■境界線/中山七里 2021.9.7
『護られなかった者たちへ』 に続いて、中山七里 『境界線』 を読みました。
物語のテーマは、「戸籍の売買」。
他人の戸籍を必要とした、彼女と彼の人生はどのようなものだったのか。
鵠沼は素直に応じる。
ただし素直なのは態度だけだ。語られる内容は倫理とかけ離れていた。
「戸籍の売買は確かに違法行為ですが、それによって実質的な被害をこうむった人間はいません。公的には行方不明者とされていますが、彼らは実質死者と同じです。自分の戸籍をどう使われようが文句の出るはずもありません。一方、世の中には本来の名前では就職も生活もできない人間がいて、別の名前を欲しがっている。行政にしてみれば、実質は死者である人間から税金を徴収できる。需要と供給、誰もが得するビジネスです。従って違法であっても罪悪だとは思っていません」
「死者を冒トクする行為だとは思わないのか」
すると、鵠沼は一瞬遠い目をした。
名簿屋の五代義則。
他人の戸籍を売る鵠沼駿。
詐欺師だが、他人の面倒見がよく、どこか憎めない親分肌の五代義則と高校のクラスでは“委員長”と呼ばれた、真面目だが少し変わった性格の鵠沼駿。
そんな二人の高校時代のつき合いが面白く語られる。
長じて、五代義則は詐欺師の名簿屋となる。
これは、「護られなかった者たちへ」に詳しい。
一方、真面目一徹だった鵠沼駿は、「戸籍の売買」に手を染めていた。 何故か。
バカはお前ら全員だ。
五代自身は大昔の人間が遺した言葉を鵜呑みにするほどの純朴さも、世界が一瞬のうちに滅びると信じるような浅薄さも持ち合わせていない。クラスメートに対する侮蔑と憐憫があるだけだ。
予言や世界の滅亡を嬉々として語っているのは、大抵クラスでも成績が下位のヤツばかりだ。言い方を変えれば、賢さもなく秀でた能力も持たない人間が現状を破壊してほしくて騒いでいるだけだ。
五代は一五、一六歳にして底辺がどんな状態を示しているかを知っていた。
本当の底辺というのは手を伸ばすことさえ諦めた状態だ。周囲に向上心を持つ者はおらず、一〇年後二〇年後の自分が容易に想像できる。小難しい日本語や方程式は外国語と同じだ。滅多に使うことがないから覚える必要もない。簡単な計算は携帯端末がしてくれ。日常的な日本語さえできれば生活に支障はない。
鵠沼とは二年生から同じクラスになったが、未だに一度も言葉を交わしたことがない。
一目で自分とは人種が違うと分かったからだ。なぜこんなヤツがこの学校にいるのかと不思議なくらいだった。同じ世界の人間でなければ、話しても仕方がない。
「あのな、委員長。ウチらみたいな底辺の高校で成績トップになったって、何の自慢にもならないし、何の役にも立たないぜ。委員長ならそれくらい知っている思ってたけどな」
「別にトップをとるために勉強しているんじゃない」
「じゃ何のためだよ」
「最低限のことを知らなかったら、最低限のままだからだ」
自分の言葉が五人の劣等感を刺激するのも構わず、鵠沼は平然と言ってのける。
「勉強してどこまでいけるか分からないけど、少なくとも努力を馬鹿にするような人間になりたくない」
「委員長、ひょっとして俺たちを馬鹿にしていのか」
「君たちを馬鹿になんかしていない。底辺であるのを自分で決めつけて、受け容れている人間と一緒にされたくないだけだ」
「選ばせてやる。カネを出すのが先か。それとも殴られるのが先か」
「どっちも損だ」
度胸があるのか、それともとことん鈍感なのか、鵠沼は微塵も怯えの表情を見せない。
「五〇〇〇円か。たいそうな演説聞すされた割には大した金額じゃなかったな」
鵠沼はぐったりして動かない。五代が見下ろしていると、何やら鵠沼の唇が動いている。
何か言っているらしい。腰を落として顔を近づけてみると、弱々しい声が聞き取れた。
「カネ……返してくれ……」
これだけ痛い目に遭ってもまだカネに執着しているヤツは初めてだった。
なかなか根性あるじゃないか。
褒めてやる代わりに顔を踏みつけてやった。
「待てよ。まだ話は終わっちゃいない」
「だったら次の休み時間にしてくれ。それでも時間が足りないなら放課後、それでも足りないなら明日に回してもいい。時間はいくらでもある。生きている、無事でいるってのは、そういうことだろ」
五代は返す言葉はなかった。
翌日も五代は下校中の鵠沼に付き纏った。付き纏われている本人が一向に拒絶しようとしないので、五代は好き勝手に話し掛ける。
「そろそろ君の愚痴も聞き飽きた」
「お前の都合なんか知るか。俺は勝手に喋ってるんだ。嫌なら耳を塞いでいろ」
「耳を塞いで道路を渡るのは危険だ。そんなことをして事故に遭ったら、とんだ笑い種になる」
「じゃあ黙って聞き流せ。優秀なんだから、そのくらいの芸当はできるだろ」
「聞き流すには、君は声が大き過ぎる」
青春の思い出は、人生の宝物だ。
大体において刑務所にくるような人間は面倒臭がりが多い。精神的にも経済的にも逼迫した時、地道で面倒な道より手っ取り早く安易な道を選ぶ人間は犯罪に走りやすい。いや、走りやすいというよりは陥りやすいと言った方が適切だろう。人間は誰しも悪党として生まれてくる訳ではない。その折々の選択の結果が現在に帰結しているだけだ。上り坂より下り坂の方が楽なのは当然で、いったん下り始めれば勢いがついて後は奈落まで真っ逆さまとなる。
『護られなかった者たちへ』の利根勝久の刑務所での過ごし方も顔をのぞかせる。
「出所後の話なんて気が早過ぎませんか」
「どんな話だって遅いよりはよっぽどいい」
「俺に詐欺師なんて無理ですよ」
「最初から詐欺師に生まれついているヤツなんていねえよ。人は詐欺師に成長するんだ」
「俺、出所したらやらなきゃならないことがあるんですよ」
刑事の苫篠誠一郎が、妻と交わした最後の言葉は次のようなものだった。
何時までも続くと思っていた日常、それが突然断ち切られた.........。
「何をそんなに急いでるのよ」
「人でも時間も足りない。何度言ったら分かるんだ」
「せめて健一の顔を覗いてやってから」
「行ってくる」
玄関を出る時、後ろも見なかった。
それが奈津美と交わした最後の言葉だった。
ぎすぎすとした言葉の応酬が最後になるなどと、どうして予想がついただろう。
苫篠誠一郎は、ぼくにはあまり好きになれない主人公の一人です。
「仮設住宅に住まわせてもらっいる身の上でフーゾク通いはけしからんとお思いでしょうね」
「自分で稼いだカネをどう使おうと本人の自由です。被災者は性的なサービスを受けるなというのも歪んだ道徳でしょう。強制された道徳はただの暴力です」
『 境界線/中山七里/NHK出版 』
『護られなかった者たちへ』 に続いて、中山七里 『境界線』 を読みました。
物語のテーマは、「戸籍の売買」。
他人の戸籍を必要とした、彼女と彼の人生はどのようなものだったのか。
鵠沼は素直に応じる。
ただし素直なのは態度だけだ。語られる内容は倫理とかけ離れていた。
「戸籍の売買は確かに違法行為ですが、それによって実質的な被害をこうむった人間はいません。公的には行方不明者とされていますが、彼らは実質死者と同じです。自分の戸籍をどう使われようが文句の出るはずもありません。一方、世の中には本来の名前では就職も生活もできない人間がいて、別の名前を欲しがっている。行政にしてみれば、実質は死者である人間から税金を徴収できる。需要と供給、誰もが得するビジネスです。従って違法であっても罪悪だとは思っていません」
「死者を冒トクする行為だとは思わないのか」
すると、鵠沼は一瞬遠い目をした。
名簿屋の五代義則。
他人の戸籍を売る鵠沼駿。
詐欺師だが、他人の面倒見がよく、どこか憎めない親分肌の五代義則と高校のクラスでは“委員長”と呼ばれた、真面目だが少し変わった性格の鵠沼駿。
そんな二人の高校時代のつき合いが面白く語られる。
長じて、五代義則は詐欺師の名簿屋となる。
これは、「護られなかった者たちへ」に詳しい。
一方、真面目一徹だった鵠沼駿は、「戸籍の売買」に手を染めていた。 何故か。
バカはお前ら全員だ。
五代自身は大昔の人間が遺した言葉を鵜呑みにするほどの純朴さも、世界が一瞬のうちに滅びると信じるような浅薄さも持ち合わせていない。クラスメートに対する侮蔑と憐憫があるだけだ。
予言や世界の滅亡を嬉々として語っているのは、大抵クラスでも成績が下位のヤツばかりだ。言い方を変えれば、賢さもなく秀でた能力も持たない人間が現状を破壊してほしくて騒いでいるだけだ。
五代は一五、一六歳にして底辺がどんな状態を示しているかを知っていた。
本当の底辺というのは手を伸ばすことさえ諦めた状態だ。周囲に向上心を持つ者はおらず、一〇年後二〇年後の自分が容易に想像できる。小難しい日本語や方程式は外国語と同じだ。滅多に使うことがないから覚える必要もない。簡単な計算は携帯端末がしてくれ。日常的な日本語さえできれば生活に支障はない。
鵠沼とは二年生から同じクラスになったが、未だに一度も言葉を交わしたことがない。
一目で自分とは人種が違うと分かったからだ。なぜこんなヤツがこの学校にいるのかと不思議なくらいだった。同じ世界の人間でなければ、話しても仕方がない。
「あのな、委員長。ウチらみたいな底辺の高校で成績トップになったって、何の自慢にもならないし、何の役にも立たないぜ。委員長ならそれくらい知っている思ってたけどな」
「別にトップをとるために勉強しているんじゃない」
「じゃ何のためだよ」
「最低限のことを知らなかったら、最低限のままだからだ」
自分の言葉が五人の劣等感を刺激するのも構わず、鵠沼は平然と言ってのける。
「勉強してどこまでいけるか分からないけど、少なくとも努力を馬鹿にするような人間になりたくない」
「委員長、ひょっとして俺たちを馬鹿にしていのか」
「君たちを馬鹿になんかしていない。底辺であるのを自分で決めつけて、受け容れている人間と一緒にされたくないだけだ」
「選ばせてやる。カネを出すのが先か。それとも殴られるのが先か」
「どっちも損だ」
度胸があるのか、それともとことん鈍感なのか、鵠沼は微塵も怯えの表情を見せない。
「五〇〇〇円か。たいそうな演説聞すされた割には大した金額じゃなかったな」
鵠沼はぐったりして動かない。五代が見下ろしていると、何やら鵠沼の唇が動いている。
何か言っているらしい。腰を落として顔を近づけてみると、弱々しい声が聞き取れた。
「カネ……返してくれ……」
これだけ痛い目に遭ってもまだカネに執着しているヤツは初めてだった。
なかなか根性あるじゃないか。
褒めてやる代わりに顔を踏みつけてやった。
「待てよ。まだ話は終わっちゃいない」
「だったら次の休み時間にしてくれ。それでも時間が足りないなら放課後、それでも足りないなら明日に回してもいい。時間はいくらでもある。生きている、無事でいるってのは、そういうことだろ」
五代は返す言葉はなかった。
翌日も五代は下校中の鵠沼に付き纏った。付き纏われている本人が一向に拒絶しようとしないので、五代は好き勝手に話し掛ける。
「そろそろ君の愚痴も聞き飽きた」
「お前の都合なんか知るか。俺は勝手に喋ってるんだ。嫌なら耳を塞いでいろ」
「耳を塞いで道路を渡るのは危険だ。そんなことをして事故に遭ったら、とんだ笑い種になる」
「じゃあ黙って聞き流せ。優秀なんだから、そのくらいの芸当はできるだろ」
「聞き流すには、君は声が大き過ぎる」
青春の思い出は、人生の宝物だ。
大体において刑務所にくるような人間は面倒臭がりが多い。精神的にも経済的にも逼迫した時、地道で面倒な道より手っ取り早く安易な道を選ぶ人間は犯罪に走りやすい。いや、走りやすいというよりは陥りやすいと言った方が適切だろう。人間は誰しも悪党として生まれてくる訳ではない。その折々の選択の結果が現在に帰結しているだけだ。上り坂より下り坂の方が楽なのは当然で、いったん下り始めれば勢いがついて後は奈落まで真っ逆さまとなる。
『護られなかった者たちへ』の利根勝久の刑務所での過ごし方も顔をのぞかせる。
「出所後の話なんて気が早過ぎませんか」
「どんな話だって遅いよりはよっぽどいい」
「俺に詐欺師なんて無理ですよ」
「最初から詐欺師に生まれついているヤツなんていねえよ。人は詐欺師に成長するんだ」
「俺、出所したらやらなきゃならないことがあるんですよ」
刑事の苫篠誠一郎が、妻と交わした最後の言葉は次のようなものだった。
何時までも続くと思っていた日常、それが突然断ち切られた.........。
「何をそんなに急いでるのよ」
「人でも時間も足りない。何度言ったら分かるんだ」
「せめて健一の顔を覗いてやってから」
「行ってくる」
玄関を出る時、後ろも見なかった。
それが奈津美と交わした最後の言葉だった。
ぎすぎすとした言葉の応酬が最後になるなどと、どうして予想がついただろう。
苫篠誠一郎は、ぼくにはあまり好きになれない主人公の一人です。
「仮設住宅に住まわせてもらっいる身の上でフーゾク通いはけしからんとお思いでしょうね」
「自分で稼いだカネをどう使おうと本人の自由です。被災者は性的なサービスを受けるなというのも歪んだ道徳でしょう。強制された道徳はただの暴力です」
『 境界線/中山七里/NHK出版 』
よろしくお願いいたします。
(o^―^o)ニコ