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 『立正安国論』御述作背景

2022年07月31日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年10月1日(第990号)

        日蓮正宗の基本を学ぼう 121

            日蓮大聖人の御生涯 ⑦

       『立正安国論』御述作背景

 

 初めに

 前回は、大聖人が 宗旨建立後、安房清澄寺を離れて、当時の政治経済の中心地であった鎌倉に向かい、名越の草庵を拠点に、本格的な折伏弘教を開始されたところを主に学びました。

 当時の鎌倉は、下剋上とも言うべき承久の乱後、公家政権の勢力は後退し、鎌倉幕府の武士による支配が東国中心から日本全国へと範囲を拡大していきました。其の影響により、京の都から多くの人と文化が鎌倉の地に流入し、京都に代わる一大都市を形成していました。鎌倉の宗教界も幕府の権力者の庇護のもとに、禅宗や真言、念仏、律の諸宗の諸大寺院が次々と建立され、勢力を伸ばしている最中でした。

 天変地異

 当時の世情は、鎌倉幕府の権力の勢いと鎌倉諸大寺の隆盛とは裏腹に、打ち続く飢饉や疫病で多数の死者が出、さらに追い打ちをかけるように正嘉元(一二五七)年八月二十三日、鎌倉を大地震が襲い、壊滅的な被害を与えます。この大地震の様子について『吾妻鏡』には、

 「戌の尅、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顛倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水湧き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云々」

と記されています。すなわち「午後八時頃(戌の刻とは、午後七時から九時までの間)、大地震が起こり、地響きが鳴った。この大地震によって、神社仏閣が一つとして無事であったものはなかった。山は崩れ、住居は倒壊し、土塀もすべて壊れ、所々で地面が裂け、水が湧き出した。中下馬橋の辺では、地割れしたところから炎が燃え上がった。色は青かった」と、まさに前代に類を見ない大災害をもたらした地震でした。大聖人もこの時、鎌倉名越の草庵にあって、この大地震の災害を目の当たりにされています。

『安国論奥書』に、

 「去ぬる正嘉元年大歳丁巳八月廿三日戌亥の尅の大地震を見て之(立正安国論) を勘ふ」(御書 四一九㌻)

とあり、されに『顕立正意抄』の冒頭には、

 「日蓮去ぬる正嘉元年大歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘へ定めて書ける立正安国論」(御書 七四九㌻)

 とあるように、頻発する災害の中でもこの正嘉元年八月二十三日の大地震が、 後に『立正安国論』を述作あそばされる直接的要因となった災害でした。

 その後、同二年八月には、大風雨があり、諸国の田園を損亡し、同三年早々からの大飢饉は、翌年まで続く大疫病をもたらしました。これらの災難は、万民の塗炭の苦に追いやり、その大半を死に至らせるほどのものだったのです。

 こうした状況に、幕府は諸宗の寺社に命じ、種々の祈祷をさせました。しかし、少しの効果もないどころか、かえって飢饉・疫病を増長させる結果となったのです。

 大聖人はこの時の様相を、『安国論御勘由来』に、

 「正嘉元年大歳丁巳八月廿三日戌亥の時、前代に超えたる大地振。同二年戌午八月一日大風。同三年巳未大飢饉。正元元年巳未大疫病。同二年庚申四季に亘りて大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験も無く、還って飢疫等を増長す」(御書 三六七㌻)

と記され、『立正安国論』の冒頭には、

 「近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘・遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し」(御書 二三四㌻)

と記されています。

 大聖人はまさにこのような五濁悪世の末法の様相を呈する現状を心から憂えると共に、まさにこの災厄、不幸の根源は邪宗教にある道理を深く洞察されていました。大聖人は、鎌倉市中の辻々に立たれて、民衆に向かって邪宗教の誤りを糺し、法華経を受持させるべく弘教も絶えず行われていましたが、このような打ち続く災害の中で、今こそ、鎌倉時代の封建社会にあって、絶対的権力を持っていた為政者を諌暁し、正法を受持させることがどうしても必要であると決意されました。当時、絶対的権力を有していたのは、鎌倉幕府の前執権・北条時頼です。諌暁とは、誤った宗教に帰依しているのを諌め正法に導くことで、 つまり北条時頼への折伏を意味します。

 一切経の閲覧

 国主諌暁を決意された大聖人は、再び一切経に目を通し、道理と文証をさらに具体的に明示しようとして、いったん鎌倉を離れ、駿河国富士下方岩本(現在の静岡県富士市岩本)の実相寺の経蔵に入られました。

 当時、大聖人が一切経を閲覧された様子が次の御文でうかがえます。

 『中興入道御消息』

 「去ぬる正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其の故をうらなひしかども、なにのゆへ、いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに」(御書 一四三三㌻)

 『安国論御勘由来』

 「日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに、御祈請験無く還って凶悪を増長するの由、道理文証之を得了んぬ」

(御書 三六七㌻)

 以上の御文から拝されるように、世の中の災難の原因を明らかにするために、一切経をひもとき、その上から、道理と文証に基づいて国主を諌暁するべく『立正安国論』御述作の準備を着々となされました。

 日興上人の入門

 大聖人が岩本の実相寺において、一切経閲読されていた折、当時実相寺に近い蒲原の四十九院で修行中の、十三歳になる伯耆公は大聖人に給仕し、 その立派な御姿に感動し、弟子になりました。この伯耆公こそ後の第二祖日興上人です。

 終わりに

 今回は『立正安国論』を御述作されるに至った背景を学びました。

 いよいよ次回は『立正安国論』を 時の最高権力者である北条時頼に提出し、第一回の国主諌暁を敢行されるところを学びます。

 言うまでもなく『立正安国論』に示された破邪顕正の御精神こそ、あらゆる災害を止める唯一の方途です。

  御法主日如上人猊下は法華講連合会第四十八回総会の砌において、

 「天変地夭をはじめ戦争、飢餓、人心の攪乱等、世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、ひとえに謗法の害毒にあり、その謗法を断たなければ真の平和も国土の安穏も訪れてこないのであります」(大白法 810号)

と仰せです。

私たちはこの御指南を体し、末法濁世の混乱した世の中を安穏な世にすべく、折伏に精進してまいりましょう。

 

        ◇     ◇

 

 日蓮大聖人略年表(立正安国論関連)

 『立正安国論と忍難弘通の歩み』より一部転載

 

建長5(1253)年

3月28日  

安房清澄寺に宗旨建立の内証を宣示

4月28日  

安房清澄寺に立教開示

草庵を松葉ヶ谷に構える

建長6   (1254)  年

1月10日       鎌倉大火

5月 9日  鎌倉大風

建長8(1256)年

8月   6日  鎌倉大風・洪水

9月 1日  疫病(赤班瘡)流行

正嘉元   (1257)  年

8月1日    鎌倉大地震

8月   23日    鎌倉大地震【正嘉の大地震】

正嘉2(1258)年

1月   17日   鎌倉火災

2月 駿河岩本実相寺に大蔵経を閲す

6月   24日     鎌倉異常気象による寒気

8月 1日  大風雨・諸国の田園損亡

10月16日 鎌倉大雨・洪水

正元元(1259)年

  春 大飢饉・大疫病

文応元(1260)年 

4月29日   鎌倉大火

6月 1日   鎌倉大風雨・洪水

7月16日  【立正安国論】を幕府に提出【第一国諌】

 

 

 

 

 


九横の大難

2022年07月29日 | 仏教用語の解説(二)

「大白法」平成30年11月16日(第993号)    

 【仏教用語の解説】11

  九横の大難

 

 九横の大難とは、

 九横の大難とは、九悩、九罪報とも言い、 釈尊が在世に受けた九種類の横難のことです。

「横難」とは道理に合わない、邪な迫害や不慮の災難を意味します。

 釈尊は、三十歳のとき、伽耶城近くの菩提樹下で悟りを開いて成道し、それ以後、

 鹿野苑で阿若憍陣如ら五比丘〔✽1〕に四諦・八正道〔✽2・✽3〕を説いたのを

 はじめとして、四十二年間にわたり衆生の機根に合わせた様々な説法をされました。

  そして七十二歳のとき摩訶陀国の霊鷲山において、法華経を説かれたのです。

 九横の大難は、釈尊成道以後から法華経の説法に至るまでに起こった迫害です。

 この説話のもとは『興起行経』・『大智度論』といった経論に見られ、名目には諸説ありますが、

ここでは『法華行者値難事』に挙げられた代表的な九種類を解説したいと思います。

孫陀梨が謗り・・・釈尊が外道の者に孫陀梨という外道の女性と関係したように吹聴され、誹謗されたこと。

婆羅門城の漿・・・釈尊が阿難〔✽4〕と婆羅門城で乞食したが得られず、老女から臭い米のとぎ汁を供養され、それを見た婆羅門たちから「釈迦はあんな腐った物を食べている」と誹謗を受けたこと。

阿耆多王の馬麦・・・阿耆多王は釈尊と弟子を自国に招いたが、王は供養を忘れ、釈尊と弟子たちが九十日間、馬の飼料となる麦を食べて飢えをしのいだこと。

瑠璃殺釈・・・舎衛国の波瑠璃王に釈迦族の多くが惨殺されたこと。波瑠璃王の父波斯匿王は、騙されて未利夫人という釈迦族の賤しい身分の女性を娶らされ、波瑠璃王をもうけました。ある時、波瑠璃王が釈迦族の国へ行ったところ、「波瑠璃は奴隷の子」と軽蔑され、釈迦族に強い怨みを持ち続けました。王位についた波瑠璃王は、釈迦族の国へ軍隊を派遣し、釈迦族を皆殺しにしたとされます。

乞食空鉢・・・釈迦が阿難と婆羅門城に入った際、王が民衆に布施を制止したため、供養が受けられなかったこと。

旋遮女の謗・・・婆羅門の旋遮女が鉢を腹に入れて、釈尊の子を懐妊したと誹謗したこと。釈尊の名声が高まるにつれ、釈尊は他の宗教の修行者たちから妬まれていきました。そしてある時、旋遮女という容姿端麗な婆羅門は、周りの修行者たちにそそのかされ、木の鉢を腹に入れて妊婦の格好をし、聴衆に「釈尊によって孕まされた子だ」と言いふらし、釈尊に対して 「あなたはお腹の子の面倒を少しも見ない」と言い放ったのです。この時帝釈天の力により鉢を縛っていた紐が切れ、まとまっている着物を風が吹き上げると、周囲の人は旋遮女を直ちに追い出したと言います。

調達が山を押す・・・調達(提婆達多)が釈尊を殺そうとして、耆闍崛山(霊鷲山のこと)の上から大石を投げつけたこと。釈尊は、この大石の欠片が足の小指に当たり、出血したと言われています。寒風に衣を索む・・・冬至前後の八日間、 厳しい寒風の中三衣を求めて寒さを防いだこと。『大智度論』には、この時の寒風は、竹を破るような寒さだったとあります。阿闍世王の酔象を放つ・・・ 阿闍世王が提婆達多にそそのかされ、酒で酔わせた象を放ち、釈尊を踏み殺そうとしたこと。しかしこの酔象は釈尊の面前に出ると立ち止まり、 膝を屈しました。

 大聖人の法難と

 その意義

 『如説修行抄』には、

 「本師釈迦如来は在世八年の間折伏した給ひ、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年。今日蓮は二十余年の間権理を破るに其の間の大難数を知らず。仏の九横の大難に及ぶか及ばざるかは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値ひ給ひし事なし。彼は只悪口怨嫉計りなり。 是は両度の御勘気、遠国の流罪、竜口の頸の座、頭の疵等、其の外悪口せられ、弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし。是等の大難には竜樹・天台・伝教も争でか及び給ふべき」  (御書 六七三㌻)

と、末法の法華経の行者は、釈尊の九横の大難にも超え、竜樹菩薩・天台大師・伝教大師が到底及ばないような大難に値うと説かれています。

 すなわち大聖人の御生涯は、古来「大難四ヵ度(伊豆配流・小松原の剣難・竜の口の頸の座・佐渡配流)・小難数知らず」 と言われるように、法難に次ぐ法難の連続でした。

 しかし、 末法の法華経の行者が大難に値うことは、法華経『勧持品』の二十行の偈に明確に説かれていることであり、経文通りの大難に大聖人が値われたということは、大聖人が身をもって法華経を読まれたということなのです(これを身業読誦と言います)。

 そして、大聖人が難に値われたという振る舞いは、釈尊のといた法華経が真実であることを証明するのと同時に、大聖人が末法の法華経の行者、末法の九品仏として御立場を顕わされたということに他なりません。

 成仏は持つにあり

 『四条金吾殿御返事』には、

 「受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。その経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり」 (御書 七七五㌻)

と、我々の成仏は法華経を持つことにあり、末法に法華経を持つ人は、必ず難に値うだろうと御示しです。

 私たちは自行化他の信心に励んでいく中で、様々な難に値うこともあるでしょう。その中には、苦しい思いをすることもたくさんあるでしょう。

 大聖人は『聖人御難事』に、

 「我等現には此の大難に値ふとも後生は仏になりなん。設へば 灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず」 (御書 一三九七㌻)

と仰せです。

 現代の私たちが信仰していく上で値う難は、大聖人の御法難、釈尊の大難には到底、及びませんが、これを成仏への試練と心得て、「一心欲見仏・不自惜身命」の精神で唱題と折伏・育成に励んでまいりましょう。

       ◇     ◇

 ✽1 比丘 四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)の一つで男性の僧侶のこと。

 ✽2 四諦 苦・集・滅・道の四つの諦(真理)のこと。四聖諦とも言う。心身に様々な苦悩を集め作る原因(苦・集)とそれを滅する方法(減・道)のこと。

 ✽3 八正道 四諦にうち道諦の修行法で、修行の段階が八つに分かれるので八正道と言う。八聖道とも書く。

 ✽4 阿難 釈尊十大弟子の一人。釈尊のいとこにあたる。釈尊の弟子として出家した後は常に給仕して、よく説法を聞いて記憶することに勝れていたことから多聞第一と言われた。



次回は、「教外別伝・不立文字」についての予定です。

 

 

 

 

 


鎌倉弘教

2022年07月27日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

 「大白法」平成30年9月1日(第988号)

  日蓮正宗の基本を学ぼう 120

   日蓮大聖人の御生涯 ⑥

    鎌 倉 弘 教

 

  父母の入信

  前回学んだように、日蓮大聖人は建長五(一二五三)年四月二十八日に、清澄寺持仏堂の南面において初転法輪をなされました。 そして、地頭東条景信から命を狙われましたが、兄弟子の浄顕房・義浄房の機転により、危地を免れられたのでした。

  これより向かわれようとしている行き先は、武家の都である鎌倉です。 しかし、その前に大聖人には、まだ為すべきことがありました。父貫名次郎と母梅菊への折伏です。今、この機会を逃しては、二度とご両親が入信する時は来ないかも知れないのです。

 とはいえ、既に初転法輪での清澄山一山の騒動はご両親の耳に入っていました。二人は、我が子である大聖人の身を案じ、できることならば決心を翻し道善房に謝り、清澄寺の住僧として生きるようにと懇願されたのです。

 二人の思いやりに触れられた大聖人でしたが、 情けに流されて謗法の邪宗教に戻るべきではありません。大聖人は法華経こそが三世諸仏の本懐の経典であり、就中、南無妙法蓮華経と唱えることこそが成仏の大直道であることが説かれました。 貫名次郎と梅菊は、大聖人の大確信に満ちた尊容に触れ、また理路整然と説かれた教えを聞き、直ちに念仏を捨てて法華経に帰依をすると決意されたのです。

 その時、大聖人は自らの日蓮の御名から一字ずつをとり、父貫名次郎には「妙日」、母梅菊には「妙蓮」と法名を授けられました。 ここにご両親の入信が成り、大聖人は固い決意を胸に鎌倉へと御出発なされたのでありました。

 松葉ヶ谷の草庵

 鎌倉に入られた大聖人は、その草庵を名越の松葉ヶ谷に構えられました。現在、草庵跡を標榜する日蓮宗寺院がありますが、実際の場所は不明です。

 ともあれ、当時の鎌倉は武家政治の中心地であり、京都朝廷に対するもう一つの都とも言うべき場所でした。

 幕府の内紛を見て、後鳥羽上皇が兵を挙げた承久の乱が鎮圧されてより、 幕府の支配は東国から日本全国へとその規模を拡大していきました。

 この急激な権力の伸張に伴い、政治機関として評定衆による合議制や、西日本を管轄する六波羅探題の設置、領家と地頭の争いや様々な訴訟の基準をまとめ、最初の武家法である『御成敗式目』を作るなど、行政・訴訟などの整備が進みました。

 一方で、鎌倉には自身の訴訟や幕府に仕えることを目的として、京から多くの人々が下ってくるようになりました。その影響で、鎌倉は京の政治と文化を取り入れていくことになります。

 北条時頼は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍に迎え、鎌倉を武家の首都として整備し、その権力を確固たるものにしました。その一つの表われが鎌倉大仏と建長寺の創建でした。

 その頃、それまで木造だった大仏を、大陸から導入した銅銭と新技術で鋳造し、新しくしたのです。

 また能忍や栄西により禅宗が既に伝わってはいましたが、新たに宋から蘭渓道隆を招いて、禅院として建長寺を建立し、武士に禅宗信仰が広まります。直感的に悟りが得られる、難しい教義書は必要ないという禅宗の教えは、武士たちに受け入れられていったのです。

 このような新来の信仰とは別に、天台宗の山門、寺門、真言宗広沢流などが鎌倉に進出し、特に密教僧らが鶴岡八幡宮寺や勝長寿院などに入り、北条氏や幕府との縁を強化していきます。

 さらに西大寺叡尊の弟子忍性良観が常陸の清凉院に住み、鎌倉の諸寺や北条氏と交渉を持つようになっていました。やがて良観は、弘長二(一二六二)年に多宝寺の住持となり、鎌倉への進出を果たします。

 そのように幕府の権力の伸張に伴い、宗教権門の鎌倉への進出、また禅宗の流行があり、まさに鎌倉は一大宗教都市の様相を呈していました。

 しかしこれらの諸宗は、実際には幕府や北条氏と結託し、その権力を背景に堕落して人々の嘆きとなっていたのです。

 例えばまず、延暦寺(山門派)と園城寺(寺門派)の争いです。機縁は、宝治合戦の後、三浦泰村と親交のあった山門派の定親が鶴岡八幡宮寺を解任となり、寺門派の隆弁が社務になったことです。園城寺は延暦寺と、天台宗の正統な争い、自分の所に戒壇を建立することを宿願としていました。そのたびごとに延暦寺が強訴や僧兵によって阻止していたわけですが、隆弁が北条氏と親交を結んだことにより、状況が一変します。

 勅許を与える側の朝廷にとっては、園城寺の背後に幕府があると見、延暦寺も幕府の介入を考慮に入れなくてはならなくなり、より対立は激化していったのです。延暦寺・園城寺のいずれにあっても末法には無用の宗旨ですが、まさに末法闘諍堅固の様相そのものでした。

 次に蘭渓道隆を招いて鳴り物入りで建立された建長寺でしたが、その実態は大聖人の次の御書に表わされています。

 「但し道隆の振る舞いは日本国の道俗知りて候へども、上を畏れてこそ尊み申せ、又内心は皆うとみて候らん」(御書 一二五五㌻)  

 「建長寺は所領を取られてまどひたる男どもの、入道に成りて四十・五十・六十なんどの時走り入りて候が、用は之無く、道隆がかげにしてすぎぬるなり」(御書 一二五六㌻)

 つまり、建長寺は所領を奪われた無頼者たちが僧になって集まり、道隆の庇護下で暮らしていたのであり、またその道隆自体も、民衆は時頼の庇護を受けているから尊んでいるのであり、内心では疎んじていたのです。

 三に忍性良観は、慈善事業として道や橋を作ったと世間では評価されていましたが、実態は人々を苦しめるものでした。

 その実情が判るのは次の御書です。

 「而るに今の律僧の振る舞ひを見るに、布絹・財宝をたくはえ利銭・借請を業とす。教行既に相違せり。誰か是を信受せん。次に道を作り橋を渡す事、還って人の歎きなり。飯島の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是多し。諸国七道の木戸、是も旅人のわづらひ只此の事に在り、眼前の事なり、汝見ざるや否や」(御書 三八四㌻)

 当時の律僧は財宝を蓄えてそれを利用して金融業を営み、また道や橋を作って税を取って、かえって人々の歎きとなっていたのです。

 しかも良観は、後に大聖人に迫害を加える際に権力者の夫人たちに讒言を行っており、幕府権力者と結びついて、その権力を頼みとしていたことが判ります。

 辻説法

 このように鎌倉の宗教界は、幕府権力者と密接に結びついていたのですが、そこへ日蓮大聖人が折伏を開始されたのです。

 現在も鎌倉に大聖人の辻説法跡と伝える場所がありますが、往来の多い街角に立たれて道行く人々に法を説かれたのです。

 後年、『中興入道御消息』に、

 「去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申しつより候事、月のみつるがごとく、しほのさすがごとく、はじめは日蓮只一人唱へ候ひしほどに、見る人、値ふ人、聞く人耳をふさぎ、眼をいからかし、 口をひそめ、手をにぎり、はをかみ、父母・兄弟・師匠・ぜんうもかたきとなる」(御書 一四三一㌻)

と記されているように、この説法を聞いた人々は、あるいは汚らわしいとばかりに耳を塞ぎ、あるいは怒気をはらんだ目で睨みつけ、口を潜めて文句を言い、怒りに手を握りしめて歯を噛みしめる有り様だったのです。 

 そのため、たびたび、その説法の場を追われましたが、 それでも破邪顕正の師子吼は止むことなく、人々に法を説き続けられたのです。

 こうした布教が粘り強く続けられるうちに、少しずつ草庵を訪れる人々が現われ、大聖人に帰依する人々が増えていきました。

 この最初期に帰伏した門弟には、下総の印東祐昭の子で、一説に大聖人叡山遊学中の知己と伝えられる弁殿(成弁、後の日昭)、またその甥の築後房(後の日朗)、三位房、大進阿闍梨、武蔵公などがいます。

 また信徒には、富木常忍をはじめとして、四条金吾、工藤吉隆、池上宗仲、比企能本らが入信したと伝えられている他、南条時光殿の父兵衛七郎も、 いつとは定かではないものの、早期の入信と考えられています。

 こうした信仰の広がりは、大聖人御自身による折伏を中心に、信徒の俗縁をたどったものと拝され、草創期の僧俗一致の折伏行と拝されるのです。

 

 

 


善知識・悪知識

2022年07月25日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年10月16日(第991号)    

  【仏教用語の解説】10

   善知識・悪知識

 善知識・悪知識とは

 「知識」とは一般的に「知ること」「理解すること」、あるいはその内容を言いますが、仏教では、「友人」・「知人」を意味します。したがって善知識とは、自分を正しく導いてくれる徳のある友人の意に当たり、善友や親友とも称されます。その反対に悪知識とは、悪法を説いて人々を不幸に陥れる悪友のことを指します。

 世間のことわざに、「朱に交われば赤くなる」と言われますが、仏道修行に励む私たちにとっても、身近な知人から受ける影響は多大であり、善につけ悪につけ信仰の在り方を左右します。

 日蓮大聖人は『立正安国論』に、「蘭室の友に交わりて麻畝の性と成る」(御書 二四八㌻)

と仰せられています。すなわち、高貴な蘭の香りのする部屋に入れば自ずと自分にもその香りが移り、また、単体では曲がって生長する蓬も麻と一緒に植えれば真っ直ぐ伸びます。

 これと同じように私たちの信心修行も、時に辛いことがあったり、また魔が心に入り込んで信心が停滞したとしても、善知識に接することで自然に感化され、誤った信心の姿勢を正していくことができます。

 反対に、人を不幸に陥れる悪知識との縁が深くなれば、信仰の退転に繋がってしまう場合があります。

 悪知識の恐ろしさについて大聖人は、『涅槃経疏』を引かれて次のように教示されています。

 「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧みにして愚癡の人の心を取って善心を破るといふ事なり。総じて涅槃経の心は、十悪・五逆の者よりも謗法・闡提のものをおそるべしと誡めたり」

(御書 二二四㌻)

 すなわち、悪知識とは「謗法・闡提のもの」と示される如く、仏の正法を誹謗して誤った教えを説く者です。言葉巧みに修行者の心の隙に入り込み、ついにはその人の善良な信心を破ってしまうために、十悪や五逆罪を犯す者よりも恐ろしい存在であると説かれているのです。

 浄蔵・浄眼の故事

 善知識の助けによって正法に帰依して成仏を成し遂げることができた例として、法華経『妙荘厳王品』(法華経五八三㌻)には、妙荘厳王とその息子である浄蔵・浄眼という二人の故事が説かれています。

 父・妙荘厳王は始め外道の教えにとらわれていました。また二人の王子は、菩薩行を修して種々の三昧に通達していましたが、時に雲雷音宿王華智仏による法華経の説法を聴聞し、さらに母・浄徳夫人からの言いつけもあり、父王を正法へと導くことを決意して、種々の神通力を現じました。それを見た父王は大いに歓喜して、ついには娑羅樹王仏という仏の記別が与えられました。

 経文には、

 「此の二子は、是れ我が善知識なり。(中略)善知識は、能く仏事を作し、示教利喜して、阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ。

 大王当に知るべし。善知識は是れ大因縁なり。所謂化導して、仏を見ることを得、阿耨多羅三藐三菩提の心を発さしむ」(法華経 五九二㌻)

と、この二人の息子は父王にとっての善知識であると説かれており、善知識が仏道増進にとっての大きな助けであり、ついには成仏の境界へと導いてくれる存在であることが示されています。

 四種の善知識

 天台大師は『法華文句』(法華文句記会本下ー五七六㌻)に、先の『妙荘厳王品』の経文を釈して、具体的に四種類の善知識をしめしています。

①外護の善知識「能く仏事を作し」・・・修業者を援助し、仏法の弘通を援護する人

②教授の善知識=「示教利喜」・・・仏法の教えを説き示してくれる人

③同行の善知識=「化導して、仏を見ることを得」・・・共に修行に励んでくれる人

④実際実相の善知識=「菩提に入らしむ」・・・実際に成仏の功徳を与えてくれる大法(仏)

 これらを私たちの身近な状況に当てはめるならば、共に信仰に励む法華講員や、所属寺院の指導教師の存在こそ、同行・教授の善知識であるととらえることができます。

 また、実際実相の善知識については『御講聞書』に、

 「所詮実相の知識とは所詮南無妙法蓮華経是なり」(御書 一八三七㌻)

と教示されています。 すなわち、実際実相の知識とは法華経寿量品文底の南無妙法蓮華経を指します。

 御法主日如上人猊下は、

 「善知識とは一般的には、教えを説いて仏道へと導いてくれる善い友人・指導者のことを指しますが、ここで善知識と仰せられているのは、末法御出現の御本仏、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人様のことであります。つまり、御本仏大聖人様が末法に御出現あそばされて一切衆生の三因仏法を扣発し、凡夫即極の成仏を現ぜしめるが故であります。

 したがってまた、今時に約して申せば、人法一箇の大御本尊様を指すのであります」(大白法 八〇一号)

と御指南されており、最高の善知識たる本門戒壇の大御本尊への絶対的な信心によって、私たちは成仏を遂げることができるのです。

 悪知識を恐れず

 折伏を行じる

 私たちの仏道修行にとって、信心を破る悪知識の影響を恐れるのは大切なことです。ただし、その一方で、悪知識の存在がかえって信心の大きな糧となる場合もあります。

 大聖人は『種々御振舞御書』に、

 「今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめにあへり。(中略)相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。(中略) 釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり」

 (御書 一〇六二㌻)

と仰せられています。

 大聖人は法華経に予証される数々の難を忍ぶことにより、自らが末法出現の法華経の行者、末法の御本仏であると証明されました。

 裏を返せば大聖人は相模守(北条時宗)や平頼綱等の迫害者の存在によって法華経の行者たり得たのであり、「相模守殿こそ善知識よ」と仰せられるように仏法迫害の悪知識が、大聖人にとっては、かえって善知識となっていたのです。

 私たちも、悪知識に惑わされない堅固な信心を持つのはもちろんですが、「艱難汝を玉にす」との格言の如く、悪知識から受ける様々な逆境をも力に変えて、積極的にそれらの謗法に染まった知人・友人を折伏していくことが肝要です。



次回は、「九横の大難」についての予定です


宗旨建立

2022年07月23日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年8月1日(第986号)

    日蓮正宗の基本を学ぼう  119

     日蓮大聖人の御生涯 ⑤

      宗 旨 建 立

 今回は、宗旨建立とそれに伴う「日蓮」の名乗りについて学んでいきましょう。

 三月二十八日

 建長五(一二五三)年三月二十八日の明け方、蓮長は、清澄山の頂に歩みを運ばれました。

 二十二日から思索を重ねること七日、ついに

「上行菩薩の再誕・末法の法華経の行者として、 いかなる大難が競い起ころうとも、

南無妙法蓮華経の大法を弘通しなければならない」との不退転の決意を固められたのです。

 そして、太平洋の彼方から太陽が昇り来たると、法界に向かって声高らかに

「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と御題目を唱え出だされました。

 これは、天台大師・伝教大師はおろか、インド応誕の釈尊も唱えることのなかった、

蓮長自身の内面の御悟り、内証の題目を初めて開き宣するものでした。

 この後、師匠・道善房の持仏堂において、

浄円房など順縁の人々に対して、念仏と禅の破折の御法門を説かれました。

この説法の相には、破邪を面とし、少機のために末法下種の大法を示す意義が拝されます。

 この御説法について『清澄寺大衆中』には、

 「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、

 建長五年三月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして、

 浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめ」 (御書 九四六㌻)

と、また『善無畏三蔵抄』に、

 「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、

 本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何に況んや人倫をや。

 此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す」

  (御書 四四四㌻)

と仰せられています。

 このことから、三月二十八日の内証の題目開宣には、

十二歳の頃から祈念し、後に智慧の宝珠を授けてくださった虚空蔵菩薩と、

出家得度の師である道善房に対する報恩の意義を含まれていることが明らかです。 

 四月二十八日

 次いで一カ月後の四月二十八日早暁、改めて清澄山頂に登られた蓮長は、

旭日に向かって御題目を唱えられ、妙法の宗旨を建立されました。ここに、

広く万機のために題目を開示するという、

一切衆生に対する妙法弘通の宣言がなされたのです。

 『曽谷入道殿御返事』には、章安大師の釈を引用された後に、

 「妙法蓮華経と申すは文にあらず、義にあらず、一経の心なり」(御書 一一八八㌻)

と仰せられています。この題目は単なる経典の題号ではなく、

法華経の文底に秘し沈められた肝心の法であると説かれているのです。

 また『秋元御書』に、

 「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(御書 一四四八㌻)

と仰せられ、

この題目こそ、諸仏が成道された根本の法であり、

一切の功徳が納まっていることを明かされています。

 末法の一切衆生は、この南無妙法蓮華経の題目を受持信行することにより、

必ず成仏を遂げることができるのです。

 この時蓮長は、自身の御名を「日蓮」と改められ、

本格的な妙法弘通の初めての説法、初転法輪に臨まれました。

 初転法輪については、後年、『聖人御難事』に、

 「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。

 天照太神の御くりや、右大将の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。

 此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめ」

  (御書 一三九六㌻)

と、述べられています。

 清澄寺諸仏坊の持仏堂において、聴衆に対して破邪に即する顕正の説法、

つまり釈尊の教えが力を失った末法の今、念仏等の諸宗はすべて悪法であることを強調され、

時に適った正法である妙法を信受すべきことを勧められたのです。

 

 聴聞衆の動揺

 諸宗各派の修学研鑽を終えた日蓮大聖人が、

どのような説法をするかと期待していた人々にとって、

これまでの信仰を否定するその内容は、驚きと怒りを呼び起こすものでした。

 念仏の信者であった安房東条郷の地頭・東条左衛門尉影信も、

この説法を聞いて怒りを露わにし、大聖人の身に危害を加えようとしました。

 師匠・道善房は、清澄寺の混乱と地頭の権力を恐れるばかりで何もできず、

大聖人は、法兄の浄顕房・義浄房の助けによって清澄寺を退出し、

領地の外へと逃れられたのです。

 大聖人は、法華経『観持品第十三』の、

 「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん(多くの無智の人々

 あって、悪口を言い、罵倒し、また刀や杖を用いて危害を加える者が現われる)」

 (法華経 三七五㌻)

 「数数擯出せられ 塔寺を遠離せん

 (たびたび所を追われ、寺院・廟所から遠く追放される)」(法華経 三七八㌻)

等の経文に照らして、様々な大難が競い起こることをご存知でした。

 それでも一切衆生を救わんと、妙法蓮華経の大法を弘通する決意を固められ、

万機に対して法華の正義を顕彰なされました。

まさにその日から、経文に予証せられた様相が事実として現われたのです。

 「日蓮」の名乗り

 大聖人は、宗旨建立に当たって「蓮長」の名を「日蓮」と改められたことについて、

甚深の意義があることを『産湯相承事』(御書 一七〇九㌻)に明かされています。

 また、「日」と「蓮」の各々の文字については、『四条金吾女房御書』に、

 「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。

 故に妙法蓮華経となづく。日蓮又日月と蓮華との如くなり」

 (御書 四六四㌻) 

と示されています。

 法華経『如来神力品第二十一』に、

 「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」 

 (法華経 五一六㌻)

と、また同じく『従地涌出品第十五』に、

 「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経 四二五㌻)

と、末法に出現する法華経の行者の御化導が説かれますが、

この「日月」と「蓮華」から「日蓮」と名乗られたことが拝されます。

 この経文の如く、予証された上行菩薩の再誕として末法濁悪の世に出現され、 

常に蓮華のように清淨な御振る舞いにより、

妙法をもって一切衆生の闇を除かれるという深意を、御名に明示されたのです。

「日蓮」の御名については、総本山第二十六世日寛上人が、『日蓮の二字の事』に

その御徳を示され、さらに甚深の義を含むことを明かされています。

 さらに『寂日房御書』には、

 「一切の物にわたりて名の大切なるなり。(中略)日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし」

 (御書 一三九三㌻)

と、その名号は仏の境界であることを示されています。

 ですから、「日蓮」との御名は末法の御本仏の名称であると拝することが大切であり、

日蓮正宗では「日蓮大聖人」と尊称申し上げるのです。

 「大聖人」との呼称には、

三世を達観される「聖人」と、仏様を顕わす「大人」の意義が込められています。

日蓮宗等では、「聖人」や「大菩薩」といった呼称を用いますが、

これは大聖人を御本仏と拝することができない故の間違った呼称なのです。

 私たちの信行にとって、大聖人こそ末法の御本仏であるとの確信に立ち、

自行化他・折伏育成に励むことが肝要です。

 

 

 

 次回は、ご両親の入信と鎌倉での弘教について学んでいきましょう。

 

 


正像末の三時

2022年07月21日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年9月16日(第989号)

  【仏教用語の解説】9

   正像末の三時

 正像末の三時とは、

釈尊の滅後に仏法がどのように伝わり弘まっていくかを三つの時代区分で示したもので、

釈尊滅後から千年を正法時代 、次の千年を像法時代、それ以降の万年を末法時代と言います。

 大聖人は、 

正像末の時代によって仏法の得益が異なることを『顕仏未来記』に、

「正法千年は教行証の三つ具に之を備ふ、像法千年には教行のみ有って証無し。

末法には教のみ有って行証なし等云々」(御書 六七六㌻)

と仰せです。

 正法時代には

教えも修行も正しく実践され、正しい証果・悟りを得ることができました。

 次の像法時代には、

正法時代に像(似)て形式的に教えと修行は存続していきましたが、

徐々に仏道の果報を得る者は失われていきました。

 最後の末法時代には教えのみが残って修行も悟りも無に帰し、

人心は荒廃し、争いの絶えない時代になるというのです。

 このように、

釈尊が入滅してから時代が経つにつれて徐々に仏法の得益は失われ、

末法には五濁にまみれた世の中になってしまうのです。

 五箇の五百歳

正像末の三時の時代区分については、経典によって諸説があるものの、

日蓮大聖人は、さらに釈尊滅後の時代を五百年ずつに区切る、

 大集経の「五箇の五百歳」を基本とされています。すなわち、

①解脱堅固・・・正法時代の前半五百年に当たる。

 釈尊の法が正しく伝えられ、智慧を得て悟りを得る者が多い時代です。

②禅定堅固・・・正法時代の後半五百年に当たる。衆生が大乗仏教を修し、 

 心を静めて三昧に入る禅定の修行が広く行われた時代。

③読誦多聞堅固・・・像法時代の前半五百年に当たる。

 経典を読誦することや、講説を聴聞する者が多い時代。

④多造塔寺堅固・・・像法時代の後半五百年に当たる。寺塔を建立することの多い時代。

⑤闘諍言訟白法隠没・・・釈尊滅後二千年を過ぎた後の万年に当たる。

 諍いが多く、釈尊の仏法である白法の力が隠没して

 その修行や功徳が失われる時代。

 大聖人は、御自身の在世の時には既に第五の白法隠没の時で、末法時代に入っていることを

示されています。

 三時の弘教

 釈尊は、正像末の三時を経るにつれて仏法の力が失われていくことを説かれました。

しかし大聖人は、その反面、付嘱〔✽1〕によって、

その時に適した仏法が弘まっていくことを『撰時抄』等に示されています。

まず、正法時代は迦葉・阿難といった釈尊の直弟子が小乗経を弘め、

後に竜樹菩薩や天親菩薩が権大乗経を弘通するとされます。

正法時代に仏法を弘めた迦葉・阿難・竜樹・天親といった人は、

釈尊の仏法を口伝付嘱によって相続した人で付法蔵の人師と言われています。

 次の像法時代は

中国の南岳大師や天台大師、日本の伝教大師が法華経迹門を弘通し、

理の一念三千によって衆生を救う時代とされます。

 大聖人は『観心本尊抄』に、

 「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現し」

  (御書 六六〇㌻)

と仰せであり、

南岳大師の内証は観音菩薩、天台大師・伝教大師の内証は薬王菩薩であると仰せです。

これらの人師は、釈尊から像法時代に法華経を弘めるよう付嘱を受けた方々なのです。

 実際に、天台大師や伝教大師は、

当時に弘まっていた間違った宗派を破折し、正法である法華経を弘通されました。

 次の末法時代の万年は、

極度に人心が荒廃し、釈尊の仏法は去年の暦の如く無益となり、

衆生を救済することができなくなってしまう時代です。

 釈尊は、末法の衆生を救済するため、

法華経の会座に上行菩薩を上首とする六万恒河沙という無数の地涌の菩薩を召し出だして、

結要付嘱という特別な付嘱を授けました。

 この付嘱は、釈尊の仏法の一切を束ね、妙法蓮華経の要法を結んで付嘱するもので、

これによって一切の仏法は、釈尊の所有から地涌上行菩薩の所有へと移るのです。

この地涌の菩薩について、法華経の『神力品第二十一』には、

「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」

 (法華経 五一六㌻)

と、暗闇のような濁悪の末法の世を、日月のように明るく照らし出し、

人々を正しい仏道に導くと示されています。

 また、『涌出品第十五』には、

 「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経 四二五㌻)

と、

蓮華が汚泥の中にあって浄らかに咲くように、濁世に染まらずに妙法を弘めるともあります。

 日蓮大聖人は、自らが末法出現の上行菩薩であるという深い御自覚のもと、

自らを日月と蓮華になぞらえて「日蓮」と自称されたのです。

 さらに『百六箇抄』には、

 「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」 (御書 一六八五㌻)

と仰せられ、

地涌上行菩薩は、一応は釈尊の弟子ですが、本当の御姿は久遠元初自受用身という、

釈尊をも含めた一切の仏の根源となる御本仏であられることを御教示されました。

 御本仏大聖人は、結要付嘱の法体である三大秘法の宗旨を建立され、

末法濁悪の民衆を利益するための大白法を弘通されたのです。

 末法は大白法が

 広宣流布する時

 末法は釈尊の仏法の得益が失われてしまう反面、

法華経『薬王菩薩本事品第二十三』には、

     「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」

  (法華経 五三九㌻)

と、法華経が広宣流布する時代であるとも記されています。

この法華経こそ、

外用は上行菩薩の再誕、本地は元初自受用身の再誕である大聖人が弘められる

三大秘法の大白法なのです。

 大聖人は『報恩抄』に、

 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。

 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。 無間地獄の道をふさぎぬ。

 此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり」

  (御書 一〇三六㌻)

と仰せであり、大聖人の大慈大悲により、未来永劫に亘って、

大白法が一切衆生を抜苦与楽せしめることを御教示されています。

 私たちは日蓮正宗僧俗は、

大聖人の仏法のみが末法の一切衆生を救う教えであると深く自覚し、

折伏を実践してまいりましょう。




     〔✽1付嘱〕 師匠(仏)が弟子に教法を付与し、 弘法を嘱託すること。

           付とは物を与えること、嘱とは事を託すことをいう。





          次回は、「九横の大難」について予定です。

 

 

 

 


修 学 二

2022年07月19日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年7月1日(第984号)

  日蓮正宗の基本を学ぼう 118

   日蓮大聖人の御生涯 ④

     修 学 二

 

  今回は、

 比叡山の修学をひとたび終えられ、次いで奈良、京都等での修学を経て、

 宗旨建立に至る経緯と、そのご決意について学んでいきます。

 

  諸国遊学

  三年にわたり比叡山で修学された蓮長は、

 『妙法比丘尼御返事』に、

  「日本国に渡れる処の仏経並びに菩薩の論と人師の釈を習ひ見候はゞや

  (中略)国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に」(御書 一二五八㌻)

 と述懐されているように、

 比叡山での研鑽に加えて、その他諸宗の教えについても学ぶため、

 寛元四(一二四六)年、二十五歳の時に比叡山を下り、

 奈良や京都などの諸宗の寺々へ研鑽の歩みを運ばれました。

  比叡山を下って初めに向かったのは、三井の園城寺(滋賀県大津市)でした。

  園城寺は、円珍によって開かれた天台宗寺門派の寺院で、

  法華経を重んじながらも、

 現実には真言の教えが深く入り込んだ宗派となっていましたが、

 蓮長は研鑽のために円珍の著述を閲覧されました。

  次いで京都に向かい、泉涌寺にて宋版の大蔵経を閲覧し、

 その足で臨済宗の弁円、曹洞宗の道元を訪ね、

 禅宗の考えについて論談されたと伝えられています。

  さらに奈良へ向かった蓮長は、奈良時代に繁栄を極めた南都六宗

  (倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗)の教えについて研鑽されます。

  奈良にあった七大寺(興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・

  大安寺・法隆寺)には、仏典や書籍が多く収蔵されており、

 特に宝治元(一二四七)年、

 蓮長は七大寺の中の薬師寺において大蔵経を閲覧されました。

  その翌年の宝治二年には、当時、天皇の庇護によって隆盛を極めていた、

 真言宗の総本山である高野山金剛峯寺に向かい、真言の教えを徹底して研鑽し、

 さらに真言宗の東寺や仁和寺にも足を運ばれ、真言宗各派の教えについて研鑽されました。

  このように、各宗の教義を研鑽される一方で、

 歌人藤原(冷泉)為家のもとで歌道や書道なども修学されたと伝えられています。

  建長二(一二五〇)年には、聖徳太子が建立した四天王寺に入られ、

 聖徳太子の偉業を偲びつつ、所蔵される仏典や書籍を閲覧され、二年後の建長四年には、

 修学の総仕上げとして再び比叡山と園城寺を訪ねて、一切経の閲覧に専念されたのです。

 

  自覚と決意

 『妙法比丘尼御返事』に、 

 「此等の宗々枝葉をばこまかに習わずとも、 所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故に、

  随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで」(御書 一二五八㌻)

 と仰せられています。

  先述のように、

 十二歳より三十二歳に至る二十年間、ひたすら諸宗の修学研鑽に励んだ蓮長は、

 仏法の根本的な真理を理解すると共に、当時の仏教界の実情を知り、

 自らが立てた誓願に対する確信を深めました。

  ここで、蓮長が二十年間の修学研鑽において得たことを挙げると、

  一つには、

 大集経に示される「後五百歳白法隠没」の経文の的中と「法華最第一」の深い確信でした。

  比叡山は、正面上は法華経を重んじるも、爾前権教である真言の教えに誑かされ、 

 法華経の正義を違えている。また、

 禅宗や浄土宗は新興勢力として、主師親三徳兼備の釈尊の仏法を否定し、

 社会に悪法を定着させつつあり、その他律宗等の諸宗は、

 ことごとく時機を違えて釈尊の本義に背いている。

 これらの邪宗邪義が世の中に弘まってることがすべての災いの原因であり、

 この災いを鎮め国家に安泰をもたらすためには、

 釈尊出世の本懐たる法華経によるしかない、ということでした。

 

  二つには、

 末法に弘まるべき教えは法華経の肝心である妙法蓮華経の五字であり、

 この妙法蓮華経を弘めることこそ地涌上行菩薩の使命であること。そして、

 折伏をもって末法濁悪の世に苦しむ衆生を救済しなければいけないと自覚した

 自らの立場こそ、まさに上行菩薩に他ならない、 ということでした。

  しかしまた、法華経の『勧持品第十三』には、

  「濁劫悪世の中には 多く諸の恐怖有らん 悪鬼其の身に入って 

  我を罵詈毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 

  是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 

  但無上道を惜む」(法華経 三七七㌻)

 とあるように、

 末法に法華経を弘める者には、様々な迫害が加えられることが説かれているのです。

   蓮長は、 自らを法華経の行者として、また上行菩薩の再誕として、

 その使命を尽くすためにどのような厳しい迫害があろうとも、

 国家の災難と民衆を苦悩から救わんとする大慈悲心より、

 法華教を弘めなければならないとの強い決意をますます強固なものとして、

 身命を惜しまず法華経を流布していくことを強く決意されたのです。

 

  安房へ帰郷

 かくして鎌倉、比叡山、園城寺、高野山、南都六宗などの

 諸宗各派の修学研鑽を終えられた蓮長は、建長五年(一二五三)年の春、

 師の道善房や法兄である浄顕房、義浄房、また父母の待つ安房へ帰られました。

  そして三月二十二日より、清澄寺の一室にこもり、地涌上行菩薩の再誕として、

 身命をかけて法華経を弘通し折伏を行じていくための思索を重ねられたのです。

  後年述作の『 開目抄』には、

 法華経の経文に示されるように、いかなる迫害を受けようとも、

 妙法蓮華経の大法を弘通しなければならないとの思いを、

  「これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。

 いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見に、

 いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし、

 いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし。

 (中略)今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」(御書 五三八㌻)

 と述懐されています。

  すなわち、

 邪宗邪義の破折を一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠より反対され、

 迫害を受けると共に、国家や幕府からの迫害も必定である。

 しかし、言わなければ無慈悲である。

 法華経や涅槃経に照らし合わせると、言わなければたとえ今世では何事もなくとも、 

 来世では必ず無間地獄に堕ちることが明らかである。

 また、言うならば、三障四魔が必ず競い起こってくることがはっきりと判った。

 言うべきか、言わないで過ごすべきか。やはり言うべきであると覚悟を決めた、

 と仰せです。

  この御文には、折伏をもって妙法蓮華経の大法を弘通するという強い信念と、

 強盛な菩提心を起こして絶対に屈しないという不退の誓願が明かされていて、

 宗旨建立直前の一大決意と拝されるのです。




      次回は、 宗旨建立について学んでいきます。

 

 

 

 

 

 


極楽往生

2022年07月17日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年7月16日(第985号)     

   【仏教用語の解説】8

    極 楽 往 生

― 念仏宗(浄土宗・浄土真宗等)の教義 ―

 

 「極楽往生」とは、念仏を称えて至心に阿弥陀仏の慈悲を請えば、

死後に阿弥陀仏が迎えに来て極楽世界に往生を遂げるという念仏宗の教義です。

 阿弥陀仏によれば、極楽は、私たちが暮らす娑婆世界から西方に向かい、

十万億の仏土を過ぎたところにあるとされる、阿弥陀仏は教主とする浄土で、

あらゆる苦悩が存在せず、ただ楽のみがある世界と言われています。

日蓮大聖人は、「極楽往生」について立宗の初期より厳しく破折されています。

往生成仏の根拠、阿弥陀の「四十八願」

阿弥陀仏が過去に法蔵比丘という名前で修行していたとき、

四十八の誓願を立てたことが無量寿経に説かれています。

 念仏宗では、

その四十八願の中の十八番目が念仏によって極楽往生できることの根拠であると説きます。

無量寿経には、

「設い我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して、

乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚をとらじ。ただ、五逆と誹謗正法とを除く」とあります。

つまり阿弥陀仏は、衆生が至心に極楽往生を願い、十回でも念仏をしたならば、

必ず極楽浄土に往生せさせる。

それができなければ自分は仏にはならないと誓願したといいます。

ただし、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)と誹謗正法の者を除く、

とあることに留意すべきです。

 日本における念仏信仰日本では、

比叡山が開かれて以来、天台宗の修行の一部で念仏が行われ、

また天台僧・恵心が『往生要集』を著してから、

念仏による極楽往生を願う人が多くなっていきました。

 大聖人が出家された清澄寺(当時天台宗)でも念仏が盛んで、

『妙法比丘尼御返事』 には、

「皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、

 いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願をおこす」

 (御書 一二五八㌻)

と、

大聖人は念仏を唱える人々が苦しむ現実を目の当たりになされ、深い疑いを起こし、

正法を求めるべく願を立てたと仰せられています。

法然の専修念仏

親鸞の悪人正機

法然はもともと天台宗の僧侶でしたが、 『選択本願念仏集』(選択集)を著し、

浄土三部経(阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経)を除く、

一切の諸仏・諸経を「捨・閉・閣・抛」 (捨てよ・閉じよ・閣け・抛て)せよと説き、

称名念仏以外を行ってはならないと、専修念仏を説きました。

法然が専修念仏を主張する根拠は、曇鸞・道綽・善導といった、

中国浄土教の人師の釈にあります。

 すなわち、

善導の『往生礼讃偈』には、念仏のみを修する者は、

「十即十生、百即百生」(十人が十人、百人が百人極楽往生を遂げる)、

それ以外の教えに依るならば 「千中無一」(千人に一人も極楽往生できない)

と説かれています。

法然はこうした釈などを根拠に、専修念仏を主張するのです。

専修念仏について大聖人は、 「四十八願の中に、第十八願に云はく

『施ひ我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く』云々。

 たとひ弥陀の本願実にして往生すべくとも、

 正法を誹謗せむ人々は弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか。

 又法華経の二の巻には 『若し人信ぜざれば其の人命終して阿鼻獄に入らん』云々。

 念仏宗に詮する導・然の両人は、経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給ふべしや」

 (御書 一一二八㌻)

と示されています。

先に示したように、 念仏宗が極楽往生の根拠とする阿弥陀仏の四十八願の中に、

五逆罪と誹謗正法の者は往生できないと説かれ、

また法華経に、法華経を誹謗する者は阿鼻地獄に堕ちるとあります。

こうした仏説に従えば、専修念仏を説き、

法華経を含む諸経を 「千中無一」、「捨閉閣抛」などと

誹謗する善導・法然らが阿鼻地獄に堕ちることは必定であり、 それに従う者も同じです。

 仏説による大聖人の御教示と、善導ら人師の誤った解釈による法然の専修念仏、

どちらが正しいかは言うまでもありません。

 また、法然の弟子で浄土真宗の祖とされる親鸞は、

法然の専修念仏を発展させ、「悪人正機」を説きました。

親鸞の教えを記した『歎異抄』には、

 「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」とあり、

善人でさえも往生できるのであるから、悪人が往生することは、

むしろ当然であると説いたのです。

 これは、善業を修して成仏を願う善人は、阿弥陀仏に頼る気持ちが薄く救われにくいが、

悪人こそが阿弥陀仏の救済の正機と知り、自らが悪人たることを自覚し、

専ら阿弥陀仏の救済に頼ろうとする他力本願の人ほど救われるのであるというものです。

 親鸞のこうした教えは、仏法の因果の道理を完全に無視しています。

 このような考え方は、当然ながら悪を増長するもので、親鸞の門下には当初から

「本願誇り」と言われる積極的に悪事を行う一類がいたと言われています。

 親鸞の悪人正機は、明らかに仏説に背くものです。

 念仏に利益なし

 念仏の教えは、

死後に往生できると説くもので、現世・今生のうちには何らの利益も説かれていません。

 その証拠に、中国浄土教の祖である善導は、阿弥陀仏の来迎を待ちきれず、

寺前の柳の木に首をくくり、西方に向かって念仏を称えて飛び降り自殺を図りました。

しかし、柳の枝が折れてすぐには死にきれず、七日七晩悶絶し、

うめき苦しんで絶命(悶絶躄地)したと言われています

 (念仏無間地獄抄・御書 四一㌻)

 さらに法然は、善導が柳の木から飛び降り自殺したことを

『善導十徳』の七番目に挙げて賛嘆しています。

 このように念仏宗の極楽往生という教えは、現世に生きる者が、

念仏を称えて死後に極楽往生を願うだけの、非常に退廃した教えなのです。 

 真実の仏法を死後に極楽往生を願う念仏の教えは、飢饉疫病に苦しみ、

生きる望みを失った鎌倉の庶民に爆発的に広まっていきました。

 しかし、実教である法華経には、阿弥陀仏教の教えが方便であり、

「未顕真実」(法華経 二三㌻)の教えであると説かれると共に 、の娑婆世界こそが、

仏が常駐する仏国土であると明かされています。

 大聖人は、「立正安国」「娑婆即寂光」の原理を示して、

折伏弘通すべきことを教示されています。

 私たちは、間違いに気づかず、念仏に執している人たちに、

法華経に説かれた真実の仏法、その根幹である大聖人の本因下種の仏法を教え、

折伏していかなければならないのです。

 

 

 



      次回は、「正像末の三時」についての予定です。

 

 

 

 

 

 


出家・修学(一)

2022年07月15日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年6月1日(第982号)

  日蓮正宗の基本を学ぼう 117

   日蓮大聖人の御生涯 ③

     出家・修学 一

 

    初回から二回にわたって日蓮大聖人の御誕生と幼年期について詳しく学んできました。

    どのようなテーマをもとに学んだのかというと、

   まず大聖人が御誕生になられた末法という時代について、

   二番目に御誕生当時の世相について、

   三番目は御誕生の日について、

   四番目は大聖人の御両親について、

   五番目は大聖人が御誕生になられる前に見られたご両親の霊夢と

       実際に御誕生になられた時の不可思議な瑞相について、

   そして

   六番目には、大聖人の幼年期についてです。

    今回は出家から修行に至るまでの時期について学んでいきます。

 

    立願・入門

    善日麿と名づけられた大聖人は、自然豊かで温暖な安房の地において、

   父母の深い慈愛と教育によって健やかに成長されました。 

    しかしながら、世間では、悲惨な事件が相次ぎ、

   大風雨や干ばつなどの天災によって大飢饉も発生し、

   世の中の混乱の度は深まるばかりでした。 

   聡敏な善日麿は、承久の乱やうち続く天災や人災の凶相は何によるの      

   かという疑問を持つに至り、これらの社会の混乱を解決するため、

    「生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼり」

     (御書 一二七九㌻)

   とあるように、天福元(一二三三)年十二歳の時、

    「日本第一の智者」となるために学問を志して、

   安房片海村にほど近い清澄寺の道善房のもとへ入門されました。

    入門後の善日麿は、主に兄弟子の浄顕房・義浄房の二人から、

   一般的な教養と仏典を中心とした読み書きを学ばれました。

    これは、後に浄顕房と義浄房に与えた

    『報恩抄』に、

    「各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします」(御書 一〇三一㌻)

   と述べられていることからも判ります。

    善日麿は、

   生来の才能と求道心によって、

   また師匠道善房や、兄弟子の浄顕房や義浄房たちの教育によって、

   さらに智解を深めていかれました。

    このような修行の中にあって、善日麿は清澄山に登られた当初から、

   「日本第一の智者となし給え」との願を立てられ、

   十二の年より清澄寺の虚空蔵菩薩に祈念されました。

    そしてこの大願を立てられた理由について、

   幼少の頃を述懐された御書に基づき、三点に集約して次に挙げます。

    その一つ目は、

   下剋上とも言うべき承久に乱において、

   天皇方は鎮護国家を標榜する天台真言等の高僧らに命じ、

   調伏の祈祷を尽くしたのにもかかわらず惨敗し、

   三上皇が島流しに処せられてしまったのは何故か。

    「我が面を見る事は明鏡によるべし。

     国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」(御書 一三〇一㌻)

   とあるように、

   国家の盛衰も社会の平安も、その根源に仏法が大きく影響する。

   故に「日本第一の智者」となり、

   仏法の真髄を究めなければならないと大願を立てられたこと。

    二つ目には、『妙法比丘尼御返事』に、

   「此の度いかにもして仏種をもうへ、

   生死を離るゝ身とならんと思ひて候ひし程に、皆人の願はせ給ふ事なれば、

   阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、

   いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願いをおこす」

   (御書 一二五八㌻)

  と述べられているように、

  念仏を唱える行者の苦悶の臨終の姿、悪相を目の当たりにしたことにより、

  念仏に対する深い疑問を抱かれたこと。そして、

  そのことによって諸教の肝要と諸宗の子細を究めるために誓願されたこと。

    三つ目には、『報恩抄』に、

    「何れの経にてもをはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。

    而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、

    万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふところに一つの願を立つ」

     (御書 一〇〇〇㌻)

   と述懐されている通り、

   釈尊の説いた教えが各宗に分かれ、それぞれ優越性を主張しているが、

   釈尊の本意はただ一つなのではないか、

   その疑問を晴らすために仏法を究めたいと願われたことです。 

 

    得 度

    善日麿は 先に挙げた疑問の解決と仏法の真髄を極めるために、 

   得度を決意されました。

    そして嘉禎三(一二三七)年、十六歳の時、

   道善房を師として得度し、名を是聖(生)房蓮長と改め、

   今まで以上に日々の修行に精進し、昼夜を分かたず仏法の研鑽に励まれました。

    この頃には、安房随一の名刹である清澄寺とは言っても、

   蓮長の仏法に対する根本的な疑問に対して、

   師の道善房や浄顕房・義浄房も蓮長に教えるものはなく、

   その上、清澄寺所蔵の経巻典籍もすべて読み尽くされていました。

 

    修 学

    そして二年後の春、清澄寺において学び尽くした蓮長は、

   さらに深い研鑽の志を抱いて、諸国へ遊学の旅に立たれました。

    この遊学は後年、 「鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の

   国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に云々」(御書 一二五八㌻)

   と 述べられているように、

   蓮長は出家以来の大願を果たすべく、より一層深い研鑽の志を懐き、

   多くの仏典・書籍を求め、政治・経済の中心地であった鎌倉をはじめ、

   当時の仏教の中心地とも言うべき比叡山延暦寺や京都・奈良の各宗の

   中心寺院などを歴訪される旅へ発たれました。

   時に延応元(一二三九)年の春、十八歳の時で、

   諸国遊学は十四年間にもわたりました。

   初めに向かわれたのが、 政治・経済の中心地であった鎌倉です。 

   鎌倉では、北条幕府の庇護により、

   既に禅宗・浄土宗をはじめ各宗各派の大寺院が建立され、隆昌を誇っていました。 

   まずは、

   念仏・禅宗の法義の検討を加え、それらの宗の本源を尋ねる必要がありました。

   そして仁治二(一二四一)年には、

   鶴岡八幡宮に蔵する大蔵経も閲覧されました。

    『南条兵衛七郎殿御書』に、

    「法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき」

     (御書 三二六㌻)

   と述懐されていることからも、

   当時既に念仏をはじめ諸宗の教義に精通されていたことが判ります。

 

    比叡山へ

    そして、鎌倉で遊学すること四年、仁治三年二十一歳の時、

   さらに

   多くの典籍を閲読し、仏法の奥義、法華経の真髄を討究するために、

   蓮長は日本仏教の中心とも言うべき比叡山延暦寺に向かわれました。

    比叡山に登った蓮長は初め東塔の円頓房に住し、

   後には横川の定光院にも住まわれたと伝えられています。

    蓮長は当時の叡山三塔(東塔・西塔・横川)の

   総学頭職・大和庄俊範法印に師事し、法華の奥義、天台の教義などを研鑽されました。

    蓮長にとって、研鑽の目的は単に天台の教義を習学することではなく、

   法華一乗の奥旨と経証を確認し、併せて当時の比叡山の実態を知ることでありました。

    強い求道心と大願を抱く蓮長は機会あるごとに高僧や学僧たちと論義を交え、

   伝教大師の遺風を忘れて権実雑乱の邪義に堕した

   比叡山の仏教を厳しく論破されました。

    そのため、

   蓮長の学徳と名声は次第に比叡山の内外に響きわたっていったのです。






 

    次回は、諸国遊学の続きと宗旨建立に至る経緯について学んでいく予定です。

 

 

 

 

 


娑婆即寂光

2022年07月13日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年6月16日(第983号)

   【仏教用語の解説】7

      娑婆即寂光

 娑婆即寂光とは、私たちが住む苦悩に満ちたこの娑婆世界が、

実は仏の住まわれる常寂光土であることを示す言葉です。

 娑婆世界

 娑婆とは、梵語「サハー」の音写で「忍」や「堪忍」を意味します。

この世界の衆生には様々な煩悩があり、

悪業を積んでいて苦しみから逃れることができないために、常に堪え忍ばなければならず、

また諸菩薩が 衆生を救済するため、苦難を堪え忍んで教化するので、娑婆世界と言います。

 四種の浄土(四土)

 天台大師は浄土に四種(四土)あることを説いています。

一、 梵聖同居土。凡夫と声聞・縁覚などの聖者が共に住する国土。

  これに同居穢土と同居浄土があり、不浄充満の娑婆世界は同居穢土となります。

二、方便有余土。見惑・思惑といった煩悩を断じた声聞・縁覚が居住する国土。

三、実報夢障礙土。見惑・思惑・塵沙惑を断じた菩薩が居住する国土。

四、常寂光土。永遠の悟りを得て、法身・般若・解脱の三徳を具えた諸仏如来が居住する国土。

 『普賢経』に、

 「釈迦尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる。その仏の住処を常寂光と名づく」

  (法華経 六四二ページ)

とあり、法華経の信意を説く釈尊の本地は自受用身であり、

その住処は常寂光土であると説かれています。

 娑婆世界こそ

 常住の浄土

 釈尊は『寿量品』において、久遠五百塵点劫の本地を開顕した後、自らの住処について、

 「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」 (法華経 四三一㌻)

と、自らは久遠已来常に娑婆世界にあって衆生を教化してきたと説かれました。

穢土〔✽1〕と思われていた娑婆世界が、

実は仏の常住する寂光土であることが明かされたのです。

 四土の別が生じた理由について

天台大師が、

  「諸土の別異は、像の如く飯の如し。業力に隔てられて感見不同なり」

   (法華玄義釈籤会本 下ー 二三二㌻)

と、鏡や器が同じであっても、鏡に映る像や器の上の飯が異なれば

全く異なった見え方をするのと同じように、衆生の境界が違えば、    

その業と果報とによって国土の見え方が異なり、四土の差別を生じる、と示しました。

 大聖人は『観心本尊抄』に、

 「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。

 仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり。

 此即ち己心の三千具足、三種の世間なり」(御書 六五四㌻) 

と説かれ、娑婆世界とは、災難を離れた常住不滅の浄土であり、仏も衆生も共々に、

三世永遠の生命を得て常住する国土であることを仰せです。

すなわち、一念三千が娑婆世界を寂光土とするための原理であり、

衆生の命が仏界に至れば、自ずとその国土が寂光土になるということなのです。

 一心欲見仏

 不自惜身命

 『寿量品』の自我偈(法華経 四四一㌻)には、

寂光土について、

種々の珍宝や宝樹により莊嚴された安穏なる国土で、天人が天鼓を打ち鳴らし、

曼荼羅華を降らし、衆生が遊楽している所であると説かれています。

 そしてさらに、そのような寂光土に、 いつでも行くことができると説かれています。 

すなわち、

 「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 

 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」 (法華経 四三九㌻)

と、衆生の心が素直で柔軟になり、身命を惜しまず仏を渇仰恋慕するならば、

その時直ちに霊山浄土〔✽2〕 が現われ、

そこで常住説法されている仏に会うことができると説かれているのです。

 大聖人の住処

 即寂光土

 大聖人は『四条金吾殿御消息』

に、

「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。

 娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、

 片瀬の中には竜の口に、日蓮が命をとどめをく事は、

 法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(御書 四七八㌻)

と仰せられ、

法華経のために頸を切られようとした竜の口こそ、

大聖人自らが法華経のために命を捧げた場所であり、寂光土であると仰せです。

すなわち大聖人は「一心欲見仏 不自惜身命」 の振る舞いによって

自らを末法出現の御本仏と発迹顕本され、

この娑婆世界が寂光土であるという実義を示されたのです。

 また『南条殿御返事』には、

 「教主釈尊の一大事の秘宝を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。

 (中略)かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」

  (御書 一五六九㌻)

と、 一大事の秘法たる大御本尊を胸に収める自らの住処が霊山浄土であるとも仰せです。

つまり、大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊おわしますところこそが寂光土であり、

霊山浄土なのです。

 私たちの住処を

 寂光土へ

 私たち日蓮正宗の僧俗は、

総本山大石寺を大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊おわします寂光土と拝し、

折々に登山参詣することが肝要です。

 また『御義口伝』に、

 「霊鷲山とは寂光土なり。(中略)

霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処を説くなり云々」

(御書 一七七〇㌻)

との御指南から、日蓮正宗の寺院や信徒宅には御法主上人猊下が御書写された御本尊が在し、

その御本尊に対する信行が、直ちに本門戒壇の大御本尊に通ずるところから、

その道場が即寂光土となるのです。

 さらに、私たちが大聖人の御金言と御法主上人猊下の御指南を体し、

身命を惜しまず折伏弘通に励むところ、やはり寂光土であるということができます。

 本宗僧俗が広宣流布をめざして精進していくところに、娑婆即寂光の意義が成就するのです。

       

       

    〔✽1〕穢土 浄土の対義語。不浄なるものが充満した穢れた国土。

         迷い苦しみから抜けられない衆生が住む。

         〔✽2〕霊山浄土 霊山とは、釈尊が法華経を説かれたインドの霊鷲山を指すが、

           特に『寿量品』の会座として御本仏が常住して説法される荘厳された浄土を、

              仏国土、寂光土とされることから霊山浄土という。

        

 

        次回は、「極楽住生」について予定です。  

 

 

 


御誕生(二)

2022年07月05日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

 「大白法」平成30年5月1日(第980号)

   日蓮正宗の基本を学ぼう  116

    日蓮大聖人の御生涯 ②

     御 誕 生(二)

 

    前回に引き続き、大聖人の御誕生について学びましょう。

    御誕生の日

   『御伝土代』に、 「後の堀河の院の御宇貞応元年二月十六日誕生なり」

   (日蓮正宗聖典 五八七㌻)

  と記されているように、

  大聖人は貞応元(一二二二)年二月十六日に御生まれになりました。

   この年は四月十三日に承久から貞応に改元しているので、正確には承久四年となりますが、

  古来貞応元年と呼び習わしていることからそれに従うことにします。

   現在の感覚からすれば、二月十六日は大寒が過ぎた頃で、

  まだまだ寒さの厳しい季節と感じられます。

   しかし、

  現在の暦に換算すると四月上旬に当たり、春爛漫たる暖かな季節であることが判ります。

   インドに出現した釈尊が入滅したのは二月十五日ですが、

   大聖人の御誕生日が二月十六日であることから、

   日にちの上にも不思議な因縁が拝されます。

    ◎安房国長狭郡東条郷片海の旃陀羅が子

   大聖人は誕生の地と出自について、

   「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅が家より出でたり」

    (御書五八〇㌻)

   「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子なり」(御書一二七九㌻)

   と仰せられています。

   安房国は房総半島南部で、現在の千葉県鴨川市(旧天津小湊町) 周辺に当たります。

   半島の南部は丘陵地帯となっていて、その分水嶺東の主峰として清澄山があります。

   この安房の国には四つの郡があり、長狭郡はその東にあって、

   さらに八つの郷に分かれていました。

    そのうちの東条郷には

   源頼朝が伊勢外宮に寄進した御厨(魚貝類などを貢進する所領)がありました。

   片海とは村の名前で、近世の古文書にその名前が見えますが、

   その位置については諸説があり特定できていません。

   おそらく漁師の村であったと考えられています。

    さて大聖人は、

   御自身を「旃陀羅が家」「海人が子」と仰せられています。

   旃陀羅とはインドの言葉を音訳したもので、

   生き物を殺して生業を立てる猟師や漁夫などを意味し、

   当時最も低い身分とされていました。

   インドの釈尊は迦毘羅衛国の浄飯王の太子として誕生されました。

   これは脱益の仏として、既に善根のある人々を導くために、

   尊敬の心を起こさせる順縁の化導を用いられるためでありました。

   また

   龍樹・天親も高貴な婆羅門の家から出て、天台・伝教も高貴な家柄の御生まれであり、

   大聖人だけが低い階層の身分で御生まれになられたのです。

    総本山第二十六世日寛上人は

   「蓮師貧賤の家に託生する所以の事」に、低い身分で生まれられた意義について、

   一に大慈悲をもっての故、二に法の妙能を顕わす故、三に末弟を将護する故との

   三意を明かされています。

   一に大慈悲をもっての故とは、

   末法下種の仏として凡夫僧の御姿をもって、母が赤子に乳を与えるように、

   上下万人に南無妙法蓮華経を唱えさせようという大慈悲を言います。

   低い身分の御出自であればこそ、様々な迫害苦難が起こるのです。

   しかし、その法華経弘通の難は法華経の経文の通りであり、

   その経文と御自身との合致とをもって法華経の行者の証明となるのです。

   命に及ぶ難を受けながらも人々に妙法を弘められたのは、

   ひとえに大慈悲の故であると言えましょう。

   二に法の妙能を顕わすとは、

   例えば、

   「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。

   命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし」(御書五六二㌻)

   等の御文は、

   低い身分の御出自ならばこそ、その意義がより強く拝されるものです。

   つまり、

   世間での貧賤の身をもって、出世間の富貴を顕わされたのです。

   その富貴の基準は何かと言えば、それは妙法の信受によるのであり、

   その功徳妙用の大なることを示される意義があるのです。

   三に末弟を将護する故とは、

   法華経の故に大難を受けられましたが、

   迫害者はその迫害の因縁によって法華の現罰を受けることを示されたのです。

   その現証の一つとして、佐渡配流の後、

   百日の間に二月騒動という北条氏一門の内乱が起きたことが挙げられます。

    以上のように、

   大聖人が旃陀羅が子として御生まれになられたことには

   深い意義があるのであり、けっして偶然でも恥ずべきことでもないのです。

    ご両親について

    さて本宗における相伝書に『産湯相承事』があります。

   その中でご両親について、次のように記されています。

   「悲母梅菊女は童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御坐すと云々。

   (中略)東条の片海に三国大夫と云ふ者あり、是を夫と定めよと云々」

    (御書 一七〇八㌻)

   母親の梅菊女は平氏の畠山氏の一類、

   つまり源頼朝の家来として有名な畠山重忠の一族と見られ、

   元久二(一二〇五)年に北条時政によって滅ぼされた際に

   安房に落ち延びてきたと考えられています。

   幼い七歳の春に見た霊夢に、東条郷片海村の三国大夫に嫁ぐべきことを告げられ、

   長じてその妻となられたのです。

    また父君は、

   上古の伝記には遠江国(静岡県西部)の人で貫名次郎重忠と言い、

   平家の乱の際に安房に流されたと伝えられており、

   漁民とはいえ何らかの地位にあったと推測されます。

    日寛上人は三国氏を父とすることについて、

   その弘められた妙法はインド・中国・日本の三カ国に流布すべき仏法であり、

   そのために三国氏を父とされたと釈されています。

    このように、

   ご両親とも何らかの理由により漁師の夫婦の身ではあっても、

   相当の見識と教養をお持ちであったことがうかがわれます。

    荘厳な瑞相

    日寛上人の御指南によれば、

    大聖人の御誕生には夢想現事の不思議が拝されます。

    その夢想とは『産湯相承事』に

   次のように悲母梅菊女の霊夢が記されています。

   誕生の日の朝の霊夢として、富士山の山頂から周りの世界を見渡していると、

   諸天善神が来下して、久遠元初の御本仏の垂迹である上行菩薩が下天され、

   その御誕生が間もなくであることを告げられたと記されています。

    そして、

   その際に竜神が一本の青蓮華をお持ちになり、

   その蓮華の花から清水が湧き出て我が子に注がれて産湯となり、

   余った清水がまき散らかされると、

   辺り一面は金色となり草木が一斉に花咲き菓をつけたのです。

    諸天や竜等が白蓮華を捧げ持って、 太陽に向かい、 「今此三界 皆是我有・・・」と

   仏の三徳の経文を一同に唱えられたと言います。

   かかる荘厳な霊夢を見た後に、大聖人が御生まれになられたのであります。

    さらに、

   梅菊女は出産の少しまどろんだ際に、

   諸天善神一同が「善哉善哉善日童子、末法教主、勝釈迦仏」と

   三度唱えて礼して去って行く霊夢を見られたと伝えられています。

    続く現事とは一例を挙げれば、

   大聖人の御誕生が近づいたある日、

   海に時期外れの二月にもかかわらず数本の青蓮華が生じ、

   近隣の人々が多く見に来たと言い、

   この青蓮華は大聖人御誕生の次の日よりしぼんでいったと伝えられています。

    この他にも様々な瑞相が伝えられており、日にちの不思議な因縁等も含め、

   まさに御本仏の出現を法界が寿ぎ、賛嘆されたものと拝されるのです。

    幼年期の善日麿

   こうして御生まれになられた大聖人は、善日麿と名付けられました。

   自然豊かで温暖な安房の海に育ち、

   父母の深い慈愛と教育によって健やかに成長されたと拝されます。

    大聖人様は、後の『光日房御書』には、

   「生国なれば安房国はこひしかりしかども」(御書 九五八㌻)とあるほか、

   故郷より御供養の海苔を見て望郷の念を募らせております。

   さらに一期の御振る舞いや御書に表わされるその品位と強い御意志、

   そして深い御慈悲からは、この幼年期がとても充満したものであったことを

   拝察することができます。 

    しかし世間に目を向ければ、

   幕府の要人が次々に亡くなり、土地問題の係争が全国的に発生し、

   また季節外れの大雪、洪水、飢饉などが起き、混乱の度合いを深めていきました。

    幼い大聖人は、これらの世相について深く考えられ、

   「日本第一の智者となし給へ」 との大志を抱かれて十二歳の御時に

    清澄寺に登られるのです。

    以上、大聖人の御誕生を拝しましたが、

   『諫暁八幡抄』に、

   「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。

   扶桑国をば日本国申す、あに聖人出で給はざらむ。

   月は西より東に向かヘリ、月氏の仏法。東へ流るべき相なり。

   日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。

   月は光あきらかならず。在世は但八年なり、日は光明月に勝れり、

   五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。

   仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。

   末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり」

   (御書 一五四三㌻)

   と仰せられています。

    大聖人は、

   本未有善の衆生が生きる末法に、本門の大仏法を名に表わす日本国に生まれられました。

   御誕生の際の不思議な瑞相は、

   月氏の脱益の仏法に対する下種の仏法を表すものとも拝されるのです。

    私たちは右御文に続く、

   「各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」(同㌻)

   との御金言のままに、折伏誓願に向かって精進していくことが大切です。

 

 

 

 

 

 


謗法厳誡

2022年07月04日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年4月16日(第979号)

  【仏教用語の解説】6

   謗 法 厳 誡 

   「謗法厳誡」とは、

謗法を厳しく誡めるとの意味で、古来、本宗の宗是として堅く持ち続けられてきました。

 謗法とは

 謗法とは誹謗正法の略で、正法に違背し謗ることです。

一般的には大乗経に対する誹謗を言いますが、法華経『譬喩品』には、

 「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切 世間の仏種を断ぜん(中略)

     若しは仏の在世 若しは滅度の後に 其れ斯くの如き経典を誹謗すること有らん

  (中略)其の人命終して 阿鼻獄に入らん」(法華経 一七五㌻)

とあり、 「此の経」、すなわち

仏の真実の教えである法華経を誹謗することが、地獄に堕ちる謗法であると説かれています。

 さらに日蓮大聖人は『法華初心成仏抄』に、

 「末法当時は久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給ふべき

 法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり」

  (御書 一三一二㌻)

と御教示されています。

 つまり、末法においては、

大聖人が弘通される法華経の肝心たる南無妙法蓮華経のみが衆生を救済する正法となるため、

これ以外のすべての信仰や、大聖人の仏法を信じないこと自体が謗法に当たります。

 この大聖人の立てられた正法の筋道を、

ただ一人正しく御承継された方こそ第二祖日興上人です。

本宗における謗法厳誡の宗是は、

取りも直さず、日興上人の厳格なる御振る舞いに由来しています。

 すなわち、日興上人の申状には、「爾前迹門の謗法を対治し」 (日蓮正宗聖典 五六八㌻)

爾前経や法華経迹門に依って立つ宗旨は皆、謗法であり対治すべきと断じられ、

そのような法華経の本門と迹門との立て分けに迷う、

五老僧〔✽1〕らの邪義を厳しく破折されました。

 破邪顕正

 大聖人は『立正安国論』を著されて、国家の安寧のためには、

そこに暮らす人々が正法を受持しなければならないと説かれました。

この『立正安国論』の「立正」の二文字について、総本山第二十六世日寛上人は、

「破邪顕正」の意義を含むと説かれています(立正安国論愚記・御書文段四㌻)。

 正しく『安国論』本文の、

 「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書 二四一㌻)

との御金言の通り、

正法を立てるためには、間違った教え、すなわち謗法を破折することが不可欠であり、

謗法の破折なくして正法が立つことはないのです。

 また『善無畏三蔵抄』には、

 「設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。(中略)

 日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし、

 禅宗・真言宗も又謬りの宗なりなんど申し候は、

 強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし」(御書 四四五㌻)

と御教示されています。

謗法を見過ごし、当たり障りなく、優しく人に接することは「軟語」、

優しい言葉のようですが、実は人を悪道に堕とす非情の言葉となります。

これに対し、謗法を破折するのは「強言」、強く厳しい言葉のようですが、

人を成仏へと導く真実の優しい言葉となるのです。

 私たちは謗法を容認せず、

常に慈念をもって折伏を行じていくことを心がけなければなりません。

 謗法与同を恐れる

 『秋元御書』には、

 「法華経の敵を見て、責め罵り国主にも申さず、人を恐れて黙止するならば、

 必ず無間大城に堕つべし。譬へば我は謀叛を発こさねども、

 謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し」(御書 一四五三㌻)

と仰せられています。

 これは、たとえ自身の信仰においては謗法を犯していなくとも、

周囲の人々の謗法を認知していながらこれを放置するならば、共犯の罪に当たり、

堕地獄の原因となるということです。このような周囲の謗法を看過する共犯の振る舞いを、

大聖人は「与同罪」と仰せられ、固く誡められているのです。

 また、日興上人の『日興遺誡置文』には、

 「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」(御書 一八八五㌻)

と、与同罪を恐れるが故に、

謗法の寺社の主催する法要・祭礼には参加することのないよう誡められています。

 血脈違背は大謗法

 日興上人は『佐渡国法華講衆御返事』に、「案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、

これは聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これが大謗法にて候なり」 (歴代法主全書)

と御指南され、大聖人の後継者として血脈を一身に受け継がれる日興上人に背き,

大聖人の直弟子であると主張する輩に対しては、大謗法であると厳しく咎められています。

 総本山第九世日有上人も 「その筋目を違はば即身成仏と云う義は有るべからざるなり

(中略)血脈に違うは大不信謗法なり、堕地獄なり」

と血脈の筋目に違うことは大謗法であり、堕地獄であると厳しく御指南されています。

 つまり、たとえ大聖人の仏法を信じ、御本尊を拝むという姿があったとしても、

血脈付法の御法主上人に背くことがあったならば、

それは大謗法であると知らなければなりません。

 謗法厳戒

 大聖人は『曽谷殿御返事』に、

 「何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。 

 うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(御書 一〇四〇㌻)

と御教示されています。この「漆千杯に蟹の足一つ」とは、

千杯ものたくさんの漆があったとしても、そこに蟹の足が一つでも入れば、

すべての漆が使い物にならなくなってしまうことを言われたものです。

 これと同じように、たとえどんなに法華経を信じる気持ちがあっても、

たった一つの謗法があれば功徳善根は無に帰し、地獄に堕ちてしまうのです。

 私たちは、御法主上人猊下の御指南に随順し、自ら謗法を犯さないことはもちろん、

他の謗法を見たならば正義を示して導いていくことが肝要です。

その自行化他の振る舞いこそが成仏への道となることを知り、

なお一層の精進をしていきましょう。





   〔✽1〕五老僧 

   日蓮大聖人が御入滅に先立って定められた六人の本弟子(六老僧)のうち、

   日興上人様を除いた五人(日昭・日朗・日向・日頂・日持)のこと。

   日興上人は、日蓮大聖人から唯授一人の血脈相承を受けられて第二祖となられたが、

   五老僧は、大聖人の正義から離れ日興上人に違背していった。

 

 

                     次回は、「娑婆即寂光」についての予定です。

 

 

             

 

 


御誕生(一)

2022年07月03日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

 「大白法」平成30年4月1日(第978号)

    日蓮正宗の基本を学ぼう 115

     日蓮大聖人の御生涯 ①

      御 誕 生(一)

 正像末の三時

 釈尊は、自身が入滅した後の仏法流布の様相について、正法時代・像法時代・末法時代という三つの時代(三時)があることを諸教典に説かれました。 説かれる経典によって各時代の長さに差が見られますが、時代の推移による仏法流布の傾向と相違にこそ主意があり、年数にのみ執われてはいけません。

 その上で大聖人は、大集経に説かれる五箇の五百歳に基づく、正像各千年説を諸御書に用いられています。

 三時のうち 「正法時代」とは、釈尊の教法・修行・悟り(証果)が正しく具わっており、教えを求める人々も過去世において仏と縁のある機根でしたので、正しく修行をすることで悟りに至ることができる時代です。

 次に「像法時代」は、教法・修行が伝わるものの悟りに至ることはできず、正法に像(似)た時代です。経典の翻訳や仏塔・寺院の建立は盛んで、形式は重んじられますが、仏法の教えが希薄になり、破戒の者や教えを悪用する者が次第に多くなりました。

 そして「末法時代」は、釈尊の教法が力を失い、正しい修行も悟りもないため邪義の蔓延による人心の荒廃が起こり、それに伴う世相の混乱によって争いの絶えない時代です。

 大聖人が御誕生されたのは、まさにこの濁悪の末法時代の初めだったのです。

 当時の日本仏教界も末法と呼ぶにふさわしく、鎌倉仏教と言われる複数の新たな宗派が乱立する事態となっていました。

 かつて像法時代の導師である伝教大師(最澄・七六七〜八二二)が平安時代初期に比叡山に日本天台宗を建立し、南都六宗の邪義を破折して法華一仏乗を宣揚されました。

 しかし、同時期に弘法大師(空海・七七四〜八三五)が真言宗を立て、法華経を戯論と下す邪義を立てました。そして、

 伝教大師の死後、真意を見失って弟子によって天台宗は密教を取り入れてしまいます。

   以後、比叡山から法華一乗の気風は衰えて諸宗兼学の地となり、

   念仏宗・禅宗等が派生する原因ともなったのです。

 

    御誕生当時の世相

    大聖人が御誕生あそばされた頃、

   十二世紀から十三世紀にかけての世界はどのような様相だったのでしょうか。

    アジアでは、チンギス=ハンによるモンゴル帝国が侵略を進め、

   その最大領域はユーラシア大陸の大半に及び、

   十三世紀が「モンゴルの世紀」と呼ばれるほどの勢力を誇りました。

   それは同時に、世界が侵略と殺戮の時代であったことを意味しており、

   まさに、「闘諍堅固」との御言葉そのままの時代だったのです。

    モンゴル帝国の侵略が東ヨーロッパにまで及んだその頃、

   ヨーロッパ諸国は、十四世紀まで続く停滞期にありました。

    特に、

   十一世紀末から、イスラム教徒からの聖地奪回を謳い文句とする十字軍の遠征によって、

   虐殺・略奪行為等の悲劇が繰り返され、

   中には資金繰りのために同じキリスト教国を攻撃することもありました。

    一方、

   文化の面でも十二世紀のヨーロッパは、

   文化復興の兆しに対して歴史家から再評価の動きはあるものの、

   これもイスラム教圏からの文化接収の影響とも見られています。

   このように仏法とは縁の薄いヨーロッパにあっても、

   社会全体が宗教と戦乱に振り回されていた様子が伺えます。

    同じ頃、日本はどうかといえば、

   平安末期から鎌倉時代にかけて、藤原氏の摂関政治から院政、

   源平の争乱を経て武家の時代へと政治権力が大きく変遷していきました。

   鎌倉幕府が開かれてからも、梶原景時の変、建仁の乱、比企能員の変、

   畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦と内乱が続き、源氏将軍も三代で途絶えました。

   特に大聖人御誕生の前年、承久三(一二二一)年に起こった「承久の乱」は、

   武家政権による全国支配を決定づけるものでした。

   兵乱は、

   五月十五日の院宣からわずか一カ月、鎌倉方の圧倒的な勝利をもって終結しましたが、

   武士たちによる放火・略奪行為によって、

   京の町は未だかつてない惨状を呈していたと言います。

    結果として、真言密教による幕府調伏の祈祷を尽くした天皇方を、

   臣下であるはずの武士が破り、三人の上皇を流刑に処すという、

   国の秩序に悖る前代未聞の処置が行われた。

    大聖人は『諸教と法華経と難易の事』に、

   「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」

    (御書 一四六九㌻)

   と仰せられています。

    まさにこの御金言の如く、末法に入り、

   釈尊が権実雑乱の様相を呈し、人々は法華経に背く諸宗の悪法を信仰し、

   世間が闘諍の暗黒時代に到ったのです。

   さらには、

   ひとたび兵乱が起これば、互いに諸宗の悪法をもって寺社に戦勝を祈らせるという、

   悪循環に陥っていました。

    こうして、

   悪世末法の様相が如実に現われた大事件が承久の乱だったのです。

   そして

   その翌年、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人が御誕生あそばされたのです。

 

    ご両親の瑞夢

    大聖人のご両親については本宗相伝の『産湯相承事』に、

   「東条の片海に三国大夫という者あり」(御書 一七〇八㌻)

   と、また、

   「悲母梅菊女は童女の御名なり平の畠山殿一類にて御坐す」(御書 同㌻)

   と示されており、

   父君は三国大夫(重忠)、母君は梅菊というお名前だったことが判ります。

    三国氏、平の畠山氏という姓から、

   家系についての研究もされていますが、今なお、はっきりとは判っていません。

    また同書に、母君の懐妊に際し、

   ご両親がそれぞれ不思議な夢を見られたことが記されています。

    すなわち、

   ある日、母君はあまりの不思議さに驚き目覚めた夢の内容について、

   夫の三国大夫に次のように語りました。

   「比叡山の山頂に腰かけて、近江の湖水(琵琶湖)を用いて手を洗ったところ、

   東の富士山から太陽が登ってきて、その日輪を自身の胸に懐いた(趣意)」

   (御書 同㌻)

   この夢の内容を聞かれた父君も、自らが見た不思議な夢について語られます。

   「虚空蔵菩薩が、眉目秀麗な幼子を肩において現れた。

   そして『この人こそ上行菩薩である。

   人々は真の財宝を与え功徳を授ける大菩薩であり、

   命あるものを三世(過去世・現在世・未来世)に亘り

    永遠に救済せられる大導師である。

   この子をあなたに託そう』と告げられた(趣意)」(御書 同㌻)

   どちらの夢の情景も、他に比べようもない荘厳さを具えた内容です。

   釈迦の母である摩耶夫人が懐妊されたとき、

   やはり太陽を懐く夢を見たと伝えられていますが、

   大聖人のご両親の夢は、末法濁世の世を照らす本仏出現を暗示する夢だったのです。

 

 

 

    次回は引き続き、大聖人御誕生時の瑞相や、出生の家柄について学んでいきましょう。

 

 

 

 

 


四悉檀

2022年07月01日 | 仏教用語の解説(一)

 「大白法」平成30年3月16日(第977号)

  【仏教用語の解説】5

    四 悉 檀

 四悉檀とは

四悉檀とは、龍樹菩薩が

『大智度論』において仏の教法(説法)を四つに分けて説明したものです。

天台大師の『法華玄義』には、悉檀の言葉の意味について、

「悉の言は遍なり、檀は翻じて施と為す。

仏、四法を以て遍く衆生に施す。故に悉檀と言うなり」

(法華玄義釈籖会本 上 ー 一一九㌻)

と説明しています。

 すなわち、

「悉」 とは遍くすべてに及ぶの意、 「檀」とは施すの意であり、

 悉檀とは

仏がすべての衆生に対して利益を施すこと、またその方法を意味します。

 仏は衆生を導くために方便を含むたくさんの教えを説かれましたが、

それは、仏が四悉檀を用いて法を説いたからです。

四悉檀とは世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀の四つです。

 一、世界悉檀(楽欲悉檀)

  世間の衆生の望んで欲するところ、

  人々の心に従って法を説いて歓喜させ、利益を与えて導く方法

二、為人悉檀(生善悉檀)

  各各為人悉檀とも言い、仏がそれぞれの衆生の能力・性質などに適した法を説き、

  衆生の善心・善根を増長、または生じさせて導く方法

三、対治悉檀(断悪悉檀)

  間違った考えを改めさせて、煩悩や悪業に応じた方法によって悪を断じて対治すること。

  衆生の三毒〔✽1〕を対治させるために、貪欲な者には不浄観、瞋恚の者には慈悲の心、

  愚痴の者には因縁等を説いて観じさせること

四、第一義悉檀(入理悉檀)

  前の三つが段階的な化導方法であるのに対して、

  第一義である真実に法を直ちに説いて、衆生に真理を教え悟らせること

  世界・為人・対治悉檀の三つは、

  第一義悉檀へと導くための段階的な方便の化導であり、厳密には真実とは言えません。

  『大智度論』には、

  仏が種々の法を説くのは、第一義悉檀を説くためであると示されており、 

  最後の第一義悉檀が最も重要になります。

 摂折二門

 摂折二門とは摂受門と折伏門のことです。

摂受は摂引容受の義で、それぞれの機根に合わせた教えを説き、

相手の過ちを直ちに破折せずに、次第に誤りを破して真実に誘引する方法です。

折伏は破折屈伏の義で、 邪義を許さず、直ちに悪法を破折して正法に帰依 させることです。

四悉檀を摂折二門に配すると、

世界悉檀・為人悉檀の二つが摂受門、対治悉檀・第一義悉檀の二つが折伏門になります。

天台大師は『法華玄義』に、

「法華は折伏して権門の理を破す」(法華玄義釈籖会本 下 ー 五〇二㌻)

と説かれており、

法華経は唯一の真実の教えであるため、

法華経を説くことは必ず爾前権教を破折する折伏の化導となります。

しかし、正法・像法時代の衆生は、 過去世に妙法との下種結縁がある本已有善の衆生であり、

その場合には法華経文上以下の熟脱の教えによって段階的に導くという、

摂受を用いられました。

総本山第二十六世日寛上人は『末法相応抄』に、

「末代は本未有善の衆生にして是れ下種の時なり、

 故に世界・為人を廃して対治・第一義を立つ。 

 宜しく諸宗の邪義を破して五字の正道を開かしむべきが故に、

 末法に於ては摂受門を捨てて折伏門を用うべし」

  (六巻抄 一二八㌻)

と、

正像時代とは異なり、末法の衆生は過去世において

妙法の下種結縁がない本未有善の衆生ですから、邪義邪宗を許すことなく折伏を行じ、

本因下種の妙法を下種すべき時であると説かれています。

 時機に適った折伏行

 末法において、

正法弘通のためには、 折伏を行じて邪義邪宗を破折しなければなりません。

しかし、折伏相手に対しては、ただやみくもに破折するだけでは

正法の道理に目覚めさせることはできません。

どんな事情があるにせよ、きちんとした仏法の道理を説いて聞かせ、

最終的には謗法を廃して、真実の三大秘法の仏法に導き入れることが大切です。 

こうした点から日蓮大聖人は『太田左衛門尉御返事』に、 

「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、

 且く世間普通の義を用ゆべきか」(御書 一二二二㌻)

とも仰せられています。

つまり

折伏を大前提としながら、その上に四悉檀にも心をかけ、

その時々に応じた弘教の方法を用いて行く必要があります。

末法の日蓮大聖人の仏法の第一義悉檀とは、 三大秘法の受持を説き示すことです。

大聖人が「四悉檀を心に懸け」と言われる意味は、その第一義悉檀に入らしめるために、

世界・為人・対治悉檀を用いるということです。

 世界悉檀とは、

世間に迎合することではなく、第一義たる三大秘法の受持を示しながら、

世の人々が望み、喜ぶところにしたがって利益を与えることです。

 為人悉檀は本来、 摂受門に配当される弘教方式ですが、

折伏の際に用いることもあるでしょう。

また、

折伏相手にこれまでの信仰を改めさせるのは容易なことではありません。

その場合、

三大秘法の説示を前提としつつ、為人悉檀を用いて相手の考え方を見極め、

徐々に正法を説くことが必要な場合もあるでしょう。

 対治悉檀は、まさに邪義邪宗の謗法を直ちに破折して正法へと導くことです。

世間の人々に三大秘法を受持せしめるために、

世界・為人・対治の三悉檀を適した形で用いていかなければなりません。

我々は、時に適した折伏行をもって、 正法広布に精進することが肝要です。

本門の本尊に対し信心をもって題目を唱え、そしてより多くの人への折伏に励み、

広布に向かって邁進してまいりましょう。




   〔✽1〕 三毒 貪瞋癡の三つの煩悩のこと。

       この三つは、

       衆生の善の心を最も害す根元の煩悩であることから、三毒と言う。

       三毒は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の境界を表している。

       つまり、

       貪欲は自分の欲するものに執着して貪る心で、餓鬼の生命を言う。

       瞋恚は自分の心に違うものを瞋る心で、瞋りは他人に苦を与えるので、

       それが業因にとなって来世には自らが地獄の報いを受ける。

       愚痴とは、道理に迷う愚かな心で、本能的に動く畜生の生命を言う。





 

 

 

          次回は「娑婆即寂光」についての予定です。