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熱原法難 一

2023年01月15日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和3年2月1日(第1046号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 143

  日蓮大聖人の御生涯 ㉙       

   熱原法難 一

 それではいよいよ、日蓮大聖人が出世の本懐(世に出現された本当の目的)を遂げられる契機となった、熱原法難について学びましょう。

 今回は、富士下方熱原の地に大聖人の教えが弘まった経緯と、法難直前の様子までを拝します。

 

 日興上人の甲斐・駿河弘教

 熱原法難のあらましを知るために、まずは第二祖日興上人の折伏弘教の足跡をたどってみましょう。

 日興上人は、大聖人に入門してから常にお側でお仕えし、弘長元(一二六一)年の伊豆配流、文永八(一二七一)年の佐渡配流の際にもお供をされました。その御縁によって、大聖人御入滅の後も配流地の門下を薫育されており、『佐渡国法華講衆御返事』等の書状から、その様子を窺(うかが)い知ることができます。

 文永十一(一二七四)年五月、大聖人が身延に入山されると、日興上人は給仕のかたわら、周辺各地に足を運ばれ、布教と信徒教導に励まれました。

 甲斐国(現在の山梨県)では、波(は)木(き)井(り)一族の他に秋山家などが帰依し、寂日坊日華師が入門するなど改宗・出家する者も相次ぎました。

 また駿河国(現在の静岡県中部・東部)では南条家や、日興上人の縁をもとに富士、庵原、興津といった広い範囲で弘教が進み、多くの信徒が帰依しています。

 この他、武蔵と遠江の両国、そして配流時の縁をたどり伊豆方面にも教線は伸びていきました。特に伊豆国では、南条家の遠戚である新田家を教化し、これが後に第三祖日目上人となる虎王丸の入門に繋がっています。

 

 富士下方弘教

 こうした弘教のうち、 富士下方(現在の富士市)は、日興上人が修学された蒲原四十九院と岩本実相寺を中心に進められました。

 岩本実相寺は、以前学んだように一切経蔵を有するほどの寺院であり(大白法九九〇号)、四十九院も多くの僧侶が住する寺院であったと伝わっています。 

 日興上人の教化により、まず実相寺の筑前房・豊前房、四十九院の賢秀房・承賢房等の僧侶が帰伏改衣し、その縁によって寺域内の住民も次々と帰依するようになりました。

 すると、 改宗者が続出したことにより、自分たちの権力や、これまでの生活が脅かされることに危機感を抱いたのが四十九院・ 実相寺の院主たちでした。実相寺院主の道暁、四十九院寺務(住職)の二位律師厳誉らが急先鋒に立っての弾圧が始まったのです。

 門下に対する誹謗や威嚇は、後述する熱原と時を同じくしてだんだんと強まり、ついに弘安元(一二七八)年には、日興上人を始め日持・賢秀房・承賢房等の諸師が四十九院から追放される事態となったのです。

 日興上人らが連名によって不当性を訴えられた『四十九院申状』には、厳誉による讒言が次のように記されています。

 「四十九院の内、日蓮が弟子等居住せしむるの由、其の聞こえ有り。彼の党類、仏法を学し乍ら外道の教に同じ、正見を改めて邪義の旨に住せしむ、以ての外の次第なり、大衆等評定せしめ寺内に住せしむべからざるの由の所に候なり」(歴代法主全書)

 四十九院は天台宗系の寺院であったと言われており、一往、法華経を依経とする点は共通しています。それにもかかわらず、 大聖人の教えを「外道」「邪義」 と見なし、一方的な詮議の末に大聖人門下の住坊や田畑を取り上げ、寺域から追い出すに至りました。

 申状提出のその後については詳らかではありませんが、日興上人は、この出来事に怯むどころか、いよいよ布教に専心されました。

 

 滝(りゅう)泉(せん)寺(じ)と熱(あつ)原(はら)郷(ごう)

 話は少し遡りますが、日興上人によって本格的に始まった弘教は、建治元年頃、岩本実相寺から東へ四、五キロのところにあった天台宗の古刹滝泉寺にも及びました。

 当時の滝泉寺は、院主代の行智という入道が寺務を代行していました。半僧半俗の入道が院主代を努めていたのは、行智が平左衛門尉頼綱の一族であったからとも言われます。

 行智は、天台宗の教義を理解するはずもなく、その所行は僧侶としてひどいものでした。以下にいくつか挙げてみましょう。

・滝泉寺内の法華三昧堂の供僧である和泉坊蓮海に命じて、法華経の巻物をほぐして紺染の型紙 などに仕立て直した。

・堂舎修理の際、屋根を葺くための薄板一万二千枚のうち八千枚を私的に流用した。

・無知無才で盗みをはたらいた兵部坊静印から罰金を取った上で許し、徳の勝れた人と称して滝泉寺の供僧に採用した。

・出家の身でありながら領内の農民を促して猟をし、鶉・狸・鹿を殺して寺内で食した。

・仏前の池に毒を入れて魚を殺し、村里で売った。

 当然、このような院主代の非行を見て、求道心を持った僧侶が使えるはずもなく、日興上人の教化によって下野房(後の日秀)・越後房(後の日弁)・少輔房(後の日禅)・三河房頼円等、帰伏改宗する者が現れました。

 さらに在俗の領民にも帰依する者が出始めると、これに危機感をおぼえた行智は人々を扇動し、大聖人の門下に迫害を加え始めました。

 しかしこの動きに対し、大聖人は、

 「返す返すする(駿)が(河)の人々みな同じ御心と申させ給ひ候へ」

        (御書 八八二㌻)

と一同に異体同心の結束を促されると共に、応援として弟子の覚乗房らを遣わされたため、門下はかえって団結し、折伏の手を緩めることはありませんでした。

 翌建治二年、増加し続ける門下の勢いに行智は我慢ならず、日秀・日弁・日禅・頼円等の諸師に、命令に従わなければそれぞれの住坊を追放すると申し渡しました。

 その命令とは、法華経の読誦を停止し、阿弥陀経を読み念仏を称えるとの起請文を提出せよというもので、法華経を奉ずる天台宗寺院とは思えぬものでした。

 頼円は命令に応じて起請文を書き身の安泰を計りましたが、他の三人はけっして従うことなく、擯出の処置を受けました。

 日禅師は富士上方河合の生家に身を寄せましたが、日秀・日弁の二師は滝泉寺のほかに頼るところもなかったため、なお統制の及ばぬ寺内の坊に移って折伏を続けました。

 この折伏によって弘安元(一二七八)年になると、滝泉寺周辺の熱原郷では、神四郎・弥五郎・弥六郎の兄弟三人をはじめとする農民たちにも、大聖人の教えが急速に広まりました。

 

 法華衆に対する行智の奸計

 行智は、もはや滝泉寺の力だけでは打つ手がないと考え、法華衆禁圧のために様々な手段を講じ始めました。

 一つは造反工作で、 まず神四郎が兄弟の実兄である弥籐次入道を籠絡し、さらに大聖人から応援に遣わされていた三位房に付け入り、ついには離反させてしまいました。

 もう一つは富士下方にある政所の役人との結託です。 彼らは偽りの御教書を二度にわたって作り、法華衆徒を脅迫するなどしました。

 弘安二年に入ると、迫害は一層激しさを増しました。

 四月八日、滝泉寺近くの浅間神社で流鏑馬の神事が行われていましたが、その雑踏の中で、法華衆徒・四郎が 刃物で切りつけられ傷を負うという事件が起こりました。

 次に同年八月には、同じく法華衆徒の弥四郎が、何者かに首を切られるという殺害事件まで起こったのです。

 総本山第五十九世日亨上人は、

この弥四郎の殉難について、

 「貴重な人命を損じても政所代が承知して内々にや(行)らせたので表面には何人か討つたか分つた様で明らぬ、神四郎等のやうに殉難の壮烈を喧傅唱導せられぬのは大いに気の毒の至りである、此れも殉難者として神四郎等と共に廟食追弔せらるべきである」(熱原法難史 一三四㌻)

と、熱原三烈士と共に顕彰し追善供養の誠を尽くすべきであると仰せられています。

 しかし、これほどの事件に対しても、行智と結託した政所の役人はまともに取り合わず、結果として行智らは非道を激化させ、法華衆の教勢壊滅を狙ったことが翌月の大事件へと繋がったのです。

 次回は熱原法華講衆の不自惜身命の信仰と、本門戒壇の大御本尊御図顕について学びます。