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 水墨の美 14  宗達と光悦  日米トップ選びの違い

2024-10-01 10:26:25 | 日記
A.絵屋と絵師
 俵屋宗達がどういう生涯を送ったか、詳しいことは分かっていない。彼は、江戸時代初期に活躍した日本の画家であり、琳派の創始者とされている。彼の生没年については確定していないものの、一般的には安土桃山時代後期~江戸時代初期(1600年前後)に生まれ、京都で活躍していたとみられる。そして、最後に確認された代表的な画作活動(風神雷神図屏風の制作)の年代が1630年(寛永7年)頃であったため、その後に亡くなったとされている。宗達の作品は、豪華な金銀箔を多用した装飾的な表現や、独自の「たらしこみ技法」による瑞々しい描写が特徴とされる。
 橋本治さんの『ひらがな日本美術史』は4巻の終わりで、宗達をとりあげて、「俵屋」というのは姓ではなく屋号、つまり「絵屋」だったからという。「絵屋」というのは、武士や大商人から依頼されて襖や屏風を描く「絵師」ではなく、庶民の扇や日用品に絵を描くデザイナーのような仕事が「絵屋」で、江戸時代初期の京都や上方でそういう仕事をしていた職人ではなかったという。

「私は俵屋宗達を天才だと思うし、日本で最高の画家だとも思う。なぜかと言えば、日本美術というものが、俵屋宗達を最高の画家とするような形で存在していると思うからなのだが、そういう方面の話は次章に譲って、ここはまず俵屋宗達自身に関する話である。
 俵屋宗達は謎の人物である。「桃山時代から江戸時代初期の画家」ということになっているが、「桃山時代の宗達」に関してはよく分からない。彼の活動が知られてくるのは、関ケ原の合戦後である慶長・元和・寛永といった江戸時代初期(十七世紀前半)で、その頃に彼は「俵屋」という名の「絵屋」の主人をやっていたらしい。
「絵屋」というのは、装飾用の絵を描く工房である。絵師というのが上つ方相手に存在する職業なら、絵屋はその民間版だろう。扇というものの需要が室町時代になって飛躍的に高まり、そこから「扇の絵を描く」という職業が独立して、室町時代の終りにはいろんな絵の需要に応える職業「絵屋」が成立していたらしい。後の言葉を使えば「町絵師」、今の言葉を使えば「デザイン・スタジオ」であるようなものが、室町時代の終りに成立した「絵屋」というものだろう。安土・桃山・江戸初期の障壁画あるいは障屛画を描いたのは、「絵師」に属する人物達だが、俵屋宗達は「絵屋」に属する民間人なのである。
 というわけで、俵屋宗達は一切が不明の謎の人物である――と言ってしまえば「なにが“というわけで”だ?」いうことにもなろうが、私は、「絵屋出身の画家は、一切が不明であってもさして不思議がられないような存在であった」ということを、“俵屋宗達という画家の謎”が語っているのではないかと思う。
 絵師の消息とか履歴というものは、まず知られないものだった。それが、長い日本の常識でもあった。画家たちがいつ生まれていつ死んだのかは、ほとんどの場合知られない――そういう時代が長く続いた。雪舟が自分の絵に自分の年齢を書き込んだのは例外的で、絵師の生没年がはっきりするのは、室町幕府の御用絵師としての家系が確立された狩野派からだろう。絵師というのは、多く「朝廷に所属する名もない職人」のようなものだったが、狩野派から後、絵師というものはある程度のステイタスを有するものになった。だから、桃山時代の画家達は、「生没年のはっきりしている名のある画家」と、「作品は残っているが作者は不肖である名の知れぬ画家」の二種類に分かれる。大名家から制作依頼がどんどん来る有名な大画家か、仕事はあっても無名な画家かのどちらか――それが絵師である。絵師というものは、名声を得て時の政府の仕事を一手に引き受けるようになると「御用絵師」になる。それがなければただの「絵師」である。絵師の有名と無名、あるいは絵師の政治権力はそのようにして生まれるのだろうが、絵師ならぬ「絵屋」は、そういうものとは無関係なところにいる。有名な画家と無名な画家がいて、それとは無関係なところに、有名なマンガ家とかイラストレーターがいる――というようなもんである。
 現代の画家は展覧会で生きているが、マンガ家とかイラストレーターはあまりそういうところでは生きていない。絵師と絵屋との差はそういうもので、だからこそ俵屋宗達は、「有名と無名の中間に位置する不思議な画家」になるのだろう。
 俵屋宗達は“有名な画家”であったはずである。だからこそ、彼自身の署名のある作品は歴然と残っている。民間の「絵屋」出身でありながら、ちゃんとした障壁画(豊臣秀吉の側室・淀殿が亡父のために造った寺である養源院)の仕事もしている。画家としての履歴が明白にされていても不思議はないような位置にいながら、しかし俵屋宗達は、生没年をはじめとする一切が不明のままになっている“謎の画家”なのである。その理由は、おそらく、彼が絵師ならぬ「絵屋」出身の画家だったことと関係があるだろう。
 俵屋宗達は、桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した文化人・本阿弥光悦と「おそらく」深い関わりがあった。一説には、本阿弥光悦の従姉妹が彼の妻になったのだとも言われる。知られるのはそのことと、彼が朝廷から「法橋(ほつきよう)」の称号を与えられたということだけで、それ以外の一切は不明である。
 昔の人で生年が不詳なら、たいした家の生れではなく、たいした生まれ方もしなかったということである。没年が不詳なら、パッとしないままその人生を終わったということにもなる。しかし、俵屋宗達は、おそらくパッとしないまま一生を終えた人物ではない。なにしろ彼は、「朝廷から法橋の称号をもらう」というところまで行っているからだ。「法橋」というのは、そもそもが僧侶のための位で、法印・法眼に続く第三番目のものである。これがいつの間にか、坊主以外の医者や仏師や絵師等に贈られるようになった。坊主以外でこの位を贈られた最初の人物は平安時代の仏師・定朝である。仏師という仏教関係の仕事をする者に対して「僧侶に準ずる名誉」は与えられ、そこから拡大解釈は当然のようなものになる。狩野派の祖・正信は法橋になり、その息子の元信はワンランク上の法眼になった。いつの間にか法橋の称号は、出世した絵師達にとって、「もらえて当然の名誉」「画家としての目標」のようなものにもなっていたのだろう。今で言うところの「文化勲章受章」とか「芸術院会員」のようなものだろうが、しかし、「もらえて当然」と思い込むのはご当人だけで、こんなものをもらえてしまった画家は、結構以上の身分になる。だからこそ、法橋の地位にいた俵屋宗達が「なんにも知られない画家」であるのは、おかしいのだ。
 たとえば、宗達の弟とも息子とも弟子とも言われるのが、俵屋宗雪である。宗達の後継者であるはずの宗雪も、宗達と同様、法橋になっている。宗達がいつ法橋になったのか分からないのと同様に、宗雪が「法橋」になっているのは間違いがないらしいから、ここから推測して、「その兄だか父だか師である宗達が、1642年以前に弟だか息子だか弟子の宗雪に法橋位を譲った――あるいは朝廷から贈られた」ということも考えられないわけではない。それで、「宗達は1640年頃に死んだのかな?」という推測も生まれるのである。「法橋の地位にある高名な画家が、後継者にその地位を譲って死んだ」ということにでもなったら、この時期が不明であるのはおかしいだろう。後継者というものは、自分の立場を強固にするためにも、先代のフレイム・アップを図るようなものなのだから。ところが、それがなんらかの事情で伝えられなかった――真相はおそらくそんなところだろう。俵屋宗達は、どうあっても、「パッとしないまま死んだ」というような人ではないはずだからだ。
 宗達の弟やら息子やら弟子であった宗雪は、法橋になるくらいだから有名な画家で、結構な人気もあったらしい。それでやがては、「宗達の名前が宗雪の陰に隠れる」という現象が起こる。そして、尾形光琳の登場である。大人気の光琳以後、宗達の名前は忘れられたも同然になってしまうのだが、しかしそうなっても、一部には宗達のファンが残っていた。葛飾北斎は何度も名前を変えたことで有名だが、彼には「宗理」を名乗った時期がある。師匠の名前をいただいたものだが、北斎にそれをさせた師匠の名は俵屋宗理である。宗達とは何の関係もないはずのこの江戸時代中期の画家は、光琳風の別名を持ちながら、「俵屋宗理」を勝手に名乗る。「光琳よりも宗達」と思う画家がいて、それが偏屈人間・北斎に受け継がれて行くのは、なんとなくおもしろい。俵屋宗達の歴史上の扱いは、どうやらそんなものでもあったらしいのである。つまりどういうことかと言うと、「変わっている」とか「よく分からない」とか「あんまりたいしたことない」とか思われながらも、一方には「すごい」と思う人間がいてひそかな尊敬を集める――である。俵屋宗達は、長い間そんな画家だった。
 
 その宗達も、明治時代になると存在さえもが抹消されてしまう。理由は、彼が本阿弥光悦と一緒に仕事をしたからである。宗達が下絵を描いた紙に光悦が書を描いた。光悦は書の名人であり茶碗も作った人だし、町人としても名家の出身で、京都の鷹峯に“芸術家村”を作ってしまうくらいの文化人だから、レオナルド・ダ・ヴィンチ張りの万能の天才を求めていた近代初めの日本人は、「当然光悦は絵もうまかった」ということにして、宗達の絵を「本阿弥光悦作」ということにしてしまうのである。
 本阿弥光悦は、京都に室町時代から続く由緒ある刀剣鑑定家兼研ぎ師の家系に属する人である。「刀を研ぐ」だけだったらそんなにえらくないかもしれないが、この本阿弥家は、足利将軍の側近でもあったらしい。苗字の「阿弥」は、芸能文化関係で足利将軍に仕える人間達(スタイルとしては坊主だった)の名乗る文字だから、刀剣研研ぎ師の本阿弥家も、そういう文化的家柄だったのだろう。光悦はその家筋に生まれて、その姉は、同じ京都の高級呉服商・雁金屋へ嫁に行った。ここから生まれる曾孫の一人が尾形光琳である。尾形光琳の本名は「惟富」で、彼が「光琳」の号を名乗るのは、三十代の半ばからなのだが、なんで彼が「光」の一文字を使ったかは明らかであろう。彼は光悦を尊敬していたのだ。どういうわけか知らないが、光琳の父の号は「宗謙」、伯父は「宗甫」、祖父は「宗柏」である。光琳が「宗」の字を採らずに「光」の字を採ったのがなぜかを考えれば、ここに本阿弥光悦の影を見るのが自然だろう。なにしろ、縁続きの本阿弥光悦は、京都の誇る大芸術家なのだ。ところがしかし、尾形光琳は、ちゃんとした俵屋宗達も知っていた。知っているどころの騒ぎではない。宗達の《風神雷神図屏風》の模写までやっている。光琳が生まれた(1658年)のは、おそらく宗達の死んだ後である。しかし光琳は宗達とかなり近いところにいた。祖父や父や伯父達の号の「宗」の文字は、もしかしたら宗達と関係のあるものかもしれない。尾形光琳のことはいずれ改めて取り上げるけれども、彼が宗達に対してかなり以上のプレッシャーを感じていたことは確かだろう。ところが彼は、「宗琳」とは名乗らずに「光琳」と名乗った。「宗」ではなく「光」は、「宗達より光悦」ということかもしれない。そう考えれば、「宗達の位置」というのも、なんとなく見えるような気もする――「光悦は尊敬すべき芸術家だが、宗達はそれとはちょっと違う別のもの」というような。
 人というものは、もしかしたら、“すぐれた技”に憧れる前に、“輝けるポジション”というものに憧れるのかもしれない。ある種の人にとって、“技”よりも“社会的位置”の方が、ずっと分かりやすいのだ。
 光悦を引いて光琳となった雁金屋の息子の名は、江戸時代を通じて残り、明治になっても有名のままだった。「光琳の芸術」があって、その上には「万能の天才・光悦」がいる――これが、やがては「琳派」と総称されることになるカテゴリーの、明治から大正にかけての理解だった。今では、琳派と言えば「宗達・光悦→光琳」の流れではあるけれども、二十世紀の初めまで、この系譜は「光悦→光琳」だけだったのである(だったら、いっそのこと「光派」とでも言やァいいものをと、私なんかは思うのではあるが)。
 宗達が復活するのは、大正時代になってからで、「“光悦の描いた絵”と言われているものは、やっぱり宗達の描いた絵であろう」ということになって、二百五十年ばかり眠らされていた大画家・俵屋宗達は、やっと復活を遂げることになる。大正二年(1913)に「宗達記念会」という展覧会が開催され、『宗達画集』というものも出版される。俵屋宗達は、この辺りから我々の知る「俵屋宗達」として存在するのである。
 ところでしかし、私にはあまり戸籍調べの趣味がない。宗達が生没年不詳で“謎の人物”だということになると、これ幸いで「謎のまんまでもいいや」と思うのだが、ふと気がつくと、あまりにも多くの人が「謎のまんまでもいいや」にしている。だから私は、そのことにちょっと疑問を感じてしまったのである。宗達は、なんで“謎”のままで見れば一目瞭然のすごい画家なのに長い間平気で忘れられていたんだろう?--―こういう謎だってあるのである。光悦の名門=本阿弥家、光琳の高級=雁金屋に対して、忘れられていた宗達の新興=絵屋ということになると、「なんかあるのかもしれない」という気もしてくるのである。
 俵屋宗達がどれほどの画家かということを一番はっきりさせるのは、《風神雷神図屏風》である。京都の建仁寺にある宗達の描いた二曲一双の屏風(17世紀前半である江戸時代初期)と、後に尾形光琳が模写したもの(18世紀初頭)を比べて見れば、一目瞭然である。宗達のオリジナルは格段にすぐれている。宗達の絵と比べられてしまうと、光琳の絵はただのプリミティヴ・アートである。」橋本治『ひらがな日本美術史 4』新潮社、2002年。pp.16-21.

 《風神雷神図屏風》は宗達がオリジナルで、それをもっと後で尾形光琳が模写し、さらにもっと後に酒井抱一も光琳の模写を見て描いている。でも、やっぱり宗達は「すごい」のだ。「絵屋」の仕事は、上流階級向けの高級美術品ではなく、町人庶民にもわかる、しかも現代アートにもつながるデザイン性を帯びていて、これが「琳派」の創始者なのである。


B.選挙システムはちがっても?
 日本の自民党総裁選(これは実質的に日本の首相選びになる)が終わって、安倍晋三支配への反主流だった石破茂氏が僅差で選ばれたわけだが、アメリカ大統領選はまだ続いていて、こちらもトランプ対ハリスで結果はどうなるか、まだわからない。どちらになっても日本のこれからには大きく影響するはっずだが、前回大統領選後の騒動を思うと、トランプが負けた場合、すんなりおとなしく決着するかどうか、不安は募る。日本の首相選びは、国民有権者の多数の投票で決まるわけではない。公選法とも無関係な、自民党員だけの、さらにいえばほとんど現職議員の票で決まるという偏った選挙である。どっちが正当な手続き化は別として、結果として選ばれた最高指導者には人としての資質よりも、人事の掌握力とか、政策の国民への説得力とか、予測不可能な要素が大きい。来年の世界はどうなるのだろう。対立と分断が深まる世界が、恐怖と憎悪の大戦争に進まないことを願うしかない。

「大統領選と自民総裁選 よりよいリーダー選び 模索を アメリカ総局長 望月洋嗣
 自民党の総裁選が、27日に行われた。次の首相選びに直結していたという点で、米大統領選に向けて、民主、共和の2大政党が予備選や党員集会で候補者を選ぶ過程に近い重みを持っていた、と言っていいはずだ。
 しかし、比べてみると、様々な違いばかりが浮かぶ。
 まず機関。総裁選は2週間で終ったが、大統領選の候補者選びは、立候補の表明から決定まで1年以上がかかる。
 討論会のやり方も大きく異なる。今回、自民党は9人の候補者による討論の場を何度も設けた。ただ、経済、外交・安保、社会保障など各分野での議論が深まったようには見えず、候補者は議員票獲得をめぐる舞台裏の駆け引きに奔走した。
 米国の場合、予備選が始まる以前から討論会を開く。会を重ねるごとに勝ち目のない候補は撤退を迫られ、論点も絞られ手激しさも増す。
 日本は投票への参加のハードルも高い。自民党の場合、原則として総裁選の前年までの2年間の党費納入が選挙権を得る条件だ。
 米国なら、州によっては当日に党員になって投票でいたり、その党の支持者でなくても参加できたりする。自民党総裁選への投票資格を得た党員は約105万人、投票総数は約70万人だったのに対し、米共和党の今年の予備選・党員集会では2200万人以上が票を投じた。
 *   *   *
 大統領制の米国と、国会議員が互選で首相を選ぶ議院内閣制の日本の党の顔選びのあり方を比べ、優劣を語るのは乱暴かもしれない。
 ただ、米国のやり方は、有権者全体にとって利点も多いように思える。将来の国のリーダーになりうる人物を知る機会が得られ、本選での判断材料にもなる。
 「米国では、大統領を目指す人は、候補者選びの前から始まる長い選挙戦のなかで広大な米国の地方を巡り、草の根の民主主義に触れる」。日米の政治を研究してきたジョンズ・ホプキンス大のケント・カルダー教授は候補者にとっても利点があると指摘する。
 州ごとに候補者選びの日程が異なり、先行する州ばかり重視されるといった問題もあるが、自身も2012年の大統領選で共和党の陣営に関わり、地方政治の実態を知ったことを「貴重な経験」と感じている。
  *   *   * 
 一方、蓮舫議会議員や州知事などの経験のない「政治の素人」が名乗りを上げることができ、普通の党員の意向がより反映されやすい点も米国の特徴だ。
 不動産王だったトランプ前大統領は、旧来の共和党とは縁遠かった「草の根の民意」に支えられ、大統領候補の指名を得た。ただし、トランプ旋風は共和党の従来の主流派をほぼ一掃。「トランプ党」化した共和党では極端な主張がはびこって、異論を排除する傾向が強まり、社会全体も大きく変容した。
 知日派の一人である米シンクタンク「外交問題評議会」のシーラ・スミス上級研究員は「一人の米国人としては、日本のような議院内閣制で、既存政党が安定的に政治を行うことに憧れる気持ちもある」と話す。
 今回の自民党総裁選に臨んだ9人のうち7人は、留学や仕事で米国に滞在した経験を持つ。米国流の良いところや悪いところを参考にしつつ、日本のリーダー選びをどうアップデートしていくべきか、議論を深めて欲しい。」朝日新聞2024年10月1日朝刊13面オピニオン欄、多事争論。
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