第一章 仏 教 各 宗 からの転載
一、 南都六宗(律宗)
真 言 律 宗(現在の宗派)
[宗 祖]叡尊(一二〇一〜一二九〇)
[高 祖]空海(七七四〜八三五)
[本 尊]大日如来・諸仏菩薩天部等
[経 論]金剛頂経・大日経・瑜祇経・蘇悉地経・梵網経・『四分戒本』等
[総本山]西大寺 奈良市西大寺芝町1一1−5(本尊は釈迦如来)
[寺院教会数]八七
[教師数]一一四
[信徒数]九一、五〇〇
真言律宗は、西大寺を総本山とする宗派で、真言宗の教義に基づき、律宗で説く戒律を厳守し、衆生を救済すること(済生利人)を教旨としている。したがって、真言宗と律宗とが混ざり合った宗派と言える。
真言律宗では、空海を高祖とし、叡尊を宗祖としている。叡尊は醍醐寺で得度し、高野山などで真言密教を修行したことなどから、唐招提寺や東大寺戒壇院とは戒観を異にしていた。叡尊は西大寺に住すると西大寺流を打ち立て、独自の布教活動をするようになった。
西大寺は律宗の寺院であったが、叡尊以後、真言律を唱える門流の中心となっていった。そして、叡尊を西大寺初代長老とし、二代長老・信空の時に真言律宗の基礎が固まった。
叡尊らは道路の整備や寺院修造のための勧進を行ったことから、後宇多天皇が全国六十余州の国分寺を西大寺の子院とし、一時は千五百余ヵ寺を末寺としたと言われる。しかし戦国時代になると、律宗と共に真言律宗も衰退していった。
明治五(一八七二)年の太政官の通達によって、律宗の各派はすべて真言宗に帰属したが、同二十八年、西大寺派は真言律宗として独立し、今日に至っている。
【破折の要点】
▼日本の律宗の始まりは、鑑真が中国の南山律宗を伝えたことによる。鑑真はこの時に、天台の法華三大部等の典籍も伝えている。
鑑真は当時の日本の仏教事情を鑑み、まず基礎的な律蔵を基とした教えを弘めたのであり、それよりはるかに高度な教えである天台の教義は弘めず、後世の弘通に託したのである。したがって、鑑真が伝えた律宗は、法華経を弘めるために機を調える教えに過ぎない。
▼律宗では、戒律を守り修行を実践することが、悟りを得る道であるとしている。仏道修行において防非止悪を旨とする戒律は大切なものであるが、律宗で説く戒律は大乗に通じるとは言っても、実際には小乗の戒律である。これは二百五十戒、三百四十八戒などによって日常生活の細部にわたる規則を定め、行動や発言、精神を規制するもので、末法の衆生には実行不可能な修行である。
日蓮大聖人は『祈祷抄』に
「正像既に過ぎぬれば持戒は市の中(なか)の虎の如し」
(御書六三〇㌻)
と仰せられ、末法においては、持戒の聖者などは町中に虎がいないのと同様に、ありうるものではないと教示されている。
▼律宗は、現在では大乗を装っているが、本来は小乗の教えに基づいた宗派である。小乗教は自利のみを目的としたもので、一切衆生を救済しようとする仏の意に反するものであり、自他共に成仏を願って修行する大乗教に対し、はるかに低級な教えである。
▼律宗では、道宣の「分通大乗説」を基に、小乗の戒を大乗戒で説く三聚浄戒に当てはめ、大乗の教えに通ずるものであると主張している。
しかし、日本天台宗の開祖・伝教大師最澄は、律宗をはじめ南都六宗が主張してきた戒は、あくまでも小乗の戒であるとして捨棄し、大乗円戒こそ大乗の教えにふさわしい戒であるとして、法華経を基にする円頓戒壇の建立を目指したのである。
実大乗教である法華経の法師品に、
「我が所説の諸経 而も此の経の中に於て法華最も第一なり(中略)已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」
(法華経三二五㌻)
と説かれ、釈尊は一切の経典のなかで法華経が最高の教えであると示されている。
また方便品には、
「正直に方便を捨て」
(同一二四㌻)
と説かれ、譬喩品にも、
「余経の一偈をも受けず」
(同一八三㌻)
と示されて、小乗教はもちろん、爾前権教に説かれる教義、修行、悟りのすべてを捨てよと教示されている。
さらに宝塔品では、
「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり 是の如きの人は 諸仏の歎めたもう所なり 是れ則ち勇猛なり 是れ則ち精進なり 是れ戒を持ち 頭陀を行ずる者と名づく」
(同三五四㌻)
と示され、法華経を受持することが、戒を持つ、仏道精進することになると説かれている。
これらのことから、律宗は明らかに仏(ぶつ)意(ち)に反していると言える。
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