、その目的として、人類が帰依すべき人格を主師親の三徳として示し、また釈尊一代の教法の浅深を決判されるところにある。これに五重の段階があって、浅きより深きへ向かって勝劣を論ずるのである。

 開目抄の説相は述の順序によれば内外・権実・種脱・権迹・本迹の各相対の順であるが、浅深の次第よりすれば内外・権実(権迹)・本迹・種脱の順となる。

 

 内外相対とは、内道すなわち仏教で、とは外道である。

          仏教仏教外の一切の教えとの相対をいう。

 権実相対とは、法華以前の四十余年の経々を方便とし、

        法華経を真実本懐として両者を相対するのである。

 権迹相対とは、爾前諸経法華迹門相対であり、

 本迹相対は、久遠実成の本門始成正覚の迹門との相対であり、

 種脱相対は、下種の法華経脱益の法華経相対である。

 

 この五重相対と、観心本尊抄の五重三段は次のように対当している。

      開目抄  観心本尊抄         開目抄の文

第一 内外相対 一代一経三段の意を用う 「此の仏陀」(新編五二六)等の下の文

第二 権実相対 法華経一経三段の意を用う「但し仏教」(新編五二六)等の下の文

第三 種脱相対 文底下種三段の意を用う 「但しこの経」(新編五二六)等の下の文

第四 権迹相対 迹門熟益三段の意を用う 「此に予愚見」(新編五二八)等の下の文

第五 本迹相対 本門脱益三段の意を用う 「二には教主釈尊」(新編五三四)等の下の文

 

 

 故に権迹相対は、迹門熟益三段の意により、迹門の二乗作仏と爾前権経の不作仏を明らめるべく、特に開目抄において判ぜられたことが拝される。また開目抄の文の次第において、浅深の順序によれば第五であるべき種脱相対が、第三に説かれているのは、日寛上人が

 「今次上の義便を受けて即ち此に之を明かすなり」(歴全五ー九五)

と判ぜられるように、前の権実相対を明かす文に、法華の真実について、釈迦・多宝・十方分身の説法と証明を述べる文があり、このような三仏の本意は、本門寿量品の文底の妙法に存するので、その文を受けて次に種脱相対が述べられたのである。右、日寛上人の文段の五重の中には、大小相対が除外されている。但し右文段の種脱相対中「広く諸宗を簡ぶ」なか、すなわち開目抄の本文では「倶舎・成実・律宗等は阿含経によれり(新編五二七㌻)」

以下に、わずかながら大小相対の意が拝される。日寛上人が大小相対を採られない理由は、一には抄全体の文相文意に準拠し、二には観心本尊抄の五重三段との対当により、三には各御書の文意が、多く大小の名目を本迹・種脱の異なりの意味に転用せられていることから、大小相対を省いて権迹を立てられたものであろう。また教機時国抄では、教綱において大小・権実の相対を述べられる半面、内外・権迹・本迹・種脱各相対の文は省略されており、化導の時期により、それぞれ隠顕のあることが判るのである。故に五重相対は、一般的な従浅至深の次第からいえば、内外・大小・権実・本迹・種脱というべきであり、開目抄の文相からは、五重三段との相望より、大小を省いて内外・権実・種脱・権迹・本迹の五重となる。

 権実相対が爾前経と法華経との相対の概要であるのに対し、権迹相対はその中の二乗作仏と不作仏に関し、釈尊在世の化導において精しく相違を判別したものということができる。これより一般的な五重相対の概略を述べよう。

 

 

 

 

 

 


第三の国諌

2022年10月07日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和2年7月1日(第1032号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 137

 日蓮大聖人の御生涯 ㉓

  第 三 の 国 諌

 文永十一(1274)年三月二十六日、日蓮大聖人は佐渡に配流されてより、二年半ぶりに鎌倉に戻ってこられました。御年五十三歳の時です。

 竜口法難以来、大聖人が佐渡に配流された以降も大聖人の弟子檀那への、幕府や念仏者等からの弾圧は筆舌に尽くし難いものがありました。所領の没収や御内追放などの迫害や、放火犯の汚名を着せるなど卑劣を極め、多くの弟子檀那は退転していきました。その中にあっても大聖人のお手紙を頼りに退転することなく、強盛な信心を貫いた少数の弟子檀那は、このたびの大聖人の御帰還に当たり、再び大聖人のもとで信心できる喜びと安心感で包まれていました。より一層の正法への確信となり、折伏の機運が高まっていきました。

 一方、かねてより他国侵逼難を予言されていた大聖人は、迫り来る日本国の大難を憂い、一国の救済のために身命を捨てて、再び国主諌暁されることを固く決意していました。

 間もなくして鎌倉幕府より出頭の命令が到来し、四月八日、大聖人は、幕府の館において、平左衛門尉頼綱をはじめとする幕府の要人と対面されました。

 この時の様子を『種々御振舞御書』に、

 「四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さきにはにるべくもなく威儀を和らげてたゞしくする云云」(御書 一〇六七㌻)

とあるように、竜口法難の時には居丈高だった平左衛門尉が、前回とは打って変わり態度を和らげて礼儀正しく大聖人を迎えたのです。そして平左衛門尉は、爾前経での成仏の有無について質問し、その他同席した要人たちは、それぞれ、念仏・真言・禅等の信仰について、質問してきました。大聖人は、それぞれの質問について、一つひとつ経文を引いて丁寧に答えられ、法華経以外の爾前の諸経では成仏はできないことを説かれました。

 さらに大聖人は、

 「念仏は無間地獄へ堕ちる業であり、禅宗は天魔の仕業であることは疑いない、殊に真言宗が弘まることが、この国の大なる災難を引き起こす原因であるから、蒙古国を降伏させる祈祷を真言師に申しつけてはならない。もし真言僧たちに祈祷を申しつけられるならば、ますます早急にこの国が亡びるであろう(趣意)」(御書 八六七㌻)と強く述べられました。

 そこで平左衛門尉は、幕府の最も関心事である蒙古襲来の時期を質問したのです。

 これに対し、大聖人は、

 「四月の八日、平左衛門尉に見参してやうやうの事申したりし中に、今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ」(同 一〇三〇㌻)

と仰せられ、はっきりと「今年は一定なり」と今年中に蒙古の襲来があることを断言されました。そして「日蓮以外に日本国を救済できる者はいない。真言僧たちに祈祷を申しつけられるならば必ず日本は敗れ、誰一人として助かるものはいないであろう。真にこの国を助け自らも助からんと思うならば、直ちに邪宗の僧侶の首を切って謗法の根を断ち、正法に帰伏しなければならない」との厳しく仰せられました。

 これが、「三度の高名」のうちの第三番目に当たります。

 「三度の高名」

 「三度の高名」とは、『撰時抄』に、

 「余に三度のかう(高)みゃう(名)あり」(同 八六七㌻)

と御示しになられた、大聖人が為政者に対して行った三度にわたる国主諌暁をいいます。

 一度目は、文応元(一二六〇)年七月十六日『立正安国論』をもって、幕府の最高実力者である前執権・北条時頼(最明寺入道)を諌暁したことです。

 この時、最明寺入道に対して、「禅・念仏等の邪宗への帰依が三災七難の原因であり、これらの邪宗を急いで対治しなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難は免れない」と警告されました。

 二度目は、文永八(一二七一)年九月十二日、大聖人を捕らえにきた平左衛門尉に対する諌暁です。この時、大聖人は平左衛門尉に向かって、

 「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり」(同)

と喝破され、今に自界叛逆として一家の同士討ちが始まり、他国侵逼難といって、この国々の人々が他国から攻められ、殺戮されるのみならず、多くは生け捕りにされること。そして、邪宗の寺院を焼き払い、邪僧らの首を切って、日本国の謗法の根を断たなければ、日本国は亡びるであろうと厳しく諌められました。

 

 三度目は、先に述べた文永十一(一二七四)年四月八日、再び平左衛門尉に対して行われた国諌です。

 『高橋入道殿御返事』に、

 「此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき」(同 八八九㌻)

と仰せのように、御本仏としての大慈大悲による一切衆生救済のため、また日本国を助けるために、佐渡御配流から戻られた後、再び平左衛門尉をはじめとする幕府の要人たちに諌暁なされたものでした。

 しかし、この三度目の国諌も用いられることはありませんでした。



 幕府の懐柔

 幕府は、今年中に蒙古が来襲してくることを予言された大聖人の言葉のみ恐れて、土地や堂舎を寄進することを条件に、他宗の僧と同じく国家の安泰を祈祷して欲しいと願ってきました。

 大聖人は、

 「世間法とは、国王大臣より所領をたまはり官位をたまふ共、夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云ふなり」(同 一八四七㌻)

との御精神から、幕府の要請を一蹴されました。

 このことは、大聖人が、世間的な名声や権力による庇護を望まれていたのではなく、ただ人々の不幸の原因である邪教を対治し、正法をもって平和な国土の建設を願われていたからに他なりません。



 真言亡国の相

 また当時、折からの干ばつによって井戸は涸れ、作物も全く実らず、人々は塗炭の苦しみに喘いでいました。そこで幕府は、大聖人の再三にわたる諌言を無視し、阿弥陀堂の別当・加賀法印に祈雨を命じました。四月十日より真言の修法が行われると、翌日の十一日には雨が静かに降ってきたのです。このため執権の時宗は多大な恩賞を加賀法印に贈り、鎌倉中の上下万人も感嘆し、真言祈祷の誤りを説く大聖人を嘲笑しました。

 大聖人は、

 「しばしまて(中略)子細ぞあらんずらん」(同 一〇六八㌻)

と仰せられると、翌日の十二日には雨が止み、突如大風が吹き荒れ、鎌倉の大小の舎宅・堂塔・古木・御所等が損傷し、人々も牛馬も多く吹き殺される事態になりました。こうして真言の祈りは正しいものでないことが現証として露顕したのです。

 また大聖人は『八幡宮造営事』に、

 「其の故は去ぬる文永十一年四月十二日に、大風ふきて其の年他国よりおそひ来たるべき前相なり。風は是天地の使ひなり。まつり事あらければ風あらしと申すは是なり」(同 一五五七㌻)

と、この悪風は政治の乱れを象徴するものであり、また蒙古襲来の前兆であると仰せられています。

 こうして第三の国諌の時に仰せられた、

 「大蒙古を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず、若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべし(中略)天の御気色いかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき」(同 八六七㌻)との大聖人の予言は的中したのです。この年、文永十一年十月、蒙古の大軍は、壹岐、対馬に攻め入り、ありとあらゆる暴虐を尽くし、さらにその大軍は北九州の沿岸へと押し寄せ他国侵逼難が現実のものとなりました。

 いわゆる「文永の役」という未曾有の大事件が起きたのです。

 次回は、身延入山について学んでいきましょう。


理同事勝 真言の邪義

2022年10月05日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和2年5月16日(第1029号)からの転載

 仏教用語の解説 ㉗

  理 同 事 勝

  ー真言の邪義ー

 理同事勝は、法華経と大日経は共に一念三千が説かれていることで教理の面においては同じであるが、印・真言は大日経にしか説かれていないため、衆生の成仏ということにおいて大日経のほうが勝れているという、主に比叡山天台宗で用いられた邪義です。

 この法華経を貶める邪義は、インドの訳経僧の善無畏三蔵が大日経を注釈し『大日経疏』の中にあり、比叡山三代の慈覚大師(円仁)や、同五代の智証大師(円珍)が真言を正当化する際にも盛んに主張しました。

 善無畏と一行が一念三千を盗む

 大日経は、善無畏三蔵によって中国に伝えられました。さらに善無畏は、『大日経疏』を執筆する際に、中国の天台宗の僧侶であった一行を記録者として加え、大日経にも、一念三千が説かれていると主張したのです。これについて日蓮大聖人は、『撰時抄』の中に、「善無畏は、大日経の教理が低いことが明らかになれば、華厳宗・法相宗にばかにされ、天台宗にも笑われてしまうと考えた。そこで一行という天台宗の僧侶に、天台宗の法門や諸宗の法門を教わり、天台宗の法門を我がものとし、さらに大日経に印と真言とを飾って大日経疏を作ったのである。(趣意)」

 (御書 八五四㌻)

と言われています。すなわち善無畏と一行は、大日経の中に法華経の法門を盗み入れ、それだけでなく大日経のほうが勝れているとまで主張したのです。

 大聖人は、こうした善無畏らの邪義を「理同事勝」と称されています。

 大日経に一念三千・久遠実成はない

 大聖人は『開目抄』に、

 「善無畏三蔵(中略)大日経の『心実相、我一切本初』の文の神に、天台の一念三千を盗み入れ」(同 五五五㌻)

と述べられました。善無畏が、大日経の「心実相」「我一切本初」という経文をもって一念三千を盗んだとの指摘です。

 まず「心実相」とは、大日経の「入真言門住心品第一」の、

 「秘密主云何が菩提とならば、謂く実の如く自身を知るなり」という文を指します。この文について善無畏の『大日経疏』では、

 「彼に諸法実相と云ふは、即ちこの経の心の実相なり。心の実相とは即ち是れ菩提なり、更に別の理なし」

と、法華経の「諸法実相」は大日経の「心の実相」と同義であると勝手に解釈したのです。

 「諸法実相」とは法華経『方便品』に、

 「唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」(法華経 八九㌻)

とある、仏にしか理解できないとされる深い教理で、天台大師は「諸法実相」をもとに一念三千を説きました。

 しかし、大日経の当該の箇所には「諸法実相」の教理内容は何ら示されていません。大日経の「心実相」が法華経の「諸法実相」であるというのは、善無畏の勝手な言い分です。

 また「我一切本初」とは、大日経の「転字輪漫荼羅行品第八」の、

 「我は一切の本初なり。号して世の所依と名く。説法、等比無く、本寂にして上あることなし」

という経文です。この文について善無畏三蔵は『大日経疏』に、

 「本初とは即ち是れ寿量の義なり」と、大日経の「本初」が法華経の「寿量の義」であると述べます。

 法華経『寿量品』には、自受用報身の五百塵点劫の成道について明確に説かれていますが、大日経にはそうした内容は説かれていません。

 すなわち大日経に法身常住の意で出てくる「本初」と、法華経『寿量品』に自受用報身の寿命を表わす意で説かれる「寿量」とでは、本来の意味が違うのです。

 このように「心実相」と「我一切本初」の文をもって、法華経と大日経の教理が同じだという善無畏・一行の主張には、何も根拠がないことが明白です。

 印・真言とは

 印とは印契・印相のことで、手指で様々な形を作り、諸仏の内証や誓願を表わすことです。

 真言は陀羅尼ともいい、諸仏の名前などを梵語の発音のまま唱えることにより不思議な功徳があるとするものです。

 真言宗では、身に印を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、意に大日如来を観ずれば(意密)、身・口・意の三密(凡慮の及ばない仏の身口意三業)が我が身に相応して即身成仏できると主張します。

 善無畏は、法華経の教理自体は理秘密ではあるが、印と真言が説かれていないから、事理倶密(事も理も倶に秘密)の大日経には劣るというのです。

 しかし、仏道修行には自ずと身口意の三業が具わるのであり、印と真言がないからといって、その経が劣るなどということはありません。

 現に日蓮正宗でも、御本尊を拝し、姿勢を正して合掌し、妙法を唱えるという、身口意の三業にわたる修行が示されています。

 大日経には二乗作仏なし

 大聖人は『開目抄』に、

 「華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給へり」

  (御書 五三五㌻)

と、諸経の勝劣を判断するには、二乗作仏と久遠実成が重要であると指摘されています。

 声聞・縁覚の二乗が成仏できなければ、仏・菩薩の誓願である「衆生無辺誓願度」(一切衆生を成仏されること)を満足させることができないからです。また、二乗が成仏できなければ、十界互具・一念三千もあり得ません。

 さらに、仏の久遠実成が明かされなければ、その仏は垂迹(本仏ではない)の仏で、その教えも方便ということになってしまいます。

 ところが真言は、大聖人が『真言見聞』に、

 「大日経に云はく『仏不思議真言相道の法を説いて、一切の声聞・縁覚を共にせず。亦世尊普く一切衆生の為にするに非ず』云々。二乗を隔つる事、前四味の諸教に同じ。随って唐決には方等部の摂と判ず」(同 六一一㌻)

と指摘されるように、明確に声聞・縁覚の二乗を除外する表現が大日経にあるのです。中国の天台宗では、法華経に遥かに及ばない方等部の経典に分類してあります。

 比叡山の密教化

 これまで述べたように大日経には、「一念三千」「久遠実成」「二乗作仏」といった法華経の法門は何も説かれていません。しかし、理同事勝の邪義によって、あたかもそれが説かれているかのように偽装しています。

 比叡山では慈覚大師・智証大師らが、それをもって真言を正当化し、伝教大師が開いた天台法華宗は有名無実となって形骸化したのです。

 こうした事例を見ても、仏法を正しく伝えていくことは難しく、私たちは、大聖人の正義を根本に正しく仏道修行を行って、正しい法義を伝えていく使命があります。





        次回は、「盂蘭盆」についての予定です。


序 天台教判 (三)三種の教相

2022年10月04日 | 日蓮正宗要義(一)

日蓮正宗要義 改訂版 からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

 

  序 天台教判

   (三)三種の教相

 三種の教相は天台大師が法華玄義の一巻に示すもので、一代仏教を貫いてその意義を開闡するところの教相が、法華経に三種あることを説いている。法華経が他のあらゆる経々に超えて勝れていることは、これによって明らかである。なお、教相の教とは「聖人下に被らしむるの言」、相とは「同異を分別すること」と天台大師は説いている。

 

 その第一は、「根性の融不融の相」である。法華経は根性が融の教、爾前四十余年は不融の教と立て分けるのである。

 すなわち爾前四十余年の諸経は、その内容において高低様々であるが、結局は根性が別々であり、融け合うことがない。しかしこれら爾前の経で永久に仏と成れないとされた二乗も女人も、法華経に至って仏知見を受け得る状態に到達した。このように、あらゆる衆生が仏知見を開くことはただ法華経のみであり、爾前四十余年の諸経に絶えてないところである。したがって爾前経は衆生の智慧・根性等、総じて生命に関する根本的な理解と融合がない。ここに爾前経は不融、法華は融として同異を分別し、第一の教相とする。

 

 第二は「化導の始終不始終の相」である。

 爾前四十余年の経々には、仏と衆生との化導の因縁関係が不明である。つまり、いつ仏との縁が結ばれ、どうなってきたかという問題について、始めも終わりも説かれていない。しかるに法華経の化城喩品には、三千塵点劫の住昔に、大通智勝仏が出現して法華経を説かれたが、その十六王子の沙弥が再び法華経を説いた。これを法華覆講という。この法華経の下種によって、多くの衆生が結縁したのである。これを三千塵点劫の結縁といい、今番釈尊の化導はそれに基づくものであることを示された。ここに仏と衆生との過去よりの因縁関係、すなわち化導の源が明らかとなり、仏種の結縁が明確になったのである。爾前経は化導について不始終であり、法華経は始終を明かすものと決判して同異を分かつ。この意義において第二の教相を立てるのである

 

 第三には「師弟の遠近不遠近の相」である。

 爾前経にあっては釈尊の久遠の寿命が明かされておらず、中間の燃燈仏、その他爾前経に説かれたあらゆる仏と釈尊との関係、ひいては衆生との関係も明らかでない。一切の大衆の釈尊に対する仏としての生命的認識は、インドに生まれた、十九出家・三十成道以来の仏であった。釈尊が始成正覚であるなら、十方の諸仏との関係も不明であり、また説くところの実相真如も実体のないものとなる。師の師たる所以が明らかでなく、師弟によって決する成仏の真義が確立しない。これは爾前の諸経が釈尊と弟子との、師弟の近々(過去の比較的近世)の関係をも、また遠々(過去永遠の昔)の関係をもともに顕していないからである。今、法華経の涌出品・寿量品に至って、釈尊が久遠の仏であり、三世十方の仏もその分身であることを説かれたので、師弟の近々のみならず、遠々の教化の実事が示され、衆生の本源的な開覚、すなわち久遠の下種を覚知する即身成仏の大利益がなされたのである。

 故に爾前経は、釈尊の本身並びに衆生との遠近の関係を明かさないので不遠近であり、これを説くから遠近の相が明らかである。ここに爾前・迹門は不遠近、法華本門は遠近として、第三の教相を示されるのである。

 この三種の教相の、先の二意は迹門、後の一意は本門であり、この筋目より一代の経々を見通すとき、法華経が釈尊一代五十年の経々中における出世の本懐であり、衆生成仏の要道であることが明確となる。要するに三種の教相とは、天台大師が、一代五十年の教法中における法華特勝の意義を、経文上の三面の説相より論証したものである。

 

 

 

 

 

 


佐渡赦免

2022年10月02日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和2年6月1日(第1030号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 136

 日蓮大聖人の御生涯 ㉒

  佐 渡 赦 免



 佐渡の日々

 塚原問答や二月騒動の予言的中により、少しずつ日蓮大聖人に心を寄せる人たちが増えてきていました。

 食料はもとより、紙も乏しい生活であることには変わりありませんでしたが、御本仏の御立場から種々の教義書を執筆され、帰伏した最蓮房らと法門を語り合い、四条金吾、日妙聖人らの遥々の訪問を受けるなど、充実した日々を過ごされていたのです。

 竜口法難後、鎌倉に残した弟子檀那は日朗らが土籠に入れられるなど強い迫害を受けていましたが、これもまた二月騒動の勃発により釈放されました。

 弟子の中には、自界叛逆難の的中をもって大聖人の赦免を訴える者がいましたが、それを聞き及んだ大聖人は、そのような赦免運動を厳しく制止されます。これは、幕府要人がその盲目を開いて大聖人に帰伏するのが筋目であり、大聖人が赦免を幕府に願い出る必要などないためと拝されます。

 一方で、塚原問答で敗れた念仏宗徒らは、大聖人を亡き者しようと謀議を巡らして、佐渡守護であった北条宣時に訴えかけていました。

 虚御教書と法華身読

 念仏宗徒らは次のように訴えました。

 「日蓮房が佐渡にいたならば、念仏の寺塔はなくなり、念仏僧もいなくなってしまい、佐渡の念仏宗は滅亡してしまうだろう。日蓮房は阿弥陀仏を火にくべたり川に流しているばかりか、夜も昼も山に登って日月に向かって幕府を呪詛しており、その声が佐渡一国に響きわたるほどである(趣意)」(御書 一〇六六㌻)

 北条宣時は、まだ何の役職もない時分に、北条時頼(最明寺入道)と普段着で親しく酒を酌み交わしていたような人物でした。そのため大聖人に対しては、その時頼のことを「地獄に堕ちた」と言っている人物と聞いており、悪感情を抱いていたと考えられます。こうした念仏宗徒らの訴えを受け入れ、かつ、上に報告するまでもないと勝手に、執権の意を受けているかのような命令書を作り上げ、大聖人の一門を迫害しようとしたのです。

 『法華行者値難事』によれば、その書状は次のようなものでした。

 「佐渡国の流人の僧日蓮、弟子等を引率し、悪行を巧むの由其の聞こえ有り。所行の企て甚だ以て奇怪なり。今より以後、彼の僧に相随はんの輩に於ては、炳誡を加へしむべし。猶以て違犯せしめば、交名を注進せらるべきの由候所なり。仍って執達件の如し。

 文永十年十二月七日

     沙門 観 恵上る

 依智六郎左衛門尉殿等」(同 七二〇㌻)

 このような偽の御教書は三度も出されましたが、その背後には佐渡の念仏宗徒らだけではなく極楽寺良観の策謀もあったのです。

 これを御覧なった大聖人は、法華経等を引かれ、釈尊の在世と正像二千年の間には釈尊と天台と伝教という三人の法華経の行者がいらしたこと、そして末法の法華経の行者に襲いかかる難は、釈尊が受けられた難をも超過すると示された上で、

 「当に知るべし、三人に日蓮を入れて四人と為す。法華経の行者末法に有るか。喜ばしいかな、況滅度後の記文に当たれり」(同)

と、御自身こそ末法の法華経の行者であると仰せになっています。

 さらに追伸には、今こそ天台・伝教が説き弘められなかった三大秘法、本門の本尊と四菩薩、戒壇と題目の五字を建立し弘めるべき時であることを御教示になり、日蓮の弟子檀那たる者は深くこのことを知って、互いに読み聞かせて団結し、けっして退転することがないようにと御注意されています。

 迫る国難と不祥の瑞相

 さて、『観心本尊抄』御著述よりも前、文永九(一二七二)年十月二十四日の夜、大聖人は蒙古と幕府との戦乱の御夢想を御覧になり、刻一刻と蒙古襲来の時が近づいていることを御感じになっていました。

 事実、蒙古は文永八年に国号を元と改め、文永九年五月には高麗の使いが元の牒状を携えて日本を訪れ、また翌文永十年三月には元の使い趙良弼が太宰府へ来たものの、京に入ることができずに帰国していくなど、次第に世情は緊迫の色を強めていたのでした。

 同時に様々な不祥の瑞相が起きています。文永十年七月には佐渡に石灰虫(一説にはイナゴ)と呼ばれる害虫が発生して稲を害し、文永十一年正月二十三日には佐渡の西方で太陽が二つ、三つと並ぶのが観測され、二月五日には東方に二つの明星が並んで出現するのが見られました。

 大聖人はこれらの瑞相について、最勝王経や金光明経・仁王経等の経文を引き「第一の大悪難なり」と喝破されました。蒙古襲来が切迫してきていることを感じられていたのです。

 頭の白い烏の飛来

 さて『光日房御書』によれば、佐渡御配流の当初、故郷である安房への望郷の念を懐かれていたことが窺えます。しかし念仏・禅・律・真言の各宗が厚く信仰されている日本国で、御自身は法華経を経文に説かれる通りに弘めたために佐渡へ流されたのであり、鎌倉へ帰ることは難しいと考えられました。

 その一方で、法華経が真実であり、日月両天子や諸天善神が法華経の行者である御自身を捨てていなければ、きっと鎌倉に帰り、ご両親の墓参も叶うであろうとお考えになり、心強く思われていました。

 そして、高い山に登っては次のように諸天を諌暁されたのです。

 「梵天・帝釈・日月・四天はどうしたのであろうか。天照大神・八幡大菩薩はこの国にはいらっしゃらないのか。仏前で法華経の行者を守護すると誓った言葉はむなしくなりはて、法華経の行者を捨てたもうか。(中略)この罪を恐ろしく思うのであれば、急ぎ国に徴を現わし、本国へ帰したまえ(趣意)」(同 九五九㌻)

 その結果、二月騒動が起きて状況は変わりましたが、未だに配流が解かれることはなく、大聖人はさらに諸天を諌暁されました。

 ある日のことでした。大聖人のもとへ一羽の頭の白い烏が飛んできて、それを御覧になった大聖人は、燕の丹太子の故事を思い出されました。

 秦国の人質となっていた燕の太子・丹は、帰国を願い出たところ、秦王政から「烏の頭が白く、馬に角が生えたら許そう」と、あろうはずがない条件を言われて許されませんでした。あまりの言葉に天を仰ぎ見て嘆いたところ、不思議なことに烏の頭が白くなり、馬からは角が生え、丹は帰国することができたと言われています。

 大聖人は、この故事を御自身に引き当てられて、赦免の近いことを悟られたのです。なおこの時に飛来した烏は、日天子の使いと伝えられています。

 赦 免

 幕府内では、相模守(執権・北条時宗)が、大聖人の予言が的中したこと、また子細に考えてみればさしたる科もないことから、周囲の反対を押さえて赦免する決意をしていました。そして文永十一年二月十四日に赦免状を発し、三月八日に大聖人のもとにその赦免状が届けられるのです。

 佐渡の念仏者たちは、阿弥陀仏の怨敵を生きては帰すまじと策謀を巡らしていましたが、大聖人は無事に三月十三日には佐渡真浦の津に着き、十四日も同地に留まった後に出航しました。

 本来は越後の寺泊に到着すべきところを、大風の影響で柏崎に着岸し、その翌日には国府に到着されました。予定では寺泊から陸路で柏崎を経由するはずが、かえって日程を短縮できたのです。

 その時、既に大聖人赦免を聞き及んでいた越後や信濃の念仏者たちが善光寺に集結し、大聖人に危害を加えようと待ち構えていました。

 しかし大聖人一行は、国府から多くの武士の警固を受けて、念仏者らの集結した善光寺を無事に通り抜け、三月二十六日に鎌倉へと到着されたのです。

 慣れ親しんだ佐渡の人々を思うとき、「そりたるかみをうしろへひかれ」(御書 七四〇㌻)るように離れ難いものでありましたが蒙古襲来を眼前にして再び国諌をなすべき身となり、平左衛門尉頼綱と対面することになったのでした。