百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

百休気まぐれ 8泊旅(12)【日立市】

2010-08-04 12:44:38 | 日記
 時間軸を元に戻します。
会津若松からでありますが、給油キャップを つい忘れてしまった郡山の
ガソリンスタンドを経由しまして、磐越道→常磐道にて日立市に入りました。

ここは、18~19歳に亘る1年間、人生なんて知る由もない新入社員時代と、
20~21歳時 給料戴きながらの全寮制企業内工業専門学校(その昔 アメリカの
雑誌「TIME」の表紙になったこともあります)時代の、都合 2年 を過ごした
場所であります。

海岸工場の周りを 車で2周しましたら、
「ああ 工場のほうは ほとんど同じなんかなぁ」と確認したのでありますが、
しょっちゅう行っておりました駅前の田所書店は、周りが変わり過ぎており
まして、車からは 分かりませんでした。

次に 最初に入った寮の面影を偲ぼうと、兎平から坂道を上がったので
ありますが、このほうも まったく見る影もなく変わってしまっておりまして、
その昔 東洋一の音響設計だと、当時はその名を轟かせておりました、
愚生が会社の音楽祭で、アカペラで「ダニーボーイ」を歌い「努力賞」を
お情けで戴いた、栄えある創業者の名を冠された大劇場「小平会館」が、
見る影もなく こじんまりと、鼠色に、地味に地面に伏せっているのが
見えたっきりであります。

なお、がっかり度が過ぎまして、もうひとつの寮「茨専寮」には、
時間のこともあったのですが、見に行く気になりませんでした。

今 思いますに「志学寮」なんて、なんとも素敵な名を付けたものかと
思われます。当時の会社の意気込みが よく伝わってくる名付けであります。
東北出身の 寮の若くて可愛いマカナイさんに、陰ながら見守られながら、
誰もが、同じ作業ジャンパーを着て、眼下に広がる雄大な太平洋や
昇る朝日を拝しながら、毎日 元気に出勤していたものであります。

次に向かいましたのは、
旅行2日目に滞在しました郡山の市立図書館の電話帳で、
入社時 お世話になった配属先の直ぐ上でありました先輩のお名前が、
渡辺でなく渡部であったことに なかなか気付かず、ずいぶん手間取ったので
ありましたが、何とか電話番号を特定でき、前夜 連絡が取れております
お宅であります。

昭和22年生まれの、旦那さんと同じ山形県出身の、
芯から明るい きれいな奥さんの 温かいおもてなしを授かりながら、
懐かしい先輩に、日立地区代表として、お会いいただいたのであります。
愚生と同じように 56歳で早期退職されたとのことでありました。

宮本という、素手での波乗りを教えてくれた、自転車で一緒に江ノ島まで
行った同期のナイスガイに 特に会いたいと思っているのでありますが、
下の名前の記憶を失ってしまっているため 電話番号帳では特定できず、
また ひょっとして当地にきたら思い出すのではないかとの 甘すぎる
一縷の期待も案の定 外れまして、あきらめざるを得ない状況にて、
後ろ髪を引かれつつも、南に向かったのであります。



新入りのオイラの頭を押えている右側の人が 渡部先輩であります。
何キロ先だったか忘れてしまいましたが、北に行ったところの海岸です。


志学寮の きれいな マカナイさんたちです。納涼大会かなんかです。


当時の茨専寮です。


茨専寮から見た日立茨城工業専門学校です。
志学寮からも 同じように 太平洋が見えました。
コメント (1)
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