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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

京都に大仏さんがあった?

2005-02-27 18:20:44 | シリーズ・京都を歩く
皆さん‘大仏さん’と聞いて思い浮かぶのは
奈良の大仏さんに鎌倉の大仏さんの二つだと
思います。

しかし、京都に奈良の大仏さんを凌ぐ巨大な
大仏さんがあったのをご存知でしょうか?

‘あった’ということは、今はないということですが、
この大仏さん、何と造建以来、四度再建され、五度崩壊した
という悲劇の大仏さんなのです。

大仏さんが建っていたのは東山七条手前を北に入った
豊国神社横の方広寺(こうほうじ)です。
周辺には京都国立博物館や三十三間堂があります。

隣に豊国神社があることでわかるように、大仏さんは
天正14年(1586)に豊臣秀吉の命により着工され
文禄2年(1593)に完成しました。

この大仏さん、高さが19mで(奈良の大仏16m)
大仏殿の規模も高さ50m、前面82m、側面57mと
巨大なもので、奈良・東大寺の大仏殿を凌ぐ大きさ
だったといわれています。

本体は鋳造(ちゅうぞう…金属を溶かして鋳型に流し込んで造る)
ではなく、木造で造られ、漆を塗り金箔が殿内に輝くという
権力を顕示することを好む秀吉らしい大仏殿でした。

しかし3年後に関西を襲った慶長大地震で崩壊し
2年後に秀吉もこの世を去りました。

慶長7年(1602)に秀吉の子、秀頼によって大仏鋳造が
行われるも、完成真近に出火し焼失しました。

慶長16年(1611)には徳川家康の進めにより、
鋳造大仏は再建されましたが、またしても
寛文大地震(1662)で大仏、大仏殿ともに
倒壊してしまいました。

余談ですが、秀吉亡き後、天下を狙っていた
徳川家康が何故?豊臣家に大仏の再建を進めたか
は、秀吉の悲願である大仏建立に対する豊臣家の
思い入れに付け込み、財力を削減させる狙いがあったとも・・・

寛文7年(1667)に木造金箔漆造りの大仏が再建されるも
3年後寛文10年に落雷により炎上焼失。

その後天保14年(1843)に尾張の信者の手で木彫の大仏さんが
再興されましたが、この大仏さんも昭和48年(1973)に
またしても火災により炎上、焼失してしまいました。

その後大仏さんは再興されていません。

こうしてみる限り、本当に悲劇で薄幸な運命を
辿った京都の大仏さん。

京都の大仏さまは、当時の権力の全てを握った秀吉が
旧平安京・大内裏跡地に造営した聚楽第と並び
栄華の象徴といわれています。

しかし日本一巨大な京の大仏さんが辿った運命は、
その施主・豊臣秀吉が辞世の句として残した有名なうた
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
に表されるように、一時の栄華もいかにはかないもので
あることを教えてくれている様な気がしてならない
はっちんなのでした。

*写真は大仏殿跡地です。今は大きな石垣だけが
 当時の大仏殿の巨大さを物語っているようです。
 
*交通は市バス博物館三十三間堂前から徒歩5分/
〈豊国神社〉時間:宝物館のみ午前9時~午後4時30分/
 宝物館入観料:一般300円・大高200円・中小100円/
 お問合わせ 先:℡(075)561-3802
〈方広寺〉時間:本殿のみ午前9時~午後4時/
 本堂拝観料:一般200円・中学以下100円/
 お問合わせ先:℡(075)561-1720



北野天満宮の梅花祭

2005-02-22 22:16:18 | シリーズ・京都を歩く
学問の神様で有名な京都・上京区の北野天満宮では25日、
恒例の梅花祭が開催されます。

この祭りは、祭神・菅原道真公の祥月命日に行われる祭典で、
「 東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
主(あるじ)なしとて春を忘るな 」
の銘歌を詠まれるほど、道真公が梅の花を
愛されたことから、鳥羽天皇(1109)が2月25日に
開催したもので、約900年もの古い歴史を持っています。


北野天満宮には約2万坪の境内に50種約2,000本(門内・梅苑各1,000本づつ)
の縁の梅が植えてあり、早咲きの梅は例年12月中旬頃
からつぽみがふくらみ始めます。
咲くのは例年、正月明けで冬至梅・照水梅・寒紅梅等が
咲き始め境内一円を梅の香りで包み込みます。

また、境内では「梅苑」も同時開催されており
紅梅・白梅などが咲いている庭園の散策が出来ます。

「梅苑」内には、天正17年(1589)に豊臣秀吉公が
京洛の区域の境界と水防の為、京都の四囲に築造した
御土居(国指定史蹟)の一部が残っており
梅苑内で同時公開されています。

北野天満宮は言わずと知れた学問の神様、菅原道真公の
御霊を鎮めるために天暦元年(947)に創建された神社で、
全国にある天満宮、天神の中心社でもあります。

平安の昔、右大臣大将の任にあった道真公が、
左大臣藤原時平と醍醐天皇の陰謀にはまり
九州福岡の大宰府に左遷され、失意の最後を
告げる事件がありました。

その死後五年、道真公の左遷に関係したものが
次々と亡くなる出来事がおこりまた、大干ばつに
見舞われた京都を対策を練っていた清涼殿に
稲妻は落ち、二名が死亡、その3ヶ月後に
とうとう醍醐天皇にまでおよび崩御するという出来事
が起こったのです。

当時の京の人達は道真公の呪い、祟りと噂し始め
この怨霊を鎮める為に北野に天満宮を創建したのです。

こう考えると天満宮は呪い深い悪霊を鎮める
神社で、受験生が御参りしたら、意地悪されそうな
気がするのですが、どうでしょうか?

「通りゃんせ~通りゃんせ~」という童謡を
ご存知の方も多いと思いますが、これも
天神さんの参拝の様子を歌ったものですが
聞くほどに不気味な内容が隠されている歌
だといわれています。

ちなみに北野天満宮の保留音はこの「通りゃんせ」
です。

(1)【梅花祭神事】午前10時(於本殿)
★祭典を奉仕する神職等は、冠に菜の花を
 つけ奉仕(菜種が宥(なだめる)に通じる)
★皇后陛下の御代拝(宮内庁京都事務所の所長)

(2)【野点】午前10時より午後3時まで
  (於絵馬所・上七軒歌舞会協賛)
★天正15年(1587)豊臣秀吉公が当宮境内で北野大茶湯を
 催した故事に因んで上七軒総出(芸妓15名・女将15名)の奉仕により、
 御祭神菅原道真公1050年大萬燈祭あたる昭和27年から
 毎年「梅花祭野点大茶湯」を開催する。
★境内の梅も見頃となり、馥郁たる雰囲気の中
 多くの参拝観梅者で賑わう。

(3)【献書・献花】京都文教女子中学校・高等学校(於本殿前西廻廊)

 ■野点拝服:有料1,500円
(拝服券・宝物殿拝観券・撤饌引換券=三連券)
 1月25日より拝服券頒布・先着3,000枚限り

 ■厄除玄来:1袋100円

 ■梅苑公開:有料

日本武道の殿堂・旧武徳殿

2005-02-11 22:19:43 | シリーズ・京都を歩く
平安神宮の西隣に建つ旧武徳殿は、
平安遷都1100年を記念し武術の振興を図る目的で
設立された大日本武徳会によって、
明治32年に建設された武道場です。

観光客で賑わう平安神宮の喧騒をよそに、その建物周辺には
人通りも少なく静かにひっそりたたずんでいます。

現在は向かいに建つ京都市武道センターの併用施設として、
合気道・剣道・長刀・柔道等の武道道場として
用いられています。

武徳殿は、伝統的な形式に則りながら変化に富んだ外観を持つ点や、
演武場と観覧席からなる簡素な空間構成、四方に大きな開き扉
を設置し外の明りを広く取り入れる工夫が凝らしてあるのが特徴です。

我が国の武術の振興とその近代化に大きく貢献した
近代的武道施設を代表するものとして貴重な武道場なのです。

重要文化財に指定されている旧武徳殿は建物保存という見地から
一時期、一般に使用されることを控えられておりましたが、
近年また演武会や大会に使用されるようになったようです。

空手という武道をたしなむはっちんにとっても
この建物は特別な思い入れがある、まさに聖地なのです。

明治の時代、武士の技術と精神を継承する為、時の政府の肝いりで
京都に大日本武徳会が組織されました。
武徳殿はその本部道場でした。また隣には、武徳会が
後進の育成を目的に創立した「武道専門学校」があり
学生達の練習場でもありました。

武道専門学校は京都では略して武専と呼ばれ、剣道、柔道の
選りすぐりの猛者たちが日本中から集められたまさに武道の
エリート学校です。
そのバンカラさは当時の京の町衆達の目を引く存在だったようです。

武専は漫画「龍(ロン)」で主人公の龍が剣道の修行をした
ことでご存知の方もおられると思います。

厳しい世情を背景に武道を極めんと志した先人達の
血と汗と涙が染み付いた建物がこの武徳殿なのです。

はっちんが初めてこの武徳殿の門をくぐったのは今から10年前、
ある空手組織の来賓として招かれ時でした。
当時では武徳殿を使用することが珍しいこともあり
その時の記憶は決して忘れることはないくらい衝撃的でした。

武道に青春を燃やした先人達の熱情と鼓動が武徳殿の柱一本一本から
伝わってくる様な気がして背筋に張り詰めたものを感じずにはいられません。

今は武徳殿を使った空手の大会も珍しくなくなってきています。
はっちんは現役時代に一度もこの武徳殿で
戦うことができませんでした。
悔いは確かに残ってますが、その思いはわが道場の弟子達が
引き継いでくれることだと楽しみにしています。

*写真は武徳殿正面です。資料によると設計は京都府技師だった松室重光。
 その後大正2年に同技師亀岡末吉の設計により、北側上段に玉座が設置し
 皇族用に車寄を増築しました。観覧席も二段から三段に改造しています。
 和風の外観ですが,洋式トラスを用いた構造です。
 中央部分を武道場に,周囲のもこし部分をお座敷型の観覧席に当てています。

京の五条の橋の上

2005-02-09 23:33:03 | シリーズ・京都を歩く
京都の繁華街の中心、四条河原町の交差点を
約1kmほど南に下がると五条通りが通ってます。

その通りの東方に鴨川に架かる橋「五条大橋」があります。

片側2車線の大きな橋で、この五条通りも西国と関東を
結ぶ国の大動脈です。一部昔の東海道とも重なります。

この五条大橋こそ、平安の昔、牛若丸と弁慶が決闘した
ことで有名なあの「京の五条の橋」です。

もっとも今の五条大橋は後年、豊臣秀吉が架けたもので
平安の頃はすぐ上流に架かっている松原橋の位置に架けて
あったそうですので、厳密には今の橋ではないのですが、
名が残っているからなのでしょうか?
京都では五条の橋いえば今の橋をいうようです。

先日、NHK大河ドラマの「義経」で決闘の場面が
やっていたので、久しぶりに行ってきました。

はっちんがこの橋を徒歩で渡るのは二度目で、
幼き頃、母に連れられこの橋を渡った記憶があります。

母はこの橋の上で牛若丸と弁慶の話をしてくれました。
「都の人達に恐れられた弁慶というこわ~い荒法師が
夜な夜なこの橋に現れては、平家の人達などから
太刀を奪っていた。その数999本」
「その夜も千本目を奪おうと待っていました」

もうすっかり聞き込む幼きはっちん。

「そこへ牛若丸がやって来たのです」
「牛若丸は稚児姿の美しい少年で、笛を吹きながら
橋までやって来た。女の人の様な美しい牛若丸でしたが
鞍馬の山で天狗を相手に剣術の修行をしていたから
腕に覚えありです」

幼きはっちんにとって、牛若丸の登場シーンは
まさにヒーロのそれとすっかりかぶったのです。
「それでどちらが勝ったの?」
話の先を急かす幼きはっちん。

そこからは皆さんご存知の通り、弁慶の大なたを
するりとかわし、あちらと思えばばまたこちら
橋の欄干の上を飛び交わす飛燕の早業で弁慶は降参したのです。

話を聞き終わっ時「この欄干に立ったのか~すげ~な」と
感心して大きな欄干を見上げたことを覚えています。

今、その同じ欄干と再会してきました。
しかも同じ目線に立って。
その目線を静かに閉じると、遠い日の親子の
姿が明々と浮かんできます。
感慨深くって、しばらくその記憶に浸ってしまいした。

本当に年月の経つのは早いものです。

もう、「欄干の上に立った」など信じることも
出来なくなった自分に少し寂しい気分です。

幼きはっちんのヒーロだった「牛若丸」も
後に学校の歴史の時間に「源義経」として
学び、学術的という名で検証され
その実像を知識として知るに至りました。

弁慶との出会いや五条の橋の決闘の内容も
史実的には?が付くといわれ、幼き頃の夢も
覚めてしまいましたが、兄頼朝に追われ、落ちていく
義経と最後まで離れることなくお供した弁慶。
その男気の事実だけは、はっちんの胸を今も熱くしてくれるのです。

*写真は五条大橋の西詰めにある「牛若丸と弁慶」の石像です。
 橋のシンボルとして、今から40年ほど前に造られたものだそうです。

魔界がつくった都・京都

2005-01-30 23:14:59 | シリーズ・京都を歩く
「鳴くよウグイス平安京」・・・学生の頃、歴史の
年号を覚える時に語呂あわせで覚えた人も多いのでは?

そう‘鳴くよ’とは西暦794年の事で、今の京都に
平安京という都が移された年のことです。

以来、千年以上の長きにわたり日本の都であった京都。
その誕生にはいかなる理由があったのでしょう。

京都は遷都前‘山背の国’(やましろ)と呼ばれていました。
山背とは今の奈良県大和・平城京の後背地を意味していました。

時の天皇・桓武天皇は巨大になり過ぎた奈良仏教と僧侶の
政治への介入を嫌って、新天地への遷都を計画、
山紫水明の地で水陸の便のいい山背国が選ばれました。
ここまでは歴史の時間に習いましたね。

でも理由はぞれだけではなかったというのです。

それだけの理由なら平城京から最初に遷都された長岡京はなぜ?
10年足らずで遷都が必要だったのでしょうか?
平安京の遷都の裏には‘呪い、怨霊’の姿が見え隠れするというのです。

元々、皇位から最も遠い系統であった桓武天皇は、即位するまでに多くの
肉親たちを踏み台にしていきたと伝えられています。

平城京から遷都した長岡京は桂川流域に位置し、遷都後何故か?
度重なる大水害に見舞われました。
また、自分の側近を暗殺した罪で弟・早良親王(さわら)を獄死させた
事で、早良の怨霊に夜な夜な悩まされ、挙句に自分の夫人や母、皇后が
立て続けに突然死し、息子も原因不明の病気に襲われました。

絶大な武力と権力を握っていた桓武天皇は決して気弱な人ではなかったのですが、
こうも立て続けに天災や不運が重なると今ままで踏み台にしてきた人達の
怨霊の祟りでは?と不安になるのも無理もないこと。

そんな呪われた都からは早く逃れたいとの思いから、山背国に
遷都を計画し、自身の平安を得ようと‘平安京’と名づけたそうです。

平安京を造営するに際し、あらゆる宗教者を総動員して呪術の防御システムの
結界を張り廻らしました。
主に古代中国の風水が用いられ、碁盤の目に街を整備し、
街そのものを結界で繋いだのが今の京都なのです。

結界を結んでも効力がなれば、御霊神社や寺院を建て呪いを沈めてきたのです。
京都に今でも神社仏閣が多いののもその名残りなのです。

魔界と戦い封じる為に造られた街、それが京都誕生の真相でもあります。

そう思い京都を歩くとまた、ちがった楽しみ方が出来るのでは・・・

*写真は京見峠からみた京都の風景です。






鴨川には二つの呼び名が?

2004-12-27 23:07:11 | シリーズ・京都を歩く
京都の川と聞かれて一番に思い浮かぶ川とはどの川でしょうか?

保津川下りの船頭をしているはっちんとしては「保津川!」と
いって欲しいところですが、残念ですが違うみたいですね。

京都の川といえばやはり「鴨川」が一番人気なのです。

京都の中心地を流れ、三条、四条周辺は京の夏の風物詩・「納涼床」や
カップルが均等間隔で座ることで有名な憩いのスポットとして
多くの人たちに親しまれているのはあまりにも有名です。

また、平安京遷都以来、1200年もの間、京都の歴史を見続けてきた川でもあり、
山紫水明の地・京都の象徴であるとともに、氾濫・洪水で度々都人を
苦しめ、時の大権力者・白川法王をして
「鴨川の水と賽の目、叡山の僧兵は意のままにならないもの」と
三不如意あげるほどの暴れ川でもあったのです。

そんな「鴨川」。上流と下流では同じ「かもがわ」でも
漢字が違う川名になっているのをご存知でしょうか?

大原から流れてくる高野川との合流点・出町柳を境に、
上流を「賀茂川」、下流を「鴨川」と二つの呼び方に分けているのです。
ではどちらが正しい呼び方なのでしょうか?

保津川も大堰川、桂川など呼び名を変えて下流に流れて行きますが、
「かもがわ」は呼び名は同じで、漢字が違うだけなのが不思議でした。

謎は解明しなければ気が済まないはっちん。少し調べてみました。
河川管理者である京都府土木事務所に聞くと「鴨川」が正式な名前で
これは明治政府により制定されたそうです。

しかし、今でも地図には二つの呼び名で書かれています。
地元の人に聞くと「昔ここに住み着いた賀茂氏という豪族が名付けた」と
いうことが分かってきました。

平安遷都以前の昔、大和の国から賀茂氏という豪族がこの川の流域に移住し、
勢力を誇っていました。その賀茂氏が農耕神を祀る県主神社として建てたのが
上賀茂神社と下鴨神社といわれます。

賀茂氏は河川に沿うこれら神社の名前及び土地名を取り、振り分け、
上流にある上賀茂神社付近を流れる川を「賀茂川」
下鴨神社がある高野川合流点から下流を「鴨川」と
呼ぶようになったのが二つの呼び名で分けられる理由らしいのです。

三条大橋や四条大橋から眺める「鴨川」は、北山まで一直線に見渡すことが
でき、碁盤の目に整備された京都のダイナミックスさと美しさを実感できます。

また、上流の「賀茂川」は、なだらかな川堰の段差が清らかな流れを
より一層際立たせ、背景の美しい北山の山波と相まって、
京都の雅を象徴する清らかな風景が広がっています。

上流も下流も1000年の古都・京都を象徴する美しい川、
それが「かもがわ」なのです。

有史以来の雄大な自然を残す我が「保津川」とは
正反対の美しさをもつ「かもがわ」。

ともに京都を訪れる人を魅了する「川」。
この川河の流れが永遠にある限り、この京都は
これからも多くの人達に愛されていくことでしょう。

*写真は四条大橋から北山を望む「鴨川」です。
 夏には左岸のお茶屋さんが「納涼床」が出されます。











はっちん、清水寺に行く!

2004-12-15 14:21:31 | シリーズ・京都を歩く
冬期に入り、やっと自由な時間が取れるようになってきたはっちん。
久しぶりに東山・清水寺とその周辺を散策してきました。

近年、久しく清水に行く機会に恵まれなかったはっちんですが、
同じ京都で、観光地を職場とするものとして、京都観光の王道、東山・清水には
並々ならぬ興味を持っており、リサーチも兼ねての清水行きでした。

今回は直に清水寺を目指すことにし、観光ルートの定番である祇園からは歩かず、
市バスで清水坂停留所まで行くことに。
清水坂停留所で下車すると清水寺まではかなり急な坂道が続きます。
このコースは坂が厳しいうえに、普通の民家しかなく
のんびり散策される観光客にはオススメはできません。

息を切らせて坂を登ること10分。法観寺の五重の塔を仰ぎながら
やっと清水寺の山門に着きました。
山門を潜り、舞台造りで有名な本殿へ出ると、眼下一面に京都の町の風景が広がります。
清水の舞台から観る景色は何度観ても圧巻であり壮美です。
さすがは人気随一の古刹であることを納得!

この清水の舞台は、高さが13mもあり、堅牢なケヤキの木柱78本で支えてあります。
釘は一本も使ってないことが、日本の宮造りの伝統技法の高さを物語っています。

元々は小さな観音堂に過ぎなかった清水寺。
平安初期に征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の帰依を受け
大きな堂塔を建立して面目を一新したそうです。
今の建築は徳川家光・三代将軍によって、当時の建物そのままに造立したもので、
本堂や奥の院に掲げられた扁額(門戸や室内掛けられた絵や版画等の額)が、
いかにも桃山文化のおおらかと優雅さ残しています。
家光が建立する際に、経済的な協力をしたのが、保津川下りの生みの親・
角倉了以・素庵親子であるということも、親しみを感じます。

「清水の舞台から飛び降りる気で・・・」というのは決死の思いとか決意を
表すことわざとして有名ですが、本当にこの舞台から飛び降りた人はかなりいるのです。

観音信仰に根ざし補陀落浄土への旅立ちを願う心情の発露の行為であり、
平安時代から江戸時代まで、10,20代の若い町人を中心にかなりの人が飛び降りています。
以外と生存者が多かったと聞きますが、寺が飛び降りた人の生死の記録などを
細部にわたってしっかり記録しているのには驚きです。

明治に入り、京都府が舞台からの「飛び降り禁止令」を
発令していることからも、いかにこの信仰が永きにわたり
庶民の中で厚かったのかが伺い知れる話です。

舞台の下・音羽山から沸き出る滝の霊水を酌みで飲み干し、
御利益を祈ります。3本の滴り落ちる細い滝には延命長寿、縁結び、学業成就
の3つの御利益があるといわれます。この3つの願いの内、どれか一つだけを
心に念じて飲むと効用が得られ、欲張ると御利益全てがなし!となるそうなので
ご注意下さいね。はっちんはこの中のなにを願ったか?それはヒミツにしておきます。

帰りは三寧坂から二寧坂の急な石畳を下りながら、お土産屋さんをひやかし、
高台寺前の‘ねねの道’をのんびり歩いて祇園・八坂神社まで散策しました。

しかし、東山・清水界隈は凄い人出でした。お土産屋さんの人に聞けば、
一年中、観光客の波は途絶えないそうです。

同じ京都の有名観光地でありながら、冬になると一気に人出が減る、
嵐山・西山界隈をホームグランドにする
はっちんとしては、なんとも羨ましい風景でした。

*写真は清水の山門前です。西陣織の金欄ハンチング帽に注目!
 京都で、西陣金欄創作の新進気鋭のアーチスト「MーHERO」の
 手造り帽子です。海外の観光客の注目の的になってしまいました。
 もちろんそれを狙っていたのはいうまでもありませんが。