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夢の 遊民の それから について考える

2014-11-28 19:12:47 | 日記
A.日本の大学はどこへゆくのか?
 ほとんど唐突に衆議院選挙が行われる師走が迫っているが、「消費税をさらに上げるのを延期するが、これを国民に信を問う」などという、二次的な名目では国民は無関心のまま低投票率になるのを期待するような姑息な選挙を行う気だろう。この政権がさらに続くと、何が起こるか?とりあえず、世間の話題にもならない形で進んでいるのが「大学改革」である。大学に身を置く者としては、他人事ではない。文科省が発表している「大学改革プラン」とは、以下のようなものである。

「大学改革実行プラン ~社会の変革のエンジンとなる大学づくり~
●日本社会が直面する課題と大学
我が国は、急激な少子高齢化の進行、地域コミュニティの衰退、グローバル化によるボーダレス化、新興国の台頭による競争激化など社会の急激な変化や、東日本大震災といった国難に直面しており、今こそ、持続的に発展し活力ある社会を目指した変革を成し遂げなければならない。
大学及び大学を構成する関係者は、社会の変革を担う人材の育成、「知の拠点」として世界的な研究成果やイノベーションの創出など重大な責務を有しているとの認識の下に、国民や社会の期待に応える大学改革を主体的に実行することが求められている。
●大学改革の方向性
社会との関わりの中で、新しい大学づくりに向けた改革を次の方向で迅速かつ強力に推進する。
Ⅰ.激しく変化する社会における大学の機能の再構築
Ⅱ.大学の機能の再構築のための大学ガバナンスの充実・強化
●大学改革により期待される成果
大学改革の成果として、生涯学び続け主体的に考える力をもつ人材の育成、グローバルに活躍する人材の育成、我が国や地球規模の課題を解決する大学・研究拠点の形成、地域課題の解決の中核となる大学の形成など、社会を変革するエンジンとしての大学の役割が国民に実感できることを目指して取り組む
大学と企業の連携の取り組み
○企業人材(研究者・技術者・経営管理人材等)の高度化(学位取得支援など)が必要
◇産学協働によるイノベーション人材育成のための取組
産業構造の変化や新たな学修ニーズに対応した社会人の学び直しの推進
▼社内研究者の学位取得支援を拡大
▼産学共同研究等に従事しながら学位を取得できるプログラムを開発し、学び直しや社員教育にも活用
○特定分野のブラッシュアップ・再雇用支援が必要(医療、保育、観光など)
◇博士人材には、高度な専門性、幅広い知識や課題発見力を期待できるが、企業はその活用に消極的で、十分な活躍の場がない
◇大学は、産業界が求める能力を備えた人材の育成ができていない
◇特定ニーズに対応した短期プログラム開発
◇少子高齢化に伴う労働力人口の減少、将来の中間層となる若年者の非正規雇用層の増大や雇用のミスマッチなどが発生している
◇成長分野において、
付加価値をつけた雇用の創出が求められている対話の深化・好事例の共有・情報発信を図る
○地域の人材ニーズ(国際対応能力・地域活性化など)に対応した教育体制の構築が必要
▼雇用創出が期待される成長分野で産学官コンソーシアムを構築し、新たな学修システムの基盤を整備
◇地元自治体と連携した取組の支援
◇地域課題が多様化・複雑化する中、大学がその解決に取り組むため、学内外の様々な資源を機的に結合することが求められている
▼地元自治体・NPOと連携して地域の課題解決や「新しい公共」の創出・発展に取り組む大学を支援」 文部科学省「大学改革実行プラン」~社会の変革のエンジンとなる大学づくり~
 (平成24年6月)

 国家官僚という人たちが書く文書というのは、一見誰からも文句の出ないような空虚な形容詞とカタカナ名詞で成り立っている。「変革のエンジンとなる大学」「グローバル化によるボーダレス化」「イノベーションの創出」「新たな学修ニーズに対応した社会人の学び直し」「特定分野のブラッシュアップ・再雇用支援」「非正規雇用層の増大や雇用のミスマッチ」「成長分野で産学官コンソーシアムを構築」などなど。とくに気になるのは「大学の機能の再構築のための大学ガバナンスの充実・強化」なる文言である。
  これが具体的には何を実現しようとしているか、次第に明らかになった政策は、国公立大学ですでに進行し、私立大学にも及びつつある。文科省がめざす大学教育の最終目標は、経済成長とグローバル企業の役に立つ優秀な人材育成であり、実用的な科学技術や語学などの高度化は奨励するが、この路線に貢献しない文科系・人文系の学問、政府に批判的な社会科学は無用のものとして廃止縮小し、日教組的左翼が巣くう教育学部などは潰す、というものである。そして、一番の狙いは、大学がこれまで学問の自由を盾に維持してきた大学運営における教授会の権限をなくし、学長の独裁権力のもとに産官学連携という国家主義的な高等教育を推進する基盤を固めることにある。
これは、戦争に雪崩れ込んだ昭和のはじめの状況と似通ってくる。ただ、大学にいる教員・研究者のうち、どれほどの人たちが、このことに危機感を抱いてるか、はなはな心もとない。



B.野田秀樹と夢の遊民社
 野田秀樹と夢の遊民社のことは、バブルに向かうあの時代の日本で、確かに世間の表舞台に出てきた若い世代の演劇表現として、いや、実際は劇場に通って彼らの芝居を見た人は、東京の一部の豊かで幸福な若者だけだったかもしれない。ぼくも、割合早くからその名前だけは知っていた。やがて、舞台だけでなくTVにも出てきて、TV朝日の久米宏のニュースステーションで毎週、時事的なコントをやっていたのは、印象に残っている。その芝居は、アングラ演劇の時代の隠微な情念というものとはまったく無縁な、陽気で明るく笑いを誘うものだった。しかし、野田秀樹の芝居は八〇年代お笑い芸人・漫才ブームのもたらしたような、ただのおちゃらけた娯楽エンタメ芸ではもちろんなかった。愉快な笑いの中に、一瞬だけ時空を超えた「少年の記憶」が蘇る。

 「野田秀樹(一九五五年~)がひきいる劇団「夢の遊民社」の舞台をはじめて見たときの驚きはいまもあざやかだ。
 一九七六年、東京・青山のVAN99ホールは新しい才能を発掘するために、「新人グループ提携公演」と銘打って、このホールと提携して公演する若手劇団を公募した。応募した十七劇団のうちから、戯曲の審査を経て選ばれた二劇団のうちのひとつが、野田率いる夢の遊民社だった。同年十月、夢の遊民社は野田作、高萩宏演出の『走れメルス――燃える下着はお好き』を三日間五ステージ、VAN99ホールで上演したのである。
 夢の遊民社はその年の四月、東京大学の演劇研究会を母体とする学生劇団として結成されたばかりだった。旗揚げ公演は五月、駒場の教養学部内にある駒場小劇場で上演した野田作、高萩演出の『咲かぬ咲かんの桜吹雪は咲きゆくほどに咲き立ちて明け暮れないの物語』という長いタイトルの芝居だった。その半年後の第二回公演がVAN99ホールでの『走れメルス』で、結成早々、学外の劇場と提携公演をするという学生劇団としては異例のはなばなしいスタートを切った。
 その舞台を見て、私はびっくりし、あっけにとられた。それまで見たことのない劇の世界が展開していたのだ。とにかく舞台が異常なスピード感にあふれていた。俳優たちのせりふ回しと動きが唖然とするほど速いばかりでなく、劇の才気が観客の思考速度をかろやかに追い抜くスピードで疾走していた。底には狂騒的な活気と笑いがあった。その先頭に立って異彩を放っていたのは、少年っぽい風貌にもかかわらず、女装姿で舞台をはねまわる作者兼主演俳優の野田秀樹である。彼は「桐島洋子」と「大奥様」の二役をかん高い声とけたたましい喜劇的感覚で演じていた。だが、野田のその演技には、女方特有の倒錯した雰囲気は薄く、むしろ少年らしいいたずら心が躍っていた。しかも、躁状態の躍動がふと途切れた瞬間、思いがけないほど切ない叙情的なことばがほとばしり出ることに私は強い印象を受けた。
 第一世代とも、第二世代のつかこうへいらとも違う新しい感受性と方法意識を持った新しい演劇世代が現れたという直感は圧倒的だった。ただし、それが具体的にどういう感受性と方法なのか、その時の私は驚くばかりで、語る言葉をまだ持たなかった。
 だが、その舞台の新しさを同世代の切実な共感でおののくほど鋭く受けとめていた観客がいた。のちに「失語のダンディズム――野田秀樹」というきわめて優れた野田秀樹論を書くことになる劇作家の如月小春(一九五六年~)である。
 そのころ東京女子大の学生だった如月は、やがて野田に刺激されて夢の遊民社に加わり、そこで俳優として一年弱を過ごした後、劇作家に転身するのだが、『走れメルス』の初演をVAN99ホールで見た日の感動をこう書いている。
「(『走れメルス』には)「天皇制」も「満州大陸」も「病んだ日本」も出てこない。メッセージというものがつかめない。けれど見終わって泣けた。自分が生きていることが切なくなった。言葉を超えて伝わってくるものがあった。それはおそらく同世代感覚としかいいようのないものだったと思う。野田秀樹が連発ギャグのさなかにふいに立ち尽くし、眼を中心に寄せてかぼそい声で少年の日に見た風家を語り始める時、私の中でもかつて見た同じ風景がどうっと立ち上がり、空間全体が一つの記憶装置として舞台と客席に分かたれていた私たちを結び合わせるのだ。(中略)当時二十歳だった私にとって、野田は初めて出会う同世代人の表現であったのだ」
 幸さきのいいスタートを切った野田だったが、彼の劇団がブームをまき起こすのはそれから三年後、一九七九年、東大教養学部構内の駒場小劇場で初演された『少年狩り』あたりからである。私が野田の舞台の劇評を初めて雑誌に書いたのもこの『少年狩り』で、現代のファッション・デザイナーと哲学者・西田幾多郎と南北朝時代の護良親王と作家サン・テグジュペリという、およそ出会いそうもない記号としての人間たちが「少年」と「鏡」を回路として時空を超えて一堂に会するこの複雑なからくりの芝居を見て、私はこの若い劇作家のおそるべき才能に圧倒された。それまでの演劇の常識ではとらえられない破天荒に飛躍するドラマの世界をかろやかに切りひらく劇作家があらわれたのだ。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995、pp.194-197.

  野田秀樹という人の経歴を確認してみると・・・。
1972年、高校2年生の時に処女戯曲『アイと死をみつめて』を発表。
1974年東京教育大学附属駒場高等学校卒業。
東京大学入学後は演劇研究会に所属。
1976年、東京大学演劇研究会を母体に劇団夢の遊眠社を結成。
1981年、東京大学法学部を中退。
1983年、『野獣降臨』(のけものきたりて)で第27回岸田国士戯曲賞を受賞。
1987年、エディンバラ国際芸術祭に、劇団夢の遊眠社が招待劇団として参加、『野獣降臨』を上演。野田はこの時のカーテンコールを、駒場小劇場での『怪盗乱魔』初演、『贋作 桜の森の満開の下』の京都・南座の公演と並び、印象に残っているとしている。一方で「言葉遊び」を中心とする自らの作風の限界を痛感する機会ともなり、「物語」を重視する作風への変化や、後の海外での作品製作につながる公演となった。
1988年、劇団夢の遊眠社がニューヨーク国際芸術祭に参加、『彗星の使者』を上演。
1990年、劇団夢の遊眠社がエディンバラ国際芸術祭に参加、『半神』を上演。
1992年、『ゼンダ城の虜――苔むす僕らが嬰児の夜』の上演を最後に、劇団夢の遊眠社を解散。創立から解散まで公演回数43回、総ステージ数1,205回、総観客動員数は812,790名であった。
1992年から1993年にかけて、文化庁芸術家在外研修制度の留学生として1年間ロンドンに留学。台詞の分析が重視されるロンドン演劇界で、身体の動きを重んじるフィジカルシアターに分類される演出家サイモン・マクバーニー主宰のテアトル・ド・コンプリシテのワークショップに参加。
1993年、帰国。演劇企画制作会社野田地図(NODA MAP)を設立。ワークショップを基盤に、劇団の枠にとらわれず俳優を集めて上演するプロデュース公演のさきがけとなる。小スペースで少人数で上演する番外公演にも積極的に取り組んでいる。
2001年、歌舞伎役者の五代目中村勘九郎(現・十八代目中村勘三郎)と組み、新作歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』を歌舞伎座で上演。この後、勘三郎とは『野田版 鼠小僧』や『野田版 愛陀姫』などでたびたび組んでいる。
2008年4月、東京芸術劇場初代芸術監督に就任予定であることが発表され、顧問から準備期間を経て芸術監督に就任する。
2008年4月、多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科教授に就任。
2009年10月、イギリスのエリザベス2世女王より名誉大英勲章OBEを贈られる。
2011年6月、紫綬褒章を受章。
2011年11月、第3回早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。
 東京大学法学部だからどうだ?ということは別にして、確かに彼はエリートである。

「それから二年後の一九八一年、野田は『少年狩り』の再演で紀伊國屋ホールに進出した。この年出た野田の戯曲の単行本は『少年狩り』、『ゼンダ城の虜』。『怪盗乱魔』など五冊を数える盛況ぶりだった。段田安則、上杉祥三、竹下明子、円城寺あやなど、夢の遊民社を彩る常連の俳優たちがそろうのもこの頃である。やはり、この年、「新宿もりえーる」(現在の新宿もりえーるとは別の小屋)で上演された『走れメルス』は、小劇場での公演にもかかわらず、観客は七千四百人を数え、八三年、本多劇場での『大脱走』では入場者が一万人を突破した。そして同じ年、『野獣降臨』(のけものきたりて) 」で第二七回岸田戯曲賞を受賞。八〇年代の若い世代の演劇を担う野田秀樹のブームがいよいよ本格化したのである。
 当時、野田の舞台をはじめて見に行った鈴木忠志が、野田の才能を評価して私に語ったことばを思いだす。「野田の登場は画期的だと思う。これまで日本の演劇は、どちらかというと、社会の落ちこぼれやすね者がやるものだった。でも、野田の舞台を見ると、本当に頭のいいエリートが芝居をやる時代が来たことがわかる。こういつヤツが本気で芝居を始めたら、なみの演劇人はかなわない。演劇はこれからきっと変わっていくよ」
 たしかに高級官僚や大企業のエリートの養成機関という側面が強かった東大法学部出身の野田が(ただし、八一年に中退)、小劇場のエリート的人気者として脚光を浴びたことは、小劇場演劇の体質の変化を実感させた。一九八〇年代後半からは小劇場演劇はかならずしもマイナーな存在ではなくなり、多くの観客を集めて大企業と提携するなどメジャーに活動する集団と、依然としてマイナーな存在でありつづける集団との分離が目立つようになる。鈴木のことばは、野田の劇団の急成長とその後の演劇界の変化を的確に予言していたといえるだろう。」 扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995、pp.198-199. 

 野田の世代は、戦争も革命も貧困も学生運動も知らない、日本が経済成長の上り坂に大人になった豊かさと飽食の若者である。彼らにとって演劇が表現すべき課題は、どのようなものだったのか?私化し、共同性を絶たれ、戦うべき相手も主張すべき自己も分裂した知的な若者が、それでも観客に向けてなにかを表現するとしたら、政治的な理念も統一的な観念もなんの共感も期待できない。先行する演劇人たちは、マイナーな反体制に凝り固まった世の拗ね者で、少しも尊敬できない。それじゃあ、ぼくたちは階級も性別も超えて、原初の宇宙的イメージを追求してどこまでいけるか、身体で表現してみよう、という試みは、資本主義と大企業の高度化をたっぷり利用して、メセナの帝王になってやろうじゃないか、というのがエリート才人野田の立ち位置になった。それは国家の勲章を獲得するほど成功した。

「では、そのように関心をあつめる野田秀樹のドラマの根本にあるものは何か。
 それは人類や歴史が進化し、分化するはるか以前の、すべてが無垢でしあわせな一体感のうちにまどろんでいた始原の状態にさかのぼろうという衝動と情熱である。だから野田の劇の多くは、遠い始原の一点に回帰するために、立ちはだかる謎を解き、複雑な迷宮をさまよう探索の旅の形をとる。それは私たち人間がそのような始原の姿から途方もなく隔てられてしまったという深い違和感、いわばロマン派的な世界観の表明でもある。
 野田の芝居が大詰めになると、めまぐるしく波立ち騒いでいた動きはふいに静まり、すべての対立を解きほぐし、ズレを癒す始原の時が一瞬だけ訪れる。その時、コミカルに舞台を飛び跳ねていた野田の演技は転調し、彼は震えをおびた高い叙情的な声で極めて本質的なせりふを語りはじめる。劇のすべてがこの瞬間のためにあったことが明らかになる、いわば野田流の聖なるクライマックスが到来するのである。
 『ゼンダ城の虜』(八一年)は、このような野田の劇構造の典型といえる。「ゼンダの城」の謎に迫ろうとする少年たちの旅は、人類の進化の過程をさかのぼる壮大な旅となる。男女雌雄の区別を超え、動物、植物のレベルさえ超えて、ドラマはついに人類の神話的原型としての両性具有の「天使」にたどりつくのである。人類の起源は、「少年」=「天使」なのだ。野田が演じる「万年青(おもと)」が言う。
 「お前(少年)とつながるこの糸を断ちきる時、楽園を追われたアダムとイブの様に、一人の天使がわかれわかれになる。お前は上に俺は下へと、さよう、この子は男でも女でもまして植物などであるはずがない天使である」
 だが、こうして一種特権的に語られる「少年」を、幼年期への退行的ノスタルジア、単純な少年賛歌と同一視してはならないだろう。戯曲『小指の思い出』(八三年)が示すように、野田の「少年」は、私たちがもう「少年」ではありえない現実との苦いズレや違和感を前提として、世界を再考するための枠組みとして設定されているからだ。
 野田が古典的作品を脚色する時も、こうした始原的存在や両性具有への関心は健在である。たとえば、シェイクスピアを原作とする『野田秀樹の十二夜』を日生劇場で潤色・演出した時(東宝制作、一九八八年)、野田は主演の大地真央に双子の兄弟、セバスチャンとヴァイオラの二役を演じさせる異例の設定をとった。しかも、ヴァイオラが男装して小姓のシザーリオに変身し、両性具有的な輝きを放つ姿にまばゆい光をあてた(大地の演技もこの役にふさわしく、じつに魅力的だった)。野田版『十二夜』は、兄弟姉妹の大団円のあと、原作とは違って、始原の海に還っていく両性具有者シザーリオのうっとりするほど美しい姿を浮かびあがらせて幕をおろしたのである。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995、pp.202-204.

 野田が池袋の東京芸術劇場の芸術監督になってから、いくつか野田の芝居をぼくも見た。なるほど、と思った。しかし、いまになってみると、あれはバブリーな八〇年代の産物で、豊かな経済成長の恩恵を享受した人々にとって、週末の上質で幸福な娯楽を提供したのは確かだとしても、演劇がもつ社会変革のパワーという点からは、一種のあだ花だったのかな、とも思う。
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