■彼らは世界にはなればなれに立っている/太田愛 2021.1.11
太田愛の 『彼らは世界にはなればなれに立っている』 を読みました。
ぼくにとって、2020年、最大の感動の一冊でした。
出会えたことが喜びです。
ファンタジー小説ですが、内容は考えさせるものを多く含んでいます。
現代と近未来の日本の将来の姿を暗示するかのようです。また、抵抗するとはどういうことかを示しています。
難しくて、すぐには解決困難な課題の提示です。
ぼくが好きなのは、語り。
「第3章 葉巻屋が語る物語」では、だんだんと<塔の地・始まりの町>の謎が明らかになり、「第4章 魔術師が語る物語」は、圧巻です。
幼いころの幸せの思い出が何にひとつなく、映画館の受付と三階建てのてっぺんの部屋とを行き帰りするひとり暮しのマリ。苛酷な現実を受け入れながら暮らすマリ。
「文句があるかい」といわんばかりに煙を吐きながら睨み返すマリ。
「馬鹿だね。泣いて元に戻るものなんて、この世にありゃしないんだよ」と励ますマリ。
そんなマリを温かく包み込み、いつまでも見守った魔術師。
精神の崩壊一歩手前で踏みとどまるマリに、ぼくの胸はひどく痛む。
可哀想に、あの子はなにもかも知ってしまった。
どうしてなのかわからない。
あの子は泣いていた。何も知らずに父親の権威と富に守られてきた自分が耐えがたかったんだろう。あの子が悪いわけじゃないのに。正気に戻してやらないと、真っ暗な怒りと嫌悪の矛先を自分自身に向けてしまいそうだった。
太田愛公式ホームページ
序章
始まりの町はすっかりかわってしまったと聞いていたので、悲しくはあったが驚きはしなかった。
----今さら君が帰ったところで、起こってしまったことは変えられない。
きっとカイならそう言うだろう。
あるいは、マリならこう言うだろう。
----泣いて元に戻るものなんて、この世にありゃしないんだよ。
私は目印のついた一枚の敷石を見つけ出し、それを裏返す。三十センチほどの深さの穴にビスケットの丸い缶がしまわれている。
私は蓋を開いて中のものを取り出した。
なにより重要な意味を持つのは、油紙に包んだ一枚の写真だ。
写真の中の私は十三歳。
父はビールのジョッキを手に母に何かを話しかけている。
淡い緑色のドレスを着た母はいつもの癖で少し首を傾けるようにして父の方を見ている。
仮設舞台の正面、一番良いテーブルについているのは<伯爵>だ。
伯爵は、数年に一度、長い船旅に出る習慣があった。
海の向こうの地を巡り、そのつど膨大な土産ものを持ち帰り博物館に並べるのを喜びとした。
それらの土産物のなかで、もっとも華麗で洗練されたもののひとつと讃えられたのが、伯爵の向かい側に座っている<コンテッサ>だった。
伯爵は、旅の途上で出合った美貌の娘を町に連れ帰り正式な養女とした。
コンテッサが実質的なコンテッサ、つまり伯爵夫人であることは明白だった。
伯爵のそば、舞台の上手脇に控えているのは、長いローブをまとった<魔術師>だ。
町の人間は魔術は驚くものではなく、笑うものだと信じていた。
魔術師の反対側、舞台の下手近くにいるのが、<なまけ者のマリ>だ。
マリはどこにいても目をひいた。この町でただひとり褐色の肌をもっていたからだ。
マリの登場はひとつの事件として町の人々に記憶されていた。
マリの左側にひとりの老婆が写っている。
老婆は黄色いパラソルを手にしており、そのパラソルに対する愛着がいささか度を越していたため、町では<パラソルの婆さん>と呼ばれていた。
老婆はなぜか図体のでかい男を深く憎悪しており、見つけるやいなや容赦ない罵声を浴びせながらパラソルで打ちかかるのだ。
その格好の標的となっていたのが<怪力>だった。
写真の中で怪力もやはり警備員の制服姿で、パラソルの老婆の攻撃から首をすくめて逃げだそうとしている。
怪力と一緒にいた<葉巻屋>が先に気がついたのだろう、おどけた身振りでパラソルの老婆の方を指さしている。
すり切れた鳥打ち帽子を被った葉巻屋は、町一番の情報通だった。
葉巻屋はよく喋る陽気な男で、鼻歌を歌いながら一本の煙草を五秒で巻く熟練の技の持ち主だった。
古い写真には、私と同じように当時まだ家の中の子供だった二人も写っている。
ひとりは赤毛のハットラ。
もうひとりは優等生のカイ。
彼は分厚い本を抱え、憂いに沈んだ顔をして、人混みの中に立っている。
カイはこの町の暗い秘密を知ってしまったことで苦しんでいた。
伯爵、コンテッサ、魔術師、なまけ者のマリ、パラソルの婆さん、怪力、葉巻屋、赤毛のハットラ、カイ、そして父と母。
私がいま立っている広場に、あの夕暮れ、彼らがいた。
なにをすればあのあとにおこったことを防げたのか、今でもわからない。
写真が撮られてからほんの半年ほどのあいだにいくつかの事件が起こり、このうちの五人が町からいなくなった。
もしかしたら、いなくなった五人は、私がこのようなかたちで町に帰ってくることも予期していたのではないか。
■始まりの町の少年が語る羽虫の物語
僕の母さんは羽虫だった。羽虫は<遠くから来て町に住みつき、害をなす者>という意味を込めて、帰るべき故郷を持たない流民を指す蔑称だ。
羽虫は、夜明け前に町外れの道路を通る水色の長距離バスでやってくる。そのためバス停付近の荒れ地には羽虫の住むみすぼらしい小屋が建ち並んでいる。彼らは公的には居留民として登録されていて、大人は漁の引き子などの日雇い労働や缶詰工場の工員、子供は農場やホテルの下働きとして働いていた。
母さんは父さんのトラックの助手席に乗ってこの町にやってきたのだ。膝の上に胡桃色の小さな皮のトランクひとつを載せて。
マリは僕のシャツに残された運動靴の跡とこわれたヨットの玩具を一瞥してなにが起こったか察したらしく、やれやれといった様子でため息ついた。それからほんの少しだけ表情を和らげて僕を見つめた。
「馬鹿だね。泣いて元に戻るものなんて、この世にありゃしないんだよ」
そう言うとマリは壁際のブリキのゴミ箱の蓋を開け、箒とちり取りを取り出した。それから船体の破片を掃きとり、僕の手からマストを取ってまとめてゴミ箱に捨て、元どおりに蓋をした。
サファイア号が跡形もなく消え去ったことであらためて喪失感が実感され、再燃した悲しみでさらに渾々と涙が湧き出した。
マリは僕にかまわずシガレットケースから葉巻屋の煙草を取り出して一服し始めた。片手を腰に当てて顎を上げ、深々と吸い込んだ煙を斜め上に吐き出す。
心にもない言葉でも、充分に人を傷つけることができる。カイはそれを知っていて、そうすることで自分自身をも傷つけているような気がした。
もし時間を巻き戻してやり直せるなら、僕は箱にしまった晴れ着を取りに行ったりはしないし、決して刺繍のことなど口にしない。
だがもうすべては起こってしまった。
あの夜、たくさんの間違いの種が蒔かれたのだ。
「あれはあたしがふるさとで見た鳥だ」
人々が顔に笑いを貼り付けたまま、舞台の下手近くにいるマリを見つめた。
「何百羽ものあの鳥が、太陽のふちを飛ぶのを見たよ。雲を透かして、鮮やかな羽の色がはっきりと見えた」
あちこちから、嘘つきのマリ、と声があがり、揺り戻すように笑いが起こった。
だがマリは超然と刺繍の鳥を指さした。
「あの鳥は飛ぶよ」
そして上手に向かってひときわ大きな声で言った。
「飛ばしておくれ、魔術師」
「僕にわかっているのは、僕がなにをしても世界は変わらないってことだけ」
「当然だ。おまえは独裁者ではないからな」
「ドクサイシャ?」
「そう。その行為がたちまち世界を変える。欲すれば叶う、最もいびつで欲深い奇跡の体現者だ」
ランプの火影で魔術師の顔が不思議な仮面のように見えた。
「おまえの行為によって世界が変わることはない。なにかをすることで、おまえ自身が変わることはあってもな」
■なまけもののマリが語るふたつの足音の物語
記憶なんてものは永遠に増築を続ける家のようなものだ。見るたびに形を変えるくせに、覚えのある窓枠や屋根の先端が妙な具合にくっいている。元の姿を思い出そうとしているうちに、さっきまであった扉が消えてしまったり。だから自分が覚えていることが正しいとは限らないし、うっかりすると騙されることだってある。
あたしの場合は、物置のような埃っぽい堅苦しい部屋、それが長いあいだ人生の最初の記憶だった。
オルフェオは、昼間の月のように静かな悲しい目をしてあたしを見あげていた。
「大きくなるまでお待ち。ここを出ても君はまた捕まってしまうよ。この世界はとても残酷だから、持たない者からより多くを奪い続ける。貪欲な機械みたいにね。もう、君にはわかっているんだろう?」
果てしなく遠いあたしのふるさとは、あの鳥が群れをなして太陽の縁を渡っていくのが見えるところ。
誰かがあたしの肩に手を置いた。身を起こすと、目の前に葉巻屋の顔があった。
「帰って休みなよ、マリ」
「顔色が悪いぜ、風邪でもひいたんじゃないのかい?」
「ひとの心配をするほど暇を持て余しているとは知らなかったよ」
■鳥打ち帽子の葉巻屋が語る覗き穴と反乱の物語
ザメンホフたちは専用の馬車で現れ、俺はマリと一緒にそいつに乗って葬儀屋の処置室に行った。そしてマリの体が元通り繋ぎ合わされて棺に納められるまで、父子がマリの目を縫い合わさないように見張った。その間に俺が飲んだ二瓶の安酒はすべて涙になって流れ落ちた。
俺はひとり、花に埋もれたマリの顔を眺めながら、雪の降りつもった屋根の下で薄い瞼を閉じて眠り続けるハットラを思った。すると横たわったマリの目がなぜだかハットラを見つめているような気がした。初めて与えられたハットラの深く純粋な眠りが、何にも妨げられることなく必要なだけ与えられるように、マリが見張っているように思えた。
修繕屋とは長いつきあいになる。むこうは荷車を引いて町を回っていたし、こっちは吸い殻集めをしているから、よく街角で出くわして一緒に座って一服したりした。修繕屋は腕はいいが愛想のない職人で、町の女がぼろぼろになった包丁なんかを持ってくると、死んでから連れてきても生き返らせることはできないと断った。
「ところで、どちらに向かっていらっしゃるんですか?」
「しかるべき時に、しかるべき場所へ」
----いざという時、塔の地の人間はすみやかに一丸となる。
野蛮で残虐な行為が、塔の地への忠誠を示す勇敢な行動にすり替わる。
ここに来た時、俺の人生の中でコンテッサと怪力はまだ生きていた。人の死は、その知らせがもたらされた時に事実になる。だから、俺にとってあの二人は二ヶ月前の夜更けではなく、今夜、死んだのだ。
最期の時には人は色々なことを思い出すというけれど、コンテッサのその一コマに俺はいただろうか。
あれから腰が曲がるまで荷車を引いて、修繕屋はマーケット通りの一番すみっこに店を持とうと決めた。町の人間も羽虫も、その店に刃のさびた鋏や柄のとれた鍋なんかを持ってくる。そして修理が終わるのを待つあいだ、天気のことやなにか他愛のない話をする。そんな夢のような光景を修繕屋は思い描いていたのかもしれない。
もしかしたら、修繕屋はこの世界をたった一人で修繕しようとしていたんじゃないか。そんな気がして、俺はなんだか無性につらかった。
俺はもうどこの町にも根を下ろさない。
ずっとずっと流れていく。遠くへ。
■窟の魔術師が語る奇跡と私たちの物語
私は魔術師。四つの大陸を巡った果てに、この町に流れ着いた者。
トゥーレはしばしば燭台を木箱の傍らに置いて朝まで本を読み耽るようになった。火影に浮かぶその横顔が次第に青年のものへと成長していくのを眺めながら、私は彼にとって書物は水や食物と同じように生きていくのに必要不可欠なのだと感じたものだった。
ようやく監獄という暴力の檻から生還した彼に、私はできることなら思う存分、書物と過ごす時間を与えてやりたかった。
だが、トゥーレはエンボスでゆかしく記された表題を名残惜しそうに指先でなぞりながら言った。
「明日、出発するんだ」
祭りの夜、この広場に響いたマリの声が蘇る。
----飛ばしておくれ、魔術師。
「私たちは物でなくなった時、なによりも自分でありたいと思ったの。誰とも違う自分自身として生きたいと思ったのよ」
私はその時、焚き火の火影を受けて座っている異形の彼らが、私がそれ以前に出合った誰よりも誇り高い人間に見えた。
「私は、明日も、舞台に立つ。私は、私であることを、やめない」
「あの子は病気なのに……」
「ここにあるのは暴力と病だけなんだよ。弱い人間から死んでいく。大人になるまで生きられる子供は少ない」
「博覧会に来る人たちは何でも持っているのに、どうしてここには食べる物もないんだ」
「何も持たない人たちがいるから、たくさん持っている人がいるのさ」
「少しも分け合わないのか」
「博覧会に来る人たちはこういう人たちを自分たちと同じ人間だとは思っていないの」
「ここで生まれた人は、ほとんどがここから出られるずに死ぬのよ。字が読めないから、自分が見聞すること以外、何も知ることができない。船や鉄道があることも知らない。自分が何であるかわからないまま死んでゆくのよ」
「骸骨がメソメソすると幽霊みたいでいやだよ」と、鬚女は骸骨男の頭を軽く小突いてから私に笑いかけた。「元気でいきな。世話は焼けたけど、あたしはそこそこ楽しかったよ」
早朝、私は旅立った。みんなが砂時計の荷馬車の前に並んで見送ってくれた。
振り返ると、棘男のシャボン玉が風に乗って朝焼けの空を舞っていた。私は彼のシャボン玉がもう読めるようになっていた。私はそれを声に出して読んだ。
「さようなら、さようなら、またいつか」
力の鍵を解き、私は贖罪の旅を始めた。人々への無私の献身が私の贖罪だった。
----ひとりで歩き、多くを見て、記憶するのだ。遥かな遠い未来、おまえは<声の地>へ行く。
私は、それはいつなのかと尋ねたのだ。フォアティマはこう答えた。
----空へ放ったものが、戻ってこなくなった時。
アレンカが願ったのはなんら特別なことではなく、多くの母親が当たり前に望むことだった。
我が子が暴力に晒されることなく安全な場所で育ち、大人になり、自分の人生を歩む。それを願う母親の数は、そう望まぬ者たちよりもはるかに多いはずなのに、その願いが奇跡を祈るに等しいほど不可能な時代と場所がある。あの夏の町は、すでにそうなりつつあったのだ。
互いの賞品を机に置き、私たちは常に真剣に勝負に臨んだ。マリは与えられなかった子供の時間を取り戻すように夢中になってサイコロを振った。私はそれを見るのが嬉しかった。わずかな間でも、マリを現実のつらい時間の外に連れ出してやりたかった。人の親となることのなかった私自身、欠落した半生をそうやって埋めていたのかもしれない。
私は広場に立って早朝の光を受けた町を見回した。
始まりの町は、世界中のどこにでもある町のひとつ、瓦礫の町となっていた。
だが、戦争は結果にしか過ぎない。夥しい死は、無数の人々の選択の結果、あるいは選択を放棄した結果、または選択とは思わずに同調した結果なのだ。この町は理性と良心を忠誠心にすり替え、次世代への責任を力への盲従で埋め合わせ、そうして見たいものだけを見て歳月を浪費してきた。
僕たちは何を教えられてきたのだろう。どうして今、ふるさとを遠く離れたこの場所にいるのだろう。どうして見知らぬ場所で死ぬのだろう。大事な者を抱きしめることもできずに。こんなふうに戦うのなら、抵抗すべきだった。でも、もう遅い。
闇雲に前進を強いられた私たちは食料の補給もなく退路を断たれ、多くの兵が飢えと寒さで死んでいくのを目の当たりしていました。
子供たちは常に、大人たちによってあらかじめ形作られた世界に生まれてくる。大人が見たいものだけを見て浪費した歳月の負債は、常に彼ら次の世代が支払うことになるのだ。あの夜、祭りを楽しんでいた大勢の町の人々は、自分たちが子供たちを死に追いやる側に加担しているとは思ってもいなかっただろう。
この物語の時代にそぐわない 「馬車」 の登場。これは何かの象徴か。
太田愛は、「相棒」「TRICK2」の脚本を手がける。
『 彼らは世界にはなればなれに立っている/太田愛/角川書店 』
太田愛の 『彼らは世界にはなればなれに立っている』 を読みました。
ぼくにとって、2020年、最大の感動の一冊でした。
出会えたことが喜びです。
ファンタジー小説ですが、内容は考えさせるものを多く含んでいます。
現代と近未来の日本の将来の姿を暗示するかのようです。また、抵抗するとはどういうことかを示しています。
難しくて、すぐには解決困難な課題の提示です。
ぼくが好きなのは、語り。
「第3章 葉巻屋が語る物語」では、だんだんと<塔の地・始まりの町>の謎が明らかになり、「第4章 魔術師が語る物語」は、圧巻です。
幼いころの幸せの思い出が何にひとつなく、映画館の受付と三階建てのてっぺんの部屋とを行き帰りするひとり暮しのマリ。苛酷な現実を受け入れながら暮らすマリ。
「文句があるかい」といわんばかりに煙を吐きながら睨み返すマリ。
「馬鹿だね。泣いて元に戻るものなんて、この世にありゃしないんだよ」と励ますマリ。
そんなマリを温かく包み込み、いつまでも見守った魔術師。
精神の崩壊一歩手前で踏みとどまるマリに、ぼくの胸はひどく痛む。
可哀想に、あの子はなにもかも知ってしまった。
どうしてなのかわからない。
あの子は泣いていた。何も知らずに父親の権威と富に守られてきた自分が耐えがたかったんだろう。あの子が悪いわけじゃないのに。正気に戻してやらないと、真っ暗な怒りと嫌悪の矛先を自分自身に向けてしまいそうだった。
太田愛公式ホームページ
序章
始まりの町はすっかりかわってしまったと聞いていたので、悲しくはあったが驚きはしなかった。
----今さら君が帰ったところで、起こってしまったことは変えられない。
きっとカイならそう言うだろう。
あるいは、マリならこう言うだろう。
----泣いて元に戻るものなんて、この世にありゃしないんだよ。
私は目印のついた一枚の敷石を見つけ出し、それを裏返す。三十センチほどの深さの穴にビスケットの丸い缶がしまわれている。
私は蓋を開いて中のものを取り出した。
なにより重要な意味を持つのは、油紙に包んだ一枚の写真だ。
写真の中の私は十三歳。
父はビールのジョッキを手に母に何かを話しかけている。
淡い緑色のドレスを着た母はいつもの癖で少し首を傾けるようにして父の方を見ている。
仮設舞台の正面、一番良いテーブルについているのは<伯爵>だ。
伯爵は、数年に一度、長い船旅に出る習慣があった。
海の向こうの地を巡り、そのつど膨大な土産ものを持ち帰り博物館に並べるのを喜びとした。
それらの土産物のなかで、もっとも華麗で洗練されたもののひとつと讃えられたのが、伯爵の向かい側に座っている<コンテッサ>だった。
伯爵は、旅の途上で出合った美貌の娘を町に連れ帰り正式な養女とした。
コンテッサが実質的なコンテッサ、つまり伯爵夫人であることは明白だった。
伯爵のそば、舞台の上手脇に控えているのは、長いローブをまとった<魔術師>だ。
町の人間は魔術は驚くものではなく、笑うものだと信じていた。
魔術師の反対側、舞台の下手近くにいるのが、<なまけ者のマリ>だ。
マリはどこにいても目をひいた。この町でただひとり褐色の肌をもっていたからだ。
マリの登場はひとつの事件として町の人々に記憶されていた。
マリの左側にひとりの老婆が写っている。
老婆は黄色いパラソルを手にしており、そのパラソルに対する愛着がいささか度を越していたため、町では<パラソルの婆さん>と呼ばれていた。
老婆はなぜか図体のでかい男を深く憎悪しており、見つけるやいなや容赦ない罵声を浴びせながらパラソルで打ちかかるのだ。
その格好の標的となっていたのが<怪力>だった。
写真の中で怪力もやはり警備員の制服姿で、パラソルの老婆の攻撃から首をすくめて逃げだそうとしている。
怪力と一緒にいた<葉巻屋>が先に気がついたのだろう、おどけた身振りでパラソルの老婆の方を指さしている。
すり切れた鳥打ち帽子を被った葉巻屋は、町一番の情報通だった。
葉巻屋はよく喋る陽気な男で、鼻歌を歌いながら一本の煙草を五秒で巻く熟練の技の持ち主だった。
古い写真には、私と同じように当時まだ家の中の子供だった二人も写っている。
ひとりは赤毛のハットラ。
もうひとりは優等生のカイ。
彼は分厚い本を抱え、憂いに沈んだ顔をして、人混みの中に立っている。
カイはこの町の暗い秘密を知ってしまったことで苦しんでいた。
伯爵、コンテッサ、魔術師、なまけ者のマリ、パラソルの婆さん、怪力、葉巻屋、赤毛のハットラ、カイ、そして父と母。
私がいま立っている広場に、あの夕暮れ、彼らがいた。
なにをすればあのあとにおこったことを防げたのか、今でもわからない。
写真が撮られてからほんの半年ほどのあいだにいくつかの事件が起こり、このうちの五人が町からいなくなった。
もしかしたら、いなくなった五人は、私がこのようなかたちで町に帰ってくることも予期していたのではないか。
■始まりの町の少年が語る羽虫の物語
僕の母さんは羽虫だった。羽虫は<遠くから来て町に住みつき、害をなす者>という意味を込めて、帰るべき故郷を持たない流民を指す蔑称だ。
羽虫は、夜明け前に町外れの道路を通る水色の長距離バスでやってくる。そのためバス停付近の荒れ地には羽虫の住むみすぼらしい小屋が建ち並んでいる。彼らは公的には居留民として登録されていて、大人は漁の引き子などの日雇い労働や缶詰工場の工員、子供は農場やホテルの下働きとして働いていた。
母さんは父さんのトラックの助手席に乗ってこの町にやってきたのだ。膝の上に胡桃色の小さな皮のトランクひとつを載せて。
マリは僕のシャツに残された運動靴の跡とこわれたヨットの玩具を一瞥してなにが起こったか察したらしく、やれやれといった様子でため息ついた。それからほんの少しだけ表情を和らげて僕を見つめた。
「馬鹿だね。泣いて元に戻るものなんて、この世にありゃしないんだよ」
そう言うとマリは壁際のブリキのゴミ箱の蓋を開け、箒とちり取りを取り出した。それから船体の破片を掃きとり、僕の手からマストを取ってまとめてゴミ箱に捨て、元どおりに蓋をした。
サファイア号が跡形もなく消え去ったことであらためて喪失感が実感され、再燃した悲しみでさらに渾々と涙が湧き出した。
マリは僕にかまわずシガレットケースから葉巻屋の煙草を取り出して一服し始めた。片手を腰に当てて顎を上げ、深々と吸い込んだ煙を斜め上に吐き出す。
心にもない言葉でも、充分に人を傷つけることができる。カイはそれを知っていて、そうすることで自分自身をも傷つけているような気がした。
もし時間を巻き戻してやり直せるなら、僕は箱にしまった晴れ着を取りに行ったりはしないし、決して刺繍のことなど口にしない。
だがもうすべては起こってしまった。
あの夜、たくさんの間違いの種が蒔かれたのだ。
「あれはあたしがふるさとで見た鳥だ」
人々が顔に笑いを貼り付けたまま、舞台の下手近くにいるマリを見つめた。
「何百羽ものあの鳥が、太陽のふちを飛ぶのを見たよ。雲を透かして、鮮やかな羽の色がはっきりと見えた」
あちこちから、嘘つきのマリ、と声があがり、揺り戻すように笑いが起こった。
だがマリは超然と刺繍の鳥を指さした。
「あの鳥は飛ぶよ」
そして上手に向かってひときわ大きな声で言った。
「飛ばしておくれ、魔術師」
「僕にわかっているのは、僕がなにをしても世界は変わらないってことだけ」
「当然だ。おまえは独裁者ではないからな」
「ドクサイシャ?」
「そう。その行為がたちまち世界を変える。欲すれば叶う、最もいびつで欲深い奇跡の体現者だ」
ランプの火影で魔術師の顔が不思議な仮面のように見えた。
「おまえの行為によって世界が変わることはない。なにかをすることで、おまえ自身が変わることはあってもな」
■なまけもののマリが語るふたつの足音の物語
記憶なんてものは永遠に増築を続ける家のようなものだ。見るたびに形を変えるくせに、覚えのある窓枠や屋根の先端が妙な具合にくっいている。元の姿を思い出そうとしているうちに、さっきまであった扉が消えてしまったり。だから自分が覚えていることが正しいとは限らないし、うっかりすると騙されることだってある。
あたしの場合は、物置のような埃っぽい堅苦しい部屋、それが長いあいだ人生の最初の記憶だった。
オルフェオは、昼間の月のように静かな悲しい目をしてあたしを見あげていた。
「大きくなるまでお待ち。ここを出ても君はまた捕まってしまうよ。この世界はとても残酷だから、持たない者からより多くを奪い続ける。貪欲な機械みたいにね。もう、君にはわかっているんだろう?」
果てしなく遠いあたしのふるさとは、あの鳥が群れをなして太陽の縁を渡っていくのが見えるところ。
誰かがあたしの肩に手を置いた。身を起こすと、目の前に葉巻屋の顔があった。
「帰って休みなよ、マリ」
「顔色が悪いぜ、風邪でもひいたんじゃないのかい?」
「ひとの心配をするほど暇を持て余しているとは知らなかったよ」
■鳥打ち帽子の葉巻屋が語る覗き穴と反乱の物語
ザメンホフたちは専用の馬車で現れ、俺はマリと一緒にそいつに乗って葬儀屋の処置室に行った。そしてマリの体が元通り繋ぎ合わされて棺に納められるまで、父子がマリの目を縫い合わさないように見張った。その間に俺が飲んだ二瓶の安酒はすべて涙になって流れ落ちた。
俺はひとり、花に埋もれたマリの顔を眺めながら、雪の降りつもった屋根の下で薄い瞼を閉じて眠り続けるハットラを思った。すると横たわったマリの目がなぜだかハットラを見つめているような気がした。初めて与えられたハットラの深く純粋な眠りが、何にも妨げられることなく必要なだけ与えられるように、マリが見張っているように思えた。
修繕屋とは長いつきあいになる。むこうは荷車を引いて町を回っていたし、こっちは吸い殻集めをしているから、よく街角で出くわして一緒に座って一服したりした。修繕屋は腕はいいが愛想のない職人で、町の女がぼろぼろになった包丁なんかを持ってくると、死んでから連れてきても生き返らせることはできないと断った。
「ところで、どちらに向かっていらっしゃるんですか?」
「しかるべき時に、しかるべき場所へ」
----いざという時、塔の地の人間はすみやかに一丸となる。
野蛮で残虐な行為が、塔の地への忠誠を示す勇敢な行動にすり替わる。
ここに来た時、俺の人生の中でコンテッサと怪力はまだ生きていた。人の死は、その知らせがもたらされた時に事実になる。だから、俺にとってあの二人は二ヶ月前の夜更けではなく、今夜、死んだのだ。
最期の時には人は色々なことを思い出すというけれど、コンテッサのその一コマに俺はいただろうか。
あれから腰が曲がるまで荷車を引いて、修繕屋はマーケット通りの一番すみっこに店を持とうと決めた。町の人間も羽虫も、その店に刃のさびた鋏や柄のとれた鍋なんかを持ってくる。そして修理が終わるのを待つあいだ、天気のことやなにか他愛のない話をする。そんな夢のような光景を修繕屋は思い描いていたのかもしれない。
もしかしたら、修繕屋はこの世界をたった一人で修繕しようとしていたんじゃないか。そんな気がして、俺はなんだか無性につらかった。
俺はもうどこの町にも根を下ろさない。
ずっとずっと流れていく。遠くへ。
■窟の魔術師が語る奇跡と私たちの物語
私は魔術師。四つの大陸を巡った果てに、この町に流れ着いた者。
トゥーレはしばしば燭台を木箱の傍らに置いて朝まで本を読み耽るようになった。火影に浮かぶその横顔が次第に青年のものへと成長していくのを眺めながら、私は彼にとって書物は水や食物と同じように生きていくのに必要不可欠なのだと感じたものだった。
ようやく監獄という暴力の檻から生還した彼に、私はできることなら思う存分、書物と過ごす時間を与えてやりたかった。
だが、トゥーレはエンボスでゆかしく記された表題を名残惜しそうに指先でなぞりながら言った。
「明日、出発するんだ」
祭りの夜、この広場に響いたマリの声が蘇る。
----飛ばしておくれ、魔術師。
「私たちは物でなくなった時、なによりも自分でありたいと思ったの。誰とも違う自分自身として生きたいと思ったのよ」
私はその時、焚き火の火影を受けて座っている異形の彼らが、私がそれ以前に出合った誰よりも誇り高い人間に見えた。
「私は、明日も、舞台に立つ。私は、私であることを、やめない」
「あの子は病気なのに……」
「ここにあるのは暴力と病だけなんだよ。弱い人間から死んでいく。大人になるまで生きられる子供は少ない」
「博覧会に来る人たちは何でも持っているのに、どうしてここには食べる物もないんだ」
「何も持たない人たちがいるから、たくさん持っている人がいるのさ」
「少しも分け合わないのか」
「博覧会に来る人たちはこういう人たちを自分たちと同じ人間だとは思っていないの」
「ここで生まれた人は、ほとんどがここから出られるずに死ぬのよ。字が読めないから、自分が見聞すること以外、何も知ることができない。船や鉄道があることも知らない。自分が何であるかわからないまま死んでゆくのよ」
「骸骨がメソメソすると幽霊みたいでいやだよ」と、鬚女は骸骨男の頭を軽く小突いてから私に笑いかけた。「元気でいきな。世話は焼けたけど、あたしはそこそこ楽しかったよ」
早朝、私は旅立った。みんなが砂時計の荷馬車の前に並んで見送ってくれた。
振り返ると、棘男のシャボン玉が風に乗って朝焼けの空を舞っていた。私は彼のシャボン玉がもう読めるようになっていた。私はそれを声に出して読んだ。
「さようなら、さようなら、またいつか」
力の鍵を解き、私は贖罪の旅を始めた。人々への無私の献身が私の贖罪だった。
----ひとりで歩き、多くを見て、記憶するのだ。遥かな遠い未来、おまえは<声の地>へ行く。
私は、それはいつなのかと尋ねたのだ。フォアティマはこう答えた。
----空へ放ったものが、戻ってこなくなった時。
アレンカが願ったのはなんら特別なことではなく、多くの母親が当たり前に望むことだった。
我が子が暴力に晒されることなく安全な場所で育ち、大人になり、自分の人生を歩む。それを願う母親の数は、そう望まぬ者たちよりもはるかに多いはずなのに、その願いが奇跡を祈るに等しいほど不可能な時代と場所がある。あの夏の町は、すでにそうなりつつあったのだ。
互いの賞品を机に置き、私たちは常に真剣に勝負に臨んだ。マリは与えられなかった子供の時間を取り戻すように夢中になってサイコロを振った。私はそれを見るのが嬉しかった。わずかな間でも、マリを現実のつらい時間の外に連れ出してやりたかった。人の親となることのなかった私自身、欠落した半生をそうやって埋めていたのかもしれない。
私は広場に立って早朝の光を受けた町を見回した。
始まりの町は、世界中のどこにでもある町のひとつ、瓦礫の町となっていた。
だが、戦争は結果にしか過ぎない。夥しい死は、無数の人々の選択の結果、あるいは選択を放棄した結果、または選択とは思わずに同調した結果なのだ。この町は理性と良心を忠誠心にすり替え、次世代への責任を力への盲従で埋め合わせ、そうして見たいものだけを見て歳月を浪費してきた。
僕たちは何を教えられてきたのだろう。どうして今、ふるさとを遠く離れたこの場所にいるのだろう。どうして見知らぬ場所で死ぬのだろう。大事な者を抱きしめることもできずに。こんなふうに戦うのなら、抵抗すべきだった。でも、もう遅い。
闇雲に前進を強いられた私たちは食料の補給もなく退路を断たれ、多くの兵が飢えと寒さで死んでいくのを目の当たりしていました。
子供たちは常に、大人たちによってあらかじめ形作られた世界に生まれてくる。大人が見たいものだけを見て浪費した歳月の負債は、常に彼ら次の世代が支払うことになるのだ。あの夜、祭りを楽しんでいた大勢の町の人々は、自分たちが子供たちを死に追いやる側に加担しているとは思ってもいなかっただろう。
この物語の時代にそぐわない 「馬車」 の登場。これは何かの象徴か。
太田愛は、「相棒」「TRICK2」の脚本を手がける。
『 彼らは世界にはなればなれに立っている/太田愛/角川書店 』