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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

嵐山亀山公園の角倉了以像

2006-10-02 20:02:15 | シリーズ・京都を歩く
嵐山にある保津川下りの着船場を上がると、すぐ左手に
小高い丘への登り小口に気が付きます。

この石畳の階段を登ると「亀山公園」があります。

小倉山の東南に位置するこの公園は、正式名称を「京都府立嵐山公園」といい
1910年に整備された府立公園で、園内を登りきった高台に
「亀山天皇陵」があることから亀山公園と呼ばれ親しまれています。

園内は、大堰川沿いを歩く観光客の喧騒がうその様に
閑静な空気に覆われ、遊歩道も整備されています。
深い木々に覆われ緑の豊かなその園内には、春は桜、秋はもみじが
色づき訪れる人の目を楽しませてくれます。

この亀山公園に私達「保津川下り」の生みの親・角倉了以翁の銅像があります。
実はこの銅像には私の過去の思い出が沁みこんでいる縁ある銅像でもあるのです。

この嵐山の地にあって眼下の保津川(大堰川)を開削、続いて高瀬川を開削する
など江戸時代より京都の産業振興に多大なる貢献した「京都の恩人」と
して建立されたもの。

銅像の横には「大堰川開削王・角倉了以翁」と記した石碑が建っています。

この銅像は「大悲閣千光寺」にある了以の木像とは異なり、しっかり
立ち上がって、眼下の大堰川を見下ろしている。手には開削事業の
象徴、ツルハシを握っています。
この了以翁の銅像は昭和63年5月28日に再建されたもので、
第二次大戦時に金属供出に協力するため、一度取り壊されていた。
この了以像の再建事業の発起人には、私が前職時代、師匠と慕い
大変お世話にもなった故・木俣秋水先生がなられている。
今、全く異なる船頭という職業に付いたもの、400年事業の委員と
して角倉了以翁の顕彰事業に携わっていることに、なんとも奇しき因縁めいた
ものを強く感じずにはいられません。

「角倉了以翁像保存会」と記された石碑に名を列ねる人たちも
よく存じあげていた方ばかりで、その名を眺めていると当時の
いろんなエピソードがスライドショーの様に甦ります。

保津川開削400年を迎えた今年、この亀山公園の角倉了以像の
前で、了以を点として、自分の「過去」と「現代」が
一つの線でつながった、そう感じた一日でした。


伝説の陰陽師・安部晴明の修行場が亀岡に!

2006-02-22 23:54:05 | シリーズ・京都を歩く
平安京とは桓武天皇が怨霊から逃れる為に
造営したと云われるところ。

平安の世の京の都は権謀術数と政権抗争に明け暮れ、
その犠牲のなった死霊に怯える魔界と化していたそうです。

そんな時代に天皇家や時の権力者から重用とされ
日本史を闇の世界から支配したといわれるのが陰陽師です。

その陰陽師の中でも、最も有名で力があった云われる
陰陽師がご存知、安部晴明。

その晴明が天文学を修行したと云われる山が亀岡にあるのを
ご存じでしょうか?

京都方面から国道9号線で亀岡市に入り、市役所の高い建物が
見えてくる所にマクドナルドがあります。その交差点を左折
するとモニュメントが立っている山が見えます。

この山こそ、あの伝説の陰陽師・安部晴明が修行したと
伝わる「安行山(あんぎょう)」です。

「安行」とは「安部晴明安行」という正式名から付けられた名前だそうです。

稲荷の赤鳥居が無数に並ぶ階段を最上段まで登りきった
頂上に「亀岡晴明神社」があります。

晴明は空気が澄み星座の観察に好条件だったこの地を選び
天文学の修行に勤しみ、日本の暦をつくったと伝えられている所です。

祠は小さく古いものですが、社の柱には晴明のトレードマーク
の五芒星が掘ってあり、確かに陰陽道のエネルギーの様なもの
を感じられる不思議な所です。


また、この山には稲荷神社も同じ敷地内にお祀りしてあり
晴明が稲荷信仰と深い関係であったことが窺えます。
稲荷とは「稲が成る」という言葉が変形して出来たとも
云われ、当時は天文学が農耕の目安となっていたのかも
しれないです。

フィクション化された晴明とは異なり、
天文学を極め当時の権力者の農業政策を指示した
と思われる学者・晴明の顔が垣間見えてもきます。

晴明はその基礎となる学問・占術をこの地で会得したのでしょう。

人ひとりとしていない、その空間に立っていると、
晴明の息吹が感じられそうで不思議な気分になりました。


亀岡には「安部晴明」にまつわる伝説が多くあります。

いつもラジオの渋滞情報でお馴染みの「国道9号線・加塚交差点」
も晴明が葬られたと伝わる「安行の塚」=安町加塚と呼ばれる様に
なったそうです。

京都の晴明神社などの隆盛とは大きくかけ離れた
ホントに小さな祠があるだけの寂しい「亀岡晴明神社」ですが、
不思議なエネルギーと平安のロマンを体感した気がします。

明日からやたらと勘が鋭くなっていたら・・・

スピリチュアルはっちんの誕生かも。



冬の京都・大原三千院で初午大根焚き

2006-02-16 00:00:33 | シリーズ・京都を歩く
冬の京都といえば「京都~大原三千院 恋に破れた女がひとり~」
の歌で有名な大原・三千院を思い浮かべる方も多いと思います。

延暦年間、あの伝教大師・最澄 によって建てられた草庵が
その前身といわれる古刹の山寺です。

京都に住みながら、はっちんがこの大原三千院を尋ねたのは
今回が生まれて2回目。
しかもその1度も小学生の頃なので、正直殆ど覚えていません。

その日三千院では「幸せを呼ぶ 初午大根焚き(はつうま だいこんだき) 」
という行事が開催されているという情報を聞きつけ、
久しぶりに家族で大原の地を訪れることになりました。

比叡おろしが吹く大原は、寒さが厳しい京都の中でも、最も冷え込む所です。
歌の様に「恋に破れた女の人がひとり佇む」にはお似合いの所かな~
なんて思いながら訪れたはっちんでしたが、三千院の山門をくぐると
人、人、人・・・観光客があまりにも大勢拝観されていたのでビックリ。
これも初午大根焚き目当てなの参拝者なのか?
何れにしても、こんな山里のお寺にこれほどの観光客を
引き寄せる力はさすがは「三千院」です。

金色不動堂前の境内で開催されていた初午大根焚きは
参拝者の皆さんの無病息災、開運招福を祈願し、毎年2月の
初午にあわせて開けれているもので、地元大原で有機栽培により
できた大根を使用し、振舞っておられるそうです。
その上、この大根は出世金色不動明王のご加護を戴ける様に
特別祈祷がなされているというありがたい大根です

お椀に出てきたのは、大根平均サイズの約3分の1はあろうかという
太い大根を炊き込んだもの。こんなに太い大根なのにしっかり内部まで
味が染み込まされていたのには驚きました。
一つ食べたら空腹を癒すのに十分のボリュームです。

大根を戴いている時、お寺のお坊さんが話し掛けて来られました。

お坊さん曰く「あまりに幸せそうなご家族なので、来年のうちの
ポスターに使用したいのですが・・」とのこと。
「え!天下の大原三千院さんのポスター・・・恐れ多い」
と拒んだものの、お坊さんに頭を下げられるとムゲに断ると
バチが当ると怖いのでお受けしました。

子供たちは面白がっていましたが、親の方はかなり不自然な食べ方だった
らしく、お坊さんから「もっと自然に普通に食べて下さい~」と
ありがたいアドバイスも頂きました。
何とか写真撮影は無事終了。

その後、お坊さんと三千院の由来や大根焚きの企画の話など
色々聞かせて頂くことが出来たので、内容の濃い三千院参拝
となったと今は喜んでいるところです。

聚碧園(しゅうへき)と呼ばれるお庭です。
靴を脱ぎ拝観できる客殿・見所台から望む庭園の風景は
その静寂の中に永遠の満ちた水を抱える池が広がり、
優美で立体感のある空間が迫ってきます。

心静かにこの庭園を眺めていると、心が浄化されるのを
確かに感じることが出来ます。

街の雑踏を暫し離れ、山深い里・大原の三千院に足を伸ばし
自分の心と対話する、そんな心安らかなひとときを
過ごしてみてはいかがでしょうか?


我が心の「金閣寺」

2006-01-31 23:56:05 | シリーズ・京都を歩く
京都の観光地といわれて最初に思い浮ぶのは「金閣寺」だ
という人も多いのではないでしょうか。

「金閣寺」・・・
内外を問わず京都観光でNO.1の人気を誇るお寺で、本名は
「鹿苑寺」という禅寺であります。

お釈迦さんの骨を祀った金閣本体の舎利殿は、3層造りで、各層
それぞれ別々の様式のつくり。
2層、3層に張ってあるまばゆいばかりの純金の箔、
衣笠山を背景とした池泉回遊式庭園の美しさには、
一瞬息をのんでしまう、京都の雅の象徴ともいえる建物です。


私が訪れた日は日曜日ということもあり、金閣寺門前には人だかりが。
まるで縁日のような雰囲気で、見物客の列が途絶えません。
この寒さにもかかわらず、海外からの観光客も大勢みられ、金閣寺人気の
高さを実感させられます。


門をくぐるとすぐ前方にきらびやかな光が差込み、目前に黄金の輝きを
みせる「金閣寺」が姿を現しました。その瞬間、私の周囲に異空間が
広がっているのを感じました。
太陽の光を浴び、一段と眩く光る金色の建物。この豪華絢爛な建物を
囲む静寂さを漂わす池とが無理なく溶け込むその空間は、人間が
造りうる人工建造物の最高傑作ともいえるでしょう。
いつもありのままの自然美の中で仕事をする私ですが、人工美の美しさに
身も心も魅了されてしまいました。


「美は・・・もう僕にとって怨敵なんだ!僕は金閣を焼かねければならない!」
学生時代に読んだ三島由紀夫の小説「金閣寺」の一場面が心に甦ってきます。
今にして思えば「奴の言わんとする意味」が少しわかるような気がした。
などと・・・変な感慨に一人浸りながら、金閣寺に陶酔していた私。

「お父さん~早く、いつまで観てるの~」と呼ぶ子供の声に
我に帰るはっちんでした。



足利3代将軍義満さんも、この船に乗りのんびり「和歌」なんぞ
詠んで優雅な人生を送っただろな~

実は、この金閣寺ある京都市北区衣笠は、私の生まれ育った故郷です。

金閣寺を拝観したのも10回では利きませんが、今、故郷を離れ12年。
改めてやってくると新たな感動と感慨混ざり合い、新鮮で不思議な気分でした。

少年時代、思春期頃、学生時代とその全てをこの衣笠で過ごした。

中学の頃、金閣寺門前に「口裂け女」が出没するとの噂もあったな~
学校帰りに門前で、好きだった子と時間が過ぎるのも忘れて話したな~
などいろんな思い出が懐かしく甦ります。

私の心の中の金閣寺は青春の象徴ともいえる地なのかもしれません。

いつの時代も黄金の輝きを絶やすことのなかった金閣寺。
懐かしい故郷の香りと相まって、私を濁りなき純粋な気持ちにさせてくれる、
最高のスポット。
金閣は私の心の中でも永遠に輝き続けることでしょう。

京の町家の三畳間ギャラリー・にしむらえいじワールド。

2006-01-27 00:28:10 | シリーズ・京都を歩く
京都の上京区、知恵光院通り下長者町を二筋西に入った
ところに、詩画作家にしむらえいじさんの「三畳間ギャラリー」
があります。

ここは、今から420年前に豊臣秀吉が平安宮内裏の跡地に
築かせた城郭、聚楽第跡である由緒ある場所。

その歴史情緒ある京町家が並ぶ一角に
にしむらさんの「三畳間ギャラリー」はあります。


にしむらさんは以前このブログでも何度も紹介したとおり、
素直で心温まる詩に、ほのぼのとしたかわいいイラストで
若い人たちに人気の新進気鋭の京都の詩画作家さんです。

私はっちんとにしむらさんとのお付き合いについては2005年10月11日付け
ブログ記事に詳しく載せさせて頂いてますが、話をしていると
物事をいろんな角度からみる事に気付かせてくれる大事な‘友達’です。

この日は我が子の小学校の先生がにしむらさんの詩集を読み、
いたく気に入られたらしく「是非、購入したい!」との願いから
サイン付き詩集をお願いするべくお邪魔しました。


にしむらさんの住居でもある「三畳間ギャラリー」内の様子。

「ごめんください~」と木戸を開け玄関に入ると昔懐かしい
京都の土間に、一段高くしてある長めの石が置かれていて
その上で靴を脱ぐのも昔の京都スタイル。
黒く太い張りと土壁という内装などすべてが昔の京都のままで、
作品同様、ほのぼのとした気分にさせて貰える
なんとも落ち着ける空間です。
ギャラリーの横にある角度の急な階段も正しく京都らしくていいです。

ギャラリー内には、今まで制作した作品数点が額に入れて飾ってあります。
また、作品のポストカードや紹介された雑誌等が棚の上にたくさん
置いてあり、にしむらワールドが三畳間いっぱいに広がります。
3畳間なのに不思議と狭く感じないのは、作品の奥行きが心の広角を
広げているせいでしょうか。

昼間には近所の子供たちも遊びに来るらしく、ゆっくり楽しんで
もらえる様、棚の下には学研本や童話集などたくさん並べられてあり
さながら小さな児童図書館のようです。

ここにも、近所付き合いが濃い京都のよき伝統が今も
残っている事を知り、嬉しい気分になりました。


「のぞみはいろいろあるけれど まずはあなたがいればいい」
私はっちんの一番お気に入りの作品です。
知り合いが結婚される時には、必ず御祝いの品として
送っている作品でもあります。

難しいことが書いてある訳でもない。豪華な絵画が描かれている訳でもない。
それでも、じっと見ていると、複雑な心の糸が少しづづほぐれ、温かい
体温を感じれる、これがにしむらワールドの世界だとはっちんは思っています。


にしむらさんは、京都FM797・ラジオカフェ
月最終土曜日の深夜1時30分~2時放送の
 にしむらえいじの『アカルイ☆ミライ』
のパーソナリティーとしても活躍されています。

今月1月は、はっちんの友人で義兄弟でもある
東映京都の俳優・加藤寛治さんが出演されます。
少し時間は遅いですが、京都周辺の皆さん、
是非、聴いてあげて下さい。

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にしむらえいじ「三畳間ギャラリー」
〒602-8179 京都市上京区下長者町通裏門西入坤高町75-2
電話(075)-451-3533

詩集「しんぱいしないで」 一部1200円 詩集画 一枚1000円~
ポストカード 一枚150円~

史跡?or心霊ミステリースポット?・老ノ坂峠

2006-01-22 22:08:47 | シリーズ・京都を歩く
京都方面から国道9号線を亀岡に向かうと、老ノ坂トンネル手前に
左に入る細い山道が今でもあります。
その先にある峠が、旧山陰街道で京都市内(山城国)と
亀岡(丹波国)を隔てる境となった‘老ノ坂峠です。

古くから京都洛中の西の玄関口とも云われ、山城、大和と
山陰を結ぶ重要な道で、人、物資が往来する交通の要所となった峠。
また、政治・軍事的にも都を死守する最前線ラインに位置する
西の最重要場所だった所です。

その性格からか、老ノ坂峠は旧来、歴史の変革期にはよく登場し、
明智光秀が織田信長を討つ時に通った‘地’としてあまりも有名です。

天正10年(1582)5月、主君織田信長に、中国備中で毛利勢に
苦戦を強いられていた「羽柴秀吉を助けよ!」との命を受け、
居城がある丹波亀山城(亀岡)から約一万3千の兵を率いて出発
した明智光秀は、老ノ坂の峠の頂から、じっと目を閉じ瞑想一刻、
東の都を指しながら、やにわに鞭を振り上げて「敵は本能寺あり!」
と、主君織田信長を討つ決意を表したのです。

当時、老ノ坂峠の頂からは淀や伏見が見渡せたらしく、
西に向かえば山崎から備中方面、東に向かえば信長のいる都だったのです。

峠の頂近くにある酒呑童子の首塚大明神を過ぎた所に「従是東山城国」と
刻まれた山城丹波国境石が今でも立てられています。
以前は道の両側に相対して立っていたそうですが、今は一基のみが
残っており、もう一基は京都国立博物館に寄贈されその庭に移されて
いるそうです。この境石の所から東が京都山城、西が丹波国とされた様です。

ところが・・・現代ではこの老ノ坂峠、夜な夜な霊が彷徨うと
いう噂がある、京都でも有名な心霊ミステリースポットとなっています。

その噂の原因となったのが、この廃墟となった「モーテル跡」です。

事実、このモーテルでは、今から数年前に若い女性が惨殺される事件が
あったといいます。

その後廃業となったこのモーテルは、買い手もつかず、取り壊される
こともなく、現在にその荒れ果てた姿を残しています。

心霊現象と聞くと、調べずにはいられないはっちんは、この
モーテル跡に潜入し、何かを感じれるかと行ってみました。

車一台が通れるのがやっと細い道沿いにあるこのモーテル。

昼なのに駐車しても一台も車が通らない寂しい道。
なにやら息苦しく重たい空気が確かに流れているような所です。

モーテル入り口にはフェンスと有刺鉄線で入れない様にしてあるのですが、
誰かが噂を聞きつけて肝試しにでもくるのでしょう。フェンスが
ちぎられた痕があり、そこから入ることが出きました。

玄関の扉すらない廃墟モーテル。中は原型をとどめないベットや
椅子、テーブルが散乱しています。

足元を確認しながら進みますが、ひとりで来た事を少し
後悔させられそうな予感が走ります。

そして・・・!!それは起りました!!!

もうこれ以上は申しますまい!

なぜ、モーテルの中の撮影写真がないか・・・それからお察し下さい。

とにかく、近寄らない方がいいところである事は確かです。


今の国道9号線の老ノ坂峠である、トンネル付近です。
亀岡からこのトンネルをくぐると京都市です。

闇夜に出没した‘鵺’(ぬえ)伝説

2005-12-27 14:57:43 | シリーズ・京都を歩く
昔、映画のCMで「鵺の鳴く夜は恐ろしい」
というコピーがあったのをご存知でしょうか?

一世を風靡した角川サスペンス映画の
CMでしたが、なんともおどろおどろしい
語りで、初めて聞いた時、背筋が
寒くなったを覚えています。

そのCMにも使われた‘鵺’にまつわる伝説逸話が
京都洛中にもあり、古くから京都人の間に
恐怖話として語り継がれています。


鵺(ぬえ)とは、陽が沈んだ暗黒の闇に生息する怪鳥で、
「平家物語」(第四巻)では
「頭は猿、胴体は狐、尾は蛇、手足は虎の如く」と表現されており
鳴声も不気味な奇声を発していたと伝えられています。

言い伝えによると、仁平年間(1151~54)の頃、丑の刻に
なると東の空に黒雲が広がり、太極殿や天皇の住まいなどが
ある大内裏上空までも覆いつくしました。
その黒雲から怪しい鳥のような鳴き声が聞こえてきて、
当時の近衛天皇が非常に怯えていたといいます。

そこで御所を警護していた源氏と平家の中から
弓の名手・源頼政が選ばれ、鵺退治にあたりました。

頼政はいつもように黒雲が広がってくるのを見計らい、
雲の中いる怪しい生き物目掛けて、矢を放ちました。

奇声を発して落ちてきた鵺に、頼政の家来達が刀で
トドメを差したのです。

仕留めた!という手応えがあった後、松明で
照らしてみたその姿が、上で述べたような怪鳥の
さまだったのです。

この時に頼政が矢のやじりを洗ったといわれる池が
二条城の北側ある「二条公園」に今も残っています。


鵺池といわれる馬のひずめ形をしたその池は、公園の最北西の角に
あり、足首ほどの浅い池です。今はきれいに整備されていますが
以前は池の周りを木々が生い茂り池水も殆どなく、逸話を実感
させる不気味な雰囲気を漂わせていました。

池の右側に退治された鵺を祭る「鵺神社」が建っています。

この「二条公園」は昭和9年に開園された児童公園で、
平成16年に平安京時代の遺跡跡(地業所や側溝など)を
復元整備されました。
平安京の頃は、宮内大路が通っていた場所。
太政官や宮内省、園韓神社などが建ち並ぶ中心地でした。
今は二条城とNHK京都支局に挟まれる位置にあり、
市民憩の公園として広い年代の人に利用されています。

また、この逸話以外にも不気味な話がいくつかある
公園として有名で、また機会があればお話したい
と思います。

京都太秦撮影所に行ってきました!

2005-11-28 00:01:29 | シリーズ・京都を歩く
紅葉もピークを迎えた今週の京都。

遊船も本当に忙しい毎日でした。

昨夜はそんな疲れもすっきり癒される
楽しい時間を過させてもらったのです。

昨日は東京からお客様が、京都に遊びにみえられた
ので、夜から東映の太秦撮影所の見学に行ってきました。

お客さまのお泊りの旅館にお邪魔し雑談を
している時、ご存知東映京都の親分・かとちゃんが
今、撮影所では「水戸黄門」や「大奥」の
撮影をやっていて「夜も大奥の撮影があるから」
と教えてくれたのでみんなで見学に行くことに。

行ってみると撮影は終了したところで、残念ながら
撮影風景は見られませんでしたが、俳優会館には
入れてもらい‘憧れの高倉健さん’のお部屋を
見学することができました。

東映京都の俳優会館は2階にいわゆる‘大御所’と
呼ばれる俳優さん達のお部屋が並び、そのお部屋の
上にはお名前の札が差してあります。



健さんのお部屋は今随時利用されなくても
残してある永久保存のお部屋です。
東映京都では健さん信者も多く、健さんは神様です!
一緒に行ったお客様の奥様も健さんの大ファンで
あられるらしく「健さんもこのノブを触れられてたのね」
さりげなく手ノブに触れていましした。
「すご~く、その気持ちわかります!!!」
とはっちんも思わずドアのノブに手を運びました。


水戸のご老公・黄門さまこと里見浩太朗さんのお部屋です。
東京明治座の公演・新撰組花かんざしは、感動のストーリでした。
また、2部のダンスと歌のレビューもカッコよかったです。

マツケンサンバの大ヒットで、新たな境地を見出した感の
ある`上様’こと松平健さんのお部屋です。

隣には松方弘樹さんや村上弘明さんのお部屋もありました。


3階にはご存知、助さんこと原田龍二さん達のお部屋がります。

原田さんは、格さん役の合田さんや鬼若役の照英さんと
一緒のお部屋です。3人はとても気の合う仲良しだ
そうです。でもなんと可愛い名札でしょう!
これは水戸黄門のキャクラーグッズか何かでしょうか??
原田さん、よかったら教えて下さい。


俳優会館にはメイクやカツラ合わせをする化粧室もあります。
時代劇で使うちょんまげ頭や日本髪のカツラが所狭しと
並べてあり、撮影前の混雑が容易に想像できます。
以前、撮影時間内にこの部屋に案内された時、
有名な俳優さん方がすのままでメイクをされて
いたのには驚いた覚えがあります。

残念ならが今回は撮影本番に遭遇できませんでしたが、
‘憧れの健さん’を身近に感じられ、それはそれなりに
昨今の疲れが十分癒せる、楽しいひと時でした。

東京のお客様も大いに満足されたご様子で、
観光名所とは違った夜の京都を楽しまれたのでは
ないでしょうか?

今度は撮影の本番を見学したいですね。

嵐山もみじ祭り、今年も見られなかった・・・

2005-11-13 18:59:10 | シリーズ・京都を歩く
今日は‘嵐山もみじ祭り’

好天に恵まれた渡月橋上流の大堰川一帯には
能舞台船や狂言台船など嵐山にゆかりの深い、
芸能文化の趣向を凝らした飾り船が、
午前10時と午後1時の二回、川に浮かべられ、
平安王朝の舟遊びを再現しました。


お蔭で、上流の保津川下りも大盛況でした。

今日も3回、嵐山へと下らせてもらいました。


しかし今年も、もみじ祭りの船が浮かべられる
時間に遭遇できませんでした。

確か去年も3回下り、一度も見る事が
出来なかったと記憶しています。

雅楽の音色とともに、まるで平安絵巻から
出てきたような優雅で美しい舟の演舞の
数々、その横を保津川の舟ですり抜けていく
事を毎年楽しみにしているはっちんと
してはかなり残念でした。



二回目に下った時は、舟が浮かべられる前の
祭儀が執り行われていました。
もう少し、後で下っていたらばっちり
遭遇していたのですが・・・


3回目に下った頃には、飾り船の撤収作業に入られていました。

という事で、今年ももみじ祭りの様子と写真は
撮れず仕舞いでした。


でも今年も雨が降ることなくもみじ祭りが
開催されてよかったです。

確か2年前は雨で中止になったと記憶してます。

この嵐山の美しい景観と清らかな水が守られる限り、
この地はいつまでも多くの人々の
心を捕らえて離さず、永遠に愛され続けていく
と感じたはっちんでした。

嵐山・渡月橋の今昔

2005-10-28 17:40:56 | シリーズ・京都を歩く
ここ数日の朝晩の冷え込みの
お蔭で保津峡の木々もほのかに
赤く色づきはじめました。

いよいよ京都の秋本番近しですね。

嵐山にも観光客の姿は増えれてきました。

京都観光には欠かせない嵐山。
その象徴といえるのが‘渡月橋’でしょう。

渡月橋は、平安時代・承和3年(836)に空海の弟子、
道昌が大堰川を修築したおりに架橋されたもの
といわれ、川の対岸にある法輪寺にお参りする
為の橋として使われていました。
当時は「法輪寺橋」や「嵐橋」と呼ばれていたが、
亀山上皇が夜空に月がさながら橋を
渡る様に見えるときに「くまなき月の渡るに似る」
と語られたことで「渡月橋」と呼ばれる様になった
といわれています。


この写真は幕末・維新時の渡月橋です。都が東京に移って
人通りも少なく、ひなびた感じになっています。
細い丸太で橋脚と土台を造り、竹を敷き詰め、土で
固める構造です。
当時の渡月橋は洪水の度に流れていたそうです。


上の写真と同じところから撮った今の渡月橋です。

室町時代には嵯峨・天竜寺の勢力が強く、今架かっている場所から
約100m上流の天竜寺の門前に架けていたそうですが、
角倉了以が保津川開削の折、今の場所に戻したと云われています。

ちなみに角倉了以は莫大な天龍寺造営費用を捻出する為、
中国・元との貿易事業を進めたといわれ、その船は‘天龍寺船 ’
と呼ばれていました。


上の写真は明治時代の渡月橋の風景です。
橋の橋脚に筋交いが入れられ強固なものとなっています。
文明開化により土木技術も飛躍的に向上したの後が伺えます。

今の渡月橋です。
明治期の橋も洪水には勝てず、2度も流失したそうです。
今の橋は昭和9年に架けられた橋で、鋼鉄を使ってある
ので、平安の世からの流れ橋としての歴史には
終止符が打たれました。

今の橋は明治期の橋より少し下流に架かっています。

京都の人は子供が十三歳になると、京都嵐山の法輪寺にをお参りして、
知恵の仏様「 虚空蔵菩薩 」( こくうぞうぼさつ)に 、
知恵を授かりに行く風習がいまでも残っています。

知恵を授かる祭事を行った後は、渡月橋を渡りきるまで
「けっして振りかえらないように!」と約束させられます。
これは「約束を守る」という大人の自覚を持つという
意味があります。
たぶん丸太橋の頃は、下を見たら怖くて振りかえると
川へ落ちてしまうという意味もあったと思われます。

そんな言い伝えがいつしか
「カップルで渡る時、振り返ると別れる!」という
変な噂になっているのは面白い話ですね。

私達、保津川下りの船頭は毎日、この橋の下を
船で潜って、クレーン場まで片付けに行きます。
下から見る渡月橋の姿は・・・内緒にしておきますね。