■パリのアパルトマン/ギヨーム・ミュッソ 2021.9.28
2021年版 このミステリーがすごい! 海外編 第5位
クリスマス間近のパリ。
急死した天才画家ショーンの未発見の遺作三点をマデリンとクタンスは、いがみ合いながらも、一緒に探し始める。 こうして、物語は始まります。
後半、物語は遺作探しから意外な方向に展開します。
天才画家の人生は、ブラックホールのごとく、まわりの人間を否応なく巻き込みます。
「花火師」たちの人生は、まさに「青春の光と影」のような詩的な雰囲気ですが、その結末はあまりにも無残です。
「真の芸術家に友人はいない」
芸術家に巻き込まれた人生。その多くは、悲劇的な結末を迎えざるを得なかったのですが、人生を生き直す転機をももたらしました。
それが、この作品の読後感のさわやかさでしょうか。
たくさんの画家、小説家が数々のページで顔をのぞかせ、その文化的雰囲気を多いに楽しむことが出来ました。
多種多彩、アポリネール、ヘミングウェイ、ピカソ、ホッパー、マリリン・モンロー、シェイクスピアなど。
“星たちを輝かせるときがやっと来たぞ”
川出正樹氏の巻末解説によれば
重めのテーマを核としながら愛とユーモアのエスプリに富み、ハラハラドキドキさせてくれる読後感の良いエンターテインメントに仕上げている。
ジャンヌ=エピュテルヌ小路は、モジリアーニ内縁の妻に由来する。
本国フランスでは、『その女アレックス』の作者ピエールをも凌ぐ人気を博す。
ガスパール・クタンス
何を買うのか決まっていたから店主との会話は最小限にして、十分後に店を出たとはき高級ワインの詰まった木箱を抱えていた。ジュヴレ=シャンベルタン、シャンポール=ミュジニー、サン=テステフ、サン=ジュリアン・・・・・・。
テラスのテーブルをまえにしたガスパール・クタンスは、口に含んだワインを味わう。ジュヴレ=シャンベルタンはバランスのとれた濃密さ、柔らかな口当たり、サクランボとクロスグリの香りとで、じつに美味だった。
「クタンス、あなたには子供がいるの?」
答えは唐突だった。
「ありがたいことに、いないね! 持つことも絶対にない」
「どうして?」
「われわれが生きざるをえないこの世界の喧騒を、それがだれであっても押しつけることをぼくは拒否するからさ」
マデリンは煙を吐いた。
「ちょっと考えすぎじゃないかな?」
「そうは思わない」
「よくないこともあるにはある。それは理解できるけれど、でも……」
「よくないこともあるにはあるだっで? ちゃんと目を開いたらどうかな! この地球は漂流中で、恐ろしい未来が待っている。今よりも凶暴で、息苫しくて、不安感はもっと募っているだろう。そんな目に遭わせるというのは、とんでもなく利己的な人間でないとできない話だろうが」
マデリンは反論しようとしたが、ガスパールはもう止まらなかった。興奮した目つきで十五分間も、酒臭い息を吐きながら、テクノロジーやら過剰消費、下劣な考え方に隷属する悲惨極まりない社会になるだろうと、人類の未来について救いのない悲観的な展望をまくし立てるのだった。自然の徹底的な破壊に乗りだしてすべてを食いつくす社会は、虚無への片道切符を手に入れている、と。
マデリンは、彼が未来の社会に対する痛烈な批判をすべて吐きだすまで待ってから確かめる。
「結局あなたが嫌悪しているのは、ばかな人たちだけでなく、人類全体ってことじゃない?」
ガスパールは否定しようとしない。
「シェークスピアの言葉に『どんなに獰猛な野獣でも憐れみを知っている』というのがある。ところが、人間は憐れみを知らない。人間は最も悪質な捕食者なんだ。人間は相手を支配し辱めることでしか快感を得ることができない。文明という衣をまとった害虫なのさ。誇大妄想で自己破滅型の種、自己嫌悪が著しいから、同類を憎悪するんだ」
「ところでクタンス、当然あなた自身は違うのだということなんでしょうね?」
「いや、その逆だね。もしよければ、ぼくをその連中の仲間に入れてもらっても一向に差し支えない」彼はウイスキーの最後の一口を飲みほしながら言い放った。
マデリンは、灰皿代わりのソーサーでタバコをもみ消した。
マデリン・グリーン
超音波検査を受けているあいだ、クタンスと激しくやり合った昨晩の会話について考える。
現状認識は正しいが、諦めてニヒリストになってしまった点であの劇作家は間違っている。
なぜなら、社会的な暴力に抵抗し、闘い、予想される破局に屈しない人間も必ず存在するのだから。そして、彼女の子供もそういった人間のひとりになるだろうから。
それはまあ、先を急ぎすぎた言葉であって、彼女はまだ妊娠すらしていない。
あれは四か月前のことだった。バカンスでスペインにいたあいだに意を決し、マドリードの生殖補助医療を専門とするクリニックのドアを叩いた。まもなく四十歳になるし、まじめな交際相手が現れるという展望もなかった。身体には負担がかかるけれど、自分が肉体的に老いつつあることは否定できない。そして、恋愛をする気力がもう失せていた。
いつか子供を持ちたいのなら、持ち札は一枚しか残っていなかった。
遺作を求めて
彼は宣伝用の小さなマッチ箱をマデリンに見せた。
「<グラン・カフェ>、どういうことでしょう?」
「モンパルナスにあるブラッスリーで、ショーンがよく行っていた店だ」
マデリンがマッチ箱をひっくり返すと、裏側にボールペン書きの文字かあった。“星たちを輝かせるときがやっと来たぞ” というアポリネールの有名な詩句だった。
「これは間違いなくショーンが書いたものだ」美術商は断言した。
「それで、彼が何を仄めかしているかは分かっているんですね?」
「まるで分からない。伝言だと思い、いろいろ考えてみたんだが、何も分からなかった」
「このマッチ箱を、彼はあなたに渡そうとしたんですか?」
「ともかく、家の金庫のなかに残されていた者はこれしかなかった」
ガスパールのほうは、クェンティン・ブレイクの挿絵によるロアルド・ダールの本をよく覚えていた。子供のころジャミラが読んでくれたからだ。マデリンも『どでかいワニの話』をかなり詳しく覚えていて、懐かしさに浸りながら二人は登場人物というか、動物たちの名前を思いだしていった。サルはボスノロ、トリはプディング鳥、カバはデッチリ=ムッチリ、これらの名はすぐ頭に浮かんできた。
「ゾウは何だったかな・・・・・・」
「簡単だ。ハナナガーだろう」ガスパールが思いだした。「では、シマウマは?」
「シマウマ? ちょっと思い出せない」
「シマウマだったか?」
「だめね、記憶にない。本のなかでどんな役だったかも。わたしには思いだせない。」
そんな会話の数分後、マデリンはスマートフォンを取りだし、二人が思いだせないシマウマのことをインターネットで調べはじめる。彼女がキーワードを入力していると、突然ガスパールが立ちあがって自信ありげに言った。
「調べるまでもないよ。『どでかいワニの話』にシマウマは出てこないんだ」
「シマウマね、これってQRコードだったんだ!」
わたしたちは皆どぶに浸かっているが、なかには星を見ている者もいる。
「ついでだが、あることを思いだしたんだ」ベネディックは言った。「まったく関係ないかもしれないが、ショーンの息子のジュリアンはモンパルナスにある<星学園>の付属幼稚園に通っていたんだ」
意外な展開
「ペネロープは今もパリに住んでいるんでしょうか?」
ベネディックは肯いたものの、明言は避けた。
「住所を教えてもらえますか?」
美術商はボールペンを出し、手帳の空きページを破った。
「彼女の連絡先を書いてはおきますが、得るものは何もないと思いますね。ペネロープと出会ったことはショーンの最大のチャンスであり最大の不幸だった。彼の天才を開花させた火花ではあったが、しぱらくの後、彼の人生を焼き尽くしてしまった、ということかな」ベネディックは折りたたんだ紙をマデリンに渡し、虚ろな目つきで声を出して自分に問いかける。
「結局のところ、理解しあえると思った相手が最も忌まわしい人物になるのを見るほど悲しいことはない。そうは思いませんか?」
わたしの名はビアンカ・ソトマヨール。年齢は七十歳、五年前から地獄の間借り人です。
わたしが話すことを信じてください。真の地獄の姿がこれです。ここであなたが耐え忍ぶのは苦痛ではありません。苦痛はふつうのこと、生きていれば当然のことでしょう。人間は生まれてから、いつでもどこでも、あらゆること、些細なことで苦しむものです。ほんとうの地獄の特徴というのは、強烈な苦しみとはべつに、何よりもそれを終わらせられないことです。自分で死ぬ可能性すら残されていないのですから。
人生は二度のチャンスを与えてはくれない。チャンスを一度失ったらそれまでだぞ。甘くはないということさ。人生は、時という軍隊を使って恐怖政治を敷く専制君主と変わらない。そして、時は最後に必ず勝つ。史上最大の殺戮者は時だ。どんな刑事もこいつを捕まえることはできないんだ。
“これにてわが旅は終わる”
『 パリのアパルトマン/ギヨーム・ミュッソ/吉田恒雄訳/集英社文庫 』
2021年版 このミステリーがすごい! 海外編 第5位
クリスマス間近のパリ。
急死した天才画家ショーンの未発見の遺作三点をマデリンとクタンスは、いがみ合いながらも、一緒に探し始める。 こうして、物語は始まります。
後半、物語は遺作探しから意外な方向に展開します。
天才画家の人生は、ブラックホールのごとく、まわりの人間を否応なく巻き込みます。
「花火師」たちの人生は、まさに「青春の光と影」のような詩的な雰囲気ですが、その結末はあまりにも無残です。
「真の芸術家に友人はいない」
芸術家に巻き込まれた人生。その多くは、悲劇的な結末を迎えざるを得なかったのですが、人生を生き直す転機をももたらしました。
それが、この作品の読後感のさわやかさでしょうか。
たくさんの画家、小説家が数々のページで顔をのぞかせ、その文化的雰囲気を多いに楽しむことが出来ました。
多種多彩、アポリネール、ヘミングウェイ、ピカソ、ホッパー、マリリン・モンロー、シェイクスピアなど。
“星たちを輝かせるときがやっと来たぞ”
川出正樹氏の巻末解説によれば
重めのテーマを核としながら愛とユーモアのエスプリに富み、ハラハラドキドキさせてくれる読後感の良いエンターテインメントに仕上げている。
ジャンヌ=エピュテルヌ小路は、モジリアーニ内縁の妻に由来する。
本国フランスでは、『その女アレックス』の作者ピエールをも凌ぐ人気を博す。
ガスパール・クタンス
何を買うのか決まっていたから店主との会話は最小限にして、十分後に店を出たとはき高級ワインの詰まった木箱を抱えていた。ジュヴレ=シャンベルタン、シャンポール=ミュジニー、サン=テステフ、サン=ジュリアン・・・・・・。
テラスのテーブルをまえにしたガスパール・クタンスは、口に含んだワインを味わう。ジュヴレ=シャンベルタンはバランスのとれた濃密さ、柔らかな口当たり、サクランボとクロスグリの香りとで、じつに美味だった。
「クタンス、あなたには子供がいるの?」
答えは唐突だった。
「ありがたいことに、いないね! 持つことも絶対にない」
「どうして?」
「われわれが生きざるをえないこの世界の喧騒を、それがだれであっても押しつけることをぼくは拒否するからさ」
マデリンは煙を吐いた。
「ちょっと考えすぎじゃないかな?」
「そうは思わない」
「よくないこともあるにはある。それは理解できるけれど、でも……」
「よくないこともあるにはあるだっで? ちゃんと目を開いたらどうかな! この地球は漂流中で、恐ろしい未来が待っている。今よりも凶暴で、息苫しくて、不安感はもっと募っているだろう。そんな目に遭わせるというのは、とんでもなく利己的な人間でないとできない話だろうが」
マデリンは反論しようとしたが、ガスパールはもう止まらなかった。興奮した目つきで十五分間も、酒臭い息を吐きながら、テクノロジーやら過剰消費、下劣な考え方に隷属する悲惨極まりない社会になるだろうと、人類の未来について救いのない悲観的な展望をまくし立てるのだった。自然の徹底的な破壊に乗りだしてすべてを食いつくす社会は、虚無への片道切符を手に入れている、と。
マデリンは、彼が未来の社会に対する痛烈な批判をすべて吐きだすまで待ってから確かめる。
「結局あなたが嫌悪しているのは、ばかな人たちだけでなく、人類全体ってことじゃない?」
ガスパールは否定しようとしない。
「シェークスピアの言葉に『どんなに獰猛な野獣でも憐れみを知っている』というのがある。ところが、人間は憐れみを知らない。人間は最も悪質な捕食者なんだ。人間は相手を支配し辱めることでしか快感を得ることができない。文明という衣をまとった害虫なのさ。誇大妄想で自己破滅型の種、自己嫌悪が著しいから、同類を憎悪するんだ」
「ところでクタンス、当然あなた自身は違うのだということなんでしょうね?」
「いや、その逆だね。もしよければ、ぼくをその連中の仲間に入れてもらっても一向に差し支えない」彼はウイスキーの最後の一口を飲みほしながら言い放った。
マデリンは、灰皿代わりのソーサーでタバコをもみ消した。
マデリン・グリーン
超音波検査を受けているあいだ、クタンスと激しくやり合った昨晩の会話について考える。
現状認識は正しいが、諦めてニヒリストになってしまった点であの劇作家は間違っている。
なぜなら、社会的な暴力に抵抗し、闘い、予想される破局に屈しない人間も必ず存在するのだから。そして、彼女の子供もそういった人間のひとりになるだろうから。
それはまあ、先を急ぎすぎた言葉であって、彼女はまだ妊娠すらしていない。
あれは四か月前のことだった。バカンスでスペインにいたあいだに意を決し、マドリードの生殖補助医療を専門とするクリニックのドアを叩いた。まもなく四十歳になるし、まじめな交際相手が現れるという展望もなかった。身体には負担がかかるけれど、自分が肉体的に老いつつあることは否定できない。そして、恋愛をする気力がもう失せていた。
いつか子供を持ちたいのなら、持ち札は一枚しか残っていなかった。
遺作を求めて
彼は宣伝用の小さなマッチ箱をマデリンに見せた。
「<グラン・カフェ>、どういうことでしょう?」
「モンパルナスにあるブラッスリーで、ショーンがよく行っていた店だ」
マデリンがマッチ箱をひっくり返すと、裏側にボールペン書きの文字かあった。“星たちを輝かせるときがやっと来たぞ” というアポリネールの有名な詩句だった。
「これは間違いなくショーンが書いたものだ」美術商は断言した。
「それで、彼が何を仄めかしているかは分かっているんですね?」
「まるで分からない。伝言だと思い、いろいろ考えてみたんだが、何も分からなかった」
「このマッチ箱を、彼はあなたに渡そうとしたんですか?」
「ともかく、家の金庫のなかに残されていた者はこれしかなかった」
ガスパールのほうは、クェンティン・ブレイクの挿絵によるロアルド・ダールの本をよく覚えていた。子供のころジャミラが読んでくれたからだ。マデリンも『どでかいワニの話』をかなり詳しく覚えていて、懐かしさに浸りながら二人は登場人物というか、動物たちの名前を思いだしていった。サルはボスノロ、トリはプディング鳥、カバはデッチリ=ムッチリ、これらの名はすぐ頭に浮かんできた。
「ゾウは何だったかな・・・・・・」
「簡単だ。ハナナガーだろう」ガスパールが思いだした。「では、シマウマは?」
「シマウマ? ちょっと思い出せない」
「シマウマだったか?」
「だめね、記憶にない。本のなかでどんな役だったかも。わたしには思いだせない。」
そんな会話の数分後、マデリンはスマートフォンを取りだし、二人が思いだせないシマウマのことをインターネットで調べはじめる。彼女がキーワードを入力していると、突然ガスパールが立ちあがって自信ありげに言った。
「調べるまでもないよ。『どでかいワニの話』にシマウマは出てこないんだ」
「シマウマね、これってQRコードだったんだ!」
わたしたちは皆どぶに浸かっているが、なかには星を見ている者もいる。
「ついでだが、あることを思いだしたんだ」ベネディックは言った。「まったく関係ないかもしれないが、ショーンの息子のジュリアンはモンパルナスにある<星学園>の付属幼稚園に通っていたんだ」
意外な展開
「ペネロープは今もパリに住んでいるんでしょうか?」
ベネディックは肯いたものの、明言は避けた。
「住所を教えてもらえますか?」
美術商はボールペンを出し、手帳の空きページを破った。
「彼女の連絡先を書いてはおきますが、得るものは何もないと思いますね。ペネロープと出会ったことはショーンの最大のチャンスであり最大の不幸だった。彼の天才を開花させた火花ではあったが、しぱらくの後、彼の人生を焼き尽くしてしまった、ということかな」ベネディックは折りたたんだ紙をマデリンに渡し、虚ろな目つきで声を出して自分に問いかける。
「結局のところ、理解しあえると思った相手が最も忌まわしい人物になるのを見るほど悲しいことはない。そうは思いませんか?」
わたしの名はビアンカ・ソトマヨール。年齢は七十歳、五年前から地獄の間借り人です。
わたしが話すことを信じてください。真の地獄の姿がこれです。ここであなたが耐え忍ぶのは苦痛ではありません。苦痛はふつうのこと、生きていれば当然のことでしょう。人間は生まれてから、いつでもどこでも、あらゆること、些細なことで苦しむものです。ほんとうの地獄の特徴というのは、強烈な苦しみとはべつに、何よりもそれを終わらせられないことです。自分で死ぬ可能性すら残されていないのですから。
人生は二度のチャンスを与えてはくれない。チャンスを一度失ったらそれまでだぞ。甘くはないということさ。人生は、時という軍隊を使って恐怖政治を敷く専制君主と変わらない。そして、時は最後に必ず勝つ。史上最大の殺戮者は時だ。どんな刑事もこいつを捕まえることはできないんだ。
“これにてわが旅は終わる”
『 パリのアパルトマン/ギヨーム・ミュッソ/吉田恒雄訳/集英社文庫 』