○慣性の法則の理解の仕方 自然法則と物質とエネルギーには自らの心が無い
ここでは、慣性の法則が持つ意味について、説明をします。
結論を言えば、自然法則にも物質にもエネルギーにも自らの主体的な自由意志がなく、これ自体で単独に勝手に働いたり動き出したりすることは絶対に無い、ということです。
実際には、自然法則と物質とエネルギーとは、自然法則+エネルギー(物質)一体不可分の働きの形で働きますが、慣性の法則性を現すことではいささかも変わりがありません。
自らの主体的な自由意志が無い、という意味は、自然法則にも、物質にも、エネルギーにも、私達が「心」と呼ぶもの、特に、物事を自由に主体的に考えて、何をどうするかを自ら選択し決定し、それを採択することができる、この結果として新しいものを創造する機能を持つ、意識のある心の働きを持ってない、という意味です。
○慣性の法則に関する物理学的な説明
慣性の法則、という言葉を聞いたことが、皆さんはあるでしょう。
この法則は、動いている物体はそのまま止まることが無く等速で動き続けるし、止まっている物体は、自ら動き出すことがなく、そのままの状態を維持し続ける、というという現象をもたらす自然の法則の働きのことですね。
平たく言えば、物を棚に並べて置けるのも、この法則があるおかげです。
慣性の法則を、ヒトだけでなく、例えば、リスは、どんぐりの実を地面に穴を掘って埋めたり、巣穴に溜め込んだりしたときに、そのどんぐりの実が勝手に動いて何処かに行ってしまうことが無いことを、ちゃんと知っています。
○慣性の法則の本質的な意味 意識のある心の働きが無い
自然法則や物質やエネルギーに慣性の法則性をもたらすものは何でしょうか?
この答えは、自然法則にも、物質にも、物質を造る素材になっているエネルギーにも、自らの主体的な自由意志を持つ「意識のある心」がなく、それ自体で、勝手に働くことが無い、ということです。
端的に言えば、自然法則も物質もエネルギーも、意識のある心が無い、意識のある心を持って居ない、ということです。
意識のある心が無いということは、何かを新しく創造する機能・能力を持ってない、ということです。
実際、自然法則も、物質も、エネルギーも、これ自体の主体的な働きで、勝手に何かを造り出すということがまったくありません。
このお陰で、ヒトは、自然法則+エネルギー一体不可分の働きによって造って欲しいものだけを選択して造らせることができる訳です。もし、自然法則+エネルギー一体不可分の働きに自らの主体的な自由意志があったら、ヒトの言うことを何でも素直に聞いて、ヒトが命ずる通りにモノを造る、ということをしてくれないでしょう。
○意識のある心の働きは生物、特に動物に顕著な現象
自らの物質的な身体や物を自由に動かし何かを創り出す機能を持つ心は、生物、特に動物に顕著な現象です。
このことを、狩りをする動物は、本能的に知っています。
アンリ・ファーブルの「昆虫記」に登場する狩人蜂は、獲物の蜘蛛やイモムシの神経節に針を刺して麻酔をかけて動けなくさせます。
生物は、死んで意識のある心の働きを失い、無意識化=物体化すれば最早勝手に動きだすことが絶対に無いことを知っているライオンのメスは、捕らえたウシカモシカが窒息死したことが確認できるまで、その口元を噛んで離しません(文字通りの意味で「死の接吻」)。この狩りの様子は、テレビの動物番組によく登場しますが、見るたびごとに、ライオンですら慣性の法則をよく知っている、と感心しています。
○慣性の法則に関するまとめ
慣性の法則が意味していることは、一般に理解されている意味の他に自然法則にも物質にもエネルギーにも自らの意識のある心が無い、という意味を含んでいる、ということです。
ここまで理解したのでなければ、慣性の法則を理解したことになりません。
○慣性の法則から天地万物の創造主である神の存在を証明する 附 客観的ということ
自然法則にも、物質にも、エネルギーにも主体的な自由意志がなく、自ら進んで働いて、何かを創り出すことが出来ない。
それなのに、私達が見て知っている通りの天然自然の存在の世界があります。
自然科学は、天然自然の世界を、自然法則+エネルギー一体不可分の働きのみで説明しようとします。そして、天地創造の前段階として、物質的な揺らぎを持ち出します。しかし、慣性の法則から言って、原因無しに物質自体が勝手に揺らぐことは無いはずです。
自然法則+エネルギー一体不可分の働きだけでは、天地創造が始まりようがないのです。
この天然自然の存在の世界を、心を持たず、何かを新しく創り出す機能を持たない、自然法則や物質やエネルギーの働きが、創り出した、というのは無理な話です。
そこで、自らの主体的な自由意志がなく、自ら進んで何かを新しく創り出す能力がまったく無い自然法則+エネルギー一体不可分の働きを、この世界を造る素材といわば道具に使って、この世界を、そして、ヒトという存在を創造した創造主に当たる存在が必要不可欠になります。
そして、この意味の創造主に当たる存在を、このブログの中では、創造主である神と呼んでいます。
言い換えると、天然自然の存在の世界の創造主は、創造主である神のみだ、自然法則とエネルギーは、天然自然の存在の創造主である神では無いし、創造主である神には成れないのだ、ということです。
しかも、この世界も、私達の存在も、そして、この世界の成り立ちと仕組みの全体を造り出した天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きも、全てのヒトに先立って、また、全てのヒトに等しく、それ自体で、普遍的に絶対的に不変的に存在し働いています。
この意味で、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の存在とその働きも、また、この働きによって創り出されたこの世界の成り立ちと仕組みも、この中に進化の過程を踏んで生まれた私達も、全てのヒトに等しく、自動的かつ必然的に、「客観的に」実在していることになります。
但し、このことを、自覚的な知識にするためには、ヒトは、生物進化の過程を踏んで、意識のある心の働きを獲得する必要があったわけです。そして、このことが、創造主である神の化身かつ分身の存在のヒト(宇宙大では宇宙人一般)に実現するまで、この世界は絶対的な無意識の状態に置かれていた訳です。
例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
ここでは、慣性の法則が持つ意味について、説明をします。
結論を言えば、自然法則にも物質にもエネルギーにも自らの主体的な自由意志がなく、これ自体で単独に勝手に働いたり動き出したりすることは絶対に無い、ということです。
実際には、自然法則と物質とエネルギーとは、自然法則+エネルギー(物質)一体不可分の働きの形で働きますが、慣性の法則性を現すことではいささかも変わりがありません。
自らの主体的な自由意志が無い、という意味は、自然法則にも、物質にも、エネルギーにも、私達が「心」と呼ぶもの、特に、物事を自由に主体的に考えて、何をどうするかを自ら選択し決定し、それを採択することができる、この結果として新しいものを創造する機能を持つ、意識のある心の働きを持ってない、という意味です。
○慣性の法則に関する物理学的な説明
慣性の法則、という言葉を聞いたことが、皆さんはあるでしょう。
この法則は、動いている物体はそのまま止まることが無く等速で動き続けるし、止まっている物体は、自ら動き出すことがなく、そのままの状態を維持し続ける、というという現象をもたらす自然の法則の働きのことですね。
平たく言えば、物を棚に並べて置けるのも、この法則があるおかげです。
慣性の法則を、ヒトだけでなく、例えば、リスは、どんぐりの実を地面に穴を掘って埋めたり、巣穴に溜め込んだりしたときに、そのどんぐりの実が勝手に動いて何処かに行ってしまうことが無いことを、ちゃんと知っています。
○慣性の法則の本質的な意味 意識のある心の働きが無い
自然法則や物質やエネルギーに慣性の法則性をもたらすものは何でしょうか?
この答えは、自然法則にも、物質にも、物質を造る素材になっているエネルギーにも、自らの主体的な自由意志を持つ「意識のある心」がなく、それ自体で、勝手に働くことが無い、ということです。
端的に言えば、自然法則も物質もエネルギーも、意識のある心が無い、意識のある心を持って居ない、ということです。
意識のある心が無いということは、何かを新しく創造する機能・能力を持ってない、ということです。
実際、自然法則も、物質も、エネルギーも、これ自体の主体的な働きで、勝手に何かを造り出すということがまったくありません。
このお陰で、ヒトは、自然法則+エネルギー一体不可分の働きによって造って欲しいものだけを選択して造らせることができる訳です。もし、自然法則+エネルギー一体不可分の働きに自らの主体的な自由意志があったら、ヒトの言うことを何でも素直に聞いて、ヒトが命ずる通りにモノを造る、ということをしてくれないでしょう。
○意識のある心の働きは生物、特に動物に顕著な現象
自らの物質的な身体や物を自由に動かし何かを創り出す機能を持つ心は、生物、特に動物に顕著な現象です。
このことを、狩りをする動物は、本能的に知っています。
アンリ・ファーブルの「昆虫記」に登場する狩人蜂は、獲物の蜘蛛やイモムシの神経節に針を刺して麻酔をかけて動けなくさせます。
生物は、死んで意識のある心の働きを失い、無意識化=物体化すれば最早勝手に動きだすことが絶対に無いことを知っているライオンのメスは、捕らえたウシカモシカが窒息死したことが確認できるまで、その口元を噛んで離しません(文字通りの意味で「死の接吻」)。この狩りの様子は、テレビの動物番組によく登場しますが、見るたびごとに、ライオンですら慣性の法則をよく知っている、と感心しています。
○慣性の法則に関するまとめ
慣性の法則が意味していることは、一般に理解されている意味の他に自然法則にも物質にもエネルギーにも自らの意識のある心が無い、という意味を含んでいる、ということです。
ここまで理解したのでなければ、慣性の法則を理解したことになりません。
○慣性の法則から天地万物の創造主である神の存在を証明する 附 客観的ということ
自然法則にも、物質にも、エネルギーにも主体的な自由意志がなく、自ら進んで働いて、何かを創り出すことが出来ない。
それなのに、私達が見て知っている通りの天然自然の存在の世界があります。
自然科学は、天然自然の世界を、自然法則+エネルギー一体不可分の働きのみで説明しようとします。そして、天地創造の前段階として、物質的な揺らぎを持ち出します。しかし、慣性の法則から言って、原因無しに物質自体が勝手に揺らぐことは無いはずです。
自然法則+エネルギー一体不可分の働きだけでは、天地創造が始まりようがないのです。
この天然自然の存在の世界を、心を持たず、何かを新しく創り出す機能を持たない、自然法則や物質やエネルギーの働きが、創り出した、というのは無理な話です。
そこで、自らの主体的な自由意志がなく、自ら進んで何かを新しく創り出す能力がまったく無い自然法則+エネルギー一体不可分の働きを、この世界を造る素材といわば道具に使って、この世界を、そして、ヒトという存在を創造した創造主に当たる存在が必要不可欠になります。
そして、この意味の創造主に当たる存在を、このブログの中では、創造主である神と呼んでいます。
言い換えると、天然自然の存在の世界の創造主は、創造主である神のみだ、自然法則とエネルギーは、天然自然の存在の創造主である神では無いし、創造主である神には成れないのだ、ということです。
しかも、この世界も、私達の存在も、そして、この世界の成り立ちと仕組みの全体を造り出した天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きも、全てのヒトに先立って、また、全てのヒトに等しく、それ自体で、普遍的に絶対的に不変的に存在し働いています。
この意味で、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の存在とその働きも、また、この働きによって創り出されたこの世界の成り立ちと仕組みも、この中に進化の過程を踏んで生まれた私達も、全てのヒトに等しく、自動的かつ必然的に、「客観的に」実在していることになります。
但し、このことを、自覚的な知識にするためには、ヒトは、生物進化の過程を踏んで、意識のある心の働きを獲得する必要があったわけです。そして、このことが、創造主である神の化身かつ分身の存在のヒト(宇宙大では宇宙人一般)に実現するまで、この世界は絶対的な無意識の状態に置かれていた訳です。
例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。