百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

哀悼、佐藤しのぶさん & 好かった、野村正峰さん作曲の 箏曲 & 鳥取県日野町 ”金持神社” さんに参拝してきました

2019-10-25 13:31:38 | 日記
 日本の NO1ソプラノ歌手 佐藤しのぶさんが、R1.9.29 逝去されました。享年61。ああ! 神様、何故に 斯くも美しき 若き 尊き命を お奪い給ふや !!! です。『椿姫』か『夕鶴』か何かの追悼番組、切望してます。


 R1.10.4 NHK-Eテレ『にっぽんの芸能』『箏曲家 野村正峰の世界』は、箏曲団体『正弦社』を設立、地元 名古屋中心にご活躍、8年前 亡くなられた 箏曲家・作曲家 野村正峰さんの作品の、2代目家元で長女の野村祐子さん 社中の皆さんの手による 演奏会でありました。

  12人の子供たちによる『花かげ変奏曲』、涙が出てきました。めっちゃ 好かった !!!

         野村祐子さん 野村峰山さん 御夫婦の『旅路』も、好かったです。

第1筝:野村祐子さん 2筝:〃幹人さん 3弦:〃哲子さん 17絃:〃倫子さん 尺八:〃峰山さん 
 万葉集 第7巻 にある柿本人麻呂さんの歌
   『天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見』
      天の海に     あまのうみに or あめのみに or あめのうみに
      雲の波立ち    くものなみたち
      月の船      つきのふね
      星の林に     ほしのはやしに
      漕ぎ隠る見ゆ   こぎかくるみゆ
                    に曲を付けた『月の船』、好かったです。
     
                       例によって、CD に落としています。

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 オイラは小林幸子さんの代表曲である、星野哲郎さん作詞 遠藤実さん作曲の 名曲『雪椿』を聞くたんび、身につまされます。「わりいなぁ、許してくれぇよ」と、いつもココロの中で呟いています。

オイラには ”優しさ” も ”甲斐性” も無いからです。そのため、お金なんて ほんのちょっとしかありません。少し前のことですが、賢妻が言ってました。「あんたぁ、かねもち神社ゆうんが あるんじゃてぇ~」。最後の望みを託してるように聞こえました。

で 10.21 月曜日、朝飯 喰ってるときです。思い出して言ったです。「おいっ、ほんなら今日 行ってみんかぁ?」・・・イッパツで話が纏まるなんて、未だかってないのですが・・・そのせいなのかどうか、カメラ 忘れちまってました。



...

岡山県から鳥取県へ入る一般道は 3本ありますが、その最西ルートで山越えして直ぐの谷間(たにあい)にありました。休み明けなのに、20台近くも駐車場に留まってました。名前の発するオーラって、スゴイです。案内板を見、カネモチではなくて ”カモチ” と読むことを知りました。金持党という集団が存在してた時期があり、その頭目さんは ”太平記”に出てくることも。

なお、”金持神社”さんと称されるのは明治元年以降で、前身は 810年に興された ”妙見宮” さん。当地は、鉄が産出される山が 3つもあったとの由。で 古くからの呼び名 ”加持(かもち)”が、金気(かなけ)金具(かなぐ)のように、”か” は ”鉄” でありますから、縁起のいい ”金” に変わったのではないかということです。

サムハラ神社さん、金持神社さん、この二つの強力なパワースポット巡りを済ませた我が家。最強になったのでは?と思います。いささか 時間切れが気になるところですが、ひょっとして期待できるかも・・・です。


 < 追 伸 > R1.12.4 記
 本日の産経新聞 地方版ページに、もちろん当 金持神社さんも入ってますですが、鳥取県内にある縁起の良い名前の神社を巡る『因幡伯耆國開運八社巡り』が始まった旨、記載されてました。


    ちなみに、”開運八社”と呼ばれる神社さんは 以下の通りです。

        倉吉市 : 福留(ふくどめ)神社
        倉吉市 : 福積神社
        琴浦町 : 豊榮神社
        米子市 : 冨益神社
        日野町 : 金持(かもち)神社
        日南町 : 福成神社
        日南町 : 福榮神社
        日南町 : 楽楽福(ささふく)神社 
                           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未だ遥けき 三島由紀夫さんの遺志 & 写楽さん”大首絵” & ネルソン・マンデラさんの お言葉

2019-10-18 16:56:45 | 日記
 朝、犬との散歩の後 当庵に入り、TV音源 収録の クラシックやオペラのCDをかけ、湯を沸かし抹茶を溶かし、それを啜りすすり新聞を読みますが、このひとときは、一日のうちで オイラがイチバン好きな時間です。で 如かる後 ある命令に従い別席へ移動。そこで 出尽くしたなぁ と思えるとき、ふと感じたのであります。

「ひょっとして このトキって、最高に幸せな一瞬ではないだろうか。なにげないことじゃけど、これ以上 平穏さを感じるトキって、ないのでは・・・」と。以来 オイラは、大概は、新発見した この ”サイコーのシアワセ” を噛み締めてるのであります。ええ、今日もです。

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 古い話題で恐縮ですが、R1.6.16 NHK-Eテレ『日曜美術館』『熱烈!傑作ダンギ 東洲斎写楽』での、写楽さんの”大首絵(おおくびえ)”の見せ方に、オイラは感心しました。

ありふれ過ぎてますから、一枚づつの提示なら スルーしてしまうところ、こうして一面に並べられますと、まったく印象が違ってき、凄っげいなぁ と、感嘆させらたのであります。

蔦屋重三郎さんは そこんとこ 重々お見透しだったようで、この28枚の大首絵は同時に売り出されたとの由。さすがです。で、この最初に出した 28枚が最高傑作なんです と ダンギのお方が仰ってられたです。確かに~!!!。

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 この日曜日、いよいよ ベスト4進出を懸けた超ビッグマッチ 南アフリカ戦がありますが、R1.10.15(火)NHK-BSP『アナザーストーリーズ』は、その南アフリカの、
    1964年 国家反逆罪で終身刑に処せらる
    1990  71歳のとき釈放(27年間 獄中生活)
    1993  ノーベル平和賞 授章
    1994  第8代大統領に就任
    1995  第3回 ラグビーワールドカップ 南ア大会開催 初優勝
    1999  大統領を辞す    
    2013  12月5日 ご逝去 享年95 
という略歴の ネルソン・マンデラさんでして、その中で示された氏のお言葉に、オイラ 甚く、ココロ打たれました。

「抑圧された人々が開放されると同じように、抑圧する側も開放されなくてはならない」という、釈放されたときの お言葉

「この国の白人の皆さん、ともに新しい南アフリカを作っていきましょう。この瞬間は、あなた方 白人にとっても、希望の日となるでしょう」。という、大統領就任時の お言葉。
    素晴らしいお言葉、どっかの国の、大統領 & 多数の国民の皆さんとは大違いです。

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 前段が 長うございました。本題に入ります。上記『アナザーストーリーズ』の 1週前の表題は『三島由紀夫 最後の叫び』でございまして、その中で示された、氏の 死を賭したお言葉に、やはりココロ打たれたのであります。

S45(1970).11.25、三島さんは自衛隊市ヶ谷駐屯地に出向き、国を憂い、自死(割腹)されたのですが、そのときの存念を、こういった執筆記事を通じ、旧知の間柄であった

徳岡孝夫 サンデー毎日記者さんに託してらっしゃいました。 









       氏の遺志を継ぎ、S45(1970).12.13号 サンデー毎日に全文掲載されました 
..

.
字が小さいので、抜き書きします。

      われわれは戦後の日本が、
      経済的繁栄にうつつを抜かし、
      国の大本を忘れ、
      国民精神を失い、
      本を正さずして末に走り、
      その場しのぎと偽善に陥り、
      自ら魂の空白状態へ
      落ち込んでゆくのを見た。
 
      日本を日本の真姿に戻して、
      そこで死ぬのだ。
      生命尊重のみで、
      魂は死んでもよいのか。

      生命以上の価値なくして、
      何の軍隊だ。
  
      いまこそわれわれは、
      生命尊重以上の価値の所在を
      諸君の目に見せてやる

      それは自由でも民主主義でもない。
      日本だ。

      日本を守るとは
      天皇を中心とする
      歴史と文化の伝統を
      守ることである。

オイラも その通りであると思います。そのためには、万世一系の天皇制を揺るぎないものにするとともに、憲法を何としても変えなくてはなりません。現憲法は平和憲法なんかじゃありません。平和が脅かされ、ひいては他国の侵略を許す 危険極まりない、亡国の、平和な世界 実現には決して与(く)みしない憲法であります。

これは、現在の日本の状態を見れば 誰だって分かるはずです。北方領土と竹島は奪われてしまってて、尖閣諸島 沖縄諸島 北海道 を 中国が虎視眈々と狙っているは、誰が見たって明らかじゃありませんか。

いや、もっと懸念されるのは、このような憲法を抱いてることによる個々人の精神の荒廃にあります。血は誰だってみたくないです。死にたくもありません。当たり前です。しかし人間たるもの、命を懸けて守らなくてはならないものがあります。

自分自身と家族 愛する人 同胞、それらが帰属し 掛け替えない世界に誇れる文化・芸術を育んだ 地域・自然・環境・組織・国家・・・これらは例え何があろうとも巌のような気概で護り抜き 生き抜くことが、命を全うするということだと思いますし、そうでなくば、他人や他国から軽蔑されるは必定、絶対に尊敬されることはありません。

ところが 幼稚で アホみたいな いい加減な憲法に、そういう考えに至るを、阻碍されてしまってるのです。何でも崩壊するのは、外的要因よか内的要因によるものの方が圧倒的に多いと言われているというに、いったい いつになったら目覚めるのか、日本人。

三島さんが壮絶死されて 49年。当時ほどではないものの、未だ 三島さんの思いは、遥か彼方であります。
以下 ご参考までに、三島さんの ”留魂録” であろう ”激文” を、コピペいたしておきます。

              檄 
                            楯の会隊長 三島由紀夫
 われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
                 (三島森田事務所刊『「楯の会」のこと』より)
          https://www.sankei.com/premium/news/151122/prm1511220033-n1.html より

ただ、オイラは思います。こういうことを自衛隊の皆さんに言っても 何ともならないことは、誰でも分かることなのに、どうして? という思いが残ります。じっくりじっくり説いてって行って欲しかったと、つくづく思います。それでも決起されるのであれば、引き継ぐに足る人材を育てた後 決行されたかに見える、松陰先生のようであって欲しかったと思います。


 本日の産経新聞、楊海英(ようかいえい)静岡大学教授さんご執筆の『正論』は、誠に素晴らしい内容でしたので、添付しておきます。オイラも まったくその通りだと思います。


 < 追 伸 > R1.11.25 記


 本日の楊海英さんの『正論』も、オイラの思ってること ズバリ 言って下さいました。国賓で迎えるとしておけば、少なくとも暴発することはないだろうなんて考えているのだとしたら大間違いだし、ハレモノに触るかの如き現対応、早急に是正すべき。具体的理由公表なしの邦人逮捕 尖閣侵犯 ウイグル人虐待 香港問題等々、正々堂々 言わなくてはならないことを明確に言明すべきだと思います。

で です。何故こんなことを国会で討論しないのか、今イチバン討論しなくちゃならないのは、日本として 中国にどのように対応したらいいか ということではないかと思うのです。国会でこれを、ケンケンガクガク 討論して欲しいのに、桜ナントカみたいな些細なことに血眼になってる野党の人たち、国会議員バッジを付ける資格はありません。

これぐらいのこと、少ない報酬で 土日もなく、恐らくは日本でイチバン重い責任を背負わされてでしょう、国民のため国のため、国内外で激務を熟(こな)して下さってる総理大臣、良い意味で これほど世界に影響力あり、名を知らしめた日本の宰相は おられないのでは そのお方への ささやかな ”御礼” として、または ”ご褒美” として認めて差し上げたらいいのではないかと思っています。

また、仮に半公半私であったとしても、陰に隠れ コソコソやってる訳でなく、お天道様の下で 明るく開けっ広げでやってる行事なのです。それに、一国のトップが主催する催しとすれば、決して贅沢なんて言えるシロモノではなく、逆に安倍さんの great & good Job に対しては、申し訳ないほど約(つま)しい質素なものと言えるのではないでしょうか。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国宝 日本刀 『山鳥毛』 を見てきました。凄い !!! 、ぞくっとする 特別な、刀です

2019-10-13 15:09:13 | 日記
 刀に関する趣味は全く持ち合わせてないですが、家から直線距離で 9Kmという近さなのだし、こればっかしは絶対 見とかんといけん と思い、9日 午前中、行ってきました。

上杉謙信公の愛刀、名刀中の名刀と言われる 国宝『太刀 無銘一文字(山鳥毛)』が、
今月 27日まで展示 の 岡山県瀬戸内市『備前長船刀剣博物館』さんへ です。 

入館しますと、国宝『一遍聖絵』のなかの ”福岡の市” という場面と いきなり対面しますが、その刀は 2階展示室入って直ぐ右、ガラスケースの中に横たわってました。
      
          


オイラは圧倒されました。抜きん出た刀だと、茶碗で言えば 国宝 ”窯変天目茶碗” だ!!!と直感したです。次には ”マムシ” が浮かんできました。マムシはヘビの王様。ほかのヘビは逃げるのに、「自分は強いんだ」と思ってる このヘビは 決して逃げません。そのウロコの文様は特別。『山鳥毛(さんちょうもう or やまとりげ)』のウロコとも言える その特別な刃紋、血が滾る恐ろしいまでの妖気を放つ刃紋に、オイラは、マムシに出くわした折に感じるのと同じ感覚を覚えました。
.
.
...

実はこの『山鳥毛』、刀と言えば”備前長船”と言われるこの地、九州の福岡という地名のルーツ”備前福岡”のこの地、現 瀬戸内市へ 里帰りさせようとする運動が、自治体中心に進行中なのであります。


オイラは思います。この刀は、同じような刀は もう誰も作れない 図抜けた特別な存在。そんな刀の坐(おわ)さる処(ところ)は、この地を措(お)いて ありません。国宝に向かって失礼な物言いでございますが、おどろおどろしいくらいに妖力を放つ刀、納まるべきところに収めておかねば、どんな災いが降ってくるか 分かりません。

幸運なことに、本来 あるべきところに鎮座いただけるチャンスが巡ってきてるのです。斯様に考えるオイラですので、僅かではありますが、直ぐに申し込みした次第であります。

替わりにいただいた ↑ このカードは、R3.3.31までなら何回でも、県内のほとんどの美術館は 20%割引で、瀬戸内美術館と備前長船刀剣博物館さんは 無料で入場できます。

 < 追 伸 >
 台風19号の甚大なる被害、本当に心が痛みます。子供のときから何回も経験しているオイラ、お気持ちは よく分かります。タタミが ぷか~と浮いてくるときに感じる空しさ、水と泥に 大事なものが侵されてゆくときに感じる いたたまれなさ、本当にツライです。しかし、受け入れるほかありません。今は 早く水が引いてくれるの、祈るばかり。心から お見舞い申し上げます。 

 < 追 伸 > R1.10.30 記
 武久顕也(たけひさ あきなり)瀬戸内市長さんから 礼状、いただいてます。


 < 追 伸 > R2.1.31 記
 瀬戸内市長 武久 顕也さんから このような e-mail いただきました。

   山鳥毛里帰りプロジェクト目標金額の達成について(お礼)

 北風が一段と身にしみる季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
 平素より瀬戸内市にご支援をいただき誠にありがとうございます。
 2018年11月に開始した「山鳥毛里帰りプロジェクト」のクラウドファンディングにつきましては、マスコミ報道等でもご承知のとおり、あなた様をはじめ多くの皆様からご支援いただき、おかげさまで必要経費を除く寄附金額が目標額である5億1,309万円(山鳥毛購入費5億円+施設整備費1,309万円)に達しました。ここに、寄附金額の目標達成をご報告できますことを大変光栄に存じます。
 あらためてプロジェクトにご賛同、ご支援いただいたことに心から感謝申し上げます。
 今後は、議会の議決を経て、国宝「山鳥毛」を購入し、できるだけ早くお披露目できるよう努めます。あわせて、国宝「山鳥毛」を旗印として、日本刀に関する伝統文化の継承と「日本刀の聖地備前長船」の国内外への情報発信、さらには地方創生につなげるよう努力します。
 なお、寄附金の募集については、当初の予定どおり3月末日まで行い、目標額を上回った寄附金は、備前長船刀剣博物館の施設整備に充てさせていただきますので、ご理解賜りますようお願い申し上げます。
 最後に、貴殿の今後のご発展ご健勝を祈念しお礼のあいさつといたします。
                 令和2年1月吉日     瀬戸内市長 武久 顕也

 < 追 伸 > R2.5.4 記
  4月末、瀬戸内市長 武久 顕也さんから このような書状が 届いてます。

17,000件、8億8,000万円。胴元(?) さんの 熱意の顕われです。好かった !!! 良かった !!! 。 
                
 < 追 伸 > R2.6.21 記
 2週間ほど前だったですか、このような ”山鳥毛クリアファイル” と ”一口佩刀(ひとくちはいとう)証書” および 当該カードをいただいております。
.
                     一口佩刀カードです ↑ 

 < 追 伸 > R2.8.13 記
 1週間ほど前のことだったですか、武久市長さん名の 誠にご丁寧なる案内状とともに、この『”山鳥毛”特別陳列』展のフライヤーを いただいております。


 < 追 伸 > R2.8.20 記
 R2.8.19 BS朝日『京都ぶらり歴史探訪』の中に、書き留めておきたい情報がありました。

● オイラは ” 刀 ” も ” 太刀 ” も 同じだと思ってましたが、違うのですよと・・・、でも
   ..
.
藤沢周平さんの小説に ”小太刀” がよく出てきますが、これが ‴ 短刀 ” や " 小刀 " と どう違う
のか・・・何か よう解らんです。

● 京都市三条の『鍛冶神社』さんの ご祭神は
  ・ 天目一箇神(あめのまひとつ の かみ)
  ・ 三条小鍛冶宗近命(さんじょうこかじむねちか の みこと)
  ・ 粟田口藤四郎吉光命(あわたぐちとうしろうよしみつ の みこと)
という ” 刀の神様 ” を お祀りしている お社(やしろ)だそうでございまして、
.
      このように 明治天皇さんがお詠みになられた お歌も 刻まれていますと。 


 < 追 伸 > R3.4.28 記
 R3.4.23 NHK-BSP『名品の来歴~幻の刀 ”膝丸” が語る1000年』を見ているとき、ふと閃きました。刀と太刀の違いは、身に着けるときの着け方の違いにあるのでは ということ。馬上で見に着けるなら、 凸であれば 先っぽが馬に当たってしまうので 必然的に 凹。江戸時代になれば 馬での戦いは激減し、歩行時の護身用としてなら、より短いのを 凸に着けたほうが 断然 使い易い。それで、太刀⇒⇒刀 となった ということ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美空ひばり さん 30年振りの 新曲発表 !!! 。素晴らし過ぎる歌、 感動しました !!!  

2019-10-11 20:07:11 | 日記
 R1.9.3(火)、NHK 101スタジオ、ここに 美空ひばりさんが 30年振りにご登場なさり、
渾身の新曲が 披露されたのであります。その新曲とは

秋元康さん作詞 佐藤嘉風さん作曲 野中”まさ”雄一さん編曲 『あれから』という歌。
.....

 で この模様が、R1.9.29(日)Pm9:00~ NHK-G『NHKスペシャル』で 放送されました。
スタジオにご参集なさってられた、200名のファンの皆さん 100名の制作スタッフの皆さん ほぼ全員が、涙に眩(く)れてられました。
.
 企画・プロジュース・作詞・演出の 秋元康さん、ドレスをデザインされた 森英恵さん

 本当に素晴らしい歌です。ひばりさんの代表曲になるのは間違いないと思います。が、よくぞ こういう企画を思い付かれたものだし、よくぞ ここまで 完成度の高い 映像 音声 歌唱 を創り上げ得たものだと思います。

   手前から 歌唱音源 語り音源を提供なさった 加藤和也さん
        ステージ上の動き 振りの情報を提供された天童よしみさん
        秋元康さん        
        作曲者である 佐藤嘉風さん

        3D 映像 制作チームのチーフ 山本展敬さん
オイラが特にスゴイと思いますのは、

「お久しぶりです あなたのことを ずっと見ていましたよ 私の分まで まだまだ頑張って」というセリフの入った歌を思い付かれた 秋元康さんの発想力 

 

そして 何より驚嘆しましたのは、本物のひばりさんと寸分違わない完璧な歌唱を創り上げられた、ヤマハ音声合成チーム プログラマーの 大道竜之介さんと 才野慶二郎さん

ひばりさんは 生涯1500曲 レコーディングされておられますが、その音声を 1/100秒毎 サンプリングし、ディープラーニングという手法を使い、発声のルールを見つけ出すのだと。

山田 金沢工大教授の「ひばりさんは、”ホーミー”という発声技法を使い高次倍音を出したり、一音毎 音色を変えておられる」といった指摘への対応や、ひばりさん特有の 音程やタイミングのズレがあるのを加味した結果、完璧な仕上がりになったとの由。

才野慶二郎さんが受け持ったセリフでは、『悲しい酒』しか ディープラーニング対象がないところ、幸いにも、小学生時代の和也さんに与えていた 2時間の 童話の読み聞かせテープが残されていたため、それを学習させたとのこと。

かくして、日本の AIプログラマー CGデザイナー 3D立体投影 の第一人者の技術を結集、約1年かけた作品が完成したということであります。

以上、『AIでよみがえる 美空ひばり』という番組、百休流 抜粋です。オイラは直ぐ様、CDに落としてます。前後の一連する音も取り入れた『あれから』になってます。
    
大好きな マルシアさんの歌唱による『夏の日の想い出』
.
冬美さんの 根限りの 力の入った『兄弟仁義』

情感たっぷり 円熟した歌唱、西山ひとみさんの『酒場川』

本家を凌ぐ歌唱、この歌の NO1 歌手では(?)。夏川りみさん『時の流れに身をまかせ』

ええかげんさが堪らなくイイ 千昌夫さん『と・も・こ・・』と、それに続く『星影のワルツ』

その他、毎度の、オイラの好きな いい歌ばっかし 入れてます。

 < 追 伸 > R1.11.16 記
 " 永愛 美空ひばり「あれから」” の CD、もう 1枚 作りました。
 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

折口信夫さん原作 『死者の書』感傷・観賞録(文庫 & 川本喜八郎さん作:人形アニメ & 今藤政太郎さん作曲:長唄)

2019-10-05 15:42:02 | 日記

 ちょうど 5年前(H26.9.26)の産経新聞で、折口信夫(おりくちしのぶ)さん著『死者の書』が紹介されてます。


 

それ以前だったかと思います。オイラは、非常に優れた作品として、発売当初から話題になっていた 川本喜八郎さん制作の人形アニメーション『死者の書』のほうを購入、視聴を済ませてました。ただしオイラの消化能力というか受容能力不足の露呈だと思いますが、ココロ打たれるものに乏しく、理解を深めようとする意欲も湧いてこなく、以来 脇に追いやったまんまでありました。

で この春のことですが、松本隆さん作詞 藤舎貴生さん作曲『静』という唄に触れ、日本の伝統音楽に少し目が向きかけていた矢先、R1.8.30 NHK-Eテレ『にっぽんの芸能』での、今年84歳になられる長唄三味線方人間国宝 今藤政太郎(いまふじまさたろう)さんの特集番組に惹かれ、視聴、

そのファイナルで流された、氏の手掛けられた長唄『死者の書』に接しまして、

この演奏も然ることながら、直後に流れた 穏やかなお声なるも 確固たる信念を示す

「『和を以て貴しとする』 そこから生まれてきた我々の芸術や文化が 我々の世代でだめになるなんて、絶対に僕は許しませんね。これは和しません」
という氏のメッセージに、オイラは 甚(いた)く、ココロ打たれたのであります。

そして思い知ったのです。いつ死んでも可笑しゅうない いい歳になってるのに、今藤さんが渾身の力でお創りになられた 折口信夫さんの名著『死者の書』の長唄、しっかり味あわんてどうする!!!、原作を読んで、物語そのものを キチン理解し、消化しなくてどうするっ!!! と。
 
で 何はともあれ 中公文庫『死者の書』を取り寄せ、読んだです。追って、作品者さん発行 鈴木貞美さん著『『死者の書』の謎』も購入、目を通しました。

以下は、この後、何回も何回も『死者の書』の世界を味わいたい想いの縁(よすが)となればとの思いで作成した、オイラの ”感傷もしくは鑑賞ノート” というべき書き付けでありますが、

川本喜八郎さん制作 人形アニメーションDVD から 多くの画面を頂戴してます。本DVDは、観れば観るほどその奥深さが思い知らされる、本当に素晴らしい芸術作品であります由、皆様方にお伝え申し上げることで ご容赦願えますと幸甚に存じます。何卒 よろしくお願い申し上げます。

 では 折口信夫さんの『死者の書』、オイラの『感傷 or 鑑賞ノート』、参ります。
これは ユーキャンさんの『大日本地図』『奈良県分県地図』(スケール:55.5目盛≡10Km)からいただいた、当該箇所のマップです。

             矢印位置の 18目盛下に ”平城宮跡” ↓ 

           ↑ ”二上山” は この位置の 25目盛上
             ↑ ”當麻寺” この位置の 16目盛上 でして
平城宮跡から二上山までの直線距離は、南南西方向 約21Km となりますが、
 
この二上山(にじょうざん or ふたかみさん)の右の峰 ↑ 雄嶽(おのかみ)山頂 に、

天武天皇の御子で 俊才の誉れ高かりしも、謀反の疑いで 磐余(いわれ)の池で自害

大津皇子(おおつのみこ)さん、享年24 の墓所がありまして 
 

一方 その麓には、よく知られている ”中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説" のある當麻寺(たいまじ or たぎまじ)さんがありまして、その伝説と申しますは

奈良時代 華やかなりし折、権勢を誇った仲麻呂さんの長兄 豊成さんの娘 中将姫、

彼女の祖父 武智麻呂さんが南家を興したので、南家の郎女(いらつめ)と呼ばれますが、5歳で実母と死別、継母の非道(ひど)く理不尽な仕打ちに耐える ”よすが” として、

”称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶっせつじゅぎょう)” という 玄奘三蔵さん訳
(それまでは鳩摩羅什さん訳の”仏説阿弥陀経”)の謂わば "新阿弥陀経” と言えるお経を 1000部 書き写すなど、ひたすら仏教にのめり込む日々を過ごすうち、

二上山に沈む夕日の中に御仏(みほとけ)が見えるようになり、この御仏にお仕えし お導きを得たいと思うようになり、麓の万法蔵院(後の當麻寺)を訪れ 入山を請い願うのでありまして、当院は女人禁制の厳粛なる修行場であるものの、姫の ハンパない仏典に対する理解度 御仏への一途な憶いが 認められ、入山が許されることになります。そして、

如(し)かる後のこと、尼僧となった姫に「蓮の茎を集めるように」と、次には「糸を取り出すように」と お告げが降り、して次には「井戸に浸すように」ということで晒しますと 5色に染まり、さらに「機(はた)を織るように」との声に 一心不乱に 文字通り 身を擦り減らし、たった一晩で、二上山で見た阿弥陀如来が来迎する極楽浄土を織り上げられたとのことでありまして、皆の感嘆する姿を見届けますと、極楽からのお迎えに乗じ、静かに旅立ってゆかれたということであります。


上は ↑ その中将姫さんが一晩で織り上げたと言われている 4メートル四方と巨大な 国宝『當麻曼荼羅』の一部(H30.7.14~8.26 奈良国立博物館開催『糸のみほとけ展』フライヤーの当該部分を撮影)、下は ↓ ”フォーラムKaya” さんの『當麻曼荼羅 平成本』販売用チラシにあります、完成当初のお姿を再現した複製品を撮影させていただいたものであります。


 このような史実や伝説を元に、また古代から連綿と繋がる伝統的な、日本人の心に浮かぶ風景とも言えるでしょう ”夕日の沈む山越しに感じる御仏の世界”を取り込み、折口信夫さんの『死者の書』は著わされました。

話は 大津皇子さんが、長い眠りから「ああ耳面刀自(みみものとじ)。おれはまだお前を思うている・・・」と唸りながら目を覚ますことで始まります。死因は、自死でなく処刑されたことに変更されてます。

目覚めた大津皇子の目には、今 イチバン美しい娘である”中将姫”こと”藤原の郎女”さんが ”耳面刀自”に見えることで、2人の物語が進行します。MC & 進行 & 語り部 として、大伴家持さんと仲麻呂さんという 2人のビッグネーム、さらに ”當麻(たぎな)の媼(おうな)” という脇役を従えて。

ここで 大津皇子(663~686)さんと 中将姫=藤原の郎女(747~775)さんの出会いについて考えてみます。中将姫は皇子の死後61年して誕生されてますから、小説に記されている 皇子の「50年も昔から眠りについていた」というセリフは辻褄が合わず、姫が16歳で當麻寺に入った 763年としますと、皇子は 77年の間 お墓の中で眠っていたことになります。

従って 物語の始まり の妥当な線は、鈴木貞美さんの著作本にある 759年ということでしょうか。中将姫は 12歳。仏教に目覚め、夕日に みほとけを見初められた頃。としますと、大津皇子さんは73年間 お墓の中におられ、お目覚めになられたということになります。

こんな些細なことに拘っていたのでは、前に進みません。以後は、ぜひとも皆様に この名作をお読みいただきたく、また、この人形アニメーション DVD を ご覧いただきたいとの思いから、少しばかりですが、目を引くところを抜粋し、大雑把に進めてゆきたいと存じます。







.
    在りし日の大津皇子         謀反の疑いをかけられ、磐余の池で・・・
.
 処刑前 耳目刀自 と見交わした 前後 この一回限りの出会いが、因縁となりました
.
                    :
            それから 長い時間が 経ちました
時は奈良時代に移ります。時代背景やコトの成り行きの周知を図るナレーター的存在で、大伴家持さんや當麻(たぎま)の媼(おうな)さんなどが適宜登場し、物語が展開します。
.
「ああ 耳目刀自、まだお前を思うている・・」と唸りながら、大津皇子が眠りから覚めます
.
一方、頭が良いうえに 都でイチバン美しいと評される 南家 藤原の郎女さんは
.
母の死後、継母からのイジメを受ける辛い日々に曝され、写経に救いを求めます。身をすり減らしながら一心に書き写してますと
.
二上山に沈む夕日のなかに、みほとけのお姿が見えるようになってきました。そしてそのみほとけの元で暮らしたいとの思いが募り、何かに導かれるまんま、雨の中 風の中 歩き続け

二上山の麓の當麻寺に行き着いたのでありました。しかしそこは女人禁制の聖地。結界破りという重い罪を犯した姫は、屹度した姿勢で、みほとけの傍であるこの地に留まり 罪を償う生活に入るのです。

実は これを待ち受けていたかのように、大津皇子が毎夜 姫のもとに通うように・・・
.
「おれには、子がない。おれの子を生んでくれ」と・・・

郎女も、大津皇子が二上山頂に見える御仏のお姿のイメージと重なることから、海の中道を通り 深く深く沈み行き、白い珊瑚樹と一体になるという、夢の中での逢瀬を重ねます。「なも あみだほとけ」で、夢から復帰するのですが・・・

そして、裸身である斯のお人の肌を 早う 衣で包んであげたいと、蓮の茎から糸を取り出し、「ちょうちょう はたはた・・・」と、布を織り上げる作業に没頭します。

しかし身にまとう衣は、縫っても縫っても形を成さず、導かれるままに仕立て上げた 巨大な一枚の布の上に、郎女の目に映った 二上山に沈む夕日の中に浮かび来る極楽浄土の姿を描くのです。

そして取り寄せた 5色の絵の具で 阿弥陀如来様の絵付けを施し、一筋の涙を流し、静かに立ち去ってゆかれるのです。そうです、『夕鶴』の ”おつうさん" のように・・・
..
.
すると 残された巨大な絵は、たちまちのうちに 極彩色の絵に一変するのです。


 以上が 良く分からないまでも、何とか纏めた、オイラの『死者の書』ダイジェストであります。甚だ未熟でありながら、このように仕上げることができましたのは、ひとえに 今藤さんのオコトバのチカラを得まして、氏 ご作曲の 長唄『死者の書』を 何とか理解しようという気持ちを持ち得たからにほかなりません。

では、以下 本稿 最後の仕上げに掛かるとします。それは あらためて 長唄『死者の書』を観賞することであります。



           藤原郎女さんは 中川 綾 さんが

           大津皇子さんは 今藤 政貴 さんが

             當麻の媼は 今藤 美知 さんが演じられてます
 
金子泰さん脚色とありますから、これは 氏のお創りになられた 詞 かと・・・


 闇の音      した した した した した した
 闇の声      こう こう こ~う

 大津皇子     深い闇の黒い巌の下で
 (おおつのみこ)  時が経った
          けれども耳面刀自(みみものとじ)
          まだお前を思うている

 闇の音      した した した

 大津皇子     寒い 著物(きもの)を 著物をください

 闇の声      こ~う
           ・
           ・
           ・
 当麻媼      この山に眠る大津皇子さまが
 (たぎまのおうな) お前さまをお呼びなされた
  
 大津皇子     ひさかたの天二上(あめふたかみ)の我(あ)が見つる
   および    青馬(あおうま)の耳面刀自の 刀自もがも 女弟(おと)もがも
     大ぜい  吾(あ)はもよ偲(しぬ)ぶ 藤原処女(おとめ)

 当麻媼      お聴きおよびかえ 藤原の郎女(いらつめ)さま

 藤原郎女     いいえ 私は 山をおがみに
 (ふじわらの   あの山の入り日の中に 俤(おもかげ)びとを
    いらつめ) ほほき ほほきい ほほき ほほき~い

 大ぜい      いい ほ~お いい ほ~お
 藤原郎女     ほおきい ほほき~い ほほきい ほほき~い
 大ぜい      鳴く鳥の翼があれば 訪ねこう
 藤原郎女     わが魂を結びたまえ

 闇の音      つた つた つた つた つた

 闇の声      激(たぎ)ち降(くだ)る谷のとよみ
          海の中道を 海の中道を
          掬(むす)べども流れる白玉
          水底(みなぞこ)に水漬(みづ)く身は
          白い珊瑚樹

 藤原郎女     あなとうと あなとうと なも なも

 大ぜい      蓮葉(はつすは)を績(う)もうよ
          夏引きの麻生(おう)の麻を績むように
          ちょうちょう はたはた 
          機(はた)を織り 衣にして
          はたはた ゆらゆら きりはたり
          ちょうちょう
          ゆらゆら はたはた ゆらゆら はたはた
          ゆらゆら はたはた ゆらゆら はたはた
          きりはたり
          ちょうちょう
          ゆらゆら はたはた ゆらゆら はたはた
           ・
           ・
           ・
 大ぜい      ゆうべのまぼろし おもかげびとの すがたを

 大津皇子     なもなも あみだほとけ      
  &藤原郎女   あなとうと あなとうと

 大ぜい      オヒャイヒュイヒョイウリ オヒャライヒウヤア
          ヒウルイヒョイウリ オヒャライホウホウヒ
          なもあみだほとけ あなとうとあなとうと   
       
 大津皇子     光明遍照 十方世界
  &藤原郎女   光明遍照 十万衆生

 全員       なもあみだほとけ あなとうとあなとうと
          なもあみだほとけ なもなもあなとうと

   付記:「ほほきい ほうきい・・・」 の類は、うぐいすの声のはずです
      右の 詞 そのものは、TV画面を書き写しさせていただいたもので、
      左の 割り振り書き は、当方が勝手に判断し、付け加えたものです


 めっちゃ長い 支離滅裂ブログ、ようこそ最後までお付き合い下さりました。ありがとうございます。ここで紹介させていただいている 三種の『死者の書』は、すべて、正真正銘 超一級の名品 最高級の芸術作品であること、間違いありません。皆様方にも 読んで 観て 聴いていただけますと、はなはだ嬉しく 幸いに存じます。

なお オイラは、あと数回は読まないとダメかな? と思ってます。まだ 良く分かってません。難解な小説と言われてますが、まさに その通り、ややこしさも 超一流です。でもどこか 宮沢賢治さんの小説を読んでるような気もし、難しくとも 苦痛はなく 好きです。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 以下は、2016.3.30付け 当ブログ『My favorite 仏さまたち~100q甚く感じ入り候記(20)』から転載した画像です。

BS朝日「五木寛之の百寺巡礼」スペシャル2016 で放送された 當麻寺さん「中将姫像」   


 < 追 伸 > R1.10.8 記
 R1.10.6 産経新聞『日曜に書く』の、河村直哉 論説委員さんの『偏見を超えて響く音楽』は、折口信夫さんの「鎮魂頌」という詩が 書き出しの、素晴らしい内容の記事でありました。


 ついでと言っちゃァ、”寅ちゃん”に叱られっちまいますが、この R1.9.29 同新聞 吉村英夫さんの『寅さん50年「男はつらいよ」を読む』連載コラムは、シリーズ最高の出来栄えでは? と思えますので、取って置きしときます。

この通りでしょうから、振られても振られても 次善の女性ということなので、耐えられるし、そう躊躇なく次の女性へのリスタートが切れるということではないかと、オイラも思います。

 < 追 伸 > R2.8.5 記
 以下は R2.8.3 NHK-BS1 保山耕一さん制作『映像詩「飛鳥」』から、二上山の映像です。
.............
  藤原(南家)の郎女≡中将姫さんのように、" みほとけ " が拝めればと、集めてみました。


 < 追 伸 > R3.1.28 記
 R3.1.12 BS日テレ『ぶらぶら美術・博物館』『江戸東京博物館 古代エジプト展』で 
.
本来の『死者の書』についての解説が、近藤二郎 早稲田大学教授さんから為されてましたので、ここに概略を記しておきます。

『死者の書』とは、パピルスに、死者が この後 どういう道を辿るのか記した ”副葬品” 、
すなわち 死者それぞれ 違うものなのだと。

頭文字が ”タ” なら女性、”パ” なら男性を表しているとのこと。ちなみに、

”ピルス” とは ”ファラオ” のことなので、”パピルス” とは、ファラオが独占していたと。

で 誰しも ”マアト女神” さんと、取り出された己の心臓とが 天秤に掛けられるのだと。

現世で悪いことをしてなければ釣り合い、”オシリス神” さんのもとで、再生 すなわち

死後の楽園である ”イアルの野”(=エジプト)に行けるのだと。つまり エジプト於いて 同じものに戻れるが、 釣り合わなくば、頭は鰐、鬣と上半身が獅子、下半身は河馬の姿した ”幻獣アメミット” に食べられてしまって、永久に死者になれず消滅してしまうのだと。

 < 追 伸 > R3.11.11 記
 R3.11.1 付けブログを貼り付けます。ついに 行ってきたのです。憧れの地。

                 當麻寺さんのHPからいただいた『當麻曼荼羅』です。
 R1.10.5 付け当ブログ『折口信夫さん原作 『死者の書』感傷・観賞録』で触れていますが、
今藤政太郎さんが中心となって創られた長唄『死者の書』にインスパイアされ 展開した それに関連するアイテムは、今も強くココロに刻まれていまして、

R3.9.12 付け 産経新聞『ええねん!この本』という記事で、スタンダード・ブックストアの中川さんて方から、上島秀友さん著『小説 大津皇子 二上山を弟と』という本の出版を知るや否や、直ぐ様 購入し 読み了えてるといったふうに、
.
二上山さん・當麻寺さん・大津皇子さん・中将姫さんといった、切なくて えもいわれぬ哀愁を漂わせるアイコンが、ココロのデスクトップに しっかと張り付いちまってる オイラに、同居している長男から 先日、それを見透かしたかのように 

「22,23,24日の3日 使える "JR西日本 秋の乗り放題切符" があるんじゃが、22日の金曜日は仕事なんで、要るんなら使ってもええよ」という耳寄りな呼掛けがあったのです。結果正式発表は 12月なるも、仕事上 取得が所望されている二つの資格試験の自己採点結果に、明るい光を見出したことに気を良くしてのことかと思うのですが、コチトラーは すぐにコロナウイルスが如く、ヤッター !!! と 取り付いたという次第。

     プラットホームの 端っこから撮った、夢にまで見た二上山

JR天王寺駅に隣接、近鉄『阿部野橋駅』で『橿原神宮前行き』準急に乗り『當麻寺駅』到着。

         駅を出てすぐの所に「當麻寺 700m」と書かれた案内板がありました
.....
雄岳・雌岳 あるいは 俱舎峯・唯識峯 と称される二つの頂からなる二上山は、不多神山 二神山 尼上ケ嶽 白銀峯 二乗峯などと呼ばれ、天皇さんの霊力は、"天の二上" から湧き出る ”天つ水” により得られると信じられていた など、極めて神聖なる お山さんとして、古来より 崇め奉られてきたとのことですが、

実際に 仰ぎ見ますと、そう感じさせる神秘的な何かが、惹きつけて止まない何かが・・・貴賤 問わず、いにしえ人の 歓び哀しみ・情念 が凡て 集約されているかのような、とても奥深いものを包み込んでいるように感じられるのです。特に、お寺さんと お山さんの間に、ままならない 人の世の、数限りない恩讐が、行き交い 行き交い 漂っているふうに・・・・

そう感じさせるのは、太子様および ご一族のかげろひと、次のお三方にあるかな と思います。
  大津皇子さん ・・・・・・ 663 ~ 686
  石川郎女 (大名児) さん・・ 年代不詳(但し大津皇子と同世代でなくば 話が成り立たない)
  中将姫さん ・・・・・・・ 745~775
年代は このようですから、中将姫さんは、石川郎女さんとは ほぼ 3世代 離れているお方かと。さすれば、オイラは思えてしょうがないのです。ひょっとして、彼女の生まれ変わりではないだろうかと。『死者の書』を著わされた 折口信夫さんも、そのように感じられてたのではないでしょうか。憶測ですが・・・
.
それにしましても、中将姫様の美しさって、ハンパないです。ツムラさんが広告塔として使いたくなるの、よぉ~く 分かります。なお本段落の画像は、ネットから拝借・編集しています。
なお、上方に掲示してます『中将姫物語』は、当地で購入し、帰りの車中で読み了えた本です。
.
                         何とまぁ ええ 〇〇 だことか・・・
帰り路、当寺近くに建つ『葛城市相撲館「けはや座」』さんに立ち寄りました。日本の国技である相撲は、垂仁天皇さんの前で行われた、野見宿禰(のみのすくね)さんと當麻蹴速(たいまのけはや)さんの 力較べが発祥とされてます。勝負は、けはやさんが絞め殺されてしまうのですが、当地が けはやさんの出身地ということで、当相撲資料館が設けられている とのこと。
.
館内に 本物サイズの 土俵が誂えられてましたが、その大きさに びっくり仰天しました。

素晴らしいお顔の 大好きだった柏戸関の写真がありましたので、撮らせていただきました。


今回 當麻寺さんにお参りしたお陰で、H15.2.12 函物として完成をみてから 約19年、 当『待月百休庵』として取り揃えたい調度品が全て 揃えられたのであります。そのファイナルが、

當麻寺さんで購入してきた当寺のご本尊『當麻曼荼羅』のミニチュア。この上下部分を 取り置きしていた細竹に貼り付け、掛け軸として お床の壁に吊るせたことです。
..

で、また機会がありますと、二上山 雄岳山頂に設えられている 大津皇子さんの墓所にお参りしてきたく思っています。そう言えば、上掲の上島さんの ご本を読んで初めて知ったのですが、
大津皇子さんの大津は、滋賀県の大津から来てるとばかり思ってましたが、そうではなくて、

百済救済(白村江の戦い)に臨むべく博多の "な (女ヘンに那) の国” の大津に滞在しているとき、大田皇女( 中大兄皇子 (天智天皇) さんの妃)さんから生まれたので、大津皇子と名付けられたとの由。ちなみにその前年、大伯 (おおく) の海(岡山の邑久の海)にいるとき生まれた姫君が 大伯皇女でありまして、その近くに住まうオイラにとりましては、より身近に感じられることでありますし、

さらに、天皇さんとなられるに相応しい、 非の打ちどころのない 素晴らしい男振りの方でいらしたという大津皇子さんに、大層 よく似たお顔立ちの 聖観音菩薩様が 薬師寺東院堂にいらっしゃるとのことで、一度 拝顔できたら とも思っています。

                 ウェブから頂戴した 当該 聖観音菩薩様の御画像です。

 < 追 伸 > R4.5.28 記
 7.16~8.28『奈良国立博物館』さんで『中将姫と當麻曼荼羅』という催しがあるようです。
.



 < 追 伸 > R5.1.25 記 
 R5.1.21 BSフジ『にっぽんの道』『第2話 古代の文化が通った道 竹内 (たけのうち) 街道』で、この情景が映し出されました。
.

 

 < 追 伸 > R5,12.2 記

 R5.10.2 BS11『京都浪漫』で、京都 永観堂 禅林寺さんの 国宝『山越阿弥陀図』が映し出されました。中将姫さんがご覧になられた阿弥陀如来様は、こんなお姿だったのかもしれません。

 

 






 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする