保津川下りの船頭さん

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シリーズ・保津川を下ろう!下内膳堤

2005-04-27 15:53:31 | シリーズ・保津川を下ろう!
深い渓谷を縫うように流れて行く保津川は
大雨が降れば度々水害に見舞われる暴れ川でもありました。

周辺農家の方は洪水の度に、農地に水が流れ込み
多大な被害をこうむっていたのです。

特に保津川と支川が合流する河口付近の侵食被害は
ひどく、周辺の田畑に多大な被害が出ていました。

今回紹介する年谷川河口周辺も、本流である保津川が
細くなる渓谷入り口に近いことから侵食被害多発地帯でした。

この河口侵食を防止する為に、江戸時代に造られたのが
「下内膳堤」です。

「下内膳堤」という名は、当時の亀岡(江戸時代は亀山藩といった)
の領主であった岡部内膳守長盛の名前に因んで名付けられたもので、
同じ目的で上流に造られている「上内膳堤」に対して下流に
造ってあることから「下」と付けられているのです。

名領主として庶民に親しまれた長盛は、藩の重要事業
として侵食防止の堤防工事を計画、被害の酷い
河口付近二箇所を事業区域と定め計画を進めました。

堤防は河口の下流に造る方が効果がある為、
河口下流に川幅を広げ大きな水溜の湾を造り、
50間の石積みによる石堤により湾を囲む
形の堤防を建設しました。

長年、周辺農民の悩みであった侵食被害を防ぐ為の
事業に着手した藩主・岡部長盛は名領主と人々に慕われ、
「岡部長盛公、亀山を知り給い時、田地のわずらいをいとい給ひ、
川中に二つの堤を築出させ水勢を避け、その仁愛の深き事いちじるし」
という文献が残っています。

岡部内膳守長盛は慶長14年(1609)に下総国山崎から入封して
亀山藩を成立させました。長盛は徳川家康のもと、数々の戦に参加して
多くの手柄をたてた勇猛な将で、家康の信頼も厚く、京の都の隣国
亀山の領主に任命されたのです。築城途中だあった五層の天守閣・亀山城を
完成させているなど、多くの事業をのこしています。

長盛はその後13年間領主を務め、丹波国福知山に
移封して行きました。

先人達の悲願であり思いがこもった「下内膳堤」は、
今、石堤の姿も無く、その面影も薄くなっていますが、
周辺の人達が魚釣り場など憩いの場として
今も親しまれている場所なのです。

*写真は上から見た「下内膳堤」です。写真の左側の
 膨らんだ所が堤跡です。去年はコウノトリのお気に入り
 場所にもなって多くの方が鑑賞に訪れてました。
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