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三論宗

2023年03月30日 | 仏教各宗(一)(南都六宗)

第一章 仏  教  各  宗   からの転載

  一、南都六宗

     三 論 宗

【沿革】

 三論宗は、インドの竜樹の『中論』『十二門論』および、その弟子・提婆の『百論』 の三部の論を基として、中国で立てられた宗派であり、般若経を基本とした空思想を教理の根幹としているので「空宗」とも言われる。三論教学は隋の嘉祥大師吉蔵(五四九〜六二三)の『三論玄義』によって大成された。

 三論宗は、日本に最初に伝えられた宗派であり、推古天皇三十三(六二五)年、高麗の慧(え)潅(かん)によってもたらされ、これが第一伝となり、元興寺流と言われた。その後、慧潅の弟子・智蔵が入唐して帰朝後に法隆寺で弘めたのを第二伝とし、さらに智蔵の弟子・道慈によって第三伝が伝えられた。道慈は大安寺に住していたので、これを大安寺流と称した。

 奈良時代には、元興寺、大安寺、西大寺等で三論教義の講学が盛んであったが次第に衰え、鎌倉時代に法相宗の寓(ぐう)宗(他宗に寄寓する宗派。付宗とも言う)となっている。

 

【教義の概要】

<二蔵判と三転法論>

 三論宗では、二蔵判と三転法輪との二種の教判によって一代仏教を判釈している。

 二蔵判とは、小乗仏教を意味する「声聞蔵」と大乗仏教を意味する「菩薩蔵」とを立てて判釈することである。また三転法輪とは、華厳経を「根本法輪」とし、華厳以後、法華以前の大小乗の教えを「枝末法論」とし、法華経を「摂末帰本法論」とするものである。すなわち華厳経は、仏が成道直後、その悟りを即座に説かれた根本教説であり、他の諸経はこの根本教説から流れ出た枝末の教えであるが、法華一乗の教えを説くことによって三乗の機根を調え、枝末の教説を摂して華厳の本旨に帰入させるというものである。

 また、三論宗では、個々の経典はそれぞれに意味を持って説かれているもので、他宗の教判のように経典の勝劣浅深は判定すべきではないと主張し、強いて勝劣を言えば、諸経のいずれにも等・勝・劣の三義があるとする。

 例えば、阿含経は小乗の機には適切な教えであるが、大乗の機には不適切な教えである。また、華厳経は大乗の機には適切な教えであるが、小乗の機には不適切で、それぞれに勝劣の二義がある。しかし、それぞれの機根に利益を与える点では同等であるから、一経一論に固執すべきではないと主張する。

 これらのことから三論宗では、一代仏教を通じて論ずる「三部の論」を依りどころとして宗を立てている。

 

 <破邪顕正>

 破邪顕正の「破邪」とは、一切の有所得の迷見を打破することである。有所得とは、有と無、是と非などの互いに対立する一方に執着することを言う。この破邪により、あらゆる迷妄を払い去って無所得の理に到達することができる。それが「顕正」である。無所得とは、いずれにも囚われず、執着することもなく、有無を離れた空の真理を体得することを言う。

 

 <八不中道>

 八不中道は『中論』に説かれている。八不中道の「不」とは「破」「泯(みん)」などの意で、我々が迷い執着するものとして、生・滅、断・常、一・異、去・来の八つを挙げ、これらの執着・邪見を離れ、一つひとつ否定すれば一切の迷いは断破され、正見に至り無所得中道の悟り(絶対自由)を得ることができるとしている。

 したがって「八不」は破邪の具体的な説明であり、「破邪即顕正」がそのまま八不中道となるとする。

 

 <真俗二諦>

 三論宗では「破邪顕正」の具体的な認識方法として「真俗二諦」が説かれている。

 仏教一般に、真諦とは第一義諦、勝義諦とも言い、絶対の真理の意で、現象界の一々の本性は空であると観ずる、仏・菩薩の絶対的な立場を言う。また、俗諦とは世俗諦とも言い、相対的な真理の意で、人々の間で日常的に正しいとされている事柄や、究極的な真理を表現・把握するために用いられる事柄を言う。

 『中論』で説かれる真俗二諦の関係は、無明に覆われた衆生は常に主客の対立に執着しているため、この衆生を導くには、それぞれに適した教化の手段を用いなければならない。故に、空に執着する者には俗諦を説いて有を明かし、有に執着する者には真諦を説いて空を明かし、有と空の二つの極端を離れた不二中道を悟らせ、涅槃へ導入するというものである。

 したがって三論宗では、この真俗二諦は真理表現の手段と教化の方法を明かしたものであり、真理そのものではないとしている。

 また三論宗では、この真俗二諦を四重にわたって説き、それによって吉蔵当時の諸学派の教理を打破している。四重の二諦とは、三論宗の教判的役割を担うものでもある。

 第一重の二諦とは、説一切有部の一切有の偏執を払って、空を真諦としたもの。

 第二重の二諦とは、俗諦は有であり真諦は空である(俗有真空)との説に執着する成実学派の偏見を払って、有空は共に俗諦、非有非空は真諦とするもの。

 第三重の二諦とは、摂論学派(無著の『摂大乗論』を研学する学派)の三性三無性説を払って、有空も非有非空も共に俗諦とし、非非有非非空を真諦とするもの。

 第四重の二諦とは、前三重の二諦はいずれも教門の分野であるから俗諦とし、非非不有、非非不空を真諦とするもの。真諦は言語と思慮を絶した境地であるが、しばらく非非不有、非非不空をもって無所得中道の理を顕そうとしたものである。

 

 <修証論>

 三論宗では、理論と実践を分けずに教理を体得することが、そのまま観であるとしている。したがって「破邪顕正」をそのまま観法としたものが「八不中道」「無所得正観」と言われるものである。 

 また衆生は本来、仏であり、迷悟不二にして成仏・不成仏を論ずべきではないが、現実の差別相を見れば、機根の違いによって成仏の遅速があるとする。鈍根の衆生は三大阿僧祇劫にわたり五十二位の階位を経て修行することが成仏の要件であるとしている。

 

 【破折の要点】

▼三論宗では、般若経を教義の基としている。三論は諸法を融ずる教えであり、円融の教理も説かれているが、これは二乗作仏、十界互具を説かない通教・別教の教理を伴っている。したがって、真の三諦円融を説く教えではない。

 また、徹底した破執の実践によって空理を悟り、中道を見出そうとしても、結局は 隔歴三諦、但中の理に過ぎないものとなる。真の三諦円融を説く法華経から見れば、三論宗の教えは人間を根底から救済するものではない。

▼修証面においても三論宗では、鈍根の衆生は三大阿僧祇劫にわたり、五十二位の階位に基づいて修行することを説いているが、これは理論上の教説であって、現実には衆生済度の利益はない。

 

 

 

 

 


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