gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ゴダールと女優 5 ジェーン・フォンダ 読解力の危機

2019-12-10 03:56:35 | 日記

A.美女と珍獣

 多くの男は、ふだんは女性にあまり関心をもたない人でも、「おっ」と思わず目が留まる美女にはめろめろ心惹かれる。もちろん「美女」というものに定型はないが、とりあえず見た目の美しさがあれば、少しでも近づいて一緒にいたいものだと思うだろう。だが大抵は相手にされないから、眺めるだけでおしまい。そういう男のマジョリティにむけて、美女スターとかアイドルとかの商品形象が作られ売り出され、消費される。AKBは48人いて、君は誰がお好みかな?とやっているわけだが、アイドルに選ばれる基準があるとすれば、男にとっての「美女」かどうかである。逆に言えば、この「男の子」レベルの基準で80%の女性は圏外に除けられ、芸能界で飛び切りの美女として生き残るのは1%もいない。かつて映画全盛期のスター女優というのは、そういう容姿がとびきり美女というだけでなく(それは当然長く保てない)、常人には及びもつかない毛並みと知性が要求された。

 「アンヌ・ヴィアゼムスキーは17歳で突然に映画の主役を宛がわれ、それをスクリーンで観て直ちに深く魅惑されたゴダールによって、19歳のときに「彼の」女優として『中国女』で再デビューした。この軌跡は、同じく17歳で『聖女ジャンヌ』の主役に抜擢され、20歳で『勝手にしやがれ』で世界中に衝撃を与えたジーン・セバーグと年齢的に重なりあっている。だがセバーグが政治闘争と度重なる男性遍歴のうちに破滅したのとは対照的に、アンヌは短くないスランプを克服すると作家として着実に第二の人生を生き、今ではフランス文学の一角を占める作家として活躍している。あるいは女優であったこととは彼女の人生の物語にあって、最初の短い挿話にすぎないのではないか。彼女と対話している間に、わたしはふとそのような感想を抱いた。

 とはいえ彼女がいまだにゴダールと過ごした歳月に複雑な拘泥を示していることも、やはり否定できない事実だろう。その点で対照的なのはアンナ・カリーナである。「ジャン=リュックのこと?何でも聞いてよ。何でも教えてあげるわよ」。わたしがインタヴューをしたとき、いまだに俳優として歌手として現役のアンナは、ガハガハと笑いながらそう答えた。アンヌ・ヴィアゼムスキーが示した繊細な苛立ちと神経質な配慮は、このガハガハの対極にある。しかしここでも彼女が作家として成功し、文学を通して「過去という偉大な力」(パゾリーニ)に回帰したことを強調しておくべきであろう。その著作の他のものが本朝でも翻訳されることをここに望みたい。」四方田犬彦『ゴダールと女たち』講談社現代新書、2011.pp.137-138.

 このように、ゴダールの映画で主役を張った女性たちを見ると、ジーン・セバーグ、アンナ・カリーナ、アンヌ・ヴィアゼムスキーまでは、その顔や雰囲気で共通するものがあるように見える。若く、可憐で、しかも肉体的セクシャリティーは希薄な、インテリ好みの容姿である。これに何か難しい知的なセリフをしゃべらせてみたい、という監督の欲望。しかし、ヴェトナム戦争が激化した1970年代はじめ、ゴダールの『万事快調』に出演したアメリカ・ハリウッドの人気女優で、ヴェトナム反戦運動のシンボルになっていたジェーン・フォンダは、明らかに違うタイプだった。

 「ジーン・セバーグが負け組の女であるとすれば、ジェーン・フォンダは勝ち組の女である。それも徹底して勝ち組の。およそ20世紀の女性史のなかで、彼女ほど女優としても、政治活動家としても、女性としても、思う存分に好きなことをし、両手に抱えきれないほどの名誉と栄光を手にした女もいないだろう。だが同時に彼女ほどにゴダールから手酷く罵倒され、裏切り者、背信者として非難された女もいないはずだ。

 ジェーンは1937年にニューヨークで、俳優ヘンリー・フォンダの娘として生まれた。父親はジョン・フォードの『若き日のリンカーン』を始めとして、ハリウッドでいくたびもリンカーンを演じてみせた国民的俳優であり、弟のピーターは『イージー・ライダー』でアメリカン・ニューシネマの象徴的存在となった男優である。ジェーンには血筋のよさに加え、名門女子大ヴァッサーとアクターズ・スタジオの両方で学んだという、恵まれた学歴があった。モデルとして『エスクワイア』や『ヴォーグ』の表紙を飾った後で、23歳で『のっぽ物語』(ジョシュア・ローガン、1960)で女優デビュー。ルネ・クレマンの『危険がいっぱい』(1964)に誘われたのを契機にフランス映画界に乗り込み、たちまちロジェ・ヴァデムと結婚。1964年には彼の監督した『輪舞』で、アンナ・カリーンをチョイ役にさしおいて、お色気たっぷりの若い人妻を演じた。ヴァデムはやがてSFエロティックコメディ『バーバレラ』(1968)で、ジェーンを未来社会のセックスシンボルに仕立て上げた。

 だがジェーンは一方で、セバーグ去りし後の巨匠プレミンジャーが撮った『夕日よ急げ』(1967)に出演。ハリウッド・コネクションにも巧みに目を配り、『逃亡地帯』(ペン、1966)、『廃馬は撃たれるわけ?』(邦題『一人ぼっちの青春』、ポラック、1969)といった、良心的にアメリカ社会を批判する「新傾向」のフィルムでも活躍を続ける。アメリカのヴェトナム侵略に反対するパフォーマンスを開始すると、日本を含むアジア各地の米軍基地を廻った。時のニクソン大統領はジェーンに苛立ったが、彼女は「ハノイ・ジェーン」という綽名をほしいままに華々しい反戦キャンペーンを展開した。1973年にはトム・ヘイドンと結婚。ちなみにこの人物はゴダールが『ワン・アメリカン・ムーヴィ』のなかでインタビューを試みた学生運動の活動家である。ヘイドンはまた、『ウラジーミルとローザ』(1971)でゴダールがモデルとした、1968年シカゴでの反戦デモで共謀罪で起訴された運動家たち、いわゆる「シカゴ・セヴン」の一人であり、後に政治家になった。とはいえジェーンは黒人解放運動に加担したジーン・セバーグやパレスチナ解放闘争に走ったヴァネッサ・レッドグレーヴのように政治とスターダムとの間の均衡を崩すことはなく、反戦運動の期間中にも『コールガール』(パクラ、1971)でオスカーを取ることを忘れてはいなかった。

 ゴダールとジャン=ピエール・ゴランがジガ・ヴェルトフ集団の名のもとにジェーンに出演依頼をしたのは、こうした時期の出来事である。彼らは16ミリでのゲリラ的活動がパレスチナ取材の後に座礁したことの失地を挽回するため、新機軸を打ち出した。ハリウッドとフランスの有名スターを主役に据え、大映画会社ゴーモンを後ろ盾に多額の予算を準備すると、35ミリ作品『万事快調』を撮ろうと企画したのである。ジェーンの相手役には、これもフランス映画界にあって左翼陣営の代表と見なされていたイヴ・モンタンが選ばれた。もっともこの誇大妄想的な企画が実現される直前に、ゴダールはオートバイ事故で重傷を負ってしまう。骨盤が砕け、頭蓋骨に亀裂が走ったため、六日にわたって意識不明が続く。『万事快調』の撮影は、彼の治療と並行して行われることとなった。

 ラジオ局から派遣されたジャーナリストのジェーン・フォンダと、著名な映画監督であるイヴ・モンタンが、工場を占拠して闘争している労働者の取材に出かける。二人は図らずも社長室に監禁されてしまう。そこで彼らは労働者と接するうちに、メディアのなかに生きてきた自分たちの階級的生活を批判的に検討し、知識人が革命に対して何をなしうるかという問いにしだいに目覚めてゆく。これが『万事快調』の筋立てである。けっして難解なフィルムではない。もっともセットの工場は意図的にチャチに作られていて、それがけっして現実ではないことを観客に告げ知らせている。冒頭では分厚い小切手帳のページが延々と捲られ、このフィルムを製作するにあたって必要となった予算がすみずみまで理解できるように仕掛けがなされている。結末部では若者たちが巨大なスーパーマーケットを襲撃し、好きなだけ商品を略奪するさまが、長い移動撮影によって描かれている。一見、図式的な中国映画のように見えて、細部のいたるところでブッ飛んでいるフィルムなのである。ジェーン・フォンダは最初は戸惑いながら、しかし一生懸命にこの前代未聞の映画撮影に歩調を合わせようとしている。

 ところがこのフィルムの完成後、ゴダールとゴランのジェーンに対する関係は最悪のものとなる。クランクアップから数か月後、彼女はハノイに招待され、その映像が「ヴェトナムの平和のために奮闘する闘士」として、『レクスプレス』誌に掲載される。それを手にしたゴダールとゴランは怒り心頭に発し、ただちに長文の批判的論文「ある映像についての調査」(『ゴダール全評論・全発言』第二巻、奥村昭夫訳、筑摩書房に収録)を書き上げると、当時毛沢東主義を標榜していた前衛的文芸雑誌『テル・ケル』に発表する。いや、それでは気がすまない彼らは、問題となったジェーンの報道映像だけを素材に、『ジェーンへの手紙』なる52分の16ミリ作品を撮り上げる。このフィルムは1974年に完成したが、パリでは公開されない。ようやくフランクフルト映画祭で上映され、以後は転々とアメリカ中の大学で上映される。ゴダールとゴランはその逐一につきあい、そのたびごとにジェーン批判を繰り返す。だがそれにしても、彼らは具体的にジェーンの何を批判したのだろうか。

 問題となった写真のなかでは左側にもの悲しそうな表情で口を閉じたジェーンがいて、ヘルメットを被ったヴェトナム人を前にしている。この人物の顔は見えないのだが、二人の中間にはもう一人、若いヴェトナム人が写っている。写真の焦点はジェーンに絞られており、このヴェトナム人の表情はボケている。この写真に対し、ゴダールとゴランは「真実というのは単純なものだが、しかし真実をいうのは単純なことではない」と、ジガ・ヴェルトフの警句を引用しながら、細かなイデオロギー的分析を重ねてゆく。

 この写真は北ヴェトナム政府の要請によって撮影され、欧米の資本主義社会で刊行されている週刊誌によってキャプションが施された。だがヴェトナム人と欧米人が人間の表情を読み取るコードは異なっているはずであり、受容の形態は双方にあって別々の形であるはずだ。『レクスプレス』はジェーンが何かを『訴えている』と言葉を添えているが、実は彼女は現地の民衆の声に聴き入っているのであり、ここに最初の虚偽が生じている。この写真は中央の無名のヴェトナム人について何も説明しようとせず、焦点をもっぱら著名なハリウッドの女優に絞っている。そこで実現されているのは、「偶然が現実の仮面を剥ごうとするまさにその瞬間に現実に仮面をかぶせる」という、資本主義社会における欺瞞にほかならない。

 ゴダールとゴランは続いて、陰気に口を閉ざしたジェーンの表情についての分析に移る。この表情には見覚えがある。それはハリウッドのスタニスラフスキー的なショービジネスによって歪められた悲劇女優の表情だ。パクラの『コールガール』のなかで刑事ドナルド・サザーランドを哀れむように見つめ、後になって彼と寝る決心をする女の表情だ。いや、フォードの『若き日のリンカーン』でヘンリー・フォンダが悲惨な黒人たちに投げかけた表情だ。さらに二人は過激に罵倒を重ね、それはジョン・ウェインが『グリーン・ベレー』のなかで戦争に荒廃したヴェトナムを見つめるときの、哀れみに満ちた表情だとまで断定してみせる。ウェインは超タカ派の反共主義者で、アメリカのヴェトナム「援助」を積極的に支持していた男優である。およそ反戦運動家として自負していたジェーンについて、これ以上の侮辱は考えられないだろう。しかし「われわれはきわめて安い値段で自分のために良心をでっちあげることによって、ヴェトナム人に利益よりはむしろ害を与える危険を犯している」と、ゴダールとゴランの批判は手厳しい。

 ジェーンの目は、ヴェトナムのなかに恐怖を読み取っただけで満足している。それに対し、彼女の隣のぼやけたヴェトナム人は、自分の恐怖全体のなかにアメリカの現実を見てとっている。ジェーンの顔は焦点が合っているのに、彼女の左翼的政治理念は焦点がボケている。ヴェトナム人の顔は焦点がボケている。彼の政治理念は明確であり、一点の曇りもない。ジェーンにとって致命的な過誤とは、戦闘的な女優としてハノイに招待されたというのに、ハリウッドにおいては女優として闘っていないことだ。彼女はヴェトナムについては関心をもって語っても、自分が今いるアメリカについては沈黙している。こうした大きな問題を提示することになる。いったい歴史を作るのはスターなのか、英雄なのか。誰が何を代表しているのか。どのように表象しているのか。「ルプレザンタシオン」という言葉は日本では愚劣な東大中心主義者の回覧誌の題名に使われてしまい、すっかり株が下がってしまった感のある言葉であるが、1970年代中期の時点でゴダールがその原理的な批判を開始していたことは、後に哲学者のジル・ドゥルーズが彼のヴィデオ作品に好意を寄せた事実とともに、記憶されるべきことであるはずだ。

 私見するに、ジェーン・フォンダ本人はおそらくゴダールとゴランによる批判で何が問題となっているかを、ほとんど理解できなかったはずである。彼女が難解な前衛的文学誌『テル・ケル』をフランス語で読んだとはとうてい考えられないし、『ジェーンへの手紙』に直接反論した形跡はない。いや、ひょっとして観ようともしなかったのではないか。ともあれジェーンは『万事快調』など存在しなかったかのように、翌年の1973年にはジョゼフ・ロージーのもとで『人形の家』のノラを演じ、女性解放運動を指導する進歩的女優という新しい称号を手にした。1974年には夫のヘイドンと共同で、『ヴェトナム旅行』(1974)というドキュメンタリーまで纏めている。1977年にはリリアン・ヘルマン原作による『ジュリア』(ジンネマン)で主演。ポスト・ヴェトナム映画の先駆といえる『帰郷』(アシュビー、1978)では二度目のオスカーに輝いた。そしてその後は?いつしか彼女はヘイドンとも別れ、みずから演じるエアロビクスのヴィデオカセットで巨額の印税を得て、女たちの「新しい健康ライフ」を呼びかける偶像となった。彼女は今でもゴダールのことを思い出すことがあるのだろうか。いや、そもそもそれ以前に、かつて訪れたハノイと、そこで出会ったヴェトナムの民衆のことを。

 ちなみにゴダールの『映画史』にはヘンリー・フォンダは現われても、その娘の映像はない。」四方田犬彦『ゴダールと女たち』講談社現代新書、2011.pp.140-148.

 アカデミー賞を何度も取るようなハリウッドのトップ女優が、同時にヴェトナム反戦や左翼的な運動に積極的に関わって、その地位は維持されお金持ちであり続ける。どうしてアメリカで華やかな成功者であることと、アメリカ政府の政策に表立って反対する立場が矛盾しないのか、アメリカ資本主義の恩恵を受けていることに無自覚なまま、自分は反体制派を気取っているのは欺瞞ではないか、というのが結局ゴダールの批判だったのだろう。しかし、ジェーンはそれが理解できず、何が問題なの?と無視した。その程度の女だ、ということだろうが、だったら四方田氏がここでわざわざとりあげるほどの存在ではないことになるが、それを示すためにもジェーン・フォンダの名を出しておくことの意味はあると考えたのだろう。

 いまや、ハリウッドで大スターが反トランプ発言をするのは珍しくないが、ジェーン・フォンダ同様、それで人気が落ちたりはしない。反フェミニズムやセクハラ、レイシスト発言をすれば猛烈に批判されることもわかっている。芸能界で巧みに生きていくには、そういう意味で“政治的”でなければならないのだろう。

 

B.「読む力」は「考える力」

 学校というものが国の制度になって、すべての子どもに等しく基礎的な教育を施すようになったのは、さほど古いことではない。西洋の場合、古代から学校のようなものはなかったわけではないが、それは上流階級の子弟や大教会が聖職者を養成するためのもので、一般民衆は読み書き計数の手ほどきは、生きるため仕事の必要がある場合に、自分で苦労して覚える以外、縁がなかったと思われる。ちゃんと調べていないので正確なことは言えないが、近代の学校制度が初等教育に及ぶのは、フランス革命以後の国民国家の成立で、共通言語による「国民養成の教育」が必要だと考えられるようになってからだろう。そもそも書き言葉としてのラテン語は、聖書を読み書物を読み、そこから世界を理解する学問につながるもので、ごく一部の知識人だけの独占物だった。東洋でも、事情は似たようなもので、漢文を読みこなすリテラシーは、高位の貴族や僧侶だけのものだった。だが、中国は6世紀末の隋と、続く唐王朝以来制度化された官吏登用試験、科挙によって出自身分は問わず受験できるようになった。とは言うものの、超難関の科挙に合格するには四書五経をはじめ多くの書物を読み詩や文章を書く能力を、子どものときから師匠について学習しなければならず、裕福な家の子でも相当に難しい。一族から一人の科挙合格者を出すために、必死で応援してもダメだったみたいな話が伝わる。

 日本は中国からさまざまな知識、制度、文化を輸入したけれど科挙だけは採用せず、やがて武士の時代になって言語文化の担い手は主に漢文に通じた大寺院の学僧か、上級の武士あるいは公家だけのものになった。もっとも平仮名のおかげで源氏物語など宮廷の女性も文章を書く人はいたけれど、もちろん庶民ではない。ところが戦のない江戸時代になると、一種の趣味道楽に近い文芸が流行り、儒学、国学、連歌、俳句、一般の農民町人まで、文字を習い文章を読む人が増えて、それを教える私塾があちこちにできてくる。子どもに読み書きを教える寺子屋も普及する。試験に通るための勉強ではなく、文字文章を楽しむ人が幅広くなれば、自分で日記、身辺雑記、物語まで書く人も出てくる。もちろん公文書は漢文に近いから、誰でも書けるわけではないが、一通りの教養として子どもに読み書きを教えなければ、ろくな者にはなれないと考える親が江戸時代にはふつうにいた。「暁烏」という落語で、商家の若旦那が「学問」に夢中で本ばかり読んで世間を知らないから、神社参詣とだまして吉原に連れて行くという噺だが、この19歳の若旦那が夢中なのは俳句川柳ではなく、「学問」つまり漢字の多い書物を読み書きすることで、そういう文化が江戸にはあったというわけだ。そういう下地がなければ、女子供でも本を読む社会はありえない。明治以降の学校教育が急速に庶民に普及したのも、小学校制を敷いた上からの政策で強制したばかりとは言えない。というわけで、現状の日本の子どもたちの「国語教育」のお話である。 

 「江戸川柳に「かやば町手本読み読み船にのり」とある。江戸・茅場町の寺子屋に渡し船で通う子どもの様子で、読んでいた手本とは「往来物」と呼ばれた教科書だ。進学のない時代にずいぶんと勉強熱心である▲「教育は欧州の文明国以上に生き渡っている」アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対し、日本では男も女もみな読み書きできる」。これはトロイアを発見した考古学者、シュリーマンの日本観察である▲「みな読み書き」は言い過ぎにせよ、幕末や明治に来日した外国人はその故国と比べて日本の庶民、とくに女性が本を読む姿に本当に驚いている。歴史的には折り紙つきの日本人の「読む力」だが、その急落を伝える試験結果である▲79か国・地域の15歳を対象に3年ごとに行われる国際的な学習到達度調査(PISA)で、昨年の読解力の成績が前回の8位から15位へと低下した。科学や数学の応用力の成績が上位に踏みとどまった中での際立った学力後退という▲「テスト結果に一喜一憂するな」と言いたいところだが、この成績低下、思い当たるふしがあるのがつらい。何しろ本を読まない。スマホに没頭する、長文を読んで考える習慣がない……止まらない活字離れを指摘する専門家が多い▲以前はゆとり教育からの路線転換をもたらしたPISAのデータだが、読解力はV字回復の後に再び低落した。川柳子や幕末の外国人を驚かせたご先祖たちに教えてもらいたくなる「楽しく読む力」である。」毎日新聞2019年12月6日朝刊1面、余禄。

 長い文章や書物をちゃんと読むことがなければ、どういう能力が身につかないかははっきりしている。それは、正解に早く到達する能力でもなく、必要な情報を手早く探す能力でもなく、人と交渉したり接触するのに無駄なく結果を出せる能力でもない。ものごとを自分の頭でじっくり考えて、そのプロセスを人にわかるように言語化して表現する能力である。現在の日本の初等中等の学校教育が、国語という科目でやっていることは、当然文章や本を読みこなすことを教えてきたと思う。

しかし、このテスト結果の順位などよりも問題なのは、文科省をはじめ企業社会の上のほうにいる人たちが、学校教育について発言するときに「役に立つ教育」「実践的な教育」をやっていない、という批判だ。その中身を具体的に聞くと、たいていは英語力が足りないから外国人とのビジュネスに負ける、といった類のものか、文学や評論みたいなど~でもいい教材はやめて、実用的な知識や理数系教育に力を入れろ、といった話ばかりだ。現実に教育改革といって出てくるのは英会話とコンピュータ科学、ITの礼讃である。これはもう日本の子どもの危機といっていい。日本の子どもの読解力が落ちているとすれば、いまの学校教育に対するこうした愚かな実用主義、効率主義のせいであって、大学生がほとんど本を読まないのは、スマホやネットで必要な実用情報やアイドル情報は手に入るから、というだけでなく、文章を読むことでものを考える楽しみを知らないからだ。シェイクスピアなんか読んでも何の役にも立たない、という人は、英米の一流ビジネスマンと会話する際に、ハムレットやマクベスの台詞が話に出ても{?}、源氏物語[?]読んだことがないだけでなく、そんなことを考えたこともないという人間など無教養で金のことしか頭にないアホとして相手にされない、ということを知るべきだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ゴダールと女優 4 アンヌ・... | トップ | ゴダールと女優 6 アンヌ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事