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女優列伝Ⅵ 賀原夏子1   無知の涙 死刑執行20年

2017-08-02 03:51:38 | 日記
A.女優列伝Ⅵ 賀原夏子1
 少し回り道の話ですが、賀原夏子さんにいきます。以下は、Wikipediaなどを参照。
「文学座」は日本の新劇「御三家」と呼ばれた大手劇団のひとつで、戦後すぐから多くの有名俳優を擁して公演していたが、1963(昭和38)年1月14日、文学座所属の芥川比呂志、岸田今日子、小池朝雄、神山繁、加藤治子、仲谷昇、三谷昇、山崎努、名古屋章、橋爪功ら、有望な中堅俳優が集団で脱退して、福田恆存と組んで現代演劇協会附属・劇団雲を創立した。「この大量脱退騒動は、劇団の中心にいた杉村春子体制への反発が発端だといわれる。そんな中、三島由紀夫は同年1月16日、劇団・文学座の結束を固め再出発したい旨の声明を発表し、2月11日に文学座再建のためのプランを発表。三島は、「現代劇の確立」「西洋演劇の源流を探る」「日本の古典を探る」という3つの課題を提示し、三島潤色のヴィクトリアン・サルドゥ原作の『トスカ』を、杉村春子主演で上演した。
そして、翌年の1964年(昭和39年)正月公演用の戯曲が三島に委嘱され、『喜びの琴』が提供された。『喜びの琴』は、言論統制法を内閣が制定しようとしている時代(当時からみた近未来)を背景にしており、反共主義思想を固く信じる若い公安巡査・片桐を主人公にした、政治色の強い題材の作品であった。劇中に起こる「上越線転覆事件」は松川事件を連想させる内容であり、同年9月に松川事件の首謀者とされた国労関係者20名の無罪が確定したばかりであった。しかし、作品の結末は、「思想の絶対化を唯一の拠り所として生きてきた片桐は、その思想が相対化されるといふ絶対的な孤独の中で、観客には聞こえない琴の音に耳をすませ、仕事に戻る ――」という、信じていた上司に裏切られた若い公安巡査の悲劇を描いたもので、政治的プロパガンダ作品ではなかった。
同年1963年(昭和38年)11月20日、杉村春子、長岡輝子ら文学座劇団員の臨時総会が開かれ、話し合いの末、『喜びの琴』上演保留を決定。翌日、戌井市郎理事らが、その上演保留決定を三島に伝え申し入れた。三島は、保留ではなく中止とすることで、「文学座は思想上の理由により上演中止を申し入れ、作者はこれを応諾した」という証書を取り交わした。そして11月25日、三島は戌井市郎理事に文学座退団を申し入れ、11月27日の『朝日新聞』紙上に、「文学座の諸君への『公開状』 ― 『喜びの琴』の上演拒否について」を発表し、上演中止に至る経緯と顛末を書くとともに痛烈な内容で締めくくり、その翌日に矢代静一、松浦竹夫も文学座退団を声明した。同年12月15日、三島は『週刊読売』に「俳優に徹すること ― 杉村春子さんへ」という記事を発表した。
同年12月、三島、矢代静一、松浦竹夫のほか、青野平義、奥野匡、荻昱子、賀原夏子、北見治一、丹阿弥谷津子、寺崎嘉浩、中村伸郎、仁木佑子、真咲美岐、南美江、宮内順子、水田晴康、村松英子ら10数名が次々と文学座を正式に脱退する。1964年(昭和39年)1月10日に脱退者によりグループNLT(1968年に劇団NLTとして再編)が設立され、岩田豊雄(獅子文六)、三島が顧問として迎えられた。NLTとはラテン語で「新文学座」を表すNeo Litterature Theatreの頭文字で、岩田豊雄により命名された。なお、『喜びの琴』は1964年(昭和39年)5月7日に、日生劇場で浅利慶太の演出により上演された。」

この「喜びの琴事件」は、文学座内のただの人間関係の紛争ではなく、当時の思想的構図のなかで、どのような対立だったのか?三島の作品は、既成左翼の潮流に立つ杉村派文学座主流と三島の藝術的美学思想の矛盾を、60年安保後の思想状況の転換のなかで、「喜びの琴」を反共右翼的な作品として上演拒否とする劇団首脳部に対する反乱ということになる。この渦のなかに、中堅女優の賀原夏子さんもいた。しかも新たに立ち上げたNLTの主宰者になった。

「賀原 夏子(かはら なつこ、1921年1月3日 - 1991年2月20日)は、日本の女優、演出家。本名は塚原 初子。文学座に入座して多くの舞台に立ち、地味な老け役で活躍した。喜びの琴事件で文学座を脱退後は劇団NLTを結成してその主宰となり、フランス喜劇の上演に意欲を燃やした。舞台のほか映画、テレビドラマへの出演も多い。メイクアップ技術の研究家としても有名で、『賀原夏子のメイクアップ入門』の著書がある。主な出演舞台に『二十六番館』『島』、映画に『流れる』『女の歴史』など。演出家として『ロマノフとジュリエット』なども発表。
1921年(大正10年)1月3日、東京府東京市牛込区余丁町(現在の東京都新宿区余丁町)に生まれる。父は元東京農業大学常務理事の塚原周吾、祖父は東洋汽船創設者の塚原周造である。東洋英和女学校小学部を経て、1938年(昭和13年)に東洋英和女学校を卒業。同年、創立間もない文学座の研究所に第1期生として入る。同期生に青野平義、荒木道子、小山源喜らがいる。1939年(昭和14年)に『父と子』の女中役で初舞台を踏み、翌年に座員に昇格、田中澄江作『はるあき』では19歳で48歳の先生役を演じた。1943年(昭和18年)、文学座同期の岩本昇三と内輪の祝言をあげる。1945年(昭和20年)、東京大空襲の最中に初演を迎えた森本薫作『女の一生』で、杉村春子演じる布引けいの姑役をわずか24歳で演じる。戦後も『二十六番館』『マリウス』『島』などほとんどの作品で老け役を演じ、人のいいおばさん、ずる賢い老女、意地悪い姑といった役を得意とした。
1963年(昭和38年)12月、喜びの琴事件をきっかけに文学座を脱退、翌1964年(昭和39年)1月に岩田豊雄、三島由紀夫を顧問にして矢代静一、青野平義、中村伸郎らとグループNLTを創立。『サド侯爵夫人』を上演して成功を収めるが、劇団の分裂で1968年(昭和43年)に新生劇団NLTの主宰となり、フランス・プールヴァール劇の上演に意欲を燃やした。その後は森繁久彌主演の『屋根の上のバイオリン弾き』でイエンテを演じ、演出家として『ロマノフとジュリエット』『ササフラスの枝にそよぐ風』などを発表した。
映画には、1946年(昭和21年)の木下惠介監督『大曾根家の朝』で初出演し、その後は東宝を中心に各社の作品に脇役出演した。特に『流れる』『女の歴史』など成瀬巳喜男監督作品の常連だった。テレビドラマにも『これが青春だ』などの青春学園シリーズ、チャコちゃんシリーズなど多数に出演した。1991年(平成3年)2月20日、卵巣癌のため東京都港区の済生会中央病院で死去。70歳没。入院して亡くなる直前まで主演舞台に立ち続けていた。遺灰は海に散骨された。



B.「無知の涙」
 貧困という概念には二種類あって、ひとつは「絶対的貧困」、もうひとつは「相対的貧困」で、前者は人間が自分の生命を維持する最低限の条件すら危うい事態、空腹を満たす食べ物、寒さをしのぐ着るもの、住む家にも事欠く生活にあること。後者は、ある社会のなかで、豊かな人、普通の生活をしている人、とりあえず平穏に暮らしている人に対して、明らかに経済的に苦しい不利な立場あることである。所得、資産、教育、社会的位置に明らかな格差があることは事実で、いずれにせよ過酷な貧困のなかで育った若者が、どのような精神の窮迫に陥るのかも、普通の生活を疑問もなく享受しているマジョリティーには、理解の糸口もない。
 どんなに不幸な境遇にあったとしても、それが殺人が許容される理由にはならない。とはいうものの、自分が自分の意志で望ましい道を選ぶことが入口から拒絶された人間には、社会への凶暴な反発憎悪を抱いたら非難されるべきなのか?しかし、だからといって罪なき人の命を奪っていいわけはない。

「永山死刑囚 愛の461通:死刑執行20年 元妻との書簡、本に「オレにも、人としての感情が」
 1968年に4人を射殺した永山則夫・元死刑囚が、97年に刑を執行されたから1日で20年。元死刑囚が獄中結婚した女性と交わした手紙のやり取りを、北海道新聞記者の嵯峨仁朗さん(57)が「死刑囚 永山則夫の花嫁 ≪奇跡≫を生んだ61通の往復書簡」(柏艪社)にまとめた。元死刑囚が手紙を通じて愛を深め、心境を変化させていく様子が浮かび上がる。
 永山死刑囚は19歳だった68年に東京、京都、函館、名古屋で計4人をピストルで射殺し、97年8月1日に死刑が執行された。
 米国在住だった和美さん(61)は、一審で死刑判決を受けた永山元死刑囚の著書を読んで感銘を受け、24歳だった80年4月に手紙を送った。そこから日米間での文通が始まる。
 「私は、殺人者のあなたをも受けいれています。殺した罪は許せない。悪い、悪い罪です。なのに、あなた自身を愛せているミミです」(和美さん)
 「ミミからの二通の手紙を受け取りました。読んだあと、事件のことを忘れるくらい幸福感がありました。『オレにも、人としての感情があるのだな』と強く思わせてくれるものでした」「ミミが愛をおしえてくれた人なのです」(永山元死刑囚)
 その後、来日した和美さんと80年12月に結婚。翌年の二審で無期懲役判決を受けるまでの約1年5カ月で交わした461通の手紙からは、愛や嫉妬、互いへのいたわりなどが表れている。嵯峨さんは「限られた時間しか面会できない2人にとって、手紙は大きなコミュニケーションの手段だったのだろう」と話す。
 手紙には、和美さんが事件の遺族に会いに行った様子も記されていた。遺族が墓を清める姿や、強く握られた手に悲しみや怒りを和美さんは感じたという。
 和美さんは「この手紙のやりとりをしていた時が則夫にとって気持ちが安定していた時期のように思う。こんな時間を小さいころに家族と過ごしていれば事件はなかったはず」と語ったという。86年4月、2人は離婚した。
 嵯峨さんは「東京タイムズ」の駆け出し記者だった80年代、和美さんや支援者らと関係を築いた。死刑執行後、手紙を持っていた関係者から委ねられ、自宅に保管し続けていた。「人を愛することで、『生きる』ということについて考えを深めていく永山を感じてほしい」と話す。
 「こんなにも純粋に人を愛したことがありますか?」。出版を担った柏艪社の可知佳恵さん(43)は、こう帯につづった。 (板東慎一郎)」朝日新聞2017年8月1日夕刊、8面社会欄。
 *永山則夫元死刑囚:19歳だった1988年に東京都内のホテルで警備員を射殺、その後京都などでも3人を射殺し、90年に死刑が確定した。一審で死刑判決が出たが、二審は劣悪だった家庭環境などを酌量の理由に無期懲役に、二審判決を破棄して差し戻した最高裁が示した9項目(被害者の数や残虐性など)の死刑適用の基準は、「永山基準」として知られる。

 永山則夫『無知の涙』は、獄中で初めて多くの書物を読み、自分がなぜこの社会で凶悪な殺人者として死刑囚になっているのかを、改めて知的に理解するという精神の転回を遂げる。それを読んで感銘を受けた若い女性が、彼との結婚という選択をする。
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