gooブログよろしく!

新たなる日々!

爾前迹門の謗法

2022年08月30日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」令和元年7月16日(第1009号)から転載    

 【仏教用語の解説】⑲

    爾前迹門の謗法

 

 『爾前迹門の謗法』 とは、末法においては、法華本門の大法である日蓮大聖人の教え以外は、すべて謗法となることを端的に示した言葉です。御授戒文にも用いられています。

 初めの「爾前」とは、釈尊五十年間の説法のうち、法華経以前の教えを総称したものです。

 そして「迹門」とは、法華経の前半十四品の意に加え、法華経迹門を中心に法華経を弘通した天台大師・伝教大師の教えを指します。 

 御会式で捧読される日興上人の元徳二年の申状には、

 「爾前迹門の謗法を対治し、法華本門の正法を立てらるれば、天下泰平国土安全たるべきこと」

  (御会式捧読申状)

と示されています。

 正像末の三時

 日蓮大聖人は『撰時抄』に、

「今末法に入って二百余歳、大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり。仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり」

  (御書 八四三㌻)

と、大聖人の御在世が末法に入って二百年以上経過していると示されています。

『大集経』 では、釈尊滅後、最初の千年となる正法時代を解脱堅固・禅定堅固(悟りを得て解脱し、禅定が行われる時代)とし、次の千年となる像法時代を読誦多聞堅固・多造塔寺堅固(経の読誦、説法の聴聞が行われ、多くの塔寺が造立される時代)とし、それ以降の末法時代を、闘いや論争が多く、釈尊の仏法である白法が滅亡してしまう時代、闘諍堅固であると説かれています。

 正法時代・像法時代の仏法

 『撰時抄』(御書 八三九㌻)には、正法時代・像法時代の仏法弘通について次のように記されています。

 正法時代の最初の五百年は迦葉・阿難等が小乗教を弘め、次の五百年には馬鳴菩薩・竜樹菩薩等が権大乗の教えを弘めました。

 次の像法時代には、中国に仏教が伝わりますが、南三北七と言われる仏教学派が、それぞれ自分たちの教えこそが第一であると主張していました。

 そこに天台大師が現われ、釈尊一代の教えを五時八教に整理分類し、法華経第一の正義を示して、南三北七の邪義を破折し、一念三千の法理を説いて像法時代の衆生を導いたのです。

 また、像法時代の末頃の日本では南都六宗(奈良に興隆した倶舎・成実・三論・律・法相・華厳の六宗)が権勢を振るい、正法たる法華経を蔑ろにしていました。

 伝教大師は天台法華宗を開き、南都六宗の僧等を皆破折して法華経の正義を顕揚したのです。

 正像末三時の仏法付嘱

 日興上人の『五人所破抄』(御書 一八七六㌻)には、正・像・末の三時に四依の人師が出現し、釈尊からの付嘱に従って法を弘めることが説かれています。

 正法時代・像法時代の四依の人師とは、迦葉・阿難・竜樹菩薩・天親菩薩・天台大師・伝教大師等の方々です。

 迦葉・阿難・竜樹・天親は、付法蔵と言われる釈尊からの口伝の付嘱を受け継がれていました。この付法蔵の付嘱は二十四番目の師子尊者が檀弥羅王に殺害されたことにより、途絶えてしまったとされます。

 そして像法時代の付嘱については『観心本尊抄』に、

 「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して、百界千如、一念三千其の義を尽くせり」(御書 六六〇㌻)

とあるように、天台大師の師匠である南岳大師は観音菩薩の再誕、天台大師は薬王菩薩の再誕であり、法華経『嘱累品第二十二』において総付嘱を受けられたという内証が示されています。

 また法華経『如来神力品第二十一』には、滅後末法のために釈尊から地涌の菩薩に「結要付嘱」がなされ、仏法の大権が釈尊から上行菩薩に譲られたことが説かれます。

 まさに末法は、本化地涌上行菩薩の再誕にして末法の御本仏である日蓮大聖人によって、本門の大法が弘通される時代になるのです。

 天台・伝教の法華経は末法には無益

 大聖人は『下山御消息』において、

 「世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に、法華経の半分迹門十四品を譲り給ふ。これは又地涌の大菩薩、末法の初めに出現せさせ給ひて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき先序の為なり。所謂迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等是なり」(御書 一一四〇㌻)

と説かれています。

 すなわち釈尊は、像法時代の衆生のために、迹化他方の菩薩に、法華経の迹門十四品を付嘱され、南岳・天台・妙楽・伝教等の方々がそれを弘められました。

 それはまた、末法に地涌上行菩薩が本門の肝心たる南無妙法蓮華経を弘通するための序分でもあります。

 『観心本尊得意抄』に、

 「在々処々に迹門を捨てよと書きて候事は(中略)叡山天台宗の過時の迹を破し候なり。設ひ天台・伝教の如く法のまゝありとも、今末法に至っては去年の暦の如し」(御書 九一四㌻)

とあるように、天台・伝教の迹門の法華経は「去年の暦」の如く、末法では無益となるのです。

 地涌の義

 『諸法実相抄』に、

 「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女をきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや」(御書 六六六㌻)

と、 末法の一切衆生は、日蓮大聖人の唱え出だされた題目を一人から二人、二人から三人へと次第に唱え伝えていくべきことを御教示です。 

 正しい仏法は、必ず正しい付嘱によって弘められていきます。

 末法は、外用は地涌上行菩薩、内証は久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人によって利益される時代です。爾前経によって宗旨を立てる禅・念仏・真言はもちろんのこと、たとえ天台・伝教の教えでさえも、末法では無益となり謗法となるのです。

 付嘱に反する教えはすべて謗法

 日蓮大聖人は、末法の一切衆生を救済するため、三大秘法を御建立あそばされました。そして三大秘法の根源である本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人より日興上人に唯授一人の血脈をもって付嘱され、今日では御法主日如上人猊下の一身に御所持されています。私たちは、血脈御所持の御法主上人猊下に信伏随従して妙法弘通に挺身することが大切なのです。



 次回は、「捨閉閣抛の邪義」についての予定です。

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

策謀をめぐらす良観たち

2022年08月28日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年7月1日(第1008号)

 日蓮正宗の基本を学ぼう 128

 日蓮大聖人の御生涯 ⑭

   策謀をめぐらす良観たち

 

 前回学んだ通り、文永八(一二七一)年六月十八日から始まった極楽寺良観の祈雨は、干ばつが悪化し暴風が吹き荒れる結果となり、完全に失敗に終わりました。

 そもそも祈雨というのは、その降った雨の様子を見て功力を評価するものですが、良観の祈雨はそれ以前の問題だったのです。

 この六月十八日は現在の暦では八月二日に当たりますから、ついには八月中旬まで干ばつが続いてしまったことになります。そのことからも、人々の歎き、 農作物への打撃は相当のものであったと考えられます。

 そこで大聖人は、良観に弟子を遣わして、

 「人々の歎きはますます深まっている。速やかにその祈りを止めなさい(趣意)」

  (御書 一一三二㌻)

 「一丈の堀を超えられぬ者が十丈二十丈の堀を超えることができようか(中略)能因法師は破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らしたのに、二百五十戒を持つ人々が集まって十四日間も祈ったのに雨が降るどころか大風が吹く始末である。これをもって知りなさい。あなたたちの極楽往生は叶わないものであると(趣意)」(御書 一八五八㌻)

と伝え、良観はあまりの悔しさに涙を飲んだのでありました。

 この良観の失敗は、それに協力した鎌倉の諸大寺にとっても大きな恥辱となったのです。祈雨の勝負に負けた良観は、かねての約束通りに大聖人の弟子になるどころか、これらの諸大寺の高僧らと策謀をめぐらす有り様でした。

 その策謀とは、浄光明寺の、念阿弥陀仏(然阿)良忠の弟子行敏(乗蓮)を表に据え、大聖人への問難の書状を書かせて対決させようとしたのです。

 行敏は直ちに問難状を認めて、次の四点の疑難を大聖人に提出しました。

 「風聞した通りであれば、日蓮御房の主張する教義には不審がある。すなわち、

(1)法華経以前の爾前経は、すべて妄語であり生死の苦しみから離れる法ではないということ。

(2)大小の戒律は世間を惑わせ悪道に堕す法であること。

(3)念仏は無間地獄に堕ちる業であるということ。

(4)禅宗は天魔の説で、その修行する者は悪見を増長するということ。

 右を御房が本当に言ったのであれば、貴辺は仏法の怨敵である。よって、対面を遂げてその悪見を破ろうと欲するものである(趣意)」(御書 四七一㌻)

 この問難状は、僧・行敏の名前となっていますが、 その背後には極楽寺良観のほか、念阿良忠、道阿弥陀仏等の鎌倉諸大寺の人々がいました。 正しく自分たちは高徳の僧と仰がれながらも、その裏で他人を使って法華経の行者を迫害する僭聖増上慢の面目躍如の振る舞いですが、その狙いは私的な問答に大聖人を引っぱり出して屈服させようとしたところにあったのです。

 彼らの悪巧みを見抜いていた大聖人は、 かえってこの機会をとらえて公場対決によって正邪を決しようとお考えになりました。そして、行敏には次のように返事をされたのです。

 「行敏御房が不審に思うことについて、私的な問答ではなく、御房より上奏を経られて、その仰せくださるところの趣旨にしたがって、是非を糾明するべきである。このように公場にて正邪を決することこそ、願うところである(趣意)」(御書 四七二㌻)

 こうして私的な問答を仕掛けようとした思惑は外れ、行敏らは幕府問注所へ大聖人を謗ずる訴状を提出したのです。

 

 行敏の訴状

 当時の通例に従って、その訴状は問注所から大聖人のもとへと届けられ、直ちに大聖人は答弁となる陳状を認められました。これが『行敏訴状御会通』です。

 さて、行敏らの訴えは次の通りでした。

①八万四千の経教を、一を真実として他を非とするのは道理ではなく、その考え方こそ謗法である。

②日蓮房は法華経に執着して他の大乗の教えを誹謗している。

③日蓮房は法華経以前の諸経を妄語とした。

④日蓮房は禅宗を天魔の教え、戒律を世間を誑かす法であると言った。

⑤ 人々の信仰せるところの本尊、阿弥陀や観音などの尊像を火に焼き、水に流した。

⑥凶徒を草庵に集めている。

 右内容の一つひとつに対して、

大聖人は反論を加えられています。すなわち、

①〜④の内容は、大聖人自身の言葉ではなく、釈尊自身の御言葉(「四十余年未顕真実」など)によるものであること。

⑤は身に覚えのないことで、確かな証人を呼び出して事実を糾明すべきであり、もし証人がいなければ大聖人に罪を着せるための陰謀である。

⑥については、法華経守護のための弓箭刀杖は仏法に定まれる法である。 

 そしてこれらの陳述に続けて、こうした訴えの根源が極楽寺良観にあり、良観が自らの邪義を覆い隠すため、日蓮房は阿弥陀仏の怨敵であり、首を切り追放せよと言いふらしていることを述べられています。

 つまるところ訴状の内容(特に⑤)は、良観らによる大妄語であり、宗教の正邪を糾明せずに、ただ権力者に取り入って悪感情をかき立てさせ、もって大聖人とその門下に迫害を加えようとしたものであったのです。

 しかし良観らによる悪辣な策謀を信じ込んだ、北条時頼の妻であり時宗の母である後家尼御前をはじめとする、権力者の女房をたちが、執権ら北条氏一門並びに幕府要人たちに大聖人の処罰を強く迫ったのです。その様子が後年の『報恩抄』に次のように記されています。

 「多くの禅僧・念仏者・真言師たちが、幕府の奉行人、権力者、権力者の女房や時宗の母の後家尼御前に無数の讒言をしたために、最後には『天下第一の大事』『日本国を滅ぼそうと呪う法師である』『故最明寺殿(時頼)や極楽寺殿(重時)のことを無間地獄に堕ちたりという法師である。御尋ねするまでもなく、直ちに日蓮房を斬首し、その弟子たちも斬首や流罪などに処分すべき』と、後家尼御前たちが瞋りをなして強く訴えたので、その主張のままに行われたのである(趣意)」(御書 一〇二九㌻)

 こうして良観らの策謀によって、事態は大きくなり、大聖人は幕府評定所へ召喚されることとなったのです。

 

 評定所での召喚

 時に文永八年九月十日、大聖人は評定所へ召喚され、北条家の家司であり侍所の所司である平左衛門尉頼綱と対面しました。

 頼綱は大聖人に、「故最明寺入道殿、極楽寺殿の死亡に対し無間地獄に堕ちたと公言しているのか。建長寺・極楽寺等を焼き払え、道隆上人や良観上人等の首をはねよと言っているのか」と尋問しました。

 これに対して大聖人様は、

 「上件の事一言もたがはず申す」(御書 一〇五七㌻)

と答えられ、ただし、謗法を捨てて正法に帰依しなければ地獄に堕ちるであろうとの諫言は、故最明寺殿・極楽寺殿が存命の時から申し上げてきたことであって、死後初めて堕地獄であると言い出したとするのは、訴人の虚言であると申し述べられました。また、堕地獄となると主張したのはこの日本国を思うためであり、蒙古襲来が現実に迫ってる今、その国の安穏を思うのであれば、訴人を召喚して大聖人と対決させてから、両人の主張をもって判断するようにと仰せられたのです。

 大聖人は、さらに次のように申しつけられました。

 「もし幕府が一方的に訴人の訴えの通りに、理不尽に法華経の行者である大聖人を処罰するならば、国内の同士討ち(自界叛逆難)と蒙古襲来(他国侵逼難)が起こり、後悔するであろう(趣意)」(同 一〇二九㌻)

 この権力を恐れない堂々とした反論に、かえって頼綱は憎悪の念に駆られ、瞋りを露わにしたのであります。実は、この尋問は開かれこそしたものの、この時既に大聖人の処罰は定められていたのです。

 こうして、祈雨の勝負に負けた良観をはじめとする人々の悪意が大聖人と門下を取り囲み、策謀によって、いよいよ竜ノ口法難へと続いていくのです。




      ◇      ◇



 私たちは、 この一連の出来事を単なる歴史上の一事件とのみとらえるのではなく、我が身に当てはめて拝し、難に直面したときには自らも魔に負けない不退転の覚悟を持つことが大切です。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不軽菩薩

2022年08月26日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」令和元年6月16日(第1007号)    

 【仏教用語の解説】⑱

    不 軽 菩 薩

 

 不軽菩薩は、釈尊の過去世における本門の修行の姿として法華経『常不軽菩薩品第二十』に説かれる菩薩で、常不軽菩薩とも呼びます。

 

 不軽菩薩の但行礼拝

 『常不軽菩薩品』の概要を述べると、威音王仏の滅後の像法時代、増上慢の比丘が充満していました。そこに一人の菩薩が現われました。

そして、すべての比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆(男女の僧俗)に対し、

 「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経 五〇〇㌻)

との言葉を述べ、ただ礼拝を行じ讃歎して歩き(但行礼拝)ました。

 勝手に自分は悟ったと思い込んでいる出家僧や男女の在家修行者たち(増上慢の四衆)は、みすぼらしい不軽菩薩から成仏を保証されたり、礼拝されたことに対して、かえって強い瞋りの心を起こし、悪口を言って罵り(悪口罵詈)、あるいは杖で打ったり石を投げて迫害(杖木瓦石)しました。

 この菩薩は、それらを避けながらもなお、この言葉を説いて礼拝を続けたので、増上慢の四衆はこの菩薩を「常不軽」と名づけたのです。

 このようにして不行菩薩は生涯、礼拝行を続け、いよいよ寿命が尽きようとした時、虚空において威音王仏の法華経の説法を聞いて、その一切を受持し眼耳鼻舌身意の六根が清浄になる果報を得ました。 この功徳により、さらに二百万億那由他歳という長寿を得て、広く人々のために法華経を説き、多くの衆生を利益したのです。

 さらに不軽菩薩はその後、日月灯明仏という同じ名を持つ二千億の仏と、雲自在灯王という同じ名の二千億の仏に値い、さらに無数の諸仏を供養し讃歎して、法華経を説くことで過去遠々劫からの罪障が消滅し、成仏することができました。

 不軽菩薩が六根清浄となり大神通力等の種々の利益と功徳を得るという現証を見た増上慢の四衆は、不軽菩薩の説法を聞いて改心し、皆、信伏随従しました。

 とはいえ、不軽菩薩に対し、悪口罵詈し、杖木瓦石を加えた謗法の罪報は消え難く、千劫もの長い間、無間地獄に堕ち、その上、二百億劫の間、仏に値うことも、法を聞くことも、僧を見ることもできない、という大苦悩を受けたのです。

 その後、 これらの四衆は謗法の罪が消えて再び不軽菩薩の教化に欲することになりますが、その時の不軽菩薩とは今の釈尊であり、四衆とは、法華経の会座に列なった不退転の衆であると説かれます。

 以上が法華経『常不軽菩薩品』の概略です。

 不軽菩薩が礼拝の際に説いた言葉は、経文の文字数で二十四文字あり、「二十四字の法華経」「二十四字の法体」と呼ばれています。

 

  本已有善と本未有善

 天台大師は、『法華文句』に、

 「本已に善有り、釈迦は小を以て之を将護したもう。本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」(法華文句記会本 下 四五二㌻)

と説かれています。つまり、仏の化導方法として、過去世に仏種を植えられた本已有善の衆生に対しては、釈尊が直ちに法華経を説かずに小乗を説いたように、様々な方便を説いて衆生の過去世の仏種を守り、誘引化導されます。

 しかし、過去世に下種を受けていない本未有善の機根に対しては、法華経による下種がなければ、将来に亘って永遠に成仏することができません。 故に、たとえ逆縁となり一度は悪業を積むことになったとしても、敢えて法華経を説いて下種するということです。

 

 不軽の跡を継ぐ

 大聖人は『曽谷入道殿許御書』に、

 「今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(御書 七七八㌻)

と、末法は、本已有善の「権実二機の」〔✽1〕がことごとく尽き、本未有善の機根のみの時代となることから、不軽菩薩のように、但行礼拝によって毒鼓の縁〔✽2〕を結ぶべき時であると仰せられています。

 つまり、 末法濁悪の今の世は、不軽菩薩のように順縁・逆縁〔✽3〕を問わず折伏を行ずる時であるということです。

 また日蓮大聖人は、命に及ぶほどの大きな迫害の中で折伏弘痛された御自身を、

「日蓮は是法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」(御書 七四八㌻)

と仰せです。 

 

 二十四字の妙法の五字

 このように、 不軽菩薩の振る舞いは、本未有善の衆生に妙法蓮華経を下種結縁なされた大聖人の折伏行と同じ意義であると拝せます。

 しかし、一方で『御義口伝』には、

二十四字の法華経は、略して経意を弘めたものであると仰せであり、大聖人が弘通される法華経の肝心たる妙法蓮華経とは雲泥の差があると示されています。

 したがって『御義口伝』 には、

 「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者を軽賤せん事彼に過ぎたり。彼は千劫、此は至無数劫なり」(御書 一七七九㌻)

と、不軽菩薩を謗るより、大聖人を謗る罪が遥かに大きいことを御教示です。

 『法華初心成仏抄』には、

 「末法の世には、無知の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり」(御書 一三一五㌻)

と、また『聖愚問答抄』には、

 「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書 四〇三㌻)

と仰せで、現代の末法濁悪の世にあっては、法門をもって邪義を糾し、大聖人が弘められた妙法蓮華経の五字を一切衆生に受持せしめていくというのが、大聖人の御意に適った修行となります。

 それを心得た上で、不軽菩薩のように順逆を問わず折伏に励んでいくことで、大きな功徳を積むことができるのです。

 大聖人の教えを信奉する私たち日蓮正宗僧俗には、広宣流布の実現という重大な使命があります。不軽菩薩の振る舞いを通して折伏逆化の精神を学び、怯まず正法を説いていくことが大切です。



 ✽1 権実の二機 権機と実機を並べて呼ぶことで、権機とは方便権教を施されるべき熟益の機根、実機とは、実教によって仏種が調養され得脱(脱益)を受けるべき機根。共に本已有善の機根のこと。

 ✽2 毒鼓の縁『涅槃経』に説かれる、毒を塗った太鼓を打てば、その音を聞こうとしない者もすべて死に至らしめるという説話。毒薬とは、甘露の如き大乗経典も仏性を信じない者にとっては毒薬になるということ。

 ✽3 順縁・逆縁(順逆二縁)順縁とは素直に仏を信じて仏縁を結ぶこと。逆縁とは正法を聞いて、それを謗るなどの破法・謗法をすることにより仏縁を結ぶこと。

 

 

 

 

 次回は、「爾前迹門の謗法」についての予定です。

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他国侵逼難の兆候

2022年08月24日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年6月1日(第1006号)

 日蓮正宗の基本を学ぼう 127

 日蓮大聖人の御生涯 ⑬

  他国侵逼難の兆候

 

 前回は、小松原法難後に起こった種々の出来事について学びました。

 今回は、『立正安国論』に予言された二難のうち、他国侵逼難の兆候が現われてきた当時の様相を学んでいきましょう。

 

 蒙古の使者

 日蓮大聖人の御生涯を学ぶ序章として、御在世である十三世紀当時、蒙古國(モンゴル帝国)がユーラシア大陸の大半に及ぶ勢力を誇っていたことに触れました(大白法九七八号参照)

 文永五(一二六八)年一月、その蒙古國から日本へ、高麗の使節団によって初めての国書がもたらされました。「蒙古國牒状」あるいは「大蒙古國皇帝奉書」と称されるその書状は、通交関係を求めるものでしたが、日本に朝貢を促し、武力行使をほのめかす高圧的な内容でした。

 国書は、まず太宰府から鎌倉幕府に届けられ、その後朝廷に回送され、対応について評定が開かれました。結局、返答無用となり、七ヶ月後に高麗の使節団は帰還しています。

 その間、幕府は蒙古襲来に備えるよう御家人に通達すると共に、得宗家の北条時宗が十八歳で執権となり、権力の一元化を図りました。また、蒙古の求めに一切応じない姿勢を貫く一方、諸大社・ 寺院に蒙古調伏(撃退)の祈祷を命じました。

 蒙古国書の到来は、たちまち世間に弘まり、鎌倉はおろか日本国中が緊張に包まれる事態となりました。 

 かつて大聖人が、文応元(一二六〇)年の『立正安国論』に予言されていた「他国侵逼難」が、ついに現実の問題として現われてきたのです。

 蒙古の来牒を耳にされた大聖人は、四月五日に『安国論御勘由来』を著されました。

 この書には、『立正安国論』御著述の縁由と提出に至る経緯、この度の来牒による勘文(『立正安国論』)に記した予言の的中、そして蒙古国対治の方途を知るのは 大聖人お一人であることが明かされています。

 『安国論御勘由来』を送られた相手の法鑑房については、入道していた平左衛門尉頼綱の父盛時であるとする説と、北条家に近い出家僧であるとする説がありますが、定かではありません。確かなことは、書中に『立正安国論』を北条時頼に取り次いだ、宿屋入道との対面に関する記述があることから、幕府に近い立場の人物であったということです。 

 しかし、法鑑房からの返事はなかった様子で、 四ヵ月以上が経過した八月二十一日、大聖人は今度は宿屋入道に書状を認められ、新しく執権となった北条時宗の内奏を計られました。 

 

 十一通の諌状

 大聖人は、翌九月に再び宿屋入道へ書状を送られましたがいずれも返報はなく、公場において法の正邪を決する以外にないと、十月十一日に諌状を認められました。

 その宛先は、北条時宗、宿屋左衛門光則(宿屋入道)、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺の十一ヵ所であり、これが十一処への直諫状(十一通御書)です。

 そのうちの一通に、

 「敢へて諸宗を蔑如するに非ず。但此の国の安泰を存ずる計りなり」(御書 三八〇㌻)

と仰せのように、大聖人の烈々たる諸宗破折は、日本国の安泰と民衆の平安を願う一念から起こるものだったのです。

 しかし後年、大聖人が『種々御振舞御書』(御書 一〇五五㌻)に当時の様子を述懐されているように、幕府の要人や諸宗の僧侶等は、返事をしないばかりか、かえって諌状の使者に悪口を言う者までいました。

 さらには、大聖人に対して「頸を刎ねるべきである」「鎌倉から追い出すべきである」、その弟子・檀那についても「所領を没収して頸を切れ」「牢に入れよ」「遠流せよ」などと、謀略を巡らす有り様でした。

 大聖人の破折と御指摘は、彼らが怒りを覚えるほどに、仏法の正邪と権力者の本質を突くものだったと言えます。

 こうした事態を予見されてか、大聖人は諌状を送られた同日に、『弟子檀那中への御状』を認められています。

 この御状は、大聖人が十一ヵ所へ諌状を送られたことに伴い、一門へ不惜身命の覚悟を促されるものでした。

 御状に、

「定めて日蓮が弟子檀那、流罪死罪一定ならんのみ。少しも之を驚くこと莫れ。(中略)少しも妻子眷属を憶ふこと莫れ、権威を恐るゝこと莫れ。今度生死の縛を切りて仏果を遂げしめ給へ」

 (御書 三八〇㌻)

と、

 妙法のために流罪・死罪は定まったことであると覚悟し、妻子・眷属に気を引かれることなく信心を貫き通すよう御教示されています。

 

 再びの使者と

 『安国論奥書』

 以後も幕府側からの正式な返答はありませんでしたが、大聖人や弟子・檀那に直接的な危害が加えられることはありませんでした。

 文永六年頃まで、大聖人が主として破折されてきたのは念仏宗と禅宗でしたので、他の真言宗等は大聖人の書状を我が事として受け止めておらず、幕府としては伊豆配流赦免の際の事情もあり、再び罪なき大聖人を処罰することに踏み切れなかったのかも知れません。

 しかし文永六年、蒙古は返書を求めて再三日本に使節を派遣し、あるときは、対馬の島民二人を捕らえるなど、情勢は緊迫の一途をたどっていました。

 この年も大聖人は、再びの諌状を各所へ送るなど日本国の安寧を祈り、諸宗破折を絶えず続けられていましたが、十二月八日に至り、『立正安国論』を書写されると共に奥書を認めています。

 この奥書には、

 「又同六年重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ」(御書 四二〇㌻)

と、再びの牒状到来について記されると共に、

 「之に準じて之を思ふに未来も亦然るべきか」(同)

と、今後必ず国難が起こるであろうと仰せられています。

 これより以後、大聖人の破折は真言宗にも向けられるようになり、いよいよ邪宗が結託し、大聖人への敵対心を露わにし始めたのです。

 

 極楽寺良観の祈雨

 文永八年は、五月頃から全国的に干ばつが続き、農作業に多大な被害が出たために人々は困窮しました。

 幕府は、財政の維持と民衆の救済を目的として、極楽寺良観(忍性)に雨乞いの祈祷を命じました。良観は真言律宗の僧侶で、療病院や悲田院などの福祉施設を振興するなどして、人々から生き仏のように崇められていました。

 良観が、六月十八日から七日間の祈祷を行うと聞かれた大聖人は、仏法の正邪を広く知らしめる機会であるとお考えになり、良観の弟子に次のように伝えられました。

 「七日以内に雨を降らせたならば、日蓮は念仏が無間地獄への法であると申してきた法門を捨てて、良観上人の弟子となって小乗の二五〇戒を持とうではないか。その代わり雨が降らなければ、良観房は持戒者のように見えるけれども、その法門は人を惑わす悪義であることが明らかとなるであろう(中略)その時はひたすらに法華経を信仰せよ(趣意)」(御書 一一三一㌻)

 この祈雨に際しての約束を受諾した良観は、百人以上の弟子たちと共に祈りましたが雨が降る気配はありませんでした。

 良観は祈祷を失敗するわけにはいかず、 恥をかなぐり捨て、四・五日経過後に追って数百人の弟子を呼び寄せ、さらに十四日間に期間を延長するなどしました。

 しかしながら、最後まで雨が降ることはなく、干ばつは悪化して暴風が吹き荒れ、より一層、人々を苦しめる結果となりました。

 どんなに外面を取り繕い、日頃人々から崇められようとも、正法を前にして謗法者の祈りが叶うはずはなかったのです。

 

 

 

 

 次回は、極楽寺良観の祈雨の失敗以後、竜ノ口法難へと至る背景について学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空海の邪義

2022年08月22日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」令和元年5月16日(第1005号)    

 【仏教用語の解説】17

    第三の劣・戯論の法

  空 海 の 邪 義

 

 真言宗の二流

 日蓮大聖人は『顕謗法抄』に、

 「真言宗には日本国に二の流あり」(御書 二八三㌻)

と示されています。

 「二の流」とは、空海(弘法)が開いた東寺流の真言宗(東密)と、伝教大師の滅後、円仁(慈覚)・円珍(智証)らによって密教化されてしまった天台宗(台密)のことです。

 「第三の劣・戯論の法」とは、空海が法華経を貶めて言った、東寺流の邪義です。

 第三の劣・

 戯論の法とは

 大聖人は、空海が、

 「法華経は真言より三重の劣、戯論の法にして尚華厳にも劣る」

  (御書 六一四㌻)

という邪義を唱えていると仰せです。

 すなわち空海は、諸経の勝劣について、大日経等の真言経を第一、華厳経を第二、法華経を第三とし、

 「自乗に仏の名を得れども、後に望むれば戯論と作る」

と述べて、法華経に成仏を説くも、大日経に対すれば戯論の法(無意味な法)であると貶めたのです。

 天台大師は、釈尊一代の説法を五時八教に分類し、法門の正しい筋目の上から法華経こそが最第一であると説きました。ところが空海は、これに対しても、

 「大日経は釈迦所説の一切経の外、法身大日如来の所説なり」

  (御書 五五八㌻)

と、大日経は釈尊とは別の仏であるから、釈尊一代の説法における教相判釈で勝劣を論じることはできない、と述べたと言います。しかし、釈尊は実在の仏ですが、大日如来は現実に出世成道した仏ではなく、理論上の仏です。

 空海の邪義・

  「十住心」

 空海は、『十住心論』及び『秘蔵宝鑰』において、「十住心」を説き、大日経が第一であると主張しました。

①因果を弁えず、欲望に任せて無道徳に振る舞う凡夫の心地(異生羝羊心)

② 因果を知り、人倫道徳を弁える人の心地(愚童持斎心)

③三途の縛を離れ、天上の楽を求める心地(嬰童無畏心)

④五薀のみ存し、実我はないという、小乗声聞の心地(唯薀無我心)

⑤十二因縁を行じ、悪業煩悩を抜く、小乗縁覚の心地(抜業因種心)

⑥人空・法空を悟り、利他を行う大乗の心地。

 法相宗に配当される(他縁大乗心)

⑦八不中道を得て、心性の不生不滅を悟る心地。

 三論宗に配当される(覚心不生心)

⑧本来清淨の理を得て、三乗を一仏乗に開く法華経の心地。

 天台宗に配当される(一道無為心。如実一道心とも言う)

⑨諸法が無自性であることを極める心地。

 華厳経最高の心地で、華厳宗に配当される(極無自性心)

⑩四種曼荼羅の荘厳なる心地で、大日如来所説の至極の心地。

 真言宗に配当される(秘密荘厳心)

で、これが浅きより深きに至る順序であるとし、⑧法華経、⑨華厳経、最高位の⑩に真言を配しています。そして、大日経の住心品、及び竜猛菩薩の『菩提心論』にその証拠があると主張しています。

 大聖人の「十住心」

 破折

 大聖人は『法華真言勝劣事』(御書 三〇五㌻)に空海の「十住心」の内容を精査し、詳細な破折を加えられています。その内容を要約すれば、

第一、大日経には「他縁大乗」「覚心不生」「極無自性」という名目は確かにあるが、それを「法相」「三論」「華厳」に配当することは根拠がない。

第二、空海は⑧の「如実一道心」天台宗に配当して天台宗を第三としているのが、大日経には⑦の「覚心不生」と⑨の「極無自性」の間、⑧の「如実一道」の文と義は、大日経の住心品にも『菩提心論』にもない。

第三、強いて挙げるならば、大日経住心品の最初のほうに、 「如何が菩提とならば、謂く、実の如く自心を知るなり」とある文を根拠として、「如実一道心」なるものを与えて認めるとしても、それを天台宗に配当して、⑦「覚心不生心」と⑨「極無自性心」の 間に入れるという道理は、どこにもない。

として、 全く信用できないと指弾されています。

  龍猛菩薩の

   『菩提心論』

 空海が「十住心」の根拠としている竜猛菩薩の「菩提心論」ですが、大聖人はこれについても破折されています。

 竜猛菩薩とは竜樹菩薩のことですが、この『菩提心論』は竜猛菩薩の作という説と、訳者である不空三蔵の作であるという説があり、真偽ついては疑問視されています。

  大聖人は、『星名五郎太郎殿御返事』(御書 三六五㌻)等に、

『菩提心論』の内容に疑義を呈し、批判されています。

 『菩提心論』には、

 「唯真言法の中に即身成仏の故あり、この故に三摩地を説く。諸教の中に於て欠いて言わず」

と、 即身成仏について真言法の中にしかないと書かれています。しかし、法華経寺は竜女成仏など、即身成仏の実態・実証が示されており、逆に真言の教典を見ても、そうしたことが示されていません。

 『菩提心論』で、法華経に即身成仏がなく、「真言」のみに即身成仏があるとするのは、捏造、仏説に反する僻見です。

 また、龍樹菩薩の論である『大智度論』には、

 「法華等の諸経には阿羅漢の決を受けて作仏するを説き、大菩薩は能く是れを受持し用う」とあり、二乗作仏を説く法華経を最小の経典であると説いています。

 このように空海が、「第三の劣・戯論の法」の立論に用いた『菩提心論』は、仏説に背き、真正な龍樹菩薩の著述にも反するもので、この論自体が全く信用できないものなのです。

 

 「最為第一」の

  法華経

 今まで述べてきたように、空海の「第三の劣・戯論の法」の邪義は、根拠の核となる部分が何もなく、全く信憑性に欠けています。 

 一方、法華経が真実最高の経典であることは、

「一切の諸の経法の中に於て、最も為れ第一なり。仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復是の如し、諸経の中の王なり」

 (法華経 五三五㌻)

と、釈尊が自ら説かれるところであり、三世十方の諸仏も証明を加えています。

 今日、仏説に反する真言宗は日本に蔓延り、多くの人がこれに惑わされています。

  



 次回は、「常不軽菩薩」についての予定です。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教線拡大と御母の逝去

2022年08月20日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年5月1日(第1004号)

 日蓮正宗の基本を学ぼう 126

 日蓮大聖人の御生涯 ⑫

 教線拡大と御母の逝去

 

 道善房との再会

 小松原において、東条景信による襲撃に遭われた 日蓮大聖人は、花房の蓮華寺に身を置かれました 。そして、三日後の文永元(一二六四)年十一月十四日、景信による襲撃事件を知った旧師の道善房は、大聖人の身を案じて蓮華寺へ訪ねてきたのです。その時、大聖人は宗旨建立以来、景信の妨害によって疎遠となっていた道善房に対して師恩を報ずるため、道善房が帰依する念仏の邪義を破折され、妙法に帰依するよう説かれました。この折伏が契機となり、後に道善房は妙法に帰依するのですが、心では妙法に帰伏しつつも 、ついには念仏を捨てることができませんでした。

 なお、再会より十二年後の建治二年三月十六日に道善房は死亡し、その知らせを受けた大聖人は、同年七月二十一日に『報恩抄』を述作され、弟子の日向に託して安房清澄寺の浄顕房・義浄房のもとへ送られました。そして故道善房の墓前と嵩が森の頂にて読み上げるよう指示され、幼少の頃より学問の手ほどきを受けた師への恩に報いられたのです。

 

 東条景信の死

(念仏は無間地獄の業因)

 文永元年九月二十二日述作の『当世念仏者無間地獄事』には、

「日本国中の四衆の人々は形は異なり替はると雖も、意根は皆一法を行じて悉く西方の往生を期す。仏法繁盛の国と見えたる処に一の大いなる疑ひを発こす事は、念仏宗の亀鏡と仰ぐべき智者達、念仏宗の大檀那たる大名小名並びに有徳の者、多分は臨終思ふ如くならざるの由之を聞き之を見る」(御書 三一三㌻)

とあり、また同抄に、

「念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」(法華経 二三㌻)

と仰せられています。

 すなわち、念仏に帰依する高僧や大檀那の臨終は非常に苦しんだ末に悶死することが多く、それは、かつての松葉ヶ谷の草庵襲撃を先導した極楽寺重時(北条重時)や小松原における襲撃の首魁である東条景信も例外ではありませんでした。

 景信は小松原の法難の後、日ならずして狂死したと言われています。

 これについて大聖人は、

「彼らは法華経の十羅刹の攻めをかほりて早く失せぬ」(御書 一〇三〇㌻)

と仰せられ、法華経の行者を苦しめた現罰として、十羅刹の責めを受けた結果であることを御教示されています。

  そもそも念仏(浄土宗等)の教義は、穢れた国土である娑婆世界より、浄い国土である西方極楽世界に往生を願うというものですが、法華経の開経である『無量義経』には、

「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三㌻)

とあり、『方便品』には、

「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経 一二四㌻)

とあるように、法華経が説かれる以前の経教(爾前経)は、すべて法華経に導くための方便の教えであり、法華経のみが真実の教えであることが明かされているのです。

 つまり、念仏の所依とする経典(浄土三部経)は、すべて釈尊が正直に捨てよと説かれた方便の経典なのです。 ところが日本浄土宗の開祖法然は、その著、『選択本願念仏集(選択集)』において、真実の教えである法華経を、捨てよ閉じよ等(捨閉閣抛)と誹謗したのです。これは法華経に背く大謗法罪に当たりますから、念仏を信仰する人々も極楽往生などはおろか無間地獄に堕ちることは必定であり、それは臨終の際の悪相として現れたのです。

 

  南条家墓参

 大聖人は、小松原法難の翌文永二年(一二六五)年より鎌倉を中心として、房総各地の弘教にも励まれ、その教線は上総・下総・安房へと広がりました。

 そのような中、同年三月八日、かねてより重病であった駿河國上野の信徒であった南条兵衛七郎が逝去し、その知らせを受けた大聖人は、鎌倉よりわざわざ上野の南条家を訪れられ、墓前にて懇ろに御回向されたのです。

 御家人である南条兵衛七郎は、鎌倉へ出た際に直接大聖人から教化を受けて入信し、夫人をはじめ一族を正法に導き、純粋な信仰を持った方でした。

 この兵衛七郎の子息が南条時光殿です。

 この時の時光殿は、わずか七歳の少年でしたが、父亡き後も母からの薫陶と日興上人の厳しい訓育によって南条家の跡取りとして、また、信仰者としても大きく成長を遂げ、後に大石寺開祖の大檀那となります。

 またその頃、後の六老僧に数えられる日向が入門し、信徒では上総の佐久間兵庫助重貞が一家を挙げて入信し、 長男の長寿麿(美作公日保)が大聖人の弟子に加えられました。 

 

 『法華題目抄』

 さて、この頃に著された御書に

『法華題目抄』があります。

 本抄は、文永三(一二六六)年一月六日、大聖人御年四十五歳の時に著され、内容から念仏に執着している女性に宛てた御消息と拝されます。

 本抄の大意を総本山第二十六世日寛上人の『法華題目抄文段』から拝すると、

「文の初めに能唱の題目の功徳を明かし、次に所唱の妙法の具徳を明かす。是れ則ち能唱の功徳の広大なる所以は、良に所唱の具徳と無量なるに由るが故なり」(御書文段六四九㌻)

と御教示のように、「能唱の題目」すなわち、唱題の功徳を明かす部分と、「所唱の妙法」すなわち、唱えられる妙法に具わる徳を明かす部分の二つに分けられます。

 まず「能唱の題目」では、信の題目、すなわち信心が重要であり、その上から唱題をしていくことが、あらゆる罪業を消し去り、無量の功徳を具えていくことを示されています。偉大な御本尊の仏力・法力を顕現するのは、衆生の信力・行力にあり、信心の実践こそが重要であると拝することができます。

 次の「所唱の妙法」では、妙法蓮華経の五字には一切の経典の功徳が納まる故に、衆生はこの五字を信じて唱題することで、その一切の功徳が具わることを明かされ、特に妙の一字に具わる徳については、一切の経典の功徳を含む義(具足円満)から、一切衆生の盲目を開く義でもあると説かれています。

 さらに、

 「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがえる義なり」(御書 三六〇)

と仰せのように、 爾前経では仏の種子を焦って成仏できないとされた二乗(声聞・縁覚)、一闡提人(正法誹謗の重罪の者)、女人のいずれも妙法蓮華経の妙の一字を受持することで、仏種が蘇って芽を出すように、成仏に至ることができると仰せられています。

 特に日本国の一切の女人が妙法の題目を唱えずに念仏に執着する理由は、悪知識に誑かされているからであると喝破され、念仏こそ女人の敵であり、心を改めて妙法の題目を唱えるよう御教示され、本抄を結ばれています。

 つまり本抄は、妙法蓮華経の御本尊には無量の福徳があり、信心の実践によって、どのような人であっても大きく境界を開いていけることを示されているのです。

 

 御母・妙蓮の逝去

 大聖人は、文永三年から文永四年にかけて、主に上総、下総を弘教され、その時、後の六老僧の一人である日頂が入門し、さらに教線も常陸や下野へと広がりました。

 このような折、かつて病を患い、大聖人の心からの平癒の祈念によって寿命を長らえた御母・妙蓮が、文永四年八月十五日、安祥として逝去されました。

 各地の布教に奔走されていた大聖人にとって、御母の逝去はとても辛く悲しい出来事であったと拝されます。

 しかし、翌文永五年には、武力行使によって勢力を拡大していた蒙古帝国が、ついに日本を属国とすべく使者を送ってくることになります。

 これにより、かねて大聖人が『立正安国論』で予言した「他国侵逼難」が現実のものとなり、日本(鎌倉幕府)は、風雲急を告げる事態となっていくのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一大事因縁

2022年08月18日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」平成31年4月16日(第1003号)    

 【仏教用語の解説】16

    一  大  事  因  縁

 

 一大事因縁とは

 「一大事因縁」とは、仏がこの世に出現された究極の目的のことです。 

 法華経方便品には、

「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。(中略)諸仏世尊は、衆生をして、仏知見を開かしめ、清淨なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」(法華経 一〇一㌻)

と、 諸仏は一大事因縁の故にこの世に出現し、 一切衆生の仏知見を開・示・悟・入させて、成仏へ導かれることが説かれています。

  開示悟入の四仏知見

 まず、

  「開」とは開発の意で、衆生の生命の中にある妙法を開くことです。

  「示」は顕示の意で、衆生の生命の中にある妙法を示すこと。

  「悟」は覚悟の意で、衆生に妙法を悟らせること。

  「入」は証入の意で、衆生を妙法の境界に入れることです。

 天台大師の『法華玄義』に、

    「衆生をして仏の知見に開示し悟入せしめんが為なりというが如き、若し衆生に仏の知見無くんば、何れの所にか開を論ぜん。当に知るべし、仏の知見は衆生に薀在することを」

 (法華玄義釈籖会本上 ー 二一一㌻)

と釈されているように、法華経において初めて、仏知見が衆生に本来具わっていることが明かされたのです。

「一大事因縁」の語

天台大師の『法華文句』には、「一大事因縁」の語について次のように釈されています。

 「一は則ち一実相なり。五に非ず、三に非ず、七に非ず、九に非ず、故に一と言うなり。其の性広博にして五三七九より博し、故に名づけて大と為す。諸仏出世の儀式なる故に名づけて事と為す。衆生此の機有って仏を感ず、故に名づけて因と為す。仏は機に乗じて応じたもう、故に名づけて縁と為す。是れを出世の本意と為す」(法華文句記会本 上 ー 六五一㌻)

 「一」とは一実相のことであり、法華経に至って初めて明かされた一仏乗の妙法のことです。

 また、その一実相は、一切の法界を具えて広大なる故に「大」であり、実際の化導という事相の上に説く儀式である故に「事」と言います。

 そして「因」とは、一乗純円の機根を有する衆生が仏を感ずること、「縁」とは、仏がその衆生の機根に応じることを示しています。

 爾前経においては、小乗の五乗(人・天・声聞・縁覚・菩薩)・三乗(声聞・縁覚・菩薩)、これに通教の声聞・縁覚を加えた七乗、さらに通教・別教の菩薩を加えた九乗など、様々な教えが説かれてきましたが、あらゆる経典で声聞・縁覚だけは例外なく永不成仏(永遠に成仏できない)とされてきました。

 しかし法華経に至り、永不成仏の二乗も、実は仏性を具えた十界互具の当体であることが示され、成仏することが可能となったのです。

 一大事因縁の

 三重の意義

 総本山第二十六世日寛上人は、

『撰時抄愚記』に、

 「汎く出世の大事を論ずるに即ち三意有り。一には、迹門の顕実を出世の大事と為す。(中略)二には、寿量の顕本を出世の大事と為す。(中略)三には、文底の秘法を出世の大事と為す。(中略)此くの如き三義、浅きより深きに至って第三の最極なり。然るに本化(地涌の菩薩)の涌出は、此の第三の最極の秘法の末法流布の瑞想なり」(御書文段 三七一㌻)と、仏の一大事因縁について、三重の意義があることを示されています。

 すなわち、一は権実相対の意です。

これは法華経迹門において、開権顕実の妙法を示すことが仏の出世の大事となります。

 二は本迹相対の意で、本門寿量品において、仏の久遠実成が説かれたことが出世の大事に当たります。

 これらは共に熟脱の教主釈尊における一大事因縁を示しています。

 そして三は、種脱相対の意です。これは末法の御本仏日蓮大聖人における一大事因縁です。

 『開目抄』に、

 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろめたまはず、但我が天台智者のみこれをいだけり」(御書 五二六㌻)

と説かれるように、 大聖人は法華経本門寿量品の文底下種の妙法を開顕されました。

 そして、大聖人は出世の本懐として、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法を顕わされ、日月の光明が暗闇を滅するように、末法の一切衆生の成仏への道を示されたのです。

 『三大秘法抄』には、

 「法華経諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし」(御書 一五九五㌻)

と、法華経に「一大事因縁」が明かされ、それをもって法華経が諸仏の出世の本懐とされるのも、実には三大秘法が秘沈されているからであると教示されています。

 大聖人の出世の本懐

 大聖人は『聖人御難事』に、

 「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書 一三九六㌻)

と仰せられています。

 「余は二十七年」とは、弘安二年十月十二日に、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたことを仰せであり、これが大聖人の出世の本懐に当たります。

 また『報恩抄』には、

 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」(御書 一〇三六㌻)

と御教示されていますが、末法に生きる三毒強盛の衆生が、成仏を遂げることができるのも、ひとえに本門戒壇の大御本尊を信じ奉る功徳によることを忘れてはなりません。

 私たちは、御本仏日蓮大聖人が弘通された正法を信受し、自身の三世永遠の成仏を遂げると共に、未だ苦悩に喘ぐ多くの人々を救い、広宣流布をめざして精進してまいりましょう。



 次回は、「第三戯論」についての予定です。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆配流の御赦免から小松原法難まで

2022年08月16日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

日蓮正宗の基本を学ぼう 125

日蓮大聖人の御生涯 ⑪

伊豆配流の御赦免から

     小松原の法難まで

 前回は、伊豆配流の身となった大聖人が、相模灘を護送されて川奈の津へと到着された際、困窮していたところを船守弥三郎に助けられ、その夫婦より外護を受けたこと。そして、配流地である伊東の地頭・八郎左衛門の病気平癒の祈祷を行い、その結果、病が癒え、八郎左衛門は念仏を捨てて大聖人に帰依し、御礼として海中より引き上げられた一体の釈迦立像仏を御供養したこと。さらには伊豆配流中に著された『四恩抄』『教機時国抄』の概要を紹介し、最後に伊東八郎左衛門より御供養された一体仏の釈迦立像について学びました。

 御赦免

 今回は、伊豆配流を御赦免になられるところから、拝していきます。

 この伊豆配流は、もともと『妙法比丘尼御返事』に、

 「念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ」(御書 一二六三㌻)

と示されているように、松葉ヶ谷の襲撃で大聖人を殺害できなかった極楽寺重時(北条重時)、執権・北条長時の父子、念仏宗の僧徒たちが策謀した冤罪であり、理不尽極まるものでした。

 そのため、『下山御消息』には、

「正法に背く一闡提の国敵である法師らの讒言を信用して、その内容を吟味せずに、何の詮議もなく大事な政道を曲げられたのは、わざと災いを招こうとされたのか、全くはかないことである。しかし、事態が鎮まってみると、無実の罪で罰したことが恥ずかしかったためか、間もなく赦免となり、鎌倉へ戻されたのである」とあります。

また、『聖人御難事』には、

 「故最明寺殿の日蓮をゆるしゝ(中略)は、禍なかりけるを人のざんげんと知りて許しゝなり」(御書 一三九七㌻)

と記され、『破良観等御書』にも、

 「最明寺殿計りこそ子細あるかとをもわれて、いそぎゆるされぬ」(御書 一〇七九㌻)

とあるように、前の執権・北条時頼が、念仏宗の僧徒をはじめ、極楽寺重時・長時父子らの悪計によって幕府が無実の大聖人を罰したことに気づき、すぐに赦免の措置をとりました。

 こうして、弘長三(一二六三)年の二月二十二日、大聖人は、一年九ヵ月にわたる伊豆配流を御赦免になられ、鎌倉へ帰還されました。

 御母・妙蓮の蘇生

 翌文永元(一二六四)年の秋、大聖人は、御母・妙蓮の危篤の報せを受け、立宗宣言以来、十二年ぶりに故郷の安房へと急ぎ向かわれました。

 十二年ぶりの帰郷になったのも、幕府の要人である極楽寺重時、執権・長時父子、そして地頭・東条景信らの念仏者たちに阻まれて、安房の国東条の郷へ入ることができない状況であったからです。特に地頭の景信は、立宗宣言の時に念仏の信仰を破折された恨みに加えて、名越領家の尼の領地内にあった清澄寺と二間寺を奪って、念仏の寺に改宗させようと悪計を働いていたところを、大聖人の祈願と適切な指導によって裁判が領家側の勝利となってしまい、大聖人に対する憎悪と怨念を一層強くしていきました。

 大聖人は、故郷の安房に戻れば、地頭の景信に命を奪われるかも知れない状況の中で御母の危篤の報せに、我が身を顧みず帰省されたのです。

 悲母は、『伯耆公御房消息』によると、

 「ひとゝせ御所労御大事にならせ給ひ候て」(御書 一五八九㌻)

と述べられているように、一年ほども前から重い病に罹っていたようです。大聖人が御到着されたときには、懐かしい母はまさに臨終の状態でしたが、『可延定業御書』に、

 「されば日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(御書 七六〇㌻)

と、大聖人の心からの御祈念によって、悲母は日ならずして快復し、四年の寿命を延ばされました。 

 大聖人の孝養の一念は、

 「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書 三六〇㌻)

とあるように、悲母の現身に妙法不思議の力用を現わされたのです。

 小松原法難

 東条景信の襲撃

 その後、大聖人は安房の地に留まり、 花房の蓮華寺を拠点に布教に専念されていました。大聖人の帰郷を聞いた天津の領主・工藤吉隆は、大聖人の来臨を願いました。 

 工藤吉隆は、大聖人の伊豆配流中にも御供養を申し上げ『四恩抄』を賜っていることから、早くから大聖人の御化導によって帰依し、外護を尽くした安房地方における有力な篤信の信者であったことが想定されます。 

 大聖人は 吉隆の願いを受け、十一月十一日、弟子と信者の十人ばかりの供を連れて、花房の蓮華寺から、吉隆がいる天津の館に向かわれました。既に辺りは暗くなりかけていた頃、大聖人の一行が松原の大路にさしかかったとき、突如、東条景信が 数百人の武装した念仏者を率いて、襲いかかってきたのです。

 この時の様子について大聖人は、『南条兵衛七郎殿御書』に、

 「今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわずかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり」(御書 三二六㌻) 

と述べられているように、弟子の鏡忍房はその場で打ち殺され、急報を受けてわずかの手勢を率いて駆けつけた工藤吉隆も死力を尽くして防戦しましたが瀕死の重傷を負い、それがもととなって間もなく殉死したと言われます。その他の者も深手を負い、大聖人御自身も景信が切りつけた太刀によって右の額に深手を負われ、左手を骨折されるという、命に及ぶ大難を蒙られたのです。

 日本第一の法華経

 の行者 

 先ほど引用した『南条兵衛七郎殿御書』の御文の続きには、「このように難に遭うこと自体、法華経の予言通りであり、法華経の確信を増すばかるである」と述べられています。

そして、法華経『法師品第十』の、

 「而も此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」

  (法華経 三二六㌻)の文、

法華経『安楽行品第十四』の、

 「一切世間に怨多くして信じ難し」(御書 三九九㌻)

の文を引用され、これらの経文の通りに、 法華経の弘通のために、小松原の法難をはじめとする様々な命に及ぶ大難を受けられた御自身を、「ただ日蓮一人こそ法華経を身をもって読んだのである。まさに法華経『勘持品第十三』の『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』の経文の通りである。故に日蓮は日本第一の法華経の行者である」と宣言されています。

 続いて大聖人は、真の法華経の行者であるとの御自覚から、

 「もしさきにたゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ」

 (御書 三二六㌻)

と仰せられ、対告衆である南条兵衛七郎殿の信心を励まされています。





 次回は教線拡大と御母の逝去について学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六種の釈尊

2022年08月14日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」平成31年3月16日(第1001号)    

 【仏教用語の解説】15

         六  種  の  釈  尊

 六種の釈尊とは

 仏教の開祖である釈尊は、三千年前のインドに出現し、八万法蔵と言われる数多くの教えを説かれました。その際、教法の高低浅深や化導の段階によって、教主である釈尊自身も、様々な仏身を顕わしたとされます。

 総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、

「『教主釈尊』の名は一代に通ずれども、其の体に六種の不同あり。

 謂わく、蔵・通・別・迹・本・文底なり。名同体異の相伝、之を思え」

(御書文段 二七〇㌻)

と示されています。

 つまり本宗においては、相伝の上から、同じ釈尊でも、六種類(蔵教・通教・別教・迹門・本門文上・本門文底)があり、 釈尊は化導の段階によって、徐々に真実の仏身を顕わしていったのであるとされるのです。

 仏身の不同

 法華経『信解品』 に説かれる「長者窮子の譬え」では、仏を長者、衆生を窮子(貧しく流浪していた長者の子供)に譬え、 釈尊の衆生化導の段階と、その意義が示されています。

 「長者窮子の譬え」では、流浪していた子供が初めて父の姿を見たとき、到底父であるなどと理解できず、獅子の座に座る立派な人物(父)を見て、逃げ出してしまいます。

 そこで長者は、やつれた使者を遣わして窮子を自分の元へ戻し、除糞の作業をさせたり、自らも汚い服を着て窮子に近づくなどしました。そして、徐々に子供を導き、最終的に親子の因縁を明かし、すべての財産・家督を譲りました。

 これと同じように、仏は方便によって衆生の機根に応じた種々の身を顕わすため釈尊の仏身に違いがあるのです。

 蔵・通・別・迹・本の仏

 十九歳で出家し、三十歳のとき伽耶城にほど近い菩提樹の下で成道した釈尊は、八十歳で入滅するまで五十年間衆生を教化しました。それを化導の時期で分類したのが五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)であり、教えの内容によって分類したのが化法の四教(蔵経・通教・別教・円教)です。

 蔵教の釈尊は、低級な衆生に応じて現われた、一丈六尺(約五メートル)の 仏で、丈六の劣応身と言われ、天台大師の『法華玄義』には、「多跢嘙啝」(法華玄義釈籤会本上−五九㌻)

とあります。多跢は、幼児の歩行、嘙啝は幼児が発する言葉を意味し、蔵教の仏は、幼児のように未成熟な仏であるという意味です。この釈尊は、主として二乗に対して「但空の理」を説きました。

 次に通教の釈尊は、先の蔵教の衆生よりも勝れた衆生に応現する仏であることから、勝応身と言います。

 万物は、「空」の一面だけではなく、因縁が仮和合した「仮」の一面、空に非ず仮に非ずという「中」もあると「不但空の理」を説きましいた。

 別教の釈尊は、さらに機根の高い衆生に対して教えを説く他受用報身で、華厳経の教主である盧舎那報身仏のことを指します。

 他受用とは、他の機類に対して法益・法楽を受用させる仏のことで、別教の高位の菩薩に対し、「但中の理」を説きました。

 法華経迹門の釈尊は、娑婆世界を次第に寂光土に変え、仏の身の上に円教の報身仏を顕わした応即法身の仏です。この釈尊は十如実相を示し、万物はそのまま空であり仮であり中であると空仮中の円融三諦を説きました。

 法華経本門文上の釈尊は、『寿量品』に、

 「是の如く、我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず」 (法華経 四三三㌻)

と、五百塵点劫の久遠に成道し、衆生を教化してきた久遠実成の釈尊です。この本門の釈尊の説いた『寿量品』の説法により、在世の衆生はことごとく得脱したのです。

 蔵教の応身仏が次第に昇進して久遠実成の本地を明かした、本門文上の釈尊は、自らの意のままに法の利益を受け用いる仏であるため 「応仏昇進の自受用身」と言います。

 文底独一本門の釈尊

 『寿量品』の文上には、釈尊が久遠五百塵点劫に成道し、色相荘厳〔✽1〕の仏になったことが説かれます。

しかし、『総勘文抄』に、

「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し」(御書 一四一九㌻)

と仰せのように、実は釈尊は五百塵点劫で成道したのではなく、それよりも遥か以前の久遠元初において凡夫の身のまま即座開悟したことが、大聖人によって初めて解き明かされました。この仏が、『寿量品』の文底に秘沈された久遠元初の自受用身であり、文底の釈尊です。

 この仏について、日寛上人は、『法華取要抄文段』に、

 「久遠元初の自受用身とは本地自行の本仏、境智冥合の真身なり。故に人法体一なり」

  (御書文段 五四一㌻)

と、久遠元初の自受用身こそ、妙法蓮華経の本法と体一をなす文底下種の御本仏であることを仰せです。

 対して、本門文上の釈尊は、

 「色相荘厳の仏は迹中化他の迹仏にして、世情に随順して現ずる所の仏身なる故に人法に勝劣あり」(同)

と、久遠五百塵点劫における釈尊は色相荘厳の方便を帯した垂迹化他〔✽2〕の仏であることを仰せです。

 久遠元初自受用身

   とは日蓮大聖人

 日寛上人は『観心本尊抄文段』に、

 「第六の文底の教主釈尊は即ち是れ蓮祖聖人なり。名異体同の口伝、之を思え云々」

  (同 二七〇㌻)

と、文底の教主釈尊、すなわち久遠元初の自受用身は日蓮大聖人であり、これについて名異体同の御相伝があると示されています。名異体同とは、名は異なっていても体は同じという意味です。

 つまり、大聖人は、御書中で自らが上行菩薩の再誕であることを示唆されつつも、久遠元初の自受用身と同一であることは明確に述べられていません。ただ御相伝の法門として日興上人に付嘱されたのです。

 五十六世日応上人が『弁惑観心抄』(一〇七㌻)において、 久遠の古仏(久遠元初の自受用身)と上行菩薩と日蓮大聖人は一体の異名であることを教示されているのもこのためです。

 この日蓮正宗に身を置く私たちは、血脈相伝の仏法により、大聖人を久遠元初の自受用身、末法の御本仏であると正しく拝することができます。

 

       ◇      ◇

 

 ✽1 色相荘厳 衆生に渇仰、尊崇の念を起こさせるために

         仏が三十二相・八十種好と言われる様々な相好をもってその身を飾ること。

 

 ✽2 垂迹化他(迹中化他) 仏が衆生を教化のために本より迹を垂れて出現すること。

               本仏ではないということ。

 

 

 

  次回は、「一大事因縁」についての予定です。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆法難

2022年08月12日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成31年2月1日(第998号)

  日蓮正宗の基本を学ぼう 124

   日蓮大聖人の御生涯 ⑩

    伊 豆 法 難

 

 伊豆へ配流の身となった日蓮大聖人は、相模灘を護送され、川奈の津に降ろされてしまいます。この時、『船守弥三郎殿許御書』に、

 「船よりあがりくるしみ候ひき」(御書 二六一㌻)

とあるように、見知らぬ土地に途方に暮れられたか、あるいは拘束により体も心も休まる暇なく疲れ果ててしまわれたか、いずれにせよ、たいへんに苦しまれておりました。

 そこへ一人の漁師が通りかかり、大聖人をお助けして、妻と共に三十日もの間お護りしたのでした。 

 この夫婦が船守弥三郎夫妻です。大聖人はこの夫妻に対し、あるいは過去の法華経の行者か、ご自身のご両親が生まれ変わられたのであろうか、はたまた諸天善神が弥三郎夫妻と生まれたのであろうかと仰せられ、その感謝の思いを綴られています。

 弥三郎夫妻は、食物の乏しい時期にもかかわらずに食事を用意し、 さらに大聖人のおみ足を洗うなど、心を尽くしてお仕えしたのでした。そして、折々に大聖人の教えを受けて法華経を信ずるようになり、深く帰依して信徒となったのです。

 

 地頭の帰依と

 伯耆房の参着

 

 さて配流先となった伊東の地は、伊東八郎左衛門が地頭を務める土地であり、大聖人の身柄も八郎左衛門の監視下に置かれることになりました。

 念仏の信者であった八郎左衛門でしたが、この頃、病に罹ってしまいます。日に日に病状が重くなり、四方八方手を尽くして治療に当たっていたのですがその効なく、最後の頼みと大聖人のもとへ、病気平癒の祈祷が依頼されたのでした。

 この時、八郎左衛門が一分なりとも信仰の心を示したことを受け、大聖人はその平癒を祈られました。その結果、あれほど手の打ちようがなかった病が、見事に癒えたのです。

 八郎左衛門はそれまでの念仏を捨てて大聖人に帰依しました。そして、海中より引き上げられた一体の釈迦立像仏を、大聖人に御供養申し上げたのです。

 さて、時期は不明ながら、伯耆房(日興上人)が大聖人にお給仕をするために、鎌倉よりやって来られました。

 十七歳の伯耆房は、お給仕の傍ら、伊東の近辺を教化され、やがて宇佐美・ 吉田といった所に信徒が増えていきました。さらに熱海まで足を延ばされて、真言宗の僧であった金剛院行満を帰伏させたと伝えられています。

 

 法華身読の喜びと

 慈悲の歎き

 

 伊豆配流中に記された『四恩抄』には、伊豆での御生活は大聖人にとって、大いなる喜びと歎きとの両面があったと仰せられています。

 まず大いなる喜びとは、法華経身読の喜びです。「配流になったのも、ただ法華経を弘めようとする失によってであり、法華経を深く信じ行ずるが故に悪鬼に嫉まれ、起きた難である。こうして配流になっているということ自体が、如来の滅後には在世以上に怨嫉が多いと説かれた法華経の御文の通りで、昼夜二十四時間法華経の修行をしていることに当たる。よって迫害を加えた幕府等こそ、かかる法華経の身読をもたらした恩深き人々である」と述べられています。

 古の行者は法のために身を捨てたのであり、大聖人も今、四恩を報ずるために、法華経を弘め難を受けられたのでした。

 『四恩抄』における四恩とは一切衆生の恩、父母の恩、国主の恩、三宝の恩を言います。

 私たちは仏道修行をできるのも、現世に父母が生んでくれたからです。そして国王が国を治めてくれるからこそ我が身を養うことができているのです。さらに仏法僧の三宝が在してこそ、成仏のための仏道修行をすることができるのです。また救済すべき一切衆生がいて、迫害を加える悪人がいてこそ、より多くの功徳を積むことができるのです。

 仏道修行をする者はこの四恩に報いていくことが大切ですが、特に大聖人は、

 「然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ざん」

  (御書 二六八㌻)

と、四恩の中でも三宝の恩を重んじられ、私たちはこの三宝の恩を報じていかなければならないと仰せられています。その上で、先の松葉ヶ谷の夜討ちも伊東の配流も、この四恩報謝のためであった故に、第一の喜びであるとされているのです。

 次に「歎き」とは、

 「我一人此の国に生まれて多くの人をして一生の業を造らしむる事を歎く」(御書 二六九㌻)

と仰せのように、法華経の行者である大聖人に対して悪口し、罵詈し、暴力を加え、流罪に処した人々が、堕地獄の重業を造ってしまったことに対する大慈大悲の歎きです。

 このように法華身読の法悦と謗法の人々への慈悲の歎きを懐かれつつも、大聖人は配流地での生活を穏やかに過ごされたのでした。

 

 『教機時国抄』

 

 さて、この時期に著わされた『教機時国抄』では、末法に適った仏法を明かすための五つの判定基準を明かされています。

  この判定基準は、教・機・時・国・教法流布の前後の五つであり、これを宗教の五綱、または五綱教判とも言います。

  まず教とは、一切の経典にはその教えに浅深勝劣があり、最も優れた教えを判ずるには、教判の正邪如何に存します。五重の相対、五重三段、三重秘伝等の法門がこれに当たります。

 次に機とは仏法を信受する人々の機根についての判釈あり、これは本已有善・本未有善の別があり、それぞれに適した法として種熟脱の三益の法門があります。

 三に時とは、釈尊滅後に正法・像法・末法の三つの時代があり、今は釈尊の仏法が力を失った末法であり、この時代には末法の仏が出現し人々を救済する時代であることなどを明かし、四に国とはインドには小乗の国、大乗の国、大小兼学の国などがありますが、日本はそのいずれでもなく法華経有縁の国であることと知る教判です。

 教法流布の前後とは、例えば先に外道の教えが広まっていれば小乗をもって破し、小乗であれば大乗をもってというように、流布の順次を知るべきであるとする教判です。

 伊豆配流の時点では、この五綱教判の結論とも言うべき内容は、まだ明確には示されていません。

 簡略に要点を述べれば 、末法には久遠元初の本仏が出現し寿量文底秘沈の大法である下種本因の妙法を三大秘法として建立し、人々に広めることを明らかにする教判と言えます。特に、末法の本尊とは南無妙法蓮華経の本尊(究竟は本門戒壇の大御本尊)であり、この本門の本尊を信じて受持し、修行していくことが末法の信心修行なのです。

 

 一体仏について

 

 ここで伊豆配流中に入手された釈尊立像仏について考えてみましょう。

 この立像は一体仏と言って、大聖人が終生御所持になり、入滅に際しては自らの墓所の傍に立て置くよう遺言された仏像でした。

 ただし、この五綱教判の内容から考えれば、大聖人が釈尊像を所持されたからといって、今の私たちが釈尊像を本尊とすることは誤りであることが判ります。

 そもそも脇士を伴わない釈迦立像仏は修行中の仏を意味します。たとえ脇士がいたとしても、三十二相八十種好を備えた姿は垂迹の仏であることを示し、熟脱の仏を意味するのであり、下種の時代である末法の本尊としては不適格となります。

 では、なぜ大聖人が一体仏を所持されたかというと、まず理由の一点目は弘通の草創期に当たって、ひとまず釈迦仏を借りて肝心の妙法を示そうとされたこと。

 二点目には、当時は浄土や真言の教えが広く普及し、阿弥陀仏や大日如来などが本尊として尊崇されていたことから、権実相対の立場よりまずは釈尊に立ち帰り、 その本意を尋ねるべきことを示すため。

 そして三点目には、末法弘通の大導師である大聖人の観見によれば、一体仏がそのまま久遠元初の本仏と映られたこと。

 以上、三つの理由が挙げられるのです。つまり、一体仏所持はあくまでも一時的なもの、大聖人の御身に限ることであって、広く衆生救済の本尊とするためではありません。

 末法適時の本尊は、大聖人の御図顕された南無妙法蓮華経の御本尊の他にはないのです。 私たちはこのことをしっかりと学び、御本尊様への確信のもと修行に励んでいくことが大切です。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五一の相対

2022年08月10日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」平成31年2月16日(第999号)    

 【仏教用語の解説】14

   五 一 の 相 対

 

 五一の相対とは、日蓮大聖人の本弟子六人(入門した順に日昭・日朗・日興上人・日向・日頂・日持)の中で、大聖人の血脈を承継された日興上人と、他の五人との間に見られる教義上の相違のことです。

 日興上人への血脈相承

 と六老僧の選定

 大聖人は、令法久住のため、数多の弟子の中から一人日興上人を選び、弘安五(一二八二)年九月に『日蓮一期弘法付嘱書』(身延山における御相承なので身延相承と言う)を、また御入滅の当日の十月十三日に『身延山付嘱書』(入滅の地、池上における御相承なので池上相承と言う)を授け、唯授一人の血脈相承をあそばされました。

 大聖人からの血脈を承継された日興上人は、本門弘通の大導師・末法の僧宝として、御本仏日蓮大聖人の仏法を余すところなく受け継がれ、大聖人の正当な後継者として身延山久遠寺の別当(住職)になられたのです。

 加えて大聖人は入滅に先立つ十月八日、門下の中で、中心的な役割を果たすべき者として本弟子六人(六老僧)を定められました。

 身延山における大聖人の百箇日忌法要の際、大聖人の御遺言に従い、六老僧の日昭・日朗・日興上人・日持の立ち会いのもと(日向・日頂は他行で不在)、門下の代表十八人が身延の大聖人の墓所を輪番で守護することが定められました。

 身延離山と大石寺開創

 しかし、日興上人以外の五老僧は、日興上人が血脈正当の後継者になられたことに不満を懐いて登山せず、墓所の守護は自ずと日興上人とその門弟によって行われるようになりました。

 弘安八(一二八五)年春頃、五老僧の一人・民部日向が身延に登山し、日興上人はこれを迎え入れますが、日向は日興上人の厳正な信仰に随順せず、次第に謗法の姿勢が露わになってきました。

 また、身延の地頭・波木井実長も、日向や他の五老僧の誑惑により、仏像造立・神社参詣、また謗法への布施をするなど、大聖人の精神を踏みにじる言動をするに至りました。

 こうした状況から日興上人は、もはや身延は大聖人の御魂魄の住まわれる場所ではないと判断され、正応二(一二八九)年春、本門戒壇の大御本尊をはじめ、大聖人の御霊骨、重宝を捧持し、弟子方と共に身延を離れられました。そして、翌正応三年には、南条時光殿が治める富士上野の地に大石寺を創建されたのです。

 日興上人の御著述である『富士一跡門徒存知事』の冒頭には、日興上人と五老僧との根本的な対立について記されています。

 「五人一同に云はく、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍って公所に捧ぐる状に云はく、天台沙門云々。又云はく、先師日蓮聖人天台の余流を汲む云々(中略)日興が云はく、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣し給ふ法華は本門なり、此の旨具に状に載せ畢んぬ。此の相違に依って、五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ」(御書 一八六七㌻)

これは、五老僧が大聖人を一介の天台僧であると見て、五老僧自身が大聖人の門弟を名乗らず、天台宗と称していたことを破折されたものです。

 これに対し、日興上人は天台大師・伝教大師の法華経は迹門、御本仏日蓮大聖人の法華経は本門であり、両者は断じて混同することが許されないものであると指摘されています。

 日興上人な主要御書として選定された御書十大部には、 末法適時の本尊が仏像ではなく法華経の題目であることや、大聖人が釈尊より大事な法華経の行者であることなど、末法の下種仏法における重要な筋目が示されています。

 そして何より、日興上人は大聖人御入滅後も、大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、生前同様の常髄給仕を果たされるのです。

 こうした筋目の判らない五老僧は、あくまで釈尊を本仏ととらえ、大聖人の仏法を軽んずる傾向にありました。

 具体的な相対事項については、『富士一跡門徒存知事』や『五人所破抄』に、次のようなことが挙げられています。(太字部分が日興上人の正義)

①大聖人は末法の本仏と立て申状に「日蓮聖人の弟子」と称された。

 五老僧は大聖人の仏法が、法華経をもととする天台宗を踏襲したものとみなし、各々申状に「天台沙門(沙門とは修行者のこと)と記しました。

②『立正安国論』の精神に基づき、神社参詣は謗法であると主張された。

 五老僧は謗法厳誡の精神を忘れ、伊勢神宮や二所(伊豆山権現と箱根権現)・熊野権現などの神社に参詣しました。

③漢字・仮名文字を問わず大聖人の御書すべてを尊重された。

 五老僧は仮名文字の御書を蔑み、漉き返し(使った紙を溶かしてから再び紙にすること)にしたり焼却したりしました。

④一部読誦(法華経一部二十八品を読誦すること)といった正法・像法時代の修行を戒め、題目を末法の正行とされた。

 五老僧は一部読誦の他、写経などの像法時代の修行に耽りました。末法において、折伏を忘れてこうした修行に専念することに利益はありません。 

⑤大聖人自筆の大曼荼羅を本尊とされた。

 五老僧は釈尊の仏像を造立し、本尊と崇めました。

⑥大聖人の仏法による、法華本門の大戒を用いられた。

 五老僧は法華迹門の戒である比叡山の戒壇で受戒しました。しかし、天台大師や伝教大師の説いた法華経は像法時代に弘まるべき教えで、末法には全く無意味なものです。

⑦謗法と化した身延には大聖人の御魂は住まないと主張された。

 五老僧は身延離山後の日興上人が身延に参詣しないことを批難しました。しかし仏法においては、その場所よりも、法の清濁が重要です。日興上人は、かねて大聖人から、

 「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(日蓮正宗聖典 五五五㌻)

との御言葉を賜っており、身延不参は大聖人の御遺言であると言えます。

⑧ 富士は閻浮提第一の最勝の地であり、大聖人の本願の所であるとされた。

     五老僧は富士山を辺鄙の地であると批難しました

 

 七百五十年の清流を

 正しく後世へ

 以上が主な相対事項ですが、これ以外にも細かな部分で、様々な相違点があったことは、容易に想像ができます。こうした五老僧の振る舞いは、大聖人を御本仏と拝せず、唯授一人・血脈付法の日興上人に随順することができなかったことに起因するもので、大聖人が厳しく誡められた「非法の衆」に他なりません。

 現在、日蓮宗をはじめとして、大聖人を宗祖・開祖と仰ぐ宗派は数多く存在しています。しかしそれらと日蓮正宗とを比較すると、本尊や勤行の方式などに、多くの違いがあります。これらのほとんどは五老僧の末流であり、日蓮宗の化儀・ 化法の混乱のもとは、すべて五一の相対、大聖人の血脈に対する五老僧の背反に起因するのです。

 この五老僧の誤りから、信仰の筋目を質し、どこまでも正師について信仰しなければならないこと、そして、謗法に苦しむ人々を救えるのは日蓮正宗を信ずる私たちにしかできないことを銘記すべきです。


 次回は「六種の釈尊」 についての予定です。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松葉ヶ谷の法難・伊豆配流 一

2022年08月08日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年12月1日(第994号) 

  日蓮正宗の基本を学ぼう 123

   日蓮大聖人の御生涯 ⑨

  松葉ヶ谷の法難・伊豆配流 一

 前回は、日蓮大聖人第1回目の国主諌暁である『立正安国論』の提出と、その内容について学びました。

 かつて、建長五(一二五三)年四月二十八日の初転法輪の際、諸宗を否定するその内容に聴聞衆は動揺し、中でも安房国東条郷(現在の千葉県鴨川市)の地頭・東条景信は怒りから大聖人に危害を加えようとしました。 また、それ以後の鎌倉での弘教に当たっては、辻説法の場をたびたび追われるなど、すでに折伏を行ずることによる様々な障魔が現れていました。

 しかし、『立正安国論』の提出によって、後に、

 「この法門を申すに、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり」

  (御書 五三九㌻)

と示される如く、これまでとは比較にならない、まさに大聖人の身命に及ぶ大難・王難が起こり始めるのです。ここに「大事の難四度」と示される大きな法難の初めとして、『立正安国論』 提出から四十二日後に起こったのが、松葉ヶ谷の法難でした。

 松葉ヶ谷の法難

 大聖人から諌暁を受けた幕府でしたが、『下山御消息』に、

 「御尋ねもなく御用ひもなかりしかば」(御書 一一五〇㌻)

と述べられているように、『立正安国論』 の内容に関する大聖人への照会などの表立った反応はありませんでした。

 あるいは『破良観等御書』に、

 「人の主となる人はさすが戒力といゐ、福田と申し、子細あるべきかとをもひて、左右なく失にもなされざりしかば」(御書 一〇七九㌻)

と示されるように、大聖人に帰依する人々も増えており、何かしら力のある僧侶なのではと、幕府の中にも安易な判断を控える動きがあったのかも知れません。 しかし、破折の対象となった禅・念仏・律宗等の僧侶・信徒たちは裏で策謀を巡らし、権力者に働きかけていました。そしてついに、文応元(一二六〇)年八月二十七日の夜半、大聖人が住居とされていた松葉ヶ谷の草庵を襲撃するに至ったのです。

 その理由について、『下山御消息』には、

 「国主の御用ひなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したるとぞ聞こへし」(御書一一五〇㌻)

と示されています。

 「さるべき人々」とは幕府の権力者を意味しており、幕府が用いない僧侶であれば、危害を加えても罪科になるまいとの思惑のもと、高僧等が信者を扇動したのです。

 謗法の徒による夜襲は激しく、

 「きりものどもよりあひて、まちうど等をかたらひて、数万人の者をもって、夜中にをしよせ失はんとせし」

  (御書 一〇七九㌻)

 「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせし」(御書 一一五〇㌻)

とあるように、勢いにまかせて大聖人を殺害しようとまで画策していました。

 当時の権力者・為政者が大聖人を亡き者にしようとして起こした松葉ヶ谷の夜襲、これはまさに、法華経の『勘持品十三』に説かれる、釈尊滅後の末法時代に法華経の行者を迫害する「三類の強敵」の出現に他なりません。

 このように多くの暴徒の襲来ではありましたが、『破良観等御書』に、

 「十羅刹の御計らひにてやありけん、日蓮其の難を脱れし」 (御書 一〇七九㌻)

とあるように、諸天善神の御計らいと弟子たちの懸命な護りによって、ことなく難を逃れました。

 なお、松葉ヶ谷に程近い現在の神奈川県逗子市に伝わる「お猿畠」という所には、松葉ヶ谷夜襲の際、白猿が現れて大聖人が岩窟へ逃れる手助けをしたとの伝説があります。

 御書中にそのような描写はありませんが、大聖人が難を逃れたことがあまりにも不思議な出来事であるために、諸天善神が白猿に姿を変えて守護したとする説が流布したのかも知れません。 

 下総弘教

 松葉ヶ谷の法難は、罪の無ない一人の僧侶を多数をもって 襲撃するという事件でしたが、

 「而れども心を合わせたる事なれば、寄せたる者科なくて、大事の政道を破る」

  (御書 一一五〇㌻)

と仰せの如く、権力者が同意の上であったことから、 草庵襲撃者に対する当時の式目(法令)に照らした処分も行われない有り様でした。

 このような状況にあって鎌倉に留まっていては、再び襲撃される可能性が大きく、大聖人は富木常忍の請いもあり、一時、下総若宮(現在の千葉県市川市)の富木邸に身を寄せられました。しかし、ただ幕府・念仏者から隠れて過ごされていたわけではなく、富木邸で説法をされるなど妙法広布の手を緩めることはありませんでした。こうして下総滞在中に、太田乗明、曽谷教信、秋元太郎兵衛などの人々を入信へと導かれたのです。

 伊豆配流

 大聖人は、三類の強敵が盛んに出現し始めた今、法華経の行者として一層の折伏弘教をなすべき時であるとお考えになり、翌弘長元(一二六一)年の春、危険を顧みず再び鎌倉へ戻られました。

 この知らせを聞いた幕府は、直後の五月十二日に大聖人を捕らえさせ、取り調べもないまま伊豆国伊東への配流が沙汰されました。

 その罪状は『下山御消息』に、

 「日蓮が生きたる不思議なりとて伊豆国へ流されぬ」(御書 同㌻)

と示されるように、殺害されなかったのが不届きであるとの、理解し難い理由でした。

 これら松葉ヶ谷の法難と伊豆配流の背景について、『妙法比丘尼御返事』には、

「長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ」(御書 一二六三㌻)

と仰せられ、『破良観等御書』には、

 「両国の吏心をあはせたる事なれば、殺されぬをとがにして伊豆国へながされる」(御書 一〇七九㌻)

と御教示されています。

 つまり、草庵襲撃の黒幕は、当時の執権・北条長時の父・北条重時(極楽寺重時)だったのです。

 重時は、既に出家の身でしたが、依然として大きな権力を握っており、大聖人を目の敵にする蘭渓道隆や忍性良寛等と結託し、個人的な恨みも重なった末の策謀でした。 

 「両国の吏」とは、執権と執権の補佐役である連署のことで、当時の連署は重時の弟・北条政村です。仮にも幕府の最高権力者である執権・連署の 二人が、法に依らず自分たちの親族の心を推し量り、大聖人を伊豆流罪に処したのです。

  川 奈

 古来から伊豆は流刑地とされ、源頼朝の流刑先としても知られています。平安時代までは伊豆諸島との混同から遠流先とされ、鎌倉時代以降も地理的な要因による隔離・管理の便りからか、 多くの流人が送られていました。

 大聖人は、まるで幕府に弓引く罪人かのように押送され、伊豆國伊東の川奈の津に降ろされました。

 その時の様子を『船守弥三郎殿許御書』には、

 「日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につきて候ひしに、いまだ名をもきゝをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候ひき」(御書 二六一㌻)

と、仰せられています。 

 身分の高い貴族や武家の出自でないとは言え、地名も知らされず、逗留すべき住居さえ伝えられずに小舟を降ろされ、一人難渋された様子が拝されます。

 なお、伊豆配流に当たっては、初め川奈の津と言っても、岸から離れた海上の岩の上に置き去りにされたとの伝承があります。しかし、御書には「その津」に着かれたとのみ記されています。

  次回も引き続き、伊豆配流とその後の御振る舞いについて学んでいきましよう。

 

        ◇     ◇

 

北条氏略系図

※丸数字は執権、数字は連署の順

 

①時政②義時③泰時④経時⑤時頼(最明寺)⑥長時⑦政村⑧時宗⑨貞時⑩師時

⑪宗宣⑫熙時⑬基時⑭高時⑮貞顕⑯守時

 

1時房2重時(極楽寺)3政村4時宗5政村6義政7業時8宜時9時村10宗宣

11熙時12貞顕13維貞14茂時

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知恩報恩

2022年08月06日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」平成31年1月16日(第997号)    

 【仏教用語の解説】13

  知 恩 報 恩

  恩について

 「恩」とは、人から受ける感謝すべき恵み・慈しみを意味し、恩を知ることを「知恩」、その恩に報いることを「報恩」と言います。儒教や道教など仏教以外の教えや道徳でも、大切だとされています。

 しかしながら日蓮大聖人は、

   「過去・未来を知らざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり」

  (御書 五二四㌻)

と仰せられ、仏教以外の教えは所詮現世のみにとらわれたもので、

真実の知恩報恩の実践は、三世に通達する仏教によらなければなりません。

 仏教で説かれる四恩

 仏教では、私たちが享受している恩として、四恩が説かれています。

すなわち、父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩・三宝の恩の四つです。

 大聖人は『四恩抄』に、

 「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か」(御書 二六七㌻)

と、仏弟子たる者は必ずこの四恩を知ってそれに報いなければならないと教えられています。

        ◇

  父母の恩

  私たちの生命・肉体は父母をなくして存在しません。出世の後は無償の愛情によって養育し、

  導いてくれたのであり、現在大聖人の正法を信仰できる境遇も、父母の恩の賜です。

  国主の恩(国王の恩)

  もともと、国主とは国の為政者(朝廷・幕府の実権を握る人物等)を指します。

 現在では、主権在民の上から国民一人ひとりであるととらえることができます。

  大聖人は『上野殿御消息』(御書 九二二㌻)において、民に衣食があるのは国主の恩であると示されています。現在にあっても、教育や社会秩序の維持、道路、電気、水道 、学校等のインフラなど、私たちは知らず知らずのうちに国土・国家の恩恵を受けます。時代ごとに社会制度の違いはありますが、その国に暮らすた民は国家・国土の存在によって心身を養うための恵みを受けているのです。 

  一切衆生の恩

  自分がこの世に生を受けた因縁をたどれば、両親のみならず、数限りない大勢の祖先がいます。

  生きていくためには、多くの人と関わり、知らず知らずに支えられています。このように考えるとき、自分は一人で生きているのではなく、一切衆生から様々な恩恵を受けているのです。そもそも、

  「一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発こし難し」(御書二六七㌻)

と大聖人が御教示の如く、 私たちは一切衆生の存在によって折伏を行じ、仏道を増進できるのですから、この意味からも一切衆生には恩があるのです。

  三宝の恩

  仏教では、一切衆生が尊敬・帰依すべき対象として、仏宝・法宝・僧宝の三宝が立てられます。

  私たちが信心をし、成仏得道を遂げることができるのは、この世界に出現された仏様と、 仏様の説かれた法、さらにその法を後世に正しく伝えてくれる僧の存在によります。

  一口に三宝と言っても、宗派により様々な三宝がありますが、末法の今、私たちが尊崇すべき正しい三宝は「末法下種の三宝」です。

  すなわち、仏法は久遠元初の御本仏日蓮大聖人、方法は家の一念三千の南妙法蓮華経である本門戒壇の大御本尊、僧宝は大聖人より唯授一人の血脈を直授相承された第二祖日興上人をはじめとする歴代の御法主上人を言います。

  日蓮正宗の仏事は、朝夕の勤行をはじめ、折伏育成、寺院・総本山への参詣など、その一切が三宝に対する報恩行です。 中でも、毎月奉修される宗祖日蓮大聖人御報恩御講は大切です。

  大聖人の報恩行

   (師匠への折伏)

  道善房は大聖人の清澄寺における師匠です。道善房は、かねて念仏を信仰しており、自ら阿弥陀の仏像を五体も造立しました。

  大聖人はその道善房の行いに対し、

 「阿弥陀仏を五体作り給へるは無間地獄に堕ち給ふべし」(御書 四四四㌻)

と指摘されました。仏道における師匠とは何よりも忠実に従うべき存在であり、その恩はけっして忘れてはならないものですが、大聖人は師匠道善房の行為を厳しく破折されました。 

 そして、そのことをもって、

 「今既に日蓮師の恩を報ず」(御書 四四五㌻)

と仰せられ、道善房を折伏したことが本当の意味での師匠に対する報恩であると仰せられています。

 謗法は堕地獄の業因であり、たとえ師匠であってもその誤りを強く指摘し、正法への帰依を勧めることが、本当の意味での報恩に当たるからです。

 池上兄弟は

 恩ある父を折伏

 池上宗仲・宗長兄弟は、大聖人の熱心な帰依者でありましたが、父の康光はそれに反対し、兄弟の分断を謀るなど、陰に陽に信仰を妨害しました。

 大聖人は池上兄弟に対し、

 「一切はをやに髄ふべきにてこそ候えども、仏になる道は髄はぬが孝養の本にて候か。されば心地観経には孝養の本をとかせ給ふには『恩を棄てゝ無為に入るは真実の報恩の者なり』等云々」(御書 九八三㌻)

と、たとえ親に反対されたとしても

「無為に入る(正法を受持して成仏を遂げること)」ことこそが真実の報恩であると御教示されています。

 父・康光は、兄弟の微動だにしない信心姿勢に心を動かされ、ついには大聖人に帰依しました。池上兄弟は父に対しての最高の報恩を尽くしたのです。

 最高の報恩行を実践

 総本山第二十六世日寛上人は『報恩抄文段』において、

 「問う、報恩の要術、其の意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂わく、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり」(御書文段 三八四㌻)

と、不自惜身命の精神をもって正法の弘通に努めることが、一切の報恩に通じる要諦であると示されています。

 さらに、御法主日如上人猊下は、

 「折伏は一切衆生救済の大慈悲行であり、仏祖三宝尊の恩をはじめとして、父母の恩、衆生の恩、国王の恩に報いる最高の報恩行であり、かつまた我が身にとっては最善の仏道修行であります」(大白法 七七一号)

と御指南されています。

 この御指南に示されている通り、大聖人の正法を弘めていく折伏行こそ、最高の報恩行であり、最善の修行なのです。



 次回は、「五一の相対」についての予定です。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『立正安国論』提出

2022年08月04日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年11月1日(第992号) 

日蓮正宗の基本を学ぼう 122

 日蓮大聖人の御生涯 ⑧

 『立正安国論』提出

 今回は、

北条時頼への『立正安国論』の提出と、その内容について学んでまいりましょう。

   北条時頼との会見と 

 『立正安国論』 提出

 日蓮大聖人は、『立正安国論』を提出される以前に、御自ら北条時頼に会見されており、そこで北条時頼が信じていた禅宗の邪義を厳しく指弾されました。

 このことは『法門申さざるべき様の事』に、

 「但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ。其の故は故最明寺入道に向かひて、禅宗は天魔のそいなるべし。のちに勘文もてこれをつげしらしむ。 日本国の皆人無間地獄に堕つべし」(御書 四三五㌻)

また、『安国論御勘由来』の、

 「復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ。之を用ひざれば定めて後悔有るべし」(御書 三六九㌻)

との御文から拝察されます。

 この頃の鎌倉幕府の執権は、第六代北条長時でしたが、政治の実権は前執権であった北条時頼の手にありました。 

 時頼は、康元元(一二五六)年に落髪して入道(在家のまま仏道に入った者)となりましたが、長時に執権職を譲ってからも政務に携わり、政治の権力を手中にしていたことで、現執権の長時よりも権力を持ち、幕府の中にあって事実上の最高権力者として存在していたのです。

 かくして大聖人は、最高権力者である時頼に対して、民衆救済と国土安穏の実現のため、深い洞察と三世に亘って一切のことを悟られる知見をもって文応元(一二六〇)年、『立正安国論』を著わされ、同年七月十六日に北条得宗家に仕えていた宿屋入道を介して提出されました。

 これこそ、大聖人の御一期の御化導における第一回目の国主諌暁であります。

 しかし、この『立正安国論』による諌暁は、北条時頼をはじめとする幕府為政者たちには用いられませんでした。

 『立正安国論』

  について

『立正安国論』は、客と主人との十問九答の形式をもって十段で構成されています。その各段ごとに概要を拝しましょう。

 初めの第一段(災難の来由)では、客が近年より近日に至るまで、様々な形で起こる天変地夭・飢饉疫癘等の原因について尋ねたことに対して、主人は「世の中の人々が正法に背き、邪法に帰依しているために、守護の諸天善神は国を捨てて去り、聖人も立ち去って還ることがない。善神や聖人が去った後には、悪鬼魔神が移り来て、災いや諸難が起こるのである」と災難の由来について述べられます。 

 続く第二段(災難の証拠)では、前述の主人の答えに対して、客が「それは一体いかなる経典に出ている話であるか、その証拠を示して欲しい」と問います。これに対して主人は、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の四つの経典を挙げて災難の由来について詳しく証拠を示され、「これらの経文に照らして、日本国に邪義邪説が蔓延っていることがその原因である」と答えるのです。

 第三段(誹謗正法の由)では、客は血相を変えて「今世間では仏教がとても盛んであるにも関わらず、誰人を指して仏教を破る者と言うのか」と質問するのですが、主人は「確かに仏法が興隆しているように見えるが、それらの僧侶は権力に媚びへつらい、人々を迷わせている」と答えて、悪の根源である間違ったことを説く僧侶たちを誡めるべきことを述べられます。

 第四段(正しく一凶の所帰を明かす)では、客がますます怒って「間違った教えを説く僧侶とは、いったい誰を指すのか」と問い詰めるのに対して、主人は「念仏を唱える法然である」と答えられます。そして法然が著わした『選択本願念仏集(選択集)』と、法然の説く釈尊の一切の経を捨てよ、閉じよ等との邪義を「一凶」と断じて、厳しく破折されるのです。

 第五段(倭漢の例を出だす)では、自らの信奉する法然が一凶だと言う話を聞いた客がさらに怒り出して帰ろうとするのに対して、主人は、それを押し止めて「釈尊の説法には先後、権実の立て分けがあるのに、法然はこれを知らず、専ら私の考えを述べて仏の教えに依っていない。人々はこれを知らずに帰依する故に、三災七難が起きるのである」と丁寧に指摘して、速やかに念仏の邪義を捨てて正法に帰依すべきことを諄々に諭されます。

 第六段(勘状の奏否)では、客の怒りは少し和らぎますが、まだ十分に納得していないため、主人は念仏の邪義について、過去において国法の上からも厳しく止められた実例が厳然としてあることを述べられます。 

 それを受けて第七段(施を止めて命を断つ)では、客は完全に怒りを収めて、いまだ半信半疑ながら、主人に「天下泰平・国土安穏を願い、災いを消すためには、いかなる方法があるのか」と伺うのです。それに対して主人は、 涅槃経等の経文を挙げて、「謗法への施しを止めて国中の謗法を断つことが、国土の安穏を図るために最も重要である」と諭されます。 

 第八段(斬罪の用否)では、客が「謗法を退治するために斬罪を用いるならば、その殺害の罪は重いのではないか」との問いに対し、法華経以後の教えでは、斬罪ではなく、その布施を止めることが説かれます。

 第九段(疑いを断じて信を生ず)では、客が態度を改め、主人の言葉をよく理解して敬い、座を正して身繕いを整えます。そして改めて主人に対して、「仏教は様々に分かれているので、その真髄を理解し理非を明らかにすることは困難であった。しかし、主人の導きにより、法然が著わした『選択集』の謗法によって、世の中が乱れることが理解でき、これまで執着してきた宗旨が謗法であったことを認め、謗法を捨てて正法を崇めてまいります」との言葉に、主人はこれを聞いて喜ぶと共に、客にさらなる決意を促されます。「国家の安穏を期し、現当二世に亘る幸せを祈るならば、まずは急いで謗法を退治しなければいけない。もしそうしなければ、まだ起きていない二難(自界叛逆難・他国侵逼難)が起こるであろう。どうして同じ信心の力を持って妄りに邪義の詞を崇めてしまうのか。もし謗法への執着を断つことができなければ、早くにこの世を去ることとなり、後生は無間地獄に堕ちるであろう」と客を諭され、さらに「一刻も早く間違った信仰への信心を改めて、真実の教えに帰依すべきである。そうすれば必ず三界は仏国となり、十方の国土は宝土となって、衰微することも破られることもなく、平和で心身共に幸せになるのである」と諭されたのです。

 最後の第十段(正に帰して領納す) では、客が「これまでの信仰は、ただ先達の言葉に従っていた」と反省し、「これは多くの人々も同じであろう」と述べます。そして主人に帰依し、正しい仏法を信仰し、謗法を退治する事を決意すると共に、最後に「自ら信ずるだけではなく、他の人々の誤りも諌め、折伏していこう」と述べて『立正安国論』は結ばれます。

 この第十段は、客の問いがそのまま主人の答えであり、『立正安国論』の結論に当たるのです。 

 『立正安国論』

  の精神

 以上の内容を拝して判るように、

この『立正安国論』は、謗法の邪を破して正法を立て、もって国土を安んずることを明らかにされた書であります。

 御法主日如上人猊下は、「立正安国論正義顕揚七百五十年記念七万五千名大結集総会」の砌において、 「今日の日本乃至世界の混沌とした現状を見るとき、その混乱と不幸と苦悩の原因は、既に『立正安国論』をはじめ諸御書に明らかなとおり、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあり、その邪義邪宗の謗法を断たなければ、真の幸せも平和も訪れてこないのであります。(中略)『謗法を断つ』とは、不幸と苦悩の根源である謗法を、折伏をもって断つことであります。折伏は一切衆生救済の最善の慈悲行であり、広布実現の具体的な実践方途であります。

 つまり、広宣流布は折伏によって初めて達成されるのであります」(大白法 七七〇号)

と御指南されました。

 私たちは、 この御指南のままに、御命題である平成三十三年・法華講員八十万人体制構築に向かって、破邪顕正と『立正安国論』の精神をもとに、さらなる折伏行に精進してまいりましょう。

       ◇    ◇

『立正安国論』日蓮大聖人御真蹟(国宝)中山法華経寺蔵




 次回は、松葉ヶ谷の法難より学んでまいります。

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

禅宗の教義

2022年08月02日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」平成 30年12月16日(第995号)    

 【仏教用語の解説】12

  教外別伝・不立文字

 ー 禅宗 の 教義 ー

 

 「教外別伝・不立文字」(文字を立てず・教外に別伝す)は、禅宗の開祖・菩提達磨(達磨大師)が説いた禅宗の根本的な教えです。

 武家に浸透した禅宗

 禅の教えは達磨によって五世紀末にインドから中国にもたらされ、栄西(臨済宗の開祖)、道元(曹洞宗の開祖)らによって日本にも伝えられました。

 日蓮大聖人御在世当時には、北条時頼・北条時宗親子が臨済宗建長寺の蘭渓道隆に帰依するなど、鎌倉でも武家を中心に盛んに信仰されていました。大聖人は禅宗の教義を端的に表わすものとして「教外別伝・不立文字」の語を挙げ、たびたび破折されています。

 「教外別伝・不立文字」

  疑わしき根拠

 この語は『大梵天王問仏決疑経』の中にある語です。

 この経典について大聖人は、『聖愚問答抄』に、

 「大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に汝之を引く(中略)開元・貞元の両度の目録にも全く載せず、是録外の経なる上権教と見えたり。然れば世間の学者用ゐざるところなり、証拠とするにたらず」

 (御書 三九八㌻)

と指摘されています。

 「教外別伝・不立文字」の根拠とされる『大梵天王問仏決疑経』は、八世紀頃の中国の経典目録である『開元釈教録』や、同じく九世紀頃の『貞元新定釈教目録』にもその名目がなく、伝来や素性が疑われることから学者が用いない経典である。仮に仏説であったとしても方便権教であり、「教外別伝・不立文字」が正しいとする証拠にはならない、との御教示です。

 また、『蓮盛抄』においても大聖人は、『大梵天王問仏決疑経』は偽経であると判じられています

 (蓮盛抄・御書 二六㌻)

 「不立文字・教外別伝」のその内容はと言うと、釈尊が八万四千の大衆の中で蓮華の華を拈った時、摩訶迦葉だけが釈尊の意図を察して破顔微笑した(拈華微笑)。すると釈尊は、

 「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門有り。文字を立てず、教外に別伝して、総持任持せば、凡夫の成仏にして第一義諦なり。今方に摩訶迦葉に付属せり」と告げて、迦葉に「正法眼蔵」と言われる無上の正法を以心伝心して付嘱した、というもので、この経文をもって、仏の本意は文字や教説などの言葉を介さずに、心から心に直接伝えられるものと主張するのです。

 禅天魔

 達磨は、禅宗の奥義を「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」という四句で表わし、禅宗では、この四句を「四聖句」と称し、特に重要視しています。

 しかし、「不立文字・教外別伝」とは、真実の悟りの内容を教説や文字によらず、師の心から弟子の心へ以心伝心するものであるとの意です。このような禅宗の教に対し、大聖人は「禅天魔」の語をもって厳しく破折されました。

 『行敏訴状御会通』に、

「『禅宗は天魔波旬の説』云々。此又日蓮が私の言に非ず。彼の宗の人々の云はく『教外別伝』云々。仏の遺言に云はく『我が経の外に正法有りといはば天魔の説なり』云々。教外別伝の言豈此の科を脱れんや」

 (御書 四七四㌻)

とあります。すなわち大聖人は、涅槃経の、

 「経を受けない者は仏弟子ではなく、外道の弟子である。仏の諸説である経を否定するのは、魔の所説であり、それに従う者は魔の眷属である(趣意)」

との文を根拠として、「教外別伝・不立文字」を主張する禅宗は仏の教えを蔑ろにし、仏道修行を妨げる天魔波句(第六天の魔王)の宗団であると厳しく破折されたのです。

 西天二十八祖

 仏教で一般的に用いられる「付法蔵伝」では、 釈尊からの面受相承は二十四祖の獅子尊者で」断絶したと伝えています。

 しかし、「教外別伝・不立文字」を標榜する禅宗では、どうしても釈尊から達磨まで、師弟対面して以心伝心の伝授があったと主張する必要がありました。このため禅宗では獅子尊者から達磨までの間に三人を追加し、インド(西天)で禅を伝えた西天二十八祖を立てたのです。

 これに対し大聖人は、『聖愚問答抄』に、

 「二十八祖を立つる事、甚だ以て僻見なり」(御書 三九八㌻)

と仰せられ、禅宗では二十八祖を石に刻んだり、印刷したりして既成事実化を狙っているが、道理にそれた大いなる誤りであると御教示されています(『聖愚問答抄』趣意)

  不立文字の自語相違

 大聖人は『聖愚問答抄』に、

 「教を離れて教無し。理全く教、教全く理と云ふ道理、汝之を知らざるや。拈華微笑して迦葉に付嘱し給ふと云ふも是教えなり。不立文字と云ふ 四字も即ち教なり文字なり」(御書 三九五㌻)

と御教示されています。仏の悟られた法理と、それに基づく教えは、教即理、理即教の而二不二の関係であるため、文字を離れては仏の教えも、仏道の実践もありません。

 先に紹介した『大梵天王問仏決疑経』も経の体裁ですし、達磨の「四聖句」も文字によって伝わっています。

 つまり、文字を立てないと言いながら、結局のところ、文字を用いて教えを伝えるという重大な自語相違を犯しているのです。

 また『蓮盛抄』に、

 「南天竺の達磨は四巻の楞伽経に依って五巻の疏を作り、慧可に云ふる(中略)若し爾れば猥りに教外別伝と号せんや」(御書 二九㌻)

と仰せのように、達磨本人が、自ら注釈した『楞伽経』を弟子の慧可に伝授するという矛盾をも犯しています。

 この他、現代においても、葬儀の際に禅僧が経を唱えたり、禅宗の寺で写経が催されたりすることも、「教外別伝・不立文字」の教えからすれば、利益のない無意味な修行となるのです。

 正境に帰依する

 ことの大切さ

  禅宗では、自分の心こそが仏であり、経典や教え、 本尊などは必要ないと言います。如来の金言である経典を軽んじて座禅を行い、あたかも悟りを開いた仏であるかのように振る舞う禅宗の姿は、増上慢以外の何者でもなく、

大聖人が、

 「謂己均仏の大慢を成せり」(御書 三九七㌻) 瞋

と厳しく破折されるところです。

 末法の凡夫の命は、仏の命も備えますが、同時に、貪り、瞋り、癡かの三毒にまみれた命でもあります。 このような迷いの命を拠り所としては必ず道を誤るのであり、成仏など到底叶いません。

 私共は、堅固な信をもって大御本尊に帰依すると共に、禅宗をはじめ邪義邪宗に惑わされている人々に対して折伏を行じ、正境へ導いていかなければならないのです。



 

 

次回は「知恩・報恩」についての予定です。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする