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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ニッポン現代アートの旗手 8 鴻池 朋子さん  関係ないけどノーベル文学賞

2019-10-26 02:09:00 | 日記

A.クリスタルと昆虫

 ものすごく大きな画面に精密な青い色彩がめいっぱい踊っている。それをこの夏に見たのだけれど、小さく昆虫が飛んでいたのだ。描いた画家のなかに鮮明なイメージが湧いていたのだとしても、実際に大画面上に絵の具で具象化するには、大きな構想力と腕力が必要だと思う。1960年生まれというこの鴻池朋子さんは、いま58歳なのだろうけれど、この絵の質は日本画テイストなのは確かで、ぼくはその絵に10㎝まで近寄って、ふ~ん、なるほどと思った。高階秀爾先生のコメントは以下の通り。

 「[第1章] 背景はかすかに薄明かりの残る空に梢を連ねる樅の樹林、その林に囲まれた湖に突然巨大な氷の塊が出現する。中心部からは、鋭く尖った剣先のような無数の尖端が、重なり合いながら上へ、下へ、あらゆる方向に突き出ている。その透明な表面に大小さまざまの星形のきらめきが輝いているのを見れば、それは氷塊と言うよりも、水晶にも似たなにか神秘的な結晶体であるのかもしれない。

 さらに謎めいているのは、この無機質の冷たい塊のなかから、狼の尻尾のようなものが長くのび出ていることである。それは不気味な氷塊のなかに閉じこめられたけだものが何とかして逃れ出ようともがいているようでもあるし、逆にその生物はすでに氷塊の餌食となって、最後に残された尻尾が今まさに飲みこまれつつあるようにも見える。いやそれとも、無数の突起をもったこの異様な塊地震が、どこか異次元の空間からやって来た生命体で、長い触手をのばして地球の状態を探っているところなのだろうか。

 「第1章」という題名は、ここから何か新しい物語が始まることを告げている。だがそれがどのような物語であるのか、作品はそれ以上のことは何も語っていない。もともとこの作品は、作者自身「物語シリーズ」と呼ぶ四部作の一点として描かれた。しかし通常の物語の進行とは逆に、最初に描かれ、発表されたのは、「帰還―シリウスの曳航―」と題された最後の「第4章」である。ここでも、その題名が何か宇宙的な壮大な冒険が終わったことを示してはいるものの、それ以上のことは何も語られていない。それに続いて別々に発表された第3、第2の章の場合も、事情は同様である。そして「物語」の始まりであるはずのこの「第1章」とともに連作は終りとなる。つまり「物語シリーズ」は、ある決められた物語に基づいて制作されたものではない。それぞれ独立した作品として見ても鮮烈な衝撃力を持つこれらの四部作は、生まれかかった物語への予感を孕みながら見る者をさまざまな幻想世界へと誘い込む。物語はいつしかわれわれの心のなかで紡ぎ出されて行くのである。

 鴻池朋子の作品が、見る者を捕えて離さない不思議な魅力を備えているのは、物語を生み出させるその卓越した構想力の故であろう。その構想力が、思いがけない綺想と克明な細部描写の技術に支えられていることは、改めて言うまでもない。」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.pp.051-055. 

 ここで物語と言われているものは、作者のなかですでに完結しているストーリーの、順逆入れ替えた一シーンなのか、それとももっと別次元のメッセージなのか。ポリティックスというものがアートのなかで意味を持つのは、作品がなにかのイデオロギーや主張の手段なのではなくて、作品自体が自律して存在し、それを観るものに否応なくひとつの明確なポリティクスを視覚で感知させるようなものだからだろう。

 「例えば、天才肌のアーティストがいて、一九世紀の巨匠みたいな感覚で、自分の世界観にもとづいて作品をつくっていたとします。そのひとの作るものはすべて偉大なアートとして評価されていく。では、その人は常に自分が社会とかかわろうという意識をもっているのか、それとも天才として政策だけに没頭しているのか、どちらかだったのか。自分の世界だけに入り込み、つくった結果がたまたますごかったので、人々や社会を巻き込んでいったのか。もともと社会的な意識をもち合わせながら創作しているのか。本当のところは、わからないケースが多いわけです。

 私は。両方ともイエスだと思います。ある人がいま世界で起こっていることに対して、政治的、社会的関心を持ち、自分の判断や責任に意識的だとすれば。

 ピカソの〈ゲルニカ〉は、ゲルニカというスペインの町が、独裁政権フランコを応援するナチスドイツによって爆撃されたと聞いたピカソが、たった一カ月で描いた絵です。それは世界史的に見て初めての都市への無差別爆撃であり、多くの非戦闘員が殺され町が壊滅した象徴的な事件でした。

 ピカソは、〈泣く女〉で知られるデフォルメしたキュービズムの手法で、ゲルニカの人々の苦しむ姿や馬を描きました。町の光景は何も描写されていませんが、そこには強い感情が表されている。みんながそれを見て、その町を思いだす。誰もが、あの絵を〈ゲルニカ〉だと思い、暴力に対する政治的なステートメントだと受け取るわけです。

 ピカソは、「私はこれを政治表明で描きました」などと、ひと言もいいません。彼がこの絵を描いたとき、彼の中には既に、当時のフランコ政権や戦争に対する批判的意識があったわけです。それがああいう形をとった。

 つまり、アートの中にあるポリティクスというのは、ここの部分がポリティクスですよとか、こういう政治的な主張をしていますと、とりあげて明示できるものばかりではないのです。

 日頃から社会状況に対して意識的な人が、モティーフとしてはただ女性のヌードだけ書いているとしても、作品にはおのずとポリティクスが滲み出てくる。アートにおけるポリティクスとは、そのようなものだと考えます。

 いま、画家の話をしましたが、いわゆるコンセプチュアル・アートとして、ヴィデオや写真、テキストを使って作品を制作している人がいるとしましょう。その人たちは、どうしても、自前の政治的な状況に対する意見表明とか、問題を告発するタイプの作品が多くなってしまいます。絵画は、距離のある比喩として機能しますが、ヴィデオやテキストは、主題の記号的な説明に近くなってしまうからです。

 それならばもう、それをアートとか考えず、ルポルタージュを書けばいい、記録としてのドキュメンタリーにすればいいとおっしゃる人もあるでしょうが、そう単純なことでもない。一つの出来事を映像として撮る場合でも、主観が入ったり物語性を帯びることで、全く違ったものになるからです。

 先ほど、世界の状況に対する一つの反応、態度表明としてのポリティクスについて述べました。アートについては、もう一つの文脈でポリティクスというものがあります。それは、アーティストとして生きていくうえで、自分の表現者としての立場を明確にしていくためのものです。アーティスト・ステートメントとしてのポリティクス、自分自身が表現している理由、アートの世界やシステムの中で、どういう立場をとるのかという表明です。」長谷川祐子『「なぜ?から始める現代アート』NHK出版新書、2011、pp.138-140.

 「ゲルニカ」はなにゆえに世界に知られているのか。ナチスやフランコという政治権力は、もうとっくに亡びている。だから政治的構図の中で、それがその当時の政治的意味、つまり無辜の市民に対する無差別爆撃の野蛮を告発し訴えるという意味は、一時的なものだ。むしろ「ゲルニカ」がいまも強烈なアートであり続けるとすれば、ピカソが世界に向き合って何をしたか、何ができたかを考えること、それがアート以外ではできないこと、にあるだろう。

B.水害とノーベル文学賞

 この秋の台風被害は、今までのぼくたちの常識を超えていた。2011年3月の東日本大震災を経験したとき、こんな大規模な激甚災害ははじめてだったが、こんなことはめったにないし、原発事故は人間が関与していたし、地震と地球温暖化は結びつかなかった。その後の熊本地震や岡山の水害などは記憶に残るが、それは一時的局部的なものではなく、このところの河川氾濫による甚大な被害は、どうやら気象の変動がもたらした可能性が大きい。これまで毎年台風は日本に来ていたが、その風水害は局地的なもので、こんなに広範囲に平地の多くの市街地を水に漬けたことはあまり記憶にない。電気が止まり新幹線も止まり、家屋や生活の再建にはかなり時間がかかる。自分に被害が及ばなければ、ぼくたちはすぐに何事もなかったように思ってしまうが、被災地の現実は深刻だ。

 「被災家族のために  (NPOカタリバ代表) 今村 久美

 台風19号による雨は川を氾濫させた。津波のような最大4.3㍍もの水が父の故郷、長野市の千曲川近郊を襲い、そこに住む方々の生活を奪った。一週間以上たった今も、町は土砂にまみれている。被災した方々は避難所や親族宅で避難生活をしている。終わりが見えない避難生活に、家族は表現しようもないストレスにさらされる。過去の被災地の現場で、みんな頑張っているからと、我慢を重ね、だれにもぶつけられない不安を抱えて家族の関係を壊していく様子を何度も目にした。

 災害が子どもたちの未来を奪うことはあってはいけない。私たちは、県内の行政や団体、個人、全国の子ども支援の経験者たちに呼びかけ、被災家庭の支援を目指し、子どもに居場所を提供する「コラボ・スクール」を先週土曜から、現地の小学校の体育館に開設した。

 保育士や元教員、キャンプリーダーの大学生など、約五十人を超える方からボランティアの希望をいただいた。また、近隣の方々は、子どもたちにおにぎりを握って届けれくれる。SNSで拡散するたびに、おむつや遊び道具が集まり、体育館が一気に楽しく、安全な遊び場に変身する。土日には八十人の子どもたちが利用した。

 これらすべては寄付で賄っている。少しでも応援していただける方は「カタリバ」で検索を。」東京新聞2019年10月24日夕刊、2面「紙つぶて」。

 こうした大規模災害に対して、国や政府は万全の対策支援をするべきではあるが、現実にできることは限られパーフェクトは不可能だ。電気が止まり、支援が来なくても5日くらいは自力で生き延びる備えと気構えは必要だと思う。ぼくは、個人的には山登りをやっていたので、電気も冷暖房もないアウトドアのサバイバル生活を一週間はできる自信があるけれど、子どもや病いの高齢者に対して、それを要求するのは過酷だと思う。そこで、一見全く無関係なノーベル文学賞のこと。

 「言葉とイメージ 関係を追求:ノーベル文学賞 ハントケの文業  縄田雄二

 異文化からヒント 俳句通して言語実験: 今年のノーベル文学賞は、1942年オーストリア生まれ、パリ近郊に住むペーター・ハントケに与えられる。日本では、ヴィム・ヴェンダース監督の映画「ベルリン・天使の詩」の台本作者として知られてきた。ヨーロッパでは、最重要のドイツ語作家のひとりとしての地位を得て久しい。

 ハントケは多くの小説と劇とを出版してきた。代表作はひとつにしぼれない。テーマはさまざまである。しかし、ことばとは何か、視覚イメージとは何か、両者は如何なる関係を結ぶか、という問いが、彼の文業の根底にあることは確かだ。これらの問いに答えようと、彼は異郷をさまよい、異文化からヒントを得ることがあった。彼は日本も訪れ、俳句とも向きあった。

 初期のハントケは言語実験をさまざまに試みた。1969年の詩集に収めた「1968年5月25日の日本のヒットパレード」と題した作もそうだ。シングル盤のヒット・ランキングが何かをアルファベットで転載しただけ。「9 Bara no Koibito/ Wild Ones/ 10 Sakariba Blues/ Mori Shin-ichi/…」と、ほとんどのドイツ語話者にはわけのわからない文字の並びに、ワイルド、ブルース、などと英語が点ぜられ、読む者は独特の言語体験をする。

 1988年、彼は日本を訪れ、東北地方へも赴いた。その様子は、出版された日記(「きのうの旅」)に記録されている。彼は日記で、俳句や書道は、視覚イメージの氾濫と、視覚イメージの破壊との間にあって、両者を超越しているのではないか、と考察する。俳句は季語と詠嘆(切れ字のこと)を伴う、と記した上で、その向こうを張り、「Morioka!」「Aomori!」と地名を詠嘆してみせる。これは、俳句を思いつつ北国をゆき日記をしたためる、ハントケ版「奥の細道」の旅であった。

 この旅は散文作品をも生んだ。青森から松島にかけて接した降雪の様子をくわしく描写した「日本で降る雪についてのいくつかの挿話」である(『あらためてツキジデスのために』所収)。ことばで視覚イメージを写し、読者に伝え、イメージを共有する原理をつきつめてみせた。

 「Morioka!」という極小の詠嘆から、詳細描写まで、ことばとイメージにつき、広い幅で考え、試みる努力は、2002年に刊行された大作「イメージの喪失」に流れ込んだ。ひとびとがことばや心のはたらきにより共有する豊かなイメージが、危機にさらされている。この考えを、ハントケは1980年代から育てた。それが近未来小説「イメージの喪失」として結実したのである。

 旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷で戦犯として起訴され、2006年に獄死した元ユーゴスラビア連邦大統領ミロシェビッチ側にハントケが立ち非難された事実は、さまざまな視点から検証されるべきであろう。ことばと映像を視聴者のあたまに流し込むメディアの戦争報道が、ことばとイメージの本来のありかたを破壊している、との反発が、ハントケにあったことは確かである。

 言語と視覚像をめぐる彼の思考は、現実の戦争を相手としてもなお通用するものであったか。デジタル文書、デジタル画像の世にあって、時代遅れなのか、逆に輝くのか。ハントケを読み直すべきときであろう。(なわた・ゆうじ=中央大教授・近現代ドイツ文学)」東京新聞2019年10月24日夕刊、5面文化欄。

 ドイツ語と日本語はまったく異なった言語で、ドイツ語の作家であるハントケが日本語に感じた面白さは、たぶん日本語の中でも地名や人名のような固有名詞のアイウエオしかない母音の響きとアクセントの乏しさだろう。それはぼくがドイツ語を学習した時に感じた、ドイツ語独特の音響的「シュ」「ヒャ」「ハイツ」「アハッ」「ヴェー」「ヴァール」といった響きの吐かれる息の効果だった。英語には強弱アクセントと流れるような連続があるが、ゲルマンからきたドイツ語のような檄した音はない。映画「ベルリン天使の詩」を見たとき、それが戦後ドイツの現実をみる視点が、2つになっていること、一方はモノクロでリフレクシヴな観想の世界、もう一方はカラフルでリアルな日常の世界だと思った。ハントケはおそらく、この両者を作家の仕事として往復し、日々の眼に見える現実を語ることばと、ドイツ人が20世紀にやらかした歴史の痕跡について真剣に問い続けたことを、どうやって結びつけるかを課題にしたのではないかと想像する。ドイツ語という言葉は、そういう厳密なことをいやでも考えざるを得ない言語だと感じる。

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