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熱原法難二

2023年01月17日 | 日蓮大聖人の御生涯(三)

大白法 令和3年4月1日(第1050号)から転載

 日蓮正宗の基本を学ぼう 144

  日蓮大聖人の御生涯 ㉚     

   熱原法難 二

 前回学んだように、第二祖日興上人の富士下方における弘教によって、熱原の百姓である神四郎・弥五郎・弥六郎の兄弟をはじめとする多くの人々が、日蓮大聖人の仏法に入信をしました。

 一方で、当地にあった滝(りゅう)泉(せん)寺(じ)の院(いん)主(じゅ)代(だい)であった行(ぎょう)智(ち)らは奸(かん)計(けい)を巡らして、あるいは政所の役人と結託して偽の御教書を作ったり、あるいは甘言をもって法華講衆に離反工作をしたのです。

 その結果、神四郎らの兄・弥籐次は籠絡されてしまい、大聖人が応援のために遣わした三位房をも門下から離脱させて行基側に付けてしまったのです。

 日を追うごとに熱原の法華講衆への弾圧は強まり、ついに弘安二(一二七九)年の四月には刃傷事件が起こり、八月には弥四郎が殺される無法な凶悪事件まで発生するに至りました。 

 日興上人は熱原の信徒のこと、法難の状況などを細かに大聖人に御報告され、大聖人は一門の団結を固めるよう御手紙を下されました。それが次の『異体同心事』です。

 「あ(熱)つわ(原)らの者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なしと申す事は外典三千余巻に定まりて候。(中略)日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多くの火あつまれども一水にはき(消)ゑぬ。此の一門も又かくのごとし」(御書 一三八九㌻)

 かつて殷の紂王は、大軍を率いて周との決戦に臨みましたが、紂王の軍勢は心がばらばらであったために、周の武王が率いるわずか八百人の団結が強い軍勢に敗れ去りました。同じように、大聖人の一門は人数こそ少なくとも、一つの志のもとに団結するならば、いかなる難をも乗り越え、法華経を弘めていくことができるのです。

 四月・八月の刃傷事件が示すように 、法華講衆を取り巻く富士下方の状況は、極めて危険なものがありました。しかし、この大聖人の激励を受けた法華講衆は、日興上人の御指導のもとで一致団結し、ますます信仰に励んでいったのです。

 

 不当な捕縛

 弘安二年九月二十一日(現在の十一月三日) に、日頃、下野房 日秀師の教化にあずかっていた熱原の信徒たちが集まり、日秀師が所有する田の稲刈りを手伝っていました。

 しかし、これを好機と見なした行智は、大聖人一門を一網打尽にしようと、下方庄や加島庄一帯の得宗領から、大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱(一説には平頼綱の叔父)らに声をかけ、多くの手勢を率いて押し寄せたのです。

農民信徒たちには何の落ち度がないにもかかわらず、こうして役人と結託した行智の横暴によって、あえなく捕縛されてしまい囚われの身となってしまいました。

 法華経『勧持品第十三』には、

 「濁劫悪世の中には 多く諸(もろもろ)の恐(く)怖(ふ)有らん 悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜む」(法華経 三七七㌻)

と説かれています。悪世末法には、この法華経を信仰する者に対して、悪鬼が人々の心に入り込むことによって、多くの迫害が起きる。けれども、仏を敬い深く信ずるが故にその難を耐え忍び、法を弘め、自らの身命よりも無上の仏道を重んじなければならない。常々、日興上人から教えられていたように、この経文の通りの恐るべき難が自分たちの身の上に降りかかってきたのでした。

 行智は悪謀を巡らして、神四郎の兄・弥籐次の名のもとに、熱原の法華講衆が弓矢を身につけて院主の支配する坊の土地に打ち入って稲を刈り、下野房日秀の住房に取り入れたとする刈田狼藉の罪をでっち上げたのです。

 当然のことながら、事実無根の虚偽の訴えでありましたが、この訴状によって神四郎たち二十人は罪人として、鎌倉へと護送されることになったのです。

 一方で、一連の事件の中で 、熱原法華講衆を迫害した大進房や大田親昌、長崎時綱らは乗り慣れているはずの馬から落ち、中でも大進房は苦しんだ挙句に息絶え、また大聖人一門から離反した三位房も不慮の死を遂げるなど、たちまちに現罰が現れたのでした。

 

 『滝泉寺申状』

 日興上人は、直ちに身延の大聖人のもとへ、この事件を御報告されました。

 大聖人は囚われた法華講衆の身の上を思いやられ、門下の一大事であると御考えになりました。十月一日の『聖人御難事』には、

 「各々獅子王の心を取り出だして、いかに人を(嚇)どすともを(怖)づる事なかれ。獅子王は百獣にを(怖)ぢず、獅子の子又かくのごとし。彼等は野(や)干(かん)のほ(吠)うるなり、日蓮が一門は獅子の吼ゆるなり。(中略)設(たと)ひ大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給ふゆへに、ば(罰)っしがたかるべしと存じ給へ。すこしもた(弛)ゆむ心あらば魔たよりをうべし」(御書 一三九七㌻)

と仰せられ、この信心をやめさせようと人々がどれほど脅迫したとしても、けっして恐れることなく、諸天善神の加護を信じて、いよいよ強盛に信心を固めるように励まされています。

 そして、現世でこのような大難に遭っても退転しないで信心を貫き通すのであれば、必ず後生は仏になるのである。熱原の人々も互いに励まし合って、確固たる信心の境界に立って不退転の覚悟を定めるようにと仰せられています。 

 大聖人は、まさに今、死と隣合わせという法難の最中にある法華講衆を励まされると共に、行智らの策謀を暴いて真実を幕府に訴え出るために申状の草案の執筆に取りかかられました。これが『滝泉寺申状』です。

 同申状は大きく前半と後半とに分かれ、前半は大聖人が執筆され、後半は事件の詳細を知る日興上人が書かれたとも、訴訟に詳しい富木常忍がまとめたとも言われています。

 前半では、まず行智らの訴えとして、

 「日秀・日弁、日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経、或は真言の行人は皆以て今世後世叶ふべからざるの由、之を申す云云取意」

  (同 一四〇〇㌻)

を挙げ、これに対する反論の形を取って、仏法の正邪を文証・理証・現証の上から明かされています。

 まず、日本国一同が法華経に背いて邪法を信仰しているために、種々の天災や、自界叛逆難と他国侵逼難とが起こるのであり、これを諌言した大聖人はかえって謗法の諸人の讒言によって遠流死罪に及んだことが記されておます。

 そして真言師らの蒙古調伏について、承久の乱の時に祈祷したにもかかわらず天皇方は負けた事実を挙げて批判され、浄土や華厳等の諸経は未顕真実の方便であることを教示されて、これらの子細について不審があれば、諸宗の高僧らと引き合わせて公場対決をして、是非を決するべきである旨を述べられています。

 続く後半では 、行智らの訴状にある刈田狼藉は、全くの虚偽であり、行智らの悪行をつらつらと挙げて、重科は行智にこそあることを示し、この訴訟が不実の濫訴であることを指弾されています。

 この申状の草案は十月十二日付の『伯耆殿御返事』と共に、日興上人のもとへと届けられました。『伯耆殿御返事』には、このような趣旨で申状を書き上げること、ただし囚われている農民信徒の身の安全が確保されるならば、問注(訴訟)に及ぶ必要はないことなど、細々とした御指示が下されています。

 このように九月二十一日の襲撃事件に対して、門下の僧俗が団結して解決に向け手を尽していましたが、その直後に平左衛門尉頼綱父子による苛烈な迫害が行われたのです。

 この詳細は次回に譲りますが、

この熱原法難は、凡夫の浅い見解ではなく、仏法の信心の眼で拝することによってこそ、この法難の尊さを学ぶことができると、敢えて付言しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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