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日本絵画の近代化は結局西洋の模倣に終わった? あふれかえる音楽

2017-11-28 02:04:37 | 日記
A.日本絵画の「近代化」をめぐって
 歴史というものは一直線に進化するものではない。さまざまな動きが一気にある方向へ加速する時代もあれば、これといった進歩がなく伝統を墨守するだけに終わる時代もある。田中英道『日本美術全史』を読んできたが、こういうことも考える。美術は文化の表層に漂う技芸のひとつであるとすれば、それが飛躍的に新しい作品を産み出す時代とは、社会的経済的に活性化した時代、いわば乱世(日本の歴史で政治的に大きな転換点だった南北朝とか戦国時代、そして幕末)においてなのか、それとも政治的社会的に比較的平穏で変化に乏しい平和な時代(たとえば北条武家政権が安定した鎌倉時代や江戸時代)においてなのか?これはちょっと難しい問いだが、少なくとも明治維新以後の日本の美術は、西洋美術との対決ではなくて一方的な摂取だったというのが田中先生の見解だろう。江戸浮世絵の北斎や広重は、すでに西洋の遠近法や陰影法を自分の絵のなかに使いこなしていたが、明治以後の画家のように、西洋の流行絵画に「影響され」模倣するようなことはしなかった。

「一八九八年(明治三十一年)岡倉天心が東京美術学校を辞めざるをえなくなったのは、若くして校長になった彼に対する誹謗があったからであるが、その私怨の原因は伝統的な木彫に洋風の彫塑を加えようとした大村西崖らが、国粋保存派の天心一派と対立したからである。辞任後、彼を慕う美術家たちと日本美術院を結成した。
 ここでは一見、洋風派と和風派の対立のように見えるが、果たしてそうであろうか。日本美術院には橋本雅邦を中心として横山大観(1868-1958)、下村観山(1873-1930)、菱田春草(1874-1911)らがいた。彼らは「朦朧体(線ぬきの色彩画)」をもって一つの主張をしたといってよい。この画法は岡倉天心が画家たちに、「空気を描く工夫はないか」と問うたことから発したと言われているが、これは黒田清輝ら西洋画がもたらした「外光派」の応用であった。これはまさに陰影法をいかに日本画の伝統の中に組み入れようとしたか、その努力の一端といってよい。一九〇四年天心は大観、春草を伴って渡米するが、そこで見出したのはホイスラーの「トーナリスム」という輪郭抜きの描法であった。あるいはターナーにおける雰囲気描写であった。その「朦朧体」に琳派の技法を加えて日本風に工夫をこらしているが、それは西洋風の大気表現の導入の一部であった、と捉えることが出来る。つまり彼らの対立は結局同じ洋風化に他ならなかった。
 大観の『屈原』(一八九八年、厳島神社)の中の色没骨の草叢の描き方はまさに西洋画的な雰囲気描写であったのである。するとこの荒涼たる野を歩む屈原こと天心の姿は、やはり洋風を追った姿であったのである。観山の代表作のひとつである『木の間の秋』(一九〇七年、東京国立近代美術館)が、琳派風の装飾的な樹木の配置でありながら、そこには西洋風の遠近法、明暗法がはっきり使われ、これが西洋風の日本画であることを示している。また春草の同じ林をあつかった『落葉』(一九〇九年、永青文庫)も、その樹木の肌の犀利な表現と空気遠近法は、西洋画の写実を取り込んだもの、といえるのである。
 これは京都の竹内栖鳳(1864-1942)も異なるものではない。一九〇〇年栖鳳が欧州旅行したときターナーとコローに注目し、そこに「本当の風景画」を見出したのも、日本画と西洋画は異なるものではないことを感じていたからである。東京は色彩を、京都は筆法をおもんていると区別していても、内実はともに西洋絵画の摂取と吸収であった。栖鳳が帰国後、西洋の「写意」を重んじ、その基礎に《実物を知悉》しようとする徹底した写実精神がある、と感じ、日本画科の「写意」を《習慣的に古風を習得し、約束に許り拘泥して》いる、と批判するとき、日本画はまさに西洋画となったし、ひとつのものであるといったことに等しい。しかし栖鳳が『アレ夕立に』(一九〇九年、高島屋資料館)とか『絵になる最初』(一九一三年、京都市美術館)のように人物を主題にするとき、風景を、動物画で用いた陰影法や写実を捨てて装飾風の二次元的に描くのは、まだ日本画を信じている証拠である。画家たちの多くは、相変わらず日本画は西洋がと異なるものと思う不可思議な現象が続いている。
 彫刻の方でも同じことが言える。一八七六年(明治九年)に工部美術学校に彫刻家がおかれ、イタリア人ヴィンチェンツォ・ラグーザ(1841-1928)が招かれ、六年間塑像・大理石などの彫刻を教えた。その生徒の一人長沼守(もり)敬(よし)(1857-1942)は、六年にわたってヴェネツィア美術学校で学び、一八八七年(明治二十年)に帰国したが、それは『老夫』に示されるように写実そのものであり、一方では高村光雲(1852-1934)などが伝統的な木彫を受け継いでいたが、『老猿』などで見えるのは、やはり同じ写実に基づくモニュメンタリティである。
 しかし単に写実だけでなく、そこにロダン風の生命観を付与しようとしたのは萩原守衛(1879-1910)で、彼ははじめ絵画の方に意を注いでいたが、一九〇一年に渡米、一九〇三年には渡欧しロダンの『考える人』に感銘を受け彫刻に転じた。そのブロンズ像の『女』(東京国立近代美術館)にあるような動作に見える、ひとつの理想性の追求がある。このロダンの影響は日本の彫刻家に大きかったが、とくに高村光太郎(1883-1956)はその生命力を受け継ごうとした。『手』(東京国立近代美術館)はその代表作とされるが、彼が《構造無きところに存在なし》(『彫刻十カ条』)といった言葉と裏腹にロダンと比べると、しっかりとした骨組みを描いていることを感じさせる。これも結局模倣が招来するオリジナリティの欠如が存在していることに他ならない。
 さて油絵を描いていた純粋な(?)西洋画派はどうであっただろう。写実をもっぱらとするのが西洋画だとする単純な認識は過ぎ、西洋の情報は数多く入ってきた。『スバル』(一九〇九年創刊)や『白樺』(一九一〇年創刊)が西洋からの帰朝者による動向や思潮を紹介したのである。一九一二年万鉄五郎(1885‐1927)が、『裸体美人』(東京国立近代美術館)を描いているが、それは画家自身《ゴッホやマティスの感化あるもの》と『私の履歴書』で述べている。その荒い筆致や鮮やかな赤い布はたしかにゴッホやマティスの影響が感じられるものの、作品自体、女性の裸体の魅力に乏しく、実験作の段階を抜け切れているとは思われない。『日傘の裸婦』(1913年、神奈川県立近代美術館)となると、その惨めな肉体が、アンバランスを露呈している。
 このような問題は表面上の洋画と日本画の対立、陰影派と光派の対立、大正期の文展と在野団体の対立といったものを超えた、美術そのものの本質に関わる問題である。《模倣は、それが自然の模倣であれ、往古の巨匠の模倣であれ、あるいはまた、自己の模倣であれ、個性の実現にとって自殺行為にひとしい》と、岡倉天心が『東洋の理想』で述べていたが、西洋の模倣を成し遂げたものは優れているとする風潮が出来あがったとき、それは日本の芸術の「自殺」にも等しいことに関わっている。坂本繁二郎(1882-1969)が初期の陰影の多い作品から次第に明るくなって牛の連作をなし、一九二一年に渡仏して描いた『帽子を持てる女』(一九二三年、石橋美術館)はそのときの成果であるが、それはエコール・ド・パリ風の洒落た感じはあるものの、表現は淡い。その淡い色調が帰国後、馬や能面の主題を領するとき、それは油絵で描かれた日本画となり、雪中にならざるをえない。
 岸田劉生(1891-1929)は西洋に行かなかったが、彼はデューラーや北欧ルネッサンスの絵画に惹かれ、肖像画を描いている。それが日本では珍しい創作意欲に基づくものであっても、陰影法と写実に基づくその描法は折衷なのである。確かに西洋画が「写実」であるという日本人の認識が、彼によりある程度実現されたかもしれない。しかしそこにはデューラ-の持っていた「メランコリー」の思想や、肉体表現が欠けており、成功したとはいい難い。それが一九一〇年代の創作であったことは、季節外れの西洋古典趣味といってよいかもしれない。べつに一九一〇年代が西洋ではキュビスムの時代であり、マルセル・デュシャンが『泉』という題で便器を展覧会に出品したことと比較する気はないが、それがその反措定であるとは思われない。彼の『玲子ゾウ』はそれが日本人の顔であったから珍しいが、西洋人であったら何の新しさもないといわなければならない。
 日本美術の『自殺』という言葉を彼らの真摯な努力に与えるのは、厳し過ぎるかもしれない。だがそれしか有り様がなかったとはいえ、曖昧な総合、不徹底な西洋美術の吸収は彼らの絵画を「殺」していたと言わざるをえない。梅原龍三郎(1888-1986)が一九〇八年にフランスにわたり、ルノワールの指導を受けたことは知られている。しかしルノワールの光と肉体の関係を体得できなかったし、たとえそれが出来たとしても「模倣」のレッテルしか貼られない。彼は帰ってきて裸婦や風景を描いたが、やはり洋画と線的な日本画の折衷なのである。
 安井曾太郎(1888-1955)も一九〇七年から約八年間もパリに留学していた。セザンヌに傾倒し、自然に対してそれを客体化し、それと独立した世界を構築したいと願ったが、彼の自然世界はやはり自然との一体化であり、その模様化であった。彼は印象派風の肖像画や静物を描いたものの光に徹底せず、やはり物そのものにとらわれていた。小出楢重(1887-1931)は一九二一年に短い間フランスへ行っただけであった。しかし『支那寝台の裸女』(一九三〇年、大原美術館)などが「日本近代洋画の達成」と言われることになると、彼は五十年前のフランス絵画の「模倣」を達成したに過ぎないではないか、ということになる。
 セザンヌを評価していたのは洋画派だけではない。日本画派の前田青邨(1885-1977)も一九二二年に渡欧し、セザンヌの情緒に溺れない対象の洞察に感心している。イタリアのアッシジのジョットが、日本画と同じであると感じたことも、よい視覚体験となった。彼の線の技術はそのフレスコ画のようだし、その琳派的な装飾も巧みである。その「雄渾」さは安田靭彦(1884-1978)の「華麗」さや小林古径(1883-1957)の「清冽」さも同様である(院展三羽烏と言われた三人の画風のそれぞれの形容詞)。彼らの絵画世界が、伝統を洗練化し、装飾化し、さらに西洋画の遠近法、陰影法を加えて「近代化」したのはわかるが、一方で一九二〇年代の「シュール・レアリスム」の動きが、夢や無意識の非合理の世界を解放する意図があったと考えると、あまりにも「技」の世界を信じ過ぎているように見える。
 その点で速水御舟(1894-1935)は幻想性が強いといえるかもしれない。『炎舞』(一九二五年、山種美術館)の炎の上で乱舞する蛾の姿はまさに夢の世界のように見えるし、『白日夢・野の花』(一九三四年、敦井美術館)などはまさにそれをうたっている。『灰燼』(一九二三年、山種美術館)は関東大震災のあとの廃墟の光景で、当時未発表のものであったというが、シュール的だし、白い画面にほんの点として描かれた『蟻』(一九二六年)も面白い。果たしてそれがどの程度自覚的であったかわからないが(『舞妓』や金屏風の作品にはそれが感じられないが)、彼が《私は西洋へ日本の画家の洋画の研究に来るのを危険だと云ふ様な、狭小な考へ方をする人には反対しますね。現在までの日本画は、既に行き詰って気のぬけた観があります……》(『美術評論』一九三〇年十月)とその危機を述べているのは、西洋画と日本画は同じ表現であるという自覚があることなのであろう。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012.pp.526-535.

 近代日本の高名な画家たちを、田中氏は片っ端から二流芸術扱いする。確かに、洋画家も日本画家も結局みんな、西洋の方を向いては自分に少しでも「近代化」した技法や主題が摂取できるかともがいていた。そこに真のオリジナリティはなかった、というのだろう。日本の画家たちにはちょっと可哀想な気はするが…。



B.音楽が飽和し充満している
 今日メジャーな音楽とは何か?あるいはマイナーだけれど革命的な音楽はあるのか?従来のそういう一つの基準からの音楽評価ではなく、絶対量としての音楽、つまり音楽は聴く時間を要するアートであるから、ぼくたちは一生に何時間、音楽を聴くことに費やせるのか、といえばごく限られた時間しかない。しかも巷にこれほど音楽が無駄同然に消費されているので、ぼくたちはそれにちゃんと耳を傾けているか、といえばお寒い状況である。

 「ポップスみおつくし ありあまる音楽:増田聡 (大阪市立大学准教授)
 希少になる時間 思索を試みて
 気がつけばこんにちの都市空間には音楽があふれかえっている。駅や商店街といった公共空間を、音楽を耳にすることなく歩くことはもはやほぼ不可能だ。人々が携帯する電子デバイスのすべては何らかの音楽を奏でる。路上ではストリートミュージシャンが聴衆の注目を奪い合い、新聞を開くと名前も知らない歌手やバンドのコンサート公告が満載だ。
 量的な側面では、音楽は有史以来空前の規模で、湯水のようにそこら中にあふれかえっている。「音楽はよいものである」と人々が信じ込んでいるからだ。どんな退屈なBGMであれ、無音であるよりは「よいこと」だと人々は信じて疑わない。
 だが、音楽とはそれを享受するために、その分だけの時間を要求する表現である。2016年に日本国内でリリースされた新譜は約1万5千タイトルである。音楽がこのペースで生産されると、約7年で1人の人間が一生かかって聴ける時間的限界を超える。さらに昨年あたりから日本でも本格的に定着し始めた、スポティファイやアップルミュージックなどのストリーミングサービスを利用するならば、耳に入れることのできる音楽は天文学的な量にのぼる。
 こんにち存在する音楽の量は、人類が実際にそれを聴くことができる時間を凌駕しているだろう。いまや音楽よりも「それを聴く時間」の方が希少性をもつようになっている。21世紀の音楽産業の世界的な苦境は、メディア環境の変化による不法コピーの蔓延が要因である。とかつて盛んにいわれたが、むしろ音楽供給の量的な拡大により「音楽は貴重な存在である」という前提が通用しなくなっていることが本質的な原因だったのかもしれない。
 音楽評論家や音楽学者が「音楽が多すぎる」ことを嘆くことはほとんどない。数多くの音楽が生産され、消費され、人々の情動をかき立て続けることが、(私を含む)彼らの社会的需要を支えているからである。音楽産業従事者についてはいうまでもない。結果「音楽はよいものだ」というメッセージばかりが耳に心地よく広まっていく。音楽に価値がなく、または無益で、もしかしたら有害であるかもしれない可能性を私たちが考えることはほとんどない。
 「これ以上、音楽を作る必要があるのか?」と題された一節を含む、若尾裕著「サステナブル・ミュージック」(アルテスパブリッシング)を、私は音楽がありあまっている時代への警鐘として読んだ。美術大学では卒業のため学生が毎年大量の「作品」を作るが、多くは数年の保管ののちゴミとして廃棄されているという。アイドルグループのCDを投票権目当てに代わりに大量に購入し、ゴミとして不法投棄した事件が報じられる今、漫然と「音楽はよいものだ」と繰り返す言葉は無力である。
 著者は、音楽性善説ともいえるこの発想の背景に「音楽におけるヒューマニズム」をみる。近代に形成された音楽システムそのものが音楽をあふれさせていることを喝破し、クラシック、前衛音楽、ポピュラー音楽、ワールドミュージックの別を問わず、この音楽システムが臨界に達しつつあることを見いだしていく。
 本書は「深く音楽をする」と題された節で始まる。音楽余りの時代に「深く音楽をする」にはどうすればよいのか。それは著者がそうするように、音楽それ自体よりも希少なものになった私たちの時間を、音楽を聴くのではなく、音楽を思索することに費やしてはじめて可能になるかもしれない、本書は今の音楽が直面するそんな逆説を示すものである。」朝日新聞2017年11月27日夕刊3面、文化欄。

 ぼくも恥ずかしながら「音楽を聴く」のではなく「音楽を思索する」ことを試みている。しかし残念ながら、この耳で深く聴くことのできる志向性と時間が足りない。
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