■小川洋子のつくり方/田畑書店編集部編 2021.10.27
2021年10月2日 朝日新聞の読書欄に押切もえさんが、『 小川洋子のつくり方 』 「声にならない声 すくい上げて」 という書評を載せていました。
ぼくは、小川洋子さんの小説を今までに一冊しか読んでいない。
2011年に『 人質の朗読会 』 だけ。
2003年刊行の 『 博士の愛した数式 』 は、読売文学賞、本屋大賞を受賞しかなり話題になったはずなのにご縁がありませんでした。
そこで、今回、小川洋子さんの小説を読む道しるべとするために、『 小川洋子のつくり方 』 を読んでみました。
『 完璧な病室 』
『 ことり 』
『 密やかな結晶 』
『 博士の愛した数式 』
これから読んでみようと思っています。
私には、互いを知るはずもなかったレーヴィと原、二人の言葉が呼応し合っているように感じられる。ある者は、これが人間か、と問い、ある者は、これが人間なのです、と答える。人間らしくあろうともがく者と、人間らしさを見失うまいとする者が、文学の言葉を通して一つに重なり合い、未来にまで届く思いを響かせている。文学の世界では、単なる無意味な偶然、で済ませられてしまうものの中に、最も大切な真理が映し出される。文学の助けにより、死者の言葉が小舟にすくい上げられ、真実の川を連なって流れてゆく。
この小さな箱には、息子を思う母親の愛情と、質素な大豆ご飯を楽しみにしていた少年の無邪気さが詰まっている。たとえ原爆の体験者が一人もいなくなっても、弁当箱が朽ちて化石になっても、小さな箱に潜む声を聴き取ろうとする者がいる限り、記憶は途絶えない。死者の声は永遠であり、人間はそれを運ぶための小舟、つまり文学の言葉を持っているのだから。
小川----はじめはやはり「世界と私をどう関係付けるか」を書こうとしてもがくわけです。しかしあるとき、世界と私は実はすでに繋がっていたことに気づく。それは大発見だったかもしれない。自分で一生懸命、「私と世界を結ぶ紐はこれかしら、あれかしら」と思って垂れ下がっている紐を探していたら、実はもう腰のあたりで結ばれていて、「あ、ここでもう繋がってた」って(笑)
千野----小川さんのとりわけ長めの作品では、「わたしたちは毎日、~していた」といった形の記述が鍵になっています。過去の、あるまとまりを待った時間に、登場人物たちが日常的に反復していた行為を、現在から回想している。その反復していた時間はあるとき終ります。だから語っている現在から見ると、その反復していた時間は「いまはもうない」時間になっている。なにかがあった。いまはない。その失われた物とか人とか反復の時間を、とても大事なものとして提示している感じです。
いま現在に、ある反復のあった大事な時間が失われているという感覚をなぜわたしが偏愛するのかと言うと、キーワードは洞窟ということだと思うんです。どこかに洞窟があって、そこにはすでに物語が刻まれてぃるんです。でも、その物語を解読することはできない。はるかな昔にほとんど人間の起源と言ってもいいような存在が、まず洞窟になにかを刻んだんですね。作家という存在はその洞窟に苦労してでかけていって、そこに刻まれたもはや意味の失われてしまった暗号のようなものを自分なりに解読して読者に提示しているというイメージがあるんです。はるか昔の、もはや誰ひとり記憶していない、しかしたしかに存在した遠い過去の物語を、小川洋子という媒体を通して提示しているわけで、その意味ではそれは現在にあるんだけれども、もうすでに失われているものでもあるわけです。だから読者に、自分はもう失われてしまった物語をいま読んでいるのだ、という錯覚を起こさせる小説をわたしは書きたいんですね。
小川----見文学とはもっとも遠く見える世界に、もっとも文学的な言葉が隠れていたりするんです。それを『博士の愛した数式』では強く実感しましたね。小説って本当に面白いなあと思うのは、小説は気取って言えば、人間の孤独や哀しみ、男女の恋愛の切なさを書くということになっているらしいんだけど、実際に書く現場では「哀しみ」や「孤独」という言葉が作家に想像力を与えてくれることはいっさいなくて、「友愛数」や「涙腺水晶結石症」というなんら人間の孤独と関係なさそうな言葉が小説的な想像力を駆動させてくれるんです。
ジュウシマツにじっくり接して初めて、彼らの魅力にノックアウトされた気がしました。この本にも出てきますが、「パンダ」と名付けられたジュウシマツ、先生が実験用に飼育したうちで最も複雑で精緻な歌を歌う鳥です。その域までいってしまうと、それほど見事な歌をメスの前ではもう歌わなくなるっていうんですね。目的が失われちゃってるわけです(笑)。歌のために歌う。自分ひとりのために歌う。生殖ではなくて歌そのものの美を追求しだす個体が現れる。
「ああ、芸術の起源ってこういうところにあるんじゃないかな」と思いました。芸術に目的がないということはこういうことなんじゃないか。
私が岡ノ谷先生のこの本の中でいちばんハッとしたのは、「そもそも言葉というのは情動を載せない道具として進化した」という記述だったんですね。言葉は心を伝えないということです。言葉は情動を伝えないことによって、他人を操作しやすくなっている。つまり本心を隠すことができる。そうやって自分の利益を最大化する。「言葉は隠蔽のコミュニケーションである」と書かれていました。
ここで大切になってくるのは「人間は目の表情は誤魔化せない」ということです。実験の結果そういうことが分かったらしいんですが、これは面白いと思ったんです。人間は目のまわりの筋肉を意図的には動かせない。また、実際に怒ってはいないけれど怒ったふりはできるし、悲しんでいるふりもできる。しかし、笑っている表情は本当に心が喜んでいる時しか作れないとも言うんです。ですから役者は笑う演技をするときに、笑う顔を作るのではなくて、「感情」を笑っている状態にもっていく必要があるらしいのです。
「目は口ほどに物を言う」というのは真理なんですね。よく愛想はいいけれど、この人の目は本気で笑っていないというのがわかることがあります。これはゴリラの専門家、霊長類学者の山際壽一先生がおっしやっていたんですが、人間ほど白目と黒目がくっきり分かれている動物って珍しいそうですね。コントラストがはっきりしているので、目に表情が出やすい。それを相手に悟られやすいということだそうです。
ですから面と向かって他人とコミュニケーションをとるときに、どうしても目の表情で相手を騙せない。だからこそ、相手を誘導して、自分に有利に事を運ぶ時、嘘をつける言葉を発明したんじゃないか、という仮説はすごく説得力があると思います。隠蔽するとか嘘をつくとか、言葉の発生にはネガティブな要素が絡んでるな、という気がします。
岡ノ谷先生のこの御本で私が最も印象深かったのは、次の一文でした。
「言葉を持った人間は、たとえひとりでも、心の中には聞き手としての自分がいるから、ひとりではありません」
『 小川洋子のつくり方/田畑書店編集部編/田畑書店 』
2021年10月2日 朝日新聞の読書欄に押切もえさんが、『 小川洋子のつくり方 』 「声にならない声 すくい上げて」 という書評を載せていました。
ぼくは、小川洋子さんの小説を今までに一冊しか読んでいない。
2011年に『 人質の朗読会 』 だけ。
2003年刊行の 『 博士の愛した数式 』 は、読売文学賞、本屋大賞を受賞しかなり話題になったはずなのにご縁がありませんでした。
そこで、今回、小川洋子さんの小説を読む道しるべとするために、『 小川洋子のつくり方 』 を読んでみました。
『 完璧な病室 』
『 ことり 』
『 密やかな結晶 』
『 博士の愛した数式 』
これから読んでみようと思っています。
私には、互いを知るはずもなかったレーヴィと原、二人の言葉が呼応し合っているように感じられる。ある者は、これが人間か、と問い、ある者は、これが人間なのです、と答える。人間らしくあろうともがく者と、人間らしさを見失うまいとする者が、文学の言葉を通して一つに重なり合い、未来にまで届く思いを響かせている。文学の世界では、単なる無意味な偶然、で済ませられてしまうものの中に、最も大切な真理が映し出される。文学の助けにより、死者の言葉が小舟にすくい上げられ、真実の川を連なって流れてゆく。
この小さな箱には、息子を思う母親の愛情と、質素な大豆ご飯を楽しみにしていた少年の無邪気さが詰まっている。たとえ原爆の体験者が一人もいなくなっても、弁当箱が朽ちて化石になっても、小さな箱に潜む声を聴き取ろうとする者がいる限り、記憶は途絶えない。死者の声は永遠であり、人間はそれを運ぶための小舟、つまり文学の言葉を持っているのだから。
小川----はじめはやはり「世界と私をどう関係付けるか」を書こうとしてもがくわけです。しかしあるとき、世界と私は実はすでに繋がっていたことに気づく。それは大発見だったかもしれない。自分で一生懸命、「私と世界を結ぶ紐はこれかしら、あれかしら」と思って垂れ下がっている紐を探していたら、実はもう腰のあたりで結ばれていて、「あ、ここでもう繋がってた」って(笑)
千野----小川さんのとりわけ長めの作品では、「わたしたちは毎日、~していた」といった形の記述が鍵になっています。過去の、あるまとまりを待った時間に、登場人物たちが日常的に反復していた行為を、現在から回想している。その反復していた時間はあるとき終ります。だから語っている現在から見ると、その反復していた時間は「いまはもうない」時間になっている。なにかがあった。いまはない。その失われた物とか人とか反復の時間を、とても大事なものとして提示している感じです。
いま現在に、ある反復のあった大事な時間が失われているという感覚をなぜわたしが偏愛するのかと言うと、キーワードは洞窟ということだと思うんです。どこかに洞窟があって、そこにはすでに物語が刻まれてぃるんです。でも、その物語を解読することはできない。はるかな昔にほとんど人間の起源と言ってもいいような存在が、まず洞窟になにかを刻んだんですね。作家という存在はその洞窟に苦労してでかけていって、そこに刻まれたもはや意味の失われてしまった暗号のようなものを自分なりに解読して読者に提示しているというイメージがあるんです。はるか昔の、もはや誰ひとり記憶していない、しかしたしかに存在した遠い過去の物語を、小川洋子という媒体を通して提示しているわけで、その意味ではそれは現在にあるんだけれども、もうすでに失われているものでもあるわけです。だから読者に、自分はもう失われてしまった物語をいま読んでいるのだ、という錯覚を起こさせる小説をわたしは書きたいんですね。
小川----見文学とはもっとも遠く見える世界に、もっとも文学的な言葉が隠れていたりするんです。それを『博士の愛した数式』では強く実感しましたね。小説って本当に面白いなあと思うのは、小説は気取って言えば、人間の孤独や哀しみ、男女の恋愛の切なさを書くということになっているらしいんだけど、実際に書く現場では「哀しみ」や「孤独」という言葉が作家に想像力を与えてくれることはいっさいなくて、「友愛数」や「涙腺水晶結石症」というなんら人間の孤独と関係なさそうな言葉が小説的な想像力を駆動させてくれるんです。
ジュウシマツにじっくり接して初めて、彼らの魅力にノックアウトされた気がしました。この本にも出てきますが、「パンダ」と名付けられたジュウシマツ、先生が実験用に飼育したうちで最も複雑で精緻な歌を歌う鳥です。その域までいってしまうと、それほど見事な歌をメスの前ではもう歌わなくなるっていうんですね。目的が失われちゃってるわけです(笑)。歌のために歌う。自分ひとりのために歌う。生殖ではなくて歌そのものの美を追求しだす個体が現れる。
「ああ、芸術の起源ってこういうところにあるんじゃないかな」と思いました。芸術に目的がないということはこういうことなんじゃないか。
私が岡ノ谷先生のこの本の中でいちばんハッとしたのは、「そもそも言葉というのは情動を載せない道具として進化した」という記述だったんですね。言葉は心を伝えないということです。言葉は情動を伝えないことによって、他人を操作しやすくなっている。つまり本心を隠すことができる。そうやって自分の利益を最大化する。「言葉は隠蔽のコミュニケーションである」と書かれていました。
ここで大切になってくるのは「人間は目の表情は誤魔化せない」ということです。実験の結果そういうことが分かったらしいんですが、これは面白いと思ったんです。人間は目のまわりの筋肉を意図的には動かせない。また、実際に怒ってはいないけれど怒ったふりはできるし、悲しんでいるふりもできる。しかし、笑っている表情は本当に心が喜んでいる時しか作れないとも言うんです。ですから役者は笑う演技をするときに、笑う顔を作るのではなくて、「感情」を笑っている状態にもっていく必要があるらしいのです。
「目は口ほどに物を言う」というのは真理なんですね。よく愛想はいいけれど、この人の目は本気で笑っていないというのがわかることがあります。これはゴリラの専門家、霊長類学者の山際壽一先生がおっしやっていたんですが、人間ほど白目と黒目がくっきり分かれている動物って珍しいそうですね。コントラストがはっきりしているので、目に表情が出やすい。それを相手に悟られやすいということだそうです。
ですから面と向かって他人とコミュニケーションをとるときに、どうしても目の表情で相手を騙せない。だからこそ、相手を誘導して、自分に有利に事を運ぶ時、嘘をつける言葉を発明したんじゃないか、という仮説はすごく説得力があると思います。隠蔽するとか嘘をつくとか、言葉の発生にはネガティブな要素が絡んでるな、という気がします。
岡ノ谷先生のこの御本で私が最も印象深かったのは、次の一文でした。
「言葉を持った人間は、たとえひとりでも、心の中には聞き手としての自分がいるから、ひとりではありません」
『 小川洋子のつくり方/田畑書店編集部編/田畑書店 』
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