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新たなる日々!

法華経 2

2022年04月29日 | 法華経(一)

「大白法」平成25年7月1日(第864号)より転載

  日蓮正宗の基本を学ぼう 69

   法華経について ②  

 前回から、法華経について、 様々な面から、学ぶことになりました。

 今回は、前回に引き続き、釈尊の説かれた八万四千という膨大な教えの中でも、法華経こそが最第一の教えであることを学んでいきたいと思います。

 八教について

 釈尊は、三十二歳で成道した後、四十二年間、御自身が悟られた難信難解の法である妙法蓮華経に導くために、衆生の機根に応じて様々な教えを説かれました。

 この一代説教つまり、五時説教の内容を、天台大師は、化法の四教として分類されました。薬で譬えるならば、薬の内容成分を四つの種類に分類するようなものです。また、釈尊が用いられた説法の型式・方法を、化儀の四教として分類されました。化儀の四教とは、薬を処方する方法のようなものです。

 これらの化法の四教の化儀の四教を合わせて、八教と言いますが、これに前回説明した、五時を加えると五時八教になります。これらは天台大師が釈尊一代の説教をわかりやすく、教相判釈したものです。

 化法の四教

 まず、化法の四教は、蔵教、通教、別教、円教の四つの教えの内容に分類されています。

 蔵教

 蔵教とは三蔵教の略称で、三蔵とは経(経典)・律(戒律)・論(解説)のことです。 蔵教は声聞・縁覚の二乗を正機とし、菩薩を傍機として説かれた教えです。教えの内容は、三界六道に生死流転する苦しみの原因は、煩悩(見思惑)と、そこから生じる業(行い) によるもので、この煩悩を断ずるためには、空理を悟るべきことを説いています。蔵教の空理観は、あらゆるものを概念的に分析し、一切の諸法は、因縁が尽きれば本来「空」になると観る「析空観」を説いています。この空理観に基づき、声聞には四諦、縁覚には十二因縁、菩薩には六度を修行し、煩悩 (見思惑)をすべて断尽すれば、三界六道の苦界に生を受けることがなくなることを教えられ、これを蔵教の悟り(涅槃)としています。

 このような蔵教の空理観は、すべての実体をただ空の一辺のみと見るところから「但空の理」と言われます。

 通教

 次に通教とは、ここで説かれる空理が前の蔵教にも、後の別教・円教にも通じる故に通教と言います。 

 蔵教の析空観に対し、因縁によって生じた諸法の当体はもともと存在せず、直ちに空と観る「体空観」(当体即空)を説いています。利根の菩薩たちは、「当体即空」の法門を聞いて、かえってその反面である「仮有」の肯定や、「非有非空」という中道の妙理「不但空」の理をも悟り、次の別教や円教の修行に進むことができました。

 別教

 そして別教とは、先の蔵通二教や後の円教とも異なり、 菩薩のために別して説かれた教えで、空仮中の三諦の法理を明かしています。しかし、別教で説かれる空仮中の三諦は、互いに融合することなく、それぞれが隔たっていることから「隔歴の三諦」と言われます。ここで説かれる中道の理は、空仮の二辺を離れた但なる中道であるため、これを「但中の理」と言います。

 また、修行方法としては、空仮中の三諦を別々に次第して、観法するために「次第の三観」とも呼ばれます。

 円教

 最後の円教とは、偏りのない円満な教えを説いているので円教と言い、空仮中の三諦の一々に三諦を具え、諸法は常に互具互融の当体であると明かす「円融の三諦」を説く教えのことです。 

 真如中道の理が空仮中の三諦円融した中に明かされるところから、別教の「但中」に対して、「不但中」と言います。

 円教の理は、華厳時、方等時、般若時の教えの中にも含まれていますが、それらは蔵通別の方便を雑えた教えてあり、法華経だけが純粋に円教のみを説いた教えです。華厳時・方等時・般若時に説かれた円教を「爾前の円」と呼ぶのに対し、法華経の円教は純粋な円融円満の教義が明かされているので、「純円一実」や「純円独妙」とも言います。

 化儀の四教

 次に、化儀の四教とは、頓教、漸教、秘密教、不定教の四つに分類されます。

 頓教

 頓教の頓とは「ただちに」の意で、 衆生の機根にかかわらず、直ちに仏の高広な理を説くこと。華厳時では、この説法形式が用いられました。 

 漸教

 漸教の漸とは「漸く」と読み、「物事が徐々に進むこと」の意で、仏が衆生の機根に応じて、低い教えから高い教えへと漸々に説いて、衆生の機根を調え、誘引することを言います。この説法形式は、阿含時・方等時・般若時に用いられました。

 秘密教

 秘密教とは、 正確には秘密不定教と言います。仏の説法を聴聞する衆生が互いにその存在を知らず(秘密)、同じ教えを聴きながらもそれぞれの機根に応じて聴き方が異なり (同聴異聞)、そして衆生の得益が一定ではない(不定)化導法です。この説法の方法は華厳経の一部や阿含時・方等時・般若時が 当たります。

 不定教

 不定教とは、正確には顕露不定教と言います。仏の説法を聴聞する衆生が、互いにその存在を知り(顕露) ながらも、 秘密教と同じく、同聴異聞であったため、衆生の得益が一定ではない(不定)化導法です。この説法の方法は秘密教と同じく、華厳経の一部や阿含時・方等時・般若時が当たります。

 「超  八醍醐」の法華経

 以上のように仏が様々な手段・ 方法をもって説法されたのは、衆生の機根を徐々に調えて、真実最高の教えである法華経に導き、すべての衆生を一仏乗に入らしめるためでした。

 この法華経は、仏の悟られた法そのままの純粋な円教であり、先に説明した化法の四教や化儀の四教のような様々な機根の衆生を導くために用られた方便の教え・化導法を超過していることから「超八醍醐」と言います。

 この醍醐とは、牛乳から精製して最後に醍醐味として完成する色香味のすべてに勝れた妙味の食物を言い、涅槃経には一切の病を消滅する妙薬と説かれています。つまり仏を牛に譬え、仏の説法を牛から出る乳に譬えます。その牛乳を精製すると酪味になり、それがさらに生酥味、熟酥味となり、最後に醍醐味の妙味・妙薬になるように、仏の教法も華厳から阿含、方等、般若を経て最後の法華涅槃の経が極説の醍醐味となるのです。 

 したがって、法華経『安楽行品第十四』に、

「この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」(法華経三九九㌻)

と説かれるように、法華経こそ諸経の中で最も優れ、最上位にある教えなのです。

 御法主日如上人猊下は、

 「法華経が諸経中王、諸経のなかで王様のお経であるということはどこにあるのかというと、これは皆さん方も御存じの『三大秘法抄』のなかに、

 『法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし』 

  (御書一五九五㌻)

と、甚深の御教示を仰せあそばされているのであります。すなわち、法華経本門寿量品の文底に三大秘法が秘沈せられているが故に、法華経が尊いということになるのであります」(大白法 八二〇号)

と仰せられています。私たちは、幸いにもこの法華経本門『寿量品』に文底秘沈された大法である三大秘法を受持しております。この諸経中王の妙法を受持している誇りと感謝をもって、御命題達成に向けて、いよいよ折伏に精進してまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

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因果

2022年04月27日 | 教学基礎講座(一)1-3 10-4

大白法 平成27年1月16日(第901号)

【教学基礎講座】4

  「因 果」 

ー不完全な外道の因果説ー

 

  「因果」とは原因と結果のことであり、原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因があるというのが、因果の理です。

  そして古今東西のあらゆる宗教・哲学・思想・科学にいたるまですべてが、この因果ということを基盤に成り立っていると言っても過言ではありません。しかしながら、仏教以外においては、その因果が現世という限られた時間の中のものであったり、限られた物質に当てられて論じられるもので、完全なものではありませんでした。

 〈一、外道の因果〉

 釈尊が出現された頃のインドは、思想上の大きな変動時に当たっており、因果に関する考察にもいろいろと種々雑多な説が立てられていました。

 経典ではそれを六師外道(六人の代表的な仏教以外の思想家)とか、三十大外道(三十人の異説をなす者)とか、六十二見(六十二種類の誤った見解)とか種々に整理し伝えており、大聖人の『開目抄』には「九十五種」と示されています。 

 しかし、これらの思想は、概ね

 次の三つに分類できます。

①宿作因説(宿命論)

②自在天創造因説(神意論)

③無因無縁説(偶然論)

 

 ①の宿作因説は、判りやすく言えば宿命論・運命論というもので、自分自身を含む一切のものは過去世からの因果が元になって出来ており、現在も未来もすべて宿命によって決まるとされます。これは当時のカースト(四姓)制度の状況下にあって、「ある人はバラモン(婆羅門・司祭者)として生まれ、ある人はクシャトリア(王侯)、ヴァイシャ(商 工民)として生まれる、なぜ自分だけがシュードラ(奴隷)なのか」という、どうにもできない悩みに対して、説得力のある答えとして出されたものなのでしょう。 

 そしてこの宿命論が形を変えて、そこに神の意志というものを見出すと、②の神意論・自在天創造因説になるわけです。つまり一切万物すべてが絶対的な最高神・自在天によって創造されるというもので、自分自身がどのような身分に生まれようが、それはすべて神の御意、神のなせるわざというものであります。

 逆にこれらとは全く意を異にするものが、③の無因無縁説(偶然論) です。 この考えは因果律を認めず、現在についても未来についても人間の在り方に原因結果の法則はないというものです。

 しかしこれらの考えは、三つ共に人間の主体的な因行を否定するものです。つまり、①はすべて宿命として諦めさせ、実生活上の向上・精進の心を失くさせます。    

 また、②についても、すべて神の御意で決まるのであれば、いかに人間が努力しても意味のないことになります。悪行をなしても善行を積んでもすべて神によるとするならば、これは既に因果の理法を否定していることにります。 当然、③の偶然論は全く人間の努力の効果を認めないもので、現在の無信仰者の考えに似ています。 

 よって、これらの考えは、因果応報の道理に基づく釈尊からは、危険な思想・邪教として排斥されることになったのです。

 釈尊から否定されたこれら六師外道等の教えは、それぞれバラモン教を踏襲するもの、またそれに対抗するものでありましたが、すべてバラモン教の聖典リグ・ヴェーダにその影響を受けていました。 

 リグ・ヴェーダには、カピラ(迦毘羅)・ウルーカ(漚楼僧佉)・リシャバ(勒娑婆)の三仙の説く因果があります。

 大聖人様は、これを『開目抄』に、

 「迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆、此の三人をば三仙となづく。(中略)其の所説の法門の極理は、或は因中有果、

  或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云」(御書525ページ)

と紹介され、次下に六師外道と共に因果の理法を説き尽くさないものとして、破折を加えられています。

〈二、外道の修行〉

 さて、 これらの六師外道の実践修行は何であったかと言うと 、一日に三度ガンジス河に入ったり、あるいは髪を抜いたり、巌に身を投げたり、あるいは断食し、また、身を火にあぶり五体を焼いて真理を求めようとする苦行でした。

 それでは、なぜ苦行をしなければならないかと言うと、リグ・ヴェーダにその理由を求めることができます。バラモンの教えでは、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の存在の根本原理であるアートマ(我)の一体を説いており、ここから人間の心は本来「善」であると定義づけられているのです。 しかし、元来「善」であるはずの心が、肉体と結合するとその影響を受けて心が動揺し、悪を考えるようになるから禅定を修して、心を肉体の影響から離して心の本性(悟り)を得ようとするのです。また一方、人間の体は地水火風空と精神(意)によって構成され、肉体の影響が強い時に迷いが生じ、肉体の影響が弱い時にはそれだけ精神が浄化されているから、肉体を苦しめることによって心が肉体の束縛から離れることができると考えたのです。 

 しかしこれらの考えは、現実世界に「梵」とか(我)とか、 予め何らかの絶対のものを設定し、これを中心に考えるところからくるものです。

 仏教では、これら、因果を無視した絶対なるものを認めません。すべてのものは、因縁によって支え合い、寄り合い存在するのであり、このことを釈尊は菩提樹下で悟ったのです。

 仏教では、縁起・因縁を重んじますが、一口に因果と言ってもその中には六因・ 四縁・五果というものがあり、その意味も多岐多様で、 外道のように一様ではありません。

 ここではそれら一つ一つの説明は略しますが、例えば六因の中に異熟因というものがあります。 これは三世に亘る生命の因縁因果の法則の一つと言えます。

 大聖人様は、『開目抄』に心地感観経を引いて、

  「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、 其の現在の因を見よ」

  (御書571ページ)

と示されています。つまり、過去世に行ったことが因となり現在に善悪の果報となって顕われ、 また今世に行ったことが因となり未来の果を導くのです。

 さらにまた、因の中にそのまま果も含まれるという「因果具時」も倶有因 として、仏教では説かれています。

 この因果の教理は、さらに法華経本門に至って、久遠の本仏の本因本果の法門に続くこととなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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法華経 1

2022年04月25日 | 法華経(一)

 「大白法」平成25年7月1日 (第862号)より転載

  日蓮正宗の基本を学ぼう 68

   法華経について ①

 

 私たちは、朝夕の勤行の際に法華経を読誦しています。そこで今回からは、この法華経について学んでいきましょう。

 五時と法華経

 釈尊は、菩提樹の下で成道してより、沙羅林での涅槃(入滅)に至るまで、五十年の間に様々な教えを説いてこられました。

 大部の経典を、その説かれた順に五つの時期に分類すると次のようになります。

①華厳時(二十一日間にわたり華厳経を説かれた)

②阿含時(十二年間にわたり、四阿含経の小乗経を説かれた)

③方等時( 十六年間にわたり、阿弥陀経や無量寿経、大日経、維摩経などの大乗経を説かれた)

④般若時(十四年間にわたり、摩訶般若などの般若経を説かれた)

⑤法華・涅槃時(八年間にわたり、法華経(開経:無量義経、結経:観普賢菩薩行法経))を説き、涅槃の前の一日一夜に涅槃経を説かれた。

法華経の開経である無量義経には、

「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき、種種に法を説くこと、方便力を以てす。

四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二十三ページ)

と説かれています。すなわち、華厳時から般若時までの四十二年間の教えは、 衆生の性格や機根が人ごとに様々であり、その異なった機根にあわせて、種々の法を説かれたのです。このことを髄他意と言います。そして、釈迦自らが、四十二年間は未だに真実の教えは説いていないとおっしゃっているのです。

 その後、真実の教えとして、法華経が説かれました。法華経は、人々にあわせて法を説いたのではなく、釈尊自らの意に髄い、仏の真実の悟りの境界を説かれたので、髄自意の教えと言います。

 次の涅槃経は、これらの教化に漏れた人々のために説かれた教えで、法華経による一切衆生の成仏を秋の収穫に譬えるならば、涅槃経はその後の落ち穂拾いに譬えられます。しかし、涅槃経には法華経以前の内容も重ねて説かれているので、法華経より劣ったものになるのです。

 法華経の法師品には、

 「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」(法華経 三二五ページ)

と説かれています。これは、釈尊が説かれた経典の中でも、法華経が最も勝れていることを述べられたものです。

 「己に説き」とは法華経より前に説かれた四十二年間の経典のことで、 「今説き」とは法華経の開経である無量義経を指し、「当に説かん」とは法華経より後に説かれる涅槃経のことです。これらの経典の中で、この法華経こそが最も勝れた経典なのです。

 妙法蓮華経という経典

 私たちの読誦してる法華経は、正確には妙法蓮華経と言い、中国で鳩摩羅什が翻訳した経典です。

 法華経の題号を梵語の音では、「Saddharma Pundarika-Sutra」と言い、これを漢字で表現しますと「薩達磨分(芬)陀利伽蘇多攬となります。

この梵語を、鳩摩羅什が「妙法蓮華経」と漢訳しましたが、それは、

・「Sad 薩」は、正しい不思議な、優れた等の意味から「妙」

・「dharma 達磨」は、教え、真理の意味から「法」

・「Pundarika分(芬)陀利伽」は、因果倶時、清浄な白蓮華の意味から「蓮華}

・「Sutra 蘇多攬」は、仏の説いた教典の意味から「経」

と訳したものです。

 中国の天台大師は、 『法華玄義』の中で名・体・宗・用・教の五つの面(五重玄)から解釈して、深遠な意義を述べています。

 しかし、これらは釈尊の仏法における意義であり、大聖人の仏法においては、さらに深い意義が拝されます。

 また法華経の漢訳は、

①法華三昧経・正無畏訳・魏(二五六年)

②薩曇分陀利経・竺法護訳・西晋(二五六年)

③正法華経・竺法護訳・西晋(二八六年)

④方等法華経・支道根訳・東晋(三三五年)

⑤妙法蓮華経・鳩摩羅什訳・後秦(四〇六年)

⑥添品法華経・闍那崛多笈多訳・髄(六〇一年)

の六本があったと言われています。しかし、現在残されているのは、妙法蓮華経、正法華経、添品法華経の三本のみであり、このことから六訳三存と言われています。このうち、私たちが読誦しているのは、もっとも勝れた訳とされる、鳩磨羅什の妙法蓮華経です。

 鳩磨羅什の訳経

 鳩摩羅什は亀茲国の生まれで、七歳で出家しました。九歳の時に月氏国に行って槃頭達多に小乗経を学び、十二歳の時に須利耶蘇磨に大乗経を学んで亀茲国に帰りました。後に後涼を経て、後秦の姚興によって長安に移送され、多くの経典を漢訳しました。

 鳩摩羅什の経典の翻訳の様子を、『摩訶般若波羅蜜経』を例に見ましょう。

 鳩摩羅什は梵本を持って、漢語を述べ、梵語と漢語の音の違いを解説して、文意を説明しました。後秦の王姚興は、自ら古い漢訳の本を見て、その長所と欠点を検討して、経典の本意について意見を求めました。そして、五百人以上の僧侶と共に、経典の意味内容を丹念に検討して、文章の構造を吟味した上で訳語を決定しました。一度、全体の漢訳が完成すると、校正を行って、関連資料をいくども検討して改訂を重ねたのです。 このように、鳩摩羅什の漢訳は、慎重にいくども検討したものであり、特に妙法蓮華経の漢訳は、内容・文体共に優れ、釈尊の真意を正しく伝える経典として、広く用いられました。

 鳩摩羅什は、生前に、「自分が死んだ時には必ず火葬にしなさい。もし翻訳した経典に間違いがなければ、この不浄の身は焼けても舌は焼けないでしょう。もし舌が焼けたならば、私の翻訳した経典を捨てなさい」と言い遺しました。鳩摩羅什は、弘始十五(四一三)年四月に七十歳で亡くなり、遺言の通りに火葬されましたが、その舌は残り、火中に生じた青蓮華の上で五色の光を放ったと伝えられています。

 法華経の信仰

 法華経は鳩摩羅什によって漢訳されてより、多くの信仰を集めました。そして、以降の 中国では、経典の勝劣を判釈する教相判釈の研究が盛んになりました。

 やがて薬王菩薩の後身と言われる天台大師が現れて、法華経が最も勝れた経典であることを明らかにし、さらに法華経の文々句々を講じた『法華文句』 法華経の題号を解釈した『法華玄義』一念三千を明かした『摩訶止観』を講説しました。

 日本でも、『法華経義疏』が著わされるなど、古くより研鑽され、信仰されてきました。平安時代には、伝教大師が現れて『法華秀句』などを著わして法華経が他の経典より勝れていることを明らかにされたのです。

 さて、釈尊が入滅されてより、正法時代、像法時代と移り変わり、いよいよ末法へと入りました。末法に御出現された日蓮大聖人様は、法華経『寿量品』の文底に秘し沈められた大法、南無妙法蓮華経を、末法の衆生のために御本尊として御図顕されました。中でも、現在奉安堂に御安置申し上げるところの、本門戒壇の 大御本尊様は、仏法の根源、一切衆生成仏の根本の御本尊様です。私たちの家庭に御安置する御本尊様は、この大御本尊様を、時の御法主上人猊下がその御内証の血脈をもって、書写し、下付された御本尊様なのです。

 私たちは朝夕の勤行と唱題行を根本に、本年度折伏誓願の達成をめざして、折伏に励んでいくことが大切です。

 

 

 

 

 

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日記

2022年04月24日 | 日記
 

今日からblog始めました

2022-01-21 | 【日記】

ー今日からblogスタートですー

今日は朝3:51に起きまして

ドラマ「如懿伝」最終回を

04:00から05:00を観ました。

 

考えさせられたことは

何処でどのような立場で生きようが

一人の人間としての心の生き方が有ることを

皇太后。皇帝。皇后。の三者三様の心の真の生き方を

そして、悪心の妃の末路の最期を

 

時代が変わっても

人間の真の心は変わらない

すばらしく輝く心の生き方があることを

 

これからの私の人生も確かに生きていきますと。

そのようなことを考えさせる味わいの有るドラマでした。

朝起きで得た私が感じた確かな時間でした。

お得感です。

 

 

 

拙稿

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自行と化他

2022年04月24日 | 教学ノート(一)

大白法 平成27年2月16日(第903号)

 「教学ノート」 10ページ  

  「自行と化他行」

 自行化他の自行とは、自身が成仏するための修行の意味で、御本尊様を信じて勤行・唱題に励むことを言います。化他とは化他行とも言い、他者を教化する修行の意味で、 他人の謗法を戒め、日蓮大聖人様の仏法を教えることを言います。この自行化他とは、 「上に菩提を求め、下に衆生を化する(上に向かっては自らの成仏を求めて修行に精進し、下に向かっては他人のために衆生を教化救済する)」という菩薩の修行を表わしています。

  大聖人様は、自行化他について『三大秘法抄』に、 

 「末法に入って今日蓮が唱えるところの題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書一五九四ページ)

と仰せられています。

 大聖人様が末法の今日に唱え始められた南無妙法蓮華経の題目は、前代に唱えられていた自行のみの題目とは異なり、自らも唱え、他に向かっても弘通されるという自行と化他にわたる題目なのです。ですから、日蓮正宗の信仰は、御本尊様を通じて、日々の勤行・唱題を基本とし、さらに他を折伏教化して大聖人様の正しい仏法を広める、自行化他の修行に邁進することが大切なのです。

 総本山第二十六世日寛上人は、

  「自行若し満つれば必ず化他有り。 化他は即ち是れ慈悲なり」(御書文段 二一九ページ)

と仰せられています。

 これは、例えて言えば、コップの水を注いでいくとやがて水がいっぱいになりあふれます。そのコップの水がいっぱいになるまでが自行であり、 あふれて水が外に漏れ出すのが化他であるということです。 

 御法主日如上人猊下は、 

  「唱題も折伏も一体であり、唱題行が、ただ唱題行だけに終わるのではなくして、その功徳と歓喜をもっ折伏を行ずることが最も大事なのであります」(大白法781号)

と、自行と化他行は一体不離の修行であると御指南あそばされています。

  私たちは、大聖人様の仏法を信じる弟子檀那として、まず自分自身が朝夕の勤行と日々の唱題をしっかりと実践し、強い確信と相手を思う慈悲の心を持って、多くの人たちを折伏していくことが大切です。 

 

 

🖊 ポイント

 大聖人様は、『諸法実相抄』に、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし 」(御書六六六ページ)

と仰せられています。私たちは、自行化他の信心に邁進することによって、大聖人様の御遺命である広宣流布を成就することができるのです。

 

 

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時はすぎゆく

2022年04月24日 | 日記

今日は 日曜日 ゆっくり 時が過ぎてゆく

 

時間は止まらない 一瞬一瞬 時間を 刻んでゆく

 

すべての世界の 人々は 自分の 置かれた 

 

状況・状態において 一つ一つの 事柄について

 

何らかの 事柄を 考えながら 発言して 行動してる

 

心の数は 世界人口の数だけ ある

 

 

 

これからの時代 これから世界は どうなるだろうか

 

贅沢三昧の 為政者が よい社会を 作れるとは思えない

 

 

 

そろそろ 人間社会も まともな 社会を 築かなければ

 

真に 榮える 人間社会を 世界を 築かなければ

 

 

 

世界一人ひとりの人間に 「心」が 

 

常に 考える 能力があるのだから・・・・・

 

 

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折伏

2022年04月24日 | 教学ノート(一)

大白法 平成26年12月16日(第899号)

「教学ノート」 9ページ 

 「折伏」

 仏様は、人々を救済する二つの手段を説かれました。まず1つ目は、相手の能力に合わせて教えを説き、次第に誤りを正して真実の教えに導く、摂受という方法です。2つ目は、相手の誤りを許さずに直ちに間違いを指摘して真実の教えに導く、折伏という方法です。

 日蓮大聖人様は、

 「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす」 (御書 五七五㌻)

と、現在の時代は間違った教えを信じている人が多いため、摂受ではなく直ちに誤りを正す折伏を用いるべきであると仰せです。具体的には、大聖人様の正法を知らない人や正しい信仰をしていない人に、不幸や苦悩の原因が誤った思想や宗教にあることを教え、大聖人様の仏法こそが真実の幸福を得る道であると教えることを言います。

 折伏について『法師品』には、

 「法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として、 如来の亊を行ずるなり」(法華経 三二一㌻)

と説かれています。

 折伏は仏様のお手伝いとして布教をする尊い行為であり、仏様と同じ振る舞いをするわけですから、その功徳も広大なのです。

 また、御法主日如上人猊下は、

 「まず折伏をすると、折伏された人が幸せになります。同時に、折伏した人も幸せになれるのです。過去遠々刧の様々な罪障、これが折伏によってみんな消えていくのです」(大白法834号)

と仰せのように、

 折伏をした人も折伏された相手も折伏の功徳により、過去世からの様々な苦悩が解決され、幸せになることができるのです。さらに、「折伏と育成は同じ化他行」(大白法834号)

と仰せです。

 育成とは、折伏された人が勤行・唱題できるように、また、自ら進んで寺院に参詣できるようにしていくことを言います。特に、折伏された人が今度は折伏できるように育成することが大切です。このように、私たちは毎日の勤行と唱題を根本に折伏をすることによって、多くの人々を苦悩から救うことができるのです。そしてさらに、折伏と共に育成をしていくことで、ひいては世の中を清淨にして真の世界平和を築いていくことができるのです。

 


 ✒ ポイント

 大聖人様は折伏の実践について、

 「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(御書一一〇九ページ)

と、一人でも多くの人々に対して、大聖人様の正しい教えを、臆することなく勇気をもって教えていくことが大切であると説かれています。

 

 

 

 

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唱題

2022年04月24日 | 教学ノート(一)

大白法 平成26年10月16日(第895号)

 「教学ノート」  8ページ  

  「唱題」

 

 唱題とは、御本尊様を信じて南無妙法蓮華経の御題目を唱えることを言います。

 日蓮大聖人様は、『日女御前御返事』に、

    「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。」(御書一三八八㌻)

と仰せられ、一切の修行の中でも、唱題が最も大切であるとされています。

 この唱題の功徳について、大聖人様は、『聖愚問答抄』に、

「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき」

  (御書 四〇六㌻)

と仰せられ、過去世から積んできた罪を消滅させると共に、様々な悩みや苦しみを乗り越えて、必ず幸せになることができると説かれています。

 それは、大聖人様が『法華初心成仏抄』に、

「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(御書一三二一㌻)

と仰せられるように、唱題によって自身に具わる仏性(仏になる種)が開いて成仏することができるからです。

 前御法主日顕上人猊下は、

   「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮635号)

と仰せられ、さらに、

    「かぎりなく 境涯ひらく 題目を 常にとなえつ 広布目指さん」(同637号」

と御歌を詠まれています。 

 このように、唱題の功徳は甚大であり、 勤行の際の唱題をはじめ、勤行以外でもより多くの唱題をすることが大切なのです。

 さらに、総本山第26世日寛上人は、『観心本尊抄文段』に、

「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」(御書文段二一九㌻)

と仰せられ、自行である勤行・唱題の功徳が満ちるところに、必ず化他行である折伏の実践が伴うことを示されています。

 よって、 私たちは、御法主日如上人猊下が、

「まず唱題をしっかりする。しかし、唱題が唱題だけに終わるのではなくして、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出るということが、極めて大切であります」(大日蓮 807号)

と仰せられるように、日々、勤行・唱題を一生懸命励むと共に、その大きな功徳と歓喜をもって、広宣流布の大願をめざして折伏に邁進していくことが大切なのです。




✒ポイント

総本山大26世日寛上人は、

「妙法蓮華経とはどういうことか知らなくても唱えるだけで功徳があるのだから、篤き信心をもって唱える功徳は極めて大きなものである。それはあたかも磁石が鉄を吸い、琥珀が塵を吸うように、この妙法の功徳による成仏は疑いない。唱題が最も肝要である(趣意)」(歴代法主全書)

と仰せられています。

 

 

 

 

 

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勤行

2022年04月24日 | 教学ノート(一)
大白法 平成26年9月16日(第893号)

「教学ノート」  7ページ 

 「勤行」

 

 勤行とは「勤めて善法を行うこと」を意味し、信心をしていく上で最も基本となる大切な修行です。

 日蓮大聖人様は『御義口伝』に、

 「朝々仏と共に起き、夕々仏と共に臥す」(御書 一七四九㌻)

と、 仏様と共に1日の生活を送ることの大事を教えています。朝の勤行は御本尊様の功徳によって平穏で充実した1日を過ごせるように祈り、夕の勤行は御本尊様の御加護によって1日を無事に過ごさせていただいたことへの感謝の気持ちをもって行うことが大切です。

 さて日蓮正宗では、御本尊様に向かって法華経の『方便品第二』と『如来寿量品第十六』を読誦し、「南無妙法蓮華経」の御題目を唱えることをもって勤行とします。

 この勤行には、正行と助行という二つの意義があります。正行とは 御題目を唱えることで、 助行とは『方便品』と『寿量品』を読誦することです。

 『方便品』と『寿量品』だけを読誦するのは、大聖人様が『月水御書』に、

「殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り」(御書 三〇三㌻) 

と仰せのように、他の26品と比較して勝れた意義と功徳が具わっているからです。

 また総本山第26世日寛上人様は、

 「助行とは、方便寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す」(六巻抄一六一㌻)

と仰せであり、助行は正行の功徳を助け顕わすために行うという意義があります。例えば『方便品』と『寿量品』の読誦は、洗濯をするときに洗剤を加えて水の助けとしたり、調味料が食べ物の味を引き立たせるようなものです。よって毎日行う朝夕の勤行では、正行と助行を併せて実践するのです。

 御法主日如上人猊下は、

   「朝夕の勤行をしっかりと行うことは、信心の原点とも言うべき最も大事なことであります(中略)朝夕の勤行をしっかりと行っていけば、そこから様々な問題が正しい形で必ず解決をしていくのであります。それが、御本尊様の偉大なる功徳であります」(大白法843号)

と仰せられています。

 私たちは、信心修行における最も基本である勤行を毎日欠かさずに行うことで、日々、御本尊様の功徳に浴することができます。そして私たちはその功徳により、ふだんの生活の中で起こる様々な問題が正しく解決され、充実した幸せな生活を送ることができるのです。

 

 

 

✒ポイントと復習

御法主日如上人猊下御指南

「我々の日常の生活のなかで、信心が特別な形で存在しているのではなく、ごく自然な形で生活のなかに溶け込んでいる状態が大事なのです。(中略)朝夕の勤行をはじめ、家を出る時や帰ってきた時に、まず御本尊様に手を合わせて『行ってまいります』とか『ただいま帰りました』と御挨拶をする。それが生活のなかに、自然に溶け込んでいることが大事(大白法892号)

 

 

 

 

 

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信行学

2022年04月24日 | 教学ノート(一)

大白法 平成26年8月16日(第891号)

「教学ノート」  6ページ 

「信行学」

 

 信行学とは、仏道修行の根本となる 信心・修行・教学 の三つを言います。

 信心とは、無疑曰信の清浄な心で、日蓮大聖人様の仏法の根本である本門戒壇の大御本尊様を信じることを言います。

 修行とは、大聖人様の教えに基づいて、自らが御本尊様から利益を受けるために行を修めることと、他の人にも利益を受けることができるように折伏することを言います。 

 教学とは、大聖人様の教えを学び、正しく理解することを言います。

 この信行学の中で、最も大切なことが信心です。大聖人様は、『念仏無間地獄抄』に、

    「信は道の源功徳の母と云へり」(御書 三八㌻)

と仰せられ、信心は仏法の根源であると説かれています。

 また、「一信二行三学」という言葉があります。

  これは,まず信心を第一として、信心から修行、修行から教学が起こるという順序次第を表わしたもので、この修行と教学を進めていく上で、さらに信心が深まっていくのです。

 ただし、総本山第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、

「仮令(たとい)信心有りと雖も若し修行無くんば未だ可ならざるなり」(六巻抄 71ページ)

と仰せのように、信心があっても修行に励まなければ、それは正しい信心とは言えないと説かれています。 

 つまり、大聖人様が『諸法実相抄』に、

    「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。

        行学は信心よりをこるべく候」 (御書 六六八㌻)

と仰せのように、信心を基として修行と教学の二道に励むことが大切なのです。

 御法主日如上人猊下は、

    「御本尊様は尊ぶのだけれども勤行は行わない、というのではおかしくなってしまうのです(中略)もしも仮にそのようなことがあれば、生活が乱れてくるのです。つまり信心が乱れてくれば、生活全体が乱れてくるのです。ですから信行学の一つひとつが大切なのであります」(大白法755号)

と仰せられています。

 私たちは、常日頃から自らの信行学を磨いて成仏を願うと共に、すべての人を幸せに導くために多くの人を折伏して、平和な世の中を築いてまいりましょう。




🖊ポイントと復習

 大聖人様は、行学の二道について仰せられた『諸法実相抄』の御文の最後に、

    「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書 六六八ページ)

と説かれています。

 では、力がなければ折伏がしなくても良いのでしょうか。そうではありません。この御文は、自分自身の力に応じて一文や一句でも他の人に語って、折伏に励みなさいと仰せられているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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修行

2022年04月24日 | 教学ノート(一)

大白法 平成26年7月16日(第889号)

「教学ノート」 5ページ

 「修 行」

 

 修行とは、自らの成仏のために、日蓮大聖人様の教えに基づいて行を修めることをいいます。

 大聖人様は、

 「深く信心を発こして、 日夜朝暮に又懈らず 磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(御書 四六ページ)

と、信心を根本に、南無妙法蓮華経の題目を唱えることが大切な修行であると仰せられています。

 この題目とは、大聖人様が、

「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」

 (御書 一五九四ページ)

と仰せられるように、自行と化他行にわたります。

 自行とは 、自らが利益を受けるために勤行・唱題に励むことをいいます。化他行とは、他の人に利益を受けさせるために折伏をすることをいいます。

 勤行・唱題に励み、折伏行に邁進することによって、成仏という真の幸福境界を得ることができるのです。

 また、大聖人様は、

    「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」

   (御書 一五〇二ページ)

と、登山の大事について仰せられています。

 登山とは、総本山大石寺に参詣することをいいます。大石寺は、大聖人様の御当体である本門戒壇の大御本尊と、

大聖人様以来、唯授一人の血脈相承を受け継がれた御法主上人猊下在す一閻浮提第一(世界で最も勝れているとの意)の霊場です。

 この大石寺に登山し、御法主上人猊下の大導師のもと、御開扉を受け、広宣流布を真剣に祈ることによって、私たちは、過去世から現在に至る無量の罪障を消滅することができるのです。

 さらに、所属寺院は、 私たちの信心錬磨の道場です。御報恩御講や広布唱題会をはじめとする諸行事に積極的に参加して、法話を聴聞し、御本尊様に真心からの御報恩を申し上げていくことが大切です。

 御法主日如上人猊下は、

    「幸せになるためには、そのための努力をしなければならない。惰性に流され、何もしなくて幸せになったためしはない。努力なくして幸せは掴めない。そこに、我々の仏道修行がある」(大日蓮751号)

と仰せられています。

 私たちは、日々の修行に励むことによって、どんな困難も乗り越えて、幸せな生活を送ることができるのです。




  🖊ポイント

 大聖人様は、「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」

  (御書 八一四㌻)

と仰せられています。

 信心のない修行に功徳はありません。確固たる篤き信心をもって、一生懸命修行に励むことにより、大きな功徳を戴くことができるのです。

 

 

 

 

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三宝

2022年04月24日 | 教学ノート(二)

「大白法」 平成27年6月16日(第911号)

「教学ノート」11ページ 

 「三 宝」

 

 仏法では、衆生が尊敬し、供養し、帰依すべき信仰上の対象として、仏宝・法宝・僧宝の三宝を立てます。

 「仏」とは真実の法を悟り衆生を救済する教主、

 「法」とは仏の悟りと慈悲に基づいて説かれた教え(教法)、

 「僧」とはその仏法を譲り受け後世に正しく護り伝えていく僧侶をいます。

 この三つは、いずれも衆生を救い世を清浄に導く最高の宝であることから”三宝”と言うのです。

 また、三宝の立て方は教法によってそれぞれ異なるため、三宝は自身の機根(能力・性質)や時代に適った教えに基づいて立て、帰依し供養することが大切です。

 末法の今は、日蓮大聖人様の教えを信じて救われる時代です。 よって、大聖人様の教えにより三宝を立てます。

 そして末法における真実の三宝とは、

 仏宝は末法の御本仏・日蓮大聖人様、

 法宝は本門戒壇の大御本尊様、 

 僧宝は大聖人様の血脈を承継あそばされる日興上人様をはじめ御歴代の御法主上人猊下です。

 私たちは、 この三宝を信じ供養することによって、真実の幸福を手にすることができるのです。

 大聖人様は、

 「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」 (御書 二六八ページ)

 と説かれていますが、三宝の御恩徳に対して日々、感謝して報いることが大切です。

 また日寛上人様は、

 「問う、報恩の要術、其の意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す」(御書文段 三八四㌻)

と、自身の身命を惜しまずに大聖人様の教えを弘めることが、三宝の恩に報いるための方法であると仰せになられています。 

 なお、誤った三宝を信じるならば、利益を得られないことはもちろんのこと、たとえ大聖人様を仏宝と崇めていても、法宝や僧宝が間違っているならば不幸の道を歩むことになります。

 大聖人様は、

 「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(御書 六〇八㌻)

と、仏法僧の三宝は一体であると仰せです。 この三宝一体の上から、法宝(大御本尊様)を謗ることは同時に仏宝(大聖人様)と僧宝(日興上人様)を謗ることであり、 また僧宝を謗ることは同時に仏宝と法宝を謗ることになると、厳しく戒められています。

 故に、大御本尊様を御本仏と仰ぎ、大御本尊様を信じ、さらに日興上人様をはじめ、御歴代の御法主上人猊下に信伏髄従することが大切であり、これこそが真の三宝尊信の姿です。

 私たちは、この三宝尊信の上から、自行化他にわたる信行に徹するとき、即身成仏の大利益を得ることができるのです。

 

 

 

 

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成仏

2022年04月22日 | 教学ノート(一)

大白法 平成26年6月16日 (第887号)

「教学ノート」 4ページ 

 「成 仏」

 成仏とは、文字通り「仏に成る」との意味ですが、決して、金色の仏像のような姿に成ることではなく、また現在の生涯を終えた後に仏に成るという意味ではありません。

 成仏の本当の意味とは、正しい教えによって、私たちが現実の生活の中で仏様のような理想的な人格を形成することを言います。言い換えれば、どんな困難や苦悩をも悠々と乗り越えられる境界になることを言います。

 私たちは、仏に成る性質(仏様の生命(いのち))を誰でも具えています。法華経には「貧人繋珠の譬え」という話が説かれています。

 「ある貧しい人(貧人)が、裕福な親友の家で食事をごちそうになり、お酒に酔って寝てしまいます。親友は寝てる貧人が後で困らないようにと、衣の裏に高価な宝の珠を縫いつけて出掛けていきます。酔いから醒めた貧人は何も知らないため、家を立ち去った後も以前と変わらない少しの物を得ては満足する生活を続けていました。ある日、貧人と再会した親友はその姿に驚き、衣の裏の宝珠に気がついていれば不自由なく暮らせたのにと告げました。そこで初めて貧人は宝珠を得ることができました」という話です。

 この説話において親友とは、仏様のことであり、貧人は正しい教えに依らずに、目先のことで満足してる人々に譬えています。つまり愚かな衆生が仏様の真実の教えを知ってはじめて幸せな境界を築くことができたことを説かれています。

 すなわち、誰もが仏様の生命を具えているとはいえ、正しい教えによらなければ実生活に現れないのです。

 日蓮大聖人様は、

    「始めて我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(御書1801㌻)

と、 日蓮正宗の正しい御本尊様を堅く信じて勤行や唱題に励むことで、私たちの心に具わる仏様の生命が現われると仰せです。この姿こそ、何よりも喜ばしい大歓喜の姿であり、真実の成仏の姿なのです。

 御法主日如上人猊下は、

    「単なる理論では、人は幸せにはなれません。信仰とは理論ではなく実践であり、体験であります。したがって、朝夕の勤行をしっかりと行っていけば、そこから様々な問題が正しい形で必ず解決をしていくのであります。それが、御本尊様の偉大なる功徳であります」(大白法843号)

と御指南されています。

 私たちは成仏できる仏様の生命を具え、さらには実生活に現わす方法を知っています。したがって、私たちは大歓喜の心を起こして御本尊様を信じ、毎日欠かさず勤行・唱題に励むことが大切です。そして実生活では、どんな困難や苦悩も解決できる成仏の姿で、日々生活を送れるのです。

 

 

 

 

 

 

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功徳

2022年04月20日 | 教学ノート(一)

大白法 平成26年3月16日(第881号)

教学ノート】  3ページ 

 「功 徳」

 功徳とは、善い行いによって得られる福徳の意味です。

 また仏教では、仏道修行をして悪を消すことを ”功” と言い、自己の善い行いによって与えられる結果を ”徳” と言うと説かれています。

 つまり功徳とは、他の誰かから一方的に与えられる恩恵なのではなく、勤行や唱題などの善い行いによって得られる、善い結果を意味する言葉なのです。

 さて法華経『法師功徳品第十九』には、

 「法華経を受け持ち、読むなどの行為には、眼・耳・鼻・舌・身・意(これらを六根と総称します)のそれぞれに多くの功徳が具わり、その結果、六根のすべてが清淨になる(趣意)」

(法華経 四七四㌻)

と説かれています。

 日蓮大聖人様はこの経文について『御義口伝』に、

   「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」 

  (御書一七七五㌻)

と仰せです。

 私たちは生まれつき、六根を惑わし悩ませ、正しい認識や判断をできなくさせてしまう ”煩悩” というものを持っています。

 しかし大聖人様の御言葉のように、私たちは御本尊様に南無妙法蓮華経と真剣に唱えることで、自身の六根を常に清らかな状態にしていただき、どんな困難をも正しく認識・判断して乗り越えていくことができるのです。

 また「日女御前御返事」には、

    「御本尊様を功徳聚とも称する(趣意)」(御書 一三八八㌻)

と仰せです。「聚」とは多くのものを集めるという意味ですから、御本尊様にはたくさんの功徳が具わっているのです 。
 したがって、一切の功徳が具わっている御本尊様に南無妙法蓮華経と唱え、勤行するという行為には、私たちが幸せになるためのすべての功徳が具わっているのです。

 御法主上人猊下は、

    「一人でも多くの人 が(中略)六根清浄の果報を得ていくことが、平和で幸せな世の中を構築していくことになるのであります」(大白法703号)

と仰せです。

 私たちは一生懸命、勤行・唱題し、寺院に参詣して功徳を積むことが大切です。

 たとえ勉強や部活動などで困難が生じたとしても、御本尊様に戴いた六根清浄の功徳によって悠々と乗り越えていくことができるのです。そして、私たちの信心による功徳に浴した姿が、平和で幸せな世界をも築いていくのです。

 



🖊『ポイントと復習』

 「願い事が叶う」これも一つの功徳の現れですが、大聖人様は、

     「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」(御書 一五一九㌻)
と仰せです。「信心」とは、前回学んだように、疑いのない心で御本尊様を信じることです。つまり願い事を叶えるためには強盛な信心を持つことが大切なのであり、その方法の基本が勤行と唱題なのです。

 

 

 

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信心

2022年04月19日 | 教学ノート(一)

2022-03-31 

大白法(平成26年2月16日)第879号

【教学ノート】2ページ 

 「信 心」

 日蓮正宗の信心は、一切の誤った教えを捨てて、日蓮大聖人様が顕わされた本門戒壇の大御本尊様を信じる心を言います。

  天台大師が法華経の経文を解説された『法華文句』には、

  「無疑曰信」(法華文句記会本 三七六㌻)

と説かれています。これは「疑い無きを信と曰う」と読みます。信心とは、仏様の教えに対する疑いのない清浄な心を言うのです。

 また、大聖人様は、信心について、

  「仏法の根本は信を以て源とす」 (御書 一三八八㌻)

 と仏道修行の根本であり、成仏の源であると仰せです。

  このように、信心とは仏法の基本であり、清浄な心で御本尊様を信じることによって、私たちは幸せな人生を送ることができるのです。  

  大聖人様は、この信心の姿勢について、

   「法華経を信ずる人あり、或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」

 (御書 一二〇六㌻)

と、信心を火と水に譬えられています。

 火のような信心とは、教えを聞いたときは、火が燃えるように勤行や唱題に励みますが、火はいずれ消えてしまうように、やがて止めてしまうような姿勢を言います。

 それに対し、水のような信心とは、水が止まることなく流れ続けるように、常に勤行・唱題に励む姿勢を言います。

 私たちは、どのような時にも惑わされることなく御本尊様への止まることのない信心を心がけることが大切であり、勤行・唱題や部の活動を一生懸命取り組もうという気持ちを持って続けていくことが大切なのです。

 また、大聖人様は、私たちの信心と生活の関係について、

  「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(御書一二二〇㌻)

と仰せられています。

  みやづかいとは、仕事のことですが、皆さんに当てはめれば勉強やスポーツなどになるでしょう。要するに、仕事や勉強など、生活のすべてが御本尊様のためであるとの確信をもって、信心に励みなさいと説かれているのです。

 私たちは、常日頃から信心を中心にした生活を送ることが大切であり、その功徳によって自分自身の命が変わり、さらに自らの命が変わることによって周りの環境や状況をよりよい方向に変えていくことができるのです。

 

 

 🖊「信心」について

 御法主日如上人猊下御指南

「普段から朝夕の勤行をはじめ唱題会・部会等に参加して、まじめに取り組んで信心を鍛えている人は、少しぐらいのことには微動だにもしません。大きな障害や困難にぶつかっても、普段の信心の結果が発揮され、必ず大御本尊様の大きな功徳をいただき、乗りきっていくことができるのであります」(大白法795号)

 

 

 

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