保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

「丹波かめおか光秀物語・ききょうの里」が開園!

2005-07-02 16:43:08 | 京都情報
保津川下りの出発点・京都・亀岡市は戦国時代、
明智光秀が平定し、領主として治めていました。

明智光秀といえば「逆臣」「三日天下」で有名で、
歴史上では‘悪役’のイメージが強いキャラクター
ですが、この亀岡では丹波亀山城の築城に伴い城下町
を整備し、今の 亀岡の原型をつくるなど、
善政の人として評価が高いのです。

その明智光秀が家紋としていたのが‘桔梗’です。
美濃の名門土岐源氏一族の出身といわれる光秀は、
自らの家紋に土岐氏と同じ‘桔梗’の紋を
使用していたのです。

光秀の功績と供養に植えられ桔梗の花に
スポットを当てたイベント、
「かめおか光秀物語・ききょうの里」が
7月3日(日)から光秀ゆかりの寺・谷性寺周辺で
開催されます。

「ききょうの里」には、谷性寺とその周辺に
地元住民の手で植えられた約5万本の桔梗が咲き誇り、
その鮮やかさと規模の大きさは訪れる人の
目を存分に楽しませてくれます。


亀岡宮前町にある谷性寺は、光秀の家紋
桔梗の花を咲き誇りまた、光秀の首塚も
祀られていることから、通称「光秀寺」
「桔梗寺」の愛称で親しまれています。

創建は平安後期という古寺で、本尊として
祀っている不動明王を、明智光秀が八上城を攻略する
時に崇め、その加護を受けたことから、丹波平定後に
厚い信仰を寄せたと云われているのです。

光秀の首塚は、天正10年(1582年)6月、
豊臣秀吉の軍に山の戦いに敗れ、
坂本城に向かう途中、 山科小栗栖で民衆に襲われ
殺された後、家臣の 溝尾庄兵衛が光秀の首を
隠しておき、後に光秀が生前に信仰していた
本寺に運び埋め葬ったとされています。

織田信長軍随一の知将で、教養豊かな誠実な人柄と
伝えられる光秀がなぜ?主君信長を討ったのか?
その動機の真相は定かではないが、
「下克上」が常識だった時代に、政治的手腕の相違に
悩み、忠誠と反感の狭間で苦悩していたようです。

でも一つだけ確かな事は、本能寺の変の後、
国を統治した権力者達が光秀を‘悪役’に
仕立てることで、一つの秩序、思想、道徳を
民衆に植え付けたということでしょう。

事実、徳川家康は豊臣家への忠誠を裏切り、
主君豊臣家を謀略にはめ天下を盗りましたが
これは「逆臣」とは言わないですよね。

私達はある意図された思惑のもと、多くの
マインドコントロールされているのでは
ないでしょうか?

そんな事を考えながら、光秀の足跡を
尋ねると、また違った歴史的評価が生まれ
てくるのではないでしょうか?

「丹波かめおか光秀物語・ききょうの里」
★ところ
  亀岡市宮前町猪倉・谷性寺周辺

★期間
  7月3日(日)~9月4日(日)
   AM9:00~PM4:00
★入園料
   400円 小学生以下無料

詳しいアクセスは亀岡市観光協会まで