■怒り(上・下)/ジグムント・ミウォシェフスキ 2018.10.15=2
人生最大の難題は物事を正しい名前で呼ぶこと----そう言ったのはカミュ?
サミュエル・バーバーの『管弦楽のためのアダージョ』を車の中で聞いていた。
ジグムント・ミウォシェフスキの 『怒り(上・下)』 を読みました。
誰の怒りなのか。そして、何に対する怒りなのだろうか。
それを求めて、読み進めます。
いつも「着氷性の霧雨が降る」暗いポーランドの町や森を彷徨よって。
主人公のテオドル・シャツキの滑稽さを息抜きに。本人はいたって真剣で生真面目なのですが。
テオドル・シャツキは、こんな人物として描写されています。
シャツキは講堂を見回し、急にノスタルジーを覚えた。 ........
検察官になってからも最初の数年、新米時代には彼自身、漠然とした確信があった。法服や完璧なスーツの下には、法典の陰には、善良で繊細な男がいることを。それは昔からそうなのだから。しかし、彼も歳を取り、職場を一度、二度、三度と替えるうち、彼のことを若者、あるいは若き検察官として知る者はひとりもいなくなった。今、彼のまわりにいるのは、彼の冷ややかさやよそよそしさが何かを隠すためのものだなどとは夢にも思わない者ばかりだ。最近は彼自身、認めないわけにはいかなくなっている----鎧が身を守るためのただの装備ではなく、自分の一部となったときに、自分は最後のチャンスを逃したのだ。そのまえなら鎧は脱いだコート掛けに掛けておくことができた。しかし、今はSFに出てくるサイボーグよろしく、その人工的なパーツを取り除かれたら、自分は死んでしまうだろう。
この講堂に来て、彼は自分の殻が自分をどれほどすり減らしているのか初めて感じた。もう一度選べても、同じ選択をするかもしれない。しかし、借りものの殻だけは二度とまといたくない。彼はそう思った。
登場人物の名前も笑いを誘います。
ルドヴィク・フランケンシュタイン(大学病院の教授)
ヨハネ・パウロ・ビェルト(新米刑事) この新米刑事、なかなかどうして、味わい深い人物なのです。
ユーモア漂う場面をおひとつ
化学博士、ルドヴィク・フランケンシュタイン教授は解剖室のある建物の入口の脇----階段の一番上に立って待っていた。
「フランケンシュタインです」と言ってシャツキを迎えた。
あと足りないのは雷鳴だけだ。
「ここは以前は病院の簡易食堂だったんです」とフランケンシュタインは解剖室のほうへシャツキを案内した。
「なるほど」とシャツキは答えた。ケーキの食べかけがのった小さな紙皿やシャンパンの空のボトルが壁ぎわに並んでいた。「で、今もまだそのときの習慣がこの建物には残ってるんです」
「そういうことがあると、いつも解剖室で祝ってるんですか?」
「はい、いつも」と教授はこれ以上あたりまえのことはないと言わんばかりに言った。
「われわれの研究のあらゆる進歩の一歩一歩に誰が一緒についてきてくれているのか、忘れるわけにはいきませんからね」
「誰が一緒についてきてるんです?」 解剖室を出ると、出口に向かって廊下を歩きながらシャツキは尋ねた。彼の心は何キロも遠いところにあった。
「死です」
「怒り」を探すヒントは。
「妻を虐待する夫に良心の呵責など存在しません。自分たちはまちがったことはしていない。それが彼らの世界なのですから。彼らにしてみれば、自分たちの神聖な権利を行使して、人を躾、教育し、罰を与え、規則を守らせているだけなのです。二本の脚で立っている自分の所有物を自分が正しいと思うやり方で管理する。彼らはむしろそのことを誇りに思っています。良心の呵責や恥の意識などは入り込む余地はありません。もちろん、近頃は社会のほうかおかしくなってきて、妻を殴ると面倒なことになるかもしれないと思っている人も中にはいます。だとしても、何も変わりません。痕が残らないように殴りつづけるか、肉体的な虐待を精神的な虐待に変えて、殴るかわりに屈辱を与えるかするだけです。おわかりになりました?」
シャツキの「怒り」は。
レイプの被害者となった女性がその後レイプのことを忘れて普通の生活に戻ったという話は、シャツキは聞いたことがなかった。生命を脅かす犯罪も健康を危険にさらす犯罪も、そういった犯罪はどれもなんらかの痕跡を残す。しかし、レイプは、人格に対する最も残忍な冒とくだ。あらゆる意味において個人のプライヴァシーと自由の侵害だ。男の一物をただ突き刺すためだけに、被害者を温かい肉の塊に貶めるというのは、真っ赤に焼けた鉄で烙印を押すようなものだ。それも何度も何度も。事件の記憶は、まるでこだまのように被害者に何度も訪れる。たまにではない。時々でもない。ひっきりなしに、だ。被害者は自らの女の魂に何者かに常に真っ赤な鉄の塊を押しあてられるのだ。その熱さに慣れることはあるかもしれない。が、感じなくなることは絶対にない。
それとなく描写されている人生。
「なあ、でも、おれたちは愛し合ってたじゃないか。だろ?」と彼はおだやかな口調で言った。「これからだって愛し合える。本気で言ってるんだ。世界は愛のためにあるんだから。一度きりの人生、憎しみ合って無駄にすることはない。そうだろうが」
「あなたのはもう終わってるけど」静かな女の声が聞こえた。
実はジョークだったとあとからわかることなど、人生においてひとつとしてない。人生というのは常にシリアスなものだ。
「あの女にはめられたんだ。それでついかっとなって。ほかにどうしようもなかったんだ」
最後に「訳者あとがき」より。
本書はそんなポーランドのミステリー作家ジグムント・ミウォシェフスキを一躍世界的ベストセラー作家に押し上げた出世作『怒り』の全訳である。
そして本書が第三作だ。そう、本書は実はシャツキ・シリーズ三部作の完結編なのである。諸般の事情で邦訳の刊行は前後してしまったが、このあと第一作と第二作も本文庫より刊行予定である。
『 怒り(上・下)/ジグムント・ミウォシェフスキ/田口俊樹訳/小学館文庫』
人生最大の難題は物事を正しい名前で呼ぶこと----そう言ったのはカミュ?
サミュエル・バーバーの『管弦楽のためのアダージョ』を車の中で聞いていた。
ジグムント・ミウォシェフスキの 『怒り(上・下)』 を読みました。
誰の怒りなのか。そして、何に対する怒りなのだろうか。
それを求めて、読み進めます。
いつも「着氷性の霧雨が降る」暗いポーランドの町や森を彷徨よって。
主人公のテオドル・シャツキの滑稽さを息抜きに。本人はいたって真剣で生真面目なのですが。
テオドル・シャツキは、こんな人物として描写されています。
シャツキは講堂を見回し、急にノスタルジーを覚えた。 ........
検察官になってからも最初の数年、新米時代には彼自身、漠然とした確信があった。法服や完璧なスーツの下には、法典の陰には、善良で繊細な男がいることを。それは昔からそうなのだから。しかし、彼も歳を取り、職場を一度、二度、三度と替えるうち、彼のことを若者、あるいは若き検察官として知る者はひとりもいなくなった。今、彼のまわりにいるのは、彼の冷ややかさやよそよそしさが何かを隠すためのものだなどとは夢にも思わない者ばかりだ。最近は彼自身、認めないわけにはいかなくなっている----鎧が身を守るためのただの装備ではなく、自分の一部となったときに、自分は最後のチャンスを逃したのだ。そのまえなら鎧は脱いだコート掛けに掛けておくことができた。しかし、今はSFに出てくるサイボーグよろしく、その人工的なパーツを取り除かれたら、自分は死んでしまうだろう。
この講堂に来て、彼は自分の殻が自分をどれほどすり減らしているのか初めて感じた。もう一度選べても、同じ選択をするかもしれない。しかし、借りものの殻だけは二度とまといたくない。彼はそう思った。
登場人物の名前も笑いを誘います。
ルドヴィク・フランケンシュタイン(大学病院の教授)
ヨハネ・パウロ・ビェルト(新米刑事) この新米刑事、なかなかどうして、味わい深い人物なのです。
ユーモア漂う場面をおひとつ
化学博士、ルドヴィク・フランケンシュタイン教授は解剖室のある建物の入口の脇----階段の一番上に立って待っていた。
「フランケンシュタインです」と言ってシャツキを迎えた。
あと足りないのは雷鳴だけだ。
「ここは以前は病院の簡易食堂だったんです」とフランケンシュタインは解剖室のほうへシャツキを案内した。
「なるほど」とシャツキは答えた。ケーキの食べかけがのった小さな紙皿やシャンパンの空のボトルが壁ぎわに並んでいた。「で、今もまだそのときの習慣がこの建物には残ってるんです」
「そういうことがあると、いつも解剖室で祝ってるんですか?」
「はい、いつも」と教授はこれ以上あたりまえのことはないと言わんばかりに言った。
「われわれの研究のあらゆる進歩の一歩一歩に誰が一緒についてきてくれているのか、忘れるわけにはいきませんからね」
「誰が一緒についてきてるんです?」 解剖室を出ると、出口に向かって廊下を歩きながらシャツキは尋ねた。彼の心は何キロも遠いところにあった。
「死です」
「怒り」を探すヒントは。
「妻を虐待する夫に良心の呵責など存在しません。自分たちはまちがったことはしていない。それが彼らの世界なのですから。彼らにしてみれば、自分たちの神聖な権利を行使して、人を躾、教育し、罰を与え、規則を守らせているだけなのです。二本の脚で立っている自分の所有物を自分が正しいと思うやり方で管理する。彼らはむしろそのことを誇りに思っています。良心の呵責や恥の意識などは入り込む余地はありません。もちろん、近頃は社会のほうかおかしくなってきて、妻を殴ると面倒なことになるかもしれないと思っている人も中にはいます。だとしても、何も変わりません。痕が残らないように殴りつづけるか、肉体的な虐待を精神的な虐待に変えて、殴るかわりに屈辱を与えるかするだけです。おわかりになりました?」
シャツキの「怒り」は。
レイプの被害者となった女性がその後レイプのことを忘れて普通の生活に戻ったという話は、シャツキは聞いたことがなかった。生命を脅かす犯罪も健康を危険にさらす犯罪も、そういった犯罪はどれもなんらかの痕跡を残す。しかし、レイプは、人格に対する最も残忍な冒とくだ。あらゆる意味において個人のプライヴァシーと自由の侵害だ。男の一物をただ突き刺すためだけに、被害者を温かい肉の塊に貶めるというのは、真っ赤に焼けた鉄で烙印を押すようなものだ。それも何度も何度も。事件の記憶は、まるでこだまのように被害者に何度も訪れる。たまにではない。時々でもない。ひっきりなしに、だ。被害者は自らの女の魂に何者かに常に真っ赤な鉄の塊を押しあてられるのだ。その熱さに慣れることはあるかもしれない。が、感じなくなることは絶対にない。
それとなく描写されている人生。
「なあ、でも、おれたちは愛し合ってたじゃないか。だろ?」と彼はおだやかな口調で言った。「これからだって愛し合える。本気で言ってるんだ。世界は愛のためにあるんだから。一度きりの人生、憎しみ合って無駄にすることはない。そうだろうが」
「あなたのはもう終わってるけど」静かな女の声が聞こえた。
実はジョークだったとあとからわかることなど、人生においてひとつとしてない。人生というのは常にシリアスなものだ。
「あの女にはめられたんだ。それでついかっとなって。ほかにどうしようもなかったんだ」
最後に「訳者あとがき」より。
本書はそんなポーランドのミステリー作家ジグムント・ミウォシェフスキを一躍世界的ベストセラー作家に押し上げた出世作『怒り』の全訳である。
そして本書が第三作だ。そう、本書は実はシャツキ・シリーズ三部作の完結編なのである。諸般の事情で邦訳の刊行は前後してしまったが、このあと第一作と第二作も本文庫より刊行予定である。
『 怒り(上・下)/ジグムント・ミウォシェフスキ/田口俊樹訳/小学館文庫』