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ゴダールと女優 6 アンヌ・マリ・ミエヴィル 自由な表現

2019-12-12 03:54:45 | 日記

A.恋人ではなく協働のパートナー

 人は20歳前後は若さにまかせて、見た目で気に入った同世代の異性を追いかけて自分の奴隷にしたいと願う。それが破綻に終わった30歳前後は少し冷静になって、自分の手のうちに迷い込んだ若く美しい小鳥を理想的な人間に仕立て上げようとする。しかし、これにも失敗するアラフォーでは、もう若い女などただのバカにしか見えない。結局自分がずっと求めていた異性は、自分以上に冷静で知的で、肝心なときに篤く手を差し伸べてくれる人なのだ、とようやく気付く。

 「アンナ・カリーナとの結婚生活は四年かそこらで破綻し、その間もゴダールは複数の女優が主演するフィルムを平然と監督していた。アンヌ・ヴィアゼムスキーとの結婚も四年ほどで空中分解。それに比べゴダールとミエヴィルはなんと四〇年にわたってパートナーシップを続け、その間にゴダールは1960年代には見られなかった主題的広がりを獲得したばかりか、より自由で解放された映画作りへと向かうのである。どうしてそのようなことが可能であったかを、まず考えてみることにしよう。

 ゴダールとアンナ・カリーナとの関係は、フォン・スタンバーグとディートリッヒ、胡金銓と徐楓のそれと同様、才能に溢れた映画監督とその視覚的欲望の受け皿となった天才的女優との関係であった。アンヌ・ヴィアゼムスキーとの関係は教師と生徒であり、ヴィアゼムスキーは意味も充分に理解できないままに、ゴダールの指示通り、難解な政治議論の科白を攻撃的な口調で復唱しているばかりだった。だがゴダールとミエヴィルとの関係は、そのいずれとも異なっている。まず彼女は映画女優でもファッションモデルでもなかった。ジガ・ヴェルトフ集団のメンバーとなったジャン・ピエール・ゴランがそうであったように、現実の政治情勢に対しては厳しい批判精神こそ抱いてはいたが、映画に対してはいかなる経験ももたず、いうなればズブの素人であった。

 ゴダールはジーン・セバーグやアンヌ・ヴィアゼムスキーの時のように、巨匠のフィルムで主演を務めた少女の映像へのフェティッシュな欲望からミエヴィルに接近したわけではない。したがって、幻滅による心変わりを体験することもなかった。ミエヴィルは最初、挫折のさなかにあるゴダールの前に容赦なき批判者として出現したのである。次に彼にとってこれまでまったく未知の領域であった主題を次々と提示し、フィルム製作に関して強力な助言者として振る舞った。両者の関係は簡単にいって、三つの段階に分けて考えることができる。

 第一段階ではミエヴィルは、脚本、演出、編集の三分野においてゴダールを支え、ある時は霊感を、別の時には批判を与える役割を担った。その途上でゴダールは商業映画の世界に復帰した。次の段階で彼女は自作のフィルムのなかにゴダールを登場させ、ゴダールはミエヴィルの作品を自作の内部に引用した。ここでは映画テクストの間での幸福な相互言及関係が成立している。第三の、そして最終の段階にあって二人の共同作業は、互いに別個の作品を撮りながらも、そこに見えない形で共同作業の痕跡がはっきりと窺われるという域に到達するまでとなった。これは二人の才能溢れるシネアストの作業として理想的な形態であり、映画史上にあってはわずかにジャン=マリ・ストローブとダニエル・ユイレの場合だけがそれに匹敵できるのではないか。そういいたい衝動に、わたしは駆られている。

 アンヌ・マリ・ミエヴィルは1945年、ローザンヌに時計会社社長の娘として生まれた。本人が言葉少なに語るところによれば、家庭はプロテスタントでブルジョワ的な環境だったという。

 ちなみにミエヴィル家は17世紀に始まる旧家で、一族からはニーチェ学者のアンリ・ミエヴィルが出ている。彼女は20歳をすぎてパリに出ると、フィリップ・ミシェルという広告業者と結婚し、娘アンをもうけた。ミシェルはギィ・ドゥボールを愛読する、一風変わったシチュエイショニストであり、フランスのコピーライトを一新させた人物であった。ミエヴィルはこのとき音楽に野心をもっていたので、実はバルクレーから二枚のレコードを吹き込んでいる。裾が拡がった白パンタロン姿は長い金髪で優雅な雰囲気から、ジョーン・バエズのフランス版と呼ばれ、ギターを抱いてバエズの歌を歌うこともあった。三オクターヴの聖域てをもち、フランソワーズ・アルディの「樹と森」のカヴァーヴァージョンをヒットさせた。

 ミエヴィルがゴダールと知り合ったのは1971年4月。シネマティック・スイスの館長であるフレディ・ビュシュアに自作を見せるため、ローザンヌを訪問したときのことであった。ほどなくしてパリに出たミエヴィルはパレスチナ専門書店で働き、ゴダールと再会した。知り合ってまもなく、ゴダールは毎日ミエヴィルに手紙を書き送ったという。このあたりのマメさはポランスキー顔負けといえる。

 1971年6月ゴダールは、ジガ・ヴェルトフ集団のメンバーの女友だちであるクリスチャン・アヤの運転するオートバイの後部座席に座りオルリー空港へ向かう途中、トラックとオートバイが衝突したせいで腰に瀕死の重傷を得た。ゴダールがブレヒトの戯曲集『メ・ティ』を買い忘れて、引き返そうとしたのが仇になったのである。アヤは過失傷害の罪で懲役一か月の判決をいい渡された。このとき献身的に彼を看護したのが(もちろんヴィアゼムスキーであるはずがなく)ミエヴィル。半年にわたる入院と静養の後、ゴダールが『万事快調』の撮影に取り掛かったとき、ミエヴィルは夫の姓のもとにアンヌ=マリ・ミシェルという名前で、スチール写真を担当している。もっともすでにその時彼女は夫を離れ、スイス人の映画監督であるフランシス・ロイセールと同居していた。このロイセールは、後にゴダールがパリを離れ、スイスに「隠遁」するにあたって人脈的にも重要な人物なので、簡単に紹介しておいたほうがいいだろう。

 ロイセールは1942年にヴィヴェで生まれた、スイス人のドキュメンタリー映画・TV作家である。1969年から70年にかけてヨルダンを訪れ、パレスチナの大義を叙事詩的に描いた『ビラディ』を撮った。彼とミエヴィルは、空想的社会主義者シャルル・フーリエの命名による共同生活集団「ファランステール」で生活をし、パリやイタリアの極左の「同志」たちに門戸を解放していた。二人とも親パレスチナの左翼であり、小さな印刷所をもって毛沢東主義の小冊子やアジビラを印刷していた。1976年にはロカルノ映画祭で金豹賞を受け、俳優としてもアラン・タネールの『どうなってもシャルル』(1969)や『ジョナスは2000年に25歳になる』(1976)といったスイス映画に出演している。ジュネーヴで映画芸術学院の映像系列学科を立ち上げたり、スイス映画の興隆にもっぱら情熱を傾けてきたシネアストである。当然のことながら同国人であるゴダールとは古くから親交があり、それはミエヴィルが彼を捨ててゴダールのもとに走った後もいささかも損なわれることがなかった。それどころかゴダールは彼を通して撮影監督のレナート・ベルタや録音技師リュック・イェルサンといった豊富なスイス人脈のなかに流れ込むことができ、そこからやがて『勝手に逃げろ/人生』が立ち上がってくる。長々と人脈の連なりについて書いたのは、こうした全体的趨勢が働いて、1970年代中ごろに疲弊しきったゴダールを喧騒と幻滅のパリから引き離し、グルノーブルへ、そしてジュネーヴ近郊のロール村での根拠地作りへと向かわせたということを理解していただきたいからである。

 さてゴダールとミエヴィルに話を戻すと、『万事快調』が完成し、その後産である『ジェーンへの手紙』を携えて、ゴダールとゴランはアメリカ中の大学を廻る。だが、これは不毛な旅であった。徒労の極に達した二人は1973年に訣別し、四年間続いたジガ・ヴェルトフ集団はこれをもって解散する。ゴランに代わって新しくゴダールの協力者として登場したのが、アンヌ=マリ・ミエヴィルである。1973年の年末、ゴダールはかつてゴダールとアンナ・カリーナが仲睦まじく築きあった「アヌーシュカ・フィルム」を改称し、新たに「ソニマージュ」なる製作会社をグルノーブルに発足させると、その法的な代表をミエヴィルに定める。「ソニマージュ」とは「ソン」(音声)と「イマージュ」(映像)を結合させた造語であるとともに、「彼の映像」という謎めいた意味をも含んでいる言葉である。そしてソニマージュ立ち上げに際してなされたインタヴューの席上で、ゴダールはこれから自分が目指している「真の政治映画」とは「私についての映画、つまり、私の妻と娘にありのままを見せることができるような映画」であると宣言し、約(つづ)めていうならばそれは「家族映画」であると語る(「もう一つの技術を求めて」、『シネマ・プラティック』誌、1973年7∸8月号、奥村昭夫訳、前掲書収録)。

 こうして体制を固めた上で二人が手始めに取りかかるのは、ゴダールが1970年に方法論的に挫折し、放り出したままになっていた『勝利まで』のラッシュを最初から見直し、その批判としてのフィルムを製作することであった。散逸した映像を拾い集め整理する作業は、すべてミエヴィルが担当した。こうして完成したのが『ヒア&ゼア こことよそ』(1974∸75)である。」四方田犬彦『ゴダールと女たち』講談社現代新書、2011.pp.151-158.

 創造者シネアスト、ジャン=リュック・ゴダールは、初期の『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグ、『氣狂いピエロ』のアンナ・カリーナ、『中国女』のアンヌ・ヴィアゼムスキー(ほかにもいろいろいただろう)といった彼好みのお気に入りを侍らせて、少々悦に入っていた自らを、その破綻に至ってもう一度足元から見直し、映画界から隠遁したかのように言われた。でも、ゴダールは映像で何ができるか、何がしたいのか、を追求していた。それは、まぎれもなく新たな女声の存在に関わっていた。

 「さて『二人の子供・フランス漫遊記』を撮りあげたゴダールは、ミエヴィルから思いがけない助言を与えられる。それは、そろそろ一般の商業映画の世界にカムバックしてはどうかという提案であった。

 1979年、いよいよゴダールは『勝手に逃げろ/人生』を撮りあげ、みごとに商業映画界に復帰する。彼はそれを「第二の処女作」と呼んで憚らない。そしてそれ以来、この原稿を執筆している2011年の時点まで、年齢的にいって五〇歳から八〇歳までの間、彼は途切れることなく作品を発表し続ける。長編フィルムの数だけでも15本、短編やヴィデオまでを含めると夥しい数の作品がこうして発表される。そしてそのなかには四時間をゆうに越える大作、『映画史』四部作までが含まれている。ゴダールは1960年代のように若さにまかせて驚異的な早撮りこそしなくなったが、これは計算すれば二年に一本の割で着実に長編を撮り続けているわけで、やはり相当なことではないだろうか。そこからは中年以降の彼の仕事ぶりの安定と成熟とが強く窺われる。そしてそのすべての作品に何らかの意味でミエヴィルが関与していると考えるならば、人は改めて彼女の存在の重さに思い当たることだろう。もっともこの時期のゴダールの全作品にこと細かにつきあうだけの紙数は、本書には許されていない。」四方田犬彦『ゴダールと女たち』講談社現代新書、2011.pp.174-175. 

 ぼくも四方田氏につき合って、ゴダールの女をこうしてフォローしてきた訳だが、誰にも会った瞬間ビビッと心に訴えるお好みの顏がある。そういうことは女性にもあるのだろうか?水も滴るイケメンにめろめろというオバサンは山のようにいるだろうが、賢く知的な教養ある女が、どういう男に人生を共にするのかは、ジャニーズ・レヴェルではなく、宝塚レヴェルでもなく、ゴダールと対等な関係を築いた女だけが知っている。

 

B.金持ち老人のなすべきこと

 今も人間社会の根底にある近代資本主義の駆動力は、金は貯めるものではなく、ただ消費散財するものではもちろんなく、金は投資と消費で循環させ、さらに金融で、永遠の自転車漕ぎのような過酷を強いてくる。人生50年だった時代は遠く、老齢の自分を自覚してやり残した仕事をどこまでやるか、それには気力体力が充実していることが基本条件なのだ。

「人生100年時代 「長生き=リスク」という不合理:多事奏論 編集委員 原 真人

 古代中国を統一してあらゆる権力を手中に収めた秦の始皇帝。果てには材を投じ、「不老不死の霊薬を探せ」と大号令をかけたが実際には50歳まで生きられなかった。

 多くの国民が「人生100年」を考える時代を迎えた現代日本は、そんな始皇帝の理想に近づいた驚くべき国かもしれない。だが始皇帝がこの超長寿社会の現実を見たら、果たしてうらやむだろうか。

 皮肉なものである。皇帝の見果てぬ夢、人々の慶賀の至りだった長寿が、いつしか日本人が抱える「不安」の最大要因になってしまっているのだから。

 半年前、金融庁の審議会がまとめた「老後2千万円」報告書を大臣が受け取る受け取らないという騒ぎがあった。安倍政権は正式な報告書は存在しないという体裁をとることで問題がなかったことにしたかったらしい。しかし問題は厳然として、そこにある。長生き人生をどう過ごすか、先立つものは用意できるか、というすべての国民にとっての一大関心事である。

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 「日本人は老後が不安で金を使わないから、死ぬ時が一番金持ち。3千万円抱えたままで死ぬ」

 経営コンサルタントの大前研一氏から、そんな話をうかがった。「それに比べると社会保障への信頼が厚いスウェーデン人、人生をとことん楽しむイタリア人は死ぬまでに財産を全部使い切る。どちらが健全な生き方か明らかだろう?」

 なるほど、と思って調べてみた。残念ながら欧州2か国についてはデータで確認できなかったが、日本人についての分析は、少なくとも一定の資産をもつ人たちについては当たっているようだ。

 フィデリティ退職・投資教育研究所が、2016年に相続人5千人を対象に実施したアンケートによると、相続財産の平均はまさに約3500万円だった。

 とはいえ、それが日本人の平均像というわけではない。大資産家が平均値を引き上げているからだ。相続財産を保有額順に並べると、真ん中くらいの人は1千万円強。

 国税庁によると、課税対象となる規模の相続財産があった人は全体の8%にすぎず、9割以上の人は1千万円強。

 国税庁によると、課税対象となる規模の相続財産があった人は全体の8%にすぎず、9割以上の人は税金を払うほどの遺産額ではなかった。

 同研究所の野尻哲史所長はリタイア世代向けの資産運用セミナーで講演するとき、「95歳以上まで生きる人生設計を考えておいた方がいい」と助言している。平均余命からか考えると、いま60歳の人の2割がそこまで生きる可能性があるからだ。

 この現実が、長生きに備えてなるべくお金を使わずにすませたい、という日本の高齢者の暮らし方につながっている。

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 それでも日本の個人金融資産は1800兆円ある。その6割以上を65歳以上が保有する。この巨大資産をため込んで動かぬままではあまりにもったいない。

 資産をもつ人はそれを最大限に使って人生を楽しみ、そこから生まれる雇用や投資が現役世代を潤わせて税収を増やす。そうなれば結果的に、資産をもたない高齢者への社会保障も手厚くする好循環ができる。

 たとえば年間の推定相続資産50兆円の1割、5兆円ほどでも生前に消費されれば経済成長率は1%上乗せされる。昨今の低成長時代にあっては相当な浮揚効果である。

 「けっして無理な話じゃない」と野尻氏は言う。「それにはどこかで長生きリスクを遮断しないといけない。75歳とか85歳とか基準を決め、それ以上の年齢の国民は年金だけでも

生活できるようにする、というのも一つの答えではないか」

イタリア人のように「人生をもっと楽しもう」という意識改革も日本人にはきっと必要だと思う。ただ、漠然とした不安を募らせている高齢者たちの年金や医療、介護の抜本的な強化こそ急がれる課題かもしれない。」朝日新聞2019年12月11日朝刊、13面オピニオン欄。

  ここで言われていることの大筋は、今の日本の消費経済は貧血状態で、若者や中年世代は日々の生活に精いっぱいで、景気に活を与える多額の消費は無理だ、とすると、期待されるのは、資産の豊かな高齢者ということになる。しかし、その金のある高齢者が将来への不安から貯蓄に励むばかりで消費は控えている。大前氏をはじめ、日本の力強い経済成長よ再びと願う人々は、なんとか高齢者がどんどん金を使いまくってくれればもっと日本経済は立ち直ると熱望しているようだ。

 でも、ぼくは稼いだ金をため込んで使わないのは、引退した高齢者だけではなくて、大企業も労働者の賃金や待遇を切り削って稼いだ金を、内部留保でため込んで使わないのは同じだと思える。それは将来の危機に備えたものだという言い訳も同じだろう。40年働いてやっと年金生活に入った高齢者に、持ってる金を派手に使えというのは冗談でしょ?といいたい。
「表現の自由」をめぐる議論が、これから開催予定の芸術祭についても論じられるのは望ましい動きだが、そこに提起された問題は相変わらず依怙地な「反日」と排外主義が結びついた攻撃的言説に、ちゃんと反論できているのだろうか。 

「公的支援のあり方 議論白熱 :ひろしまビエンナーレ前に対話イべント

広島県で来秋初めて開催される国際芸術祭「ひろしまトリエンナーレ2020」。そのプレイベントとして、アーティストや研究者らの対話イベントが11月16・17の両日、同県尾道市で開かれた。先日閉幕した「あいちトリエンナーレ2019」で、脅迫や電話攻撃により一時中断された「表現の自由展・その後」の出品作家も参加。アートへの公的支援のあり方などについて、観客も加わって議論が白熱した。 (出田阿生)

イベントは瀬戸内海に浮かぶ離島、百島(ももしま)で開かれた。主催したのは現代美術家の柳幸則さんら。百島で2012年、廃校となった中学校舎を改造して拠点施設「ART BASE 百島」を開設。そこで、昭和天皇の写真をコラージュした、美術家の大浦信之さんの連作版画「遠近を抱えて」全十四点や、美術家小泉明郎さんの天皇制をテーマにした映像などを12月15日まで展示している。

この企画は「あいちトリエンナーレ前からのもので、公的な助成金は使っていない」(柳さん)が、広島県などには抗議電話があったという。そのため会場の四隅には警備員が立った。参加者の手荷物を預かり、金属探知のゲートをくぐるといった対策も講じられたが、特に混乱はなかった。

大浦作品は、あいちトリエンナーレをきっかけに「昭和天皇への侮辱だ」「作品展示に公金を使うな」といった抗議が殺到した。

これに対して11月16日の対話イベントで、美術史学者の河本真理さんは「大浦作品で天皇の写真と組み合わされているのは、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』の一部や、源氏物語絵巻など。天皇ばかり注目されるが、多層的なイメージが重なっている」と指摘。「作者はニューヨーク滞在時に制作しており、『西洋から見た日本』を天皇のイメージで内面化しているのでは」と分析した。

ある参加者の男性は「大浦氏の映像作品からは天皇制反対の明確なメッセージを感じた。韓国に傾倒した反日プロパガンダだと思う。ごまかさないでほしい」と質問。近現代史研究者の辻田真佐憲さんは「さまざまな文脈がある、きわめて複雑な作品。これを天皇の戦争責任追及や反天皇制プロパガンダというのは難しいと思う」と応じた。

参加者として、あいちトリエンナーレの芸術監督を務めた津田大介さんが「ネットの発達で、作品の一部が切り取られて炎上する。丁寧な説明だけでは炎上は防げないのではないか」と疑問を投げかけた。社会学者の毛利嘉孝さんは「世界中の展覧会で炎上は起きている。炎上しないことが目的になるのは間違いで、炎上しても展覧会を開催し続けるのが大事」と答えた。

17日も対話イベントが開かれ、大浦さんと小泉さん、天皇の表象を研究する北原恵さんが登場。北原さんは「二人の作品は、ふだんは意識に上らない天皇制を可視化する。それが芸術の力で、だからこそタブー視されるのだと思う」と評価した。 

参加者からは「天皇を取り上げて注目を集めようとする炎上商法ではないのか」という意見が出た。大浦さんは、自身の制作動機を「タブーへの挑戦とか、政治的意図は全くない。プロパガンダは幼稚過ぎて、表現とはいえない」と強調。「自分はこの現実で生きづらい人種だからこそ、想像力を頼りに表現をしている。どんな評価も甘んじて受けいれるが、評価を考慮して創作するようなヤワな気持ちではない」と明かした。 

また別の男性からは「鑑賞者を不快にさせる展示に公金を出すな」との意見が出た。小泉さんは「人間の心には善と悪がある。自分の中にも悪があり、自分たちの生きる社会は過去に負の歴史があって、未来も悪くなる危険があると認識すればこそ、平和な社会をつくろうと思える。『不快な真実』を公共の場で鑑賞する機会が担保されることが必要だと思う」と語った。」東京新聞2019年12月11日夕刊5面、文化欄。

 天皇の戦争責任を問うたり、天皇制への批判的表現をすることが、日本人にあるまじき「反日」「不敬」として侮辱されたと感じ、不快感を湧きあがらせ爆破予告などの激しい反発を呼んでいることは、かつての大日本帝国で天皇への批判は「非国民」としてタブー視されたことと似ている。しかし、天皇が主権者であり国民が「臣民」とされ、学校や神社で神として崇拝された教育を受けた時代と、現在の日本では基本的に違う。それが「言論・表現の自由」という価値の端的な指標になる。
 名古屋市長をはじめ保守的な政治家は、慰安婦や天皇制を批判的な視線でアート表現に盛り込むのは、いくら芸術であっても許されない国家秩序への冒涜だと考えているようだ。そのように考えることは自由である。天皇・皇室を崇拝したい素朴な気持ちも理解できるし、そうしたい人はすればよいと思う。だが同時に、なぜ天皇について批判的に考えるのはタブーなのか?それが直ちに韓国に通じた国賊と見られて叩かれるのか?その先には言論・表現の自由という価値を掲げてある日本国憲法を、日本人には合わない左翼思想の産物で、このさいぶっつぶしたい、という素朴な感情が漂っているからだと推測する。
 ぼくたちはこの国の主権者で、この国をどのような形で運営するか、自由に意見を述べ互いに議論することが認められているのが現行憲法である。そこにタブーはあってはならない。
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