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13年前を

2024年03月11日 | 日記

11日
昨夜10時のドラマを見終え眠くならず、久しぶりにPCゲームに熱中。
気が付いたら午前様もいいところ、1時近くに慌ててベッドに潜り込んだ。
今朝7時過ぎ目覚めトイレに。
かみさん月曜恒例の朝の立ち合いに出かけていた。
暖房入れてくれたのは良いのだが灯油切れで寒かった。着替えて物置小屋のポリタンクにと外に出たら、放射冷却の冷たい空気、眩しい朝日に青空だけどにはピリッと来る寒さ。3月も上旬過ぎと言うのに・・・

13年前の今日のあの時刻、春の様な温かい陽気だった。
翌日がセンターに初めて自衛隊音楽隊が来て演奏会開催の準備中で、不足な物を買いに車運転中交差点差し掛かり右折しようとして停車中、車が上下に弾み電線が大きく揺れて信号が消えた。
助手席のかみさん「交差点脱出して路肩に止めたら」と流石交安協の会員だけあって冷静に、パニクッテる私に指示してくれた。

その夜は停電でヒーターは使えず反射式ストーブで居間を温め布団を引き湯たんぽで温めて不安な夜を。
停電でテレビや文明の利器デスクトップPCも使えず、ノートPCはなかったので情報は携帯ラジオだけ。ずっとNHKを聴いてたが、起きてる事象を想像してたが、後日テレビで現実の状況に唯々愕然とするだけだった。

かみさんはセンター臨時職員だったが、避難者80人程が来たのでと招集がかかり翌朝までセンタで対応、5日間夜はセンターに泊まり込みだった。
日中は我が家と行ったり来たり。心筋梗塞後4か月目でどうなる事やら不安な時を過ごした。食事はパンやおにぎり、カップラーメンや袋ラーメンで3食きちんと食べられた。

翌日は小雪が舞う寒い朝に。幸いガスが使えたし給水車の水を貰えたので暖かいのも物には事欠かなかった。トイレは浴槽の残り湯(水)、一週間目に銭湯の湯につかった時はまさに極楽気分を。

水道は停電もあったが団地の水瓶高台の貯水槽が使えなくなり復旧まで暫らくかかった。あの時は水と電気の有難さを思い知った。
 通電開始して遅まきながらテレビで津波の実態を目の当たりにし、其の凄さにお恐怖を。
特に宮古市の黒い津波が市街地の堤防を乗り越えるその速さに愕然とし体が震え、暫らくはテレビの関連シーンは見れないように。
13年経ちその爪痕がまだ各地に残り、被災者には想像を絶する心に大きな傷跡が。少しでも早く癒える事を祈りましょう。

かみさん5時過ぎ、早め点灯啓発の立ち合いに。3月と言えどもまだ寒さが残り、だるまの様に着込んで出掛けた。後期高齢者なのに元気良いなあ。

コメント
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