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優曇華・一眼の亀

2022年09月29日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和2年4月16日(第1027号)からの転載

 仏教用語の解説 26

  優曇華・一眼の亀

 「優曇華」・「一眼の亀」は、共に遭遇することが、極めて稀な出来事の譬えです。特に日蓮大聖人は『法華題目抄』において、

 「この経に値ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華、無量無辺劫に一度値ふなる一眼の亀にもたとへたり。(中略)法華経の題目に値ふことはかたし」(御書 三五五㌻)

と御教示され、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の題目に巡り合うことの尊さを示す譬えとして用いられています。

 優曇華とは

 優曇華とは、梵語の「ウドゥンバラ」の音写です。天上界に咲く花とも言われますが、一般的にはインドやセイロン島を産地とするイチジクの花の一種とされており、インドでは古くより神聖視されてきた樹木です。

イチジクは漢字で「無花果」と書くように、実の中に小さな花をつける植物で、外部から花を見ることができません。実を食す時に見られるあの無数の粒々が、イチジクの花に当たります。

 このような独特の性質を持つことから、優曇華の花が咲くことを見るのは、非常に希有な事柄とされ、仏教経典においては吉瑞の譬えとして示されるのです。

 妙楽大師の『法華文句記』には、

 「優曇華とは此には霊瑞と言う。三千年に一たび現ず。現ずれば則ち金輪王出ず」

  (法華文句記会本 上 六四六㌻)

とあります。すなわち優曇華は、別名を「霊瑞」といい、三千年に一度咲かせるその花は、不思議でめでたい瑞相であると示されています。また優曇華の花が咲くと、徳をもって世界を統一する転輪聖王〔✽1〕が出現するとも説かれています。

 法華経『方便品』には、

 「諸仏世に興出したもうこと 懸遠にして値遇すること難し 正使世に出でたもうとも 是の法を説きたもうこと復難し 無量無数劫にも 是の法を聞くこと亦難し 能く是の法を聴く者 斯の人亦復難し 譬えば優曇華の 一切皆愛楽し 天人の希有にする所として時時に乃し一たび出ずるが如し 法を聞いて歓喜し讃めて 乃至一言をも発せば 則ち為れ已に 一切三世の仏を供養するなり 是の人甚だ希有なること 優曇華に過ぎたり」(法華経 一二五㌻)

とあります。仏がこの世界に出現されること、またその仏に巡り合うこと、さらに仏が説法を行い、そしてその説法を聴聞することは、優曇華の花に巡り合うように、たいへんな難事であり、さらに仏法を受持することはさらなる難事であると説かれています。

 また、総本山第二十六世日寛上人は『三重秘伝抄』(六巻抄五㌻)に、この『方便品』の文を引き、釈尊の出世は、住劫第九の減、人寿百歳という、途方もなく長い時間の中の、ほんの一瞬であり、そして、仏が出現しても、諸仏の中には法を説かない仏もおられ、釈尊もまた、真実本懐の教えである法華経を、説法を開始してから四十二年を経てようやく説かれたことを示されます。 

 さらに釈尊在世に生を受けた者であっても、他の国に生まれて、仏を見ることも説法を聞くこともできなかった衆生が多くおり、あるいは説法を聴聞することができたとしても、その教えを信受することはたいへんな難事で、これらのことを三千年に一度花咲く優曇華に譬えるのであると仰せられています。

一眼の亀とは

一眼の亀とは、大海の底で暮らす目が一つしか見えない亀で、千年に一度、あるいは百年に一度、水面に出てきた時に、ちょうどよい大きさの穴が空いた浮木に値うことは難しいという譬えです。

 涅槃経や阿含経には、「盲亀浮木の譬え」、法華経『妙荘厳王本事品』(法華経 五八八㌻)には、「一眼の亀の譬え」として説かれています。

『雑阿含経』には、

 「盲亀百年に一たび、その頭を出すに、まさに此の孔に遇うことを得べきや不や。阿難仏に白さく。能わざるなり」

とあり、優曇華と共に、仏に値い難いことの譬えとして説かれています。

 大聖人は『松野殿後家尼御前御返事』に、

 「大海の底に、手足もなくひれもない一眼の亀がいた。腹の熱さは鉄が焼けるようであり、背中の甲羅は雪山のように冷たく、苦しんでいた。この亀は常に『腹を冷やし、甲羅を暖めたい』と願っており、腹を冷やすためには赤栴檀という聖木の穴に自分の腹を入れなければならなかった。さらに、この亀は千年に一度しか水面に出られない。広い大海に対して亀はあまりにも小さく、たとえ浮木に値えたとしても、赤栴檀に値うこと、ちょうどよい穴が開いていることはとても稀である。ちょうどよい赤栴檀があったとしても、一眼であるために、東を西と見たり、北を南と見たりして方向が定まらず、さらに手足もないため、いよいよ浮木は遠ざかってしまう(趣意)」(御書 一三五四㌻)

と一眼の亀について述べられています。

 この譬えの中の一眼の亀とは私たち衆生のことです。大海は生死の苦海、手足がないのは衆生に善根がないこと、腹の熱さ甲羅の寒さは、瞋恚の八熱地獄、貪欲の八寒地獄に苦しんでいること、千年に一度しか水面に出られないのは、三悪道に堕ちて浮かび難いこと、そして浮木に値い難いことは、仏に巡り合うことが難しいことの譬えです。

 そして、赤栴檀に値い難いことは、一切経には値いやすく法華経には値い難いことの譬え、ちょうどよい穴の開いた栴檀に値い難いことは、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の題目は唱え難いことを示しています。

 正法に巡り合うことは難事中の難事

 このように、私たちが大聖人の仏法に巡り合い、題目を唱えるということは難事中の難事であり、たいへん有り難いことであると教えられているのです。

 第二祖日興上人は『遺誡置文』の中で、

 「於戯仏法に値ふこと希にして、譬へを曇華の萼(はなぶさ)に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か。爰に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に遇ひ奉ることを得」

 (同 一八八三㌻)

と、今私たちが大聖人の仏法に巡り合えることは、優曇華の花や一眼の亀の浮木の穴に値うことの譬えをもってしても、なお足りないほど尊いことであると仰せられています。とりわけ、私たちは今、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節を迎えようとしています。より一層、身の福運に感謝し、仏祖三宝尊への御報恩の念を持って精進してまいりましょう。



〔✽1〕徳をもって世界を治める転輪聖王は、輪宝を転じるとされ、その輪宝には金・銀・銅・鉄の四種類があるという。金輪宝を所持する金輪聖王は、最高の転輪聖王で、全世界のすべてを治める徳があるとされる。




   次回は、「理同事勝についての予定です」


一谷での御生活

2022年09月26日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和2年5月1日(第1028号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 135

 日蓮大聖人の御生涯 ㉑

  一谷での御生活



 前回学んだ『開目抄』と共に、日蓮大聖人の御一代を代表する重要書とされるのが『観心本尊抄』です。今回は『観心本尊抄』の述作を中心に、一谷に移居されてからの御振る舞いを学びましよう。

 一谷への移居

 文永九(一二七二)年二月の『開目抄』御述作からふた月ほどが経過した初夏の頃、大聖人は塚原から一谷の地に移られました。当時の法度(法律)に基づく制度上の理由からか、あるいは大聖人を憎む者たちから守るための移居であったのか、定かではありません。

 三昧堂より住環境が改善されたとはいえ、新たに監視役となった名主は念仏の強信者であり、父母の敵や前世からの仇敵に合ったような、憎々しげな対応を取り続けました。渡される食料もわずかばかりで、付き従う弟子たちと二口、三口と分け合う有り様でした。

 その様子や大聖人の御振る舞いを間近で見ていた配所の家主、一谷入道と、その妻や使用人たちは、「宿の入道といゐ、めといゐ、つかうものと云ひ、始めはおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内々不便と思ふ心付きぬ。(中略)宅主内々心あて、外にはをそるゝ様なれども内には不便げにありし事何の世にかわすれん」(御書 八二九㌻)

と御示しのように、念仏者ではありましたが次第に心を寄せ、陰で手助けをするようになっていったのです。

 乙御前母子の来島

 この頃から門下の中に、佐渡の大聖人のもとへ詣でようという動きが出始めました。

 しかし『日妙聖人御書』に、

 「相州鎌倉より北国佐渡国、その中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨々海は涛々、風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。(中略)其の上当世の乱世、去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ、いまだ世間安穏ならず」(同 六〇七㌻)

とあるように、多くの弟子・檀越が在住する鎌倉から佐渡への道程はただでさえ危険が多く、さらに自界叛逆難の様相を呈する前年からの世の乱れも、治まる気配がありませんでした。

 そのような状況にあって鎌倉から大聖人を訪ねてきたのが、乙御前母子だったのです(娘の乙御前は渡島せず、母一人であったとする説もあります)。

 後年、大聖人はこの時のことを『乙御前御消息』に、

 「御勘気をかほりて佐渡の島まで流されしかば、問ひ訪ふ人もなかりしに、女人の御身としてかたがた御志ありし上、我と来たり給ひし事うつゝならざる不思議なり」(同 八九六㌻)

と、現実のこととは思えないほど不思議で尊いことであったと述懐されています。

 この渡島の際の乙御前母子の道中の苦労について、大聖人は、

 「道中、宿泊した先々の人の心は、虎や犬のように荒んで恐ろしく、乙御前母子はその身に三悪道を経験したかのように苦しんだことであろう(趣意)」(同 六〇七㌻)

と思いやられています。

 さらに大聖人は、危険を顧みず佐渡を訪れた乙御前の母の信心を賞賛されて、

 「日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云々」(同)

と、檀越として初めて「日妙聖人」と聖人号を授けられたのです。

 こうして無事、大聖人にお目にかかることができた日妙聖人でしたが、女性だけでの旅は、やはり過酷で日数を要したのでしょう、鎌倉へ帰る費用が欠乏してしまいました。

 大聖人が一谷入道に話をしたところ、旅費を立て替えてくれることになり、その代わり大聖人が赦免となった暁には、入道に法華経一部を渡すことを約束されました。

 しかし入道は、阿弥陀堂を建立し自らの田畑を寄進するほどの念仏者で、地頭からの仕打ちを恐れたこともあり、ついに念仏を捨て切ることができませんでした。

 赦免の後、入道に法華経を渡したのでは謗法になり、渡さなければ約束を違えることになってしまう、と思惟された大聖人は、法華経の信仰者となっていた入道の母へ法華経と開結二経を送られ、弟子の学乗房に読み聞かせてもらうよう伝えられています。

 『観心本尊抄』御述作

 翌文永十年四月二十五日、大聖人は、自ら、

 「日蓮当身の大事」(同 六六二㌻)

と称される御書を認められ、下総国中山(現在の千葉県市川市)の富木常忍に送られました。この書が『観心本尊抄』で、大聖人が題された正式な名称は、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄(如来の滅後五五百歳に始む観心の本尊抄)』と言います。

 大聖人は本抄に副えられた書状において、仏滅後二千二百二十余年にして、国難を顧みず説き出す前代未聞の法門であるため、信心強盛の者にのみ披見を許すよう念を押されています。

 本抄では、まず凡夫の一念心に三千の諸法が具足するという。「一念三千」の出処として、天台大師の『摩訶止観』の文を示されます。天台大師の示す観心修行とは、我が己心を観察し、そこに十法界のすべて、特に仏界が実際に具わっていることを体得すること、とします。

 しかし大聖人は、末法の一切衆生が修すべき観心修行とは、妙法受持の一行にあるとの「受持即観心」の義を明かされます。それは妙法蓮華経こそが一念三千の当体だからです。

さらに、衆生の尊崇すべき妙法の本尊を示すに当たって、釈尊一代五十年の教法を五重に括り、それぞれを序分、正宗分、流通分の三段に分ける教判を立てられました。これを「五重三段」といいます。

 序分とは、正意とする教法を説くための準備段階、正宗分とは、中心・中核をなす教法が説かれる本論の部分、流通分とは、衆生を利益するために教法を広く流布する方法等が説示された部分です。本抄に示される五重三段は、大聖人独自の御法門であり、その名目を挙げれば、①一代一経三段、②法華経一経三段、③迹門熟益三段、④本門脱益三段、⑤文底下種三段の五つです。中でも、第五番目の文底下種三段で明かされる法体こそ、末法における一切衆生のための下種の妙法本尊となります。すなわち、本尊の正体とは、如来寿量品の文底に秘し沈められた大法、久遠元初本因名字の妙法蓮華経に他なりません。

 本抄は、大聖人御自身が『開目抄』に示された主師親三徳兼備の御境界をもって、久遠元初の御本仏出現と、付嘱の大法としての即身成仏の一念三千、妙法大曼荼羅本尊の建立を開顕された御書なのです。よって『開目抄』の「人本尊」に対して、「法本尊開顕の書」と称されています。

 佐前佐後

 佐渡配流中、大聖人が著された御書は『諸法実相抄』等五十篇を超えています。内容も『開目抄』や『観心本尊抄』のような重要法義から、真言宗をはじめとする諸宗の破折、妙法の功徳と諸天の加護を説く弟子檀越への激励の書状など多岐にわたっています。これらは紙を手に入れることも難しい中で著されたもので、一枚の書状の行間や上下の余白にまで認められた御書もあり、当時の御化導の様子を拝することができます。

 大聖人が『三沢抄』に、

 「法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(同 一二〇四㌻)

と仰せのように、御一期が常に「法華経の行者」としての御振る舞いであると言っても、佐渡以前と以後、すなわち竜口で発迹顕本される前と後では、その法門と御化導に大きな違いがあるのです。発迹顕本以後は、外用は上行菩薩として、しかし、内証は末法の御本仏としての御境界の上から、御本尊を顕わされ、三大秘法整足のための御化導を示されます。

 だからこそ、出世の本懐を顕わされる時期に向けて、不便の多い佐渡在島中にもかかわらず大事の御法門を書き顕わされ、最蓮房、四条金吾、常木常忍等の門下に託されたのです。

 なお、他門である日蓮宗には、先に引いた『三沢抄』の御文をもって、佐渡期の御化導が本門・正宗分だと主張する者たちがいます。これは、大聖人の御化導が本門戒壇の大御本尊に極まることを理解できない、仏法の筋目に迷う姿と言えます。


序 天台教判 (二)八教

2022年09月24日 | 日蓮正宗要義(一)

日蓮正宗要義 改訂版 からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

     序  天台教判

     (二)八 教

 前項の五時判は、釈尊一代の化導に対する縦の面からの見方である。これに対し、横の面からの教法の見方として八教判がある。八教とは化儀の四教と化法の四教で、仏の化導を病人に対する医師と医薬に譬えるが、薬の調合方法としての薬方は化儀であり、薬の内容に当たる薬味は化法である。

 化法の四教とは蔵・通・別・円の四教である。

 およそ仏教における正しい真理とは空仮中の三諦であり、諦とはつまびらかな真実の理を表わす語である。衆生が様々の迷いを生じて悪道に沈むのは、煩悩という心の迷いがあって、この三諦を理解できず、これに迷うからである。

 しかるに仏の絶対の悟りというものは、四教のうちの円教であり、この円教では空と仮と中が各々切り離されたものでなく、互いに具わり合っているところに、真の理があることを示す。これを円融の三諦という(円教については後に述べる)

 この円の理は難解難入であるから、直ちに理解できない者のために、仏はこの円の内容より衆生の根力に従ってその一面一面を取り出して示される。それが方便の蔵・通・別の三教である。

 蔵とは三蔵経の意である。経・律・論の三蔵は小乗のみとは限らないが、竜樹菩薩が大智度論で、大乗に対し小乗を三蔵として論じ、天台もこの意を受け、三蔵の語をもって小乗と呼称したのである。その教理は、しばらく説一切有部(有部)によれば、欲界・色界・無色界の三界内の六道の因果を生死の業と説くとともに、この苦悩を脱却して涅槃を証する道を示すのである。衆生の個々の生命やその存在は因縁によって存するから、その実体は苦・空・無常・無我であるが、色心等の法は常住であるとして我空法有と説く。空を観ずるに当たっては、万象を分析することによってそれに達するゆえに析空といい、このような空は現実を否定する空の一偏のみであるから、但空ともいう。他の仮・中の諦理との間の融通がなく、偏真の空理と見られるのである。

 このように、諸法は因縁によって生滅すると見るのが、生滅の真理観である。

これに基づいて、

 声聞は苦・集・減・道(集は因、苦は果、すなわち迷中の因果。道は因、滅は果、すなわち悟りの因果)の四諦を修する。

 縁覚は無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死(無明・行は過去の二因、識・名色・六入・触・受は現在の五果、愛・取・有は現在の三因、生・老死は未来の二果で、すなわち三世両重の因果)の十二因縁を修し、菩薩は布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度を修する。蔵教ではつぶさに、このような修行の相とそのうえの位とが説かれている。真理を蔽い隠す我々の煩悩については、次の通教と同様、我執にありとし、その我執の内容としては空理を障礙するところの見思二惑(見惑は思想的な迷い、思惑は情欲的な迷い)のみを体として示すのである。これを欲界・色界・無色界の三界六道に執われる迷いの意味から界内の惑という。

 通教とは二つの意がある。その一は空の理が前の蔵教と所詮は同じである意味において、互いに通じているので通同といい、その二は蔵教と異なって、その空が後の高尚な別教・円教に通ずる意義があるから、通人という。この二意より通教というのである。通同は説明を要しないが、通入についてやや詳しく述べる。通教はやはり六道の因果を明かし、これを脱却するために空を説くことは蔵教と同じながら、その空は体空といい、蔵教の析空と異なる。万象を分析して、ようやく空を悟るのでなく、事物現象の当体が直ちに空であると説く。これを体空といい、当体即空というところ、その当体には、おのずから有の存在を含むことより、不但空ともいう。また有を含みながらも、幻のごとしといって幻有即空と談ずる。更にその空は蔵教の人空法有に対し、人法二空を立てるのである。通教における、このような幻有と即空の二が、やがて非有非空の中理を予想し、別教・円教等の大乗に入る初門となる。諸法の当体即空にして生滅なしという(無生滅の)真理観を基として、やはり声聞・縁覚・菩薩の三乗ともに、それぞれ四諦・十二因縁・六度の法を観じ体空の真理を悟るのが通教の教理である。

 次の別教は先の蔵通二教とも、後の円教とも別であるから別教という。前の二教と異なるところは、真理のうえで空仮中の三諦を明かし、灰身滅智(小乗の三乗は但空の修行のため身心ことごとく空無に帰すること)の者の与り知らない三界六道外(これを界外という)の因縁の相、すなわち菩薩が仏果を目指して進む長期の修行の因果を説くことである。

 また後の円教と異なるところは、三諦を同時に、また同体として照らすのでなく、初めに空諦、次に仮諦、後に中諦と次第に移りつつ修行する。つまり空を対象とするときは仮・中を知らず、仮のときは空・中なく、中に入れば仮・空の理を亡ずる。これを次第の三諦という。その中道も、空・仮の二辺を離れた但なる中であるから、但中という。次に三諦の真理を説くので我々の生命に存する迷いとしては、空理を障礙する見思二惑のほかに、仮諦を障礙する塵沙の惑(現実の因縁の相に暗い迷い)と、中道中諦を障礙する無明の惑(生命それ自体に関する根本的な迷い)を説くのである。塵沙・無明はともに六道外の境界において感ずる惑であるから、界外の惑という。

 別教は小乗の三乗を除いた大乗の菩薩のみを対象とした教えである。菩薩の意義は、衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願証という四弘誓願を起こすのであり、衆生を導くことを要旨とする。そのためには多くの衆生の個別相、因縁の相を学び、かつこれに通暁する必要がある。しかるに衆生は無量であるから、無量の四諦、つまり無量の苦・集・減・道の因縁観を基本とし、菩薩が五十一位を経て上求菩提下化衆生に励みつつ、次第に煩悩を断じ、次第に三諦の理を証するのである。以上、別教の綱格を略示した。

 最後に円教について述べる。円の意義には不縦不横、円融、円満、円妙、円足、円頓等がある。まず不縦不横についていえば、その縦とは概して時間的な表示、横とは空間的表現に通ずる。通常の我々の思考は個別的なところに存する。つまり時間的には過去と現在と未来とについて別個に考える。空間的にも、自らの生命と他の生命は明らかに異なることが認められる。このような見方も、生活上の観念としては必要である。しかしその差別的見解は一面のみの真理であり、直ちに物の本質を照らすものではない。本来、円の理とは一瞬一瞬の生命に時間・空間のすべてを含み具えている。不縦とは「縦ならず」で、縦の時間的な相違変化や無数の現われの本質は、時間のすべてを内在する現在の一瞬一念の不可思議な生命を指すのである。不横とは「横ならず」で、空間的な無数の差異や現われの本質は、やはりそのすべてを内在する一念の不思議の生命であることを述べている。

 これを空仮中についていえば、縦とは次第であり、初め空、次に仮、次に中という推移によって修行する相である。横とは差別であり、空は空、仮は仮、中は中とそれぞれ横に並びつつ、別個にして互いの関連がない形を指す。今は不縦のゆえに次第がなく、一時に空仮中を円かに具え、また不縦のゆえに差別なく、一存在を挙げれば宛然として即空・即仮・即中であり、円かに諸法を具す。これが円の不縦不横の意義である。

 円融とは、円はこのように一法に即して一切法であるから、宇宙法界の存在における、上は尊高至極の仏界より、下は最苦最悪の地獄界までのすべてが、互いに具わり融け合っていて、決して切り離された単独の存在ではない。悪も善も、仏も地獄・餓鬼・畜生も、すべて連なり合い、相資相依の存在であるという不思議の理に名づける。

 次に円満とは、右の円満の理が事々物々の主体的立場において、その意義と価値を表わすことをいう。一法を挙げれば、どのような片々区々の存在であろうと、宇宙法界の一切を具えて不増不滅であり、本来十界互具し、一念三千の覚体であることを顕わす本門的意義を持っている。円妙、円足、すべてこれに準じて考えられよう。また円頓とは仏の化導に当てはめた語で、速疾頓成を意味するのである。

 要するに、円教は円融三諦の中道を所詮とするものであり、空といえば一空一切空であって、法界すべてが空寂に帰し、仮といえば一仮一切仮で、法界の至る所に差別の相が歴々として建立し、中といえば一中一切中で、法界の個も全もことごとく中道不思議の妙体である。一即三・三即一・即空・即仮・即中で互いに障礙することなく、相待、絶待ただ不思議にして、言語道断心行所滅の当体・当相に名づける。このような中道を別教の但中に対し、不但中と称する。

 このように一法と雖も中道実相の妙体であるから、何らかの価値を特に造作する必要がない。つくろいなすべきことが、法理のうえにおいてありえないから、このような中道を無作という。この無作の観のうえに、自身や法界の苦・集・滅・道を観ずるのが中道実相観である。三乗・五乗ないし地獄より菩薩までの九法界は、この円教に入って、すべてが仏乗と開かれるのである。その修行の位は下図のごとく、八位六即が示されている。

(八位)      (六即)

             理 即

             

       |ーーー名字即

五品弟子位ーー|

       |ーーー観行即

十信ーーーーーーーーー相似即

十住ーーーーー|

十行ーーーーー|

十回向ーーーー|ーーー分真即

十地ーーーーー|

等覚ーーーーー|

妙覚ーーーーーーーーー究竟即




 次に化儀の四教を略説する。すなわち頓・漸・秘密・不定である。この四通りの投薬方法により、仏は前述の蔵・通・別・円の薬の内容を適当に調合し、加減して衆生を導かれるのである。まず頓とは誘引の手段を用いず、直ちに仏の高広の理を説く化導法である。これに対して、漸とは次第階梯の意で、下劣の機に応じて蔵・通・別等の方便を説いて、衆生の根性を調えるのである。次に秘密とは秘密不定教、不定とは顕露不定教のことである。右の両者に共通の言葉として「不定教」の名称があるが、これは同聴異聞のことである。仏の一音の説法をある者は小と聞き、ある者は大と聞く等、同聴異聞して利益の各々異なることをいう。そして顕露不定教とは、衆生が仏の説法を聞くに当たり、互いに顕露の状態であること、つまり一会の衆が皆互いに仏の法を聞くことを知りつつ、しかも仏の微妙の表現により、内容と利益を得ることが異なる教導法をいう。秘密不定教とは仏の説法の知慧や用きが、現実に空間を超えて、同座または別座十方において、各々を互いに相知らしめず、しかも一説法に対し同聴異聞して、得益に不同のあることをいうのである。要するに頓と漸は、機の相違による法の内容の違いであり、秘密と不定は、同時聴聞の衆生に対して道を増進させるため、得益や知・不知を不同ならしめる仏の教化法である。釈尊はこれらの形式をもって種々に法を説き、形声の二益を施されたのである。


2022年09月23日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和2年3月16日(第1025号)からの転載

 仏教用語の解説 25

    劫

 

 劫とは梵語カルパの音写です。

『法華文句』に、

   「劫は是れ長時」(法華文句記会本 上 七〇一㌻)

とあるように、極めて長い時間を意味します。法華経『常不軽菩薩品第二十』には、「不軽菩薩を迫害した衆生は、千劫の間、無間地獄に堕ち、二百億劫もの間、三宝に巡り合うことができなかった」と説かれています。

 このように仏教では、長い時間の意である劫を用いて、千劫(千倍)、二百億劫(二百億倍)などのように、さらに長い時間も表現しています。

 

 時の長さを表わす様々な「劫」

 劫の長さは経論により諸説がありますが、譬えで表わされることが多いです。

 代表的なものとして、『大智度論』には、芥子劫と盤石劫の譬えが説かれています。

 芥子劫とは、四千里(約二千キロメートル)四方の大城に芥子つぶを満たして、百年に一度、一粒の芥子を取り去ることを繰り返し、すべての芥子がなくなってもまだ尽きないほどの劫という説です。

 盤石劫とは、四千里四方の石山を、百年に一度、柔らかな衣でそっとなでるように擦り、いつかこの石山が摩滅してなくなってもまだ劫は尽きないという説です。

 また、『菩薩瓔珞本業経』には、大石を、天人の軽い衣で三年に一度払って、石が尽きる時を劫といい、この石の大きさが一里であれば一里劫、五十里の時が五十里劫、これと同様に百里、千里、万里劫あると示されています。

 また『倶舎論』などには、人の寿命の始まりから終わりまでを基準とした、四劫という語があります。

 四劫とは、世界の生成から消滅までの期間を成劫・住劫・壊劫・空劫の四つに分けるもので、これが無限に繰り返されると説きます。

 成劫は大地・草木などの器世間(国土世間)と、有情の世界である衆生世間が成立する期間です。

 住劫は器世間と衆生世間が安穏に存続する期間です。

 壊劫は衆生世間が壊滅し、次に器世間が破壊し尽くされる期間で、この時、劫火と言われる炎が世界を焼き尽くすとされます。

 空劫はこれらの世間のすべてが壊滅し終わって、次の成劫に至るまでの空無の期間をいいます。

 この成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫で一大劫といいます。そして、この基本となるものが小劫という単位で、人間の寿命の増減を基準としています。

 小劫について『仏祖統紀』には、人の寿命が八万四千歳から、百年に一歳ずつ減って十歳になり、次に十歳から百年に一歳ずつ増えて八万四千歳になる、この一減一増が一小劫であると示されています。

 そして二十小劫を一中劫といい、成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫それぞれが一中劫ずつあるとされます。

 さらに四劫のすべて(四中劫)の期間を一大劫といいます。

 ちなみに、この説を計算で求めると小劫は千六百七十九万八千年、中劫は三億三千五百九十六万年、大劫は十三億四千三百八十四万年となります。

 また大劫は過去・現在・未来の三つがあり、過去の大劫を荘厳劫、現在の大劫を賢劫、未来の大劫を星宿劫といいます。そして現在が、賢劫の中の住劫二十小劫のうち、九度目の減劫(住劫第九の減)に当たっていて、この時の人寿百歳の時に釈尊が出現したと説かれています。

 

 法華経の塵点劫

 そして法華経の中には、三千塵点劫と五百塵点劫という、遥か昔を表わす二つの劫が説かれています。

 三千塵点劫は『化城喩品第七』に説かれています。

 三千大千世界(私たちが暮らす全世界)のすべての国土をすり潰して墨とし、東方に向かって千の国土を過ぎるごとに一点を下していきます。すべての墨を落とした後、墨点を下した国土、過ぎ去っただけの国土、すべての国土をすり潰し、その一塵を一劫(塵点劫)と数えたものです。

 同品では、この三千塵点劫の昔に大通智勝仏という仏が法華経を説き、その後、仏の十六人の王子が再び法華経を説いて時の衆生に結縁したとあります。そしてその十六番目の王子がインド応誕の釈尊の前身であり、その時に化導した衆生が今日の声聞であるとして、過去からの釈尊の化導が明らかにされたのです。

 次の五百塵点劫は『如来寿量品第十六』に説かれます。

 五百千万億那由他阿僧祇もの三千大千世界を擦って塵とし、この塵を持って東方に向かい、五百千万億那由他阿僧祇の国土を過ぎるごとに一粒ずつ落としていって、ことごとく尽くし、塵を落とした国、過ぎ去っただけの国、それらすべての国土を砕いて微塵とし、その一塵を一劫とするという無量無辺の長い時間のことです。

 三千と五百では三千のほうが長いように感じるかも知れませんが、三千塵点劫では最初にすり潰す三千大千世界が一つなのに対し、五百塵点劫では、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界となります。また、三千塵点劫が千の国土を経過して、墨点を下すのに対し、五百塵点劫では、五百千万億那由他阿僧祇の国土を経過して一塵を下すのです。

 このように比較すると、三千塵点劫と五百塵点劫では、五百塵点劫のほうが比較にならないほど遥かに遠い昔ということになります。

 『寿量品』には、釈尊が実は五百塵点劫という遥か昔に仏果を成就し、それ以来、常に娑婆世界に常住して衆生を教化してきたことが説かれているのです。

 

 仏国土は劫末の炎に焼けず

 劫末(壊劫)に起こるとされる劫火について『守護経』には、三千大千世界の草木を薪として須弥山を焼こうとしても燃やすことはできないが、劫火が須弥山に点いた時、その炎は、必ず三千大千世界のすべてを焼き尽くすと説かれています。

 しかし、『如来寿量品第十六』には、

 「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず(中略)衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」(法華経 四三九㌻)

とあります。

 つまり、私たちが一心欲見仏不自惜身命の信心に徹し、本門戒壇の大御本尊を受持して、信行に励むならば、この娑婆世界は仏国土となり、劫火にも焼けず、常にこの土は安穏であると説かれているのです。

 過去・現在・未来の三大劫という長大な時間軸の中で、今、生を受け、さらに久遠元初の自受用報身の再誕たる御本仏・日蓮大聖人の教えを奉持させていただいている私たちは、その不思議な因縁をよく自覚しなければなりません。

 そして令和三年の御命題達成、仏国土建設のために折伏を行じていくべきなのです。

 

 

 



  次回は、「優曇華・一眼の亀」についての予定です。

 

 

 

 

 


開目抄 御述作

2022年09月21日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

大白法 令和2年4月1日(第1026号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 134

 日蓮大聖人の御生涯 ⑳

  開目抄 御述作



 前回学んだように、塚原問答において、念仏の邪義を完膚なきまでに打ち破られた日蓮大聖人の尊容に、これまで大聖人に敵意をもっていた佐渡の人々が、次第に敬服するようになりました。

 

  最蓮房の帰伏

 その一人に、天台宗の僧侶であった最蓮房日浄がいます。

 最蓮房は、 大聖人よりも先に流罪の身として佐渡に住していたのですが、 塚原問答決着の約二週間後、 文永九(一二七二)年二月初旬に大聖人に帰伏しています。

  そして、大聖人より数々の重要な法門書を賜っていますが、 その一つである『生死一大事血脈抄』 の中で、大聖人は、

 「殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴し貴し」(御書 五一四㌻)

と、最蓮房の仏法修学の姿勢と求道の志を賞賛されています。

 

 御述作の興起

 塚原問答の翌月、文永九年二月、大聖人は 『開目抄』を御述作されて、 四条金吾をはじめとする門下一同に与えられました。

 当時、大聖人が竜口法難から佐渡御配流と身命に及ぶ迫害を受ける中、その迫害の手は鎌倉の弟子檀那へも及び、牢に入れられたり所領没収などの刑に処される者も出たため、弟子檀那の中には信心を捨てて退転する者が続出していたのです。 

 大聖人は、この時の様子を 『弁殿尼御前御書』に、

 「しかりといえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの、大体或はをち、或は退転の心あり」

  (同 六八六㌻)

また、『新尼御前御返事』には、

 「かまくらに御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて」(同 七六五㌻)

と述懐されています。

 総本山第二十六世日寛上人は 『開目抄愚記』に、

 「当抄の述作は、竜口法難に由来する。大聖人は、真の法華経の行者として三徳具備の仏である。しかし、日本の人々はこれを知らずに強く憎み、責め、その上(竜口の刑場にて)命に及んだ。(大聖人に)迫害を加えても、(迫害者には)罰は当たらず、諸天の加護もない。これによって弟子檀那は、大聖人は法華経の行者ではないと疑いを起こした。故に真の法華経の行者であることを示し、疑いを払って信心を起こさせるために当抄を述作されたのである(趣意)」

 (御書文段 五三㌻)

と御教示です。 

 すなわち『開目抄』の御述作の興起は、竜口法難にあるのです。迫害によって弟子檀那が「大聖人を迫害した者に現罰が出ないのはなぜか」、また「大聖人に諸天の加護がないのは、法華経の行者ではないからではないか」との不信を抱いて、退転者が続出するという一門の危機に当たって、不信を取り除き、真の主師親三徳に対する盲目を開かしめるためでした。

 

 主師親三徳兼備の御本仏

 『開目抄』は上下二巻から構成され、内容を主題の標示(標)・主題の解釈(釈)・結論(結)の三つに大別して著されています。

 冒頭に、

 「夫一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり」(御書 五二三㌻)

と仰せのように、一切衆生が尊敬すべき主師親の三徳(主題の表示)を挙げ、さらに儒教、インドの外道、内道(仏教)の順に進み、仏教の中でも一代聖教の勝劣浅深(主題の解釈)を判じて、

 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろめたまはず、但我が天台智者のみこれをいだけり」(同 五二六㌻)

と仰せのように、法華経本門寿量品の文底に秘沈される一念三千の法門こそ、真実の成仏の法であることを示されます。

 そして、諸宗が法華経に背いていた当時の状況下において、大聖人ただ一人が法華経の行者として立ち上がり、数々の大難を受けてこられたことを述べられます。

 後半では、法華経の経文に照らして厳密に、大聖人御自身が末法の法華経の行者であることを明かされます。

 その上から、

 「詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。(中略)我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」

  (同 五七二㌻)

と、諸天の加護があるか否かは問題ではなく、いかなる大難が起ころうとも法華経の行者としての大確信の上から、妙法流布に尽くしていくとの誓願を述べられます。

 そして、

 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(同 五七七㌻)

と仰せのように、末法においては大聖人ただお一人が、御内証において主師親の三徳を具えた御本仏である(結論)ことを宣言されています。故に本抄は、「人本尊開顕の書」と称されています。

 

 五重相対

 なお、『開目抄』で示された、勝劣浅深を判ずる教判の「五重相対」 についても述べておきます。

 これは内道において、釈尊に具わる主師親三徳を挙げ、また釈尊が説き示す教えの勝劣浅深を明らかにされたものです。

  本抄には、内外相対、権実相対・種脱相対、権迹相対、本迹相対と記され、一般的な五重相対にはある大小相対がないのは、大乗教と小乗教の判釈(大小相対)は 解決済みであること、そして権教(爾前経)における二乗(声聞・縁覚)の不成仏と法華経迹門における二乗の成仏を特に明らかにするためであると拝されます。ちなみに、浅深の次第からすると、内外相対・権実相対・権迹相対・本迹相対・種脱相対となります。

 一般的な五重相対について、概略を記します。

 内外相対とは、内道、 すなわち仏教と外道や儒教等、仏教以外の教えとの比較相対で、内道は三世に亘る仏道の因果の理を説くので勝れ、外道は六道にあっても適切な三世に亘る因果の理法を説かないので劣ることから内道が勝れます。

 大小相対とは、大乗教と小乗教の比較相対で、大乗教は自他共に救うので勝れ、小乗教は自己の解脱のみを求め、他の衆生を救うことができないので劣ることから大乗教が勝れます。

 権実相対とは、権教(爾前経)と実教(法華経)の比較相対で、実教は、前半迹門では諸法実相を軸として二乗(声聞・縁覚)の成仏を明かし、後半本門では仏の久遠における成道と常住の御化導を説くので勝れ、権教は二乗の成仏を説かず、仏も始成正覚(釈尊が今世において成仏したこと)の域を出ないので劣ることから実教が勝れます。

 本迹相対とは、実教である法華経の迹門と本門の比較相対で、本門は仏の久遠の成道を説き明かすので勝れ、迹門は始成正覚の垂迹(本仏が衆生救済のために、敢えて仮の仏の姿として現われること)の仏の法なので劣ることから法華経本門が勝れます。

 種脱相対とは、本門の中心寿量品における文底下種の仏法と文上脱益の仏法の比較相対で、文底本因下種の仏法は、成仏の根源である下種の本法と久遠元初凡夫即極の本仏による御化導を顕わすので勝れ、文上脱益の仏法は本果久遠五百塵点劫における色相荘厳の垂迹化他の仏の成道と本門脱益の法を顕わすまでなので劣ることから文底下種の仏法が勝れます。

 最後の種脱相対によって説き明かされた文底下種の妙法こそ、末法出現の御本仏大聖人によって建立される真実の妙法であり、末法の一切衆生の成仏の根源です。

 

 成仏の直道を歩む

 『開目抄』に、

 「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん」(同 五七四㌻)

と仰せです。

 平時には強盛な信心を貫いているように見えても、ひとたび身に迫る大難が発生すると、保身の上から、あるいは疑念を抱いて信心から離れる人がいます。

 しかし大聖人は、苦境に立たされた時、 直ちに諸天の加護を得られなかったとしても、常に御本尊に対しての絶対の信を忘れずに自行化他に徹すれば御仏智が用き、やがて必ず一切の問題を克服し、成仏の大功徳を得ることができると御教示されています。

 こうして極寒の佐渡で『開目抄』を著わされ下種仏法の主師親三徳を顕わされた大聖人は、この後も、およそ二年を佐渡で暮らされることとなります。

 

 

 

 

 

 


毒鼓の縁

2022年09月19日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和2年2月16日(第1023号)からの転載

 仏教用語の解説 24

    毒鼓の縁

 

 「毒鼓の縁」とは、涅槃経の『如来性品』に出てくる故事で、真実の大乗経典と逆縁の衆生との結縁を、毒を塗った太鼓と、その音を聞いて死んでしまった人に譬えたものです。 

 

 甘露と毒

 涅槃経『如来性品第四』 に、

 「『善男子、方等経(大乗経典)は、猶し甘露の如く、亦毒薬の如し』迦葉菩薩、復仏に白して白さく、『如来何によりてか方等経は譬えば甘露の如く、亦毒薬の如しと説きたもう』」

とあり、釈尊は大乗経典が甘露でもあり、毒でもあると述べたことに対し、迦葉がその理由を尋ねています。

 これに対し釈尊は、

 「或は甘露を服して命を傷つけて早夭するあり、或いは甘露を服して寿命長存を得るあり、或いは毒を服して生ずるあり、毒を服するによりて死するあり。無礙智の甘露は所謂大乗典なり。是の如き大乗典も亦雑毒薬と名づく(中略)方等も亦是の如し。智者は甘露と為し、愚の仏性を知らざるもの、之を服すれば則ち毒と成る」

と答えています。ここにあるように、たとえ甘露であっても、命を傷つけて死に至ったり、逆に、多少の毒であっても、場合によっては、それによって命を繋ぐこともあります。このように、甘露と毒は表裏一体で、それを服する人の状況によって、いろいろな作用があります。

 大乗経典もこれと同じく、仏性を自覚する智者にとっては甘露となり、そうでない愚者にとっては毒ともなるのです。 

 

 順縁の者には良薬、逆縁の者には毒鼓の縁

 同じく『如来性品第四』に、良医と子供の譬えが示されています。 これは法華経『寿量品』 良医病子の譬えと同じく、仏を良医、衆生を子供に譬えたもので、大乗経典は大良薬であり、それを受持する者は、 たとえ無間地獄に堕ちるほどの罪を犯した者であったとしても、もろもろの罪の毒を消して菩提の道に安住することができると説かれています。

 これは、大乗経典を受持する順縁の機根にとって、 大乗経典が大良薬になることを譬えたものです。

 そして、逆縁の衆生について、

 「復次に善男子、譬えば人ありて、雑毒薬を以って用いて太鼓に塗り、大衆の中において之を撃ちて声を発さしむるが如し、心に聞かんと欲する無しと雖も、之を聞けば皆死す」

と説かれ、一度大乗経典を聞いた者は、耳を貸さず、受持しなかったというだけで、 それが毒となり、死んでしまうと説かれます。

 しかし、この毒は、下種結縁となり、成仏の縁となる大乗経典の毒です。したがって、その続きの文に、

 「在々処々の諸行の衆中、声を聞く者あれば、あらゆる貪欲、瞋恚、愚癡、悉く皆滅尽す」

とあるように大乗経典は、逆縁の衆生にとって、一度は毒のように作用しますが、最終的には煩悩や悪業を滅する成仏の因縁となると示されています。

 

  不軽菩薩と毒鼓の縁

 不軽菩薩は、釈尊の前世の姿として法華経『常不軽菩薩品第二十』に説かれる菩薩です。この菩薩は、 威音王仏という仏の像法時代に出現した菩薩で、増上慢の男女僧俗(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷等の四衆)が充満する世において、

 「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経 五〇〇㌻)

との 言葉をもって、ひたすら一切衆生の仏性を礼拝する但行礼拝を行い、衆生に 法華経との下種結縁を結ばせたのです。 

 しかし、不軽菩薩から礼拝を受けた増上慢の四衆は皆、 侮りを受けたと思って瞋恚の心を起こし、不軽菩薩を悪口罵詈し、あるいは杖木瓦石をもって迫害しました。四衆は後に改悔し、不軽菩薩に対して信伏随従するのですが、不軽菩薩を迫害した罪は消えず、二百億劫もの間、仏に値うことも、法を聞くこともできず、さらに千劫もの間、無間地獄に堕ちて大苦悩を受けたのです。 

 この不軽菩薩の化導について天台大師は『法華文句』に、

 「本已に善有り、釈迦は小を以て之を将護したもう。本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」(法華文句記会本 下 四五二㌻)

と示されています。

 この文の中に、「本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」

とあるように、過去世に仏法との結縁がない、善根を積んでいない衆生に対しては、逆縁となり、かえって法華経誹謗の罪を作るようなことがあったとしても、下種結縁するのであると説かれています。

 すなわち、本未有善の衆生は、法華経による下種がなければ、未来永劫に成仏することができません。ですから、逆縁となり、毒となっても、あえて法華経を説き、下種しなければならないのです。

 

 末法は毒鼓を撃つ時

 大聖人は、『曽谷入道殿許御書』に、 

 「今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を打たしむるの時なり」 (御書 七七八㌻)

と、説かれています。

 末法は、本已有善の「権実の二機」がことごとく尽き、本未有善の機根のみの時代となることから、不軽菩薩がすべての衆生を逆縁によって教化したように、たとえ逆縁となり、毒鼓の縁となったとしても、妙法蓮華経を折伏下種し、結縁を結ぶべき時であると仰せられています。

 さらに『法華初心成仏抄』に、

 「当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同 一三一六㌻)

とあるように、大聖人の仏法を受持しないすべての衆生は、それだけで法華経誹謗の罪があり、相手が信心をしようがしまいが、とにもかくにも大聖人の仏法を説き聞かせ、下種結縁を結ばなければならないのです。

  末法の一切衆生が成仏を遂げることのできる唯一の大法は、 日蓮大聖人の仏法であり、それは日蓮正宗にのみ、正しく伝えられています。

  一切衆生を成仏させ、広宣流布を達成していくのは、一にかかって日蓮正宗の僧俗しかいないのです。

 もちろん私たちが折伏する際には、相手を納得させ今生において順縁に成仏を遂げることができるよう、慈悲をもって丁寧に話をしなければなりません。

 しかしたとえ折伏が成就しなくても、それが逆縁、毒鼓の縁となって未来の成仏の縁となるのですから、私たちは常日頃から積極的に折伏を心がけていかなければならないのです。




   次回は、「劫」についての予定です。

 

 

 

 

 


塚原問答

2022年09月17日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和2年3月1日(第1024号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 133

 日蓮大聖人の御生涯 ⑲

  塚 原 問 答



 塚原配所の生活

 文永八(一二七一)年十一月一日、現在の暦で換算すると、十二月四日の厳冬に、日蓮大聖人は塚原の配所に入られました。

 『富木入道殿御返事』には、

 「北国佐渡国に下著候ひて後、二月は寒風頻りに吹いて、霜雪更に降らざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず」(御書 四八七㌻)

と記されているように、佐渡に到着された時期はまさに膚を裂くような酷寒であったことが想像されます。

 また、寒さを防ぐための肝心の建物も天井の板間が合わず、四壁は荒れ果て崩れており、その隙間からひっきりなしに雪交じりの寒風が吹き込んでくるという粗末なものでした。

 そのような室内に敷皮を敷き、四六時中簑を着て寒さに堪え忍ばれておられました。

 大聖人はこのような苛酷な状況下にあっても、「眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向かひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ」

 (同 一〇六三㌻)

と、昼夜を分かたず読経と唱題、法華講談の日々を過ごされ、文永九年の年が開けました。

 

 塚原問答

 一方では、大聖人の佐渡流罪を耳にした念仏者や律宗の僧侶たちが多数寄り合い、大聖人を亡き者にしようと謀議していました。

その話し合いの結果、

 「六郎左衛門尉殿に申して、きらずんばはからうべし」(同 一〇六四㌻)

として、地頭・本間重連のいる守護所へ大挙して押しかけ、大聖人殺害を迫りました。

 これに対して、本間重連は、

 「上より殺しまうすまじき副状下りて、あなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかし」(同)

と述べて、法門をもって決着するように促しました。

 これによって、文永九年正月十六日、諸宗の僧らが続々と大聖人がいる塚原の三昧堂に集まり、「塚原問答」が始まります。

 この法論には、佐渡の国の僧だけではなく越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々から諸宗の僧侶たちや、百姓の入道たちも加わり、塚原の三昧堂の大庭から山野へかけて数百人規模の群衆となりました。そして地頭の本間重連一統が見守る中で、法論が開始されました。集まった諸宗の僧侶たちは口々に大聖人を罵り、騒ぎ、その音声はまるで地震か雷鳴のようでした。

 大聖人はしばらく騒がせておいてから、「各々方静まりなさい。法論のためにこそおいでになったのではないか。悪口等は無益である」と声高に仰せられました。

 その場にいた重連をはじめ多くの人々が「まことにその通りである」と言って、座を鎮め、しつこく悪口を言っていた念仏者たちの首根を捕まえて遠くへと追いやりました。

 問答の内容について、『種々御振舞御書』には、次のように記されています。

 「さて止観・真言・念仏の法門一々にかれが申す様をでっしあげて、承伏せさせては、ちゃうとはつめつめ、一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ。利剣をもてうりをきり、大風の草をなびかすが如し」(同)

問答の様子は右のように、鎌倉の諸大寺の学匠でさえ全く相手にならないのに、佐渡や奥州の田舎僧侶が大聖人に対して太刀打ちできるはずがありません。大聖人の詰問に答えることができず、一言二言で論断されてしまうほどの、無能な僧たちだったのです。

 彼らは、

 「仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ。(中略)或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが事なりけりと云ふものもあり。或は当座に袈裟・平念珠をすてゝ念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり」(同 一〇六五㌻)

とあるように、大聖人の正義を前に無知蒙昧な醜態をさらけ出したのです。大聖人は、敵意と憎悪に満ちた数百人を相手にして法論し、これを見事に圧倒なさったのです。



 自界叛逆難の予言

 問答が終わり、法論に破れた僧侶たちは最初の威勢も虚しく意気消沈して立ち去っていきました。

 そして見物の人たちもそれぞれ思い思いにその場を離れ、本間一族も立ち去ろうとした時に、大聖人は本間重連を呼び止められ、

 「いつ鎌倉へ上がられるのか」

とお尋ねになられました。

 そしてこれに対して重連が、

 「下人どもに農事をさせてからで、七月頃になりましょう」

と答えたところ、大聖人は、

 「ただ今戦が起ころうとしているのに、急いで鎌倉へ駆け上り手柄を立てて領地を賜らないのか。何といってもあなた方は相模の国では名の知れた武士である。それが田舎で田を作っていて戦の陣列に加わらなかったならば、恥となるであろう」

と、鎌倉において合戦が起こる旨の予言をされました。

 本間重連をはじめとする一門の者や、さらにその場に居合わせた念仏者や見学の者たちは、この大聖人の予言に対して、ただただ訝しく思うだけでした。



 再度の問答

 明くる十七日、前日の塚原における問答で惨敗した念仏者たちは、性懲りもなく彼らの首領であった印性房弁成を立てて、塚原の三昧堂に再び訪れました。

 そして弁成が質問しました。

 「法然上人は法華経を抛てよと書かれたのではない、一切衆生に念仏を唱えさせ、この功徳によって往生疑いなしと書き付けられたのである。これについては、比叡山や円城寺の僧で、今、佐渡に流されている人も『よい教えである』と褒めている。それなのに、あなただけは、どうして法然上人の義を破するのか」

こうした取るに足らない質問に対し、大聖人は、

 「鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ。無慚とも申す計りなし」

  (御書 五八一㌻)

と、愚かな弁成を一々に論破され、その時の記録を『法華浄土問答抄』として遺されました。そこには大聖人の花押と並べて印性房も花押を認め、念仏が邪義なることを弁成自ら認めたのです。

 このように佐渡における念仏僧の代表格である印性房弁成を完膚なきまで屈服させ、塚原における問答の一切がここに終結しました。



 本間重連への予言的中

 一月十六日の塚原問答の後、大聖人は立ち去る本間重連を呼び止め、自界叛逆の難が起きることを予言されましたが、これが現実のものとなったのです。それは北条家一門による内紛で、いわゆる「二月騒動」といい、別名「北条時輔の乱」です。

 この「二月騒動」とは、北条時頼の庶子・時輔が、異母弟の時宗が得宗・執権となって幕府の権力の座についたことに不満を持ち、謀反を企てたものです。これを事前に察知した時宗は、時輔の与党と見られた名越時章・教時兄弟を鎌倉で討ち、さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて時輔を討たせたのでした。

 この事件の報せは、ちょうど塚原問答での予言から一ヵ月後の、二月十八日に佐渡へ着いた早船によってもたらされました。

 「二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申す計りなし。六郎左衛門尉其の夜にはやふねをもて、一門相具してわたる。日蓮にたな心を合はせて、たすけさせ給へ」(同 一〇六五㌻)

とあるように、塚原問答の時には、大聖人の予言を不審がっていた本間重連をはじめ一門の者たちも、この報せを聞いてたいへん驚き、大聖人のもとへ馳せ参じ、今までの信仰を悔い改め「永く念仏申し候まじ」と誓いました。そしてその夜、本間重連は急遽、早船をもって一門を率いて、鎌倉へと渡っていきました。

佐渡の島民の中にも、大聖人の予言が的中したことにより、

 「此の御房は神通の人にてましますか、あらおそろしおそろし。今は念仏者をもやしなひ、持斎をも供養すまじ」(同 一〇六六㌻)

と畏敬の念を懐いて、念仏の信仰をやめると誓う者も現われました。

 今回は、塚原問答並びに自界叛逆難の予言的中を中心に日蓮大聖人の御化導を拝しました。こうした史実を学んだ私たちは、目睫に迫った大聖人御聖誕八百年の佳節に向かって、今こそ日蓮が弟子檀那として、大聖人の驥尾に附して二陣三陣と続いて勇猛果敢に折伏弘教に邁進してまいりましょう。








   次回は、『開目抄』の御述作について拝していきます。

 

 

 


種熟脱の三益

2022年09月16日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和2年1月16日(第1021号)からの転載

 仏教用語の解説 23

  種熟脱の三益

 

 種熟脱に三益とは

 種熟脱の三益とは、下種益・熟益・脱益のことで、仏による衆生教化の終始を作物の生育過程になぞらえたものです。

 まず下種益とは、仏が衆生の心田に成仏の種を下すことです。次に熟益とは、下された種を成熟するために衆生を教化して機根を調えること、そして脱益とは、熟した果実を収穫するように衆生を成仏・得脱させることをいいます。

 この種熟脱の三益は、法華経で初めて説き明かされる法門です。三益が説かれなければ、衆生の成仏の因縁が明確になりません。法華経以前の諸経では三益が説かれていないので、衆生の成仏も定まらないのです。

 天台大師の『法華玄義』には、

 「余教は当機益物にして如来施化の意を説かず。此の経は、仏の教を設けたまう元始を明す」(法華玄義釈籤会本 上 七六㌻)

とあり、爾前経が、衆生の機根に応じた一分の利益を説いただけなのに対し、法華経には化導の始終が説かれる故に、諸経に勝れると示されています。

 『観心本尊抄』に、

 「設ひ法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず、還って灰断に同じ、化の始終無しとは是なり」(御書 六五六㌻)

とあるように、深妙な真理が明かされる大乗の教えであっても、種熟脱の三益が説かれなければ小乗の悟りのように儚いもので、法華経の教えには遠く及ばないのです。

 

 大通結縁と迹門の三益

 法華経『化城喩品第七』には、大通智勝仏の第十六番目の王子と、釈尊在世の衆生との因縁が説かれています。

 過去三千塵点劫という昔に大通智勝仏という仏と、大通智勝仏が王であった時にもうけた十六人の王子がいました。大通智勝仏は王子の求めに応じて法華経を説き、十六人の王子は父に変わり、それぞれの因縁に従って父の法華経を重ねて説きました。これを十六王子の法華覆講と言います。

 十六番目の王子は、娑婆世界において法華経を説きましたが、その王子は釈尊の前世の姿で、その時に教化された衆生は、釈尊の法華経の会座に居合わせた衆生であると、釈尊と衆生との過去世からの因縁が明かされたのです。

 『観心本尊抄』に、

 「過去の結縁を尋ぬれば大通十六の時仏果の下種を下し(中略)二乗・凡夫等は前四味を縁として、漸々に法華に来至して種子を顕はし、開顕を遂ぐる」(御書 六五五㌻)

とあるように、『化城喩品』では大通智勝仏の十六王子による下種益と、それ以後、釈尊の爾前の説法に至るまでの熟益、そして法華経迹門の説法による脱益が説かれています。

 

 本門の三益

 法華経本門『寿量品第十六』では、釈尊の「始成正覚」(釈尊がインドの伽耶城菩提樹下において始めて悟りを開いたということ)を打ち破り、釈尊は実には久遠五百塵点劫という、三千塵点劫よりもはるか遠い昔において成仏していたということが明かされます。これを「開近顕遠」といいます。

 釈尊は久遠五百塵点劫以来、衆生を教化してきたのであり、釈尊在世の衆生も、実は久遠以来の弟子であることが明かされました。

 『観心本尊抄』には、

 「久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って等妙に登らしむ」(同 六五六㌻)

と説かれております。

 法華経本門における三益は、久遠五百塵点劫における釈尊の説法を下種益とし、大通智勝仏の十六王子による法華覆講、さらにインド出現の釈尊による爾前経・法華経迹門の説法を熟益とし、そして法華経本門の説法をもって脱益とするのです。

 また、大聖人はさらに一重深い、寿量品文底の三益を説かれています。

 大聖人は『法華取要抄』(御書 七三四㌻)に、本門に広開近顕遠と略開近顕遠の二つの心があると説かれています。略開近顕遠は「略近を開いて遠を顕わす」と読み、広開近顕遠は「広く近を開いて遠を顕わす」と読みます。

 総本山第二十六世日寛上人は『法華取要抄文段』に、

 「天台の広開近顕遠は但本果久成の遠本を顕わし、未だ久遠元初の名字の遠本を顕わさず。故に蓮祖の広開近顕遠に望むるに、実に是れ略開近顕遠なり」(御書文段 五一二㌻)

と、五百塵点劫の久遠は略開近顕遠で、未だ真実の久遠ではなく、大聖人が説き明かされた文底の久遠元初こそ広開近顕遠、真実の仏の本地であると説かれるのです。

 このことよりすれば、釈尊在世の衆生の真実の下種益は、久遠元初の本仏の説法であり、五百塵点劫・三千塵点劫・爾前経・法華経迹門を熟益として、本門寿量品の説法によって真の脱益を得たのです。

 以上の三益は、釈尊の化導を中心としたものです。

 また、釈尊滅後の正法時代・像法時代の衆生(釈尊滅後二千年までの衆生)も、過去世に下種益を受けた本已有善の衆生であり、釈尊が説き残された仏法によって、熟・脱の利益を受けることができました。しかし、釈尊の仏法によって利益を受けることのできる本已有善の衆生は、像法時代までですべて尽きるのです。

 

 末法の下種仏法

 今末法の衆生は、釈尊との結縁がなく、成仏の種子が下されていません。これを本未有善の衆生といいます。

 大聖人は『教行証御書』に、

 「今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無し。権実の二機悉く失せり。(中略)初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(御書 一一〇三㌻)

と説かれています。

 釈尊在世の衆生は、気の遠くなるような長い時間、熟益の教化を受けて、ようやく脱益を得ることができましたが、私たち末法の凡夫は、末法に御出現された久遠元初の御本仏日蓮大聖人の下種仏法を受持することにより下種即脱、即身成仏の大利益を得るのです。

 下種仏法とは、久遠元初の妙法蓮華経の下種であり、この妙法の下種なくして、いかなる衆生も成仏を遂げることはできません。

 大聖人は『法華初心成仏抄』に、

 「ともかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同 一三一六㌻)

と説かれています。

 私たち日蓮正宗の僧俗は、大聖人が末法に建立された久遠元初の妙法の法体たる、本門戒壇の大御本尊を受持・信行し、即身成仏の仏果を得ることのできる、順縁の衆生であります。この有り難さを自覚し、日々の信行・折伏弘通に精進していくことが大切なのです。




  次回は、「毒鼓の縁」についての予定です

 

 

 

 


佐渡での生活

2022年09月13日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和2年2月1日(第1022号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 132

 日蓮大聖人の御生涯 ⑱

  佐渡での生活

 

 北海を越えて

 文永八(一二七一)年十月二十一日、日蓮大聖人は配流地である佐渡に向かうため、

越後国寺泊(新潟県長岡市)へと到着されました。現在の暦では十二月一日に当たり、立冬から大雪になる頃です。

 江戸時代の松尾芭蕉の『おくのほそ道』に、

 「荒海や佐渡によこたふ天河」(日本古典文学大系四十六『芭蕉文集』九一㌻)

という一句がありますが、北海の孤島である佐渡島へ渡るためには、風と海の状態をよく見て船を出さねばなりません。

大聖人を連れた一行も、『寺泊御書』に、

 「順風定まらず、其の期を知らず」(御書 四八四㌻)

とあるように、しばらく寺泊に滞在することとなったのです。

 渡航の機会を待つことおよそ一週間。大聖人を乗せた船は無事に佐渡島の松ヶ崎に到着しました。

 松ヶ崎は越後から海を渡ってきた船の船着き場です。今もなおこの海岸は、大きな船が着岸できるように角の取れた丸い石がたくさん積み重なっていて、波打ち際に立つと、繰り返す波によってカタカタカタと石が音を立てるのを聞くことができます。

 その松ヶ崎から、雪の積もる小佐渡山脈の峠道を越えて国中平野へと進み、北方に白雪を冠した大佐渡山脈を眺めながら、十一月一日に塚原の配所へと到着されたのです。

 

 塚原の配所

 塚原の配所について、『種々御振舞御書』には次のように記されています。

 「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき簑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(同 一〇六二㌻)

 塚原の場所については、塚原根本寺説、畑野町説などの諸説がありましたが、本宗では目黒町説を採っています。

 この目黒町は、当時の佐渡守護所と推定される下畑より五百メートルの近場であり、「塚の越」の地名があること、阿仏房の子息とされる藤九郎盛綱ゆかりの遺跡が近くにあることなど、塚原配所にふさわしい条件が揃っているからです。現在、この地には「塚原跡」碑が建立され、日蓮大聖人の史跡として整備されています。

 

 さてこの塚原跡に立ちますと、当時は刈萱が生い茂っていたようですが、今は広く田畑が広がっているのが見えます。佐渡島を上空から見ると、島の北方と南方に東西に広がる大佐渡・小佐渡の両山脈があり、その山脈に挟まれた国中平野は風の通り道であることが判ります。もともと遮るものが何もない大海の孤島である佐渡島の、さらに風の通り道にある国中平野ですので、この塚原の地は当然のように風が強く、天候が変わりやすい土地です。冬場には晴れ間と吹雪とが交互に訪れ、その風の強さによって、雪はこんもりと積もるのではなく、地面にへばりつき、また木々の幹にこびりつくように積もるという土地でした。

 配所の建物は塚原三昧堂といいます。建物自体が一間四方の物置のような建物を想起する人が多いようですが、実際は仏を安置する祭壇が一間四方で、さらにその外側に一間ずつの回廊を備えた一間四面堂と呼ばれる様式であったと考えられます。しかし壁や床の板間は合わず、その隙間からひっきりなしに雪交じりの寒風が吹き込んでくるようなみすぼらしい草堂で、そのような室内に敷皮を敷き、四六時中簑を着て寒を防ぐ生活をされたのです。

 ここまで数人の弟子がお供をしてきましたが、こうした厳しい生活であることから、大聖人は日興上人お一人を残して、他の弟子たちを本国に帰らせました。

 『法蓮抄』には、この生活を述懐されて、

 「北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし。(中略)昼夜耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝暮に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり。現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ちぬ」(同 八二一㌻)

と記されていますが、このような厳しい寒さの中にあって、大聖人はひたすら読経と唱題、法義講談の日々を過ごされたのです。

 

 阿仏房夫妻の入信

 当時、佐渡に住む人々は因果の理も知らず、仏法の正邪も善悪も理解することがなく、荒い気性のままに大聖人に接していたようです。

 また『呵責謗法滅罪抄』に、

 「此の佐渡国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(同 七一七㌻)

とあるように、殊に念仏宗の勢力が強く、そのために念仏に厳しく破折する大聖人に対する風当たりは、なおのこと厳しいものがありました。

 阿仏房もその一人でした。念仏の強信者であった阿仏房は、大聖人のことを聞き、阿弥陀仏を冒涜する仏敵を自ら誅しようと、ひそかに塚原の三昧堂へとやってきたのです。

 しかしいざ堂内に入り、大聖人が合掌して唱題をするその尊容を見るや、たちまちに害意は消え失せました。阿仏房は居ずまいを正して大聖人に対面し、なぜ念仏を非難するのか、またなぜこのような流罪の身となったのかを質問しました。

 この問いに対し、大聖人は丁寧に念仏の教えが爾前方便の教えであって、真実の教えは法華経であることを説きました。それを聞いた阿仏房はたちまちに念仏を捨てて大聖人に帰依したのです。

 こうして信者となった阿仏房は、さっそく妻の千日尼に大聖人との対面の様子を話して入信させ、夫妻共に大聖人の信徒となったのです。

 さて流人には、その後見となる者より食料が支給されることになっていましたが、実際に大聖人に支給された食料は少なく、またお供の者の分までの食料はなく、草を摘んでは食とするような状況でした。

 さらに地頭や念仏者たちは、大聖人のもとへ誰も通うことができないように三昧堂の周辺を封鎖していましたが、そのような中、阿仏房は食料を納めた櫃を背負っては夜の暗がりに紛れて三昧堂へ行き、大聖人の生活を支えたのです。この老夫婦の外護の真心に、大聖人は、

 「只悲母の佐渡国に生れかわりて有るか」(同 一二五三㌻)

と仰せられ、深く感謝されています。

 その後、国府入道夫妻も入信し、阿仏房同様に人目を忍んで三昧堂に食料を届けるなど、外護の誠を尽くしました。

 しかし、このように少しずつ信徒が増えていくにつれ、大聖人に帰依をした人々に対する迫害もまた増えていったのです。一方で、佐渡在島の、さらに近隣諸国に住む念仏宗をはじめとする諸宗の者たちが、大聖人を亡き者にしようとして、ひそかに策謀を凝らしていたのでした。

 

 僧俗一致の大事

 さて『曽谷入道殿許御書』

 「涅槃経に云わはく『内には弟子有って甚深の義を解り、外には清淨の檀越有って仏法久住せん』云々(中略)今両人微力を励まし、予が願ひに力を副へ、仏の金言を試みよ」(同 七九〇㌻)

と仰せられています。これは曽谷入道と大田乗明の両名に対し、末法の法華経の行者たる大聖人の弘法に、両人も力を合わせて精進するように勧められた御言葉です。

 佐渡の苦しい生活を阿仏房夫妻・国府入道夫妻が支えられたように、私たちは信徒の立場として御宗門を外から護ると共に、また御住職の御指導のもとに一致団結して、広宣流布に向かって精進してまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 


序 天台教判 (一)五時

2022年09月12日 | 日蓮正宗要義(一)

②日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

 第一項 教

 

     序  天台教判

     (一)五 時 

 五時とは釈尊一代五十余年の教法を、各経々の記事や内容により、五つの説時に区分し配列したものである。

 第一の華厳時は釈尊成道の時、摩訶陀国の大阿蘭若処及び普光明殿、更には忉利天、夜摩天、兜率天、他化自在天宮等の説処においる三七日の説法。

 第二の阿含時は波羅奈国鹿野苑における十二年間の説法。

 第三方等時は各所における十六年間(A説)、八年間(B説)時不定(C説)の説法。

 第四般若時は摩訶陀国王舎城の霊鷲山、白鷺池、他化自在天宮等の十四年間(A説)、二十二年間(B説)三十年間(C説)の説法。

 第五法華涅槃時のうち、法華経は霊鷲山における八年の説法、涅槃経は拘尸那掲羅国抜跋提河の畔り、沙羅林における一日一夜の説法である。

 天台の教判では一代を右の五時に分け、この意義と理由を明らかにしている。

 その根拠の一つとしては、華厳経の四照の譬えを、天台が義をもって次のごとく三照と判じたのである。すなわち、日出でてまず一に高山を照らし、二に幽谷を照らし、三に平地を照らす。更に三の平地を開いて、食時(午前八時)、禺中(午前十時)、正中(正午)の三として、ここに五時が立てられる。

 次に涅槃経の五味の譬えは、同経聖行品に

 「牛より乳を出だし、乳より酪を出だし、酪より生穌を出だし、生穌より熟穌を出だし、熟穌より醍醐を出だす。醍醐は最上なり」(正蔵一二 七七五)

 とあり、仏を牛に譬え、この仏の教法は初め乳より転々として醍醐に至るごとく、最後において真の仏性開顕に至る譬えとしている。この譬えも五時に配当することができる。

以上を図示すると次のようになる。 

 

 

(華厳四照)      (天台三照)(五味)(五時)

 

一切諸大山王を照らすー高山を照らすー乳味ー華厳時

 

一切の大山を照らすー|

          |幽谷を照らすー酪味ー阿含時

金剛宝山を照らすーー|

 

 

                                           |食時ー生穌味ー方等時

大地・平地を照らすー|禺中ー熟穌味ー般若時 

          |正中ー醍醐味ー法華時



更に五時の正しい根拠となるのは法華経信解品の説相で、四大声聞が釈尊の化導を回顧しつつ、自らその意義を述べた長者窮子の譬えである。

 

 その経証について天台大師は、傍追を擬宜・華厳時とし、二誘を誘引・阿含時とし、体信を弾訶・方等時とし、領知を淘汰・槃若時とし、付業を開会・法華時に当てて釈している。

 擬宜とは「よろしきところをおしはかる」の意である。釈尊は三十歳の時、伽耶城菩提樹下に悟りを開かれた後、衆生を導くために思惟した結果、まず最初の二十一日間に華厳の会座を設けて大乗の法を説き、衆生の仏道に対する能力・根力の大小を推し測られたのである。声聞・縁覚という二乗の機類は、聾のごとく唖のごとく、まったく教法を理解することができなかったという。このように華厳経は化法の四教(後述)のうちでは、別円の二の教理を含む、大乗の高尚な義が説かれている。

 次の誘引とは、相手の程度に応じた教えを説くことによって、仏の慈悲の懐へ「誘い、手引きする」ことをいう。二乗の人々はその心は怯弱・下劣であり、直ちに大乗の教えを聞いても理解する力を欠き、利益がない。そのための釈尊は、その根性に合致する小乗教、つまり諸阿含経を説かれたのである。阿含経は最も低級な三蔵経の偏空の教理によっている。

 次の弾呵とは「つまはじきし、しかりつける」意である。小乗教を学んで、小なる境界に執われている声聞に、大乗の真実性・優秀性を比較して示し、その執心を弾劾し呵責して、小を恥じ大を慕う心を起こさせることである。方等部の多数の経典がこれに当たり、蔵・通・別・円の四つの教理がすべて含説されている。

 次の淘汰とは「より分け、精選する」意である。前の方等時で二乗の人々はようやく小を捨て大を求める志を持ったので、この般若経に来て、教法の真意に本来、大小の区別はなく、すべてが大乗教であることを領知させる。小乗卑劣の見解をより分け、篩い落として、大乗の一法に精選し統一するのである。これを般若の法開会ともいう。教理としては、三蔵・小乗教を除く通・別・円の三教が含まれている。

 最後の開会とは「開き、会する」義である。すなわち声聞・縁覚・菩薩の三乗の教法観を開き、仏の境界を会得せしめ、それに合致せしめるのである。これに相待・絶待の二つの開会があるが、その中の相待開会とは、従来四十余年の間の華厳・阿含・方等・般若等の経々の教法・修行・人位・真理は、すべて最高一仏乗の真実に至らしめるため、仮の法を用いたものであり、真実の教・行・人・理は法華経に初めて説き示すものとして、爾前経の不真実に対して、法華の真実を顕わすことをいう。すなわち諸経と相待し、比較して法華経の妙義を顕わすのである。

 次に絶待開会とは、法華経以前の各経々は、本来法華経から出たものであり、別体ではない。故に法華経が説かれたうえは、各々独立した存在ではなく、すべて法華経に帰一して、その体内の方便教であると決する。これを絶待開会という。法華経において、初めてそれぞれの経々を説かれた意味が明らかとなるのに対し、他の経々

はまったくこの意義を有していない。そこで諸経がことごとく法華経の中に会入される義を表わすことを開会というのである。故に法華経の教理は、方便の蔵・通・別の三教が混入せず、ただ円教の一大法理のみである。

 涅槃経は後番の五味ともいい、般若経の法開会(大小乗の差異区別を亡ぼし、大乗の一理とする)、法華経の人開会(諸乗すなわち人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の五乗もことごとく一仏乗に帰すとして、永く成仏できないとされた二乗の人々の成仏を示し、一念三千を説く)の説法に成仏できなかった人々に、更に五味の法を説き、広く仏性が遍く一切のものにいきわたる所以(常住仏性)を示し、一仏乗に導くのである。法華経が一切の衆生を成仏せしめることを秋の大収穫に譬えるのに対し、涅槃経は悉有仏性を説くゆえに、後の落穂拾いに譬え、捃拾教と称する。

 

 

 

 

 

 


供養

2022年09月11日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和元年12月16日(第1019号)からの転載

 仏教用語の解説 22

  供 養

 

 供養とは、尊信の念を持ち、供物を捧げ奉仕する供給資養の義で、仏法僧の三宝に対し、真心の念をもって志を奉ることを言います。

 供養については、経論には二種供養・四事供養・十種供養など、様々な供養が説かれています。

 二種供養とは、香華・飲食などを供養する利供養と、教説の如く修行して衆生を利益する法供養のことです。

 四事供養とは、飲食・衣服・臥具・湯薬を供養することです。 

 十種供養とは法華経『法師品』に説かれる十種の供養法です(後述)。



 供養と布施の違い

 世間では、寺社に志を納めることを「お布施」と言います。
    「布施」とは、もとは出家者が食物などの施しを受けた後、それに報いるため法を説くことを言いました。
 しかし、「布施」という言葉には、僧侶に限らず、人に施しを与える意味も含まれており、

本来、仏に対して奉る供物を布施とは言いません。したがって、本宗では「布施」の語は使用しません。



 法華経の十種供養

 法華経『法師品第十』には、
 「若し復人有って、妙法華経の、乃至一偈を受持、読、誦、解説、書写し、此の経巻に於て、敬い視ること仏の如くにして、種種に華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、繒蓋、幢幡、衣服、伎楽を供養し、乃至合掌恭敬せん」(法華経 三一九㌻)
とあり、法華経を受持し、法華経に対して華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・繒蓋・幢幡・衣服・伎楽の十を供える十種供養が説かれています。
 また同品には、法華経を修行し、法華経が安置される場所に塔を建てて供養すべきであるとし、さらに、
 「此の中には、已に如来の全身有す。此の塔をば応に、一切の華香、瓔珞、繒蓋幢幡、伎楽歌頌を以て、供養恭敬し、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て、礼拝し供養せんに、当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近づきぬ」(同 三二七㌻)
と示されています。
 つまり、法華経には如来の命、全身が具わっているのであるから、法華経を安置する塔を建てて供養し、その塔に対して、華香を供え荘厳するなどの十種供養を行えば、成仏に近づくと説かれています。
 さらに、仏の滅後に法華経を説く者に対しては、「仏のように敬い、供養すべきである(趣意)」(法華経 三二四㌻)とも示されています。
 このように釈尊は、法華経こそが仏の命であり、釈尊の滅後は法華経及び、法華経を弘通し、人々を利益する者に対して、仏のように敬い供養すべきであると説かれているのです。



 日蓮大聖人への供養

 大聖人の御書には、衣食や金銭の御供養に対しての御礼の言葉が多く拝せられます。後に大石寺を寄進された南条時光殿をはじめ多くの信徒が、身の危険を顧みず、また経済的に逼迫した中にあっても、末法の御本仏日蓮大聖人に対して真心の御供養を続け、外護の任を全うしていったのです。
 『新池御書』には、
 「此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝れたり」(御書 一四五六㌻)

と、日蓮大聖人に対する御供養の功徳は、釈尊に対して供養する功徳よりも、はるかに勝れると説かれています。

その反対に信心が弱く、供養もせずに慢心・悪見を起こしてしまうことは、非常に恐ろしいことなのです。



 身の供養

 「身の供養」とは、仏法のために自らの身を捧げてお給仕し、供養することを意味します。
 法華経『提婆達多品第十二』(法華経三五六㌻)には、釈尊が過去世に須頭檀王という王であった時、妙法蓮華経を求めるため、王位を捨てて身を捧げ、千年もの間、阿私仙人のために、菓を採り、水を汲み、薪を拾うなどの給仕供養をし、仏となったことが説かれています。
 仏典には、この他にも様々な身の供養が説かれています。
 自宅の御本尊様へのお給仕をはじめ、寺院参詣での諸々のお手伝いなど、仏法のために身をもってお仕えすることが身の供養となります。



 父母・先祖に対する供養

 先祖供養について、「盂蘭盆」の起源と言われる有名な故事があります。
 釈尊の十大弟子の一人である目連尊者は神通第一と言われるほど、神通力に勝れた弟子でした。目連尊者の母は、慳貪の罪によって餓鬼道に堕ちて塗炭の苦しみに喘いでいましたが、目連尊者の神通力では救うことができませんでした。
 そこで、目連尊者は釈尊の教えを受け、七月十五日に聖僧に百味の飲食を供養したところ、その功徳が母に回向され、母は餓鬼道一劫の苦しみを逃れ、後に目連尊者が法華経の寿量品を信受した時に共に成仏したとされます。

 大聖人も『盂蘭盆御書』(御書 一三七四㌻)にこの故事を引用され、先祖供養の大事を教示されています。

先祖供養に当たっては、御本尊及び仏祖三宝に対して供物を捧げ、さらに塔婆を建ててその功徳を先祖に回向するのです。



 謗法への供養は悪業の因

 大聖人は『米穀御書』に、
 「同じ米穀なれども謗法の者を養うは仏種をたつ命をついで弥々強盛の敵人となる。又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か。又法華の行者をやしなうは、慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり」(御書 一二四二㌻)
と教示されています。日蓮正宗以外の寺・社・教会などへの施しは、法華経の敵である謗法の者を増長させ、養うことになり、結果として災いを招くこととなります。したがって、施した人も仏種を断じて地獄に堕ちるほどの悪業を積むことになるのです。
 一方、一切衆生を救済される日蓮大聖人に供養すれば、結果としてすべての人が利益されるのであり、大功徳を積むことになるのです。



 真心の御供養を

 総本山第二十六世日寛上人は、
 「たとえ山のごとく財をつみ候いて御供養候とも若し信心なくばせんなき事なるべし。たとえ一滴一塵なりとも信心誠あらは大果報を得べし」(『松任次兵衛殿御報』・妙喜寺蔵・諸記録5-312)
と、御供養は信心の真心が重要であり、財物の多寡は問題ではないと御指南されています。
 私たちは、真心をもって日々の勤行・唱題・お給仕等に励み、さらに応分の御供養をさせていただくことが大切なのです。

 

 

 

   次回は、「種熟脱の三益」についての予定です。

 

 

 

 


本間邸滞留・佐渡配流

2022年09月10日 | 日蓮大聖人の御生涯(二)

「大白法」令和元年12月1日(第1018号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 131

 日蓮大聖人の御生涯 ⑰

  本間邸滞留・佐渡配流

 

 前回は、竜口法難において日蓮大聖人の御本仏としての御振る舞いを拝すると共に、発迹顕本の意義を学びました。

 今回は、その後の門下の動静と佐渡配流について学んでいきましょう。

 

 依智本間邸

 明星天の奇瑞に先立つ九月十三日の戌の刻(午後九時頃)、幕府の使者が鎌倉から本間邸に立て文(書状)を届けていました。

 警固の武士たちは、大聖人の斬首を命令する再度の使者ではないかと思いましたが、そうではありませんでした。

 湯治のため熱海にいた北条宣時への報告前に届けられた書状は、ひとまず大聖人の身の安全を確保する内容であり、その追伸には、

 「此の人(大聖人)はとがなき人なり。今しばらくありてゆるさせ給ふべし。あやまちしては後悔あるべし」(御書 一〇六一㌻)

と記されていました。

 翌十四日の卯の刻(午前七時頃)、十郎入道という者が、昨晩の鎌倉での出来事を知らせるために、本間邸を訪れました。

 その報告によると、立て文が本間邸に届けられた同じ時刻に、執権・北条時宗の館で、

 「大いなるさわぎ」(同 一〇六二㌻)

が起こったと言うのです。

 そこで、陰陽師を呼び寄せて占わせたところ、「日蓮御房を咎めたために国が大きく乱れる兆しが現れたのである、急いで赦さなければ世の中がどうなってしまうか判らない」と答えました。

 これを聞いて「赦免にしたほうがよいでしょう」との意見が出されました。

 また、大聖人が九月十日の評定所での召喚の折に、

 「遠流死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其の時後悔あるべし」(同 一〇五七㌻)

と、平左衛門尉に申し付けていたことから、「百日の内に戦が起こると言うのだから、それを待って判断すればよいのではないか」と言う者もいました。

 

 弟子檀那の動謡

 こうして、評定が再三行われたものの処遇は決定せず、

 「えちの六郎左衛門尉殿の代官右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四・五日はあるべげに候」(御書 四七七㌻)

と示されるように、四・五日の滞在であったはずの本間邸に、しばらく留められることになりました。

 その間、鎌倉では七・八回の放火があり、殺人事件も頻繁に起こりました。

 それらの事件について、幕府には、

 「日蓮が弟子共の火をつくるなり」(同 一〇六二㌻)

 「日蓮が弟子の所為なり」(同 一〇七四㌻)

との訴えがもたらされました。

 幕府はこれを聞き入れ、

 「日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからず」(同 一〇六二㌻)

と、要注意人物として大聖人の弟子檀那二百六十余人を選び出しましたが、皆遠流にすべきである、既に牢に入れた弟子は首を刎ねるべきであるなどの噂が立つほどでした。 

 これらの事件や讒言は、すべて持斎(八斎戒を持つ僧侶、ここでは極楽寺良観の弟子を指す)や念仏者の仕業であり、大聖人もろとも、弟子檀那を一掃せんとの思惑が働いていたのです。

 こうして門下にも迫害と苦難が及び、所領を失った者、主家を追われて扶持(給与)を奪われる者が出てきました。

 たいへん多くの弟子檀那がこれに耐えき切れず、『新尼御前御返事』に、

 「かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(御書 七六五㌻)

と御示しの如く、信仰を捨て大聖人のもとを去ってしまったのです。

 そこには『上野殿御返事』に、

 「大魔のつきたる者どもは、一人をけうくんしをとしつれば、それをひっかけにして多くの人をせめをとすなり。(中略)事のをこりし時、たよりをえておほくの人をおとせしなり」(同 一一二三㌻)

と示されるように、退転するだけではなく大聖人を批判する者、竜口法難以前に大聖人から離れ、この法難に乗じてさらに多くの人を退転させようと画策した者がいました。

 大聖人は御本仏としての御立場から、このような者たちに対しても、

『佐渡御書』で、

 「日蓮がかくなれば疑ひををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし」(同 五八三㌻)

と、大聖人を迫害する念仏者よりも重い罪となり、長く地獄で苦しむ様を嘆かれています。

 

 門下への激励

 門下全体に及ぶ迫害の中、『破良観等御書』に、

 「弟子等数十人をろうに申し入るゝ」(同 一〇七四㌻)

とあるように、実際に捕らえられて牢に入れられる者も数十人に上がりました。

 この時、日朗をはじめとする五人の弟子檀那も、幕府によって捕らえられ、土籠に幽閉されていましす。

 既に季節は初冬に差しかかっており、大聖人は、

 「今夜のさむきに付けても、ろうのうちのありさま、思ひやられていたはしくこそ候へ」(同 四八三㌻)

と五人を思い、本間邸滞在中に二通の書状を送り励まされています。

 また、下総(主として千葉県北部)の信徒を心配され、その中心的役割を担っていた太田左衛門尉・曽谷教信・金原法橋に宛てて、十月五日に『転重軽受法門』を送られました。

 同じく浄顕房・義浄房をはじめとする清澄寺の大衆には、同月初旬に『佐渡御勘気抄』を送られています。

 このように大聖人は、弟子檀那に対する為政者・念仏者等からの迫害に想いを巡らせ、信心を貫き通すようできる限り激励され、それに応えて、少数ながらも強盛に妙法の信仰を護り抜く弟子檀那の姿がありました。

 一方、大聖人御自身は、竜口の頸の座と、もはや避けようのない遠流の難について、 まさに法華経の身読であるとしてその法悦を綴られています。

 

 寺泊の津

 結局ひと月近く依智本間邸に拘留されていた大聖人でしたが、種々の讒言の影響もあり、当初言い渡されていた佐渡配流との処遇が決定されました。

  出発の十月十日、大聖人にお供をしたのは日興上人をはじめわずかの弟子方と富木常忍から遣わされた入道で、それに警固の武士数名が付き添いました。

 大聖人は佐渡への行程を『寺泊御書』に、 

 「今月十月十日、相州愛京郡依智郷を起って、武蔵国久目河の宿に付き、十二日を経て越後国寺泊の津に付きぬ。此より大海を亘って佐渡国に至らんと欲す」(同 四八四㌻

と記されています。『法蓮抄』に、

 「鎌倉を出でしより日々に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり。野を行き山を行くにも、そばひらの草木の風に髄ってそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ」(同 八二一㌻)

と仰せられているように、大聖人一行を念仏の敵と見なす人々が非常に多く、道中、心の休まる時間はありませんでした。

 それでも鎌倉街道から北国街道を経て、日本海側の直江津、そして船着き場のある寺泊(新潟県長岡市) へと到着したのです。

 ここで大聖人は、 

 「此の入道、佐渡国へ御供為すべきの由之を承り申す。然るべけれども用途と云ひ、かたがた煩ひ有るの故に之を還す。御志始めて之を申すに及ばず。人々に是くの如くに申させ給へ」(同 四八七㌻) 

と、富木常忍から遣わされた入道を下総に帰されました。

 何カ月、はたまた何年過ごすことになるのかも判らない、佐渡での生活費用の問題もさることながら、連れていくことで富木常忍へ迷惑が及ぶことを大聖人が考慮されたものと拝されます。

 寺泊から佐渡へは、小舟で冬の日本海を渡らねばならず、大聖人一行は順風を待って数日間、寺泊に滞在されました。




 

 

 次回は、佐渡の配所の様子や入島後の出来事などについて学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 


「五綱」・「教」

2022年09月09日 | 日蓮正宗要義(一)

①日蓮正宗要義 改訂版からの転載

 第一章 日蓮大聖人の教義

 第一節 五綱

五綱とは宗祖日蓮大聖人が教機時国抄等に示された教判であり、教・機・時・国・教法流布の前後の五つをいう。教機時国抄に

 「此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか」(新編二七一)

と仰せのように、正しい仏法を弘め民衆を救うためには、その宗旨の決定に当たり、右の五つの方面から厳密にその意義を究め尽くさなければならないのである。

 故にこの五義は宗教を批判選択し、宗旨を決定する原理であり、大綱であるから、五綱教判というのである。またこの五義の詳細については、開目抄・観心本尊抄・撰時抄・報恩抄、その他重要御書の各処に、それぞれ明確に述べられている。

 第一項 教

 教とは天台大師が法華玄義一に

「聖人下に被らしむるの言」(玄上−二九)

 と示している。この聖人とは釈尊であり、その言とは一代仏教を指しているが、もし広義に論ずれば、古今を通じてあらゆる民族の歴史に現われた宗教・哲学・道徳・生活法の一切を含むのであり、これを説いた多くの先覚者・指導者が聖人に当たるのである。

 人類は有史以来から、その時々の環境に順応しつつ、またこれを超克して発展してきた。

 開目抄の

 「三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁へて孝をいたす」(新編五二三)

 の文のごとく、各民族あるいは部族の歴史的段階においては、倫理・道徳などが初めにはなかったのを、聖人が出現してこれを教え、次第に万物の霊長としての人間生活が形成されてきたのである。また、したがって固有の世界観・人生観が発達して宗教・哲学を持つようになり、論理観・道徳観の発展とともに善悪の観念が定まり、これによって社会の秩序と統制等が保たれたのである。

 一口に教えといっても、その含むところは実に膨大であり、世界人類文化史上の精神面のすべてを含んでいる。その様相は広くは世界宗教史、あるいは哲学史・倫理史を開かなければならないが、要するに教えの教えたる所以は、まず適切な真理観と価値観を教え、道理を基本とする善悪を教えて、正善の道へ人を趣向せしめるところにある。それが終局的には大きな幸福につながる道だからである。もし真理感が不備であれば、教法の内容・視野ともに偏狭であり、価値観に欠けるときは実益を伴わない意味がある。しかるに何が善で何が悪であるかは、従来の人類文化の足跡に徴するに、その時代により社会によって判断基準が様々である。

 過去に善であったものが現在は悪であり、その逆となることもある。また個と全、団体的基準と社会的基準、社会的基準と国家的基準、国家的基準と人類的基準等で善悪が異なることも見受けられるところである。例えば国家間の戦争では、敵を殺すことが善として賞されるが、人類愛の見地からは人を殺すことが悪とされるようなものである。更に世間法としての善悪と出世間法すなわち宗教としての善悪がある。これらの評価は、その教えとともにまことに様々であって、もし一概に並べて、その言を問うとき、甲論乙駁まことに帰趨を知らないものがあろう。教法といい、善悪というも、その時代に従った基準、すなわちその時代に現れている真理の段階に基準を立てなければならない。

 一般的には、善とは理に順うことをいい、悪とは理に違うことをいう。しからば何が不完全で、何が完全な理であるかという真理の高低、広狭、適否が判定されなければならない。そこにもろもろの真理や、善悪を説く一切の教法自体を判釈する必要があるのである。

 このすべての意義を含みつつ、仏教が最も生命の本質を正しく把握し、説き示す教えであるゆえに、最終的には、広大な仏教の内容を整理決判することが、真の教えを顕わすうえに必要となる。これが印度から中国にかけて興った仏教各家の教相判釈、いわゆる教判である。

 印度では仏滅後七百年の頃より、竜樹・無著・天親等の論師が現れて、大乗教を高揚して、以前の小乗との差異を明確に説いた。中国においては、小乗・大乗の諸経典をそれぞれ比較し、所依とする経典を中心として、他の経典の位置を決定する体系化の作業が、諸家によって立てられた。

 但しこれらは、その基準とし、所依とする経典の意義・内容によって正誤様々であった。中国の南北朝時代には南三北七といい、揚子江の北に七家、南に三家の代表的仏教学派があり、それぞれの教判を立て、自らの教義を鼓吹した。このうち南地の三家は、常住教として涅槃経を第一とすることは共通している。北地の七家は、あるいは涅槃経を立てる者、華厳経を第一とする者、あるいは満字教・一音教等様々であるが、帰するところは華厳と涅槃の二経が、判釈の中央となっていることが目立つのである。

 この跡を受けて、中国の陳・髄の時代に天台宗の開祖智顗(天台大師)が出現し、法華経を中心とする一大仏教体系を打ち立て、仏教の意義を全体的に明らかにしたのである。

 そこで以下、教綱を述べるに当たり、初めに天台の教判について説明し、次に大聖人の独自の教判を拝述する。けだし天台の教判は、一には釈尊一代の仏教の始末を一括して、その意義を明らかにするものであり、二には大聖人の仏法にあっても、その外郭的な基礎として依用されているからである。

 要するにこの教綱の意義は、大聖人が開目抄に

「教の浅深をしらざれば理の浅深弁ふものなし」(新編五六一)

 と仰せられるごとく、真理や善悪の浅深は、一にかかって教えの判定の正邪如何に存する。このうえから教法に関する一切を爼上にして、その高低・正誤・方便と真実等を判ずるのが第一の教綱である。

 


立正安国論

2022年09月08日 | 平成新編日蓮大聖人御書(一)
『平成新編 日蓮大聖人御書 大石寺』からの転載
『立正安国論』 文応元年七月一六日 三九歳
 (御書 二三四㌻から二五〇㌻)   
2022.9.8 地球規模日本列島異変(人災異変)
 (御書 二三五)3行目から13行目まで。
 
 主人の曰く、其の文繁多にして其の証弘博なり。
 金光明経に云わく「其の国土に於て此の経ありと雖も未だ嘗て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せんことを楽はず、亦供養し尊重し讃歎せず。四部の衆、持経の人を見るも、亦復尊重し乃至供養すること能はず。遂に我等及び余の眷属、無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ず、甘露の味はひに背き正法の流れを失ひて、威光及以勢力有ること無からしむ。悪趣を増長し、人天を損減して、生死の河に堕ちて涅槃の路に乖かん。世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯くの如き事を見て、其の国土を捨てゝ擁護(おうご)の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん。既に捨離し已(お)はりなば其の国当に種々の災禍ありて国位を喪失すべし。一切の人衆皆善心無く、唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有って、互ひに相讒諂(ざんてん)して枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん。疫病流行し、彗星数出で、両の日並び現じ、薄触恒無く、黒白の二虹不詳の相を表はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉に遭ひて苗実成らず、多く他方の怨賊有りて国内を侵掠せば、人民諸の苦悩を受けて、土地として所楽の処有ること無けん」已上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


煩悩即菩提

2022年09月08日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和元年11月16日(第1017号)から転載

仏教用語の解説 ㉑

 煩悩即菩提

 

 煩悩即菩提とは、私たち凡夫の生命に具わる、迷いの心である煩悩と、仏の悟りである菩提が、実は相反するものではなく、一体であることを意味します。

 苦しみ、生死を繰り返す迷いの境界が、そのまま涅槃(悟り)であるという、生死即涅槃と同義に用いられます。

  仏教では、煩悩を断じて悟りを得ると説きます。 その修行の方法も諸経に様々に説かれており、八万四千と言われる膨大な仏教の法門はすべて、煩悩を断じるためのものとも言われます。 

 

 仏性を覆う煩悩

 馬鳴菩薩の『大乗起信論』には、次のようにあります。 

 「真如は本より一なれども無量無辺の無明あり(中略)一切の煩悩が無明に依って起こされ、前後に無量に差別す」

真如とは普遍的な真理、本質的な真実という意味です。

 つまり、本来の衆生の生命には煩悩や菩提といった差別はなく、すべて一体のものであるが、そこには迷いのもととなる無量無辺の無明があり、無明から一切の煩悩が起こり、衆生を悩ませ苦しめているのであると示されています。

 またこの書には、一切衆生に等しく仏性という宝が具わっていても、磨かなければ仏性を現すことはない。仏性を覆い隠す無量の煩悩の垢を落とすべく、一切の善行を修すべきである、ともあります。

 このように仏教では、私たち衆生が迷い苦しむもとは煩悩であり、修行によって煩悩を断じていくことで仏性を現わし、悟りに至ることができると説かれるのです。

 

 煩悩の三惑

 天台大師は衆生の煩悩を見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑に分類しました。

 見思惑とは、見惑と思惑の併称です。

 見惑は、物事の道理に迷う煩悩で、正しい見解に至ることができず、我見にとらわれる迷いのことです。

 思惑は事象に迷う煩悩で、人間が生まれながらに持っている、貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚癡(愚か)などはこれに含まれます。

 塵沙惑は、化導障の惑とも言われ、菩薩が衆生を教化するために払わなければならない、塵や砂の数ほどある煩悩のことです。菩薩が衆生を教化するためには、物心両面のあらゆる事象に通じ、すぐれた智慧が必要になりますが、 それを得るためには無数の塵沙惑を滅しなければならないのです。

 無明惑は、見思惑・塵沙惑を断じてもなお、悟りの妨げとして残る、凡夫には到底うかがうことのできない微妙微細な煩悩のことです。

 末法の衆生が自力でこれらの煩悩を払い、悟りを開くことは到底できません。

 

 爾前の歴劫修行

 『大智度論』には、菩薩が発心してから仏となるためには「三大阿僧祇劫」という時間がかかると示されています。

 一大阿僧祇とは、『倶舎論』によれば、十の五十九乗(数字で、一の後に〇が五十九個続く数)であるとされ、三大阿僧祇はその三倍です。さらに、劫は、計算もできないような長い時間を表します。

  三大阿僧祇劫とは、一劫の三大阿僧祇倍のことで、凡夫の私たちが想像も及ばないような長い年数、時間のことです。

 爾前経には、菩薩の修行の位に五十二位があるとされ 、三大阿僧祇劫という長い時間をかけて、一つひとつの煩悩を滅し、菩薩の位を一つひとつ登り、数え切れないほど生死を繰り返して、ようやく成仏できると説くのです。

 

 天台の理の一念三千

 法華経の『方便品』には諸法実相が説かれ、天台大師はその法理をもとに、即空・即仮・即中の円融三諦、一念三千を説かれました 。

 すなわち、私たち衆生を含む諸法は、空仮中の円融三諦の姿そのものであり、したがって自分の一念の命を深く観察すれば、地獄から仏までのすべての命、三千の諸法が具わっていると教示されています。その法義を一念三千と言い、天台大師は一念三千を悟るための方法として、『摩訶止観』に様々な観念・観法を説いたのです。

 天台大師は、

 「円頓とは、初めより実相を縁す。(中略)初後を言うと雖も二無く別無し。是れを円頓止観と名づく」(摩訶止観弘決会本 上 五五㌻)

と、『摩訶止観』の修行によれば、初心の行者でも悟りを開き、成仏することができると示しました。

 

 日蓮大聖人の事の一念三千・煩悩即菩提

 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(御書 六六二㌻)

と、末法の衆生は、天台大師が説いた一念三千の観念・観法を行わなくても、妙法蓮華経の受持、すなわち、御本尊を受持して、御題目を唱えていけば、御本尊の功徳によって自然に一念三千を得て、成仏を遂げることができると御教示されました。

 また、『当体義抄』には、

 「妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」(御書 六九五㌻)

と、妙法蓮華経の題目には十界・三千の諸法が悉く具わっており、妙法蓮華経を修行すれば、成仏の因と、成仏の果を同時に得て、即身成仏すると示し、また、

 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一 心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(同 六九四㌻)

と、衆生が法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱えれば、迷いの境界である煩悩・業・ 苦の三道を、仏の悟りの境界である法身・般若・解脱の三徳と開き、即身成仏して当体蓮華の仏になると仰せられました。

 一切衆生が信心修行によって誰でも即身成仏を遂げることができる、大聖人の示された、この一念三千を天台の理の一念三千に対して、事の一念三千と言います。

 また、煩悩の身を、時を変えずにそのまま仏の境界に開くことができる、妙法の功徳こそが、真の煩悩即菩提なのです。

 大聖人は『妙法尼御前御返事』に、

 「須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至過去遠々刧の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。(中略)煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(同 一四八三㌻)

と御教示されています。日蓮大聖人の仏法を受持すれば、どんな宿業も転じて必ず即身成仏を遂げることができるという。御本尊に具わる煩悩即菩提の功徳を信じ、怠りなく、仏道修行することが大切です。






   次回は、「供養」についての予定です。