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敗戦を語る俳優たち 7 特攻隊  「女房の文学」

2020-12-11 16:45:13 | 日記
A.江見俊太郎さんのこと
 子どもの頃(1960年代)のテレビで、悪役を演じていた俳優の顔でいまも記憶にあるのは、「隠密剣士」の風魔小太郎を演じていた天津敏、「影狩り」の成田三樹夫、そして新東宝の女たらしの悪役から「水戸黄門」など多くの時代劇で最後は斬られる悪役を数多く演じていた江見俊太郎さん。この人たちの顔は、ぞっとするほど切れあがった凄みのあるイイ男という点で、共通したものがあった。その江見俊太郎という人が、学徒動員で海軍の特攻隊にいたということはこの本(濱田研吾『俳優と戦争と活字と』ちくま文庫)を読んではじめて知った。 

 「「特攻隊」といえば今日、「神風特別攻撃隊」を思い浮かべる人が恐らく多い。放送タレントで昭和史研究家の三國一朗は、著書『戦中用語集』(岩波新書、1985年)で、昭和十年代を象徴する八十三のキーワードを解説した。「関東軍」「十二月八日」「大本営」「八紘一宇」「ぜいたくは敵だ」「学徒出陣」「ひめゆり部隊」といった項目のなかに、「神風」がある。

 日本海軍が「神風隊」という特攻隊を組織し、レイテ沖海戦に出撃させたのが、サイパン陥落三か月後の昭和十九年一〇月で、その二五日、スルアン島沖での体当たり攻撃が先駆けになった。
 特攻隊による戦死者は、海軍二五二七名、陸軍一三八八名と記録されている。
(三國一朗『戦中用語集』岩波新書。1985年)
 海軍航空特攻隊員の多くは、旧制高校・専門学校生のなかから海軍の飛行科を志望した、、学徒出陣の若者たちであった。三國は、1941(昭和16)年10月16日の「大学・専門学校在学年限短縮決定」が、1943(昭和18)年10月に始まる学徒出陣の前兆だったと書く(「学徒出陣」の言葉の起源には諸説ある)。
 海軍航空特攻隊員は、「海軍飛行予備学生」第十三期・十四期生(1943年入隊)、および「海軍飛行専修予備生徒」第一期・二期生(1943,44年入隊)を主力に編成された。愛知縣護國神社(名古屋市)の「海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔」の銘板には、こう刻まれている。

 満州事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次大戦末期昭和19年入隊の15期生まで生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた 入隊者10932名 うち戦没2437名 (『海軍飛行予備学生の概要』愛知縣護國神社「海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔)

 同慰霊塔には「神風特別攻撃隊」の銘板もある。連合艦隊布告神風特別攻撃隊の士官戦没は769名、うち651名が予備学生の出身者とある。予備学生のなかでは第十三期生が447名でもっとも多く、十四期生が158名、一基生徒が36名であった。
 社団法人白鷗遺族会編『雲ながるる果てに 戦没飛行予備学生の手記』(日本出版協同)、1952年)の巻末には、「神風特別攻撃隊(聯合艦隊布告分)員中士官戦没者數」として769名とある。この人数は、護國神社の慰霊塔にきざまれた人数と同じである。同書には「海軍飛行豫備學生士官(搭乗員)數も載っている。そこでは総員10846名、うち戦没者が2101名とある。
 永沢道雄著『ひよっこ特攻 ハイテク艦隊vs複葉機特攻』(光人社NF文庫、1997年)も読んでみた。その巻末には、「第十四期海軍飛行予備学生戦没者名簿」が掲載されている。僧院は3323名、このうち名簿にある戦没者は、飛行専修者(操縦、偵察)と飛行要務専修者あわせて411名にのぼった。このなかには特攻だけでなく、航空基地などで命を落としたケースも含まれる。第十三期生に比べると人数こそ少ないが、《もし終戦が遅れて本土決戦の決号作戦が本格的に行われれば、その大半が戦死しただろうと推測》と永沢は書く。
 このように「神風特攻隊」といっても、一括りにできるわけではなく、人数も残された資料ではまちまちである。特攻出撃によって命を落とすだけでなく、航空基地などで殉職した若者たちもいる。
 本書の最後に取り上げる俳優は、特攻隊と深い縁のある江見俊太郎(1923~2003)、鶴田浩二(1924~1987)、西村晃(1923~1997)の三人である。ともに同世代、それぞれ海軍で日々を送り、終戦となった。江見と西村がが第十四期の予備学生で、鶴田には後述する事情がある。また、第四章「門前に佇む母」で書いた木村功は、特攻隊に志願しなかったという意味での縁があった。
 江見俊太郎
 江見俊太郎は、長寿番組となった『水戸黄門』のほか、『暴れん坊将軍』(テレビ朝日、1978~2008年)、『長七郎江戸日記』(日本テレビ、1983~1991年)などなど、テレビ時代劇でよく見かけた常連悪役である。1950年代は新東宝映画の二枚目、それも色悪な役どころで活躍した(新東宝時代には一時、江見渉を名乗った)。昭和三十年代前半のテレビ草創期には、『眠狂四郎無頼控』(日本テレビ)や『慎吾十番勝負』(同、1958~60年)に主演するなど、“二のセン”で売った時代がある。
 芸能人の権利獲得に尽力した素顔もある。協同組合日本俳優連合副理事長、社団法人日本芸能実演家団体協議会顧問、東京芸能人国民健康保険組合理事長など、悪役俳優とはまた違った反骨なる一面があった。
 1987(昭和62)年3月20日、「第百八回国会 予算委員会公聴会」に、江見は公述人として出席した。議題は、同年度の一般会計予算、特別会計予算、政府関係機関予算の三案である。江見の肩書は「舞台入場税対策連絡会議代表・俳優」で、入場料、助成金、寄付金、俳優の年収と税金、人権問題にいたるまで試験を述べた。その最後の供述で、こう語っている。
 早稲田にいるときに学徒出陣になりまして、海軍航空隊に入りまして、私は何の迷いもなく特攻の志願をさせられたときに志願しました。つまり八紘一宇の精神なんということが言われたわけですが、世界をもって一つの家となしというそのこと自体すばらしいことだと私は思ったのですね。世界平和のためだと思ったのです。
 しかし、戦争がああ終わりました。つまり最後に原爆みたいな多くの犠牲者の上に立って私の命が、死ぬべきであった私が生き延びた、多くの戦友も失ったりしながら。それで私が帰ってきたときに、一番最初におふくろに会ったときに考えもせず思わず出た言葉があります。門のところで迎えたお袋に、お母さん済みませんと言ったのです。考えてなかったのですけれども。つまり、おめおめと生きて帰ってきちゃった、おれは死ぬ気で行ったのにということなんですね。(「第百八回国会 予算委員会公聴会」会議録)

 江見俊太郎は、1923(大正12)年、東京の多摩の生まれ。早稲田大学専門部政治経済科を二年生で繰り上げ卒業となり、学徒出陣する。1943(昭和18)年12月のことだ。海軍航空隊少尉の特攻隊員となり、1945(昭和20)年2月から、福岡県の築城海軍航空基地に配属される。そこで特攻隊員としての訓練を受けた。
 訓練当初は、「一式陸上攻撃機」などの下部につるされて運ばれ、敵艦の目前で攻撃する「桜花」に乗り込むはずだった。ところが、一式陸上攻撃機がつぎつぎと撃墜され、複葉の屋根のない練習機、通称「とんぼ」が訓練機となる。二百五十キロ爆弾を積み、赤とんぼで訓練に励んだ。江見の日誌によれば、終戦前日の八月十四日まで、編隊訓練をしたという。終戦は、出撃の一歩手前であった。
 翌年の1946(昭和21)年、今井正監督『民衆の敵』(東宝)で映画デビューする。昭和二十年代、三十年代と、新東宝映画、テレビ、舞台へと活躍の場を広げていく。新聞記事やイベントのチラシは見つけたものの、戦時中のことを振り返った自叙伝、回想録、一冊にまとまった聞き書きなど、江見の単著は見つけられなかった。
 はっきりしているのは、みずからの体験を、後世に語りつごうとしたことである。元特攻隊員だったことを明かし、それを自主公演の題材にした。舞台『蒼い空』は江見の原作で、各地の学校で上演されるときは、元特攻隊員の老人を江見が演じた。『蒼い空』とともにライフワークとした朗読劇『消えない星』も、江見の作である。国会の公聴会では、こう語っている。

 それからは男一匹何をしようかと、これから国のため何をしようかと思って考えたときに、国境を越えて本当に戦えるものは武器ではなくて芸術の世界だというふうに考えまして、その中で一番たくさんの人に接しられる映画というものを選んでいろいろとやったわけでございますが、やっているうちに何か物足りないというか、自分の思いがなかなか燃焼し切れないということを感じます。
 そして学校公演というものに取り組むのですが、その学校公演のときに初めて自分はちょっとお役に立っているんじゃないかなと。 (前掲録)

 1999(平成11)年6月12,13日「日吉台地下壕保存の会」主催で、第七回「川崎・横浜 平和のための戦争展99 私の街から戦争が見える」(川崎市主催)が開かれた。江見は、二日目の講演「戦争体験を語る」ならびに座談会「それぞれの特攻隊」に登壇した。
 そのあともたびたび、反戦と平和がテーマのイベントに出ている。2002(平成14)年8月2日には、「1945~2002 夏ふたり」(東京都府中市)に登壇、サクソホン演奏家の中川美保とトークをした。その席で江見は、みずからを「人間爆弾」と称し、実体験をもとにした手記『消えない星』を朗読した。そのうえで、当時の小泉純一郎内閣による「有事法制関連三法」に対し、危惧した。八十歳で亡くなったのは、翌年の2003(平成15)年11月7日のことである。
 2005(平成17)年10月15日には、三回忌にあわせて「語り継ぐ会 第一回・江見俊太郎さんを偲んで」が、東京・新宿で開かれた、会場の「芸能花伝社」は、江見が生前尽力した日本芸能実演家団体協議会のスペースである。当日は、妻で女優の松風はる美が挨拶し、江見がライフワークとした『蒼い空』と『消えない星』が、後輩たちによって上演された。
 いまでも地上波、BS・CSで再放送される時代劇で、江見をよく見かける。黒幕として、いつも最後に斬られる名悪役が、特攻隊の生き残りだと知る人は、きっと少ない。」濱田研吾『俳優と戦争と活字と』ちくま文庫、2020年、pp.413―420. 

 人は誰もいまを生きていて、ずっと昔の若い自分のことは忘れているのがふつうだ。でも、ぼくが子どもの頃に見ていた大人たちは、みなあの戦争を身をもって体験した人たちだったわけで、なかには多くの肉親・友人を戦争で失っていたはずだ。とくに特攻隊という「お国のために命を捧げる」場所にいた若者だった人が、自分は生き残って戦後をどう生きたか、それは一人ひとり違っているにしても、簡単に忘れたりできることではなかっただろう。もうそういう体験をかたることのできる人は少なくなった。昨日も、沖縄のひめゆりの塔で語り部をされていた女性が亡くなったというニュースがあった。なにをどう伝承するのが必要か、言葉を残した人は多くいるけれど、ぼくたちはまずそれを読んで考えることをやめないでいよう、と思う。


B.「女房」の書いた文学
 『源氏物語』『枕草子』をはじめ、平安朝の宮廷にいた女性たちが書き残した文章が、今も残って読むことができるという事実は、まさに驚くべきことなのは言うまでもない。でも、どうしてそんなことが可能だったのか、世界広しといえども、こんな例は他にみられないのはなぜか、ということを解説する文章があった。

 「世界で稀な女房文学 宮廷社会で求められた女性の活躍:早大教授 田渕句美子
 女性による文学の歴史を見渡せば、韻文では古代ギリシャのサッフォー以来、女性詩人は世界にいたが、散発的であった。散文では、十五世紀頃から次第に西欧で女性作家が生まれていく。それに対して日本では、「宮廷女房」という職業集団の女たちが担い手となって、九世紀以前から江戸時代まで、韻文(和歌)・散文の両方で、濃淡や衰退はありつつも、長く「女房文学」の歴史が続いた。
 これはジェンダーの観点で、世界でも稀な文学現象である。
 宮廷女房とは、天皇や条項、妃、内親王などに側近く仕えた女性たちで、多くは中流貴族の娘か妻であり、先端的キャリアウーマンである。清少納言も紫式部もそうだ。『枕草子』や『源氏物語』が、既に円熟した姿を見せているのは、十世紀末~十一世紀初である。これは女性による散文(随筆・物語)の文学として、世界の中でも特に古い。しかもこれら有名作品だけではない。女房文学は物語、和歌、日記、歴史物語などのさまざまな領域に及ぶ。現在まで残っているのは一部にすぎないから、もっと膨大にあったのだ。
 なぜ日本では女房文学がこんなに古くに成立して長く続いたのか。主な原因を五つ挙げたい。
 まず、中国や朝鮮と異なり、日本には宦官制度が輸入されず、女房が活躍する場があったことが大きい。また宮中の後宮は男子禁制ではなく、御簾などの隔てはあったが、老若男女の文化が分断されずに交流し合い、恋も友愛もそこにあった。そこで交わされる優雅で機知的な、心を揺さぶる言葉や和歌は、貴族社会の関心の的であり、称賛された。ある女房は『無名草子』という作品の中で、「『源氏物語』は別格だけれど、自分も未来まで伝えられる作品を書きたい」と嘆息している。これは才能ある女房たちに共通する願いであっただろう。
 第二にひらがなの誕生がある。ひらがなは「女手」と言われたが、実は男女両方に使われたことが重要である。ひらがなで書かれる和歌は貴族生活に必須のものとなり、和歌は女房文学の柱となった。また『古今和歌集』をはじめとする勅撰和歌集(天皇の命によって編纂された歌集)が次々に生まれた。
 第三には、その宮廷和歌のシステムや、この後五百年以上続いた勅撰和歌集の中で、男性と同じとは言えないが、女性歌人の活動の基盤が保証されていたことが挙げられる。そこでは女房歌人の活躍が求められていた。
 第四には、物語の教育的機能がある。物語はそもそも、家の外に出ることがほとんどない貴族女性が、社会や宮廷、人間の機微を知るための高度なテキストだった。自分が養育している姫君や、家族の女子の教育のために、女房たちはおびただしい物語を制作したのである。
 第五に声の問題がある。貴族女性は十世紀頃から、他人の男性に顔や姿を見せないばかりか、男性がいる場で大きな声を発することもタブーとされた。声によって世界と繋がることができないのだ。ゆえに女性が書く行為が深化され、洗練されていった。
 これらの女房文学の内実は、女房の職能と深く関わっている。宮廷女房は主君の傍らで、王権と政治の深奥部を見ている。来客の取り次ぎをし、内と外を結ぶ。無数の情報を媒介し、強力なネットワークをもつ。宮廷社会を知悉し、それを相対化する力を備える。歴史家の眼を持ち、社会批評家でもある。
 そこに流れる、自身が生きた時や場を語り伝えたいという願望、物語の虚構に移すリアリティ―の追求、珠玉の歌が生まれる一瞬の緊張と歓喜、社会的アイデンティティーの渇望、職務を全うした誇り。各女房たちの心を熱くしたものは、現代の私たちと何ら変わりはない。」東京新聞2020年12月8日夕刊5面。

 なるほど。男には顔や姿を見せないばかりか、声も発しないという宮廷の女だけの世界が、ひらかなで書く文章と、それを読む教育が養われたのだとすれば、かなり特殊な条件が女房文学を生んだのだな。
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