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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

嵐山音楽祭に行ってきました!

2005-09-26 08:55:32 | シリーズ・京都を歩く
23日~25日の3日間、
京都の嵐山で開催されていた
「京都嵐山音楽祭2005」。
最終日となった昨日、8会場で
華やかで楽しい音楽の宴が
繰り広げられました。

私はっちんも、仕事が早く終わったの
事もあり、夕方から音楽の祭典を
思う存分楽しむことができました。


メーン会場となる渡月橋横のある中ノ島公園の
特設ステージにはSuper Novaのラテンジャズの
演奏が行われてれていました。

嵐山の自然をバックにした最高のロケーションでの
音楽祭は、他にはない京都ならではの落ち着いた
華やかさというものを感じます。


美空ひばり館前のステージでは、日本最大のゴスペルグループ
「アノインテット・マスクワイア」と「ブライトン・マスクワイア」
のゴスペルコンサートが行われました。
ひばり館の前には、公演15分前から公道に観客があふれかえって
いました。!先日愛・地球博でユーミンと競演してきた
グループだけに音楽祭最高の人気ですね。

「OH!HAPPY・DAY」の他2曲のゴスペルソングと
ひばり館前で歌うということもあり、ひばりさんの
歌をゴスペルアレンジをかけて歌われました。
「川の流れのように」をバラード調にアレンジしていた
のには驚きました。
魂に響くサウンドに聞きほれていた人の中には
涙ぐむ人も。演奏が終わると感動で声をあげて
泣き、抱き合う女性の姿も見られ‘歌’‘音楽’
の及ぼす力を再認識させられた風景でした。


ゴスペルコンサートが終わると「京福電車嵐山駅」会場で
「おかみとゆかいな仲間たち」というグループが
ジャズとゴスペル&ポップスを融合させた音楽の演奏を
されていました。聞けばこの音楽祭のために結成された
ユニットだそうです。メンバー皆さんがそれぞれの
ジャンルのプロフェッショナルで、どんな演奏になるか
楽しみなコンサートでした。
最後はサンバリズムににあわせて、観客も一緒に
踊りだす楽しいコンサートです。
聴いていた外人さんの観光客も思わず踊ってしまう
サウンドと歌は本物でした。



3日間、天下の名勝・嵐山の舞台に開催された音楽祭も
夜の中ノ島公園ステージで行われるゴスペルコンサートで
最後となりました。
トリを務めるのはやはり
「アノインテット・マスクワイア」と「ブライトン・マスクワイア」です。
東京、名古屋、大阪、高知から集まられてメンバー350名で
歌われたゴスペルは、地を鳴らし、天に届かんばがりの
大迫力です!!
渡月橋付近の川の中にはロウソクの火を燈した
送り火がたかれていました。
2004年以降台風、地震、津波など自然災害や戦争など
の悲劇で命を落とした人々の魂を鎮魂行事です。

聴く人の心、魂に響くゴスペルサウンドとの
競演で平和とは、生きるとはという天からの深い
メッセージが聞こえてくるような瞬間でした。

こんなビックなイベントを演出できる嵐山。

さすが‘天下の名勝’です。

この地を終着地にする私達、保津川下りは
本当に恵まれた環境にいるのだな、と
改めて強く感じる音楽祭でした。


平家物語・那須与一堂を訪ねて。

2005-09-03 21:28:51 | シリーズ・京都を歩く
時代劇大好きなはっちんが
今一番楽しみにしている番組が
NHKテレビの大河ドラマ‘義経’です。

その中に四国・屋島での平家の合戦の
シーンに義経役のタッキーの相方
今井翼君が出演するシーンがありました。
この翼君の役が弓矢の名手で誉れ高い
那須与一(なすのよいち)です。

この那須与一が屋島の合戦以前の
源平存亡を掛けた戦い、一の谷の合戦に
参加するする為、この丹波(亀岡)を
進んでいた時、急に病をわずらい養生
したのが亀岡市・法楽寺にある
「那須与一堂」です。

与一は一の谷攻めの為、義経の軍に参加し、
この口丹波に差し掛かった時、突然病に
かかり動けなくなったそうです。

そこで陰陽師・安部晴明が建立した
法楽寺の阿弥陀如来に祈願したところ
たちどころに平癒して義経一行の
後を追い合戦に参加できたのです。

平家物語によると、その後、元暦2年
(1185)2月、四国屋島に合戦に
おいて那須与一は‘扇の的射り’により
その名を天下に轟かすことになるのです。

屋島でのお話・・・
平家は美しい女人を小船に乗せ、
「この扇を射落としてみよ!」との挑発を
します。
与一は目を閉じて
「源氏の名誉の為、南無八幡大菩薩、願わく
はあの扇の真ん中を射させてくれ給え。」と
念じて目を見開いて射抜いたという
名シーンは余りにも有名です。



亀岡の下矢田町の法楽時に建つ
「那須与一堂」は国道9号線から
大阪高槻市に抜ける府道沿いの
田んぼの中にあります。

車なら注意をして見ていないと、
見逃してしまいそうな看板と石碑が
立っているだけの質素な入り口です。



その入り口から田んぼのあぜ道を通って
法楽山という小高い山裾に与一堂はあります。
小さな手すりのついた細い道を幾度か
折れながら上がるとそう広くない平地があります。


その平地に「那須与一堂」だけが建っています。
このお堂には与一が病の癒し祈願する200年前に、
平安時代の有名な陰陽師・安部晴明が恵心僧都に作らせた
阿弥陀如来像が奉られておりました。
この阿弥陀様に与一が祈願し平癒したことから
今では与一堂の本尊になっています。

この霊験あらたかな阿弥陀様には、延命長寿を
請け合い老病や尿の悩みを軽くするご利益や、
武術や学問の上達にもご利益があると
云われ、今も訪れる人が絶えません。

余り京都では有名ではなく、規模は大きくは
ないお堂ですが、物語があり古く由緒もある
隠れた名所といえるでしょう。

車で来られる方は駐車場がないので注意して下さい。

京都の地蔵盆

2005-08-20 23:26:13 | シリーズ・京都を歩く
京都には、夏のお盆を締めくくる「地蔵盆」
という古くから民衆に伝わる伝統行事が
あります。

はっちんの住む亀岡市西つつじヶ丘でも
今日がその「地蔵盆」を執り行う日でした。

今年度、町内会長に当っている
私はっちんも今日は仕事を休み、
我が町内の「地蔵盆」のホスト役と
して参加しました。



早朝7時前から、役員総出で、お地蔵さんの飾りつけ、
テントの設営、会場となる公園の整備、アトラクション
や催し場の準備に大忙し!
9時には子供達がやって来きて、和尚さんの読経と法話が
始まる予定なので、皆さん、汗だくに
なりながら、準備に追われたのでした。



我が町内は0歳~小学6年生までの児童が
約120名もいる、周辺地域・自治会最大の
規模を誇る町内です。
9時過ぎから和尚さんがお経をあげ、今年の
地蔵盆の始まりです。
いい場所を取ろうと、沢山の子供達が朝早くから
やって来てくれました。

和尚さんがお経をあげている間、子供達は静かに
座り、また、続いてのありがたいお話も熱心に
聞いていました。最近の子供は…などと
よく聞きますが、どうして、昔と全く変わらず
純粋そのもの。立派でした。



和尚さんのお経と法話が終わると、子供達お待ちかねの
アトラクションや福引き、スーパーボールすくいなどの
イベントが隣の公園で行われます。
今年のアトラクションはマジックショーです。
地元で活躍されているマジッシャンコンビ
「みっちゃん&よっちゃん」が駆けつけてくれました。
目の前で繰り広げられる、不思議な世界に子供達も
目が「点」です。「なんでや~」「わからん~」と
隣の子と口々にしゃべりながら、笑顔一杯でした。



京都では、毎年8月22~24日が「地蔵盆」を
執り行う日柄となっています。
大人たちが、子供達のすこやかな成長を願い、
町内上げて企画する伝統行事で京都では
「お地蔵さん」という呼び名で親しまれております。

はっちんも子供頃、夏休み一番の楽しい
イベントといえば「お地蔵さん」でした。
2日間、家にも帰らず、ず~っと入りびたり、
ゲームや色んな遊びをしていた思い出があります。


「お地蔵さん」とは、仏教でいうところの
「地蔵菩薩」がその本尊で、
その縁日である毎月24日に行われていた
祭典がそのルーツと云われています。

「地蔵菩薩」は子供の守り神とも云われ、
賽(さい)の河原で石を積む幼子の霊が、
鬼にいじめられ苦しめられる時に
救いに来てくれるのです。

昔の日本では、子供の死亡率が高く、
子を亡くした親の悲しみを慰める話
として、民衆の心に伝わったとか。

元々、宗教的な行事ではありますが、
子供を愛しく思う親の切なる気持ちの
発露から、自然に始まった行事だと思います。

現代のような理屈ばかりの杓子定規な感覚で、
「一宗教の行事だ」と狭小に考えるのではなく、
子を思う、親の心情の奥深さを感じとれる
人として大切な行事だと思います。

宗教、宗派など関係なく、子供を思う親の
心は万国共通なのですから・・・







秦氏、保津に進出の足跡を残す・請田神社

2005-06-20 15:58:45 | シリーズ・京都を歩く
有史以来の壮大な渓谷を今に残す保津峡。
その入口の山裾に建てられているのが、
この川の氏神を祀る請田神社です。

保津川下り・乗船場前の保津大橋を渡り、川沿いの細道(府道嵯峨亀岡線)を
京都方面に進んで行けば、小さな石の鳥居が見えてきます。
それを越え200~300m行った所、山の木々に囲まれて小高い山裾に
ひっそりと佇みその社は建っています。

和銅二年(709)に当時の丹波国守・朝臣狛呂(あそんこままろ)に
より創建されたと云われるこの神社は、保津峡を切り開いた
神様‘大山咋命’と市杵島姫命が祀られています。

これらの神様は保津川峡の出口である嵐山・渡月橋の
少し下流・桂川右岸沿いにある‘松尾大社’と同じ神様を祀っているのです。

この松尾大社、京都最古の神社と云われ酒の神様で有名ですが、
5世紀頃から今の嵯峨野・桂川流域に巨大な勢力を誇っていた
渡来系豪族・秦氏の氏神でもあるのです。

秦氏は川に井堰をつくるという当時では最先端の土木技術を
駆使して、葛野一帯を田園地帯に変え、平安京遷都の基礎を
築いたとされる一族。

その秦氏の氏神である大山咋命を祀る神社が、丹波国である
保津峡の入口と保津峡の出口をわずか下がったところに川沿いに
造られているのは大変興味深いことなのです。

昔、保津峡を介してこの両社にはなんらかの繋がりがあった
と想像できるところです。

松尾大社は大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が
創建したとされるが、元は背後の山中にある巨岩を祭祀していたようです。
そしてその巨岩の周辺一帯に秦氏の先祖が造った松尾山古墳群が点在しています。
その全てが横穴式石室をもつ円墳であり、西暦600年前後に築造されたとものと思われます。

対して保津の請田神社の裏山にも、松尾大社・裏山の古墳群と
同じ横穴式石室を持つ円墳群・保津山東古墳群が存在していることから、
秦氏の先祖の墓地だと推測されているのです。

また、請田神社がある場所を「立石」と呼び、社殿背後の岩を
祭祀していた向きもあるようです。
これら多くの共通点をもち、同じ神様を祀る両神社は、
当時の保津川を巡る支配圏の構図を現しているようです。

保津川の材木水運事業は奈良時代にはすでに始まっていたという記録が残っています。

建築用木材の産地である丹波を上流に持つ保津川は、
国造りの木材を輸送する重要な流通水路だったことから、
川の木材輸送の利権が当時から存在していたと予想できると思います。
この利権に絡んで松尾の秦氏が保津に進出して来た証が
請田神社建立に関係しているのではないかと云われているのです。

保津に古くから残る資料によると、水量が少なく川幅の狭い上流は
一本流しといわれる丸太一本で流してくるスタイルで運び、
今の保津の浜である丹波国滝額津に集められ、
急流用の荒作りの筏を組んで下流の大井津・今の松尾大社が
ある梅津に運ばれていた記してあります。

しかし、平安時代には殆ど全ての木材が大井津で引き上げられ
都内まで運ばれているのに較べ、それ以前の奈良時代には長岡京、平城京の
造営用の木材ということから大井津で揚げられる事無く、
素通りされていたようです。

だから下流の秦氏は、上流の保津の浜・滝額津を押える必要があって
川を上ってきたものと思われるのです。

ここを押えることで、保津川の木材輸送を独占することが出来たのです。

秦氏の丹波保津の進出の意義は、保津川の流通支配にあった。

後に平安京遷都計画に活躍する秦氏。彼等は今も変わる事のない
この川の流れに何を感じ、何を見ていたのでしょう?

思いを馳せるだけでも楽しくなるのでした。



シリーズ京都を歩く。太古のロマン、保津川峡。

2005-05-31 17:48:24 | シリーズ・京都を歩く
保津川下りの最大の醍醐味といえば、有史以来から
形つくられた保津峡の深い渓谷美でしょう。

急で切り立った山肌に、濃い灰色をしたチャートの
層で造形された岩壁、山々を縫い激しく蛇行する
保津の流れは、地球創造の歴史を今に残しています。

現代地学的見解によると、今から約200~500万年前、
近畿地方の広い範囲を沈降させる地殻変動が起り、
たくさんの盆地が形成されたそうです。

その一つが保津川下りの出発点がある亀岡盆地で、
周囲を山々に囲まれていたことから、上流から流れて
来た水を貯めた一大湖となっていたのです。

当時は今の京都盆地も山城湖という湖だったらしく、
水は亀岡の湖から、今の保津川とR9号線の老ノ坂の
2ルートから山城湖に流れ込んでいた事が分かっています。

その当時の保津川の川幅は狭く、
水面の高さは現在流れている位置より
約80メートルも高い所を流れいました。

高く切り立った保津川渓谷の岩盤80メートル上から
太古のプランクトンの化石が多数発見されることが、
この事実を証明しているのです。

また、古くから伝わる「神話」の世界にも保津川渓谷の
興味深いじ記述が紹介されています。

太古の昔、この地方を治めていた出雲の神「オオクニヌシ」は
旧亀岡湖が一望できる山の頂に上がり、神々をお集めになり
「この山々を切り開いて、湖水を山背(京都)へ流し
新しい国・丹波を造ろう」と相談されたとあります。

オオクニヌシといえば、日本建国の元となった「国譲り」
を行った神様として有名ですが、丹波地方では、
今の亀岡周辺が出雲と大和両勢力の接点になった
と見られているのです。

そのオオクニヌシの国造りの一つ、保津峡の
谷間開削を手伝った神さま達を祀る神社は
今でも亀岡に残っております。

この様に、最先端科学の地質学と太古から伝わる神話の
共通点が重なり合うのも保津川渓谷のロマンを感じる
要素だと思います。

地球の生命力と古代の神話のロマンを満喫できる
京都最大の渓谷地・保津峡。
皆さんも是非、体感してみてはいかがでしょうか?

我が住む街、京都・亀岡。

2005-05-25 02:19:47 | シリーズ・京都を歩く
以前、東京に住む友人に、はっちんのお仕事、
保津川下りのことを話していた時のこと。
「保津川下りは聞いたことあるが、亀岡市は
聞いたことないな~」と言われたことがありました。

その人は世界中を股にかけ飛び回っている
いわゆるビジネスの世界のエリート中のエリート。

その意外な発言に「案外、無知な奴やな~」と
その時は思ったりしました。

しかし、今度は東北の友人に「亀岡市って京都なの?」
「保津峡って、天の橋立とかの方?」と言われたときは
さすがに我が街の全国的知名度の無さを疑ってきました。

それから日本中にいる友人に、我が街・亀岡市と保津川下りに
ついてどれだけ知っているか、リサーチしてみたことがあります。

結果は驚くべきものでした。

保津川下りについては殆ど人が知っていたり、乗った経験が
あったものの、亀岡市については80%を越える人が
「よく知らない」というものだったのです。
これは関西圏も人も例外ではないのは驚きました。

この調査結果には正直、愕然としました。

京都市で生まれ育ったはっちんには、京都の隣接地で生活圏内の
亀岡は子供のころからよく遊びに行ったりして知っていたので
こんなにも知名度が低いことに気付いていなかったのです。

そうなのです!一部のマニアックな人を除き、
日本の大多数の人達は保津川下りは聞いたことが
あっても亀岡市という街については殆ど知識が無く、
保津川下りと亀岡市が頭の中で、まったく繋がって
いないのです。

この事実はこの街に暮らすはっちんにとって、衝撃でした。

この危機感がはっちんにこのブログを立ち上げさせる
一つの動機にもなったのでした。


京都府亀岡市はその昔‘丹波国桑田郡’といわれ
山陰道八ヶ国の東端の国にあたり、奈良時代には
政治文化の中心・丹波国府が置かれており(正確な場所はまだ特定されていない)
今の京都よりも古くから栄えていた由緒ある土地柄なのです。

約1260年前には国家平安と豊作を祈願して、
奈良東大寺を総国分寺とする全国国分寺整備が
進められ、亀岡のこの地にも丹波国分寺と国分尼寺が
置かれるほど栄えていたのです。

今の京都に平安京の都が造営される時も亀岡は、
都へ食料を供給する広大で肥沃な農地をもっており、
また、造営に必要な大量の木材を運ぶ水路として
保津川が流れていることから、物資流通の要衝として
平安遷都に大きく関わってきた土地柄だったのです。

更に京の都に近いことから、政治的にも重要な拠点と
位置付けられ、足利尊氏や明智光秀が天下を目指して
兵を挙げた戦略的な意味をもつ土地柄でもあったのです。

文化的にも、江戸時代に庶民の間で広がった
「心学」の父・石田梅岩や
杉田玄白が外来書を訳した「解体新書」を著す20年も前に
日本最初の解剖書「臓志」を著した山脇東洋、
西洋の技法を取り入れた絵画で有名な円山応挙に
昭和の怪物といわれた宗教家出口王仁三郎など
を輩出するなど、当時から文化レベルの高い土地柄なのです。
  

このように文化の香り高く、京都に負けないほどの
歴史的深みを擁し、豊かな自然を背景に
多くの人間ドラマが繰り広げられた土地、
それが我が住む街・亀岡なのです。

これからもこのブログでディープな亀岡を
掘り下げて見たいと思っていますので
ご期待ください。

頼政塚発見!京都を歩く・亀岡編

2005-04-04 09:28:17 | シリーズ・京都を歩く
京都から国道9号線を西に向かい、老ノ坂峠の
トンネルを出ると、私はっちんが住む、亀岡の
街が眼下に広がってきます。

この国道9号線を街の中心部へ進めていくと
「頼政塚」という看板のかかった交差点が
目に付きます。

この「頼政塚」とは、平安末期の武将・源頼政のことで
その首を葬ったと伝えられる墓が亀岡にあります。

NHK・大河ドラマ「義経」をご覧になっている方も多いと
思いますが、頼政とは丹波哲郎さん演じる源氏の長老で、
平家の驕りを戒めようと、全国に散らばった源氏の決起を
促したことが露見したことで、平清盛に討たれてしまう。

しかし、この頼政の挙兵を契機して、源頼朝や木曾義仲ら
全国の源氏一門が決起するなど、各地で源平の戦いが本格化し、
時代を動かす先駆けとなりました。

頼政塚は、国道9号線・頼政塚の交差点より、南に徒歩で10分程の
小高い丘の頂上にひっそりと今も祀られています。

頂上から亀岡の街が見渡すことができるこの丘は、
もともと高貴な人の古墳だと云われています。


源頼政は長治元年(1104年)、父は源仲政、母は藤原友実の娘の
間に生まれました。

1156年(保元元)の保元の乱では後白河天皇に属し、
1159年の平治の乱では義経らの父・河内源氏の源義朝に
属するも、源氏嫡流として独自の行動をとり、
平清盛陣営に参加しました。
この功績より頼政は、1178年(治承2)には従三位を授けられます。

別名の源三位頼政の名はこの従三位から来ています。

平治の乱で源義朝は敗れ、河内源氏は四散しますが、
その中において頼政は、唯一、源氏として存在し、
1180年に後白河法皇皇子の以仁王の令旨に従い、
伊勢平氏の平清盛一族打倒の最初の挙兵を行うも敗れ
宇治の平等院釣殿で自刃して果てます。

その頼政の首を家来が持ち帰り、当時の領地であった
この亀岡の地に葬ったと云われています。

頼政は鬼退治や土蜘蛛退治で有名な源頼光の玄孫にあたり、
弓術などの武芸にも優れ、夜な夜な怪鳴を発して、高倉天皇を
悩ました鵺(ぬえ)を退治したことで、亀岡・矢田の地を賜りました。

*写真は頂上にある頼政の首塚です。
 塚裏は今、つつじヶ丘小学校になっており、
 我が愚息も学んでおります。

はっちん、千本通りに帰る!

2005-03-23 16:30:25 | シリーズ・京都を歩く
昨日は雨の影響もあり、仕事にあぶれたはっちん。

昼から久しぶりに京都へ遊びに行ってきました。

雨降りにも関わらず京都へ出たのは、親戚の所に用が あったのもありますが、
それ以上に、このブログによくコメントを 頂く涼さんが書かれていた
「京都の旅『らくたび』」のコラム を読んだからです。

その日の『らくたび』のコラムは「朱雀大路」の話でした。

朱雀大路とは、平安京の時代、メインストリートだった通りで、
今の千本通りです。
今ではそれほど大きな通りではないので、
京都以外の人には 分かりにくいと思いますが、
JR二条駅の前だけ大きく広がっている 道といえば
お分かりになる方もおられるのでは?

平安の昔、今の千本丸太町交差点付近は平安京の政治の中心
であった大内裏があり、その中に大極殿が建っていたそうです。

この千本通りは、私はっちんにとっては、思い出深い通りの一つです。

はっちんが生まれ育った所は、京都の北、衣笠という所です。
周辺には金閣寺、等持院、龍安寺、北野天満宮、平野神社、わら天神など
京都でも有名な観光地が点在する、京都観光・北地域のメッカみたい所です。

当時、衣笠に住む者が遊・食・買うといえば、北の繁華街・千本通りなのです。
はっちんも中学生の頃よく遊びに行きました。

はっちんの千本通りの行動範囲は、千本今出川から千本丸太町まで。

千本中立売から昔の遊郭があった五番町辺りまでが、
中学校の学区内 ということもあり、友人の家もたくさんありました。

中学生にとって千本通りは魅力的なストリートでしたね。

大きな総合スポーツ用品店や大型スーパー、最新のゲーム機を
入れたゲームセンターにしゃれた喫茶店、玉の看板が掛かる ビリヤード店など、
遊びに目覚めた中学生には見る物、触れるもの どれもみな刺激的で魅力がありました。

一旦、遊びに行くと、夜になって帰れなくて
最期には親や先生にきつ~く叱られたっけな~
今、思い出だすと、赤面至りですが、なぜか心ウキウキしてくる
楽しい思い出がこの千本通りにはいっぱいありますね。

昨日久しぶりに歩いてみると、その当時あった店は
ほとんど残って無く、溜まり場だった仲の良かった友の家は
マンションに変わり、誰とも出会う事も無かったです。

子供の頃、光り輝いて見えた千本通りのネオンも、
今では ひっそりおとなしく光っている様に感じました。

もうあの頃から随分、長い月日が経っていることを
改めてリアルに感じたはっちんでした。

今、千本通り(今出川~丸太町)では、
「朱雀大路・日本映画の発祥の地」と 銘打って、
商店街に活気を取り戻す 活動を積極的に行ってられる様です。

以前の様に、多くの人の往来があり、
東の河原町と並ぶ 繁華街として復活する日を
切に祈らずにはいられない はっちんでした。


*写真は千本丸太町交差点・北西に建つ、大極殿跡の石碑です。     
 大極殿跡は今では何も残ってなく、交差点横のある     
 小さな公園敷地内にひっそりと建っています。

嵯峨清涼寺のお松明に行って来ました!

2005-03-15 23:39:21 | シリーズ・京都を歩く
京都・嵯峨野に春を告げる嵯峨清涼寺の
「涅槃会お松明式」に行って来ました。

はっちんは黄金の輝く釈迦堂に同化するように
M-HEROの西陣織ハンティング帽子を
被り、行ってまいりました。

五山の送り火、鞍馬の火祭りと並び、京都の
三大火祭りに数えられる清涼寺のお松明は、
釈迦が入滅し、荼毘に付されたときの模様を
再現して行われる伝統儀式で、午後8時
から儀式がスタートしました。

儀式はまず、僧侶や檀家衆、町内会関係者が
拍子木を打ちながら長い竹棹に差したちょうちんを持って
境内中央に設置されたお松明・3基の周りを
3週します。
その間にお松明の横に造られた大きな護摩台に
火が灯されます。
この護摩焚きの火がお松明の火種になるのです。

僧侶のお経が流れる中、護摩焚きの火も勢いよく
燃え出し、いよいよ、お松明本体に火が点火されます。

点火は、護摩焚きの炎の中から火種となる護摩木を
取り出し、約7m以上はある長い竹棹で
お松明の上から、すべり落とします。

お松明の底に落ちた火種は最初、小さくくすぶったかと
思うと、みるみるうちに激しく燃え上がり
大きな炎の火柱を上げ出します。

勢いよく燃え上がる3基のお松明の炎が
暗い闇夜を赤々と染め出し、夜空を焦がし始めると
周囲で見物する人達から「おお~」という
大きな歓声が沸き起こりました。

しかし、ここで思わぬハプニングが!

赤々と大きな火柱を上げていたお松明の1基が
なんと!見物人目がけて倒れたのです。

その瞬間「キャー」「おお~!」という歓声とも悲鳴とも
とれる大きな声が見物客から沸き起こりました。
幸い見物客には火傷や怪我は無かったようですが
こんな事は滅多にあることではないので、
みんなビックリです。

また、勢いよく燃えていたと思っていた
お松明の1基が、中だけを燃やしただけで
焼け残ってしまいました。

この嵯峨清涼寺のお松明は、その年の
稲の豊凶を占う意味もある儀式であること
を考えると、お松明3基の内、1基は倒れ
もう1基は燃え残ったというのは
どう判断したらいいのでしょう?

今年も去年の様な、いや~な天候になるのでしょうか?
それだけはお許し頂きたいものです。

清涼寺では、今日だけ特別に本堂の無料拝観されていましたので
生身の釈迦といわれる釈迦如来像に参拝してきました。

しばらくすると江戸時代に書かれたという
釈迦入滅の姿「寝釈迦図」の前で
住職さんによる説法があり、拝聴してきました。

住職のお話の中で「釈迦の入滅される最期の教えは
『他者の羨んではならない』という事。自分の人生はただ
一つ一度しかないかけがえのないもの。他者と比較して
ならない」という教えが胸に染みました。

また、歌手の槙原敬之さんは大麻に手を出した後、
釈迦に帰依する事で立ち直れたという
エピソードも教えて頂き、その教えをもとに
書かれたヒット曲「世界でひとつだけの花」を
フルコーラスでお歌いなられたのにはビックリ!
でも毎日お経をあげられているだけあって
いい声でした。

お松明の燃え具合はいまいちでしたが、
何か心が洗われたさわやかな気持ちで
家路に着けた今年のお松明でした。

陰謀の鐘・方広寺

2005-02-28 23:09:26 | シリーズ・京都を歩く
昨日の書いた京都の大仏が建つていた方広寺は
大仏だけの話で終りにするには少し勿体ない
お寺なのです。

実はこのお寺で、秀吉の死後に日本の歴史を動かした
大きな事件が起こったのです。

その事件とは?

三回目の大仏さんが完成した慶長19年(1614)の
大仏落慶供養の時に起こりました。

大仏さん完成からさかのぼること7ヶ月前、
方広寺の梵鐘も出来上がっていました。

秀吉の子、秀頼はこの梵鐘の表面に
「国家安康・君子豊楽」と刻みました。

これを見た徳川家康は、烈火のごとく激怒したのです。
家康の怒りの理由は「国家安康・・」という文字に
ありました。
家康は「家康という名前の間に安をワザと入れ、
引き離して、亡き者にしようと願っている証拠!」と
言いがかりを付け、落慶法要すら中止にしてしまった。

何と、無茶な言いがかりにも感じるが、
関が原の合戦で勝利して以来、虎視眈々と天下を
狙っていた家康にとって日本一の金持ち大名・豊臣家の
存在は目障りであった事は想像に難くないでしょう。
何か口実があれば、豊臣に喧嘩を売り、葬っておきたかった
に違いありません。
家康がこの梵鐘の銘文を見たときの
小躍りして喜んだ姿が目に浮かぶようです。

そもそも、この大仏さんも建立自体、豊臣の
私財を削減さす狙いから、家康本人が秀頼と淀君に
再建を進めたといわれています。

家康の老獪な陰謀に、時勢を読むのが甘いぼんぼんの
秀頼では太刀打ち出来なかったのでしょう。

この事件を境に、慶長19年(1614)10月に「大坂冬の陣」
翌年5月には「大坂夏の陣」が起こり、秀吉一代で築いた
豊臣家は滅亡してしまうのです。

豊臣家の滅亡により、徳川幕府の基盤は磐石のものとなり
その後、約300年近くも日本国を統治していくことになるのです。

日本の歴史おも動かした、この梵鐘は今も方広寺の
境内に残っています。

*写真が方広寺の梵鐘です。