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お城と軍隊3 金沢城  狼が来た!マンガじゃなく…

2020-08-01 02:53:19 | 日記
A.歩兵第7連隊から金沢大学へ
 前回、明治21年の鎮台から師団への改組時に、全国に6師団が置かれ、金沢の城跡には歩兵第7連隊が設置されたという所まできた。その後も日本陸軍は新たな師団と聯隊を増加させていき、北海道に第7師団(旭川)歩兵第25連隊豊平、26・27連隊旭川、明治31年には29連隊(会津若松)、30連隊(高田)、31連隊(弘前)、32連隊(山形)、33連隊(津)、34連隊(静岡)、35連隊(富山)、39連隊(姫路)、41連隊(福山)、42連隊(山口)、43連隊(徳島)、47連隊(大分)、48連隊(久留米)、明治38年49連隊(甲府)、と増加の一途をたどったが第53連隊(奈良)以下は1925(大正14)年の宇垣軍縮で廃止。
 宇垣軍縮というのは、第1次世界大戦後に世界的な軍縮の機運が進み、まず海軍の軍艦などの軍縮、そして陸軍も1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災の復興費用捻出のためとして、1925(大正14)年5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下に実施された軍縮のこと。具体的には21個あった師団のうち、第13師団(高田)、第15師団(豊橋)、第17師団(岡山)、第18師団(久留米)、および連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を廃止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6,000頭が削減された。
 軍縮は、国際情勢が危機状況にはなく、各国が合意して軍事予算を削って軍備を減らすのだが、軍当局にとっては単に戦力を縮小するというより、これを機に、装備の近代化と組織の合理化をすすめる、いわばスクラップ&ビルド計画でもある。それは1個戦車連隊(久留米)1個高射砲連隊(浜松)、2個飛行連隊(浜松・屏東)、1個台湾山砲連隊(台北)、陸軍自動車学校(東京)、陸軍通信学校(神奈川)、陸軍飛行学校(三重、千葉)を新設していることでも、軍の近代化を目指していたことがわかる。宇垣軍縮は、やがて昭和の陸軍内の対立につながっていった。
 「聯隊」は大佐または中佐である聯隊長のもと、聯隊附きの副官、旗手、武器掛、喇叭長、書記、軍医、縫工長、靴工長などが配され、聯隊内に3つほどある大隊にもそれぞれ大隊本部があった。連隊長、連隊附少佐、連隊副官、2等軍医正、大隊長及び大隊副官が乗馬本分者といって専用の馬に乗ることになっていた。つまり馬に乗って外出するのは聯隊の幹部将校ということになる。地元の人々にとって、わが町に帝国陸軍の聯隊があるということは名誉であり、それが旧藩主の殿様がいた城に腰を据えて訓練の日々を送っているということは、いずれ男子は徴兵年齢が来て兵役の務めをあそこで果たすのだと思っていたのだろう。 
 ただ、大正から昭和のはじめまでは、大きな戦争もなく軍隊の存在は人々の日常からは隔離された世界だった。徴兵される若者も、検査で甲種合格の健康で体格のよい体育会系中心で、みんなが兵隊になるわけでもない。日露戦争後の軍縮時代は、兵役で2年の訓練と軍務に就く若者は、同世代の3割か2割くらいだったという。実際に海を越えて戦地に行くような可能性は乏しい。宇垣軍縮に合わせて旧制中学などでの学校教練が始まったのも、軍旗祭などの行事に市民を呼んで見学させたのも、民衆が軍隊の存在にあまり関心がなかったことへのアピールだったかもしれない。それが次第にきな臭くなるのは満洲に戦乱が拡がり、聯隊も地元を離れて旅団ごと大陸へ移駐するような噂が囁かれる戦争の時代がくる。

 「金沢城   深田久弥
 金沢の城跡は私には思い出が深い。敗戦になるまでそこは歩兵第七聯隊のあった所で、もう三十年も前、私はそこで十ヵ月の兵営生活を送ったからである。
 幹部候補生として一緒に寝起きした仲間のうちには、今度の戦争で亡くなった者も多い。折口信夫氏の養子となった藤井春洋君も硫黄島で戦死したが、彼は実兵指揮のうまい優秀な兵隊だった。私たちの兵舎は大手門の入口で、日曜の外出にあんころ餅を買ってこっそり軍服の腹に隠して持ち帰るところを衛兵に見つけられ、散々油をしぼられたこともあった。衛門を入るとすぐ広場があって、私たちは幾度そこで分列式をやり閲兵を受けたことだろう。「半輪ニ右ヘ曲レ」などという号令で、重たい歩兵砲の訓練を受けたのもそこであった。
 酒保は鶴の丸の方へ上る坂の上にあった。一日の軍務を終えた我等兵たちは、そこで「ほまれ」を買い、ぜんざいを食った。酒保の窓からは遠く河北潟が見渡された。夕食後にはよく本丸跡へ上がって号令の練習をした。すぐ眼の下には金沢の町が拡がっている。新兵の時は、明かりのつき始めたその町が無性に恋しかった。
 野外演習へおもむく時には石川門から出る。これが金沢城の唯一の城らしい名残りで、東大の赤門に対して黒門と呼ばれていた。そのガッチリした門を隊列正しく出て行くと、馬に乗って出勤してくる大隊長によく出会った。「歩調取レ!頭(カシラ)右!」大隊長はちょっと馬を留めて、「おい、その兵、第一ホックがはずれとる!」
 細かい点によく気のつく直属上官であったから、この出合を私たちはひたすら怖れたものである。
 戦後、この兵営は金沢大学に引き継がれた。金沢に疎開していた私はよくそこへ散歩に出かけたが、本丸などは草ボウボウで、ほとんど人を見なかった。町の真ん中にこんな野性的な古城趾を有する所も少なかろう。私はそこが好きだった。今はどうなっているか。
 昔の城跡は大てい兵営か学校に利用されたが、私の故郷の大聖寺町にも錦城山という城砦の名残りがあって、この麓の殿様の屋敷が小学校であった。大広間の唐紙をはずして体操場としたので、柱が多く、素手の遊びには好都合であった。明治末年のことである。(作家)」日本城郭協会編『金沢城とその周辺』1960. 

 この文章の筆者、深田 久彌(1903年 - 1971年)の経歴をWikipediaでは、石川県大聖寺町(現在の加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家とある。山をこよなく愛し、読売文学賞を受賞した著書『日本百名山』は特に良く知られている。俳号も山の入った「九山」。旧制福井中学から第一高等学校に進み、堀辰雄や高見順と交遊。東京帝大文学部に入るが、1927年(昭和2)年、帝大文学部哲学科に在籍しつつ当時円本ブームに沸いていた改造社に入社。懸賞小説の下読みをする過程で北畠八穂と知り合い、恋に落ちる。1930(昭和5)年より北畠と同棲を始めるとともに『オロッコの娘』などの小説を発表。作品が好評なことに勇気を得て大学を中退、勤めを辞めて文筆一本の生活に入る。1932(昭和7)年に発表した『あすならう』で文壇の評価を確立したが、実は『あすならう』も『オロッコの娘』もその他の作品も、北畠の作品の焼き直しだった。このことに気付いた小林秀雄や川端康成から厳しくたしなめられ、時には深田自身が独自に作品を書くこともあったが、全くの駄作に終わったという。1933(昭和8)年10月、『文學界』が創刊され同人となる。同人は他に広津和郎、川端康成、小林秀雄、林房雄、武田麟太郎がいた。深田はこの年編集委員になり、1935(昭和10)年に日本山岳会に入会する。
 1940(昭和15)年3月、北畠と入籍して正式に夫婦となる。だが、翌1941(昭和16)年に初恋の女性・木庭志げ子(中村光夫の姉)と再会して道ならぬ恋に落ち、脊椎カリエスで寝たきりの北畠を差し置いて志げ子と逢引を繰り返す。一方、かねてから親交のあった中島敦は、1941年6月にパラオに出立する前に、深田に自身の原稿をまとめたもの『古潭』を託し、発表の仲介を依頼した。深田は1942(昭和17)年に、前年託された中島の原稿のうち『李陵』『山月記』、また田中英光の『オリンポスの果実』の原稿を『文學界』に紹介する。1943(昭和18)年5月、志げ子が深田の子を出産したことが北畠に露見。それから4年後の1947(昭和22)年に北畠と離婚の上、志げ子と再婚。激怒した北畠に小説焼き直しの件を暴露されたため、作家としての深田の信用は失墜し、10年以上にわたる雌伏生活を余儀なくされた。1959(昭和34)年から1963(昭和38)年にかけて、山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を50回行い、推敲の上で新潮社から1964年に『日本百名山』を出版する。同書は翌1965(昭和40)年に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞、人気作家に返り咲く。1971(昭和46)年3月21日の登山中、茅ヶ岳山頂直下で脳卒中のため68歳で死去。 

 こう見ると、ずいぶん「文学的」人生を送った人だなと思うが、ぼくも若い時山岳部で山登りをしていた人間だから、『日本百名山』の文章は知っている。でも石川県大聖寺出身で、兵役を金沢城の第7連隊で送ったときは帝大入学前の昭和初年あたりだろう。山登りで体力は鍛えていただろうから、金沢での軍隊経験はかなり“楽しい青春”という感じに読める。この世代の人たちは、あの大戦争には30代後半で戦地に行くこともなくやり過ごした、ある意味では幸運な人たち。
 戦後、金沢城祉は軍隊が消えて、国立大学の校舎になった。ただそれは第七聯隊の兵舎を金沢大学の校舎に転用して使っていた。金沢には戦前の旧制高校ナンバースクール「四高」があり、今もその伝統的な校舎の一部が残っている。ただそれは金沢城の濠の外にある。



B.コロナ危機はいずれ去るけれど…核戦争は突然世界を終らせる?
 ネットで「オオカミが来る!」を検索したら、マンガの納都花丸『オオカミが来る! 1〜GIB MIR』の情報がず~っと並んでいて、日本人のマジョリティの関心というものは、マンガで動いているんだとひとしきり感心した。「狼が来る」というフレーズは、「羊飼いと狼」 と云う題のイソップ童話の中でも代表的なものの一つ。その話は…、村はずれの牧場で羊の世話をしている羊飼いの少年が、いつも一人ぼっちで淋しいし退屈なので、いたずらして大人たちを脅かしてやろうと考え、狼が来てもいないのに、「狼が来たぞ~」 と叫ぶ。 その声に驚いて、大勢の村人たちが手に手に棒を持って駆けつけてきたが、どこにも狼は居ないので、やがて帰ってゆく。面白がった少年は、来る日も来る日も嘘をついて 「狼が来たぞ~」 と叫ぶ。 初めのうちはその度ごとに村人たちが駆けつけて来たが、そのうちに、村人は少年を信用しなくなり、 「狼が来た」 と叫んでも、どうせまた嘘だろうと思って、誰も駆けつけて来なくなってしまう。ところが、ある日、本当に狼がやって来た。少年は「狼が来た」と必死で叫ぶが、村人は誰も来てくれず、少年は狼に襲われて喰われてしまった。と云うお話。
  人類が核戦争である日滅亡する、という可能性は現実に起こり得る。しかし、それを叫び続けていると、なんだまたか・・もう飽きたぜと「オオカミが来た」になってしまうという、笑えない。これはイソップ童話ではなく、現実のことなのだ。

 「今は冷戦期以上の核危機だ:地球滅亡までの時間を示す「終末時計」は、残り100秒を指し、第2次世界大戦後で最も危機が迫っている。かつて米国の核政策に深く関与したウィリアム・ペリー元国防長官は、新著「核のボタン」で「冷戦期以上の核危機にある」と指摘する。その理由は。「滅亡」回避のための手立ては。ペリー氏と、共同執筆者のトム・コリーナ氏に聞いた。
 -今の状況をどう見ていますか。
 ペリー氏「冷戦期以上に核の大惨事が起きる可能性がある。この危機は指導者にも市民にも理解されていない。より多くの人が危機を知り、指導者に行動を促すべきだ」
 「核戦争が起きれば広島・長崎のように単発ではなく、核は数百発単位で一斉に放たれ、すぐに1千発単位の応酬になる。地球全体に劇的な気候変動が起きる『核の冬』をもたらす」
 ペリー氏はかつて、現在の米国の核戦力となっている戦略核システムの開発を統括。ステルスやGPS(全地球測位システム)、スマート兵器などの先端技術の導入につながり、現代の戦争の様相を変えた。
 「ソ連から200発」に混乱
 —-新著「核のボタン」で米国の核政策の誤りを指摘していますね。
 ペリー氏 「米国の核政策は誤った脅威に基づき、人びとをより大きな危険にさらしている」
 「米国では、大統領一人に核兵器を発射できる権限を握らせている。しかし、大統領も人間。気分の浮き沈みもあるし、精神的な問題があったり、情緒不安定だったりする。ニクソンは数々の状況で酔っ払っていたし、ケネディは激しい痛みを抑える鎮痛剤を服用していた。トランプは衝動的だ」
 「警報システムが故障して、偶発的に核戦争が始まりそうになったことが何度もあった。私が知る限り3回経験している。米ソ冷戦期、夜中に電話がかかってきて、ソ連から米国に向けて200発の大陸間弾道ミサイル(ICBM)が飛んできているのがコンピューター画面に映し出されているということがあった。誤警報だと直前でわかった。問題なのは、大統領はミサイルが到達するまでの『10分かそれ未満』で判断しなければいけないことだ」
 トランプ政権は2018年2月、核体制見直し(NPR)を公表。通常兵器による攻撃に対しても低出力の核兵器で報復する選択肢を増やすとした。現在も核の先制使用方針は放棄していない。
 —-米国は昨年8月、米ロ間の中距離核戦力(INF)全廃条約を失効させたのに続いて、今年2月、低出力の核兵器を米軍の潜水艦に配備しました。
 コリーナ氏 「低出力の核兵器はむしろ核戦争の恐れを増大させる。大統領が通常兵器と同じように使えると誤解するリスクがある。一方が低出力兵器を使えば、相手も低出力兵器の使用にとどまるという理論に基づいているが、保証はない。極めて危険だ」
 —-米国はどのように政策を変えるべきですか。
 ペリー氏 「核兵器の先制不使用宣言をするべきだ」
 コリーナ氏 「先制使用しないと決めたら、危険かつ1500億㌦という多額の費用がかかる新型の地上配備型ICBMから段階的に削減すべきだ。敵国からの核ミサイルで真っ先に破壊される対象となるしかなく、配備し続ける意味がない」
 経済危機 核は削減対象
 —-11月の米大統領選は米国の核政策にどう影響を与えますか。新型コロナウイルスが政策にどう影響するかも気になります。
 ペリー氏 「新型コロナとそれがもたらした経済危機によって、次期大統領は国防予算を削減するか、天文学的な額の負債を拡大させ続けるかという明確な選択をしなければならない。なかでも、核兵器は明らかに削減対象だ」
 コリーナ氏 「オバマ政権の副大統領だったバイデン氏は当時、先制不使用政策を支持する演説もしていた。当選すれば、こうした政策に切り替えるだろう。そしてロシアとの間で米ロ間の唯一の核軍縮の枠組みになっている新戦略兵器削減条約(新START)も来年2月に期限切れになるが、それを延長するだろう」
 ペリー氏は07年、ヘンリー・キッシンジャー氏らとともに「核兵器のない世界」の論考を発表し、「四賢人」の一人とされた。オバマ大統領の09年のプラハ演説の理論的支柱となった。
 —-オバマ氏は結局、「核なき世界」の公約を進められませんでした。 
 ペリー氏 「オバマ大統領が熱心に核廃絶をやろうとしたのは疑いない。しかし、10年にロシアとの間で締結させた新SRARTは、米議会での批准と引き換えに、核戦力の再構築とミサイル防衛を制限しないという条件を共和党にのまされた。それ以上進めるのは政治的に無理だと結論づけたのだろう」
 原爆への道 批判免れぬ 
 —-核軍縮の問題は米ロだけではなく、いかに中国を核軍縮交渉に取り込むかが重要で、米国が核を減らすと、中国は米国が弱みを見せたと考え、結果的に中国の軍縮につながると指摘する専門家もいます。
 ペリー氏 「中国の核戦力は米ロよりも遥かに小規模で、保有彈数は300発程度だ。したがって、米国は1千発まで削減しても、中国に対して優位を保持できる。まず米ロが核削減を打ち出すことだ」
 —-コロナ禍で断念しましたが、ペリー氏は8月に長崎、広島を訪問する予定でした。75年前の米国による原爆投下をどう捉えていますか。
 ペリー氏 「広島と長崎に原爆を落とさなくても戦争を早期に終わらせられたかは議論がある。ただ原爆を使うぞと脅したり、無人地帯での投下実験をしたりして日本を牽制するという代替案を当時の米国の政策決定者が真剣に検討しなかったことへの批判は免れない」
 (オンライン会議システムを通じて取材しました) (聞き手・田井中雅人、伊藤喜之)」朝日新聞2020年7月24日朝刊、21面。

 ドナルド・トランブに理性があるとしても、ちょっと核兵器の威力というものを思い知らせてやりたいという衝動が、ボタンを押してしまうということは、きわめて人間的である以上、核危機はありうる。
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