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伊豆法難

2022年08月12日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成31年2月1日(第998号)

  日蓮正宗の基本を学ぼう 124

   日蓮大聖人の御生涯 ⑩

    伊 豆 法 難

 

 伊豆へ配流の身となった日蓮大聖人は、相模灘を護送され、川奈の津に降ろされてしまいます。この時、『船守弥三郎殿許御書』に、

 「船よりあがりくるしみ候ひき」(御書 二六一㌻)

とあるように、見知らぬ土地に途方に暮れられたか、あるいは拘束により体も心も休まる暇なく疲れ果ててしまわれたか、いずれにせよ、たいへんに苦しまれておりました。

 そこへ一人の漁師が通りかかり、大聖人をお助けして、妻と共に三十日もの間お護りしたのでした。 

 この夫婦が船守弥三郎夫妻です。大聖人はこの夫妻に対し、あるいは過去の法華経の行者か、ご自身のご両親が生まれ変わられたのであろうか、はたまた諸天善神が弥三郎夫妻と生まれたのであろうかと仰せられ、その感謝の思いを綴られています。

 弥三郎夫妻は、食物の乏しい時期にもかかわらずに食事を用意し、 さらに大聖人のおみ足を洗うなど、心を尽くしてお仕えしたのでした。そして、折々に大聖人の教えを受けて法華経を信ずるようになり、深く帰依して信徒となったのです。

 

 地頭の帰依と

 伯耆房の参着

 

 さて配流先となった伊東の地は、伊東八郎左衛門が地頭を務める土地であり、大聖人の身柄も八郎左衛門の監視下に置かれることになりました。

 念仏の信者であった八郎左衛門でしたが、この頃、病に罹ってしまいます。日に日に病状が重くなり、四方八方手を尽くして治療に当たっていたのですがその効なく、最後の頼みと大聖人のもとへ、病気平癒の祈祷が依頼されたのでした。

 この時、八郎左衛門が一分なりとも信仰の心を示したことを受け、大聖人はその平癒を祈られました。その結果、あれほど手の打ちようがなかった病が、見事に癒えたのです。

 八郎左衛門はそれまでの念仏を捨てて大聖人に帰依しました。そして、海中より引き上げられた一体の釈迦立像仏を、大聖人に御供養申し上げたのです。

 さて、時期は不明ながら、伯耆房(日興上人)が大聖人にお給仕をするために、鎌倉よりやって来られました。

 十七歳の伯耆房は、お給仕の傍ら、伊東の近辺を教化され、やがて宇佐美・ 吉田といった所に信徒が増えていきました。さらに熱海まで足を延ばされて、真言宗の僧であった金剛院行満を帰伏させたと伝えられています。

 

 法華身読の喜びと

 慈悲の歎き

 

 伊豆配流中に記された『四恩抄』には、伊豆での御生活は大聖人にとって、大いなる喜びと歎きとの両面があったと仰せられています。

 まず大いなる喜びとは、法華経身読の喜びです。「配流になったのも、ただ法華経を弘めようとする失によってであり、法華経を深く信じ行ずるが故に悪鬼に嫉まれ、起きた難である。こうして配流になっているということ自体が、如来の滅後には在世以上に怨嫉が多いと説かれた法華経の御文の通りで、昼夜二十四時間法華経の修行をしていることに当たる。よって迫害を加えた幕府等こそ、かかる法華経の身読をもたらした恩深き人々である」と述べられています。

 古の行者は法のために身を捨てたのであり、大聖人も今、四恩を報ずるために、法華経を弘め難を受けられたのでした。

 『四恩抄』における四恩とは一切衆生の恩、父母の恩、国主の恩、三宝の恩を言います。

 私たちは仏道修行をできるのも、現世に父母が生んでくれたからです。そして国王が国を治めてくれるからこそ我が身を養うことができているのです。さらに仏法僧の三宝が在してこそ、成仏のための仏道修行をすることができるのです。また救済すべき一切衆生がいて、迫害を加える悪人がいてこそ、より多くの功徳を積むことができるのです。

 仏道修行をする者はこの四恩に報いていくことが大切ですが、特に大聖人は、

 「然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ざん」

  (御書 二六八㌻)

と、四恩の中でも三宝の恩を重んじられ、私たちはこの三宝の恩を報じていかなければならないと仰せられています。その上で、先の松葉ヶ谷の夜討ちも伊東の配流も、この四恩報謝のためであった故に、第一の喜びであるとされているのです。

 次に「歎き」とは、

 「我一人此の国に生まれて多くの人をして一生の業を造らしむる事を歎く」(御書 二六九㌻)

と仰せのように、法華経の行者である大聖人に対して悪口し、罵詈し、暴力を加え、流罪に処した人々が、堕地獄の重業を造ってしまったことに対する大慈大悲の歎きです。

 このように法華身読の法悦と謗法の人々への慈悲の歎きを懐かれつつも、大聖人は配流地での生活を穏やかに過ごされたのでした。

 

 『教機時国抄』

 

 さて、この時期に著わされた『教機時国抄』では、末法に適った仏法を明かすための五つの判定基準を明かされています。

  この判定基準は、教・機・時・国・教法流布の前後の五つであり、これを宗教の五綱、または五綱教判とも言います。

  まず教とは、一切の経典にはその教えに浅深勝劣があり、最も優れた教えを判ずるには、教判の正邪如何に存します。五重の相対、五重三段、三重秘伝等の法門がこれに当たります。

 次に機とは仏法を信受する人々の機根についての判釈あり、これは本已有善・本未有善の別があり、それぞれに適した法として種熟脱の三益の法門があります。

 三に時とは、釈尊滅後に正法・像法・末法の三つの時代があり、今は釈尊の仏法が力を失った末法であり、この時代には末法の仏が出現し人々を救済する時代であることなどを明かし、四に国とはインドには小乗の国、大乗の国、大小兼学の国などがありますが、日本はそのいずれでもなく法華経有縁の国であることと知る教判です。

 教法流布の前後とは、例えば先に外道の教えが広まっていれば小乗をもって破し、小乗であれば大乗をもってというように、流布の順次を知るべきであるとする教判です。

 伊豆配流の時点では、この五綱教判の結論とも言うべき内容は、まだ明確には示されていません。

 簡略に要点を述べれば 、末法には久遠元初の本仏が出現し寿量文底秘沈の大法である下種本因の妙法を三大秘法として建立し、人々に広めることを明らかにする教判と言えます。特に、末法の本尊とは南無妙法蓮華経の本尊(究竟は本門戒壇の大御本尊)であり、この本門の本尊を信じて受持し、修行していくことが末法の信心修行なのです。

 

 一体仏について

 

 ここで伊豆配流中に入手された釈尊立像仏について考えてみましょう。

 この立像は一体仏と言って、大聖人が終生御所持になり、入滅に際しては自らの墓所の傍に立て置くよう遺言された仏像でした。

 ただし、この五綱教判の内容から考えれば、大聖人が釈尊像を所持されたからといって、今の私たちが釈尊像を本尊とすることは誤りであることが判ります。

 そもそも脇士を伴わない釈迦立像仏は修行中の仏を意味します。たとえ脇士がいたとしても、三十二相八十種好を備えた姿は垂迹の仏であることを示し、熟脱の仏を意味するのであり、下種の時代である末法の本尊としては不適格となります。

 では、なぜ大聖人が一体仏を所持されたかというと、まず理由の一点目は弘通の草創期に当たって、ひとまず釈迦仏を借りて肝心の妙法を示そうとされたこと。

 二点目には、当時は浄土や真言の教えが広く普及し、阿弥陀仏や大日如来などが本尊として尊崇されていたことから、権実相対の立場よりまずは釈尊に立ち帰り、 その本意を尋ねるべきことを示すため。

 そして三点目には、末法弘通の大導師である大聖人の観見によれば、一体仏がそのまま久遠元初の本仏と映られたこと。

 以上、三つの理由が挙げられるのです。つまり、一体仏所持はあくまでも一時的なもの、大聖人の御身に限ることであって、広く衆生救済の本尊とするためではありません。

 末法適時の本尊は、大聖人の御図顕された南無妙法蓮華経の御本尊の他にはないのです。 私たちはこのことをしっかりと学び、御本尊様への確信のもと修行に励んでいくことが大切です。

 

 

 

 

 

 

 

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松葉ヶ谷の法難・伊豆配流 一

2022年08月08日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年12月1日(第994号) 

  日蓮正宗の基本を学ぼう 123

   日蓮大聖人の御生涯 ⑨

  松葉ヶ谷の法難・伊豆配流 一

 前回は、日蓮大聖人第1回目の国主諌暁である『立正安国論』の提出と、その内容について学びました。

 かつて、建長五(一二五三)年四月二十八日の初転法輪の際、諸宗を否定するその内容に聴聞衆は動揺し、中でも安房国東条郷(現在の千葉県鴨川市)の地頭・東条景信は怒りから大聖人に危害を加えようとしました。 また、それ以後の鎌倉での弘教に当たっては、辻説法の場をたびたび追われるなど、すでに折伏を行ずることによる様々な障魔が現れていました。

 しかし、『立正安国論』の提出によって、後に、

 「この法門を申すに、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり」

  (御書 五三九㌻)

と示される如く、これまでとは比較にならない、まさに大聖人の身命に及ぶ大難・王難が起こり始めるのです。ここに「大事の難四度」と示される大きな法難の初めとして、『立正安国論』 提出から四十二日後に起こったのが、松葉ヶ谷の法難でした。

 松葉ヶ谷の法難

 大聖人から諌暁を受けた幕府でしたが、『下山御消息』に、

 「御尋ねもなく御用ひもなかりしかば」(御書 一一五〇㌻)

と述べられているように、『立正安国論』 の内容に関する大聖人への照会などの表立った反応はありませんでした。

 あるいは『破良観等御書』に、

 「人の主となる人はさすが戒力といゐ、福田と申し、子細あるべきかとをもひて、左右なく失にもなされざりしかば」(御書 一〇七九㌻)

と示されるように、大聖人に帰依する人々も増えており、何かしら力のある僧侶なのではと、幕府の中にも安易な判断を控える動きがあったのかも知れません。 しかし、破折の対象となった禅・念仏・律宗等の僧侶・信徒たちは裏で策謀を巡らし、権力者に働きかけていました。そしてついに、文応元(一二六〇)年八月二十七日の夜半、大聖人が住居とされていた松葉ヶ谷の草庵を襲撃するに至ったのです。

 その理由について、『下山御消息』には、

 「国主の御用ひなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したるとぞ聞こへし」(御書一一五〇㌻)

と示されています。

 「さるべき人々」とは幕府の権力者を意味しており、幕府が用いない僧侶であれば、危害を加えても罪科になるまいとの思惑のもと、高僧等が信者を扇動したのです。

 謗法の徒による夜襲は激しく、

 「きりものどもよりあひて、まちうど等をかたらひて、数万人の者をもって、夜中にをしよせ失はんとせし」

  (御書 一〇七九㌻)

 「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせし」(御書 一一五〇㌻)

とあるように、勢いにまかせて大聖人を殺害しようとまで画策していました。

 当時の権力者・為政者が大聖人を亡き者にしようとして起こした松葉ヶ谷の夜襲、これはまさに、法華経の『勘持品十三』に説かれる、釈尊滅後の末法時代に法華経の行者を迫害する「三類の強敵」の出現に他なりません。

 このように多くの暴徒の襲来ではありましたが、『破良観等御書』に、

 「十羅刹の御計らひにてやありけん、日蓮其の難を脱れし」 (御書 一〇七九㌻)

とあるように、諸天善神の御計らいと弟子たちの懸命な護りによって、ことなく難を逃れました。

 なお、松葉ヶ谷に程近い現在の神奈川県逗子市に伝わる「お猿畠」という所には、松葉ヶ谷夜襲の際、白猿が現れて大聖人が岩窟へ逃れる手助けをしたとの伝説があります。

 御書中にそのような描写はありませんが、大聖人が難を逃れたことがあまりにも不思議な出来事であるために、諸天善神が白猿に姿を変えて守護したとする説が流布したのかも知れません。 

 下総弘教

 松葉ヶ谷の法難は、罪の無ない一人の僧侶を多数をもって 襲撃するという事件でしたが、

 「而れども心を合わせたる事なれば、寄せたる者科なくて、大事の政道を破る」

  (御書 一一五〇㌻)

と仰せの如く、権力者が同意の上であったことから、 草庵襲撃者に対する当時の式目(法令)に照らした処分も行われない有り様でした。

 このような状況にあって鎌倉に留まっていては、再び襲撃される可能性が大きく、大聖人は富木常忍の請いもあり、一時、下総若宮(現在の千葉県市川市)の富木邸に身を寄せられました。しかし、ただ幕府・念仏者から隠れて過ごされていたわけではなく、富木邸で説法をされるなど妙法広布の手を緩めることはありませんでした。こうして下総滞在中に、太田乗明、曽谷教信、秋元太郎兵衛などの人々を入信へと導かれたのです。

 伊豆配流

 大聖人は、三類の強敵が盛んに出現し始めた今、法華経の行者として一層の折伏弘教をなすべき時であるとお考えになり、翌弘長元(一二六一)年の春、危険を顧みず再び鎌倉へ戻られました。

 この知らせを聞いた幕府は、直後の五月十二日に大聖人を捕らえさせ、取り調べもないまま伊豆国伊東への配流が沙汰されました。

 その罪状は『下山御消息』に、

 「日蓮が生きたる不思議なりとて伊豆国へ流されぬ」(御書 同㌻)

と示されるように、殺害されなかったのが不届きであるとの、理解し難い理由でした。

 これら松葉ヶ谷の法難と伊豆配流の背景について、『妙法比丘尼御返事』には、

「長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ」(御書 一二六三㌻)

と仰せられ、『破良観等御書』には、

 「両国の吏心をあはせたる事なれば、殺されぬをとがにして伊豆国へながされる」(御書 一〇七九㌻)

と御教示されています。

 つまり、草庵襲撃の黒幕は、当時の執権・北条長時の父・北条重時(極楽寺重時)だったのです。

 重時は、既に出家の身でしたが、依然として大きな権力を握っており、大聖人を目の敵にする蘭渓道隆や忍性良寛等と結託し、個人的な恨みも重なった末の策謀でした。 

 「両国の吏」とは、執権と執権の補佐役である連署のことで、当時の連署は重時の弟・北条政村です。仮にも幕府の最高権力者である執権・連署の 二人が、法に依らず自分たちの親族の心を推し量り、大聖人を伊豆流罪に処したのです。

  川 奈

 古来から伊豆は流刑地とされ、源頼朝の流刑先としても知られています。平安時代までは伊豆諸島との混同から遠流先とされ、鎌倉時代以降も地理的な要因による隔離・管理の便りからか、 多くの流人が送られていました。

 大聖人は、まるで幕府に弓引く罪人かのように押送され、伊豆國伊東の川奈の津に降ろされました。

 その時の様子を『船守弥三郎殿許御書』には、

 「日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につきて候ひしに、いまだ名をもきゝをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候ひき」(御書 二六一㌻)

と、仰せられています。 

 身分の高い貴族や武家の出自でないとは言え、地名も知らされず、逗留すべき住居さえ伝えられずに小舟を降ろされ、一人難渋された様子が拝されます。

 なお、伊豆配流に当たっては、初め川奈の津と言っても、岸から離れた海上の岩の上に置き去りにされたとの伝承があります。しかし、御書には「その津」に着かれたとのみ記されています。

  次回も引き続き、伊豆配流とその後の御振る舞いについて学んでいきましよう。

 

        ◇     ◇

 

北条氏略系図

※丸数字は執権、数字は連署の順

 

①時政②義時③泰時④経時⑤時頼(最明寺)⑥長時⑦政村⑧時宗⑨貞時⑩師時

⑪宗宣⑫熙時⑬基時⑭高時⑮貞顕⑯守時

 

1時房2重時(極楽寺)3政村4時宗5政村6義政7業時8宜時9時村10宗宣

11熙時12貞顕13維貞14茂時

 

 

 

 

 

 

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『立正安国論』提出

2022年08月04日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年11月1日(第992号) 

日蓮正宗の基本を学ぼう 122

 日蓮大聖人の御生涯 ⑧

 『立正安国論』提出

 今回は、

北条時頼への『立正安国論』の提出と、その内容について学んでまいりましょう。

   北条時頼との会見と 

 『立正安国論』 提出

 日蓮大聖人は、『立正安国論』を提出される以前に、御自ら北条時頼に会見されており、そこで北条時頼が信じていた禅宗の邪義を厳しく指弾されました。

 このことは『法門申さざるべき様の事』に、

 「但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ。其の故は故最明寺入道に向かひて、禅宗は天魔のそいなるべし。のちに勘文もてこれをつげしらしむ。 日本国の皆人無間地獄に堕つべし」(御書 四三五㌻)

また、『安国論御勘由来』の、

 「復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ。之を用ひざれば定めて後悔有るべし」(御書 三六九㌻)

との御文から拝察されます。

 この頃の鎌倉幕府の執権は、第六代北条長時でしたが、政治の実権は前執権であった北条時頼の手にありました。 

 時頼は、康元元(一二五六)年に落髪して入道(在家のまま仏道に入った者)となりましたが、長時に執権職を譲ってからも政務に携わり、政治の権力を手中にしていたことで、現執権の長時よりも権力を持ち、幕府の中にあって事実上の最高権力者として存在していたのです。

 かくして大聖人は、最高権力者である時頼に対して、民衆救済と国土安穏の実現のため、深い洞察と三世に亘って一切のことを悟られる知見をもって文応元(一二六〇)年、『立正安国論』を著わされ、同年七月十六日に北条得宗家に仕えていた宿屋入道を介して提出されました。

 これこそ、大聖人の御一期の御化導における第一回目の国主諌暁であります。

 しかし、この『立正安国論』による諌暁は、北条時頼をはじめとする幕府為政者たちには用いられませんでした。

 『立正安国論』

  について

『立正安国論』は、客と主人との十問九答の形式をもって十段で構成されています。その各段ごとに概要を拝しましょう。

 初めの第一段(災難の来由)では、客が近年より近日に至るまで、様々な形で起こる天変地夭・飢饉疫癘等の原因について尋ねたことに対して、主人は「世の中の人々が正法に背き、邪法に帰依しているために、守護の諸天善神は国を捨てて去り、聖人も立ち去って還ることがない。善神や聖人が去った後には、悪鬼魔神が移り来て、災いや諸難が起こるのである」と災難の由来について述べられます。 

 続く第二段(災難の証拠)では、前述の主人の答えに対して、客が「それは一体いかなる経典に出ている話であるか、その証拠を示して欲しい」と問います。これに対して主人は、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の四つの経典を挙げて災難の由来について詳しく証拠を示され、「これらの経文に照らして、日本国に邪義邪説が蔓延っていることがその原因である」と答えるのです。

 第三段(誹謗正法の由)では、客は血相を変えて「今世間では仏教がとても盛んであるにも関わらず、誰人を指して仏教を破る者と言うのか」と質問するのですが、主人は「確かに仏法が興隆しているように見えるが、それらの僧侶は権力に媚びへつらい、人々を迷わせている」と答えて、悪の根源である間違ったことを説く僧侶たちを誡めるべきことを述べられます。

 第四段(正しく一凶の所帰を明かす)では、客がますます怒って「間違った教えを説く僧侶とは、いったい誰を指すのか」と問い詰めるのに対して、主人は「念仏を唱える法然である」と答えられます。そして法然が著わした『選択本願念仏集(選択集)』と、法然の説く釈尊の一切の経を捨てよ、閉じよ等との邪義を「一凶」と断じて、厳しく破折されるのです。

 第五段(倭漢の例を出だす)では、自らの信奉する法然が一凶だと言う話を聞いた客がさらに怒り出して帰ろうとするのに対して、主人は、それを押し止めて「釈尊の説法には先後、権実の立て分けがあるのに、法然はこれを知らず、専ら私の考えを述べて仏の教えに依っていない。人々はこれを知らずに帰依する故に、三災七難が起きるのである」と丁寧に指摘して、速やかに念仏の邪義を捨てて正法に帰依すべきことを諄々に諭されます。

 第六段(勘状の奏否)では、客の怒りは少し和らぎますが、まだ十分に納得していないため、主人は念仏の邪義について、過去において国法の上からも厳しく止められた実例が厳然としてあることを述べられます。 

 それを受けて第七段(施を止めて命を断つ)では、客は完全に怒りを収めて、いまだ半信半疑ながら、主人に「天下泰平・国土安穏を願い、災いを消すためには、いかなる方法があるのか」と伺うのです。それに対して主人は、 涅槃経等の経文を挙げて、「謗法への施しを止めて国中の謗法を断つことが、国土の安穏を図るために最も重要である」と諭されます。 

 第八段(斬罪の用否)では、客が「謗法を退治するために斬罪を用いるならば、その殺害の罪は重いのではないか」との問いに対し、法華経以後の教えでは、斬罪ではなく、その布施を止めることが説かれます。

 第九段(疑いを断じて信を生ず)では、客が態度を改め、主人の言葉をよく理解して敬い、座を正して身繕いを整えます。そして改めて主人に対して、「仏教は様々に分かれているので、その真髄を理解し理非を明らかにすることは困難であった。しかし、主人の導きにより、法然が著わした『選択集』の謗法によって、世の中が乱れることが理解でき、これまで執着してきた宗旨が謗法であったことを認め、謗法を捨てて正法を崇めてまいります」との言葉に、主人はこれを聞いて喜ぶと共に、客にさらなる決意を促されます。「国家の安穏を期し、現当二世に亘る幸せを祈るならば、まずは急いで謗法を退治しなければいけない。もしそうしなければ、まだ起きていない二難(自界叛逆難・他国侵逼難)が起こるであろう。どうして同じ信心の力を持って妄りに邪義の詞を崇めてしまうのか。もし謗法への執着を断つことができなければ、早くにこの世を去ることとなり、後生は無間地獄に堕ちるであろう」と客を諭され、さらに「一刻も早く間違った信仰への信心を改めて、真実の教えに帰依すべきである。そうすれば必ず三界は仏国となり、十方の国土は宝土となって、衰微することも破られることもなく、平和で心身共に幸せになるのである」と諭されたのです。

 最後の第十段(正に帰して領納す) では、客が「これまでの信仰は、ただ先達の言葉に従っていた」と反省し、「これは多くの人々も同じであろう」と述べます。そして主人に帰依し、正しい仏法を信仰し、謗法を退治する事を決意すると共に、最後に「自ら信ずるだけではなく、他の人々の誤りも諌め、折伏していこう」と述べて『立正安国論』は結ばれます。

 この第十段は、客の問いがそのまま主人の答えであり、『立正安国論』の結論に当たるのです。 

 『立正安国論』

  の精神

 以上の内容を拝して判るように、

この『立正安国論』は、謗法の邪を破して正法を立て、もって国土を安んずることを明らかにされた書であります。

 御法主日如上人猊下は、「立正安国論正義顕揚七百五十年記念七万五千名大結集総会」の砌において、 「今日の日本乃至世界の混沌とした現状を見るとき、その混乱と不幸と苦悩の原因は、既に『立正安国論』をはじめ諸御書に明らかなとおり、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあり、その邪義邪宗の謗法を断たなければ、真の幸せも平和も訪れてこないのであります。(中略)『謗法を断つ』とは、不幸と苦悩の根源である謗法を、折伏をもって断つことであります。折伏は一切衆生救済の最善の慈悲行であり、広布実現の具体的な実践方途であります。

 つまり、広宣流布は折伏によって初めて達成されるのであります」(大白法 七七〇号)

と御指南されました。

 私たちは、 この御指南のままに、御命題である平成三十三年・法華講員八十万人体制構築に向かって、破邪顕正と『立正安国論』の精神をもとに、さらなる折伏行に精進してまいりましょう。

       ◇    ◇

『立正安国論』日蓮大聖人御真蹟(国宝)中山法華経寺蔵




 次回は、松葉ヶ谷の法難より学んでまいります。

 

 

 

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 『立正安国論』御述作背景

2022年07月31日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年10月1日(第990号)

        日蓮正宗の基本を学ぼう 121

            日蓮大聖人の御生涯 ⑦

       『立正安国論』御述作背景

 

 初めに

 前回は、大聖人が 宗旨建立後、安房清澄寺を離れて、当時の政治経済の中心地であった鎌倉に向かい、名越の草庵を拠点に、本格的な折伏弘教を開始されたところを主に学びました。

 当時の鎌倉は、下剋上とも言うべき承久の乱後、公家政権の勢力は後退し、鎌倉幕府の武士による支配が東国中心から日本全国へと範囲を拡大していきました。其の影響により、京の都から多くの人と文化が鎌倉の地に流入し、京都に代わる一大都市を形成していました。鎌倉の宗教界も幕府の権力者の庇護のもとに、禅宗や真言、念仏、律の諸宗の諸大寺院が次々と建立され、勢力を伸ばしている最中でした。

 天変地異

 当時の世情は、鎌倉幕府の権力の勢いと鎌倉諸大寺の隆盛とは裏腹に、打ち続く飢饉や疫病で多数の死者が出、さらに追い打ちをかけるように正嘉元(一二五七)年八月二十三日、鎌倉を大地震が襲い、壊滅的な被害を与えます。この大地震の様子について『吾妻鏡』には、

 「戌の尅、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顛倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水湧き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云々」

と記されています。すなわち「午後八時頃(戌の刻とは、午後七時から九時までの間)、大地震が起こり、地響きが鳴った。この大地震によって、神社仏閣が一つとして無事であったものはなかった。山は崩れ、住居は倒壊し、土塀もすべて壊れ、所々で地面が裂け、水が湧き出した。中下馬橋の辺では、地割れしたところから炎が燃え上がった。色は青かった」と、まさに前代に類を見ない大災害をもたらした地震でした。大聖人もこの時、鎌倉名越の草庵にあって、この大地震の災害を目の当たりにされています。

『安国論奥書』に、

 「去ぬる正嘉元年大歳丁巳八月廿三日戌亥の尅の大地震を見て之(立正安国論) を勘ふ」(御書 四一九㌻)

とあり、されに『顕立正意抄』の冒頭には、

 「日蓮去ぬる正嘉元年大歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘へ定めて書ける立正安国論」(御書 七四九㌻)

 とあるように、頻発する災害の中でもこの正嘉元年八月二十三日の大地震が、 後に『立正安国論』を述作あそばされる直接的要因となった災害でした。

 その後、同二年八月には、大風雨があり、諸国の田園を損亡し、同三年早々からの大飢饉は、翌年まで続く大疫病をもたらしました。これらの災難は、万民の塗炭の苦に追いやり、その大半を死に至らせるほどのものだったのです。

 こうした状況に、幕府は諸宗の寺社に命じ、種々の祈祷をさせました。しかし、少しの効果もないどころか、かえって飢饉・疫病を増長させる結果となったのです。

 大聖人はこの時の様相を、『安国論御勘由来』に、

 「正嘉元年大歳丁巳八月廿三日戌亥の時、前代に超えたる大地振。同二年戌午八月一日大風。同三年巳未大飢饉。正元元年巳未大疫病。同二年庚申四季に亘りて大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験も無く、還って飢疫等を増長す」(御書 三六七㌻)

と記され、『立正安国論』の冒頭には、

 「近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘・遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し」(御書 二三四㌻)

と記されています。

 大聖人はまさにこのような五濁悪世の末法の様相を呈する現状を心から憂えると共に、まさにこの災厄、不幸の根源は邪宗教にある道理を深く洞察されていました。大聖人は、鎌倉市中の辻々に立たれて、民衆に向かって邪宗教の誤りを糺し、法華経を受持させるべく弘教も絶えず行われていましたが、このような打ち続く災害の中で、今こそ、鎌倉時代の封建社会にあって、絶対的権力を持っていた為政者を諌暁し、正法を受持させることがどうしても必要であると決意されました。当時、絶対的権力を有していたのは、鎌倉幕府の前執権・北条時頼です。諌暁とは、誤った宗教に帰依しているのを諌め正法に導くことで、 つまり北条時頼への折伏を意味します。

 一切経の閲覧

 国主諌暁を決意された大聖人は、再び一切経に目を通し、道理と文証をさらに具体的に明示しようとして、いったん鎌倉を離れ、駿河国富士下方岩本(現在の静岡県富士市岩本)の実相寺の経蔵に入られました。

 当時、大聖人が一切経を閲覧された様子が次の御文でうかがえます。

 『中興入道御消息』

 「去ぬる正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其の故をうらなひしかども、なにのゆへ、いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに」(御書 一四三三㌻)

 『安国論御勘由来』

 「日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに、御祈請験無く還って凶悪を増長するの由、道理文証之を得了んぬ」

(御書 三六七㌻)

 以上の御文から拝されるように、世の中の災難の原因を明らかにするために、一切経をひもとき、その上から、道理と文証に基づいて国主を諌暁するべく『立正安国論』御述作の準備を着々となされました。

 日興上人の入門

 大聖人が岩本の実相寺において、一切経閲読されていた折、当時実相寺に近い蒲原の四十九院で修行中の、十三歳になる伯耆公は大聖人に給仕し、 その立派な御姿に感動し、弟子になりました。この伯耆公こそ後の第二祖日興上人です。

 終わりに

 今回は『立正安国論』を御述作されるに至った背景を学びました。

 いよいよ次回は『立正安国論』を 時の最高権力者である北条時頼に提出し、第一回の国主諌暁を敢行されるところを学びます。

 言うまでもなく『立正安国論』に示された破邪顕正の御精神こそ、あらゆる災害を止める唯一の方途です。

  御法主日如上人猊下は法華講連合会第四十八回総会の砌において、

 「天変地夭をはじめ戦争、飢餓、人心の攪乱等、世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、ひとえに謗法の害毒にあり、その謗法を断たなければ真の平和も国土の安穏も訪れてこないのであります」(大白法 810号)

と仰せです。

私たちはこの御指南を体し、末法濁世の混乱した世の中を安穏な世にすべく、折伏に精進してまいりましょう。

 

        ◇     ◇

 

 日蓮大聖人略年表(立正安国論関連)

 『立正安国論と忍難弘通の歩み』より一部転載

 

建長5(1253)年

3月28日  

安房清澄寺に宗旨建立の内証を宣示

4月28日  

安房清澄寺に立教開示

草庵を松葉ヶ谷に構える

建長6   (1254)  年

1月10日       鎌倉大火

5月 9日  鎌倉大風

建長8(1256)年

8月   6日  鎌倉大風・洪水

9月 1日  疫病(赤班瘡)流行

正嘉元   (1257)  年

8月1日    鎌倉大地震

8月   23日    鎌倉大地震【正嘉の大地震】

正嘉2(1258)年

1月   17日   鎌倉火災

2月 駿河岩本実相寺に大蔵経を閲す

6月   24日     鎌倉異常気象による寒気

8月 1日  大風雨・諸国の田園損亡

10月16日 鎌倉大雨・洪水

正元元(1259)年

  春 大飢饉・大疫病

文応元(1260)年 

4月29日   鎌倉大火

6月 1日   鎌倉大風雨・洪水

7月16日  【立正安国論】を幕府に提出【第一国諌】

 

 

 

 

 

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鎌倉弘教

2022年07月27日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

 「大白法」平成30年9月1日(第988号)

  日蓮正宗の基本を学ぼう 120

   日蓮大聖人の御生涯 ⑥

    鎌 倉 弘 教

 

  父母の入信

  前回学んだように、日蓮大聖人は建長五(一二五三)年四月二十八日に、清澄寺持仏堂の南面において初転法輪をなされました。 そして、地頭東条景信から命を狙われましたが、兄弟子の浄顕房・義浄房の機転により、危地を免れられたのでした。

  これより向かわれようとしている行き先は、武家の都である鎌倉です。 しかし、その前に大聖人には、まだ為すべきことがありました。父貫名次郎と母梅菊への折伏です。今、この機会を逃しては、二度とご両親が入信する時は来ないかも知れないのです。

 とはいえ、既に初転法輪での清澄山一山の騒動はご両親の耳に入っていました。二人は、我が子である大聖人の身を案じ、できることならば決心を翻し道善房に謝り、清澄寺の住僧として生きるようにと懇願されたのです。

 二人の思いやりに触れられた大聖人でしたが、 情けに流されて謗法の邪宗教に戻るべきではありません。大聖人は法華経こそが三世諸仏の本懐の経典であり、就中、南無妙法蓮華経と唱えることこそが成仏の大直道であることが説かれました。 貫名次郎と梅菊は、大聖人の大確信に満ちた尊容に触れ、また理路整然と説かれた教えを聞き、直ちに念仏を捨てて法華経に帰依をすると決意されたのです。

 その時、大聖人は自らの日蓮の御名から一字ずつをとり、父貫名次郎には「妙日」、母梅菊には「妙蓮」と法名を授けられました。 ここにご両親の入信が成り、大聖人は固い決意を胸に鎌倉へと御出発なされたのでありました。

 松葉ヶ谷の草庵

 鎌倉に入られた大聖人は、その草庵を名越の松葉ヶ谷に構えられました。現在、草庵跡を標榜する日蓮宗寺院がありますが、実際の場所は不明です。

 ともあれ、当時の鎌倉は武家政治の中心地であり、京都朝廷に対するもう一つの都とも言うべき場所でした。

 幕府の内紛を見て、後鳥羽上皇が兵を挙げた承久の乱が鎮圧されてより、 幕府の支配は東国から日本全国へとその規模を拡大していきました。

 この急激な権力の伸張に伴い、政治機関として評定衆による合議制や、西日本を管轄する六波羅探題の設置、領家と地頭の争いや様々な訴訟の基準をまとめ、最初の武家法である『御成敗式目』を作るなど、行政・訴訟などの整備が進みました。

 一方で、鎌倉には自身の訴訟や幕府に仕えることを目的として、京から多くの人々が下ってくるようになりました。その影響で、鎌倉は京の政治と文化を取り入れていくことになります。

 北条時頼は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍に迎え、鎌倉を武家の首都として整備し、その権力を確固たるものにしました。その一つの表われが鎌倉大仏と建長寺の創建でした。

 その頃、それまで木造だった大仏を、大陸から導入した銅銭と新技術で鋳造し、新しくしたのです。

 また能忍や栄西により禅宗が既に伝わってはいましたが、新たに宋から蘭渓道隆を招いて、禅院として建長寺を建立し、武士に禅宗信仰が広まります。直感的に悟りが得られる、難しい教義書は必要ないという禅宗の教えは、武士たちに受け入れられていったのです。

 このような新来の信仰とは別に、天台宗の山門、寺門、真言宗広沢流などが鎌倉に進出し、特に密教僧らが鶴岡八幡宮寺や勝長寿院などに入り、北条氏や幕府との縁を強化していきます。

 さらに西大寺叡尊の弟子忍性良観が常陸の清凉院に住み、鎌倉の諸寺や北条氏と交渉を持つようになっていました。やがて良観は、弘長二(一二六二)年に多宝寺の住持となり、鎌倉への進出を果たします。

 そのように幕府の権力の伸張に伴い、宗教権門の鎌倉への進出、また禅宗の流行があり、まさに鎌倉は一大宗教都市の様相を呈していました。

 しかしこれらの諸宗は、実際には幕府や北条氏と結託し、その権力を背景に堕落して人々の嘆きとなっていたのです。

 例えばまず、延暦寺(山門派)と園城寺(寺門派)の争いです。機縁は、宝治合戦の後、三浦泰村と親交のあった山門派の定親が鶴岡八幡宮寺を解任となり、寺門派の隆弁が社務になったことです。園城寺は延暦寺と、天台宗の正統な争い、自分の所に戒壇を建立することを宿願としていました。そのたびごとに延暦寺が強訴や僧兵によって阻止していたわけですが、隆弁が北条氏と親交を結んだことにより、状況が一変します。

 勅許を与える側の朝廷にとっては、園城寺の背後に幕府があると見、延暦寺も幕府の介入を考慮に入れなくてはならなくなり、より対立は激化していったのです。延暦寺・園城寺のいずれにあっても末法には無用の宗旨ですが、まさに末法闘諍堅固の様相そのものでした。

 次に蘭渓道隆を招いて鳴り物入りで建立された建長寺でしたが、その実態は大聖人の次の御書に表わされています。

 「但し道隆の振る舞いは日本国の道俗知りて候へども、上を畏れてこそ尊み申せ、又内心は皆うとみて候らん」(御書 一二五五㌻)  

 「建長寺は所領を取られてまどひたる男どもの、入道に成りて四十・五十・六十なんどの時走り入りて候が、用は之無く、道隆がかげにしてすぎぬるなり」(御書 一二五六㌻)

 つまり、建長寺は所領を奪われた無頼者たちが僧になって集まり、道隆の庇護下で暮らしていたのであり、またその道隆自体も、民衆は時頼の庇護を受けているから尊んでいるのであり、内心では疎んじていたのです。

 三に忍性良観は、慈善事業として道や橋を作ったと世間では評価されていましたが、実態は人々を苦しめるものでした。

 その実情が判るのは次の御書です。

 「而るに今の律僧の振る舞ひを見るに、布絹・財宝をたくはえ利銭・借請を業とす。教行既に相違せり。誰か是を信受せん。次に道を作り橋を渡す事、還って人の歎きなり。飯島の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是多し。諸国七道の木戸、是も旅人のわづらひ只此の事に在り、眼前の事なり、汝見ざるや否や」(御書 三八四㌻)

 当時の律僧は財宝を蓄えてそれを利用して金融業を営み、また道や橋を作って税を取って、かえって人々の歎きとなっていたのです。

 しかも良観は、後に大聖人に迫害を加える際に権力者の夫人たちに讒言を行っており、幕府権力者と結びついて、その権力を頼みとしていたことが判ります。

 辻説法

 このように鎌倉の宗教界は、幕府権力者と密接に結びついていたのですが、そこへ日蓮大聖人が折伏を開始されたのです。

 現在も鎌倉に大聖人の辻説法跡と伝える場所がありますが、往来の多い街角に立たれて道行く人々に法を説かれたのです。

 後年、『中興入道御消息』に、

 「去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申しつより候事、月のみつるがごとく、しほのさすがごとく、はじめは日蓮只一人唱へ候ひしほどに、見る人、値ふ人、聞く人耳をふさぎ、眼をいからかし、 口をひそめ、手をにぎり、はをかみ、父母・兄弟・師匠・ぜんうもかたきとなる」(御書 一四三一㌻)

と記されているように、この説法を聞いた人々は、あるいは汚らわしいとばかりに耳を塞ぎ、あるいは怒気をはらんだ目で睨みつけ、口を潜めて文句を言い、怒りに手を握りしめて歯を噛みしめる有り様だったのです。 

 そのため、たびたび、その説法の場を追われましたが、 それでも破邪顕正の師子吼は止むことなく、人々に法を説き続けられたのです。

 こうした布教が粘り強く続けられるうちに、少しずつ草庵を訪れる人々が現われ、大聖人に帰依する人々が増えていきました。

 この最初期に帰伏した門弟には、下総の印東祐昭の子で、一説に大聖人叡山遊学中の知己と伝えられる弁殿(成弁、後の日昭)、またその甥の築後房(後の日朗)、三位房、大進阿闍梨、武蔵公などがいます。

 また信徒には、富木常忍をはじめとして、四条金吾、工藤吉隆、池上宗仲、比企能本らが入信したと伝えられている他、南条時光殿の父兵衛七郎も、 いつとは定かではないものの、早期の入信と考えられています。

 こうした信仰の広がりは、大聖人御自身による折伏を中心に、信徒の俗縁をたどったものと拝され、草創期の僧俗一致の折伏行と拝されるのです。

 

 

 

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宗旨建立

2022年07月23日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年8月1日(第986号)

    日蓮正宗の基本を学ぼう  119

     日蓮大聖人の御生涯 ⑤

      宗 旨 建 立

 今回は、宗旨建立とそれに伴う「日蓮」の名乗りについて学んでいきましょう。

 三月二十八日

 建長五(一二五三)年三月二十八日の明け方、蓮長は、清澄山の頂に歩みを運ばれました。

 二十二日から思索を重ねること七日、ついに

「上行菩薩の再誕・末法の法華経の行者として、 いかなる大難が競い起ころうとも、

南無妙法蓮華経の大法を弘通しなければならない」との不退転の決意を固められたのです。

 そして、太平洋の彼方から太陽が昇り来たると、法界に向かって声高らかに

「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と御題目を唱え出だされました。

 これは、天台大師・伝教大師はおろか、インド応誕の釈尊も唱えることのなかった、

蓮長自身の内面の御悟り、内証の題目を初めて開き宣するものでした。

 この後、師匠・道善房の持仏堂において、

浄円房など順縁の人々に対して、念仏と禅の破折の御法門を説かれました。

この説法の相には、破邪を面とし、少機のために末法下種の大法を示す意義が拝されます。

 この御説法について『清澄寺大衆中』には、

 「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、

 建長五年三月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして、

 浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめ」 (御書 九四六㌻)

と、また『善無畏三蔵抄』に、

 「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、

 本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何に況んや人倫をや。

 此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す」

  (御書 四四四㌻)

と仰せられています。

 このことから、三月二十八日の内証の題目開宣には、

十二歳の頃から祈念し、後に智慧の宝珠を授けてくださった虚空蔵菩薩と、

出家得度の師である道善房に対する報恩の意義を含まれていることが明らかです。 

 四月二十八日

 次いで一カ月後の四月二十八日早暁、改めて清澄山頂に登られた蓮長は、

旭日に向かって御題目を唱えられ、妙法の宗旨を建立されました。ここに、

広く万機のために題目を開示するという、

一切衆生に対する妙法弘通の宣言がなされたのです。

 『曽谷入道殿御返事』には、章安大師の釈を引用された後に、

 「妙法蓮華経と申すは文にあらず、義にあらず、一経の心なり」(御書 一一八八㌻)

と仰せられています。この題目は単なる経典の題号ではなく、

法華経の文底に秘し沈められた肝心の法であると説かれているのです。

 また『秋元御書』に、

 「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(御書 一四四八㌻)

と仰せられ、

この題目こそ、諸仏が成道された根本の法であり、

一切の功徳が納まっていることを明かされています。

 末法の一切衆生は、この南無妙法蓮華経の題目を受持信行することにより、

必ず成仏を遂げることができるのです。

 この時蓮長は、自身の御名を「日蓮」と改められ、

本格的な妙法弘通の初めての説法、初転法輪に臨まれました。

 初転法輪については、後年、『聖人御難事』に、

 「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。

 天照太神の御くりや、右大将の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。

 此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめ」

  (御書 一三九六㌻)

と、述べられています。

 清澄寺諸仏坊の持仏堂において、聴衆に対して破邪に即する顕正の説法、

つまり釈尊の教えが力を失った末法の今、念仏等の諸宗はすべて悪法であることを強調され、

時に適った正法である妙法を信受すべきことを勧められたのです。

 

 聴聞衆の動揺

 諸宗各派の修学研鑽を終えた日蓮大聖人が、

どのような説法をするかと期待していた人々にとって、

これまでの信仰を否定するその内容は、驚きと怒りを呼び起こすものでした。

 念仏の信者であった安房東条郷の地頭・東条左衛門尉影信も、

この説法を聞いて怒りを露わにし、大聖人の身に危害を加えようとしました。

 師匠・道善房は、清澄寺の混乱と地頭の権力を恐れるばかりで何もできず、

大聖人は、法兄の浄顕房・義浄房の助けによって清澄寺を退出し、

領地の外へと逃れられたのです。

 大聖人は、法華経『観持品第十三』の、

 「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん(多くの無智の人々

 あって、悪口を言い、罵倒し、また刀や杖を用いて危害を加える者が現われる)」

 (法華経 三七五㌻)

 「数数擯出せられ 塔寺を遠離せん

 (たびたび所を追われ、寺院・廟所から遠く追放される)」(法華経 三七八㌻)

等の経文に照らして、様々な大難が競い起こることをご存知でした。

 それでも一切衆生を救わんと、妙法蓮華経の大法を弘通する決意を固められ、

万機に対して法華の正義を顕彰なされました。

まさにその日から、経文に予証せられた様相が事実として現われたのです。

 「日蓮」の名乗り

 大聖人は、宗旨建立に当たって「蓮長」の名を「日蓮」と改められたことについて、

甚深の意義があることを『産湯相承事』(御書 一七〇九㌻)に明かされています。

 また、「日」と「蓮」の各々の文字については、『四条金吾女房御書』に、

 「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。

 故に妙法蓮華経となづく。日蓮又日月と蓮華との如くなり」

 (御書 四六四㌻) 

と示されています。

 法華経『如来神力品第二十一』に、

 「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」 

 (法華経 五一六㌻)

と、また同じく『従地涌出品第十五』に、

 「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経 四二五㌻)

と、末法に出現する法華経の行者の御化導が説かれますが、

この「日月」と「蓮華」から「日蓮」と名乗られたことが拝されます。

 この経文の如く、予証された上行菩薩の再誕として末法濁悪の世に出現され、 

常に蓮華のように清淨な御振る舞いにより、

妙法をもって一切衆生の闇を除かれるという深意を、御名に明示されたのです。

「日蓮」の御名については、総本山第二十六世日寛上人が、『日蓮の二字の事』に

その御徳を示され、さらに甚深の義を含むことを明かされています。

 さらに『寂日房御書』には、

 「一切の物にわたりて名の大切なるなり。(中略)日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし」

 (御書 一三九三㌻)

と、その名号は仏の境界であることを示されています。

 ですから、「日蓮」との御名は末法の御本仏の名称であると拝することが大切であり、

日蓮正宗では「日蓮大聖人」と尊称申し上げるのです。

 「大聖人」との呼称には、

三世を達観される「聖人」と、仏様を顕わす「大人」の意義が込められています。

日蓮宗等では、「聖人」や「大菩薩」といった呼称を用いますが、

これは大聖人を御本仏と拝することができない故の間違った呼称なのです。

 私たちの信行にとって、大聖人こそ末法の御本仏であるとの確信に立ち、

自行化他・折伏育成に励むことが肝要です。

 

 

 

 次回は、ご両親の入信と鎌倉での弘教について学んでいきましょう。

 

 

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修 学 二

2022年07月19日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年7月1日(第984号)

  日蓮正宗の基本を学ぼう 118

   日蓮大聖人の御生涯 ④

     修 学 二

 

  今回は、

 比叡山の修学をひとたび終えられ、次いで奈良、京都等での修学を経て、

 宗旨建立に至る経緯と、そのご決意について学んでいきます。

 

  諸国遊学

  三年にわたり比叡山で修学された蓮長は、

 『妙法比丘尼御返事』に、

  「日本国に渡れる処の仏経並びに菩薩の論と人師の釈を習ひ見候はゞや

  (中略)国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に」(御書 一二五八㌻)

 と述懐されているように、

 比叡山での研鑽に加えて、その他諸宗の教えについても学ぶため、

 寛元四(一二四六)年、二十五歳の時に比叡山を下り、

 奈良や京都などの諸宗の寺々へ研鑽の歩みを運ばれました。

  比叡山を下って初めに向かったのは、三井の園城寺(滋賀県大津市)でした。

  園城寺は、円珍によって開かれた天台宗寺門派の寺院で、

  法華経を重んじながらも、

 現実には真言の教えが深く入り込んだ宗派となっていましたが、

 蓮長は研鑽のために円珍の著述を閲覧されました。

  次いで京都に向かい、泉涌寺にて宋版の大蔵経を閲覧し、

 その足で臨済宗の弁円、曹洞宗の道元を訪ね、

 禅宗の考えについて論談されたと伝えられています。

  さらに奈良へ向かった蓮長は、奈良時代に繁栄を極めた南都六宗

  (倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗)の教えについて研鑽されます。

  奈良にあった七大寺(興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・

  大安寺・法隆寺)には、仏典や書籍が多く収蔵されており、

 特に宝治元(一二四七)年、

 蓮長は七大寺の中の薬師寺において大蔵経を閲覧されました。

  その翌年の宝治二年には、当時、天皇の庇護によって隆盛を極めていた、

 真言宗の総本山である高野山金剛峯寺に向かい、真言の教えを徹底して研鑽し、

 さらに真言宗の東寺や仁和寺にも足を運ばれ、真言宗各派の教えについて研鑽されました。

  このように、各宗の教義を研鑽される一方で、

 歌人藤原(冷泉)為家のもとで歌道や書道なども修学されたと伝えられています。

  建長二(一二五〇)年には、聖徳太子が建立した四天王寺に入られ、

 聖徳太子の偉業を偲びつつ、所蔵される仏典や書籍を閲覧され、二年後の建長四年には、

 修学の総仕上げとして再び比叡山と園城寺を訪ねて、一切経の閲覧に専念されたのです。

 

  自覚と決意

 『妙法比丘尼御返事』に、 

 「此等の宗々枝葉をばこまかに習わずとも、 所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故に、

  随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで」(御書 一二五八㌻)

 と仰せられています。

  先述のように、

 十二歳より三十二歳に至る二十年間、ひたすら諸宗の修学研鑽に励んだ蓮長は、

 仏法の根本的な真理を理解すると共に、当時の仏教界の実情を知り、

 自らが立てた誓願に対する確信を深めました。

  ここで、蓮長が二十年間の修学研鑽において得たことを挙げると、

  一つには、

 大集経に示される「後五百歳白法隠没」の経文の的中と「法華最第一」の深い確信でした。

  比叡山は、正面上は法華経を重んじるも、爾前権教である真言の教えに誑かされ、 

 法華経の正義を違えている。また、

 禅宗や浄土宗は新興勢力として、主師親三徳兼備の釈尊の仏法を否定し、

 社会に悪法を定着させつつあり、その他律宗等の諸宗は、

 ことごとく時機を違えて釈尊の本義に背いている。

 これらの邪宗邪義が世の中に弘まってることがすべての災いの原因であり、

 この災いを鎮め国家に安泰をもたらすためには、

 釈尊出世の本懐たる法華経によるしかない、ということでした。

 

  二つには、

 末法に弘まるべき教えは法華経の肝心である妙法蓮華経の五字であり、

 この妙法蓮華経を弘めることこそ地涌上行菩薩の使命であること。そして、

 折伏をもって末法濁悪の世に苦しむ衆生を救済しなければいけないと自覚した

 自らの立場こそ、まさに上行菩薩に他ならない、 ということでした。

  しかしまた、法華経の『勧持品第十三』には、

  「濁劫悪世の中には 多く諸の恐怖有らん 悪鬼其の身に入って 

  我を罵詈毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 

  是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 

  但無上道を惜む」(法華経 三七七㌻)

 とあるように、

 末法に法華経を弘める者には、様々な迫害が加えられることが説かれているのです。

   蓮長は、 自らを法華経の行者として、また上行菩薩の再誕として、

 その使命を尽くすためにどのような厳しい迫害があろうとも、

 国家の災難と民衆を苦悩から救わんとする大慈悲心より、

 法華教を弘めなければならないとの強い決意をますます強固なものとして、

 身命を惜しまず法華経を流布していくことを強く決意されたのです。

 

  安房へ帰郷

 かくして鎌倉、比叡山、園城寺、高野山、南都六宗などの

 諸宗各派の修学研鑽を終えられた蓮長は、建長五年(一二五三)年の春、

 師の道善房や法兄である浄顕房、義浄房、また父母の待つ安房へ帰られました。

  そして三月二十二日より、清澄寺の一室にこもり、地涌上行菩薩の再誕として、

 身命をかけて法華経を弘通し折伏を行じていくための思索を重ねられたのです。

  後年述作の『 開目抄』には、

 法華経の経文に示されるように、いかなる迫害を受けようとも、

 妙法蓮華経の大法を弘通しなければならないとの思いを、

  「これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。

 いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見に、

 いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし、

 いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし。

 (中略)今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」(御書 五三八㌻)

 と述懐されています。

  すなわち、

 邪宗邪義の破折を一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠より反対され、

 迫害を受けると共に、国家や幕府からの迫害も必定である。

 しかし、言わなければ無慈悲である。

 法華経や涅槃経に照らし合わせると、言わなければたとえ今世では何事もなくとも、 

 来世では必ず無間地獄に堕ちることが明らかである。

 また、言うならば、三障四魔が必ず競い起こってくることがはっきりと判った。

 言うべきか、言わないで過ごすべきか。やはり言うべきであると覚悟を決めた、

 と仰せです。

  この御文には、折伏をもって妙法蓮華経の大法を弘通するという強い信念と、

 強盛な菩提心を起こして絶対に屈しないという不退の誓願が明かされていて、

 宗旨建立直前の一大決意と拝されるのです。




      次回は、 宗旨建立について学んでいきます。

 

 

 

 

 

 

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出家・修学(一)

2022年07月15日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

「大白法」平成30年6月1日(第982号)

  日蓮正宗の基本を学ぼう 117

   日蓮大聖人の御生涯 ③

     出家・修学 一

 

    初回から二回にわたって日蓮大聖人の御誕生と幼年期について詳しく学んできました。

    どのようなテーマをもとに学んだのかというと、

   まず大聖人が御誕生になられた末法という時代について、

   二番目に御誕生当時の世相について、

   三番目は御誕生の日について、

   四番目は大聖人の御両親について、

   五番目は大聖人が御誕生になられる前に見られたご両親の霊夢と

       実際に御誕生になられた時の不可思議な瑞相について、

   そして

   六番目には、大聖人の幼年期についてです。

    今回は出家から修行に至るまでの時期について学んでいきます。

 

    立願・入門

    善日麿と名づけられた大聖人は、自然豊かで温暖な安房の地において、

   父母の深い慈愛と教育によって健やかに成長されました。 

    しかしながら、世間では、悲惨な事件が相次ぎ、

   大風雨や干ばつなどの天災によって大飢饉も発生し、

   世の中の混乱の度は深まるばかりでした。 

   聡敏な善日麿は、承久の乱やうち続く天災や人災の凶相は何によるの      

   かという疑問を持つに至り、これらの社会の混乱を解決するため、

    「生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼり」

     (御書 一二七九㌻)

   とあるように、天福元(一二三三)年十二歳の時、

    「日本第一の智者」となるために学問を志して、

   安房片海村にほど近い清澄寺の道善房のもとへ入門されました。

    入門後の善日麿は、主に兄弟子の浄顕房・義浄房の二人から、

   一般的な教養と仏典を中心とした読み書きを学ばれました。

    これは、後に浄顕房と義浄房に与えた

    『報恩抄』に、

    「各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします」(御書 一〇三一㌻)

   と述べられていることからも判ります。

    善日麿は、

   生来の才能と求道心によって、

   また師匠道善房や、兄弟子の浄顕房や義浄房たちの教育によって、

   さらに智解を深めていかれました。

    このような修行の中にあって、善日麿は清澄山に登られた当初から、

   「日本第一の智者となし給え」との願を立てられ、

   十二の年より清澄寺の虚空蔵菩薩に祈念されました。

    そしてこの大願を立てられた理由について、

   幼少の頃を述懐された御書に基づき、三点に集約して次に挙げます。

    その一つ目は、

   下剋上とも言うべき承久に乱において、

   天皇方は鎮護国家を標榜する天台真言等の高僧らに命じ、

   調伏の祈祷を尽くしたのにもかかわらず惨敗し、

   三上皇が島流しに処せられてしまったのは何故か。

    「我が面を見る事は明鏡によるべし。

     国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」(御書 一三〇一㌻)

   とあるように、

   国家の盛衰も社会の平安も、その根源に仏法が大きく影響する。

   故に「日本第一の智者」となり、

   仏法の真髄を究めなければならないと大願を立てられたこと。

    二つ目には、『妙法比丘尼御返事』に、

   「此の度いかにもして仏種をもうへ、

   生死を離るゝ身とならんと思ひて候ひし程に、皆人の願はせ給ふ事なれば、

   阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、

   いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願いをおこす」

   (御書 一二五八㌻)

  と述べられているように、

  念仏を唱える行者の苦悶の臨終の姿、悪相を目の当たりにしたことにより、

  念仏に対する深い疑問を抱かれたこと。そして、

  そのことによって諸教の肝要と諸宗の子細を究めるために誓願されたこと。

    三つ目には、『報恩抄』に、

    「何れの経にてもをはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。

    而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、

    万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふところに一つの願を立つ」

     (御書 一〇〇〇㌻)

   と述懐されている通り、

   釈尊の説いた教えが各宗に分かれ、それぞれ優越性を主張しているが、

   釈尊の本意はただ一つなのではないか、

   その疑問を晴らすために仏法を究めたいと願われたことです。 

 

    得 度

    善日麿は 先に挙げた疑問の解決と仏法の真髄を極めるために、 

   得度を決意されました。

    そして嘉禎三(一二三七)年、十六歳の時、

   道善房を師として得度し、名を是聖(生)房蓮長と改め、

   今まで以上に日々の修行に精進し、昼夜を分かたず仏法の研鑽に励まれました。

    この頃には、安房随一の名刹である清澄寺とは言っても、

   蓮長の仏法に対する根本的な疑問に対して、

   師の道善房や浄顕房・義浄房も蓮長に教えるものはなく、

   その上、清澄寺所蔵の経巻典籍もすべて読み尽くされていました。

 

    修 学

    そして二年後の春、清澄寺において学び尽くした蓮長は、

   さらに深い研鑽の志を抱いて、諸国へ遊学の旅に立たれました。

    この遊学は後年、 「鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の

   国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に云々」(御書 一二五八㌻)

   と 述べられているように、

   蓮長は出家以来の大願を果たすべく、より一層深い研鑽の志を懐き、

   多くの仏典・書籍を求め、政治・経済の中心地であった鎌倉をはじめ、

   当時の仏教の中心地とも言うべき比叡山延暦寺や京都・奈良の各宗の

   中心寺院などを歴訪される旅へ発たれました。

   時に延応元(一二三九)年の春、十八歳の時で、

   諸国遊学は十四年間にもわたりました。

   初めに向かわれたのが、 政治・経済の中心地であった鎌倉です。 

   鎌倉では、北条幕府の庇護により、

   既に禅宗・浄土宗をはじめ各宗各派の大寺院が建立され、隆昌を誇っていました。 

   まずは、

   念仏・禅宗の法義の検討を加え、それらの宗の本源を尋ねる必要がありました。

   そして仁治二(一二四一)年には、

   鶴岡八幡宮に蔵する大蔵経も閲覧されました。

    『南条兵衛七郎殿御書』に、

    「法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき」

     (御書 三二六㌻)

   と述懐されていることからも、

   当時既に念仏をはじめ諸宗の教義に精通されていたことが判ります。

 

    比叡山へ

    そして、鎌倉で遊学すること四年、仁治三年二十一歳の時、

   さらに

   多くの典籍を閲読し、仏法の奥義、法華経の真髄を討究するために、

   蓮長は日本仏教の中心とも言うべき比叡山延暦寺に向かわれました。

    比叡山に登った蓮長は初め東塔の円頓房に住し、

   後には横川の定光院にも住まわれたと伝えられています。

    蓮長は当時の叡山三塔(東塔・西塔・横川)の

   総学頭職・大和庄俊範法印に師事し、法華の奥義、天台の教義などを研鑽されました。

    蓮長にとって、研鑽の目的は単に天台の教義を習学することではなく、

   法華一乗の奥旨と経証を確認し、併せて当時の比叡山の実態を知ることでありました。

    強い求道心と大願を抱く蓮長は機会あるごとに高僧や学僧たちと論義を交え、

   伝教大師の遺風を忘れて権実雑乱の邪義に堕した

   比叡山の仏教を厳しく論破されました。

    そのため、

   蓮長の学徳と名声は次第に比叡山の内外に響きわたっていったのです。






 

    次回は、諸国遊学の続きと宗旨建立に至る経緯について学んでいく予定です。

 

 

 

 

 

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御誕生(二)

2022年07月05日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

 「大白法」平成30年5月1日(第980号)

   日蓮正宗の基本を学ぼう  116

    日蓮大聖人の御生涯 ②

     御 誕 生(二)

 

    前回に引き続き、大聖人の御誕生について学びましょう。

    御誕生の日

   『御伝土代』に、 「後の堀河の院の御宇貞応元年二月十六日誕生なり」

   (日蓮正宗聖典 五八七㌻)

  と記されているように、

  大聖人は貞応元(一二二二)年二月十六日に御生まれになりました。

   この年は四月十三日に承久から貞応に改元しているので、正確には承久四年となりますが、

  古来貞応元年と呼び習わしていることからそれに従うことにします。

   現在の感覚からすれば、二月十六日は大寒が過ぎた頃で、

  まだまだ寒さの厳しい季節と感じられます。

   しかし、

  現在の暦に換算すると四月上旬に当たり、春爛漫たる暖かな季節であることが判ります。

   インドに出現した釈尊が入滅したのは二月十五日ですが、

   大聖人の御誕生日が二月十六日であることから、

   日にちの上にも不思議な因縁が拝されます。

    ◎安房国長狭郡東条郷片海の旃陀羅が子

   大聖人は誕生の地と出自について、

   「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅が家より出でたり」

    (御書五八〇㌻)

   「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子なり」(御書一二七九㌻)

   と仰せられています。

   安房国は房総半島南部で、現在の千葉県鴨川市(旧天津小湊町) 周辺に当たります。

   半島の南部は丘陵地帯となっていて、その分水嶺東の主峰として清澄山があります。

   この安房の国には四つの郡があり、長狭郡はその東にあって、

   さらに八つの郷に分かれていました。

    そのうちの東条郷には

   源頼朝が伊勢外宮に寄進した御厨(魚貝類などを貢進する所領)がありました。

   片海とは村の名前で、近世の古文書にその名前が見えますが、

   その位置については諸説があり特定できていません。

   おそらく漁師の村であったと考えられています。

    さて大聖人は、

   御自身を「旃陀羅が家」「海人が子」と仰せられています。

   旃陀羅とはインドの言葉を音訳したもので、

   生き物を殺して生業を立てる猟師や漁夫などを意味し、

   当時最も低い身分とされていました。

   インドの釈尊は迦毘羅衛国の浄飯王の太子として誕生されました。

   これは脱益の仏として、既に善根のある人々を導くために、

   尊敬の心を起こさせる順縁の化導を用いられるためでありました。

   また

   龍樹・天親も高貴な婆羅門の家から出て、天台・伝教も高貴な家柄の御生まれであり、

   大聖人だけが低い階層の身分で御生まれになられたのです。

    総本山第二十六世日寛上人は

   「蓮師貧賤の家に託生する所以の事」に、低い身分で生まれられた意義について、

   一に大慈悲をもっての故、二に法の妙能を顕わす故、三に末弟を将護する故との

   三意を明かされています。

   一に大慈悲をもっての故とは、

   末法下種の仏として凡夫僧の御姿をもって、母が赤子に乳を与えるように、

   上下万人に南無妙法蓮華経を唱えさせようという大慈悲を言います。

   低い身分の御出自であればこそ、様々な迫害苦難が起こるのです。

   しかし、その法華経弘通の難は法華経の経文の通りであり、

   その経文と御自身との合致とをもって法華経の行者の証明となるのです。

   命に及ぶ難を受けながらも人々に妙法を弘められたのは、

   ひとえに大慈悲の故であると言えましょう。

   二に法の妙能を顕わすとは、

   例えば、

   「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。

   命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし」(御書五六二㌻)

   等の御文は、

   低い身分の御出自ならばこそ、その意義がより強く拝されるものです。

   つまり、

   世間での貧賤の身をもって、出世間の富貴を顕わされたのです。

   その富貴の基準は何かと言えば、それは妙法の信受によるのであり、

   その功徳妙用の大なることを示される意義があるのです。

   三に末弟を将護する故とは、

   法華経の故に大難を受けられましたが、

   迫害者はその迫害の因縁によって法華の現罰を受けることを示されたのです。

   その現証の一つとして、佐渡配流の後、

   百日の間に二月騒動という北条氏一門の内乱が起きたことが挙げられます。

    以上のように、

   大聖人が旃陀羅が子として御生まれになられたことには

   深い意義があるのであり、けっして偶然でも恥ずべきことでもないのです。

    ご両親について

    さて本宗における相伝書に『産湯相承事』があります。

   その中でご両親について、次のように記されています。

   「悲母梅菊女は童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御坐すと云々。

   (中略)東条の片海に三国大夫と云ふ者あり、是を夫と定めよと云々」

    (御書 一七〇八㌻)

   母親の梅菊女は平氏の畠山氏の一類、

   つまり源頼朝の家来として有名な畠山重忠の一族と見られ、

   元久二(一二〇五)年に北条時政によって滅ぼされた際に

   安房に落ち延びてきたと考えられています。

   幼い七歳の春に見た霊夢に、東条郷片海村の三国大夫に嫁ぐべきことを告げられ、

   長じてその妻となられたのです。

    また父君は、

   上古の伝記には遠江国(静岡県西部)の人で貫名次郎重忠と言い、

   平家の乱の際に安房に流されたと伝えられており、

   漁民とはいえ何らかの地位にあったと推測されます。

    日寛上人は三国氏を父とすることについて、

   その弘められた妙法はインド・中国・日本の三カ国に流布すべき仏法であり、

   そのために三国氏を父とされたと釈されています。

    このように、

   ご両親とも何らかの理由により漁師の夫婦の身ではあっても、

   相当の見識と教養をお持ちであったことがうかがわれます。

    荘厳な瑞相

    日寛上人の御指南によれば、

    大聖人の御誕生には夢想現事の不思議が拝されます。

    その夢想とは『産湯相承事』に

   次のように悲母梅菊女の霊夢が記されています。

   誕生の日の朝の霊夢として、富士山の山頂から周りの世界を見渡していると、

   諸天善神が来下して、久遠元初の御本仏の垂迹である上行菩薩が下天され、

   その御誕生が間もなくであることを告げられたと記されています。

    そして、

   その際に竜神が一本の青蓮華をお持ちになり、

   その蓮華の花から清水が湧き出て我が子に注がれて産湯となり、

   余った清水がまき散らかされると、

   辺り一面は金色となり草木が一斉に花咲き菓をつけたのです。

    諸天や竜等が白蓮華を捧げ持って、 太陽に向かい、 「今此三界 皆是我有・・・」と

   仏の三徳の経文を一同に唱えられたと言います。

   かかる荘厳な霊夢を見た後に、大聖人が御生まれになられたのであります。

    さらに、

   梅菊女は出産の少しまどろんだ際に、

   諸天善神一同が「善哉善哉善日童子、末法教主、勝釈迦仏」と

   三度唱えて礼して去って行く霊夢を見られたと伝えられています。

    続く現事とは一例を挙げれば、

   大聖人の御誕生が近づいたある日、

   海に時期外れの二月にもかかわらず数本の青蓮華が生じ、

   近隣の人々が多く見に来たと言い、

   この青蓮華は大聖人御誕生の次の日よりしぼんでいったと伝えられています。

    この他にも様々な瑞相が伝えられており、日にちの不思議な因縁等も含め、

   まさに御本仏の出現を法界が寿ぎ、賛嘆されたものと拝されるのです。

    幼年期の善日麿

   こうして御生まれになられた大聖人は、善日麿と名付けられました。

   自然豊かで温暖な安房の海に育ち、

   父母の深い慈愛と教育によって健やかに成長されたと拝されます。

    大聖人様は、後の『光日房御書』には、

   「生国なれば安房国はこひしかりしかども」(御書 九五八㌻)とあるほか、

   故郷より御供養の海苔を見て望郷の念を募らせております。

   さらに一期の御振る舞いや御書に表わされるその品位と強い御意志、

   そして深い御慈悲からは、この幼年期がとても充満したものであったことを

   拝察することができます。 

    しかし世間に目を向ければ、

   幕府の要人が次々に亡くなり、土地問題の係争が全国的に発生し、

   また季節外れの大雪、洪水、飢饉などが起き、混乱の度合いを深めていきました。

    幼い大聖人は、これらの世相について深く考えられ、

   「日本第一の智者となし給へ」 との大志を抱かれて十二歳の御時に

    清澄寺に登られるのです。

    以上、大聖人の御誕生を拝しましたが、

   『諫暁八幡抄』に、

   「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。

   扶桑国をば日本国申す、あに聖人出で給はざらむ。

   月は西より東に向かヘリ、月氏の仏法。東へ流るべき相なり。

   日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。

   月は光あきらかならず。在世は但八年なり、日は光明月に勝れり、

   五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。

   仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。

   末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり」

   (御書 一五四三㌻)

   と仰せられています。

    大聖人は、

   本未有善の衆生が生きる末法に、本門の大仏法を名に表わす日本国に生まれられました。

   御誕生の際の不思議な瑞相は、

   月氏の脱益の仏法に対する下種の仏法を表すものとも拝されるのです。

    私たちは右御文に続く、

   「各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」(同㌻)

   との御金言のままに、折伏誓願に向かって精進していくことが大切です。

 

 

 

 

 

 

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御誕生(一)

2022年07月03日 | 日蓮大聖人の御生涯(一)

 「大白法」平成30年4月1日(第978号)

    日蓮正宗の基本を学ぼう 115

     日蓮大聖人の御生涯 ①

      御 誕 生(一)

 正像末の三時

 釈尊は、自身が入滅した後の仏法流布の様相について、正法時代・像法時代・末法時代という三つの時代(三時)があることを諸教典に説かれました。 説かれる経典によって各時代の長さに差が見られますが、時代の推移による仏法流布の傾向と相違にこそ主意があり、年数にのみ執われてはいけません。

 その上で大聖人は、大集経に説かれる五箇の五百歳に基づく、正像各千年説を諸御書に用いられています。

 三時のうち 「正法時代」とは、釈尊の教法・修行・悟り(証果)が正しく具わっており、教えを求める人々も過去世において仏と縁のある機根でしたので、正しく修行をすることで悟りに至ることができる時代です。

 次に「像法時代」は、教法・修行が伝わるものの悟りに至ることはできず、正法に像(似)た時代です。経典の翻訳や仏塔・寺院の建立は盛んで、形式は重んじられますが、仏法の教えが希薄になり、破戒の者や教えを悪用する者が次第に多くなりました。

 そして「末法時代」は、釈尊の教法が力を失い、正しい修行も悟りもないため邪義の蔓延による人心の荒廃が起こり、それに伴う世相の混乱によって争いの絶えない時代です。

 大聖人が御誕生されたのは、まさにこの濁悪の末法時代の初めだったのです。

 当時の日本仏教界も末法と呼ぶにふさわしく、鎌倉仏教と言われる複数の新たな宗派が乱立する事態となっていました。

 かつて像法時代の導師である伝教大師(最澄・七六七〜八二二)が平安時代初期に比叡山に日本天台宗を建立し、南都六宗の邪義を破折して法華一仏乗を宣揚されました。

 しかし、同時期に弘法大師(空海・七七四〜八三五)が真言宗を立て、法華経を戯論と下す邪義を立てました。そして、

 伝教大師の死後、真意を見失って弟子によって天台宗は密教を取り入れてしまいます。

   以後、比叡山から法華一乗の気風は衰えて諸宗兼学の地となり、

   念仏宗・禅宗等が派生する原因ともなったのです。

 

    御誕生当時の世相

    大聖人が御誕生あそばされた頃、

   十二世紀から十三世紀にかけての世界はどのような様相だったのでしょうか。

    アジアでは、チンギス=ハンによるモンゴル帝国が侵略を進め、

   その最大領域はユーラシア大陸の大半に及び、

   十三世紀が「モンゴルの世紀」と呼ばれるほどの勢力を誇りました。

   それは同時に、世界が侵略と殺戮の時代であったことを意味しており、

   まさに、「闘諍堅固」との御言葉そのままの時代だったのです。

    モンゴル帝国の侵略が東ヨーロッパにまで及んだその頃、

   ヨーロッパ諸国は、十四世紀まで続く停滞期にありました。

    特に、

   十一世紀末から、イスラム教徒からの聖地奪回を謳い文句とする十字軍の遠征によって、

   虐殺・略奪行為等の悲劇が繰り返され、

   中には資金繰りのために同じキリスト教国を攻撃することもありました。

    一方、

   文化の面でも十二世紀のヨーロッパは、

   文化復興の兆しに対して歴史家から再評価の動きはあるものの、

   これもイスラム教圏からの文化接収の影響とも見られています。

   このように仏法とは縁の薄いヨーロッパにあっても、

   社会全体が宗教と戦乱に振り回されていた様子が伺えます。

    同じ頃、日本はどうかといえば、

   平安末期から鎌倉時代にかけて、藤原氏の摂関政治から院政、

   源平の争乱を経て武家の時代へと政治権力が大きく変遷していきました。

   鎌倉幕府が開かれてからも、梶原景時の変、建仁の乱、比企能員の変、

   畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦と内乱が続き、源氏将軍も三代で途絶えました。

   特に大聖人御誕生の前年、承久三(一二二一)年に起こった「承久の乱」は、

   武家政権による全国支配を決定づけるものでした。

   兵乱は、

   五月十五日の院宣からわずか一カ月、鎌倉方の圧倒的な勝利をもって終結しましたが、

   武士たちによる放火・略奪行為によって、

   京の町は未だかつてない惨状を呈していたと言います。

    結果として、真言密教による幕府調伏の祈祷を尽くした天皇方を、

   臣下であるはずの武士が破り、三人の上皇を流刑に処すという、

   国の秩序に悖る前代未聞の処置が行われた。

    大聖人は『諸教と法華経と難易の事』に、

   「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」

    (御書 一四六九㌻)

   と仰せられています。

    まさにこの御金言の如く、末法に入り、

   釈尊が権実雑乱の様相を呈し、人々は法華経に背く諸宗の悪法を信仰し、

   世間が闘諍の暗黒時代に到ったのです。

   さらには、

   ひとたび兵乱が起これば、互いに諸宗の悪法をもって寺社に戦勝を祈らせるという、

   悪循環に陥っていました。

    こうして、

   悪世末法の様相が如実に現われた大事件が承久の乱だったのです。

   そして

   その翌年、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人が御誕生あそばされたのです。

 

    ご両親の瑞夢

    大聖人のご両親については本宗相伝の『産湯相承事』に、

   「東条の片海に三国大夫という者あり」(御書 一七〇八㌻)

   と、また、

   「悲母梅菊女は童女の御名なり平の畠山殿一類にて御坐す」(御書 同㌻)

   と示されており、

   父君は三国大夫(重忠)、母君は梅菊というお名前だったことが判ります。

    三国氏、平の畠山氏という姓から、

   家系についての研究もされていますが、今なお、はっきりとは判っていません。

    また同書に、母君の懐妊に際し、

   ご両親がそれぞれ不思議な夢を見られたことが記されています。

    すなわち、

   ある日、母君はあまりの不思議さに驚き目覚めた夢の内容について、

   夫の三国大夫に次のように語りました。

   「比叡山の山頂に腰かけて、近江の湖水(琵琶湖)を用いて手を洗ったところ、

   東の富士山から太陽が登ってきて、その日輪を自身の胸に懐いた(趣意)」

   (御書 同㌻)

   この夢の内容を聞かれた父君も、自らが見た不思議な夢について語られます。

   「虚空蔵菩薩が、眉目秀麗な幼子を肩において現れた。

   そして『この人こそ上行菩薩である。

   人々は真の財宝を与え功徳を授ける大菩薩であり、

   命あるものを三世(過去世・現在世・未来世)に亘り

    永遠に救済せられる大導師である。

   この子をあなたに託そう』と告げられた(趣意)」(御書 同㌻)

   どちらの夢の情景も、他に比べようもない荘厳さを具えた内容です。

   釈迦の母である摩耶夫人が懐妊されたとき、

   やはり太陽を懐く夢を見たと伝えられていますが、

   大聖人のご両親の夢は、末法濁世の世を照らす本仏出現を暗示する夢だったのです。

 

 

 

    次回は引き続き、大聖人御誕生時の瑞相や、出生の家柄について学んでいきましょう。

 

 

 

 

 

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