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御教導

2023年01月10日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和2年12月1日(第1042号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 142

  日蓮大聖人の御生涯 ㉘      

   御  教  導

 今回は,身延における門弟への御教導と、この頃の主な壇越の動向について述べます。

 

 門弟の育成(法華経の講義) 

 身延における日蓮大聖人の御住まいは、

 「今年は十二のはし(柱)ら四方にかう(頭)べをな(投)げ、四方のかべは一そ(所)にた(倒)うれぬ」

  (御書 一一八九㌻)

とあるように、」入山して四年目の健治三(一二七七)年には、柱が朽ちて傾き、壁も崩れ落ちて修復をしなくてはならない、粗末な草庵でした。しかし、そのような御住まいにあっても、

 「法華読誦の音(こえ)晴天に響き、一乗談義の言(ことば)山中に聞こゆ」

  (同 九五七㌻)

と仰せのように、昼夜に法華経を読誦し、また御法門を論談する充実した日々を過ごされていたのです。

 当初は、大聖人とわずかな門弟で生活していた草庵でしたが、次第に各地から門弟が聴講に参詣するようになって、

 「今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」

  (同 一三八六㌻)

と仰せのように、弘安二(一二七九)年には、狭い身延の山中に百人を超す門弟が住して研鑽するようになりました。

 このような人材を育成することは、大聖人が鎌倉を離れて身延に隠棲することを決められた四つの理由の中でも、法体の確立と共に重要なことでした。

 修行の心構えとして「信仰(信)・修行(行)・学解(学)」

の三つの筋目を立て、

 「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候」

  (同 六六八㌻)

と仰せられ、また、

 「有(う)解(げ)無(む)信(しん)とて法門をば解(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず。有(う)信(しん)無(む)解(げ)とて解(げ)はなくとも信心あるものは成仏すべし」

  (同 一四六一㌻)

と誡(いまし)められています。

このように大聖人は、門弟に厳格な信心修行を督励されると共に、特に法華経の講義を行われたのです。 

 この時、大聖人が講義された法華経の内容を筆録されたのが、『就註法華経口伝(御義口伝)』です。

 この『御義口伝』について、総本山第十七世日精上人の『富士門家中見聞(家中抄)』には、

 「聖人山居の後(のち)門弟子の請いにより法華経の御講釈あり。御弟子衆数(あま)多(た)ありといえども日興達士の撰にあたり給いしかば、章安所録の天台の章(しょう)疏(しょ)に習って聖人の説法を記録し給う事合(がつ)して二百二十九箇条、其の外旅(たび)旅(たび)の聞(もん)を集めて日興記と名づく。是れ聖人編集の註(ちゅう)法華経に就いての口伝なり」

 (日蓮正宗聖典 六一三㌻)

とあるように、大聖人が講じられた法華経の深義を第二祖日興上人が筆録され、大聖人の御(ご)允(いん)可(か)を得て重要な法門書です。

  この『御義口伝』の講義には、日興上人をはじめとする身延在住の門弟や、 安房(千葉県)や佐渡(新潟県)、駿河(静岡県)などから登山してきた門弟たちも聴講に加わり、閑静な身延の草庵も、聴講の大勢の門弟で賑わったものと拝されるのです。

 

 当時の壇越について 

 ここで、大聖人御在世当時の主な檀越の動向について簡単に紹介します。

 

①富木常忍

 富木常忍は、下総国若宮(千葉県市川市) を領有していた武士で、建長五年(一二五三)年の末頃に大聖人に帰依し、同僚の大田乗明や曽谷教信などを折伏して、鎌倉の四条金吾と共に関東方面の中心的な檀越として活躍しました。

 また常忍は、 万年にわたる文書格護の条件を備えた大檀越であったことから、『観心本尊抄』、『法華取要抄』、『四信五品抄』 などの重要な御書をはじめ、 四十余篇にわたる御書を賜っています。

  大聖人御入滅後は、 私邸を法華堂(中山法華経寺)に改めて、大聖人の御真蹟の散逸を防いで伝承に力を注ぎ、正安元(一二九九)年、八十四歳で逝去しました。

 

②四条金吾

 四条金吾は、北条家の支族である江間家に仕えた忠臣で、武道と医術に優れた人物です。

 康元元(一二五六)年、二十七歳の時に大聖人に帰依し、以来、富木常忍らと共に信仰に励み、鎌倉における檀越の中心者として活躍しました。

 文永八(一二七一)年の竜口法難の際には、自らも死を覚悟して、刑場まで大聖人のお供をし、その後の配流先である佐渡へも訪れました。また、配流中の大聖人により『開目抄』 を賜っています。

 主君である江間光時は、極楽寺良観に帰依していました。金吾が主君に対して折伏を行うと、それが主君の怒りに触れることになったのです。さらに、金吾に対して妬みを持つ同僚たちからの讒言もあって、所領の没収や領地替えなどに遭い、厳しい境遇となりました。また、 桑ヶ谷問答では、追い打ちをかけるように主君より法華経の信仰を捨てる旨の起請文の提出を迫られましたが、金吾は大聖人より御教導を戴き、一歩も退くことなく、信心強盛に耐え忍びました。

 その後、 疫病にかかった主君を治療して完治させたことで、金吾の忠誠心の厚いことを感じた主君は、金吾への信頼を回復し、所領も加増したのです。

  このほか金吾は、身延の大聖人への御供養の品々を届けると共に、大聖人の身を案じ、薬を調合して差し上げるなど、信心の誠を尽くし、正安二(一三〇〇)年、七十一歳で逝去しました。

 

③池上兄弟

 鎌倉幕府の作事奉行であった池上康光の息子たちで、兄は宗仲(右衛門大夫)、弟は宗長(兵衛志)といい、六老僧の一人である日昭の甥(おい)に当たります。

 康元元年頃に大聖人に帰依したと伝えられ、特に兄の宗仲は、鎌倉の檀越の中でも最古参の強信者でした。

 しかし、父の康光は、極楽寺良観の信者であったため、息子たちが法華経の進行をすることに強く反対し、建治二(一二七六)年頃、康光は良観の入れ知(ぢ)恵(え)によって宗仲を勘当し、弟の宗長に家督を継がせようとしたのです。これを知った大聖人は、兄弟に対して『兄弟抄』を認められ、兄弟とその夫人たちが心を合わせて正法を貫き、障魔に打ち勝つよう激励されました。

 その後、宗仲の勘当は一時許されましたが、建治三年の十一月に至り、再び勘当されました。これは、同年六月の桑ヶ谷問答において、良観の庇護僧である竜象房が敗北したことに対する、良観の報復でした。

 しかし大聖人の力強い御教導によって、当初、信仰が軟弱であった弟の宗長も次第に信仰を深めて兄の宗仲や妻たちと力を合わせ、父の康光を折伏しました。その結果、弘安元(一二七八)年には、宗仲の勘当が解け、康光も大聖人に帰依することとなったのです。

 弘安二年、康光の死に際して、大聖人は『孝子御書』を送り、父を正法に帰依させた兄弟らの信心を称賛されています。

 

④南条時光

 南条時光は、駿河國富士郡上野(静岡県富士宮市)の地頭であった南条兵衛七郎の次男として、正(しょう)元(げん)元(一二五九)年に誕生しました。

 父の兵衛七郎は御家人であり、鎌倉において大聖人の教化を受け、純真に信仰に励みました。文永二(一二六五)年、三月八日に兵衛七郎が死去した際には、大聖人が墓参のために鎌倉から上野の南条家に赴かれています。

 成人した時光は、日興上人の教化と母親の薫陶を受けて、富士地方の中心檀越として活躍しました。特に建治から弘安にかけての熱原法難では、日興上人の指揮のもと、同信の僧俗に対し、身を挺して外護したことから、大聖人より「上野賢人」との尊称を賜っています。しかし、こうした姿勢から、不当に重い税を課せられるなどして生活が窮地に陥りましたが、そのような窮乏の時でさえ、大聖人への御供養を欠かさない信心姿勢を貫いたのです。

 時光は、その強盛な信心と御供養の志によって、門下中で最も多くの御書を賜っており、大聖人御入滅後は、身延を離山された日興上人を上野の地へ招き、大石寺創建に尽力しました。

 晩年の時光は、入道して「大行」と称し、元(げん)弘(こう)二(一三三二)年五月一日、七十四歳で逝去しました。

 

⑤阿仏房

 阿仏房は、佐渡の強盛な念仏の信者でした。

 初めこそ塚原三昧堂におられた大聖人を念仏の敵と見なし害しようとしましたが、大聖人の尊容に胸打たれたばかりか、かえって折伏され、それまで深く信じていた念仏を捨て、妻の千日尼と共に大聖人に帰依したのです。 以来、文永十一(一二七四)年に大聖人が鎌倉に帰られるまで、陰ながら大聖人に仕えました。

 大聖人が身延に入山されてからも、老齢の身でありながら、遥々佐渡より海を渡って、幾度も身延に参詣しました。その姿は後世私たちの、登山参詣の手本といえます。

 弘安二年三月二十一日、九十一歳の高齢で逝去し、その純真な信心に対して大聖人は「阿仏上人」と尊称されています。

 以上、主な檀越について紹介しましたが、この他にも佐渡・相模・甲斐・駿河・遠江・上総・下総等に信心強盛な檀越が点在しており、大聖人より御書を賜り、各地で純真な信心に励んでいたのです。