今から1200年ほど前の書物、陸羽(りくう)さんの『茶経(ちゃきょう)』に見られるように、お茶は唐の時代に普及していたようで、この時分のお茶は 団茶 or 餅茶(へいちゃ)と呼ばれるもので、蒸した茶葉を 臼でつき 乾燥させ 火であぶり 砕いて粉にし 湯で煮たものだったそうな。で、私たちは英語でいう brown のこと、何ら気にせず 茶色と言ってますが、それに相当する中国語は 棕色(そういろ?)と言うのだ、、、と パソコンにありました。
でも 今 ネーミングするとなれば、 ”お茶の色” とは決してなりません。いつ その呼び方になったか不知ですが、当時 飲まれたお茶は、まさしく茶色だったのでしょう。ですが、その根底を覆えす大変革が、300年ほど前(1738年、江戸時代の中期) 京都・宇治 於いて、成されているのです。
後に”日本緑茶の祖” と呼ばれるようになる『永谷宗円(ながたにそうえん)』さんという方の 15年に亘る 艱難辛苦・鋭意努力 の甲斐あって、『青製煎茶製法』という、蒸した新芽を焙炉(ほいろ)という器具の上で 手揉み乾燥 するという手法が開発されまして、茶色⇒⇒緑色の、かつ 味も一等 優れた煎茶ができるようになりましたと。
で、この手法が編み出されたことで莫大な利益を上げたのが『山本山』さんのご先祖さんで、 宗円さんの 10代後の ご子孫が『永谷園』を創業なさったと。そして 本製法は、現代にも受け継がれていると・・・
以上、少し長い前段でしたが、以下 本編に参ります。とは申しましても、 1年以上前(H30年 大晦日)BS朝日さんで放送された『日本人とお茶の物語 ~ おもてなしの誕生』という、
いつか永久保存版ブログにと 大事に取っておいた番組をベースにしまして、『伊藤園』さんの『お茶百科』および『ウィキペディア』さん等からの WEB情報を補足し 編集した、謂わば " お茶に関する 100q's メモ " といった具合のもの であります。
まずは、当県 岡山市(正確には隣国の備中) 吉備津神社神職の家にお生まれの、ここらへんでは『ようさい』さんと呼ばれることの多い『栄西(番組では”えいさい”でした)』さんから スタートと参ります。
鎌倉時代初期に活躍されたお坊さん。叡山で修行された後、2度も 宋に渡り、臨済禅 と お茶の種 およびその文化を持ち帰り、京都に建仁寺を建立し禅宗を立ち上げられ、
一方、『喫茶養生記』を著し、お茶の効用を説かれたということでして、
栄西さんから、持ち帰ったお茶の種を託された、32歳若い 明恵さんは
栂尾(とがのお)高山寺に日本初の茶園をお作りになられ、当地で
日本で初めて お茶が点てられたということでして、そのお茶とは ” 散茶 " と呼ばれる
茶葉を挽いて粉にしたもので、それにお湯を注ぎ 茶筅で泡立てて飲んでいたようです。
ここで話を もう一度 建仁寺さんに戻します。令和2年は中止されましたが
栄西禅師ご誕生の 4月20日には、800年以上 続いている ” 四頭(よつがしら)茶会 " という
京都市登録無形民俗文化財に認定されてる、4人の僧が32人の客人を饗す催しがあるとの由。
ところで お茶の文化は " 侘び・寂 (さび) の文化 " と言われますが、『大辞林』によりますと、
侘び・・・飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい
寂・・・・古びて趣のあること 閑寂の趣 枯れて渋みのあること
とあります。番組では 建仁寺塔頭霊源院住職 雲林院宗碩さんから『侘び茶』について、たいへん解りやすいご説明がありました。
進行役の モーリー・ロバートソンさんに、800年前の作法で お茶を振舞われたのですが、
「お茶を出す側に立てば、こんなおもてなししかできなくて申し訳ありませんという気持ち、出される側では、そのおもてなしに感謝するとともに、例えばそのお茶碗は 薬師寺の瓦から作られていますので 1300年も支えた後、1300度で焼かれてなお こうして人の役に立ってくれている・・というように 凡ゆるそういうモノに対する、申し訳ないという気持ちに添いながら いただくものでありまして・・これが " 侘び茶 " というコトバが発する意味なのです」と。
" 侘び茶 " とは そういうことだったですか~オイラは感動したです。たいへん いいお話でありました。ところで、お茶が盛んになるにつれ、産地も 栂尾⇒宇治⇒伊勢 伊賀 駿河 武蔵 等々へ拡がってゆくのですが、人間というもの、いつの時代も遊びとともにありますれば お茶も例外でなく、『闘茶』という お茶の産地を当てる遊びが流行りまして、
たいへんな盛り上がりを見せたようですが、ここで
一休さんが登場され、村田珠光さんとともに 軌道修正が図られるのでありますが、それは
”禅”との融合、すなわち お茶を 遊びから精神の世界へと 変えて行かれるのであります。
8代室町将軍 足利義政さんは、慈照寺(銀閣寺境内) 東求堂内に『同仁斎(どうじんさい)』という
日本初の 四畳半 書斎兼茶室をお作りになられ、これに倣ったのかどうか
世界文化遺産に登録されているお寺には、
慈照寺:東求堂 醍醐寺:枕流亭 天龍寺:祥雲閣 仁和寺:飛涛亭 西芳寺:湘南亭
清水寺:古門堂 西本願寺:飛雲閣 東寺:楓泉観 龍安寺:蔵六庵 の如く全て茶室が
誂えられており、世界中探しても、お茶を飲むためだけの建物は 他にないとのこと。
なお 龍安寺さんの茶室『蔵六庵』には、
水戸光圀公が寄進された 手を浄める蹲踞(つくばい)『吾唯足知(われただたるをしる)』が
吾が『百休庵』には、京都の中村翠嵐(すいらん)さんの『吾唯知足茶碗』 ↓ があるのですが、その境地に達するのは,、本人にとって 滅茶苦茶 難しく 苦しいことのようでございます。
.
なお、『日本民芸館』を創設なさった柳宗悦さんは、この『茶と美』という本の中で、表紙写真にある、上の闘茶を述べてるイメージ画像にも使われている 大徳寺さん『孤篷庵』所蔵 国宝 大井戸茶碗『喜左衛門』が、数ある抹茶茶碗の中でも ダントツにイイと、ベタボメに褒めてられます。僭越ながら 補足させていただきました。
で、その『侘び茶』の精神は
珠光さんから 武野紹鴎(たけのじょうおう)さん 千利休さんに伝承されることとなり
信長さんは、武家儀礼の資格とすべく、茶の湯を許可制とする『御茶湯御政道』を進め
茶の名器は、一国一城と同じ価値を有する というほどの権威を持つに至るのです。
これは秀吉さんにも引き継がれ、そうした中 開かれたのが あの有名な北野天満宮での
『北野大茶湯』でありますが、『武漢・勅怒賂巣ウイルス 』 が一応の収束を見た暁には、最低レベル これぐらいは派手な催しを、国中挙げてやりたいものだと、今 切に思われます。
利休さん切腹後は 古田織部さん 小堀遠州さん、江戸時代に入れば 広島藩の上田宗箇さん 松江藩の松平不昧さん等の武家茶道が全国に興り、三千家さんと相俟って
お茶は日本を代表する一大文化として 定着していったということです。なお 利休さん
および 代々の三千家家元さんの 墓所は、大徳寺 聚光院(じゅこういん)さんにあるとの由。
以上 甚だ未熟ではありますが、はしょって(?) 纏めてみました。皆様のご参考になれば、嬉しい限りです。なお 上の三千家の画像の中で、養子 小庵さんとありますが、慥か二度目の奥さんの連れ子のはずでして、利休さん切腹の後は 会津の 蒲生氏郷(がもう うじさと)さんが匿(かくま)い 保護されたと記憶してます。鶴ヶ城 域内に 庵(茶室)があったような・・・
< 追 伸 > R5.6.27 記
BS-11の『京都浪漫』だったと思うのですが、その中で表示された画面です。
でも 今 ネーミングするとなれば、 ”お茶の色” とは決してなりません。いつ その呼び方になったか不知ですが、当時 飲まれたお茶は、まさしく茶色だったのでしょう。ですが、その根底を覆えす大変革が、300年ほど前(1738年、江戸時代の中期) 京都・宇治 於いて、成されているのです。
後に”日本緑茶の祖” と呼ばれるようになる『永谷宗円(ながたにそうえん)』さんという方の 15年に亘る 艱難辛苦・鋭意努力 の甲斐あって、『青製煎茶製法』という、蒸した新芽を焙炉(ほいろ)という器具の上で 手揉み乾燥 するという手法が開発されまして、茶色⇒⇒緑色の、かつ 味も一等 優れた煎茶ができるようになりましたと。
で、この手法が編み出されたことで莫大な利益を上げたのが『山本山』さんのご先祖さんで、 宗円さんの 10代後の ご子孫が『永谷園』を創業なさったと。そして 本製法は、現代にも受け継がれていると・・・
以上、少し長い前段でしたが、以下 本編に参ります。とは申しましても、 1年以上前(H30年 大晦日)BS朝日さんで放送された『日本人とお茶の物語 ~ おもてなしの誕生』という、
いつか永久保存版ブログにと 大事に取っておいた番組をベースにしまして、『伊藤園』さんの『お茶百科』および『ウィキペディア』さん等からの WEB情報を補足し 編集した、謂わば " お茶に関する 100q's メモ " といった具合のもの であります。
まずは、当県 岡山市(正確には隣国の備中) 吉備津神社神職の家にお生まれの、ここらへんでは『ようさい』さんと呼ばれることの多い『栄西(番組では”えいさい”でした)』さんから スタートと参ります。
鎌倉時代初期に活躍されたお坊さん。叡山で修行された後、2度も 宋に渡り、臨済禅 と お茶の種 およびその文化を持ち帰り、京都に建仁寺を建立し禅宗を立ち上げられ、
一方、『喫茶養生記』を著し、お茶の効用を説かれたということでして、
栄西さんから、持ち帰ったお茶の種を託された、32歳若い 明恵さんは
栂尾(とがのお)高山寺に日本初の茶園をお作りになられ、当地で
日本で初めて お茶が点てられたということでして、そのお茶とは ” 散茶 " と呼ばれる
茶葉を挽いて粉にしたもので、それにお湯を注ぎ 茶筅で泡立てて飲んでいたようです。
ここで話を もう一度 建仁寺さんに戻します。令和2年は中止されましたが
栄西禅師ご誕生の 4月20日には、800年以上 続いている ” 四頭(よつがしら)茶会 " という
京都市登録無形民俗文化財に認定されてる、4人の僧が32人の客人を饗す催しがあるとの由。
ところで お茶の文化は " 侘び・寂 (さび) の文化 " と言われますが、『大辞林』によりますと、
侘び・・・飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい
寂・・・・古びて趣のあること 閑寂の趣 枯れて渋みのあること
とあります。番組では 建仁寺塔頭霊源院住職 雲林院宗碩さんから『侘び茶』について、たいへん解りやすいご説明がありました。
進行役の モーリー・ロバートソンさんに、800年前の作法で お茶を振舞われたのですが、
「お茶を出す側に立てば、こんなおもてなししかできなくて申し訳ありませんという気持ち、出される側では、そのおもてなしに感謝するとともに、例えばそのお茶碗は 薬師寺の瓦から作られていますので 1300年も支えた後、1300度で焼かれてなお こうして人の役に立ってくれている・・というように 凡ゆるそういうモノに対する、申し訳ないという気持ちに添いながら いただくものでありまして・・これが " 侘び茶 " というコトバが発する意味なのです」と。
" 侘び茶 " とは そういうことだったですか~オイラは感動したです。たいへん いいお話でありました。ところで、お茶が盛んになるにつれ、産地も 栂尾⇒宇治⇒伊勢 伊賀 駿河 武蔵 等々へ拡がってゆくのですが、人間というもの、いつの時代も遊びとともにありますれば お茶も例外でなく、『闘茶』という お茶の産地を当てる遊びが流行りまして、
たいへんな盛り上がりを見せたようですが、ここで
一休さんが登場され、村田珠光さんとともに 軌道修正が図られるのでありますが、それは
”禅”との融合、すなわち お茶を 遊びから精神の世界へと 変えて行かれるのであります。
8代室町将軍 足利義政さんは、慈照寺(銀閣寺境内) 東求堂内に『同仁斎(どうじんさい)』という
日本初の 四畳半 書斎兼茶室をお作りになられ、これに倣ったのかどうか
世界文化遺産に登録されているお寺には、
慈照寺:東求堂 醍醐寺:枕流亭 天龍寺:祥雲閣 仁和寺:飛涛亭 西芳寺:湘南亭
清水寺:古門堂 西本願寺:飛雲閣 東寺:楓泉観 龍安寺:蔵六庵 の如く全て茶室が
誂えられており、世界中探しても、お茶を飲むためだけの建物は 他にないとのこと。
なお 龍安寺さんの茶室『蔵六庵』には、
水戸光圀公が寄進された 手を浄める蹲踞(つくばい)『吾唯足知(われただたるをしる)』が
吾が『百休庵』には、京都の中村翠嵐(すいらん)さんの『吾唯知足茶碗』 ↓ があるのですが、その境地に達するのは,、本人にとって 滅茶苦茶 難しく 苦しいことのようでございます。
.
なお、『日本民芸館』を創設なさった柳宗悦さんは、この『茶と美』という本の中で、表紙写真にある、上の闘茶を述べてるイメージ画像にも使われている 大徳寺さん『孤篷庵』所蔵 国宝 大井戸茶碗『喜左衛門』が、数ある抹茶茶碗の中でも ダントツにイイと、ベタボメに褒めてられます。僭越ながら 補足させていただきました。
で、その『侘び茶』の精神は
珠光さんから 武野紹鴎(たけのじょうおう)さん 千利休さんに伝承されることとなり
信長さんは、武家儀礼の資格とすべく、茶の湯を許可制とする『御茶湯御政道』を進め
茶の名器は、一国一城と同じ価値を有する というほどの権威を持つに至るのです。
これは秀吉さんにも引き継がれ、そうした中 開かれたのが あの有名な北野天満宮での
『北野大茶湯』でありますが、『武漢・勅怒賂巣ウイルス 』 が一応の収束を見た暁には、最低レベル これぐらいは派手な催しを、国中挙げてやりたいものだと、今 切に思われます。
利休さん切腹後は 古田織部さん 小堀遠州さん、江戸時代に入れば 広島藩の上田宗箇さん 松江藩の松平不昧さん等の武家茶道が全国に興り、三千家さんと相俟って
お茶は日本を代表する一大文化として 定着していったということです。なお 利休さん
および 代々の三千家家元さんの 墓所は、大徳寺 聚光院(じゅこういん)さんにあるとの由。
以上 甚だ未熟ではありますが、はしょって(?) 纏めてみました。皆様のご参考になれば、嬉しい限りです。なお 上の三千家の画像の中で、養子 小庵さんとありますが、慥か二度目の奥さんの連れ子のはずでして、利休さん切腹の後は 会津の 蒲生氏郷(がもう うじさと)さんが匿(かくま)い 保護されたと記憶してます。鶴ヶ城 域内に 庵(茶室)があったような・・・
< 追 伸 > R5.6.27 記
BS-11の『京都浪漫』だったと思うのですが、その中で表示された画面です。
4×1=2π
🔲で円の縁をなぞると、一辺の4倍が円周長になる。
これを計算してくれるのが、円に内接する△(√3)と◇(√2)で、△(√3)が創る白金比長方形と◇(√2)の出会いが、🔲(1×1)を顕現させる。
√6は、1・2次元の[1]を纏める。
1=1×1 1次元の[1]と2次元の[1]を等価に縮退(抽象)化している。