A.油絵の登場
ルネサンスと呼ばれる文化運動がどういうものであったかは、そう簡単には要約できないが、古代ギリシャ・ローマの遺跡から出てきた彫刻などに大きな刺激を受け、それを復活させようとしたということから、中世のキリスト教世界で閉塞させられていた人間の生命力・リアリティの迸りという意味がルネサンスという言葉にこめられている、といわれる。そして、その中心が15世紀のフィレンツェにあったということは、どうやら疑いもない歴史上の出来事だった。
前節で、1401年にフィレンツェで行われた、大聖堂の礼拝堂の扉を「アブラハムの犠牲」という主題でブロンズの浮彫をつくるコンクールで、ルネサンスの劇的表現を実現したフィリッポ・ブルネレスキ(1377~1446)が、旧来のゴシック的表現を保ったロレンツォ・ギベルティ(1378~1455)に負けた(正確には、負けたわけではなく審査員の両者優勝という提案をブルネレスキが拒否した)ことを紹介した高階秀爾氏は、続けてドナテルロについてもこう述べる。
「同様のことは、ブルネレスキの様式を受け継いだドナテルロについても認めることができる。コンクールに優勝して以来、ギベルティの作品は市民たちのあいだにいよいよ高い評判を得て、彼のアトリエは殷賑をきわめた。それに対し、同時代に活躍したドナテルロは、必ずしもフィレンツェ人たちに正当には理解されなかった。彼の天才に熱狂的な賛辞を捧げ、その天才にふさわしい作品を生み出させたのは、むしろパドヴァ人たちであった。パドヴァにおいて、あの記念すべき《ガッタメラータの騎馬像》やサン・タントニオ教会の主祭壇を制作した後、ドナテルロがふたたび故国フィレンツェにもどってきた時、フィレンツェの市民たちは、この偉大な彫刻家に対してはなはなだ冷たかった。彼の才能を深く愛していたコジモ・デ・メディチの力をもってしても、彼のためにたったひとつの騎馬像制作も、記念像の注文も得ることはできなかった。彼に与えられたのは、サン・ロレンツォ教会の説教壇外側の浮き彫りというはなはだ地味な仕事だけだったのである。
1491年、ロレンツォ豪華王の提唱で、花の聖母マリア大聖堂の西側正面部のための公開コンクールが行なわれた時、市民たちの批判精神は最も完全に発揮された。このコンクールには、建築家のみならず、画家、金銀細工師、指物師、鍛冶屋から音楽家にいたるまで、四十人もの人々が応募した。市民たちは誰しも、大聖堂の正面部はどのようなものであるべきか、そして応募作品の出来栄えはどうであるかについて、それぞれ一家言を持っていて、譲ろうとはしなかった。審査員たちはそれらの意見のどれも無視することはできなかった。結局コンクールは優勝者なしでお流れになってしまった。
このような風土は、優れた天才たちを育てるのには大変好都合であった。だが彼らに十分な活動の場を与えるには不適当であった。ドナテルロをはじめとして、ヴェロッキオも、ポライウオーロも、さらにはレオナルドも、ミケランジェロも、ラファエルロも、このフィレンツェの風土の中で育てられた。そして彼らの「傑作」は、いずれもフィレンツェ以外の場所で生み出されたのである。
フィレンツェ特有のこの地的風土は、ユマニスムの伝統と結びついて、芸術に対する理論的考察の発達をもうながした。先に触れたマネッティの筆になる(と称せられる)ブルネレスキの伝記に明らかなように、ユマニストたちはブルネレスキの中に、単なる職人とは別の優れた思索家を認めて、彼の栄光を讃えた。この時代においては、優れた芸術家たちは多かれ少なかれユマニストであり、知的探求に強い情熱を燃やしていたのである。
たとえば、ブルネレスキに比べればはるかに職人的面を残しているギベルティですら、プリニウスやヴィトルヴィウス等の古代ギリシャ・ローマの芸術文献の熱心な読者であり、古代から中世を経てルネサンスにいたる芸術の発展の記録である『コメンタリイ』全三巻の著者でもあった。十五世紀のちょうど中葉に公刊されたこの貴重な回想録の中で、ギベルティは理論的なものに対する自己の関心を、次のように述べている。
「きわめて賢明なる読者よ。私は金銭に対する欲望に従うことなく、幼少の頃より大きな熱意と関心とをもって追求してきた芸術の研究に自分の身を捧げた。芸術の基本的な諸原理に習熟するため、私は自然が芸術においてどのように働くかを探求しようと努めた。そして、ものの姿がいかにして眼に映ずるか、視る力がいかにして働くか、視覚的影像がどのようにして生まれるか、どのようなやり方で彫刻や絵画の理論が形成されるべきであるかを探し求めた……」
このような理論的関心は、ブルネレスキにも同様に指摘されるものであり、さらには、アルベルティ、ウッチェルロ、レオナルド等にまで続いてゆくものである。
もともとこの種の理論的関心は、十五世紀イタリア全体の大きな特徴であるが、フィレンツェにおいては、特にそれがいちじるしかった。ボッテッチェルリのようなきわめて感覚的な画家でさえ、プリニウスの記述をもとにして、失われたアペレスの名画を再現しようと試みたり、アルベルティの『絵画論』をそのまま実地に適用した作品を作ろうと企てたりしている。芸術理論と作家研究と作品目録とを兼ね備えたような、あの壮大なヴァザーリの『芸術家列伝』が、フィレンツェ派の画家の手によって書かれたということは、決して偶然ではないのである。
油絵の誕生
イタリアは、ヨーロッパ諸国に先がけていち早く近代的な芸術の花を開かせ、その後の西欧芸術に大きな影響を与えたが、しかしイタリア・ルネサンスは、単にアルプスの北の国々に多くを与えただけではない。中世ゴシックの時代におけると同じように、北方から多くのものを学んでもいるのである。その中でも特に重要な結果をもつもののひとつに、油絵の技法がある。
クワトロチェントの初頭においては、ミニアチュアや工芸品を別にすれば、絵画の主要な技法は、フレスコ画かテンペラ画であった。
フレスコというのは、粗壁の上に石灰と砂を混ぜた壁を塗って、その壁がまだ渇ききらないうちに、水に溶いた顔料で直接壁の上に絵を描いてゆく手法である。壁が濡れているところに描くのであるから、色は壁の中に浸みこんで、壁が乾くと同時に乾く。つまり壁の表面と絵が一体になって建築装飾としてはきわめて長もちするものである。しかし、描く方から言えば、壁が濡れている間に素早く描かなければならないから熟練した技巧を要し、しかも描き直しがきかないという不便がある。したがって、描くべき構図や形態はあらかじめきちんと決められていなければならない。十三世紀から十五世紀にかけて、特にフィレンツェを中心都するトスカナ地方では、最終的な上塗りの壁を塗る前の中壁に、セピア色の顔料でまず下絵を描いておいて、その上に最上層の壁を塗りながらフレスコ壁を描くというやり方が広く用いられた。この下絵のことを一般に「シノピア」と呼ぶ。
シノピアは、近代画家の場合のいわば下絵デッサンにあたるものであるが、しかしその上に壁を塗ってフレスコ画を描くのだから、フレスコが完成した時には、当然その下に隠されて見えなくなってしまう。したがって、普通のデッサンのように、それだけを鑑賞したり、完成図と比較してみたりすることはできないものである。いやそれどころか、シノピアというものが現実に存在するかどうかということすら――チェンニーノ・チェンニーニの『美術論』にそのやり方が詳しく説明されているが――実際に確かめるわけにはいかなかった。
ところが、今回の大戦で戦災を受けたフレスコ画を修復する際に、多くの壁画の下にたしかにシノピアの存在することが確かめられた。イタリアにおける壁画修復の技術は、さすが本家本元であるだけにきわめて進んでおり、現在では、フレスコ画を上層の壁もろともそっくり剝がしてしまうことすら可能になった。その剥がし方にはいろいろな方法があるが、原理的には、強力な接着剤を塗ったカンヴァスを壁画の上に一面に貼りつけて、カンヴァスといっしょに壁の上層部を剥がし取り、後で熱または薬品によって接着剤を溶かすのだという。いずれにしても、数多くの壁画のシノピアが、修復作業によって発見された。ピサのカンポ・サントにあるトライーニの《死の勝利》の壁画など、上層部をすっかり剥がしてそれだけを特別に陳列し、壁の方にはシノピアがそのまま見られるようになっているという。
だが、このシノピアによる技法は、十五世紀の中葉頃から次第に少なくなってきた。代わって登場したのが、「カルトーネ」と呼ばれる方式である。これは、紙の上にあらかじめ原寸大の下絵をデッサンしておいて、壁の上塗りをした部分にこの紙をあて、針のようなもので図側の輪郭線に沿って穴をあけてゆく。そしてその穴の上から木炭の粉をあてれば、生乾きの壁の上に下絵どおりの図柄が点線で描き出されるわけである。
一方、テンペラと呼ばれるものは、中世以来の板絵祭壇画の最も普通な技法で、多くの場合、卵黄、卵白、アラビアゴムなど膠質の媒剤に顔料を溶かして描くものである。しかし、一口にテンペラといっても、場合によりいろいろなやり方があって、特殊な顔料を水で溶かすことも行われた。この画法は、鮮明な色彩効果をあげることはできるが、微妙な明暗や陰影を表現するのには向かない。
それに対し、リンシ―ド・オイル(亜麻仁油)に顔料を溶かした油絵の技法は、いくらでも色の塗り重ねがきくし、微妙な色のニュアンスをよく出すことができる。写実的なものの表現を求めた十五世紀の画家たちにとっては、この技法は新しい啓示であった。
普通一般には、油彩画の技法を発明したのは、フランドルの画家ファン・アイク兄弟だということになっているが、しかし実はファン・アイクの登場する以前から、油絵の原理はフランドルの画家たちの間に知られていた。ファン・アイク兄弟は、それまでにあった油彩画の技法をいっそう完全なものとしただけなのである。
いずれにしても、フランドル地方に発達したこの油絵の技法は、ただちにイタリアにも伝えられた。最初にその技法に習熟したと伝えられるのは、シチリア生まれのアントネルロ・ダ・メッシーナである。彼は、ヴァザーリによればヤン・ファン・アイクのもとで学んだことになっているが、そのことは必ずしも信じがたい。しかしいずれにしても、彼が、フランドルから将来された多くの作品を所蔵していたナポリ王の宮廷に出入りしていたことはたしかで、おそらくそこで油彩画の研究をする機会を得たものであろう。
その後、このアントネルロがヴェネツィアに渡ったところから、ヴェネツィアにおいて油彩画はもっとも豊かな発達を示した。
しかし、アントネルロがやってくる以前から、フランドルと交易のあったこの水の都では、すでにある種の油彩画法が行われていたようである。フィレンツェに油絵の技法を伝えたといわれるドメニコ・ヴェネツィアーノは、その名の示すとおりヴェネツィア生まれの画家であり、サンタ・マリア・ヌォ―ヴァの病院内部のサン・テジディオ礼拝堂の壁画装飾には、油絵を使ったといわれている。もっとも、この壁画は現在は失われてしまっているので、事実であるかどうか確かめようはないが、病院の会計簿には、亜麻仁油の支給が記録されているという。
この時、ヴェネツィアーノの用いた油絵の技法があまりに見事だったので、同じところで仕事をしていた写実派のアンドレア・デル・カスターニョは、その技法をヴェネツィアーノから学んだ後、嫉妬に駆られてある晩、ひそかにヴェネツィアーノを殺害してしまったという話を、ヴァザーリは伝えている。(ただし現在では、殺されたはずのヴェネツィアーノの方が、「犯人」のカスターニョより四年も長生きしていることがわかっているので、この話は信用できない。)
いずれにしても、十五世紀の後半にはこの新しい技法は、フィレンツェの画家たちのあいだでもいろいろと研究され、使用されるようになった。新しい知識に対して熱心なレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノのサンタ・マリア・デルレ・グラツィエ教会のあの有名な《最後の晩餐》の壁画を、慣例のフレスコの技法によらず、油絵で描いているし、1505年には、結局失敗に終わったが、フィレンツェ政庁舎の大広間の壁に、《アンギアリの戦い》の情景をやはり油絵で描こうとしている。
このような新しい技法の導入は、単に技術だけの問題ではなく、その技術によって生み出された表現様式をもいっしょにもたらした。フランドル絵画の写実主義は、フィレンツェ人たちにとっても、大きな驚きであり、その影響はさまざまなかたちであらわれた。
最も典型的であったのは、1482年、フランドルにおけるメディチ家の代理人であったトマソ・ポルティナリがフィレンツェに送ったフーゴー・ファン・デル・グースの《牧者の礼拝》の祭壇画(ウフィツィ美術館)の場合である。ドメニコ・ギルランダイオは、このファン・デル・グースの作品に強い影響を受け、サンタ・トリニタ教会のサセッティ礼拝堂に描いた《牧者の礼拝》では、その影響の跡を歴然と示している。
さらに、写実的医表現に優れていたフランドル絵画の得意の領域であった肖像画と風景画も、それぞれフィレンツェ絵画に新しいものの見方を教えた。たとえば肖像画においていわゆる「四分の三」と称する斜め前から見た描き方などは、はっきりとフランドルから学んだものである。事実、十五世紀後半までのフィレンツェ派の肖像画は、真横から見た姿が基本的であったが、十五世紀も末になると、たとえばギルランダイオのサンタ・マリア・ノヴェルラ教会の壁画に見られるように、人間の顔を斜め前からとらえ、奥行、厚み、凸凹等を再現しようとするやり方が用いられるようになるのである。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.76-85.
テンペラやフレスコ画の技法についてはぼくも知っていたが、シノピアやカルトーネという技法のことは初めて知った。たしかに下絵を壁にどうやって残すか、考えてみれば苦心の工夫だったわけだ。だが、油絵の定着は、そうした手間のかかる絵画技法を時代遅れにし、油絵の画面は著しくカラフルかつリアルいなっていったわけだな。

B.性的表現の公開規制について
Wikipediaの記述で、ポルノグラフィとは、ウェブスターの『国際辞典』の定義によれば、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を表現したもの」とある。略称として、ポルノとも言われる。かつてD.H.ロレンスの小説をめぐる「チャタレイ裁判」や、永井荷風の「四畳半襖の下張り事件」や、大島渚の「愛のコリーダ裁判」などで大きな議論を呼んだのは、小説や映画で性的表現とくに性交の描写を、公開してよいかという点にあった。それぞれ当時の社会が許容する「公序良俗」に、それらの作品が反しているかどうかが問題となった。ある文学的あるいは芸術的主題を表現するのに、ポルノグラフィに等しい表現は必要か、という論点になっていたと思う。問題は、それが書物として公刊されて誰もが読めるようになったり、映画として公開されるのが望ましいか、という点で、私的な空間で秘かに愉しむという範囲を超えるものと危惧された。
しかし、今問題となっている性的表現の問題は、どうもそういった旧来のポルノ論ではなく、公的な広告や一般の人の目に触れる空間で、性的表現に類するものを、あまり意識もせずに垂れ流しているのではないか、それが女性の身体セクシャリティを過剰に強調していることに無自覚な製作者側の意識が問われることだ。そのことは、ぼくも気になる表現を目にして問題だと思う。ただ、ネット画像が氾濫する現在、ではどういう形で規制するのか、という厄介な問題がある。
「耕論: 性的表現の自由と規制 性的なコンテンツにも、表現の自由はある。ただ、公共の場や多くの人が目にする広告でも、一概にその自由が認められるのだろうか。性的表現の自由と規制の在り方を考える。
法の制約は 必要最小限に 志田陽子さん 憲法学者
「性的な表現の自由」と「規制」のそれぞれを求める人たちの論争は古くからありました。そして、かつて「表現の自由」を訴えるのは表現者だった。ところがSNSによって直接利害関係のない人たちの声が目立つようになりました。
日本にはわいせつな文書などの頒布を禁じる刑法175条が存在します。この条文をめぐって「憲法違反」という議論があります。規制に対して、法律家や、人権や自由を重視する立場の市民が問題視する動きもありました。しかし今は、人権への理解がある人が、逆に表現を規制する側になってきている。悪質ないじめや暴力、差別を受けてきた人にとっては、表現の自由を盾にした「いじめの自由」とも映ります。実際、そうしたいじめは起きてきました。
こうした懸念から生まれる規制の中には、正当なものもあります。例えば、ヘイトスピーチへの法規制は「表現の自由」ときわどい緊張関係に立つため、当初は法学者の間でも否定的な議論が優勢でしたが、今は、「表現の自由の侵害とまではいえない」という共通認識に立ち、不用意な制約にならないように要件や運営をしっかり絞ろうという議論に向っています。
しかしそもそも、性的表現に対する規制は刑法175条によるべきなのでしょうか。法律で一律に「わいせつ」を規制するのではなく、原則は自由とし、悪質なものや実害を生むものは裁判や市民の声によって淘汰していくのが理想的な形です。
それでは克服できないので法律の規制が必要だという場合には、実害を生む表現に絞って規制対象とすべきです。そこがあいまいなまま、発信力のある人や研究者などが「削除するまで許さない」と権力性を帯びた抗議をするのは、言論の自由が許容する範囲を超えており、危険です。
表現既成のあるべき姿は「良心的な歯医者さん」です。虫歯があったら「歯があるから虫歯になる」とごっそり抜くのでなく、抜いたり削ったりするのは必要最小限にとどめる。ある表現によって実害を受ける人があれば救済し、どうしても必要な時な最小限の規制をする。今は「問題になったら謝って削除」で終わりになりがちですが、それは萎縮を生む方向になってしまいます。その先の議論をするために、表現者の側も「なぜこの表現なのか」を説明できるような心づもりが必要でしょう。 (聞き手・田中聡子)」朝日新聞2023年10月17日朝刊15面、オピニオン欄。
いわゆる「萌え」「おたく好み」の2次元画像は、ネットをはじめそこらじゅうに溢れている。それらはどれも目のおおきな少女が、セクシャルな身体を不自然なまでに強調されて描かれており、描いているひとたちと、それを好む(たぶん多くは男)ファンにとっては、現実の女性を超えた「かわいい女の子」の偶像と見ているのだろう。しかし、多くの女性たちにとっては、やや気味の悪い画像でもあり、このような画像は
見たくないと思う人も少なからずいるはずだ。問題は、これを悪しきものと思う感性もあるということに、男たちの多くが気がついていないことにあると思う。
ルネサンスと呼ばれる文化運動がどういうものであったかは、そう簡単には要約できないが、古代ギリシャ・ローマの遺跡から出てきた彫刻などに大きな刺激を受け、それを復活させようとしたということから、中世のキリスト教世界で閉塞させられていた人間の生命力・リアリティの迸りという意味がルネサンスという言葉にこめられている、といわれる。そして、その中心が15世紀のフィレンツェにあったということは、どうやら疑いもない歴史上の出来事だった。
前節で、1401年にフィレンツェで行われた、大聖堂の礼拝堂の扉を「アブラハムの犠牲」という主題でブロンズの浮彫をつくるコンクールで、ルネサンスの劇的表現を実現したフィリッポ・ブルネレスキ(1377~1446)が、旧来のゴシック的表現を保ったロレンツォ・ギベルティ(1378~1455)に負けた(正確には、負けたわけではなく審査員の両者優勝という提案をブルネレスキが拒否した)ことを紹介した高階秀爾氏は、続けてドナテルロについてもこう述べる。
「同様のことは、ブルネレスキの様式を受け継いだドナテルロについても認めることができる。コンクールに優勝して以来、ギベルティの作品は市民たちのあいだにいよいよ高い評判を得て、彼のアトリエは殷賑をきわめた。それに対し、同時代に活躍したドナテルロは、必ずしもフィレンツェ人たちに正当には理解されなかった。彼の天才に熱狂的な賛辞を捧げ、その天才にふさわしい作品を生み出させたのは、むしろパドヴァ人たちであった。パドヴァにおいて、あの記念すべき《ガッタメラータの騎馬像》やサン・タントニオ教会の主祭壇を制作した後、ドナテルロがふたたび故国フィレンツェにもどってきた時、フィレンツェの市民たちは、この偉大な彫刻家に対してはなはなだ冷たかった。彼の才能を深く愛していたコジモ・デ・メディチの力をもってしても、彼のためにたったひとつの騎馬像制作も、記念像の注文も得ることはできなかった。彼に与えられたのは、サン・ロレンツォ教会の説教壇外側の浮き彫りというはなはだ地味な仕事だけだったのである。
1491年、ロレンツォ豪華王の提唱で、花の聖母マリア大聖堂の西側正面部のための公開コンクールが行なわれた時、市民たちの批判精神は最も完全に発揮された。このコンクールには、建築家のみならず、画家、金銀細工師、指物師、鍛冶屋から音楽家にいたるまで、四十人もの人々が応募した。市民たちは誰しも、大聖堂の正面部はどのようなものであるべきか、そして応募作品の出来栄えはどうであるかについて、それぞれ一家言を持っていて、譲ろうとはしなかった。審査員たちはそれらの意見のどれも無視することはできなかった。結局コンクールは優勝者なしでお流れになってしまった。
このような風土は、優れた天才たちを育てるのには大変好都合であった。だが彼らに十分な活動の場を与えるには不適当であった。ドナテルロをはじめとして、ヴェロッキオも、ポライウオーロも、さらにはレオナルドも、ミケランジェロも、ラファエルロも、このフィレンツェの風土の中で育てられた。そして彼らの「傑作」は、いずれもフィレンツェ以外の場所で生み出されたのである。
フィレンツェ特有のこの地的風土は、ユマニスムの伝統と結びついて、芸術に対する理論的考察の発達をもうながした。先に触れたマネッティの筆になる(と称せられる)ブルネレスキの伝記に明らかなように、ユマニストたちはブルネレスキの中に、単なる職人とは別の優れた思索家を認めて、彼の栄光を讃えた。この時代においては、優れた芸術家たちは多かれ少なかれユマニストであり、知的探求に強い情熱を燃やしていたのである。
たとえば、ブルネレスキに比べればはるかに職人的面を残しているギベルティですら、プリニウスやヴィトルヴィウス等の古代ギリシャ・ローマの芸術文献の熱心な読者であり、古代から中世を経てルネサンスにいたる芸術の発展の記録である『コメンタリイ』全三巻の著者でもあった。十五世紀のちょうど中葉に公刊されたこの貴重な回想録の中で、ギベルティは理論的なものに対する自己の関心を、次のように述べている。
「きわめて賢明なる読者よ。私は金銭に対する欲望に従うことなく、幼少の頃より大きな熱意と関心とをもって追求してきた芸術の研究に自分の身を捧げた。芸術の基本的な諸原理に習熟するため、私は自然が芸術においてどのように働くかを探求しようと努めた。そして、ものの姿がいかにして眼に映ずるか、視る力がいかにして働くか、視覚的影像がどのようにして生まれるか、どのようなやり方で彫刻や絵画の理論が形成されるべきであるかを探し求めた……」
このような理論的関心は、ブルネレスキにも同様に指摘されるものであり、さらには、アルベルティ、ウッチェルロ、レオナルド等にまで続いてゆくものである。
もともとこの種の理論的関心は、十五世紀イタリア全体の大きな特徴であるが、フィレンツェにおいては、特にそれがいちじるしかった。ボッテッチェルリのようなきわめて感覚的な画家でさえ、プリニウスの記述をもとにして、失われたアペレスの名画を再現しようと試みたり、アルベルティの『絵画論』をそのまま実地に適用した作品を作ろうと企てたりしている。芸術理論と作家研究と作品目録とを兼ね備えたような、あの壮大なヴァザーリの『芸術家列伝』が、フィレンツェ派の画家の手によって書かれたということは、決して偶然ではないのである。
油絵の誕生
イタリアは、ヨーロッパ諸国に先がけていち早く近代的な芸術の花を開かせ、その後の西欧芸術に大きな影響を与えたが、しかしイタリア・ルネサンスは、単にアルプスの北の国々に多くを与えただけではない。中世ゴシックの時代におけると同じように、北方から多くのものを学んでもいるのである。その中でも特に重要な結果をもつもののひとつに、油絵の技法がある。
クワトロチェントの初頭においては、ミニアチュアや工芸品を別にすれば、絵画の主要な技法は、フレスコ画かテンペラ画であった。
フレスコというのは、粗壁の上に石灰と砂を混ぜた壁を塗って、その壁がまだ渇ききらないうちに、水に溶いた顔料で直接壁の上に絵を描いてゆく手法である。壁が濡れているところに描くのであるから、色は壁の中に浸みこんで、壁が乾くと同時に乾く。つまり壁の表面と絵が一体になって建築装飾としてはきわめて長もちするものである。しかし、描く方から言えば、壁が濡れている間に素早く描かなければならないから熟練した技巧を要し、しかも描き直しがきかないという不便がある。したがって、描くべき構図や形態はあらかじめきちんと決められていなければならない。十三世紀から十五世紀にかけて、特にフィレンツェを中心都するトスカナ地方では、最終的な上塗りの壁を塗る前の中壁に、セピア色の顔料でまず下絵を描いておいて、その上に最上層の壁を塗りながらフレスコ壁を描くというやり方が広く用いられた。この下絵のことを一般に「シノピア」と呼ぶ。
シノピアは、近代画家の場合のいわば下絵デッサンにあたるものであるが、しかしその上に壁を塗ってフレスコ画を描くのだから、フレスコが完成した時には、当然その下に隠されて見えなくなってしまう。したがって、普通のデッサンのように、それだけを鑑賞したり、完成図と比較してみたりすることはできないものである。いやそれどころか、シノピアというものが現実に存在するかどうかということすら――チェンニーノ・チェンニーニの『美術論』にそのやり方が詳しく説明されているが――実際に確かめるわけにはいかなかった。
ところが、今回の大戦で戦災を受けたフレスコ画を修復する際に、多くの壁画の下にたしかにシノピアの存在することが確かめられた。イタリアにおける壁画修復の技術は、さすが本家本元であるだけにきわめて進んでおり、現在では、フレスコ画を上層の壁もろともそっくり剝がしてしまうことすら可能になった。その剥がし方にはいろいろな方法があるが、原理的には、強力な接着剤を塗ったカンヴァスを壁画の上に一面に貼りつけて、カンヴァスといっしょに壁の上層部を剥がし取り、後で熱または薬品によって接着剤を溶かすのだという。いずれにしても、数多くの壁画のシノピアが、修復作業によって発見された。ピサのカンポ・サントにあるトライーニの《死の勝利》の壁画など、上層部をすっかり剥がしてそれだけを特別に陳列し、壁の方にはシノピアがそのまま見られるようになっているという。
だが、このシノピアによる技法は、十五世紀の中葉頃から次第に少なくなってきた。代わって登場したのが、「カルトーネ」と呼ばれる方式である。これは、紙の上にあらかじめ原寸大の下絵をデッサンしておいて、壁の上塗りをした部分にこの紙をあて、針のようなもので図側の輪郭線に沿って穴をあけてゆく。そしてその穴の上から木炭の粉をあてれば、生乾きの壁の上に下絵どおりの図柄が点線で描き出されるわけである。
一方、テンペラと呼ばれるものは、中世以来の板絵祭壇画の最も普通な技法で、多くの場合、卵黄、卵白、アラビアゴムなど膠質の媒剤に顔料を溶かして描くものである。しかし、一口にテンペラといっても、場合によりいろいろなやり方があって、特殊な顔料を水で溶かすことも行われた。この画法は、鮮明な色彩効果をあげることはできるが、微妙な明暗や陰影を表現するのには向かない。
それに対し、リンシ―ド・オイル(亜麻仁油)に顔料を溶かした油絵の技法は、いくらでも色の塗り重ねがきくし、微妙な色のニュアンスをよく出すことができる。写実的なものの表現を求めた十五世紀の画家たちにとっては、この技法は新しい啓示であった。
普通一般には、油彩画の技法を発明したのは、フランドルの画家ファン・アイク兄弟だということになっているが、しかし実はファン・アイクの登場する以前から、油絵の原理はフランドルの画家たちの間に知られていた。ファン・アイク兄弟は、それまでにあった油彩画の技法をいっそう完全なものとしただけなのである。
いずれにしても、フランドル地方に発達したこの油絵の技法は、ただちにイタリアにも伝えられた。最初にその技法に習熟したと伝えられるのは、シチリア生まれのアントネルロ・ダ・メッシーナである。彼は、ヴァザーリによればヤン・ファン・アイクのもとで学んだことになっているが、そのことは必ずしも信じがたい。しかしいずれにしても、彼が、フランドルから将来された多くの作品を所蔵していたナポリ王の宮廷に出入りしていたことはたしかで、おそらくそこで油彩画の研究をする機会を得たものであろう。
その後、このアントネルロがヴェネツィアに渡ったところから、ヴェネツィアにおいて油彩画はもっとも豊かな発達を示した。
しかし、アントネルロがやってくる以前から、フランドルと交易のあったこの水の都では、すでにある種の油彩画法が行われていたようである。フィレンツェに油絵の技法を伝えたといわれるドメニコ・ヴェネツィアーノは、その名の示すとおりヴェネツィア生まれの画家であり、サンタ・マリア・ヌォ―ヴァの病院内部のサン・テジディオ礼拝堂の壁画装飾には、油絵を使ったといわれている。もっとも、この壁画は現在は失われてしまっているので、事実であるかどうか確かめようはないが、病院の会計簿には、亜麻仁油の支給が記録されているという。
この時、ヴェネツィアーノの用いた油絵の技法があまりに見事だったので、同じところで仕事をしていた写実派のアンドレア・デル・カスターニョは、その技法をヴェネツィアーノから学んだ後、嫉妬に駆られてある晩、ひそかにヴェネツィアーノを殺害してしまったという話を、ヴァザーリは伝えている。(ただし現在では、殺されたはずのヴェネツィアーノの方が、「犯人」のカスターニョより四年も長生きしていることがわかっているので、この話は信用できない。)
いずれにしても、十五世紀の後半にはこの新しい技法は、フィレンツェの画家たちのあいだでもいろいろと研究され、使用されるようになった。新しい知識に対して熱心なレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノのサンタ・マリア・デルレ・グラツィエ教会のあの有名な《最後の晩餐》の壁画を、慣例のフレスコの技法によらず、油絵で描いているし、1505年には、結局失敗に終わったが、フィレンツェ政庁舎の大広間の壁に、《アンギアリの戦い》の情景をやはり油絵で描こうとしている。
このような新しい技法の導入は、単に技術だけの問題ではなく、その技術によって生み出された表現様式をもいっしょにもたらした。フランドル絵画の写実主義は、フィレンツェ人たちにとっても、大きな驚きであり、その影響はさまざまなかたちであらわれた。
最も典型的であったのは、1482年、フランドルにおけるメディチ家の代理人であったトマソ・ポルティナリがフィレンツェに送ったフーゴー・ファン・デル・グースの《牧者の礼拝》の祭壇画(ウフィツィ美術館)の場合である。ドメニコ・ギルランダイオは、このファン・デル・グースの作品に強い影響を受け、サンタ・トリニタ教会のサセッティ礼拝堂に描いた《牧者の礼拝》では、その影響の跡を歴然と示している。
さらに、写実的医表現に優れていたフランドル絵画の得意の領域であった肖像画と風景画も、それぞれフィレンツェ絵画に新しいものの見方を教えた。たとえば肖像画においていわゆる「四分の三」と称する斜め前から見た描き方などは、はっきりとフランドルから学んだものである。事実、十五世紀後半までのフィレンツェ派の肖像画は、真横から見た姿が基本的であったが、十五世紀も末になると、たとえばギルランダイオのサンタ・マリア・ノヴェルラ教会の壁画に見られるように、人間の顔を斜め前からとらえ、奥行、厚み、凸凹等を再現しようとするやり方が用いられるようになるのである。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.76-85.
テンペラやフレスコ画の技法についてはぼくも知っていたが、シノピアやカルトーネという技法のことは初めて知った。たしかに下絵を壁にどうやって残すか、考えてみれば苦心の工夫だったわけだ。だが、油絵の定着は、そうした手間のかかる絵画技法を時代遅れにし、油絵の画面は著しくカラフルかつリアルいなっていったわけだな。

B.性的表現の公開規制について
Wikipediaの記述で、ポルノグラフィとは、ウェブスターの『国際辞典』の定義によれば、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を表現したもの」とある。略称として、ポルノとも言われる。かつてD.H.ロレンスの小説をめぐる「チャタレイ裁判」や、永井荷風の「四畳半襖の下張り事件」や、大島渚の「愛のコリーダ裁判」などで大きな議論を呼んだのは、小説や映画で性的表現とくに性交の描写を、公開してよいかという点にあった。それぞれ当時の社会が許容する「公序良俗」に、それらの作品が反しているかどうかが問題となった。ある文学的あるいは芸術的主題を表現するのに、ポルノグラフィに等しい表現は必要か、という論点になっていたと思う。問題は、それが書物として公刊されて誰もが読めるようになったり、映画として公開されるのが望ましいか、という点で、私的な空間で秘かに愉しむという範囲を超えるものと危惧された。
しかし、今問題となっている性的表現の問題は、どうもそういった旧来のポルノ論ではなく、公的な広告や一般の人の目に触れる空間で、性的表現に類するものを、あまり意識もせずに垂れ流しているのではないか、それが女性の身体セクシャリティを過剰に強調していることに無自覚な製作者側の意識が問われることだ。そのことは、ぼくも気になる表現を目にして問題だと思う。ただ、ネット画像が氾濫する現在、ではどういう形で規制するのか、という厄介な問題がある。
「耕論: 性的表現の自由と規制 性的なコンテンツにも、表現の自由はある。ただ、公共の場や多くの人が目にする広告でも、一概にその自由が認められるのだろうか。性的表現の自由と規制の在り方を考える。
法の制約は 必要最小限に 志田陽子さん 憲法学者
「性的な表現の自由」と「規制」のそれぞれを求める人たちの論争は古くからありました。そして、かつて「表現の自由」を訴えるのは表現者だった。ところがSNSによって直接利害関係のない人たちの声が目立つようになりました。
日本にはわいせつな文書などの頒布を禁じる刑法175条が存在します。この条文をめぐって「憲法違反」という議論があります。規制に対して、法律家や、人権や自由を重視する立場の市民が問題視する動きもありました。しかし今は、人権への理解がある人が、逆に表現を規制する側になってきている。悪質ないじめや暴力、差別を受けてきた人にとっては、表現の自由を盾にした「いじめの自由」とも映ります。実際、そうしたいじめは起きてきました。
こうした懸念から生まれる規制の中には、正当なものもあります。例えば、ヘイトスピーチへの法規制は「表現の自由」ときわどい緊張関係に立つため、当初は法学者の間でも否定的な議論が優勢でしたが、今は、「表現の自由の侵害とまではいえない」という共通認識に立ち、不用意な制約にならないように要件や運営をしっかり絞ろうという議論に向っています。
しかしそもそも、性的表現に対する規制は刑法175条によるべきなのでしょうか。法律で一律に「わいせつ」を規制するのではなく、原則は自由とし、悪質なものや実害を生むものは裁判や市民の声によって淘汰していくのが理想的な形です。
それでは克服できないので法律の規制が必要だという場合には、実害を生む表現に絞って規制対象とすべきです。そこがあいまいなまま、発信力のある人や研究者などが「削除するまで許さない」と権力性を帯びた抗議をするのは、言論の自由が許容する範囲を超えており、危険です。
表現既成のあるべき姿は「良心的な歯医者さん」です。虫歯があったら「歯があるから虫歯になる」とごっそり抜くのでなく、抜いたり削ったりするのは必要最小限にとどめる。ある表現によって実害を受ける人があれば救済し、どうしても必要な時な最小限の規制をする。今は「問題になったら謝って削除」で終わりになりがちですが、それは萎縮を生む方向になってしまいます。その先の議論をするために、表現者の側も「なぜこの表現なのか」を説明できるような心づもりが必要でしょう。 (聞き手・田中聡子)」朝日新聞2023年10月17日朝刊15面、オピニオン欄。
いわゆる「萌え」「おたく好み」の2次元画像は、ネットをはじめそこらじゅうに溢れている。それらはどれも目のおおきな少女が、セクシャルな身体を不自然なまでに強調されて描かれており、描いているひとたちと、それを好む(たぶん多くは男)ファンにとっては、現実の女性を超えた「かわいい女の子」の偶像と見ているのだろう。しかし、多くの女性たちにとっては、やや気味の悪い画像でもあり、このような画像は
見たくないと思う人も少なからずいるはずだ。問題は、これを悪しきものと思う感性もあるということに、男たちの多くが気がついていないことにあると思う。
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