大白法 令和2年4月16日(第1027号)からの転載
仏教用語の解説 26
優曇華・一眼の亀
「優曇華」・「一眼の亀」は、共に遭遇することが、極めて稀な出来事の譬えです。特に日蓮大聖人は『法華題目抄』において、
「この経に値ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華、無量無辺劫に一度値ふなる一眼の亀にもたとへたり。(中略)法華経の題目に値ふことはかたし」(御書 三五五㌻)
と御教示され、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の題目に巡り合うことの尊さを示す譬えとして用いられています。
優曇華とは
優曇華とは、梵語の「ウドゥンバラ」の音写です。天上界に咲く花とも言われますが、一般的にはインドやセイロン島を産地とするイチジクの花の一種とされており、インドでは古くより神聖視されてきた樹木です。
イチジクは漢字で「無花果」と書くように、実の中に小さな花をつける植物で、外部から花を見ることができません。実を食す時に見られるあの無数の粒々が、イチジクの花に当たります。
このような独特の性質を持つことから、優曇華の花が咲くことを見るのは、非常に希有な事柄とされ、仏教経典においては吉瑞の譬えとして示されるのです。
妙楽大師の『法華文句記』には、
「優曇華とは此には霊瑞と言う。三千年に一たび現ず。現ずれば則ち金輪王出ず」
(法華文句記会本 上 六四六㌻)
とあります。すなわち優曇華は、別名を「霊瑞」といい、三千年に一度咲かせるその花は、不思議でめでたい瑞相であると示されています。また優曇華の花が咲くと、徳をもって世界を統一する転輪聖王〔✽1〕が出現するとも説かれています。
法華経『方便品』には、
「諸仏世に興出したもうこと 懸遠にして値遇すること難し 正使世に出でたもうとも 是の法を説きたもうこと復難し 無量無数劫にも 是の法を聞くこと亦難し 能く是の法を聴く者 斯の人亦復難し 譬えば優曇華の 一切皆愛楽し 天人の希有にする所として時時に乃し一たび出ずるが如し 法を聞いて歓喜し讃めて 乃至一言をも発せば 則ち為れ已に 一切三世の仏を供養するなり 是の人甚だ希有なること 優曇華に過ぎたり」(法華経 一二五㌻)
とあります。仏がこの世界に出現されること、またその仏に巡り合うこと、さらに仏が説法を行い、そしてその説法を聴聞することは、優曇華の花に巡り合うように、たいへんな難事であり、さらに仏法を受持することはさらなる難事であると説かれています。
また、総本山第二十六世日寛上人は『三重秘伝抄』(六巻抄五㌻)に、この『方便品』の文を引き、釈尊の出世は、住劫第九の減、人寿百歳という、途方もなく長い時間の中の、ほんの一瞬であり、そして、仏が出現しても、諸仏の中には法を説かない仏もおられ、釈尊もまた、真実本懐の教えである法華経を、説法を開始してから四十二年を経てようやく説かれたことを示されます。
さらに釈尊在世に生を受けた者であっても、他の国に生まれて、仏を見ることも説法を聞くこともできなかった衆生が多くおり、あるいは説法を聴聞することができたとしても、その教えを信受することはたいへんな難事で、これらのことを三千年に一度花咲く優曇華に譬えるのであると仰せられています。
一眼の亀とは
一眼の亀とは、大海の底で暮らす目が一つしか見えない亀で、千年に一度、あるいは百年に一度、水面に出てきた時に、ちょうどよい大きさの穴が空いた浮木に値うことは難しいという譬えです。
涅槃経や阿含経には、「盲亀浮木の譬え」、法華経『妙荘厳王本事品』(法華経 五八八㌻)には、「一眼の亀の譬え」として説かれています。
『雑阿含経』には、
「盲亀百年に一たび、その頭を出すに、まさに此の孔に遇うことを得べきや不や。阿難仏に白さく。能わざるなり」
とあり、優曇華と共に、仏に値い難いことの譬えとして説かれています。
大聖人は『松野殿後家尼御前御返事』に、
「大海の底に、手足もなくひれもない一眼の亀がいた。腹の熱さは鉄が焼けるようであり、背中の甲羅は雪山のように冷たく、苦しんでいた。この亀は常に『腹を冷やし、甲羅を暖めたい』と願っており、腹を冷やすためには赤栴檀という聖木の穴に自分の腹を入れなければならなかった。さらに、この亀は千年に一度しか水面に出られない。広い大海に対して亀はあまりにも小さく、たとえ浮木に値えたとしても、赤栴檀に値うこと、ちょうどよい穴が開いていることはとても稀である。ちょうどよい赤栴檀があったとしても、一眼であるために、東を西と見たり、北を南と見たりして方向が定まらず、さらに手足もないため、いよいよ浮木は遠ざかってしまう(趣意)」(御書 一三五四㌻)
と一眼の亀について述べられています。
この譬えの中の一眼の亀とは私たち衆生のことです。大海は生死の苦海、手足がないのは衆生に善根がないこと、腹の熱さ甲羅の寒さは、瞋恚の八熱地獄、貪欲の八寒地獄に苦しんでいること、千年に一度しか水面に出られないのは、三悪道に堕ちて浮かび難いこと、そして浮木に値い難いことは、仏に巡り合うことが難しいことの譬えです。
そして、赤栴檀に値い難いことは、一切経には値いやすく法華経には値い難いことの譬え、ちょうどよい穴の開いた栴檀に値い難いことは、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の題目は唱え難いことを示しています。
正法に巡り合うことは難事中の難事
このように、私たちが大聖人の仏法に巡り合い、題目を唱えるということは難事中の難事であり、たいへん有り難いことであると教えられているのです。
第二祖日興上人は『遺誡置文』の中で、
「於戯仏法に値ふこと希にして、譬へを曇華の萼(はなぶさ)に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か。爰に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に遇ひ奉ることを得」
(同 一八八三㌻)
と、今私たちが大聖人の仏法に巡り合えることは、優曇華の花や一眼の亀の浮木の穴に値うことの譬えをもってしても、なお足りないほど尊いことであると仰せられています。とりわけ、私たちは今、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節を迎えようとしています。より一層、身の福運に感謝し、仏祖三宝尊への御報恩の念を持って精進してまいりましょう。
〔✽1〕徳をもって世界を治める転輪聖王は、輪宝を転じるとされ、その輪宝には金・銀・銅・鉄の四種類があるという。金輪宝を所持する金輪聖王は、最高の転輪聖王で、全世界のすべてを治める徳があるとされる。
次回は、「理同事勝についての予定です」