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女優列伝Ⅴ 北林谷栄2  :軍人の眼

2017-07-29 15:00:41 | 日記
A.女優列伝Ⅴ 北林谷栄2
 劇団民藝で1963年に初演された「泰山木の木の下で」という芝居がある。作者の小山祐士(1906~1982)は、広島生れで8月6日直後の「原爆砂漠」を自分の眼で見ている。小山が瀬戸内の海を眺めながら「泰山木」を執筆している間、自分に言い聞かせていたのは、「決して叫んではいけない」「決して理屈をいってはいけない」であったという。脚本完成前から、劇団民藝は上演を決め、演出は宇野重吉、主演の老女は北林谷栄だった。
 この芝居の背景として、広島の原爆があるのだが、それだけでなく核の拡大がある。1950年代以降の東西対立のなか、米ソ核兵器の開発競争が激化。1954年3月、アメリカがビキニで行なった水爆実験により、マグロ漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴び、乗組員が犠牲になった。この事件を契機に世界的な原水爆禁止運動が広がり、翌1955年、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催された。1960年に新日米安保条約が改定され、その6年前には自衛隊が創立、保守派政治家は日本国憲法の改定を綱領に謳っていた。しかし、60年安保改定は国民の反発を買い、強引な岸内閣は倒れた。安保闘争後に成立した池田内閣は、改憲を棚上げにして国民所得倍増計画をうちだし、日本は高度経済成長のもと急速に工業化されていった。そうした中で、北林谷栄さんは、主役のハナという婆さんを演じた。

「—―この「泰山木の木の下で」のハナ婆さんなら、ごく自然に優しく声をかけてくれますね、きっと。
北林 いや、優しさというのとも違いますでしょう。おしゃべりで人恋しい性質(たち)なんですよ、ハナは……。いつのまにか話が「泰山木の木の下で」に入っちゃったけれど(笑)。たとえばジェット機を見て「こがいに寒ぶい日に、あがいに風を切ってジェット機を飛ばしんさったんじゃァ、アメリカの軍人さんは、いっそう寒ぶいでひょうにのう」って言いますね。なにかすぐ安直に他人の身になっちゃう、それが堕胎の常習犯として生活してきているわけですね。底辺の庶民だからこそ、もっている「親切好き」なんですが、近代的な意味の人間愛とは違う。要するに自分の流儀なんです。ちょっと押しつけがましいし、世話好きなんですね。それが自慢でもある……。
――初演が一九六三年ですから、そのころにはまだ、きわめて日本的ではあるけれど、ハナのような“人情”が濃厚に生きていたように思うんですが。
北林 この頃、いまこそ、この無関心の時代にこそ、こういう芝居を演じて歩きたい、という気持ちがするんです。この戯曲は幾人もの“被爆者”の運命が骨子になっております。演出の(高橋)清祐さんが稽古を始める第一日目に、原爆という事柄をただ民族の経験として知っているというだけでなくて、自分たちの歴史のなかで、それをどういうふうに心に突き刺しておくことができるか、そういう部分をもう一度揺さぶりたい、と戦後派のみんなに言ってくれまして、ありがとういい話をしてくれて、と私もお礼を言ったんです。原爆を想起せよ、というようなアピール劇じゃない。もっと庶民の底を流れる気質とかに関わって、日本人というもの、日本人の一途な姿と原爆体験とを心に刻みつけてほしいというのがこの「泰山木の木の下で」です。だから今年だけでなく、二,三年続けて演って歩きたい。一度に五十箇所も演ると、それこそ私の体がアウトですので(笑)、一年に二、三十箇所ずつくらいを三年ほど続けて、まだ生きていたらその先を考えようと、清祐さんと話し合ってるんです。ただ、くたびれるだろうと思うの。来年あたり、八〇歳になりますが(笑)。八〇の人間の労働量としてはいささか危ない……。
 —―せりふだけでも、かなりの量ですね。
北林 せりふの量もそうですけど、あのお婆さんは六〇歳代でしょう。その一生の質量というか、五、六十年間の実生活が彼女のなかにつまっている。しかもその間に、九人の子供を生み、次々に戦争と広島(げんばく)とで被害を受けつづけている。それから堕胎の常習犯で何度かアげられてもいますね。女囚生活の体験までが、おハナさんの存在のなかに煮つめられているんですね。それだけの重さがあります。私などがくぐってきた甘やかされた六、七十年とは違う、辛い人生です。その実生活の重さを表現するには力(りき)がいるんですね。いまの体力だと、ちょっとこたえます。おまけにニ十七年前よりも、ハナのせりふのなかに彼女が辿ってきたいろいろなものが見えるように思うので、その分だけ、これは大変です。
 —―いま、力がいる、とおっしゃいましたg、ト書きやせりふでは、むしろ“可愛い老女”というイメージが強調されていますね。
 北林 初演の時は、小山(祐士)先生も演出の(宇野)重吉さんも、かわいくかわいく演ってくれといわれました。でも、あれだけの人生を背負ってきた人のかわいさというのは、ただかわいいっていうだけのものじゃない。相当にしたたかでしょう。小狡いところもあるでしょう。けれども持ち前の小児性というか、稚気がちっともすりへらないで残っていて、ときどきぴょこんと顔を出す。私は、年よりというものは、本来はいやらしいとこのあるものだと思います。そのいやらしさも、ちゃんと見えていて、なお天性の愛くるしさがどうしてもとび出してしまうときに、かわいいんでしょうね。私自身は、このハナさんをかわいいというよりふびんだと思うの。船の中で、刑事に身の上話をしますね。九人の子供が成績も良く、健康に育ったから、”優良多子家庭”とかに選ばれて、厚生省から表彰されたっていう話を大自慢する。あの無学丸出しの大ジマンはとてもいとおしいです。いかにも貧しくて、哀しいですね。物質的にも貧困だけど、文化的な意味ではもっと貧しい。それから亭主が、「世の中ァ、誰がなんと言おうと、万事、銭、ただ銭じゃけんの」って言って、「おい、ハナ、あしゃ、やっちゃるけんのう。是非、成金になってみせちゃるけんの」とよく言ってたって話しますね。そういう希望そのものが実に貧寒で、演っていて胸が痛くなります。ハナが大得意で言えば言うほど、痛ましくて哀れです。最後の死にぎわとか、磯部の奥さんの赤ん坊に「光太郎ちゃん、こらえてつかァさいよ。怨まんで……」なんて泣くところなんか私としては好まんのです。自分の趣味で言っちゃァ悪いけれど(笑)。人生のなかで、チカッチカッと人間の生涯の断面からのぞくほんとうに哀切な部分というのは、本人が悲しんで泣いたり、センチメンタルになって演じるところじゃありませんでしょう。
――そういう意味での日本の貧しさはちっとも変わってないですね。最近も。ハナ婆さんはそういう日本人の根源的な生活の質みたいなものを非常によくあらわしていると思います。
北林 ハナ婆さんっていうのは、刑事に「まあ、若旦那さん、どうぞお上がりなってつかァさい」っていって座布団を出すときに、表を見て裏を返して、一ぺんはましだと思うほうを出すんだけど、すぐまた裏返す(笑)。こっちむけたり、あっちむけたり、そういう按配をするところが昔の日本人なのです。昔の日本人、昔の庶民の暮らしぶりは、ほんとうに慎ましくてね。というと、自分は庶民じゃないみたいだけれど(笑)、自分ももちろん大庶民の一人です。この「泰山木の木の下で」もそうですが、よく描けている役には、そういうけなげさとか、何ともいえない哀しさ、踏みつぶされてきた医事なんかが、くっきりと出てきますね。そういう意味では、このハナ婆さんも日本の庶民一つの代表タイプといえるでしょうね。
――石牟礼道子さんが、以前、「わたしは生きたい」のパンフレットに北林さんの演技について書かれていて、とても感激したことがあるんです。映画「ビルマの竪琴」のなかの老婆でしたね。「民衆というものの原型」を演じきっておられる、と書いて、そういう民衆の存在が「人間の歴史の豊饒をあらわしている」……
北林 いや、それはほめすぎです。そんな演技ができたとは思いませんが、ただ庶民の実生活というのは、大正なら大正の歴史の襞々のなかの何かが、昭和なら昭和の歴史の襞々のなかの何かが、ひと刷毛サッとどこかにのぞいているはずなんです。あの人たちの存在の仕方が、どこかにそういう彼らの“主張”を提示してるはずなんです。だから何かひとかけらでもいいから、演技の工夫というか独創を生みだして、その人物の“主張”を提示してみたいと思ってしまうんですね。
――映画「にあんちゃん」のなかで、朝鮮人の金貸しの老婆を演られて、子守歌代わりに朝鮮のきれいな古謡を歌われたことがありましたね。あれは、そういう意図から出たサッとひと刷毛でしょうか?
北林 そうそう、あれはね、そう言っていただくと嬉しいの。あの婆さんは金貸しひと筋の無味乾燥な、まあ因業ババアでしょうね(笑)。でも朝鮮民族が持っている歴史的な背骨も哀感も、あの人物のなかにもひと刷毛くらいはあるはずで、どこかでそれをのぞかせたいと思ったんですね。それで金達寿さんに紹介していただいて、確か焼肉屋さんだったと思いますが、在日朝鮮人のある人に朝鮮の古い民謡を教えてもらいました。
 —―歌そのものも、北林さんがご自分で探し出してこられたんですか?
北林 ええ、メロディは、といったって、いまここでは歌えませんが(笑)、歌詞は日本語に訳すと「月よ、月よ、李太白の愛でし月よ」っていうんです。美しいでしょう。赤ん坊を背中にくくりつけて、暗い空地でそれを歌った。”李太白の愛でし月”ですよ、いいでしょう。私は、一人の子どもとして、関東大震災の時の朝鮮人虐殺の片鱗を目撃しています。その印象のせいか、小さいときには、朝鮮人に会うと済まないような、日本人である自分が恥ずかしいような気分になったものでした。私がもの心ついた大正から昭和にかけては、おとなりの朝鮮民族にたいして日帝の嵐が理不尽に吹き荒れていた時代です。そのなかを、くぐり抜けてきた朝鮮民族は、大変剛毅な民族だという感銘が、私にはつよくあるんです。だから金貸しの婆さんといえども、そういう民族全体の歩みに参加しているひとりだという実感があります。ばあさんの心の底に流れている民族の美しさを、どこかで暗示できたらと思ったんですね。
 ――役の人物から、その人物の底に沈んでいる“主張”を発掘してこられる?
北林 それがなければつまらないですね。俳優の仕事というのは、他人が書いたせりふを、ただその通りにしゃべるだけでは、もの言う木偶のようなものですからね。書いた人にも意識されていなかったものに、どうさわっていくか。それが演出でもあり、俳優の役の創造でもあるわけでしょう。そういう点では、重さんと私とは、とても神経がよく合ったんですよ。お互いに言うこと、感じることがパッとわかる。だから喧嘩もしましたけれど(笑)。たとえばさっき例に挙げた船の中の場面ね。重さんは「そこは、ドザまわりみたいに田舎芝居ふうで演っておくれよ」って言ったの。「相当みっともない感じになるわよ」って言うと、「いいよ、いいよ、見ててテレルようなのがいいんだ」って言う(笑)。それで、ほんとうにドサまわりのサイテイの芝居みたいな調子で、亭主とのかけあいの場面を刑事さんに語って聞かせてるわけですが、こういうかなしい貧しい詩情を、重ちゃんって人はよくわかって、愛好していた。やっぱりこれも昔の貧乏人をよく知っている者の語り口のひとつなんですね。そういうときに重ちゃんと好みが合う、神経が合うんですね。あの人が亡くなって私は孤独です。
―― 宇野さんは福井県回帰症で(笑)、北林さんは銀座っ子でらっしゃって、ずいぶん好みが違うようにみえますが……。
北林 やっぱり同世代人なんですね、きっと。
 —― それは、お二人とも、社会運動として演劇の道をつらぬき、いちばん日本がひどかった時代に文化を創ろうとしてこられたからでしょうね。
北林 私は、文化をどうかしなきゃなんてひとつも思いませんでしたね(笑)。非常に単純に、イワユル良心的に生きるというやり方をやってみようと思って、縛られてもいいやってかんたんに思ってました。でも、そういう同時代人同士だから、重ちゃんは私のことを“戦友”と言ってたんです。
 —―喧嘩相手の戦友?
北林 「お前ら、喧嘩するような相手がいないだろう」って、重ちゃん、みんなに自慢してましたよ(笑)。これは(アンティークのランプを指して)、「泰山木の木の下で」の初演の後で、重ちゃんがプレゼントに楽屋にもってきてくれたの。ご本人は北陸ふう民芸趣味の人だったのに、これ、とてもロマンティックでしょう、伊太利製です。どんな顔してこれを買ったんだろう(笑)。「泰山木の木の下で」の台本を読むときには、いつもつけます。重ちゃんがそばにいてくれる気がするから……。せりふの音に対して非常に敏感な耳をもつ演出家だったということはよく知られていますが、あの人は人間の内面が見える演出をと、内面、内面とそれを大事にしていた人だと思います。稽古のときは、いつも目をつぶってきいている。演っている役者なんか見ていない。で、役の人物の内面から外れた声とか、せりふとか、表現とかになっていると、パッと目をあけて、決してそのままパスさせるということがなかったですね。
 —― 北林さんに、おばあさん役を最初にすすめたのは、宇野さんなんだそうですね。戦時中の瑞穂劇団で「左(と)義(ん)長(ど)まつり」でしたか?
北林 そうなの。重ちゃんが貧農の息子で、たった二歳年上の私が、その七十何歳かの老母の役(笑)。あの人はその頃から演出者の目玉を備えた人で、私はその頃は、チンピラでちっともおばあさんぽくなかったけれど(笑)、私のなかにおばあさん役の可能性を見つけてくれたんだと思います。そのときは、重ちゃんが私に演らせようとして、演出の久保田万太郎さんに強談判してくれたんで、もし私がしくじったら重ちゃんに恥をかかせるっていうんで、考えて考えて、工夫して、とにかく勝負を挑みまして、まあ一応、成功したんですが、その工夫はやはり見当違いでした。何しろニ七、八歳の女のコですから、亀の甲羅の曲がったようなものを針金で作りまして、着物の下に背負ったんです。やはり若いときは、外側から老いをみせようとする。いまは、おハナさんの年齢を二十ばかりオーバーしてしまいましたから、今度の「泰山木の木の下で」ではもう少しシャリッとしなけりゃいけない(笑)。外側から若返るんじゃなくて、今度は、ごく自然に、その人物がどう生きたのか、その人の生きてきた軸を考えようと思います。
 —― 外側からではなく役をつくる。というのは、ことばにすると簡単ですが容易ならざることですね。
北林 私のお師匠様は久保栄なんですが、久保先生は「生活印象は俳優の武器庫である」という名言を残されています。たとえば、子どものときに近所におばあさんがいて、すごく意地汚いおばあさんだったとしますと、そのおばあさんへの好悪の感情は別にして、人間の意地汚さにまつわる様ざまな形象が、たくさんのショットとして記憶のなかに刻印されることがありますでしょう。そういう断片を一杯たくわえて持っていることが大変に役を躍動させてくれます。こういう些細なことがらでも、私は十分に本質的な生活印象として「使える」と思うんです。また、本質につながるものを拾い出さなければなりません。さっきも、些細なことだから意識的に観ておく、より深く自分のなかにイン・プットしておく、無精をしていては役者はダメと申したつもりですが、何を見ても火事場の野次馬じゃだめなんですね。どこで生活印象として蒐集しておくが、そのシャッター・チャンスはおもしろいものです。些細な生活印象を自分の武器庫、つまり貯蔵庫にためていくんですね。私の唯一のとりえは、小さいときから物事を凝視するのが好きで、それが体質化したことかもしれません。たとえば戯曲を読んで、その内容を追体験する。そのときに武器庫に入っているさまざまな、些細なことがきっかけになって、想像力が自由にはばたくことができるわけですね。私は久保先生からニラまれてましてね。しょっちゅう、「あんたは絶望的です」っていわれてた(笑)。でも、チリも積もれば山となる式で、タラタラ、タラタラと可能性というものに期待して、生活印象と取り組んできました。そう早く自分に見切りをつけて、癇癪を起してはいけない。とにかく見つめるという作業が好きでないとつとまらない商売なのです。」北林谷栄『蓮以子 八〇歳』新樹社、pp.77-79.

 ぼくは「泰山木の木の下で」の舞台を見てはいないのだが、その戯曲と舞台での北林さんのハナ婆さんの演技は民藝の名作として語り伝えられていることは知っていた。でも演出家宇野重吉と北林さんの深い関わりや信頼については、この本で初めて知った。



B.アメリカ軍の使命
 米軍は通常の軍隊がもつ陸軍army、海軍navy、空軍air forceのほかに、海兵隊marine corpという軍隊をもっている。通常の軍隊は自国の領土領海への他国の侵犯に反撃し撃退するための軍事力であるとされているが、海兵隊のような軍隊は、自国内ではなく必要とあれば世界のどこへでも素早く展開して軍事作戦を行うための装備や訓練をもっぱらとする。しかしこれは相手国からすれば、国境を超えて力を行使する侵略軍に他ならない。世界各地に展開するアメリカ軍の役割は、もはや狭い意味の自国防衛ではなく、世界秩序をアメリカの考える世界戦略に合わせて作り替えるためにあるといえる。それは海兵隊だけではなくて、海軍や空軍もあるいは陸軍も基本的には同様だと言っていいだろう。その米太平洋軍のトップの司令官は、横須賀市生まれの米海軍軍人と日本人の母との間に生まれたハリー・ハリス氏だという。

「太平洋 覇権の行方:米と同盟国 抑止力のかけ算 米太平洋軍司令官 ハリー・ハリスさん
 いま米国が直面している課題は五つあります。ロシア、中国、北朝鮮、イラン、テロです。このうち、イランを除く四つの課題は米太平洋軍(司令官・ハワイ)が担当する地球の表面積の約半分と、その中にある36の国・地域を擁するアジア太平洋と深く関わっています。38万人の兵力をもつ私は世界を「自分の四つの課題+イラン」として見渡しています。
 司令官に就いた2015年に比べると、この地域は悪くも、良くもなっています。
 北朝鮮はこの2年間で確実に脅威が増しました。金正恩朝鮮労働党委員長は米国本土を射程にした核搭載の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射というゴールに突き進み、達成されつつあります。中国は北朝鮮に対して外交や経済面で圧力をかけているとはいえ、できることをすべてやっているとは思えません。
 中国は東アジアで覇権国家を目指すとともに、南太平洋の小さな島々や南アメリカへの動きも加速させています。中国との関係にどれだけ価値を置くかは受け入れ国の判断であり、米国はとやかくいう立場ではありません。
 ただ、南シナ海での中国の人工島造成を、私は「万里の長城」になぞらえて「砂の長城」と呼んで問題視しています。国際法で保障されている「航行の自由」を守るため、米軍は艦船などを派遣する「航行の自由作戦」をしています。中国が南シナ海を支配しようとするのであれば、世界全体の問題のはず。「南シナ海で米国の対応は十分か、効果があるのか」とよく聞かれるのですが、「なぜ米国1カ国だけが『航行の自由作戦』をやっているのか」と逆に問いたい。
 ただ、それぞれの国の判断であり、様々な形のオペレーションがあるでしょう。5月から長期任務にでていた護衛艦「いずも」はシンガポールから東南アジア諸国連合(ASEAN)の海軍士官を乗せて南シナ海を航行しました。プレゼンスを世界に示したこと、若い士官が現場を目の当たりにした意味は大きいでしょう。
 ここ数年の変化といえば、巨大化する中国を前に、米国をパートナーに選ぶのが一番だという認識が急速に醸成されつつあることです。米国にとってもこの地域の五つの同盟国、タイ、フィリピンに加え、日本、オーストラリア、韓国との同盟関係が重要になってきており、同盟の意義を再認識しています。7月は日米印の海上共同訓練や米豪合同演習もありました。日米豪印の4カ国の演習も実現させたいと思っています。
 以前は忙しさで寝られない夜を過ごしていたのですが、少し休めるようになりました。理由は日本の存在が大きい。安全保障法制や防衛協力など日本側のニーズに基づいた新たな動きが、結果的に日米同盟に大きく寄与しているのです。太平洋軍司令部と自衛隊の統合幕僚監部との関係はかなり強化されています。海軍軍人としてのキャリア約40年の中で、日米同盟はいま最も良好です。
 イラクやシリアで過激派「イスラム国」(IS)の掃討作戦をしてきましたが、ISに忠誠を誓う武装組織はいまアジア全体に広がっています。政府軍と激戦を繰り広げているフィリピン南部ミンダナオ島の例は、我々に目を覚ませという「アラーム」です。
 抑止力はかけ算です。「国家の能力×決意×シグナル発信力=抑止力」。一つでもゼロだと、抑止効果はゼロです。米国は十分な軍事力もあり、必要なときにはその能力を使う意思があり、自分たちの国益は自分たちで守るんだと言動で示しています。
 日本を含め各国の抑止力の「宿題」が何であるか私は評価を下しませんが、どれも米国だけの問題ではありません。対テロのような分野では日本が国際的にリードできるかもしれません。」朝日新聞2017年7月28日朝刊15面オピニオン欄 耕論。
 *1956年、神奈川県横須賀市生まれ。父は米海軍軍人、母は日本人。ハーバード大、ジョージタウン大で修士号取得。太平洋艦隊司令官など歴任。

 昨日も北朝鮮が日本海にミサイルを発射したというニュースが流れ、緊張が走った。稲田朋美防衛大臣辞任発表に続いたので、なにか北がこの隙に乗じたかと日本政府は焦ったかも知れないが、どうやらそんなことではなく、前から対米示威行動として予定されたことのようだ。「抑止力はかけ算。「国家の能力×決意×シグナル発信力=抑止力」の一つでもゼロだと、抑止効果はゼロ」という考え方は、知的に磨かれた軍人のものだが、われわれにとって気になるのは、それがもはや米軍だけで維持されるものではなくなって、同盟国はなんらかの軍事的貢献を求められているということだ。北朝鮮がICBMに力を注いで、「国家の能力×決意×シグナル発信力」を精一杯発揮しているのは事実だから、それに対して何をするのがもっとも有効なのか?国連PKO部隊の活動日報という重要記録書類を隠蔽した疑惑、などということで防衛相が辞任するような日本の自衛隊は、とても世界に貢献するような使命を果たせない、と国民は知ったのだから。
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